お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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  • 2024/6/9「11-2.竹田城」(2019/5/12訪問)の記事をアップ

82.岡城

岡城に行ってきました。

日本100名城(No.95)に選ばれた、大分県竹田市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

楽曲「荒城の月」のモチーフになったという岡城。最寄り駅・豊後竹田駅名標に描かれているのは月と、三の丸石垣でしょうか。

駅に着くなり仰天。駅の北側にものすごい断崖絶壁と、滝!

駅のホームには「落門の滝」と広瀬淡窓氏の詠んだ漢詩の説明が。滝の落差は実に六十メートル! この滝より南東に、城下町が広がっていたようです。

御殿のような駅舎が素敵です。後ろに滝もしっかり見えています。

 

お城へ向かいます。

登城口手前の駐車場に料金所があり、ここで入城料を支払います。100名城スタンプは、こちらの料金所で押しました。

城下町散歩の案内です。岡城は断崖上に築かれ付近に十分な敷地が無かったようで、お城から離れた西側に城下町があります。

黒色主体の案内図には、説明、絵図と、縄張図があります。公式サイトによると、城域は約百万平方メートル、東京ドーム二十二個分!……と言われても全然ピンときませんが、とにかく広大なようです。

宝暦年間(1751~1764)に描かれたという絵図には、本丸三重櫓など主郭建物群、西の丸の御殿、川近くの武家屋敷など、数多くの建物が見えます。

縄張り把握のため、あまりに巨大な図を分割して撮影します。

つい先日放送されたNHKの番組で「日本最強の城」に選ばれた岡城。タイムリーな訪問であり、高取城に続いての「最強の城」です。

入城料を支払うと、登城手形と、なんと巻物状のパンフレットをもらいました! これは嬉しい入城特典です。手形の家紋は明治まで岡藩を治めた城主・中川氏の「中川柏」です。

駐車場の西端に建つのは城阯碑と……右の碑には「あゝ義経公」なる詩が。岡城は文治元年(1185)に緒方惟栄源頼朝と仲違いをしていた弟・源義経を迎えるため築城したと伝わるそうです。

この広い駐車場は「総役所」跡で、藩の行政機関・裁判所としての施設が建っていたそうです。

駐車場に着いた時からずっと見えてる石垣は中央が西の丸の南西隅、左端が角櫓台です。西の丸石垣基部に築かれた波打つようにカーブする石垣はまるでグスクのよう。右端に見える巨岩も大迫力です。

 

総役所跡を出て、大手門を目指します。

駐車場の東から延びる道を歩くのですが、右手に「かまぼこ石」、左手奥には大きな土塁と石垣。早くも見所がたくさんです。

総役所跡の東を区切る土塁と、土塁の道に面した部分に築かれた石垣。大手門跡の立札はここが大手門跡かと勘違いしそうですが、大手門跡はまだ先です。しかしながら、ここには総役所と大手道を仕切る門が建っていたのかもしれません。

石垣の中央には、巨大な鏡石が据えられています。積み方は、打込接ぎと切込接ぎのハイブリッドのような……上部に切込接ぎの手法が見られるのは、後に修復された痕跡でしょうか。

道の右(南)側に連なる低い石垣の上端には、アーチを描くかまぼこ状の石。道とともにカーブする姿は、大手道を美しく飾ります。

山肌に露出する岩盤に目を奪われます。岡城が築かれた天神山は、阿蘇山火砕流堆積物から成る溶結凝灰岩で出来ており、岡城の石垣にもこの溶結凝灰岩が用いられているそうです。

おみやげ屋等が建ち並ぶ登城道の右手、大手門に一番近い店舗の中央には「鉄砲方詰所跡」の碑が。

鉄砲方詰所跡付近から東を見ると、道の脇にはかまぼこ石、奥の大手門跡へ通じる坂の脇にもかまぼこ石。坂の上に突き出た大手門南石垣だけが直線的で、その他は石垣も、道も、曲線だらけ。日本のお城っぽくない、独特の雰囲気を感じます。

城跡は、国指定史跡となっています。

石垣の台座に載った立派な城阯碑は、石垣やかまぼこ石と一緒に写真に収めることができます。

大手門跡へ通じるのは左の坂道。かまぼこ石に飾られた低い石垣が、道の脇を固めます。

坂の入口にも碑が。こちらは城「跡」碑です。

城跡碑の横から振り返ります。左奥の店の場所が、鉄砲方詰所跡です。

坂を上ると、道の左手に高石垣が見えてきます。

右のかまぼこ石はひとつながりではなく、途中で内側へ寄っています。

坂を折り返すと、高石垣の上端と側面にも、かまぼこ石が。

側面と上端のかまぼこ石にはそれぞれ穴が開いています。上端の穴は塀の跡かもしれないと想像できますが、側面にある穴には一体、何が嵌められていたのでしょうか。

石段の右側には観光用に、段差の小さい階段が設けられています。

岩盤に接続するかまぼこ石、その上には石垣の出隅。この上は西の丸で、横矢を掛けることで大手門に迫る敵を迎撃できる構造です。

振り返ると、かなりの高低差。かまぼこ石の曲線が、日本の城らしからぬ景観を生んでいます。

再び坂の折り返しですが……ここのかまぼこ石は隅部が失われているように見えます。

二つ目の折り返しの先に、大手門跡が見えてきました。

大手門手前左手には、切込接ぎの高石垣。これを越えるのは厳しく、敵は大手門へ進むしかありません。

かまぼこ石に縁取られた曲線的な道の先にはようやく日本の城らしい直線的な石垣……と思ったら、上端部に三つの凹み。まるで中世ヨーロッパの古城へ迷い込んでしまったかのような光景が、眼前に広がります。

大手門南石垣の中央には鏡石。この位置は目を引きますね。

南石垣の手前にある方形区画は何の跡でしょうか。番所にしては小さすぎるような。

坂を振り返ります。方形区画へ続く坂の階段は、当時のものでしょうか。

大手門は、普通の櫓門だったようです。

門が失われた現在では、特殊な石垣形状ゆえヨーロッパ風に見えてしまう不思議。

三つの凹みは、横木を通すために設けられたとか。左の礎石付近、石垣基部にも切り欠きがあり、ここにも門の部材が嵌まっていたと思われます。

南石垣にも基部の同じ位置に切り欠きがありますが、上部の凹みはありません。北側では石垣に横木を載せ、南側では柱などで横木を支えていたのでしょうか。

しっかりと残る門礎石。中央の礎石はほぞ穴も形状も方形に美しく加工されています。他の礎石はほぞ穴のあるもの・無いものがあります。

中央礎石の右に門扉が、礎石間の狭い左には脇戸があったようです。

珍しいのが、門扉跡から礎石までカーブを描く二つの石敷き溝。おそらく大手門の門扉底面には車輪が付いており、巨大な門扉をスムーズに開閉できるよう考慮されていたのではないでしょうか。その車輪の通り道が二つの石敷きレールであり、「車敷」とはこのレールを指すと思われます。

大手門を越えると、三方に階段が設けられています。守り手は一箇所から入ってくる敵を三方から迎撃でき、攻め手は門を越えた所でどちらを向いても階段があり進む方向に迷う……などと想像します。

門北石垣の背後には、崩壊しかかっていますが、大手門の二階櫓部分へ入るためと思われる石段が設けられていますが、この石段がまた珍しく、向こう側にも石段があり、両側から上れるようになっています。石段の脇から最下段の下を通り左へ抜けるような排水溝(暗渠)があるようにも見えます。

城内側より、大手門跡を見ます。奥には、西の丸の東門跡が見えます。

 

大手門を越えると、城内です。

大手門跡のすぐ東にも、城外へ通じる門跡があります。年季が入った石垣の前には「古大手門跡」の標柱。

……いやいや、いくらなんでも、人ひとりがやっと通れるような規模の門が大手門だった時期などあるのでしょうか。大手に対する「サブ大手」ならまだしも。もともと裏口・通用口として建てられたとしか思えず、古大手門跡の標柱には、疑念が募ります。

古大手門跡の外には現在道が無く……いや、よく見ればあるのかも?

石垣は古そうですが隅部はしっかりと算木積みで、門礎石も残っています。

古大手門跡より城内を見ます。右手石垣基部には排水溝があり、門付近では暗渠となって城外へ通じるようです。

古大手門跡東石垣には坂が設けられ、石垣上へ行けます。坂の手前には門礎石らしき加工石。ここにも門があったのでしょうか。

石垣上より、古大手門跡を見ます。大手門跡に比べ、狭さが際立ちます。

古大手門跡東石垣から、北へ石垣が延びています。

北へ延びる石垣の北にある鳥瞰図イラストです。中川氏による大改築直後の、総石垣による近世城郭に生まれ変わった岡城の姿が描かれており、壮観です。

鳥瞰図の西にある縄張図ですが……葉の影に邪魔され、見づらくなっています。

 

西の丸へ向かいます。

西の丸の東に設けられた巨大なスロープ。東門跡です。坂手前の標柱は「右 近戸門跡」という案内です。

三代藩主・久清公により普請された西の丸御殿。当初は隠居御殿として建てられたものが、後に政務の中心的な施設へと役割が変わっていったようです。

巨大スロープの中央は階段ですが、両脇には石垣裏込に用いるような栗石が散乱しています。当時はどのような状態だったのでしょうか。

坂の上に、東門跡の標柱があります。西の丸御殿平面図では階段の先、中央付近に門があり、標柱付近から右(北)へ建物が連なっていたようです。

東門跡の南からは大手門・古大手門跡がよく見えますが、当時は塀などの建物があり、ここまで見通せなかったかもしれません。

南辺石垣の途中に、穴の開いた石がありますが……ここに門があったとは思えないので、何らかの建物礎石か、あるいは東門の礎石がこちらへ移動されたのでしょうか。奥の石垣上に、西の丸御殿があったようです。

石垣上への階段です。通用口のような狭い階段ですが、この上には御殿があるので、階段上には門があったのかもしれません。階段の右、石垣に開いた穴は排水口でしょうか。

石垣排水口の前に、方形の石組区画がふたつ。平面図にもここに何かが描かれていますが、用途は不明です。

東門跡の北にある、稲荷社跡です。左奥に見える幅広階段の先に、西の丸御殿の玄関があったようです。

建物が全て失われた西の丸御殿跡には、広大な草地が広がるのみです。

西の丸の南側に設けられた、新屋敷門跡です。標柱の位置からすると、正面奥の開口部にあった門ではなく、ここの左(南)にある一段低い区画との間にあった門を指すのかもしれません。

新屋敷門跡付近からは東門を通らずに、西の丸南石垣を左手に見ながら大手門まで行くことができます。西の丸石垣、後に普請しただけあって見事な切込接ぎです。

西の丸南西隅まで来ました。先ほど総役所跡から見えていた石垣はここと、奥の角櫓台です。

南にも、下段カーブ石垣の先に櫓台。物見櫓跡です。物見櫓跡の左、一段高い所にある櫓台状の石垣は西の丸南側の横矢掛け石垣で、先ほどの平面図には櫓は描かれていません。

横矢掛け石垣の右を通り、物見櫓跡まで来ました。西方向、城下が一望できます。

物見櫓跡より、角櫓台を見ます。

えーと……西の丸南側の横矢掛け石垣を南から見ている、と思われます。

今度は、角櫓跡へ行ってみます。角櫓台の奥に見えるのは、落門の滝のある断崖でしょうか。

西の丸北西にある坂を下ります。

井戸があります。

井戸から左へ歩き、西の丸西側石垣を左手に見ます。

角櫓跡に、到達しました。

総役所跡の駐車場が、よく見えます。

角櫓跡より、物見櫓跡を見ます。斜面をぐねぐねと横切る石垣。物見櫓台は、巨岩の上に築かれているんですね。

西の丸西側石垣の隅部が、美しい反りを見せてくれます。

 

西の丸の北へ向かいます。

先ほどの井戸から今度は右へ歩くと、右手石垣付近にまた、井戸。

こちらは周囲に石積みがあり、階段が設けられています。

井戸を過ぎると道は下り坂となり、西の丸西側石垣は東へ折れ……折れずに、見事なカーブを描いています。下段の犬走り的な石垣もあわせてカーブ。ここは西の丸北西隅にあたり、上には秋葉社があったようなのですが……鬼門欠けというわけでもないし、何か丸める理由があったのでしょうか。それにしても、見事に二重でカーブしています。

東へカーブした石垣は、犬走り的な低い石垣と一緒に、ダブルでまっすぐ東へ延びています。左の広大な曲輪は、家老屋敷跡です。

ここは西の丸周辺に配置された三つの家老屋敷のひとつ、西の丸のすぐ北にある中川民部屋敷跡です。

よく見ると、地面に瓦が散乱しています。屋敷の瓦ならば史跡・文化財の一部です。触らず、見るだけにとどめます。

中川民部屋敷跡には、礎石が配置され建物の平面表示がされています。排水溝は、当時のものでしょうか。

北西にある屋敷の門跡には方形に加工された礎石。門北側の石垣は非常に整った切込接ぎで、礎石付近には門の部材を嵌めるためと思われる穴が見えます。門跡から西へ延び北へ折れる石畳は、当時のものでしょうか。

門の外には階段があり、階段の左では屋敷内からの排水溝と左からの排水溝が合流し、右(西)へ続いているように見えます。排水溝には、石の蓋がされています。

排水溝の先にあるのが、城内へ通じる三つの門のひとつ、近戸門跡です。

近戸門跡にも大手門と同じく、礎石と車敷が残っています。車敷の位置からすると、近戸門には脇戸が無かったのでしょうか。

近戸門の石垣には、両脇とも三つの凹みが見えます。門北側石垣の右奥に見える高石垣の上が普請方跡で、その手前には普請方跡へ通じる石垣の坂道も見えます。

礎石上に置かれた二つの石……ではなく、どうやら半分に折れてしまっている模様。おそらくこれが説明にあった文字の刻まれた石柱で、左の石に右を載せると「~内 たいまつともす~ くわえきせる~」あたりはどうにか判読できます。全文は「是より内 たいまつともす事 くわえきせる 堅停止」だそうです。

近戸門跡の外側では、普請方跡の石垣が大きく北へカーブしており、右上方には一部破損していますが、石樋が見えます。左では上端がさらに高く積まれ、櫓台のようになっています。

城外より、近戸門跡を見ます。うーん、このアングルも中世ヨーロッパ感が出ていますね。

中川民部屋敷跡の北側石垣、中央やや右に隅部があり、そこからさらに左へ継ぎ足したように見えますが……縄張りの変更があったのでしょうか。

普請方跡南石垣の南東隅に立つ「普請方跡」の標柱と、右に階段。先ほどの近戸門北側石垣の東に設けられた坂は普請方への道というよりは、近戸門の二階櫓部分へ入るためのものかもしれません。

来た道を振り返ります。西へまっすぐ近戸門への道が延び、左手の中川民部屋敷跡北側石垣は坂を下るにつれ高さを増し、ここではかなりの高石垣です。隅部は鈍角で、稜線には少しズレが生じていますが、経年劣化でしょうか。

右手のエリアには普請方跡と、さらに北には三つの家老屋敷のひとつ、中川覚左衛門屋敷跡があるようですが、普請方跡も、中川覚左衛門屋敷跡も、未訪です。家老屋敷跡の床面復元や埋門の石垣立体交差など興味深い見所があると後に知り……後悔です。

南東へ鈍角に折れる中川民部屋敷跡の石垣をたどると、階段があります。ここが説明にあった藩主専用の御成口と思われますが……藩主用にしては狭いですね。藩主がお忍びで家老に会うための裏口、だったりするのでしょうか。

階段途中の踊り場に礎石。ここに門があり、右の石垣上には塀があったのでしょうか。

門跡を振り返ります。門手前の右手(階段下から見ると左手)にも階段らしき構造が見えますが、これは藩主の付き人などが同じ門を通らずに屋敷へ入るためのルートかもしれないな……などと妄想します。

さらに上って振り返ると、右手にぐねぐねとカーブする石垣が。

北東を見ると、同じ城内のはずなのに、遥か彼方に三の丸・本丸の石垣が見えます。なんて広大なお城!

階段を上り、再び中川民部屋敷跡に入ります。

屋敷跡南東の石垣を見ている……と思われます。上下二箇所に穴(排水口?)があり、石垣手前には排水溝。

屋敷跡の南東にある、土蔵跡です。

中川民部屋敷跡には土蔵跡から石垣伝いに北東へ歩いた所、屋敷地の東側にも出入口があります。正門、御成口ときて、こちらは通用口でしょうか。門礎石が残っています。

門の外側では、屋敷地からの排水溝と左側からの排水溝が合流し、暗渠のジャンクションみたいになっています。うーん複雑。

門の左(東)には、西の丸北にある一段低い曲輪の石垣が折れを設けながら東へ続いています。こんもり草が生えた低い石垣は、補強用の「はばき石垣」でしょうか。

 

西の丸の東へ向かいます。

西の丸北にある一段低い曲輪の北東にはさらに一段低い曲輪(建物の右、写真右端の石垣)があり、その北東にあるのが賄方跡です。名前の通り、ここで来客の賄いを行っていたようです。蔵のように見える建物は、トイレです。城跡の景観に調和する蔵風トイレ、良いですね。

高石垣の上が三つの家老屋敷のひとつ・中川但見屋敷跡で、その右の少し低い石垣の上が武具方跡です。

武具方跡へは、蔵風トイレの右(南西)の道から上れます。

隣(東)の高くなっている家老屋敷跡には通路が設けられています。左には石樋、右には排水口かもしれない大きな穴。水路網・排水機構の充実に感心します。

武具方跡の東、家老屋敷・中川但見屋敷跡の北西端付近です。標柱の右奥に見える石垣は、中川覚左衛門屋敷跡でしょうか。

中川但見屋敷跡には、北西側に出入口があります。

北西側出入口からぐるっと左へ回り込む階段を下りると、賄方跡へ行けます。奥に見える石垣は、城代屋敷跡の西端にあたります。

城代屋敷跡西端石垣、出隅からのえぐるような入隅が良いですね……実に良いラインです。手前には、石蓋付き排水溝が見えます。

右手石垣上が中川但見屋敷跡で、石垣基部には排水溝があります。直線通路を挟んで、崩れかかった低い石垣より左が城代屋敷跡です。

中川但見屋敷跡北東端の隅部です。

中川但見屋敷跡の南東側には中休所跡があり、道を北へ行くと桜馬場があったようです。写真は反対方向(南)を向いており、道を奥へ行くと大手門跡です。

中川但見屋敷跡の東側、正面出入口階段上には、門礎石が残っています。

中川但見屋敷跡では、中川秀成公が本丸完成までの間に仮屋敷として過ごしていたそうです。

中川但見屋敷跡の南はより高く石垣が積まれた朱印状倉跡で、階段が設けられています。

階段周辺は、非常に整った切込接ぎの石垣です。

標柱は「朱印倉跡」です。(パンフレットの表記は朱印状倉跡)

朱印状倉跡でひときわ奇妙なのが、南東部に設けられたこちらの石積み。石垣面から螺旋階段状にカーブした坂道のような石垣が飛び出しているのです。てっきり廃城後、城跡が公園化された際に一部石垣を崩して造った通路だろうと思っていたら、当時の遺構のように紹介されているサイトもあり、混乱しています。だってこれ……杜撰というか、雑すぎませんか? そこかしこに美の追求を感じる石垣が見られる中、中川氏がこんな通路を築くでしょうか? 石垣自体が崩壊しかかっていることを差し引いても、ちょっとこれが当時の遺構だとは信じられないというか、信じたくないというか……。

通路内は石段の体を成しておらず、ただ石で隙間を埋めただけのような乱雑さ。これはいただけません。

中川但見屋敷跡には南東隅にも出入口があり、こちらは通用口、もしくは藩主専用御成口でしょうか。右手石垣上が朱印状倉跡で、奥には例のいただけない石垣通路が見えます。

中川但見屋敷跡の北にある、城代屋敷跡です。このあたりが門跡でしょうか。

城代屋敷跡の南東隅付近には、井戸らしき石組穴があります。

城代屋敷跡の北が、籾倉跡です。

 

主郭部へ向かいます。

籾倉跡の東、主郭部手前で曲輪の幅はぐっと狭くなります。道の右には、石垣の天端石が見えています。

最もくびれた部分にはかつて、主郭へ行く手を阻む門がありました。西中仕切跡です。

そして西中仕切跡の手前から望む三の丸石垣は、絶好の撮影ポイントです。

この迫力、この優美さと力強さ。植物に覆われた姿は、まるで最初から其処に在ったかのような山との一体感を生んでいます。屏風のようにいくつも横矢が掛かった石垣は美しさのみならず、西中仕切の防御にも役立ったでしょう。

西中仕切では石垣の壁により道が曲げられ、敵は右折のち左折を強いられます。

西中仕切には貫木門という門が建っていたようで、礎石が残っています。

貫木門西石垣です。隅石には方形の、その他は多角形の石材を用いるのが、岡城の石垣に多く見られる特徴です。

貫木門西石垣の裏には雁木が設けられ、石垣へ上ることができます。

石垣上より、貫木門跡を見ます。

主郭方向には太鼓櫓跡などの三の丸石垣と、奥には本丸石垣も見えます。

貫木門東石垣の裏にも雁木。石垣上(雁木の奥あたり?)には、鐘櫓が建っていたようです。

 

貫木門跡を越えると、三の丸です。

三の丸入口両脇にそびえる隙間なく隙のない石垣。太鼓櫓跡です。

標柱には「跡」がありませんが……。ここからは太鼓櫓跡の見事な切込接ぎにその奥の鏡石、本丸の谷積みなど、様々な石垣の積み方を一度に見ることができます。

奥の階段は、幅の広い右が通用口、左が藩主専用の御成口だそうです。ここでも藩主専用の方が狭くなっていますね……。

太鼓櫓跡両脇の石垣を見ます。石垣手前には門礎石がいくつか残っています。石垣上端部が中央以外は低くなっているのは、大手門などと同様に横木を通した跡でしょうか。積み方は、隅が算木積み、中央は「車軸築石積み」と呼ばれる技法だそうです。

太鼓櫓跡を越えてすぐにある、巨大なふたつの鏡石。城主の権威をこれでもかと見せつけます。

左の階段(藩主専用御成口)を上ります。

先ほどとは逆に、三の丸石垣上より、西中仕切跡方向を見ます。石垣補強用なのか、コンクリートブロックのようなものが下方に見られます。

三の丸北側には、清水谷という深い谷があります。谷の向こうには中川覚左衛門屋敷跡、中川民部屋敷跡などの石垣が見えます。

ひとつ西の石垣上です。鐘櫓跡まで、幅の狭い石垣でつながっています。

振り返ると、右手に太鼓櫓北石垣。奥には、本丸への階段が見えます。

太鼓櫓への階段と、西側の石垣上への階段が融合したような、複雑な形状です。

中央付近に建つ、三の丸阯の碑。奥には本丸石垣が見えています。

三の丸御殿の建っていた場所にある武具庫跡には、土壁の一部が残っています。三の丸御殿は取り壊され、武具庫が建っていた、ということでしょうか。

 

二の丸を経由して、先に本丸へ向かいます。

三の丸より、本丸西石垣を見ます。隅は算木積み、中央は谷積みとなっています。右奥(南西隅)の高くなっている部分は、三重櫓台です。

三の丸から二の丸への出入口にある門跡には、礎石が残っています。

このあたりの本丸石垣は、車軸築石積み、になるのでしょうか。

門跡を越えてすぐ左手にある、二の丸の大井戸です。空井戸のため、抜け穴説・隠し財宝説など様々な伝説が残されているそうです。

門跡を越えて正面にある、本丸への階段です。途中に踊り場があり、その右手にある階段の上が本丸です。

踊り場の右手前にある、本丸北石垣の石樋です。石樋の下部には、排水を受ける枡が設けられています。この枡は暗渠につながっているのでしょうか。

階段を上った所にある、礎石が残る本丸門跡です。礎石配置からすると、左手に脇戸のある櫓門でしょうか。

本丸阯碑の奥、南西隅にある三重櫓台は、内側はL字型となっています。この三重櫓が天守相当の建物で、明治初期まで残り古写真も存在しますが、廃城令により惜しくも取り壊されたようです。

三重櫓台より、北西隅の角櫓跡を見ます。三重櫓と角櫓は多門で連結されていたようです。

三重櫓台の東にある、三の丸御門櫓跡を見下ろします。名称からすると、ここにも櫓門が建っていたと思われます。

本丸には現在、天満神社があります。もともとは城内東側にあった天神祠を移転したそうです。

屋根瓦には「中川柏」のほかに、「中川クルス」と呼ばれる十字架のようにも見える中川氏もうひとつの家紋が見えます。

神社のそばにある、土井晩翠氏直筆の「荒城の月」を刻んだ詩碑で、詩の一部がアレンジされているそうです。

本丸東端にある、天守台と見紛うほど巨大な金倉跡です。たいそう立派な金倉が建っていたのでしょうか。

金倉跡から西、三重櫓の方を見ます。本丸南石垣の下に、道が見えます。

直線的な本丸南石垣とは対照的に、金倉跡から二の丸にかけて延びる北東側の石垣は大きくカーブしており、奥の二の丸石垣でもカーブが続いています。

本丸にある、岡城全体の絵図が掲載された説明板です。

本丸北東のカーブ石垣の先で、二の丸休憩所からナナメに延びる部分が本丸に載り、出入口が設けられています。

中には階段があり、ここから二の丸へ下りることができます。

 

二の丸へ向かいます。

本丸と二の丸との連絡通路を兼ねた、珍しい構造の休憩所です。

本丸への階段は、踊り場を挟んで東にも階段があり、東西いずれの階段からも本丸へ行くことができます。階段右の石垣上部には石樋があり、その下には、枡と水路。

階段そばの水路は、当時のものでしょうか。

二の丸にある、瀧廉太郎の銅像です。瀧廉太郎氏は、子供の頃に遊び場だった岡城をモチーフに、荒城の月を作曲したそうです。

北端には数寄屋風の月見櫓、東端には風呂屋と、遊興の場としての側面が強い二の丸建物。岡城の「雅」を結集したような曲輪だったのかもしれません。

二階建ての風呂屋は、風呂のほか休息できる広間・書院などを備えた懸け造りの建物で、二階の階段から本丸へ通じていたそうです。

この個性的な休憩所は、風呂屋を意識して建てられたのかもしれませんね。当時の外観に近い懸け造りの建物ならばなお良かったのですが……安全面など色々難しいのかもしれません。実際の風呂屋は休憩所の左、二の丸東石垣ギリギリの所に建っていたと思われます。

二の丸の東(写真左)には、地獄谷と呼ばれる深い谷があります。古い絵図には、二の丸の下段東側に井戸のある小曲輪が描かれており、先ほどの二の丸の説明にも風呂屋付近から石垣に沿って下りる道が絵図にありましたが、よく見ると確かに、道が見えるような……。

二の丸北端、月見櫓跡付近からの、北側の眺望です。

月見櫓跡付近から西側では、大きくカーブする二の丸石垣と、それに続く三の丸石垣が見られます。すぐ手前と、よく見るとその奥にも、いくつも石樋が見えます。この排水力が、これだけの見事な高石垣を長年キープしてきた秘訣かもしれません。

三の丸から、二の丸門跡を見ます。

 

主郭部を出て、東へ歩きます。

三の丸東の御門櫓跡から、主郭部南側の道へ出ます。

東を見ます。左手にそびえる本丸石垣が壮観!手前が三重櫓台、奥が金倉跡です。

主郭部すぐ東側の最もくびれた部分にある、東中仕切跡です。背後に雁木のある石垣形状からして、西中仕切と同様に仕切門があったと思われます。石垣の前には、登城バスのりばがあります。

東中仕切跡にあった図は、綺麗に撮影できました。

東中仕切跡から、本丸東石垣を見ます。左の出隅に、隅部をすこーしだけ継ぎ足したような箇所が見られます。

東へ歩くと、枡形虎口のような出入口があります。パンフレット等には「三楽亭跡」とありますが、詳細は不明です。この西側に清水門跡があるようですが、見逃しました。

三楽亭跡の東には、廟所跡の入口があります。

御廟所には、歴代藩主の位牌が祀られていたそうです。また、廟所跡、三楽亭跡など東側の曲輪群は中川氏以前の城主・志賀氏の時代には岡城の中心部だったそうです。

廟所跡の入口東石垣、木の根で崩壊が進行しつつあります。

廟所跡の入口前には、謎の石組。

廟所跡から東の道は大きくカーブしており、道沿いに築かれた石垣と、その奥に下原門跡の石垣が見えます。

廟所跡からしばらく東へ歩いた所にも、石垣に開口部があります。この中にも何らかの施設があったのでしょうか。

さらに東へ歩くと、写真では分かりづらいですが、左の石垣奥、隅部の手前にも開口部があります。

正面の石垣には雁木。道は左へ折れます。

左折した先が城内最東端、かつて大手だった城内へ通じる三つの門のひとつ、下原門跡です。下り坂のため、石垣が高さを増しています。説明板の左には、門礎石。

反対側にも、整った礎石が三つ。

坂の下から、下原門跡を見上げます。すごい迫力!門の外側にも、道に沿って低い石垣が積まれています。

下原門南石垣にも、大手門と同様に、三つの凹み。

北側石垣上から、門跡を見下ろします。高い!

最東端まで到達したので、引き返します。

金倉跡の下から、本丸石垣を見上げます。美しい稜線、見事な反り!

今いる道の、さらに下段にある道が、少し見えています。下段の道の南側にはかつて、武家屋敷が並んでいたようです。

太鼓櫓跡南石垣の南面を撮影している……と思われます。美しい切込接ぎは、表面仕上げもされているのでしょうか。

朱印状倉跡のこの石垣だけは、やっぱりどうしても、いただけません。

大手道の途中、かまぼこ石と岩盤の接合部です。石材の加工はもちろん、岩盤も少し削り込んでぴったり接合しているようです。こだわり!

かまぼこ石の石垣手すりと謎の穴に、別れを告げます。

大手道の坂を下り、総役所跡までの登城道沿いにある「ペンション荒城の月」。併設された竹田系宝物殿、気になります。

 

帰りに少し、城下町を歩きます。

かつて城下とお城をつなぐ道だったという弥五兵衛坂です。絶壁の峠には、時鐘所があったそうです。

殿町武家屋敷通りでは歴史ある街並みが見られますが、左の塀などはかなり傷みが激しいですね……。

工事をしている箇所もあります。維持していくのが、大変ですね。

古田家仲間長屋門は昭和期に解体修理されたそうで、二階建ての巨大な長屋門が美しくそびえています。

長屋門の向かいには、竹田創生館があります。提灯には、中川クルス!

竹田創生館は、武家屋敷のあった場所に建てた武家屋敷風の施設みたいです。

西へ歩くと、歴史資料館の近くに立派な石垣と坂道があります。この坂を上ると武家屋敷通りがあり、城下唯一の一般公開している武家屋敷があるそうですが……未訪です。

坂道から道路を挟んで西にある西の宮社。ここに、藩校「由学館」の門が移築されているようです。

なんと、藩校の門が手水舎の覆屋になっています。規模は当時のままなのでしょうか。

屋根瓦の紋は、中川氏の家紋とは異なるようですが……いずれにしても、貴重な藩関係の現存建造物です。どのような形でも、よくぞ残ってくれました。

 

締めは、三の丸石垣です。

断崖の超巨大城郭・岡城。随所にこだわりの見られる石垣の数々は「石垣の美術館」と呼んでも良いように思います。旅程の都合で二時間しか取れず、超駆け足での訪問では絶景を楽しむ余裕もなく、見所もいくつかスルーする始末……これは再訪必須、です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで47城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。