お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/4/14「83.府内城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

9-4.明石城

明石城に行ってきました。

日本100名城(No.58)に選ばれた、兵庫県明石市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

木々が伐採され、駅のホームから石垣がよく見えるようになりました。ふたつの貴重な現存三重櫓は左が坤櫓、右が巽櫓です。

昨日から、築城四百周年記念イベントが始まっているようです。

天守閣はない。ロマンはある。

記念イベントの一環でしょうか、中堀沿いには、様々なキャッチフレーズの書かれたのぼりが並んでいます。

今回の目的はずばりこれです、城跡碑! 築城四百周年を機に新設されたようで、前回訪問時には木枠で覆われていましたが、太鼓門跡の南に立つその真新しい姿を拝むことができました。

昨日のオープニングイベントでは城跡碑の除幕式が行われたようです。字体も独特で、良いですね。こういう立派な城跡碑、個人的にはあった方が嬉しいです。

太鼓門の櫓門「能ノ門」跡の北側石垣です。中央下側には、やや大きめの石材が鏡石的に配されています。

再現3DCGによるお城巡りアプリがあるようです。本日は坤櫓の内部公開が行われているようですが、今回は未訪です。

南帯曲輪から見上げる巽櫓、大迫力です。そそり立つ高石垣が、たまらないです。

石垣のあちこちに、刻印が見られます。調査によるとその数なんと1445個・86種類!だそうです。

坤櫓台の南東には、高石垣を補強する役割でしょうか、低い石垣が積まれています。

坤櫓台の西には、南帯曲輪から稲荷曲輪へ通じる階段があります。階段の先に、天守台が見えます。

とても立派な天守台ですが、ここに天守が築かれることは無かったようです。

天守台(左)と、天守代用とされた坤櫓(右奥)です。

本丸内から見る、天守台(右)と、坤櫓(左奥)です。

足元に注意しながら、天守台へ上がります。五重の天守が建造可能という大規模な天守台。豊前中津城天守を移築する計画があったようです。

天守台から、坤櫓(北面)を見ます。最上階屋根の朱塗り格子状装飾が、目を引きます。鯱の下には小笠原氏の家紋・三階菱が見えますが、初代城主・小笠原時代の屋根瓦が今も残っているということでしょうか。

天守台は西へ大きく張り出しているので、このように北西から坤櫓を見ることができます。櫓に附帯する土塀も現存だそうですが、北側に短く延びるこの土塀も現存なのでしょうか。

こちらは巽櫓の西面です。一階にのみ、窓があります。

巽櫓の鯱の下にも、三階菱の屋根瓦が見えます。一階には、桐紋。

軒丸瓦は葵紋のように見えますが……(越前)松平氏時代のものでしょうか。

「番ノ門」南石垣越しに、巽櫓を見ます。

本丸と二ノ丸をつなぐ土橋上から、巽櫓を見ます。手前の張り出し部は、本丸東虎口外枡形の一部です。巽櫓の北に延びる附帯土塀も、現存でしょうか。

同じ櫓なのに、角度を変えて見るとまるで別の建物のように印象が変わるのがお城建築の面白いポイントであり、醍醐味だと思うんです。巽櫓の東面は、全ての階に窓が付いています。窓の配置も、絶妙。

両櫓をじっくり比較すると、巽櫓は坤櫓より破風装飾の少ないことが分かります。やはり坤櫓は天守代用ということでゴージャス仕様になっているのでしょうか。

二ノ丸虎口「大ノ門」跡の外枡形状となっている南西張り出し部より、巽櫓東面を正面から見ることができます。

「大ノ門」があったと思われる場所をよく見ると……。

階段の最上段中央に、ふたつの出っ張り。これはもしや、門扉を外へ開かないようにするストッパー的な役割の石材では!? などと(真偽は不明ですが)思わぬ発見に興奮してしまいました。

「大ノ門」跡の外枡形状虎口から階段は東へ折れ、石垣張り出し部の手前で再び南へ折れます。奥には、明石海峡大橋が見えています。

二ノ丸南西に位置する石垣張り出し部は櫓台で、二重櫓が建っていたようです。この櫓の名前なんですが……いくつかのブログでは「貞ノ櫓」とされているのですが、県の資料(史跡明石城跡保存活用計画)では「真ノ櫓」とあります。うーむ。石垣上部に隙間が多く見えるのも気になります。

階段を下り、南帯曲輪から現存三重櫓を見ます。

並び建つ南面からの姿も良いですが、東から望むこのアングルも、素晴らしいと思います。櫓間の土塀と、帯曲輪の竹柵もいい仕事してます。土塀の向こうには本丸御殿があり、城主が暮らしているのではないかというリアリティすら感じる……なんて、言い過ぎでしょうか。(もっとも、明石城の本丸御殿は早い段階で焼失してしまったようですが……。)

現存櫓の南、三ノ丸跡には兜があしらわれた日時計があり、こちらもなかなか絵になります。

 

城跡碑見たさに、前回訪問からわずか一週間後の再訪となりました。なかなか良い撮影が出来ましたが、四度目でも新たな発見、初めての景色があるものですね。まだ四度「しか」訪れていないのだと痛感します。外堀跡や港も未訪だし、見るべきポイントは、まだまだたくさんあります。五度目も、必ずや。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

29-3.尼崎城

尼崎城に行ってきました。兵庫県尼崎市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

阪神尼崎駅のホームから、再建天守がよく見えます。

オープンまであと五日。いよいよです。

西の外堀でもある庄下川越しに、天守を見ます。オープン直前の外観を、近くでじっくり見ていきます。

城址公園はまだ、工事のフェンスで囲われています。

天守北面です。中央には唐破風・千鳥破風・唐破風とテンポ良く重なっています。

東面には、二重の多聞櫓が附属しています。江戸期の天守は西側に多聞櫓が附属したようですが、再建の際に何故か東西が反転されています。

東面からズーム。多聞櫓や土塀には、丸や四角の狭間が見えます。

南東より。天守の南側は、芝生広場となっています。

江戸期の尼崎城も、南側に二重の多聞櫓が附属していたようです。再建天守の出入口は、南側多聞櫓の一階になるのでしょうか。

天守南面を、フェンス・ポスト越しに見ます。

北面と同様、南面も唐破風・千鳥破風・唐破風です。天守初層屋根には、破風なし。

かつてタイムラプス撮影台が設置されていた中央図書館東側の階段より。当時まだまだ工事中だった天守が、見事に再建されました。

南と東(本来は西)に二重の付櫓を備える複合式の四重天守。本来の位置である本丸北東ではなく西三の丸北側に、本来の姿と東西反転した姿での再建ですが、それがどうしたと言わんばかりの堂々たる姿。これが、現代に蘇った尼崎城、なのです。

西側には水堀が再現されており、北まで続いているようです。

南側の多聞櫓にも、狭間。天守西面初層中央に見えるは、石落としでしょうか。

天守の西にある城址公園出入口です。階段やスロープの周囲には石垣が配され、お城感を演出します。かつてはこの付近(あるいはもう少し南側)に、不明門があったようです。

少しスリムに見える、天守西面です。二層目に唐破風、三層目に千鳥破風は北面及び南面に同じですが、西面及び東面は最上階に唐破風がありません。

手前に見える石は、もとお城で使われた石材だったりするのでしょうか。

 

オープン直前だからこそ、人がいない状態で外観をじっくり見られると考え実行した今回の訪問。フェンス越しではありますが、目的は達成できました。

 

素敵なお城のオープンを、楽しみにしています。

ありがとう。

9-3.明石城

明石城に行ってきました。

日本100名城(No.58)に選ばれた、兵庫県明石市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅のホームから見える姿が、明らかに前回訪問時と異なります。樹木が伐採されたのか、石垣が非常に見やすくなっているのです。とりわけ三重櫓の東側(写真右)、以前は全くと言っていいほど見えなかった二ノ丸・東ノ丸の石垣がはっきり見えており、主郭部の広さがよく分かります。

ふたつの現存三重櫓が載る本丸石垣も、よく見えます。

駅を出て、城跡へ向かいます。

太鼓門の土橋手前から、本丸三重櫓を見ます。当時は土橋ではなく「太鼓門橋」という木橋が架かっており、橋を渡って正面に「定ノ門」が、枡形虎口に入って右折すると「能ノ門」があったようです。

写真右手前、緑のフェンスに囲われた中にあるものは……次回訪問時に明らかになると思われます。

現存天守と同数、全国にわずか十二しかない現存三重櫓のうち二つがここ、明石城にあります。写真右、本丸南東隅に建つ巽櫓と、写真左、本丸南西隅に建つ坤櫓です。よく似ていますが破風形状など細部の意匠が異なり、また建つ向きも九十度違うことが最上階屋根から分かります。

巽櫓よりわずかに大きく(13.28m)、天守代用とされていた坤櫓です。背後に見える石垣は天守台ですが、天守は築かれなかったようです。

坤櫓を西から。巽櫓も見えています。

巽櫓を見上げます。前回訪問時に剥落していた一階南面の漆喰が、修復されています。

人との対比で、石垣や櫓の大きさが分かります。

右が二ノ丸、左が本丸で、木の奥には曲輪をつなぐ土橋が見えます。

左手前は二ノ丸、右奥が東ノ丸です。木々が伐採され、石垣がとてもクリアに見えます。

伐採された木の切り株には、何らかの処理が施されているように見えます。

これまで歩いてきたのは南帯曲輪。右手には二ノ丸へ上る階段があり、写真には写っていませんが左手には三ノ丸へ下りる階段があります。

階段の南側には低い石垣と雁木。当時は塀があり、二ノ丸へ迫る敵を狭間越しに迎え撃てる構造だったのでしょうか。このあたりの木も、伐採されています。

階段の西から、巽櫓を見ます。櫓北側に延びる土塀の右、石垣の間には本丸櫓門「番ノ門」があったようです。

本丸に入り、天守台すぐ北に設けられた石段の前まで来ます。

石段の一段目右端は転用石で、宝篋印塔の基礎だそうです。

 

城跡を離れ、周辺を散策します。

東ノ丸から箱堀を挟んですぐ東にある文化博物館。こちらではお城のジオラマ「城ラマ」など、お城に関する特別展示が行われていました。

お城の東には、都心回遊路「時の道」というのがあります。これから行く月照寺も、ルートに含まれるようです。

月照寺の山門が見えてきました。門の屋根瓦にはなんと、葵の御紋!

この山門こそが移築現存する切手門(三ノ丸御殿の正門)であり、今回の訪問の目玉です。もとは伏見城の薬医門だったという、由緒ある門です。

移築前はこの門をくぐると、眼前に御殿が現れたのでしょう。

葵紋は城主・松平氏のものでしょうか。

風格ある、立派な門です。

月照寺のすぐ南には天文科学館があり、明石海峡大橋も見えます。

天文科学館の南にある長寿院は松平家菩提寺で、境内には歴代藩主の廟所があるようです。

人丸駅のホームにある東経135度、標準子午線上から先ほどの訪問地を見ます。写真右に松平家廟所があり、天文科学館の背後に、月照寺があります。

 

今年、2019年に築城400周年を迎える明石城。環境整備が進み、周辺にもまだまだ見所があるようなので、また近いうちに、再訪したいですね。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

75.福岡城

福岡城に行ってきました。

日本100名城(No.85)に選ばれた、福岡県福岡市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

地下鉄・赤坂駅にあった、「時空の旅マップ」です。地下鉄より南の地図ほぼ全域が城域という、西日本屈指のとんでもなく広大な城郭です。当時は城郭全体が堀に囲われていたようですが、現在は北側及び西の大濠公園などにその名残が見られます。

また東部では飛鳥~平安時代の外交施設「鴻臚館」が発掘されており、複合遺跡の側面もある珍しい城跡です。

赤坂駅から西へ歩くと、お堀と石垣が見えてきます。ここより東には、お城の北に広がる外曲輪を守る門のひとつ、赤坂門があったようです。

大河ドラマ人気にあやかってか、「黒田官兵衛ゆかりの」で始まるこのタイプの案内をこれ以降何度も目にします。黒田官兵衛こと黒田孝高は、関ケ原の戦い後に息子の黒田長政とともに福岡城を築城したそうです。

歩道を西へ歩くと、地下道への入口のようなものがあります。「福岡城堀跡石垣」とありますが、どういうことでしょうか。

どうやらこの階段を下りた先に、昭和期に地下鉄工事で発掘・保存された内堀の北側石垣が展示公開されているようです。

しかし公開は毎週土日。今日は祝日ですが月曜日。扉は、閉ざされています。ぐぬぬ

この入口直下に石垣があるのか分かりませんが、北側石垣がこの下付近にあるということは、内堀は現在歩道によって狭められており、当時はもっと広かったのでしょう。

堀跡石垣への階段から西へ歩くと、裁判所があります。三の丸東端にあたるここは東の丸とも呼ばれ、家老屋敷があったようです。堀に架かる土橋は後世に築かれたもので、東側からの城内への出入り口は右奥に写る、上之橋のみでした。

三つある城内への出入口のひとつ、上之橋です。

土橋の石垣は、当時のものでしょうか。現在はすべて土橋ですが、当時は一部木橋だったようです。

上之橋より、西側内堀を見ます。当時より狭くなっているようですが、それでもかなりの幅があります。

上之橋を渡ると、直進を阻む石垣の壁。枡形状の虎口です。左奥に、上之橋御門があったようです。現在は右手石垣の手前に通路が設けられ、上之橋御門跡を通らずに三の丸に入ることができます。

上之橋御門跡の北側石垣です。近年解体・積み直し工事が行われたらしく、よく整っています。

門跡の西側石垣です。上には塀が築かれていますが、後世の再建と思われます。

石垣の間に、櫓門である上之橋御門が建っていたようです。礎石は見当たりません。

上之橋御門跡の南側石垣です。石材には、矢穴が多く見られます。

城内側より、上之橋御門跡を見ます。

東から見る、上之橋御門跡の南側石垣です。隅部は、明瞭な算木積みになっています。

 

上之橋御門を越えると、三の丸です。

南には裁判所建物があり、入ることができません。右手(西)の階段を上ります。

石垣上の塀を裏から見るとコンクリート造りで、後世に築かれたものと分かります。

上之橋御門跡の西から、広大な三の丸を見渡します。江戸期には家老の屋敷がずらりと並んでいたというこの地には、さらなる昔、別の施設がありました。鴻臚館です。

古代(飛鳥~平安時代)の迎賓館に相当する施設・鴻臚館。かつて京・難波・筑紫の三箇所に設けられ、遺構が確認されたのはここ、筑紫の鴻臚館のみだそうです。北側には、奈良時代前半の北館東門、布掘り塀などが平面復元されています。南側には、出土した遺構をそのまま展示する展示館が建っています。

奥に見えているのは、福岡城二の丸石垣です。

鴻臚館跡展示館の中へ入ります。

出土した鴻臚館遺構の中には江戸時代の井戸跡があり、ここが屋敷地だったことをうかがわせます。

展示館の南にも、建物遺構が整備されています。右奥に見える土塁は、福岡城三の丸のものと思われます。

 

古代ロマンも素敵ですが、お城に戻ります。

三の丸にある、福岡城むかし探訪館です。100名城スタンプは、こちらで押しました。

こちらに展示されている400分の1復元模型が、城郭全域及び外曲輪など一部城下まできわめて高精細に再現され、非常に見応えがあります。城跡を散策しながら当時の様子を想像するのにとっても役立つので、じっくり見ていきます。

まずは東から。手前に見える内堀と中堀を区切る土橋の右(北)には、赤坂門があります。赤坂門より北、内堀の外側に広がるのが外曲輪で、南に上級家臣の屋敷が、博多湾に近い北側に職人・商人が住んでいたようです。

北から。手前に見える外曲輪の内堀沿いに武家屋敷が、その北に町屋が並ぶ様子がよく分かります。外曲輪から城内へ延びる二本の橋は、左(東)が上之橋、右(西)が下之橋で、上之橋は城主が参勤交代の際などに通過し、下之橋は日常の通用門として使用されていたようです。いずれの橋も渡った先の城内は三の丸で、上之橋の両側には家老屋敷が並び、下之橋のすぐ南には黒田官兵衛の隠居所・御鷹屋敷(木で囲われたエリア・模型には建物なし)が、その西には御下屋敷があります。写真中央奥の一段高いエリアが二の丸で、天守の建つ最高所が本丸です。

西から。手前の広大な屋敷が御下屋敷(三の丸御殿)で、本丸御殿より移された城主の居館であり藩政の中心だったようです。模型製作者プレートの奥には、三つある城内への出入口のひとつ、追廻橋が見えます。プレートによると、江戸後期の復元ということで、その頃には御鷹屋敷は取り壊されていたのかもしれません。

南から。「舞鶴城」の別名は、細くくびれた東側を鶴の首に、大きくふくらんだ西側を羽ばたく翼に見立てたのでしょうか。模型ではカットされていますが、西側にはお城がすっぽり入ってしまいそうなほど巨大な大堀が広がっていたようです。

南から、角度を変えて中枢部をズーム。左手前の方形区画が南の丸です。南東隅のひときわ巨大な三階櫓は、天守代用と感じるほどの存在感があります。三階櫓の西、南の丸西辺の多聞櫓は城内で唯一、原位置に現存する櫓です。多聞櫓の西角櫓と追廻橋の間には鉄物櫓があり、追廻橋から侵入しようとする敵を正面から迎撃できる好位置に建っています。

南から、本丸をさらにズーム。天守群(大・中・小天守)は存否不明のため、色を変えて表現されています。天守手前の武具櫓は両端が三重櫓となっている二重の多聞櫓で、古写真も残り、非常に重厚な外観をしています。本丸北西隅の鬼門を守るのが、現存する(?)祈念櫓です。祈念櫓の現存にクエスチョンを付けてしまう理由は後程……。

西からズーム。広大な縄張りもさることながら、約五十もの櫓があったという建物の多さにも驚きです。

北からズーム。本丸や二の丸にはいくつも多聞櫓が配されており、櫓と連結した櫓門も多く見られます。

 

模型を堪能したところで、二の丸へ向かいます。

写真左は、鴻臚館跡展示館のすぐ西にある高櫓台です。高櫓は炭櫓とも呼ばれる二重櫓で、櫓台は二の丸東面石垣から大きく張り出しています。

二の丸北東隅からも、高櫓台はよく見えます。こちら側(北)の東御門と、向こう側(南)の水の手御門の両方向に横矢を掛けています。手前の石垣基部に沿ってコンクリートのような物が見えますが、後世の石垣補強でしょうか。

福岡城説明版の標準フォーマット、「福岡城物語」です。タイトル右には黒田氏の家紋・藤巴があしらわれ、絵図や古写真が掲載され情報量の多い、非常にありがたい説明版です。東御門跡のものは登城メインルートの二の丸入口という重要なポイントに位置するためか、お城の概要など導入的な説明文が大半です。中央下部の城下古地図を見ると、湾入する入江を利用したという大堀の巨大さがよく分かります。縄張りや石垣形状が把握できる城郭図も助かりますね。また東御門周辺は古写真が残り、おそらく左端わずかに写るのが炭櫓(高櫓)、右奥の石垣上が革櫓と思われますが、これらの櫓は平櫓(多聞櫓)で連結され、革櫓の左に(見えていませんが)東御門があったと思われます。

東御門跡には、巨大な礎石が残ります。

巨大な鏡石がいくつもあります。さすが登城メインルートの入口。

門を越えると石垣に阻まれ、右折を強いられます。奥の石垣にも鏡石が見えます。

東御門跡を振り返ります。とても大きな櫓門だったのでしょう。

道は、右折しつつ上り坂となっています。右手の石垣基部にもコンクリート……?

革櫓台のあたりに「烽火番所(のろしばんしょ)」の表示石があります。これは一時期、革櫓に烽火を見張る番所が置かれていたことによるそうです。

革櫓台付近より、北を見ます。平和台陸上競技場のあたりも三の丸で、家老屋敷が並んでいたようです。

東御門を越えた所が、二の丸東部・東二の丸です。右奥が、東御門から続く坂です。

西へ歩くと、出ました、「官兵衛ゆかりの」案内板。奥の石垣は渋紙櫓台と思われますが、その手前には「福岡城物語」説明版もあります。

お綱門がどの門なのかは諸説あるそうなので置いといて……東二の丸には御殿があり、南は水の手だったようです。

現在は運動場となっていますが、当時は二の丸御殿が建っていたようです。

おや……奥の本丸石垣上に、櫓が見えます。

櫓に近付いてみます。貴重な現存櫓のひとつ、二重の祈念櫓なのですが……。立派な櫓台の隅っこにちょこんと載り、サイズが合っていないように思えます。これまで復元模型や古写真で見てきた櫓とは外観もずいぶん異なり、なんだか異質です。理由は後程……。

さて、扇坂御門跡へ向かいます。

大ぶりな石材が多いのは登場メインルートゆえ、でしょうか。

表示石の背後、石垣が崩れているようにも見えますが……大丈夫でしょうか。

門跡の向こうに階段が見えます(石垣に隠れて左にも階段あり)が、この階段が当時は扇形に広がっていたことから、扇坂御門と呼ばれるようです。

門跡を越え、振り返ります。礎石のような石が三つ、わずかに見えますが、ここに道を塞ぐように門が建っていたのでしょうか。

坂の上から、門跡を見ます。発掘調査もされている扇坂、復元されると嬉しいですね。

扇坂を越えると、二の丸(北エリア)です。

東二の丸より扇坂の分だけ地表面が高くなった二の丸。本丸石垣との高低差が縮まり、祈念櫓がすぐそばで見られます。

二の丸石垣の北面張り出し部中央付近という、なんとも中途半端な位置に据えられている松原櫓跡の表示石ですが、どうやら石の場所が間違っているようで、実際の松原櫓は北面張り出し部の西隅に建っていたようです。写真奥のパイロンが置かれた謎オブジェ(?)付近は渋紙櫓・萬櫓などが建っていた場所です。

二の丸北エリアは現在、梅園となっています。

表御門石垣の前に、二の丸の表示石を見つけました。

 

本丸へ向かいます。

本丸の北にある、表御門跡です。かつて巨大な櫓門がそびえていたようです。奥には祈念櫓の屋根が見え、位置関係が分かります。

床には、礎石が抜き取られたような跡が見えます。門北側石垣の隅部は算木積みが未発達……というよりは、あえてこのように積んでいるようにも見えます。一方が丸く加工されている石材も多く、石工さんの趣味でしょうか。

石段を上ったところ、門跡南側石垣の東端に、表御門櫓跡の表示石を見つけました。

表御門跡、撮影オススメスポットのようです。

表御門を越えると、本丸です。

表御門跡の東に、御祈念櫓跡の表示石を見つけました。表御門北側石垣の東、塀が建っていたと思われるライン上あたりです。

櫓台と実際の祈念櫓は、さらに東です。本丸の北東、鬼門の方角に建ちます。

ここでの福岡城物語は、表御門と祈念櫓です。

表御門は古写真が残り、移築現存します。後程、見に行きます。

そして外観に違和感・異質さを感じている問題の祈念櫓です。大正期に大正寺へ移築された際に大幅な改変があったと考えられているようで、古写真の櫓はもはや、完全に別物! サイズも外観も似ても似つかず、当時のままなのは白漆喰の窓格子くらいでしょうか……これを「現存」と呼ぶのは非常に厳しい気がします。

明らかオーバーサイズな櫓台の隅っこにちょこんと建つ元・祈念櫓。なんだか、居心地が悪そうに見えてしまいます。

祈念櫓から、本丸東面石垣に沿って南へ歩きます。

東を見ると、二の丸御殿があった球技場の南に、水の手だった野球場が見えます。東二の丸と水の手を区切る石垣は、球技場と野球場の境界よりもやや北側にあったようです。

東へ張り出した石垣が見えてきます。月見櫓跡です。

屋形が設けられている、本丸井戸です。

月見櫓跡の表示石そばには、櫓の基礎でしょうか、低い石積みがあります。

月見櫓跡から、本丸東面の長大な石垣を見ます。奥に、祈念櫓が見えます。

月見櫓跡と小天守台との間あたりに「御旗石跡」の表示石がありますが、御旗石とは? 詳細不明です。奥(南)に見えるのが、小天守台です。

天守台と中天守台の間にある石段です。天守が実在したなら、石段の上には門があったと考えられているようです。

石段を上ると、危険な状態にあるのか、中天守台石垣の一部に土嚢が積まれています。奥に、大天守台が見えます。

天守台です。復元模型では、三重櫓とされています。

天守台跡の表示石は、柵の外、目立たない位置にひっそりとあります。もっと櫓台の中央で、堂々としていても良いものを……。

天守台の南側には、同じ高さで武具櫓台が積まれ、とても迫力のある高石垣です。

天守台石垣と柵の間にはわずかな隙間があり、本丸の南側へ行くことができます。ここの石垣隅部、途中に小さめの石材を用いたりしていて、面白いですね。

天守台より、本丸を眺めます。左に、大天守台の基部が見えています。

石段を下ります。中天守台の北東部はいくつも隅部があり、非常に複雑な形状です。

天守台の北、大天守台すぐ東の表示石には、写真だと少し見づらいですが、上段に小さく「水鏡権現 聖照権現」下段に「相御殿跡」とあります。黒田官兵衛を祀る水鏡権現と黒田長政を祀る聖照権現を合祀した神殿・相御殿が、ここにあったようです。

天守台北東隅より見上げます。高さ10mあるという野面積み石垣は、隅部の算木積みが未発達ながらも美しい稜線を描いています。

 

天守台の上を、目指します。

福岡城物語・本丸です。御殿の間取りや櫓・門の詳細が描かれた絵図には、天守群だけがありません。復元CGのような天守は一時でも、存在したのでしょうか。

天守台のすぐ北、階段の先が、鉄御門跡です。説明にあったとおり、非常に幅が狭くなっています。門跡の石垣上には、多聞櫓が廻っていたようです。

門跡も狭いですが、北側の石垣も非常に幅が狭いです。鉄御門跡の表示石は、門跡手前の石段脇にあります。

遺構保護のために設置されたと思われる階段の下には、石段が見えます。鉄御門跡の北側石垣は写真右奥で南へ折れ、大天守台の北西~西側を囲っています。

ここにもあります、「官兵衛ゆかりの」。鉄御門のラフなイラストがあります。

鉄御門跡の先は、石段になっています。多聞櫓の下にある先の見通せない狭い門……敵の立場なら避けたい道です。

石段の上から、鉄御門跡を振り返ります。本当に、狭き門、です。

鉄御門跡を越え石段を上ると、枡形虎口のような方形の空間に出ます。本丸の最深部まで侵入できたは良いものの、ここへ飛び込んだ敵は周囲の多聞櫓から集中砲火。大天守へたどり着くのはほぼ不可能だったことでしょう。

天守台には前方に設置された観光用の階段から上れるのですが、周囲の石垣を見回しても雁木などは設けられていません。当時の大天守入口は、何処にあったのでしょうか。

入口付近まで来てなお、大天守台はこれだけの高さです。この上に五重の天守が建っていたとしたら、どれほどの威圧感だったでしょうか。

本丸南側へ通じる埋門跡です。鉄御門同様、非常に狭き門です。

天守台への観光用階段上より、天守入口の枡形空間を見ます。石垣上にはぐるりと多聞櫓が廻っており、北西隅(写真左奥)は二重櫓となっていたようです。

本丸南西虎口付近を見下ろします。正面に、鉄砲櫓台が見えます。

枡形空間西側~北側の多聞櫓石垣は、今いる南側より低くなっています。

枡形空間の南側、埋門上部の多聞櫓が、大天守地階へ通じていたようです。

天守台は現存しているので、大天守台「跡」ではないと思うのですが……。地階部分に礎石が整然と並ぶ、大天守台に入ります。

観光用の階段を上り、地階部分の礎石を見下ろします。そもそも建てる予定のない天守台に、こうもしっかりと礎石を据えるでしょうか。

個人的には、短い期間であったかもしれませんが、推定CGや図面のような天守群が建っていたと思いたいですね。

天守台から、周囲を見渡します。

二層の多聞櫓状と考えられている細長い中天守台と、その先の三重櫓と考えられている小天守台です。

観光用階段やデッキ等が設置された、埋門上の多聞櫓跡です。

手前は鉄御門跡です。奥の本丸北側には、広大な御殿が建っていたようです。

天守台の地階入口です。

 

天守台を下ります。

埋門跡をくぐります。門礎石は、見当たりません。

南西隅より大天守台を見上げます。こちらでは、隅部に縦長の石材を使用しています。

本丸南西隅にある、武具櫓跡の表示石です。約74mの本丸南辺石垣上にみっちり建っていた二層の多聞櫓で、南東隅とここ南西隅は三重櫓となっていたようです。

武具櫓跡付近より見る、大天守台です。僅かな時だけ建っていたかもしれない五重の大天守を、夢想します。

天守台の南側張出部分です。この右を通って、小天守台西側から本丸北エリアへ抜けられます。

天守台跡の表示石を見つけました。

それにしても美しい、見事な天守台です。何枚撮っても足りず、いつまで見ていても飽きません。

本丸南西虎口を守る巨大な平櫓、鉄砲櫓跡です。礎石のような平たい石の他に、建物基礎のような石列がありますが、櫓台に対してサイズが合っていないような……? 公園化の際に敷いた、園路を示す単なる敷石でしょうか。

鉄砲櫓跡付近より、南を見下ろします。中央やや右に見える低い石垣は、生捕櫓台です。

本丸南西虎口を見下ろします。ここから侵入する場合、左の鉄砲櫓と、右奥の天守入口多聞櫓群からも撃たれまくりです。

ここから先は、石畳になっています。左折したあたりに、武具櫓御門が建っていたようです。

武具櫓御門跡です。天守入口の鉄御門や埋門ほどではありませんが、狭い門です。門の外側で、道が直角に曲げられています。

外側から、武具櫓御門跡を振り返ります。門の内側でも道が曲げられ、敵は何度も勢いを削がれます。本丸虎口ということもあってか、写真左~正面には大きめの石材が用いられ、積まれた時代が下るのか、左の隅部には加工石による整った算木積みが見られます。

坂を下り、本丸南西虎口を振り返ります。途中から鉄砲櫓台がせり出し、道が狭くなっているのが分かります。

坂の下まで続く石畳。雨の日の通行は、注意が必要です。

坂を下った正面は、本丸西虎口です。

坂を下って右手にある、福岡城物語。本丸西虎口・裏御門跡の説明です。

移築現存する伝・潮見櫓は裏御門の真横に建っていた古時打櫓ではないか、という話。確かに写真を見る限り、よく似ています。

先ほどもあった本丸図が拡大して掲示されており、色々と見やすくなって助かります。おや、でもこの図には裏御門の横に古時打櫓がありませんね……絵図の描かれた時期には存在しなかった?

裏御門跡の表示石は、まさに門があったであろう位置にあります。左の石垣上に、古時打櫓が建っていたようです。裏御門の虎口も石畳ですが、右端に観光用でしょうか、舗装された通路が設けられています。

裏御門を越え坂を上った所にも井戸があり、さらに右奥にも見えます。本丸には合わせて三箇所の井戸が、現在も確認できます。

坂の上から裏御門跡を見ます。裏御門跡左(東)の石垣上(ちょうど門跡の真東、石垣が高くなっているあたりから奥側にかけて)長局が建っており、本丸御殿とは渡り廊下(?)でつながっていたようです。

 

本丸を出て、南丸へ向かいます。

福岡城物語・二の丸です。古写真の武具櫓、めちゃめちゃかっこいい!

二の丸説明版の東、ちょうど桐木坂を上り切った正面にあるのが、鉄砲櫓台です。鉄砲櫓は武具櫓御門を守るだけではなく、桐木坂方面の防衛も兼ねていたと思われます。

「官兵衛ゆかりの」御案内の背後に、井戸が見えます。その井戸の向こう、石垣で囲われたエリアが、南丸です。

二の丸南郭とも呼ばれる南丸は、四方を石垣で囲われ、出入口は一箇所のみで、完全に独立した曲輪です。現在は冠木門がありますが、当時は右手(西)から多聞櫓が延び、その下に門が設けられていたようです。

南丸には、場内で唯一原位置に現存する櫓である多聞櫓があります。南丸の西辺いっぱいに建ち、総延長は72mにも及ぶそうです。

多聞櫓の内部は、十六の小部屋に分かれているようです。

多聞櫓の両端には二重櫓がありますが、こちら北角櫓は昭和期に復元されたようです。

屋根瓦にあしらわれているのは黒田氏の家紋・藤巴と思われます。

多聞櫓にはたくさんの扉がありますが、十六の小部屋と同じだけあるのでしょうか。扉と窓はきれいに等間隔で並んでいますが、ひとつ窓の位置がズレているのも気になります。

こちらの瓦も藤巴だと思うのですが……ピンボケです。

多聞櫓の南端にある、西角櫓です。北角櫓とは異なり、複雑な面構成をしています。東側(写真左)の張り出し部は、南丸南辺に延びていた多聞櫓の名残でしょうか。

西角櫓の基部には石垣が築かれ、多聞櫓より高い位置に建っています。

こちらの瓦もおそらく藤巴でしょうけれど……うーん、ピンボケ。さっきから写真、下手すぎです。

北からでも南からでも、この距離だと到底カメラに収まりきらない長さ!

西角櫓付近から東を見ると、南丸南東端に櫓台があります。あそこには、巨大な三階櫓が建っていたようです。

南東より、南丸を見渡します。当時は南丸の南辺・北辺も多聞櫓で囲われ、南東隅には三階櫓が置かれ、とても守りの厳重な曲輪だったようです。

 

南丸を出て、周辺を歩きます。

南丸の北東、水の手方面に通じる水ノ手御門跡です。表示石の奥に見えるのは門礎石でしょうか。奥の高石垣は武具櫓台で、右奥に見えている低い石垣は生捕櫓台です。なお、東二の丸の南東にも水の手御門と呼ばれる門があったようです。

園路を横切るように、礎石?に沿って南北方向に門が建っていたようです。背後(北側)の石垣は鉄砲櫓台で、鉄砲櫓はここ水ノ手御門の防衛をも担っており、いかに重要な位置に建っていた櫓なのか、よく分かります。

写真中央奥、水ノ手御門を隠すように、南丸北東から延びる石垣上にあった長屋状の平櫓が、生捕櫓です。水ノ手御門へ迫る敵は、生捕櫓と鉄砲櫓から挟撃される形となります。

西から、武具櫓台を見上げます。高さ約15m、城内で最も高い石垣だそうです。

東西の幅は約74m! 高石垣が東方向へ延々と続く様は、大迫力です。隅部には、矢穴の見える加工石が算木積みされています。

南丸南東の三階櫓台を、東から見ます。

三階櫓台の東、お城の南縁部には、土塁が続いています。

土塁の南側はかつての堀跡で、かなりの高低差です。

このあたりでは瓦らしき破片が散乱していましたが……お城建物のものでしょうか。

鉄砲櫓台の西まで戻ってきました。二の丸南西虎口、桐木坂です。石畳です。坂は鍵の手に曲がり、先が見通せません。

桐木坂御門跡の表示石はなんとも微妙な位置にありますが、絵図では坂を上り切ったあたりに門が描かれています。

ここにも「官兵衛ゆかりの」。

案内板の左には、見事な二の丸東辺石垣が続きます。写真右の張り出し部には、桐ノ木坂櫓が建っていたようです。

桐木坂の直進を防いでいる石垣は櫓台のように見えますが、絵図には櫓は描かれておらず、単に横矢を掛けているだけのようです。

 

二の丸を出て、樹木所と呼ばれる曲輪へ向かいます。

南丸の西には、三の丸の中でも一段と高くなった樹木所という曲輪があり、すぐ西の搦手口にあたる追廻橋御門を防衛する役割を担っていたようです。ここ樹木所からは、多聞櫓がよく見えます。長大なので、全体をカメラに収めるのもギリギリです。

福岡城は「石城」とも呼ばれ、かつての黒田氏居城である名島城の建材・石材のほかに鴻臚館や元寇防塁の石材までも再利用したようです。

多聞櫓を支える南丸石垣は、同じ野面積みでも天守台とはまた違った趣がありますね。

北角櫓の一階には、石落しが見えます。

多聞櫓にも張り出し部に石落しが設けられており、下見板部分には窓のほかに狭間も見えます。

西角櫓にも、石落しがあります。

荒々しい野面積み石垣と、下見板張りの武骨な多聞櫓と。良いですね。

多聞櫓と、より高所に築かれた西角櫓との間には石垣に段差があり、ちょうどその部分にも石落しが設けられています。

樹木所の南西隅にある、鉄物櫓台です。大半が埋め立てられたお城南側の堀ですが、この周辺のみ残存しています。鉄物櫓の西側(写真右手方向)に、三つある城内への出入り口のひとつ、追廻橋が架かっていたようです。

鉄物櫓台の西から、東を見ます。鉄物櫓は東西に長い平櫓で、明治期に惜しくも焼失してしまったらしく、現在はテーブル・イスが設けられ休憩所となっています。

長すぎる多聞櫓、正面付近からは全体を到底収め切れないのが、歯がゆいですね。

桐木坂の上り口付近より、樹木所の石垣を見ます。木の向こうに少し、北角櫓が見えています。

 

樹木所を出て、三の丸を歩きます。

三の丸の北、御鷹屋敷跡から南へ延びる石垣が、今も残っています。

石垣の西にある御下屋敷跡には中学校があったようですが、現在は校舎の一部を利用した「三の丸スクエア」という展示・案内施設となっています。

三の丸スクエアの北東には、かつて中学校の校門として使用されていたという「名島門」が建っています。

この名島門、名島城の脇門が家臣の邸宅に下げ渡されたもので、福岡城以前の黒田氏居城・名島城の貴重な移築現存門です。木の形状をそのまま活かしたような梁が良いですね。独立して建ち、門の側面に壁があるからか、これまでほかのお城で見てきた櫓門とはかなり印象が異なります。下げ渡された際に、形状の改変などはあったのでしょうか。

屋根瓦にはこちらも、黒田氏の家紋・藤巴。

そういえばこの門、二階への階段が見当たりません。どうやって上るのでしょうか。

絵図等では石垣が御鷹屋敷跡までつながっていますが、道を通し門を建てるため、石垣が一部壊されているようです。

名島門を越え東へ歩くと、左手(北)側に階段があります。

階段の上は現在「牡丹・芍薬園」となっていますが、周囲より高くなっているこの場所こそが黒田官兵衛の隠居地・御鷹屋敷跡です。

石碑にある「黒田如水」とは、官兵衛の剃髪後の呼称です。そもそも官兵衛も通称であり、諱(実名)は孝高です。

こちらの説明には「筑前国風土記」の記述を抜粋してあり、それによるとこの場所はもともと本丸より高い山で、それを均して低い岡とし、隠居屋敷を建てた……とあるようです。

御鷹屋敷跡のすぐ東には、黒田二十四騎の一人・母里太兵衛の屋敷長屋門が移築されています。

現在地を確認します。改めて、その広大さに驚きます。今回は未訪ですが、大濠公園として残る西の巨大な堀跡も、インパクト大、です。

 

下之橋御門へ向かいます。

御鷹屋敷跡の北にある下之橋御門と、(伝)潮見櫓です。門を守る絶好の位置に櫓が建っていますが、これは移築されたもので、当時ここに櫓は無かったようです。門のすぐ東(写真右)には堀を渡る道路が通されていますが、もちろん当時はここに道路など無く、この付近から城外へ出るには下之橋御門を通るしかありませんでした。

裏御門の説明では古時打櫓ではないかとされている、(伝)潮見櫓です。

南側の階段を上ると、櫓を間近に見ることができます。櫓内部は、通常非公開です。

櫓が移築された石垣と、道を挟んで向かいにも石垣が見えます。このあたりに、道を塞ぐ形で門があったようです。なお、実際の潮見櫓はこの道をまっすぐ進み突き当たりを右、お城の北西隅に建っていたようです。

この櫓が何故、潮見櫓跡へ移築されなかったのか不明ですが、潮見櫓でなかったのなら結果として跡地へ移築しないで良かったと思うし、門に隣接するこの場所へ移築されたことで、城跡として非常に絵になります。櫓と門のセットは、良いものです。

門の内側正面には石垣。上之橋御門と同じく、直進できない枡形状構造です。

内側から門の外をのぞくと、向こうにも石垣の壁。外から来た敵は、門の手前で一度、門を越えてもう一度、二度曲がらないと城内へ入れません。

門をくぐり、外側から下之橋御門を見ます。櫓門の二階部分には、狭間が見えます。こうして門があり塀があると、当時の様子が想像しやすくて助かります。

下之橋御門は唯一の現存門ですが、明治期に二階部分が失われ、近年の不審火による被災を機に、二層櫓門として復元されたようです。

それはさておき、城下絵図の西側、堀幅がやばすぎです……。これが今もほぼ残ってるの、福岡城のオンリーワンな個性ですよね。

福岡城で最もお城らしさを感じられるのではないかと思われる構図です。石垣と、門と櫓と塀。(伝)潮見櫓はこの角度から見ると確かに、裏御門の古写真にある古時打櫓によく似ていますね。

三つある城内への出入口の最後のひとつ、下之橋の上から、下之橋御門虎口を見ます。

下之橋の土橋石垣は古そうに見えますが、アーチ状石組のあたりには、当時は木橋が架かっていたのかもしれません。

 

最後に、城跡を離れ、移築門を見に行きます。

城内の説明にもありましたが、黒田家の菩提寺崇福寺の山門は、本丸表御門を移築したものです。

門にも、大正七年に移築と説明があります。

移築の際に扁額が付くなど改変はあったのかもしれませんが、屋根瓦には藤巴が見え、表御門だったことがひしひしと伝わってくる、立派な門です。

門扉は外されているようです。

これだけの巨大な櫓門が、よくぞ残ってくれたものです。ありがたや。

崇福寺にはほかにも、名島城の門と伝わる唐門があります。

 

スタートから堀石垣が非公開日だったのに加え、その広大さゆえ松木坂や大堀など未訪エリアも多数、城跡碑すら見逃す始末。3時間で到底回り切れる規模ではありませんでした。予習不足……! それほど見所の多い、魅力的な大城郭だったと言えます。再訪を誓って。

今回はお城の名前が見えないという、痛恨の押し損じ……!

日本100名城スタンプラリー、こちらで40城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

2-4.姫路城(特別公開2019)

姫路城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.59)に選ばれた、兵庫県姫路市にあるお城です。

四度目の訪問記となる今回、最大の目的は、「冬の特別公開」です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

姫路駅から北へしばらく歩くと、道路の向こうに天守をはじめとする建物群が見えてきます。

桜門橋の擬宝珠と、天守です。何度か訪れている姫路城、なるべく前とは違う写真を撮りたいと思い、あれこれ模索しています。天守手前の櫓台石垣、大手口ということもあってか巨石をいくつも用いており、中央に矢穴があるのに割らずそのまま使っているような石材も見えます。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。姫路城のチェックポイントは、見学資料室の窓にありました。背後には、西の丸カの櫓がのぞいています。

特別公開の案内を見ます。このたびは小天守群の内部公開ということで、東小天守はなんと、今回が初公開です。

 

天守へ向かいます。

ニッポン城めぐりのチェックポイントは、菱の門にもありました。

菱の門をくぐると、右手に天守が見えます。大天守と三つの小天守をイ・ロ・ハ・ニの渡櫓で結んだ連立式天守は、角度によって実に様々な姿を見せてくれます。この写真では、大天守の左に西小天守、その左に今回内部公開されている乾小天守が見え、西小天守と乾小天守はハの渡櫓で連結されています。

天守付近には水と名の付く門が六つあり、これはその二つめ、水の二門です。門の屋根瓦には池田氏の家紋・揚羽蝶がずらり。一番下の滴水瓦はどれも揚羽蝶ですが、上段の軒丸瓦では揚羽蝶と桐紋が交互に並び、屋根棟部分には揚羽蝶と菊紋が交互に並んでいます。

こちら水の四門でも、滴水瓦は全て揚羽蝶、軒丸瓦は揚羽蝶と桐紋が交互です。

天守入口のすぐ右にも、揚羽蝶

 

天守の中へ入ります。今回は建物内部をすっ飛ばし、最上階の眺望のみ。

南です。四重目の破風と鯱がすぐそばに見えています。左下に太鼓櫓、その右に塀で囲まれた上山里曲輪、その奥にはかつて御殿があった三の丸、さらに奥には大手前通りが伸び、かつて城下町が広がっていたエリアまで見渡せます。

東です。四重目の唐破風が優美な曲線を描いています。右下に帯の櫓、その奥には喜斎門跡付近で複雑に折れ曲がる内堀が見えます。さらに奥、グラウンド等に沿って左右(南北)に伸びる木々の向こうが中堀跡と思われます。

非常に立体的な鬼瓦の桐紋と、その下には揚羽蝶

北です。右下に北腰曲輪に連なるホの櫓などの建物屋根が、その上の道路との間には内堀が見えます。鯱の右、教習所の背後に左右(東西)に続く木々の向こうが中堀跡と思われます。

建物が多く残る、西です。左に三国堀、その奥には西の丸建物群が見え、中央付近には左から右にかけて順に、い・ろ・は・にの門が見えます。右に見える山は、千姫が建立した天満宮のある男山です。

 

眺望を堪能したところで、いよいよ特別公開エリアへ向かいます。

天守とイの渡櫓との接続部に、特別公開順路の案内が出ています。

300円を支払い、東小天守の手前、イの渡櫓北側にある特別公開エリア入口の階段を上ります。

まずは、イの渡櫓。大天守と東小天守をつなぐ、二層の渡櫓です。

ここからが、特別公開エリア。普段は入れない、イの渡櫓の二階部分です。

市民の手で漉いて張られた、障子です。

内側の窓を見ます。正面に乾小天守、その手前下部に台所櫓、左手に大天守、右手にロの渡櫓が見えます。ロの渡櫓には、素木の格子窓が並んでいます。

外側の窓を見ます。イの渡櫓東側には、巨大枡形虎口と呼べるような櫓や門で囲まれた方形空間があります。建物も数多く現存し、左からヘの渡櫓、場内唯一の素木造り建物・との一門、トの櫓、土塀と旧番所を挟んで井郭櫓、折廻り櫓です。

次は、今回が初公開という東小天守。三つある小天守のひとつで、連立天守の北東に位置します。

イの渡櫓二階から直接東小天守につながっており、接続部の扉には、潜戸があります。

東小天守二階へ入るとすぐ階段があり、三階へ上ります。北側に破風の間があり、天井付近には高窓があります。高窓の下には、火縄や火薬などを吊るすためと考えられる竹釘が並んでいます。破風の間の扉の左には、狭間もあります。

高窓は北面以外にもあり、竹釘のほかにL字の釘も見えます。

南側の窓からは、大天守が見えます。外壁には狭間がたくさん。

東小天守の説明です。ほかの小天守に比べ装飾がなく、地味な外観のようです。

次は、ロの渡櫓。北側で東小天守と乾小天守をつなぐ、連立天守で最も長い渡櫓です。

東小天守の二階へ下りると、西側でロの渡櫓二階とつながっています。この接続部の扉にも、潜戸が見えます。

武具掛けには実際に武具が掛かっており、雰囲気が伝わってきます。

素木造りの窓をのぞくと、向かいに大天守。下側は、地階の窓でしょうか。

屋根の下、渡櫓の南北方向に並ぶたくさんのぶっとい梁。大迫力です。

一重目中央には大きな唐破風。台所櫓への扉も、ここロの渡櫓にあるようです。

次は、乾小天守。三つある小天守のひとつで、連立天守の北西(戌亥)に位置します。

ロの渡櫓二階から、乾小天守二階へ入ります。南東側に部屋があり、壁には棚と、東向きに窓があります。

天守中最大で装飾に富む乾小天守。ほノ門や水曲輪へ横矢を掛け、西の守りを固めます。

三階には、西に破風の間があります。左には武具掛けが見えます。

三階の東側には部屋があります。戸が少し開いており、中が見えます。

四階は四方に窓があり、景色を楽しめます。

北です。眼下には二重目の唐破風屋根と、その奥に、いの渡櫓が見えます。

西です。黒塗り火灯窓の窓枠には金の装飾金具があしらわれています。三階破風の間の破風屋根が手前に、その奥には、にの門や西の丸建造物群が見えます。

南です。ハの渡櫓屋根の奥に、西小天守が見えます。火灯窓の窓枠が額縁のようだと後から写真を見返して気付き、窓枠全体を入れて撮影するんだったと後悔しました……。

西小天守のすぐ東には、大天守。巨大な破風が、間近に見えます。

東です。大天守・東小天守と、それらをつなぐ渡櫓。連立天守・姫路城が実感できる写真です。

三階から二階へ下りる階段には、木の蓋が付いています。普段はこれを閉め、出入りが出来ないようにしてあるのでしょうか。

最後は、ハの渡櫓。

乾小天守二階からハの渡櫓二階へ入ったところで、今回の特別公開は終了です。ハの渡櫓二階部分へ入ることは出来ず、眺めるだけでした。

階段を下りハの渡櫓一階に行くと見られる、西小天守へ通じる扉です。今回の特別公開では対象外だった三つある小天守の最後のひとつ、南西にある西小天守。いつか公開される日が、来るのでしょうか。

 

特別公開を見終わり、天守を出ます。

天守の南にある曲輪・備前丸より連立天守を見上げます。大小天守とも、屋根を支える方杖がびっしり並んでいる様子が見えます。

天守台の南西に張り出した石垣は、水の四門と五門の間に設けられた枡形虎口のような空間です。隅部のラインが美しいですね。

間近で見上げる構図、巨大さを感じられて好きなんです。屋根の重なりも美しい!

一段下、上山里曲輪から天守を見ます。備前丸に建物があった時は、これほど天守が見えなかったかもしれません。

三国堀の東にある土塀には、分厚い屋根付きの控塀が並んでいます。瓦には榊原氏の家紋・源氏車が見えますが、榊原氏が城主の時代に建てられた、もしくは修築されたのでしょうか。

控塀付土塀の南にある隠しルート、るの門跡です。かつては門扉が存在したようです。上に見えているのは、上山里曲輪のリの二渡櫓です。

三国堀の北側石垣に見える、開口部を塞いだようなV字状石積みです。かつて三国堀は北側へ延びており、縄張り改修の際に埋められた痕跡と考えられているようです。

三の丸広場から礎石が展示されている「天守の庭」方面への階段です。階段を上って右手が、下山里曲輪です。

 

内曲輪を出ます。

右手石垣は、隅櫓が建っていたと思われる三の丸南西隅です。隅部のすぐ右にも、隅部の算木積みのように見える石の並びが見えるのは、気のせいでしょうか。

内堀を挟んで左手に見えるのが、好古園です。

内曲輪のすぐ西、西御屋敷跡及び武家屋敷地跡に整備された庭園が、好古園です。

発掘の成果を活かして復元・整備されたという塀に囲われた道や長屋門は、当時の武家屋敷地の雰囲気が味わえます。

好古園の東端まで歩くと、内堀越しに内曲輪が見えます。左には、西の丸ワの櫓が見えています。

御屋敷の庭エリアが、藩主屋敷である西御屋敷跡のようです。

立派な屋敷門の屋根瓦に見えるのは、榊原氏家紋の源氏車でしょうか。

門より中へ入ると、大規模で美しい庭園を堪能できます。

好古園を出ます。

お城南側の商店街で見かけた、内郭内復元鳥瞰図です。三の丸には大手道の左右に御殿が建ち、南側内堀沿いには多くの二重櫓・三重櫓が並んでいたようです。

大手前公園の南、中曲輪内にある施設、イーグレひめじ。ここの屋上が、展望台として開放されています。

屋上からは御覧の通り、姫路城を一望できます。

国宝が合計九棟(大小天守+渡櫓四棟+附・台所櫓)、重要文化財はなんと七十四棟。これだけ多くの建物が、今日までよく残ってくれたものです。

初体験となった特別公開は、普段見られない建物内部とそこからの景色はとってもスペシャルで、非常にエキサイティングでした。素晴らしい機会を与えてくれたイベントに、感謝を。

素敵なお城でした。ありがとう。

4-2.犬山城

犬山城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.43)に選ばれた、愛知県犬山市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

犬山駅の西口、花燈窓風?の窓をのぞくと、遠くに天守が見えます。

城下町の中心、中本町です。この道(本町通り)は名古屋城下と犬山城下を結び「稲置街道」と呼ばれ、中山道鵜沼宿まで至るそうです。

起り屋根が特徴的な、磯部家住宅です。

中本町から北へ歩くと、札の辻です。

札の辻付近には高札場・問屋場のほか、火の見櫓も建っていたようです。

現在は、火の見櫓風の何かが建っています。

本町には、江戸期より始まったという犬山祭の車山を格納する蔵があります。

 

本町通りをさらに北へ歩くと、大手門跡があります。

大手門跡に立つ、屏風のような二枚構成の説明板です。説明板の前にある四角く平らな石は、門礎石のようにも見えますが……気のせいでしょうか。

現在地は枡形の内側にあたるらしく、絵図によると、北へ突き出た方形の広場から東の外枡形へ橋が架かり、橋を渡り門をくぐって左に折れると「二の門」である櫓門が建っていたようです。

枡形は土塁で構成、とありますが、古写真を見ると門付近には石垣が築かれていたようです。

現在はこうして説明板が立つのみで、大手門の痕跡は失われています。大手門の手前で稲置街道は東(写真では四つ角の左方向)へ折れています。

大手門跡を越えると、城内です。

大手門跡のすぐ北側には「大手門いこいの広場」があり、絵図と現況の比較や、城と城下町に関する説明があります。道が鍵の手に曲げられた木戸跡が残るそうですが、今回は未訪です。

大手門いこいの広場から北へ歩くと、左手に「城とまちミュージアム」が見えてきます。道の右側にはかつて藩校・敬道館があり、碑や説明板があるようですが、見逃しました。

道の奥には、天守の頭が見えています。

城とまちミュージアムのエントランスホールには、城下町まで再現された巨大な城郭模型があります。これはすごい!「撮影可」なのが非常にありがたい。

城下は犬山祭の当日で、針綱神社(写真中央やや右)からメインストリートを北上する車山の巡行と大勢の人出で賑わう様子が再現されています。

城下町とお城は、外堀で隔てられています。

城郭部分を南から見ます。大手門枡形、古写真通りに外周は石垣が積まれていますね。枡形東側土塁上には、二重櫓が見えます。

西から見ます。お城の西には三光寺山(写真中央手前)があり、麓に三光寺御殿が、その東には西御殿が見えます。また城山の西麓(西谷)には材木小屋や馬場などがあり、木曽川に臨む門・西谷門も見えます。

城山を西から拡大。中門・矢来門・黒門といった大手道の各門の配置や、西麓の堀、樅の丸の屏風櫓に本丸の弓矢櫓(写真中央)・千貫櫓(左・天守の北西)といった西側の守りを固める櫓の配置が分かります。

北から見ます。本丸北の七曲門とそこから延びる七曲道、七曲道を下りた北麓にある東谷門(左)と水之手門(右)や水之手櫓が見えます。

本丸を北から拡大。城山山頂に天守がそびえ、天守背後~本丸南にかけて並ぶ千貫櫓・弓矢櫓・鉄砲櫓、本丸の正門である鉄門、七曲門から本丸南東隅の大砲櫓を挟み本丸下段の杉の丸器械櫓まで延びる多聞櫓が見えます。天守の高欄は、模型では朱塗りとなっており、良く目立ちます。

東から見ます。北東隅の丑寅櫓、堀の真ん中にある馬出しとその先にある内田門、松の丸へ通じる榊門、左端に清水門が見えます。城山の東側に連なる多聞櫓の様子も、良く分かります。

城山を南東から。左から、松の丸・桐の丸・杉の丸と階段状に並ぶ曲輪の様子が良く分かります。これら三つの曲輪及び樅の丸は相互に出入り出来ず、大手道に各曲輪への門が開いていました。

松の丸には曲輪いっぱいに御殿が建っています。

 

模型でお城の構造を予習したところで、城山へ向かいます。

かつて大手道と松の丸を区切っていた堀の一部(南西側)は道路となり、大手道の下をくぐって西谷まで通されています。

堀跡の西側、大手道の手前には狭間のある土塀が築かれ、お城感を演出しています。

大手道の入口にある国宝・犬山城の碑。昔も今も、ここからが国宝天守への正式な登城道です。

碑の反対側、大手道入口の西にある狭間付き土塀と、西谷方面へ下りる階段です。これが絵図にある西谷へ通じる道だとすれば、この付近(アスファルトと階段の境界あたり?)に門があったようです。

大手道の入口には真下に道路が通されている部分に朱塗りの欄干がありますが、当時は下に道路がなく、こうした欄干橋もなかったと思われます。

欄干の東側は、堀跡です。

欄干の西側は西谷と呼ばれるエリアで、かなりの高低差です。

橋を渡ると大きな説明板があり、模型写真を使って各郭(曲輪)及び門・櫓の名称が記されています。現在地はちょうど、中門があった場所に近いようです。

説明板の北、写真右奥の石垣南端部の西あたりに道を塞ぐように中門が建っていたようです。

中門跡から大手道の右手に連なる石垣はなかなかに古そうですが、当時このあたりは大手道と松の丸を隔てる堀の中で、神社の移転に伴って構築されたと考えられているようです。それにしても立派ですね……松の丸石垣の石材が流用された可能性はあるのでしょうか。

松の丸の北西で、大手道が東へ折れます。写真左手付近には、城番のための風呂屋があったようです。右奥に建物が見えるあたりが樅の丸で、南西隅(重要文化財・国宝の看板背後付近?)には屏風櫓が建っていたようで、中門を越え大手道を進む敵に対して屏風櫓は迎撃できる好位置にあったと思われます。

柵の向こうには、樅の丸の西~南にかけての堀が確認できます。

大手道を東へ曲がります。右手に松の丸、左手に堀を挟んで樅の丸、正面に桐の丸という曲輪配置です。樅の丸や堀の東端部には、現存石垣が見えています。

写真右手の赤い壁が途切れるあたり、神社入口手前の大手道を塞ぐように矢来門が建ち、中門との間に外枡形を形成していたようです。

来門の説明板は、門の推定位置より左(東)に立っており、説明板横の礎石っぽい石は矢来門の礎石というわけではないようです。

松の丸への出入口は表門と裏門の二箇所あったようですが、こちらは西側の大手道に開く「松の丸表門」跡です。方形に加工されほぞ穴のある礎石が二つ、しっかり残っています。

来門跡を越え、樅の丸と大手道の間の堀を振り返ります。大手道より広い堀幅が分かります。

来門を越えると大手道は北へ折れ、曲がり角には桐の丸の道具櫓が建っていたようです。現在は針綱神社の社務所がそびえ、さながら櫓のようです。道具櫓台は後世に積み直されたようで、積み方や石材が新しく見えます。

道具櫓のすぐ北(写真左の道が右(東)へ折れるあたり)には黒門があり、矢来門との間に外枡形を形成し、矢来門を越えた敵は樅の丸と道具櫓で挟み撃ちが可能です。

黒門の礎石、右は松の丸門と同様に方形加工でほぞ穴も見えますが、左は加工されていません。右手の樅の丸石垣は巨石が使われ、現存らしい迫力があります。

黒門跡を越えると、大手道はまっすぐ北へ延びます。右手の碑が立っているあたりに桐の丸出入口の門が、ちょうど反対側の石垣の間には樅の丸出入口の門がそれぞれ建っていたようです。

現在は明治期に城内へ遷座・移転した針綱神社の境内となっている、桐の丸です。パイロンと石碑の間に門があったと思われます。左に見える石垣は上段の杉の丸のもので、この上には御成櫓が建っていたようです。

桐の丸と大手道を挟んで反対側に位置する、樅の丸です(写真右)。門の見える場所に、当時も門があったようです。石垣上に見える建物は犬山城白帝文庫の収蔵庫で、当時の建造物ではないようです。樅の丸の上段(北)は、本丸です。

杉の丸の大手道に面する西側石垣を見ます。岩盤の上に直接築かれているように見える箇所もあり、一部巨石を用いた野面積み石垣は大手道にふさわしい迫力があります。たいへん古そうに見えますが、杉の丸には昭和期に浄水場が設置され、石垣のほとんどが積み直されているようです。

杉の丸石垣に見とれていると、反対側にこれまた素晴らしい石垣が現れました。本丸南端に位置する、鉄砲櫓台です。石垣上に建つのは、模擬隅櫓(兼茶室)です。

鉄砲櫓台のすぐ東、大手道の「岩坂」をまたぐ門が、岩坂門です。岩坂の下の黒門との間に外枡形を形成し、左右の曲輪からの挟撃、杉の丸の御成櫓や本丸の鉄砲櫓から攻撃を浴びれば、岩坂門を越えるのは困難だったことでしょう。

鉄砲櫓台付近の東側石垣は、加工の粗い野面積みで、いくつか鏡石が配されています。

その北側(鉄門の西側)石垣は、(江戸期に?)積み直されたのか、石材がある程度加工された打込接ぎで、こちらにも鏡石がいくつか見られ、さすが本丸石垣といった感じです。

岩坂門と本丸鉄門で構成される外枡形の西と北の隣り合う二面で、様子の異なる石垣が見られるのは興味深いですね。

鉄門跡付近の石垣は(江戸期以降に?)積み直されたのか、また少し様子が違って見えます。

本丸最後の関門、鉄門跡です。岩坂門との間に外枡形を形成し、本丸前の守りを固めていました。ここまでの大手道は岩坂門、黒門、矢来門、中門により四つに区切られ、それぞれの区画が外枡形として機能する「外枡形コンプレックス」の役割を果たしていたようです。本丸直通の一本道を外枡形として機能させ、両脇の曲輪を攻防の拠点とする……これは非常に面白い縄張りですね。

現在、鉄門跡には管理事務所を兼ねた模擬門が建っているのですが……この形状がちょっと残念というかそれっぽくないというか……もうちょっとどうにかならんかったのでしょうか。

 

鉄門跡を越えると、本丸です。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。犬山城のチェックポイントは、鉄門跡を越えてすぐの所にありました。

チェックポイントの背後に見える建物はトイレで、この手前あたりに下番所があったようです。

鉄門を入ってすぐのエリアは、本丸地表面より低くなっています。

現在は、左手方向(西)に階段があります。

正面(北)には、天守が見えます。

現存では最古との説もある天守。三階部分の唐破風が特徴的で、愛嬌ある印象を与えてくれます。最上階には廻縁と高欄があり、外へ出ることができます。

鉄門跡の西には、鉄砲櫓跡への階段がありますが、立入禁止です。階段上の立札には「小銃櫓跡」とあります。

鉄門跡に建つ模擬櫓門の櫓部分は、管理事務所となっています。

屋根瓦には「丸に一」の紋。犬山市の市章ですが、もとは城主・成瀬氏に由来する印だそうです。

100名城スタンプは、こちらの管理事務所で押しました。

管理事務所の高さからは、鉄砲櫓跡の模擬櫓がよく見えます。模擬とはいえ、なかなか立派な二重櫓です。こちらの屋根瓦も、丸に一。

本丸の西側は石垣により高くなっており、階段が設けられています。

階段には丸い石が多く使われています。公園化の際に築かれたものでしょうか。

階段を上ると、すぐ西に弓矢櫓跡があります。

北側から、本丸の西に張り出す弓矢櫓台石垣を見ることができます。

本丸西側の石垣は北側へ続いており、別の階段があります。こちらは先ほどとは異なり、角ばった石材で築かれていますが、当時のものでしょうか。

ある程度の幅を持つ高まりは天守の南まで続いていますが、ここに多聞櫓が建っていたわけではないようです。

南西より、天守を見上げます。一階下見板部分には、狭間が見えます。

屋根瓦に見えるは、城主・成瀬氏の家紋「丸に片喰(酢漿草)」です。

天守西北には、短い付櫓と、石落しが見えます。

東南にも付櫓があり、こちらは西北のものより長く、入口近くにあるため目立ちます。

東南付櫓は、濃尾地震の際に大きく損壊したそうです。

地震後に一旦撤去された東南隅櫓は、昭和期に復元されたようです。

東面の天守台石垣を見ます。東北隅に、石落しが見えます。天守台石垣は濃尾地震で大きな被害を受け、昭和期の大修理時には根石を残して積み直されたそうです。

天守の東、本丸東北の搦手にある、七曲門跡です。門跡の両脇には低い石垣が築かれ、西側(写真左手前)の石垣には雁木が見えます。

七曲門跡には四つ、方形の礎石が残っています。

七曲門の外側は小曲輪となっています。ある意味これも、外枡形と言えるのかもしれません。

七曲道へ入ることはできません。下り口には、階段が見えます。

七曲門外側の小曲輪より、七曲門跡と両脇の石垣を見ます。このあたり、旧状が良く残っているように思えます。

七曲門跡の東側からは、低い石垣による高まりが本丸東辺に沿って南方向へ築かれています。多聞櫓跡です。石垣の間には、多聞櫓へ上るための雁木も見えます。

多聞櫓の南には、大砲櫓が建っていたようですが、柵があり、櫓台へ立ち入ることはできません。

 

本丸を一周したところで、天守内へ入ります。

天守は三重四階、地下二階。二重櫓の上に三重目が載る、典型的な望楼型です。

出入口は南側で、手前には雨除けテントが設置されています。

赤い絨毯が敷かれた入口。門扉の向こうが地下二階ですが、入るとすぐに階段があり、非常に狭い空間です。

写真がピンボケですが……地下一階です。石垣に囲われた狭い部屋で、地下穴蔵部分から一階へ上るための連絡通路、といった雰囲気です。

上段の間などがあるという一階ですが……なんと工事中のため、入れません。残念。

二階への階段すぐ南にある、付櫓には入れました。

付櫓の西側連子窓からは入口付近がよく見え、天守へ迫る敵に横矢を掛けられます。

二階は、外周に広い武者走りがあります。

二階の窓には突き上げ戸があります。

天守を支える太い梁が並びます。

二階南側窓より、本丸を見渡します。こうして遠景で見ると、模擬鉄門・模擬鉄砲櫓もお城感を演出していて、悪くないですね。

東南付櫓の屋根瓦には家紋のほかに、桃があしらわれています。

二階中央には武具の間があり、武具棚のほか、天守の軸組模型や現存天守の写真が展示されていますが、ここも工事中で入れず……ぐぬぬ

二重目と三重目の間にある、三階です。

外観上の大きな特徴である唐破風は後に装飾として増築されたそうで、内部は小部屋になっています。

唐破風の間の天井は、破風形状に合わせてカーブを描いています。

東西の入母屋破風内も小部屋になっていますが、こちらは立入禁止。

四階への階段には、絨毯。

最上階である四階・高欄の間です。もともと絨毯敷きだったそうで、今も真っ赤な絨毯が全面に敷かれています。

高欄の間の壁には、国宝指定書が掲げられています。

四階は外へ出て、外周の廻縁を歩くことができます。こちらは北で、高欄の向こうに唐破風の頭が見えています。眼下には、広大な木曽川が天然の堀として流れています。

廻縁に出て、東を見ます。四階外壁には、外観の大きな特徴である花燈窓があります。高欄は低いので、廻縁を歩く際は注意が必要です。

東の廻縁です。修理の跡か、床板の一部はツギハギです。二重目入母屋破風の屋根瓦には、家紋が並んでいます。

複雑に重なり合う瓦屋根が織り成す、美。

唐破風屋根の描く優美な曲線も、良いものです。

唐破風にも、桃の瓦が見えます。

写真中央奥のこんもりした山が三光寺山で、その手前が西谷です。

かつて城主が見たであろう、天守最上階からの城下の光景。

天守を出てすぐ西に見える、石垣です。

天守が建つ城山はチャートで構成されており、天守台石垣にもチャートが使われているようです。

 

本丸を出ます。

大手道西側に沿って階段状に積まれた石垣の奥に見える樅の丸の東面石垣は、古そうに見えます。

黒門跡のすぐ東にある石段は後世に築かれたもので、当時ここに桐の丸への出入口は無かったようです。

それぞれ独立した曲輪だった桐の丸と松の丸をつなぐ石段が築かれ、行き来ができるようになっています。石段の数で、桐の丸と松の丸の高低差が分かります。

これは当時の石垣かもしれない……と思い撮影しましたが、松の丸南側は曲輪形状が大きく改変されており、南面石垣の位置はもっと北側だったようです。

お城の東を流れる郷瀬川は明治期に開削された人工河川で、この川により東側の縄張りは大きく改変され、遺構はほとんど残っていない模様です。

多くの遺構が失われた東側で奇跡的に残る、城郭北東隅の丑寅櫓台石垣です。大木が生え、状態は良くないですが、貴重な遺構です。

郷瀬川の東にあるホテルの駐車場には、外堀跡と言われる池が残っています。当時この付近には馬出があり、内田門が建っていたようです。

ホテルの敷地には国宝茶室「如庵」を有する日本庭園・有楽苑がありますが、犬山城とは関係ありません。

有楽苑の東、名鉄犬山線の線路を越えた所にある瑞泉寺には、移築された内田門が現存しています。

絵図や復元模型では櫓門ですが、移築の際に櫓部分が撤去されたのか、現在は薬医門のような外観です。

 

締めは、天守です。

優美な姿が、青空に映えます。

 

前回の訪問がまだお城にのめり込む前で、ようやくちゃんと見て回れた感があります。しかしながら城下町の西にある移築松の丸裏門を見逃し、まだまだ未訪のエリアも多く、さらにしっかり下調べをした上で再訪したいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで39城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

74.大津城

大津城に行ってきました。滋賀県大津市にあったお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

びわ湖浜大津駅の改札を出てすぐ北に、説明板があります。

秀吉公により坂本城を廃し築かれた大津城。しかし江戸時代を待たず廃城・解体、新たに膳所城が築かれ、天守彦根城に移築されたと言われています。

説明文の上に、縄張の推定復元図があります。中枢部を三重の堀で囲った堅固な構造……と思いきや、本丸だと思った曲輪に「奥二の丸」とあり、琵琶湖に突き出て二の丸と橋でつながる島のような曲輪に「本丸」とあります。現在地は本丸に架かる橋の北、本丸門の付近かと思われます。

浜大津スカイクロスと呼ばれる歩行者デッキを北へ歩き西側の階段を下りると、城跡碑があります。

城跡碑の前にも先ほどと同一フォーマットの縄張図があり、現在地が本丸の北側だと分かります。この付近にもしかすると、琵琶湖に面して巨大な天守がそびえていたのでしょうか。

外堀の西側に来ました。右奥に見える橋が、三の丸に三つある出入口のひとつ、尾花川口です。

説明文は駅前のものと異なり、ここでは「天守が落城しなかった縁起をかついで彦根城へ移された」とあります。廃城後の大津は、宿場町・商業都市として大いに賑わったようです。

尾花川口付近には現在、琵琶湖疏水の取水口があります。

琵琶湖疏水は尾花川口よりまっすぐ、南西へ延びます。

琵琶湖疏水のすぐ南東にある溝はこの先で南へ折れ、形状的にこちらが外堀跡と思われます。

溝の東側の道路脇には暗渠。縄張り図によると外堀の幅は当時、このあたりまであったと思われます。

この付近が三の丸に三つある出入口のひとつ、三井寺口と思われますが、その面影はありません。外堀は道路に沿って延び、奥に見えるアーケード街から左(東)へ折れていたようです。掲示板に見える「上馬場町」の地名は、当時ここがお城の馬場だったことの名残でしょうか。

アーケード街を東へ進み、京津線の線路を渡ってなおも東へ歩くと、右手に大津祭曳山展示館があります。

この展示館のすぐ東、駐車場の奥に、石垣が見えます。

この石垣が、外堀の石垣であると言われているようです。位置関係からすると、南側外堀の外側(南側)石垣ということになるでしょうか。

建物の向こうにも、石垣が続いているように見えます。

石材の矢穴が、積まれた時代を物語っています。

Googleマップにはこの辺り(蔵の右建物付近?)に「二の丸東南隅櫓跡」とありますが、現地にはそれらしき表示・案内は見当たりませんでした。蔵の二階に「中堀町」とあり、縄張図を見ると当時このあたりが中堀の東南隅だったようです。

廃城後は堀を埋め町が開かれたようで、旧中堀町には今も町屋が見られます。

三の丸に三つある出入口のひとつ、浜町口付近です。こちらの説明文は、場所の説明以外は尾花川口のものと同じです。

ここでは、石垣が発掘されたようです。

今は植え込みの下に模擬石垣があるのみですが……それでもこうして、お城があったことを伝え残してもらえるのは、有難いです。

 

遺構はほぼ消失しているものの、道路や水路に堀の痕跡が見られ、地下深くに眠る壮大な湖城の一端を垣間見た気がしました……が、悲しいかな写真にはそれらがほとんど反映されておらず、市街地化した城跡を撮影することの難しさを感じています。機会があれば、今回訪れていない所もじっくり歩き、さらにお城の姿へ迫りたいと思います。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

3-4.彦根城

彦根城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.50)に選ばれた、滋賀県彦根市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

中堀の南東より、二の丸を見ます。奥に、佐和口多聞櫓、天秤櫓、天守が見え、遠景ながらお城の建物を一度に楽しめるビュースポットです。左の石垣隅部には、櫓が建っていたのでしょうか。

横矢が掛けられている、二の丸南石垣です。石垣上は、武家屋敷地だったようです。

中堀の外、中級武士屋敷地に残る、旧鈴木屋敷長屋門です。

 

大手門跡へ向かいます。

内側より、大手門跡を見ます。枡形虎口となっており、櫓門があったと思われる場所には礎石などの石積みが残ります。

大手櫓門の背後(東)には、雁木が設けられています。雁木を上ると、鐘の丸下段の腰曲輪を通って表門の背後まで行けると思われますが、柵があり入れません。柵の向こうに見えるのは、登り石垣の下端部です。

雁木の手前にある方形の石積みは、建物跡でしょうか。

大手櫓門の西側には、内堀に面した石垣へ上るためのとても幅広い雁木があります。大人数が一度に駆け上がれそうです。

石垣上には多聞櫓が建っていたようで、大手門橋を渡る敵に側面攻撃を浴びせられます。写真奥には、木に隠れて登り石垣がのぞいています。

料金所を越えると、両脇を石垣に囲われた大手山道があり、鐘の丸北の大堀切へ通じています。右側の低い石垣上には、土塀が建っていたのでしょうか。

大手山道の左には、石敷きの排水溝があります。

大手山道を上った所にある、門跡西側の石垣です。

石垣左側には排水溝があり、道を横切っています。この溝は、先ほどの大手山道左側の排水溝につながっています。

大手山道と大堀切の間にある、門跡です。礎石が残っています。

門跡西側石垣の左には、石垣へ上る雁木があります。雁木は合坂ではなく、門跡石垣の側のみ設けられているので、門は櫓門で、雁木の先には櫓の入口があったのでしょうか。

 

門跡を越えると、大堀切です。

大手山道と表門山道はここ、鐘の丸(右)と太鼓丸(左)の間に穿たれた大堀切で合流します。本丸へ行くには一旦鐘の丸へ上り、鐘の丸と太鼓丸をつなぐ廊下橋を渡るしかなく、橋を落とされてしまえば、高石垣をよじ登るしか手段はありません。

橋は昭和期に架け替えられたもので、当時は屋根付きの廊下橋だったようです。

大堀切から鐘の丸へと向かう敵は、太鼓丸に建つ天秤櫓からの攻撃を浴び続けることになります。

天秤櫓西側の石垣基部には、岩盤が露出しているような箇所があります。岩盤と石垣のコラボレーションは、実に良いものです。

天秤櫓の西側石垣は江戸後期に改修を受けたようで、落とし積みとなっています。

天秤櫓の東側石垣は、築城時の打込みハギがそのまま残っており、左右で石垣の様子が異なるのも見所です。

表門山道から、大堀切を見ます。石段の上に礎石が見え、このあたりに門があったようです。

鐘の丸虎口です。奥が大堀切からの石段、手前右に進むと廊下橋で、太鼓丸へ行くにはここで180度ターンを強いられます。排水溝のすぐ奥には礎石らしき石が並び、このあたりに門があったようです。

鐘の丸の北に架かる廊下橋の向こうには、中央に櫓門、左右に延びる多聞櫓の両端が二重櫓となる珍しい形状の現存櫓・天秤櫓が見えます。写真、両端の二重櫓まで入れるべきでしたね……。

廊下橋の上からは、大手山道と表門山道から駆け上がってくる敵がよく見えそうです。

天秤櫓の門部分です。左に、脇戸が見えます。

 

門を越えると、太鼓丸です。

門を抜けた所は枡形虎口状になっており、石垣の壁に阻まれ直進できません。

天秤櫓の屋根瓦には、彦根城主である井伊家の旗印「井桁」が見えます。井桁の右は……「上り藤」のようにも見えますが、井伊家の家紋とは違います。天秤櫓は、長浜城から移築されたという説もあるようで、移築前の瓦が流用されているのでしょうか。

枡形を越え、振り返ります。扇形に広がる石段と、道を斜めに横切る排水溝が見えます。

天秤櫓の中へ入ります。

櫓の説明が掲げられた階段は東側の隅櫓二階へ上るためのものと考えられますが、二階に入ることはできません。

柱や梁には、釿(ちょうな)仕上げの紋様が見えます。

窓から、佐和山城が見えます。

眼下には復元された表御殿と、馬屋や佐和口多聞櫓まで見えます。

南(城外)側の壁は、下半分が分厚く、防弾性が高められています。

西の端には、赤い井桁の旗印が。

太鼓丸の北東辺石垣です。奥の石垣が、本丸です。

石段の坂道が続き、本丸との高低差を感じます。

本丸石垣下南東隅から奥を見ると、埋門跡があります。左の石垣には雁木が設けられていますが、当時は埋門上を通ることが出来たのでしょうか。

天秤櫓を振り返ります。なんとも個性的で、カッコいい櫓です。

本丸南面石垣の下を通り、北へ曲がると、門が見えます。

本丸の表門である、太鼓門と、続櫓です。

 

太鼓門を越えると、本丸です。

調査により、他の城から移築されたことが判明している太鼓門。

特異なのはその構造。櫓部分の背面が開放され、高欄付きの廊下になっています。

以前の訪問では「ひこにゃん」も歩いていた太鼓門の廊下。続櫓には左側扉のほかに、廊下側にも扉が設けられています。

太鼓門の先は枡形虎口となっており、左折した先にも門があったようです。櫓門の先に小型の門がある枡形虎口というのも珍しいですね。

門跡の右側には排水溝があり、石段上側では暗渠となっています。

本丸から、太鼓門・続櫓を見ます。類例のない建物がいくつも現存しているのは、彦根城の大きな魅力のひとつですね。

屋根瓦には、井桁が見えます。太鼓門の廊下は、関係者とひこにゃん以外は立入禁止です。

太鼓門の北、地面には建物礎石らしき石列があります。本丸にはかつて御殿があり、この辺りには御広間・御台所・御局文庫などの建物があったようです。

それら建物跡の西にそびえるのが、国宝の現存天守です。こぢんまりしていますが破風などの装飾が多く優美で、金細工に縁取られた唐破風と三階の火頭窓が目を引きます。

こちらから見ると独立式のように見えますが、右(北)側に付櫓を伴う複合式の天守です。

天守に付随する建物です。中央奥、天守に附属するのが付櫓で、その付櫓に接続し右へ延びているのが多聞櫓、左手前が玄関です。おや、多聞櫓の漆喰が一部剥がれています。

斜めから見ると、天守の過積載にも思える装飾がよく分かります。金細工の唐破風は三階にもあり、二階にも火頭窓、破風マシマシ……格好良いモノ全部載せです。

三階には高欄まであります。屋根瓦には井伊氏の家紋「彦根橘」が見えます。

北から見ると、どっしりしています。

天守台にめり込むように建っているのが、玄関です。この中にある階段を上って天守一階に直接入ることができますが、扉は固く閉ざされ、出入りできません。

訪問時は、多聞櫓が観覧出入口となっていました。

 

多聞櫓より、天守内へ入ります。

多聞櫓は、城外側(北)の壁は窓から下が分厚く、狭間があります。

多聞櫓は途中に仕切があり、奥に見える階段の先が、石垣で高くなっている付櫓です。階段は観光用の後付け感がありますが、当時は梯子のような急な階段だったのでしょうか。

付櫓の天井を見上げると、ぐねんぐねんの梁に驚きます。湾曲した木材をうまく組み合わせ、櫓を支えています。

付櫓に展示されている火頭窓の窓枠です。かつて天守に使われていたものでしょうか。

右の階段を上ると、天守一階です。

階段上より、附櫓のぐねぐね梁を見ます。うーん、ダイナミック&ワイルド。

天守一階は、北・西・南の三方に廊下があります。

もともと四重五階だった天守が移築・改造され今の姿になったことが判明しており、大津城の天守を移築した可能性があるようです。

天守にも、湾曲した木材が用いられています。

一階廊下内側には、東西に二つの部屋があります。

東側の部屋を東へ出てすぐに、二階への階段。

二階は、外周全部が廊下になっています。

南西向きの窓からは、内堀・二の丸・中堀が見えます。

三階も、外周は廊下です。

火頭窓の内側には、戸があります。今はガラスがはめ込まれていますが、当時は遮るものがなく、外がよく見えたのでしょうか。

天守最上階からの眺望を楽しみます。

北東方向です。内堀の向こうに、槻御殿・玄宮園が見えます。

北西方向です。西の丸の向こうに、琵琶湖が見えます。

木の間から、西の丸三重櫓が顔を出しています。

南西方向は、二階から見た景色とほぼ同じです。

南東方向です。太鼓門・続櫓が見え、本丸礎石列の並びもよく分かります。

東方向です。着見櫓跡と幅広雁木の向こうには佐和山城が見えます。右手には、佐和口多聞櫓と中堀も見えています。

唐破風状に湾曲する木材。

国宝指定書!

最上階、このくらいのサイズ感です。

最上階破風の間には、鉄砲狭間があるそうです。

立入は禁止されているので、ちょっと覗いてみます。

かなり暗いですが……確かに狭間が見えます。

二階へ下りてきます。

窓から見える多聞櫓の屋根には一部、切り欠きがあります。

火頭窓の額縁越しに見る景色、良いものです。

こちら側の窓は破風があるため、片側が小さくなっています。破風内側に扉が見えますが、ここにも破風の間があるのでしょうか。

二階から階段を下りるとすぐ、玄関へ続く地下階段がありますが、閉鎖中です。

二階への階段及び地下への階段がある一階東側は、広い武者溜となっています。「MUSHYADAMARI」です。

武者溜にはたくさんの矢狭間・鉄砲狭間がありますが、どれも外からは見えない「隠し狭間」となっています。

天守と付櫓の間も、付櫓と多聞櫓の間も、扉には潜戸が設けられています。

多聞櫓からは井戸曲輪が非常によく見え、右手の雁木や、曲輪北東隅にある塩櫓台の様子もよく分かります。塩櫓台左に見える窪みは、井戸跡でしょうか。

 

多聞櫓から、天守を出ます。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。彦根城のチェックポイントは、多聞櫓すぐ東の天守事務所にありました。

この排水溝も、当時のものでしょうか。

天守二階、派手に漆喰が剥落していますね……。

天守台、算木積みの隅石に矢穴が目立ちます。

情報量の多い、天守南面を見上げます。

天守のすぐ西にある、本丸搦手の虎口です。ここでも排水溝が道を横切っています。

本丸搦手の門跡には、礎石が見えます。虎口は枡形状で、外から来る敵は右折を強いられます。こちらから迫る敵は、天守から直接迎え撃ったかもしれません。

 

門跡を出ると、西の丸です。

門跡を出た所から、本丸を見ます。本丸西面の石垣に、少し横矢が掛けられています。

西の丸南面石垣の南の方に建つ、平櫓風トイレです。石垣の隅部でも横矢部分でもないこの場所付近に、当時も櫓があったようです。屋根瓦には井桁が見え、外観も場所も、お城のトイレとしては非常に「強い」部類かと思われます。

西の丸の西端には、東と北に続櫓を伴う三重櫓が現存します。背後に広がる海のごとき湖面は、彦根城雄大な琵琶湖に臨む湖城であることをひしひしと感じられる光景です。

西の丸西虎口の手前に、建物礎石のような石列が見えます。このあたりには、御文庫が建っていたようです。

礎石らしき石が残る、西の丸西虎口です。当時は櫓門が建っていたのでしょうか。

石敷きの排水溝が、西の丸内から虎口を抜けてゆきます。

虎口を越えると、橋が見えます。お城の北西に位置する、もうひとつの大堀切です。

橋の向こうは、馬出しの機能を持つ、出曲輪です。

大堀切の両岸には高石垣。ここを登るのは困難でしょう。

橋の左側では、排水溝が大堀切へ通じています。

この深さ、この高石垣!

大堀切の西の丸石垣隅部からは登り石垣が東西に延び、斜面の横移動を阻みます。右が出曲輪、左が西の丸で、写真奥に、西の丸石垣隅部の根元から延びる登り石垣が見えています。

西の丸三重櫓と続櫓には狭間があり、出曲輪から西の丸へ迫る敵を容赦なく射撃できます。

橋を渡ると、出曲輪です。

出曲輪の石垣は、穴太衆が築いたと伝わるようです。

出曲輪の虎口は、西の丸に近い南西側に設けられています。虎口には、櫓門があったようです。

出曲輪より、大堀切を見ます。木橋は、明治以降に架けられたようです。

どことなく気品漂う三重櫓。小谷城天守を移築したという伝承もあるようですが、今ある建物は嘉永年間の大修理時に部材の約八割が取り替えられたようです。

西の丸西側登り石垣の手前には、竪堀が見えます。当時は登り石垣の上に塀が建っていたようなので、斜面の横移動はほぼ不可能だったことでしょう。

出曲輪の虎口外側では道が曲げられ、坂を駆け上って来る敵の勢いを削ぎます。出曲輪虎口の排水溝右側に礎石らしき石が見えますが、このあたりに櫓門があったのでしょうか。こちらの虎口周辺にも、排水溝がしっかり備わっています。

虎口へ通じる坂道の曲がり角に、低い石垣と雁木。これはまた珍しい構造です。この横が門だったということでもなさそうで、当時は石垣上に塀などが建ち、坂を上り道を曲がろうとする敵をここから狙い撃つ役割でしょうか。

道の外側に築かれた石垣上には、塀が並んでいたのでしょうか。

ここからの山崎山道は、しばらく石段の坂道がまっすぐ延びます。坂を下った先には観音台があり、城が築かれる以前に存在した彦根寺の観音堂があったとされています。

山崎山道は観音台の手前で北へ曲げられ、山の麓へと続きます。

石段の途中に、周りと比べ不自然に大きく、四角い石。転用石の類でしょうか。

山崎山道の上り口には、石垣が築かれています。

 

山崎曲輪へ向かいます。

山崎山道を下りて腰曲輪を北へ歩くと、内堀内で最北端に位置する山崎曲輪があります。曲輪へ上るための石段がふたつ見え、右手石垣上には二重櫓が建っていたようです。

西側石段の西には、山崎門跡があり、石垣が残っています。古写真などによると当時は櫓門が建っていたようですが、現在は冠木門があります。門の前に散在する石材は、崩壊した石垣の一部でしょうか。

山崎門跡の石垣上より、内堀を見ます。

山崎門の外には木橋が架かっていたようですが、現在は失われています。内堀の向こう、建物のある辺りには作事所が、その左(南西)には藩校・弘道館があったようです。

作事所跡の北東には、中堀に開く四つの門のひとつ、長橋口門跡があり、上部は失われているようですが、石垣が残存しています。こちらも今は失われていますが、長橋口の外には橋が架かっていたようです。

山崎曲輪の西面石垣です。写真奥の曲輪北西端にはかつて三重櫓があり、城内に天守以外の三階建物は西の丸三重櫓とここ、山崎曲輪の三重櫓のふたつだけだったようです。

二重櫓台の西側に、建物礎石のような石列があります。山崎曲輪には、木俣屋敷があったそうなので、屋敷建物跡の一部かもしれません。

二重櫓台は、山崎曲輪の南東隅に位置します。

二重櫓台の南側では、石垣に横矢あり。

来た道を戻り、山崎山道を通り過ぎ、腰曲輪を南へ歩きます。

山の斜面に、西の丸北東端から延びる登り石垣の下端部が見えます。下端部の基部付近に低く積まれ一部が崩れた石垣は、崩落防止用の「はばき石垣」でしょうか。

登り石垣の北には竪堀がよく残り、その先には西の丸に架かる木橋が見えます。この竪堀を登ったところで大堀切があり西の丸には行けず、登り石垣があるので西の丸側の斜面に取り付くこともできません。

さらに南へ歩くと、黒門跡があります。古写真によると、黒門は二階部分が小さい二重櫓が載るタイプの重厚な櫓門だったようで、現在は写真に見えるとおり門跡石垣と脇の雁木が残っています。写真右わずかに写る建物は番所風トイレで、当時もこのあたりに番所があったようです。

黒門跡のすぐ南には、腰曲輪を南北に分断する仕切門の跡と思われる低い石垣と、礎石らしき石が残ります。

仕切門跡の内側より、黒門跡と番所風トイレを見ます。仕切門跡の石垣内側(写真右手前)には、三段ほどの雁木があります。

 

黒門山道へ向かいます。

仕切門跡のすぐ南には、四つある登城山道のひとつ、黒門山道があります。井戸曲輪を経由し、西の丸の東へ至るルートです。

坂を上ると、正面に井戸曲輪の高石垣が見えてきます。

井戸曲輪の石垣は20m近くあり、城内で最も高いようです。奥に見えるのは、本丸石垣です。

黒門山道にも、しっかりと排水溝が設けられています。道の傾斜を考慮し、途中で道を横切っています。

井戸曲輪の入口に、門跡があります。

両脇に石垣が積まれ、礎石らしき石が残ります。

門跡の石垣も、その北側の石垣も、よく整っているように見えます。周囲の石垣より後に積まれたのか、あるいは修理・積み直しがされているのでしょうか。

曲輪南東の雁木や塩櫓台は見えますが、井戸はここからだとよく見えません……。

井戸曲輪の南、本丸石垣上には多聞櫓と付櫓がそびえ、黒門山道からやってくる敵を迎撃しまくることができます。

西の丸の東にある、水手御門虎口です。高麗門が建っていたようですが、発掘調査で礎石が見つかり、築城当時は櫓門だった可能性があるようです。

水手御門虎口からは、付櫓が高石垣上に築かれていることが分かります。

 

再び天守を拝んだところで、太鼓門から帰路に就きます。

本丸より、太鼓門の外側を見ます。こちら側にも、井桁の屋根瓦。

太鼓門外側のこのあたり、よく見るとめちゃめちゃ地山の岩盤が露出しているじゃないですか! しかも地層が褶曲しているようにも見え……こ、これは、大変に良いものです。

どうでしょう、このさりげない岩盤と石垣のコラボレーション。四度目の訪問にしてようやく気付けたとは……不覚です。

太鼓丸・鐘の丸・大堀切と歩き、帰りは表門山道を通ります。これで大手山道・山崎山道・黒門山道・表門山道と四つの登場山道すべてを歩きました。

表門山道でも、途中から道を横切る排水溝が見られます。シートを被せてある箇所は、土砂の崩落などがあったのでしょうか。

表門山道を振り返ります。道の脇も、石垣でしっかり固めています。

確かに、四つの山道いずれも、石段は上り下りがしづらく感じました。

内堀に開く五つの門のひとつ、表門跡です。古写真などによると、櫓門と高麗門から成る枡形虎口で、高麗門のすぐ東(写真中央奥の石垣上)には櫓が建っていたようです。

表門跡のすぐ南には登り石垣の下端部が見え、雁木を上ると鐘の丸下段の腰曲輪を通って大手櫓門の背後まで行けると思われますが、立入禁止です。

復元された表門橋の手前より、表門跡枡形虎口を琵琶湖八景の碑とともに見ます。高麗門跡すぐ左の櫓台や、背後によく見える登り石垣との位置関係が分かります。全国的にも現存例の非常に少ない登り石垣がここまで良好な状態でいくつも見られるのは、実に素晴らしいことです。

二の丸に現存する、佐和口多聞櫓です。南端部は二重櫓となっています。以前は内部を公開していたようですが、現在は残念ながら中に入ることは出来ません。

佐和口多聞櫓の西側に隣接するのは、貴重な現存馬屋です。こちらは近年保存修理を終え、内部を観覧できます。

馬屋近くの二の丸休憩所脇に、天守がちょこんと乗ったポストがあります。なかなかにリアル。

佐和口は枡形虎口で、かつては外門に冠御門と、内門に三階御門という櫓部分が二階建ての櫓門に囲われたとっても厳重な虎口だったようですが、現在は冠御門と三階御門の両方が失われ、虎口には車道が通されています。虎口北側の多聞櫓は外観復元されましたが、三階御門跡だけぽっかりと空いたままで、かろうじて門礎石が残っています。

外観復元された佐和口北側の多聞櫓は開国記念館と名付けられ、展示施設として公開されています。左に見える門は、家老・木俣屋敷跡です。

佐和口の冠御門跡付近より、外観復元された開国記念館を見ます。当時は手前の二重櫓に接続する巨大な三階御門がこの左側にあったんですよね……。

開国記念館のおかげで、かつての佐和口の威容をより感じられるようになっていると思われます。背後に小さく、天守が見えますね。

佐和口を出てまっすぐ歩くと、外堀跡があります。このあたりは、中堀と外堀の距離が最も接近していたようです。

 

締めは、天守です。

冬の木の間からのぞく姿も、風情があります。

最上階の破風にも、窓(?)が見えますね。

 

四度目の訪問では、これまでに未訪の場所を含めじっくり見て回り、新たな魅力にも気付けました。排水溝に着目すると、城内の至る所に設けられ、計画的に張り巡らされていることが分かったのも非常に興味深く、城内施設や石垣を守るために排水の管理を徹底していたのだろうなあと感心しきりです。

家紋と旗印があしらわれた御城印は、珍しい赤地の紙です。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

73.岡豊城

岡豊城に行ってきました。

続日本100名城(No.180)に選ばれた、高知県南国市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

最寄りのバス停から車道を歩くこともできますが、途中からショートカットの歩道があります。四国のみち。

城跡のある岡豊山に建つ、歴史民俗資料館です。この場所も、曲輪のひとつだったのでしょうか。

詰には現在、櫓が建てられているようです。

続100名城スタンプは、ここ資料館のほか、櫓でも押せるようです。

 

城跡の主郭部へ向かいます。

資料館の南側にある階段を上ると、案内板があります。

道の脇に見える石積は、当時のものでしょうか。

さらに階段を上ります。

詰の北東にある、二ノ段です。反射して、説明板上側に掲載されている写真が見づらいですね……。東屋の向こうに、曲輪を囲う土塁が確認できます。

東の眺望です。平地の真ん中、こんもりした森が国分寺跡でしょうか。

こちらの説明板も、反射で掲載写真がほとんど見えません。

二ノ段と詰の間にある堀切です。これはいいV字。

堀切の中央に、岩盤を掘り込んだ井戸があります。

これだけ深く掘って、周囲を石積で整えて、かなり手をかけています。詰の近くということもあり、重要な井戸だったのかもしれません。

堀切を越えると、詰が見えてきますが、その手前に曲輪があります。

二ノ段から詰への出入口を守る(と考えられている)、詰下段です。遺構が復元されており、曲輪内にはみっちり礎石建物があったようです。

 

城内最高部、本丸相当の曲輪と思われる、詰へ向かいます。

詰には現在、天守のような高欄付きの模擬二重櫓が建っています。どうやら期間限定らしく、もうすぐ撤去されるとのこと。櫓があるうちに来られてラッキーでした。

櫓が建っている場所は、礎石建物跡です。二層以上の建物だったと推測されているようで、もしかして本当に二重櫓のような建物があったのかも……と考えると、ロマンが広がります。

礎石建物跡の傍らに立つ、城跡碑です。

城跡碑と櫓のツーショット。

櫓内部へ入ります。模擬天守などと呼ばず、あくまで「櫓」と言い切るところに、こだわりを感じます。

続100名城スタンプは、櫓内で押した……ように思います。

展示されている模型、シンプルながら縄張りの構造がよく分かります。資料館がある場所も「曲輪」と表示されていますね。

階段を上り、櫓の最上階へ行きます。

櫓の高欄越しに、城下を眺めます。かつて長宗我部元親公も、同じ景色を見たのでしょうか。曲輪の下方に立つ碑は、後ほど見に行きます。

地鎮の遺構も見つかっているんですね。

こちらは、メイン建物に附属していた建物跡でしょうか。

航空写真を見ると、すぐ南を国分川が流れ天然の堀となっているのが分かります。詰からは瓦も出ているんですね。しかも年号入り!

櫓の背後、詰の南側から、三ノ段へ下りる道があります。矢印石の背後は、詰の外周土塁でしょうか。

 

三ノ段へ向かいます。

三ノ段南側より、櫓を見ます。うーん、木が……。

三ノ段は、帯曲輪状に詰の南から西を囲っています。三ノ段外周を囲う土塁はずいぶん整っていますが、復元でしょうか。

見上げれば、櫓。詰とは、かなりの高低差です。

西へ歩くと、石積が見えてきます。

土塁の基部に、石積が見えます。

詰への階段です。右奥にチラリと、櫓が見えます。

復元された礎石建物跡と石積・土塁です。またもや曲輪みっちりの建物。完全に道を塞いでいます。

土塁内側の石積は、小ぶりな石を使って築かれています。

 

四ノ段へ向かいます。

三ノ段北からぐるっと回り込んだ所に、四ノ段への虎口があります。

四ノ段へ通じる虎口です。両脇が高い急斜面になった、狭い出入口です。

一部、石積も見えます。これはもう、石垣と呼んでも良いような。

四ノ段より、虎口を見ます。向こう側はまるで見通せず、この狭い道を抜け、180度ターンしないと、三ノ段には行けません。枡形虎口の原型、いや、その強力版とも言えるかもしれません。

案内板には、虎口の説明があります。伝厩跡曲輪は、今回未訪です。

四ノ段の南には、立派な城址碑があります。先ほど櫓から見えたのは、この碑だったんですね。

四ノ段下の展望広場より、城址碑と櫓をセットで。

強力枡形虎口の下部にある、横堀です。往時より浅くなっているようですが、しっかり堀跡が確認できます。

 

資料館まで戻ります。

資料館の入口前には、四国地図のほぼ中央、おそらく岡豊城のあたりに立つ、長宗我部元親公像があります。

お城の詰を背に、槍を高々と掲げる勇ましい姿です。在りし日の元親公もこのような出で立ちで、ここ岡豊城で、四国統一を夢見たのでしょうか。

 

遺構の発掘が進み、復元整備が良く整う長宗我部氏の居城・岡豊城。道を全部塞いだ建物跡がいくつもあるなど、当時の運用への興味は尽きません。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで8城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

20-2.高知城

高知城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.84)に選ばれた、高知県高知市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

高知駅前に立つ、幕末土佐の有名人三人の像です。

城下に再現された、はりまや橋です。

堀の向こうに大手門と、天守が見えてきました。

城下にも見所はたくさんあるようで、機会があれば城下町も散策したいですね。

大手は枡形虎口となっていますが外門はなく、内門の現存櫓門(追手門)が右手(北)に開いています。枡形正面(西)石垣には巨石が多用され、工事の際に記されたと考えられているカタカナ「ウ」「エ」「ケ」「シ」の刻印が見られます。(この写真でも、おもいっきり拡大したら「エ」「ケ」「シ」は見えました……すごい!)

追手門(大手門)と天守がそろって現存しているお城自体がとても貴重なのに、その両方がこうして一緒に撮影できるの、ポイント高いです。

下見板張りの追手門、めちゃめちゃカッコよくて大好きです。

追手門の脇戸です。飾り金具もカッコいい! 緑青が出ており、金具は銅製と思われます。

追手門を越え杉ノ段への石段途中で見える、石垣から突き出た石樋です。雨の多い高知ならではの工夫で、この石樋が城内で一番大きいようです。

それはそうと、写真右の石垣、なんだかこんもりと丸いですね。鳥取城の巻石垣みたい。

このそそり立つ三ノ丸野面積み石垣の威容! 左右に石樋が見えます。

こちら鉄門跡は打って変わって、切り揃えられた石をぴっちりと積んでいます。説明には打込ハギとありましたが、ほぼ切込ハギな見た目です。

二ノ丸への石段から振り返ると天守。こちらから(西面)だと、なんだかスマートに見えます。

本丸御殿越しに見る天守は、どっしり座っているように見えます。

100名城スタンプは、御殿の入口受付で押しました。

屋根瓦には山内氏の家紋、三葉柏が見えます。

御殿の庭にある本丸南東側の塀に設けられた、物見窓です。

石落とし、石樋、石落とし。

三ノ丸から、天守を見ます。なんかもうずっと逆光。

締めは、山内一豊公像です。勇ましい!

 

二度目の高知城は、写真を撮るよりこの目でしっかり見ることを第一にしたので写真がほとんどありません。前回見逃したポイントはいくつか撮影できたのですが、こうしてブログ記事にまとめると寂しい内容になってしまいますね……。次は城下の散策込みで、一日かけてじっくりと訪問したいものです。

御城印には大きく、三葉柏があしらわれています。南海の名城。

日本100名城スタンプラリー、こちらで38城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。