お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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3-4.彦根城

彦根城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.50)に選ばれた、滋賀県彦根市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

中堀の南東より、二の丸を見ます。奥に、佐和口多聞櫓、天秤櫓、天守が見え、遠景ながらお城の建物を一度に楽しめるビュースポットです。左の石垣隅部には、櫓が建っていたのでしょうか。

横矢が掛けられている、二の丸南石垣です。石垣上は、武家屋敷地だったようです。

中堀の外、中級武士屋敷地に残る、旧鈴木屋敷長屋門です。

 

大手門跡へ向かいます。

内側より、大手門跡を見ます。枡形虎口となっており、櫓門があったと思われる場所には礎石などの石積みが残ります。

大手櫓門の背後(東)には、雁木が設けられています。雁木を上ると、鐘の丸下段の腰曲輪を通って表門の背後まで行けると思われますが、柵があり入れません。柵の向こうに見えるのは、登り石垣の下端部です。

雁木の手前にある方形の石積みは、建物跡でしょうか。

大手櫓門の西側には、内堀に面した石垣へ上るためのとても幅広い雁木があります。大人数が一度に駆け上がれそうです。

石垣上には多聞櫓が建っていたようで、大手門橋を渡る敵に側面攻撃を浴びせられます。写真奥には、木に隠れて登り石垣がのぞいています。

料金所を越えると、両脇を石垣に囲われた大手山道があり、鐘の丸北の大堀切へ通じています。右側の低い石垣上には、土塀が建っていたのでしょうか。

大手山道の左には、石敷きの排水溝があります。

大手山道を上った所にある、門跡西側の石垣です。

石垣左側には排水溝があり、道を横切っています。この溝は、先ほどの大手山道左側の排水溝につながっています。

大手山道と大堀切の間にある、門跡です。礎石が残っています。

門跡西側石垣の左には、石垣へ上る雁木があります。雁木は合坂ではなく、門跡石垣の側のみ設けられているので、門は櫓門で、雁木の先には櫓の入口があったのでしょうか。

 

門跡を越えると、大堀切です。

大手山道と表門山道はここ、鐘の丸(右)と太鼓丸(左)の間に穿たれた大堀切で合流します。本丸へ行くには一旦鐘の丸へ上り、鐘の丸と太鼓丸をつなぐ廊下橋を渡るしかなく、橋を落とされてしまえば、高石垣をよじ登るしか手段はありません。

橋は昭和期に架け替えられたもので、当時は屋根付きの廊下橋だったようです。

大堀切から鐘の丸へと向かう敵は、太鼓丸に建つ天秤櫓からの攻撃を浴び続けることになります。

天秤櫓西側の石垣基部には、岩盤が露出しているような箇所があります。岩盤と石垣のコラボレーションは、実に良いものです。

天秤櫓の西側石垣は江戸後期に改修を受けたようで、落とし積みとなっています。

天秤櫓の東側石垣は、築城時の打込みハギがそのまま残っており、左右で石垣の様子が異なるのも見所です。

表門山道から、大堀切を見ます。石段の上に礎石が見え、このあたりに門があったようです。

鐘の丸虎口です。奥が大堀切からの石段、手前右に進むと廊下橋で、太鼓丸へ行くにはここで180度ターンを強いられます。排水溝のすぐ奥には礎石らしき石が並び、このあたりに門があったようです。

鐘の丸の北に架かる廊下橋の向こうには、中央に櫓門、左右に延びる多聞櫓の両端が二重櫓となる珍しい形状の現存櫓・天秤櫓が見えます。写真、両端の二重櫓まで入れるべきでしたね……。

廊下橋の上からは、大手山道と表門山道から駆け上がってくる敵がよく見えそうです。

天秤櫓の門部分です。左に、脇戸が見えます。

 

門を越えると、太鼓丸です。

門を抜けた所は枡形虎口状になっており、石垣の壁に阻まれ直進できません。

天秤櫓の屋根瓦には、彦根城主である井伊家の旗印「井桁」が見えます。井桁の右は……「上り藤」のようにも見えますが、井伊家の家紋とは違います。天秤櫓は、長浜城から移築されたという説もあるようで、移築前の瓦が流用されているのでしょうか。

枡形を越え、振り返ります。扇形に広がる石段と、道を斜めに横切る排水溝が見えます。

天秤櫓の中へ入ります。

櫓の説明が掲げられた階段は東側の隅櫓二階へ上るためのものと考えられますが、二階に入ることはできません。

柱や梁には、釿(ちょうな)仕上げの紋様が見えます。

窓から、佐和山城が見えます。

眼下には復元された表御殿と、馬屋や佐和口多聞櫓まで見えます。

南(城外)側の壁は、下半分が分厚く、防弾性が高められています。

西の端には、赤い井桁の旗印が。

太鼓丸の北東辺石垣です。奥の石垣が、本丸です。

石段の坂道が続き、本丸との高低差を感じます。

本丸石垣下南東隅から奥を見ると、埋門跡があります。左の石垣には雁木が設けられていますが、当時は埋門上を通ることが出来たのでしょうか。

天秤櫓を振り返ります。なんとも個性的で、カッコいい櫓です。

本丸南面石垣の下を通り、北へ曲がると、門が見えます。

本丸の表門である、太鼓門と、続櫓です。

 

太鼓門を越えると、本丸です。

調査により、他の城から移築されたことが判明している太鼓門。

特異なのはその構造。櫓部分の背面が開放され、高欄付きの廊下になっています。

以前の訪問では「ひこにゃん」も歩いていた太鼓門の廊下。続櫓には左側扉のほかに、廊下側にも扉が設けられています。

太鼓門の先は枡形虎口となっており、左折した先にも門があったようです。櫓門の先に小型の門がある枡形虎口というのも珍しいですね。

門跡の右側には排水溝があり、石段上側では暗渠となっています。

本丸から、太鼓門・続櫓を見ます。類例のない建物がいくつも現存しているのは、彦根城の大きな魅力のひとつですね。

屋根瓦には、井桁が見えます。太鼓門の廊下は、関係者とひこにゃん以外は立入禁止です。

太鼓門の北、地面には建物礎石らしき石列があります。本丸にはかつて御殿があり、この辺りには御広間・御台所・御局文庫などの建物があったようです。

それら建物跡の西にそびえるのが、国宝の現存天守です。こぢんまりしていますが破風などの装飾が多く優美で、金細工に縁取られた唐破風と三階の火頭窓が目を引きます。

こちらから見ると独立式のように見えますが、右(北)側に付櫓を伴う複合式の天守です。

天守に付随する建物です。中央奥、天守に附属するのが付櫓で、その付櫓に接続し右へ延びているのが多聞櫓、左手前が玄関です。おや、多聞櫓の漆喰が一部剥がれています。

斜めから見ると、天守の過積載にも思える装飾がよく分かります。金細工の唐破風は三階にもあり、二階にも火頭窓、破風マシマシ……格好良いモノ全部載せです。

三階には高欄まであります。屋根瓦には井伊氏の家紋「彦根橘」が見えます。

北から見ると、どっしりしています。

天守台にめり込むように建っているのが、玄関です。この中にある階段を上って天守一階に直接入ることができますが、扉は固く閉ざされ、出入りできません。

訪問時は、多聞櫓が観覧出入口となっていました。

 

多聞櫓より、天守内へ入ります。

多聞櫓は、城外側(北)の壁は窓から下が分厚く、狭間があります。

多聞櫓は途中に仕切があり、奥に見える階段の先が、石垣で高くなっている付櫓です。階段は観光用の後付け感がありますが、当時は梯子のような急な階段だったのでしょうか。

付櫓の天井を見上げると、ぐねんぐねんの梁に驚きます。湾曲した木材をうまく組み合わせ、櫓を支えています。

付櫓に展示されている火頭窓の窓枠です。かつて天守に使われていたものでしょうか。

右の階段を上ると、天守一階です。

階段上より、附櫓のぐねぐね梁を見ます。うーん、ダイナミック&ワイルド。

天守一階は、北・西・南の三方に廊下があります。

もともと四重五階だった天守が移築・改造され今の姿になったことが判明しており、大津城の天守を移築した可能性があるようです。

天守にも、湾曲した木材が用いられています。

一階廊下内側には、東西に二つの部屋があります。

東側の部屋を東へ出てすぐに、二階への階段。

二階は、外周全部が廊下になっています。

南西向きの窓からは、内堀・二の丸・中堀が見えます。

三階も、外周は廊下です。

火頭窓の内側には、戸があります。今はガラスがはめ込まれていますが、当時は遮るものがなく、外がよく見えたのでしょうか。

天守最上階からの眺望を楽しみます。

北東方向です。内堀の向こうに、槻御殿・玄宮園が見えます。

北西方向です。西の丸の向こうに、琵琶湖が見えます。

木の間から、西の丸三重櫓が顔を出しています。

南西方向は、二階から見た景色とほぼ同じです。

南東方向です。太鼓門・続櫓が見え、本丸礎石列の並びもよく分かります。

東方向です。着見櫓跡と幅広雁木の向こうには佐和山城が見えます。右手には、佐和口多聞櫓と中堀も見えています。

唐破風状に湾曲する木材。

国宝指定書!

最上階、このくらいのサイズ感です。

最上階破風の間には、鉄砲狭間があるそうです。

立入は禁止されているので、ちょっと覗いてみます。

かなり暗いですが……確かに狭間が見えます。

二階へ下りてきます。

窓から見える多聞櫓の屋根には一部、切り欠きがあります。

火頭窓の額縁越しに見る景色、良いものです。

こちら側の窓は破風があるため、片側が小さくなっています。破風内側に扉が見えますが、ここにも破風の間があるのでしょうか。

二階から階段を下りるとすぐ、玄関へ続く地下階段がありますが、閉鎖中です。

二階への階段及び地下への階段がある一階東側は、広い武者溜となっています。「MUSHYADAMARI」です。

武者溜にはたくさんの矢狭間・鉄砲狭間がありますが、どれも外からは見えない「隠し狭間」となっています。

天守と付櫓の間も、付櫓と多聞櫓の間も、扉には潜戸が設けられています。

多聞櫓からは井戸曲輪が非常によく見え、右手の雁木や、曲輪北東隅にある塩櫓台の様子もよく分かります。塩櫓台左に見える窪みは、井戸跡でしょうか。

 

多聞櫓から、天守を出ます。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。彦根城のチェックポイントは、多聞櫓すぐ東の天守事務所にありました。

この排水溝も、当時のものでしょうか。

天守二階、派手に漆喰が剥落していますね……。

天守台、算木積みの隅石に矢穴が目立ちます。

情報量の多い、天守南面を見上げます。

天守のすぐ西にある、本丸搦手の虎口です。ここでも排水溝が道を横切っています。

本丸搦手の門跡には、礎石が見えます。虎口は枡形状で、外から来る敵は右折を強いられます。こちらから迫る敵は、天守から直接迎え撃ったかもしれません。

 

門跡を出ると、西の丸です。

門跡を出た所から、本丸を見ます。本丸西面の石垣に、少し横矢が掛けられています。

西の丸南面石垣の南の方に建つ、平櫓風トイレです。石垣の隅部でも横矢部分でもないこの場所付近に、当時も櫓があったようです。屋根瓦には井桁が見え、外観も場所も、お城のトイレとしては非常に「強い」部類かと思われます。

西の丸の西端には、東と北に続櫓を伴う三重櫓が現存します。背後に広がる海のごとき湖面は、彦根城雄大な琵琶湖に臨む湖城であることをひしひしと感じられる光景です。

西の丸西虎口の手前に、建物礎石のような石列が見えます。このあたりには、御文庫が建っていたようです。

礎石らしき石が残る、西の丸西虎口です。当時は櫓門が建っていたのでしょうか。

石敷きの排水溝が、西の丸内から虎口を抜けてゆきます。

虎口を越えると、橋が見えます。お城の北西に位置する、もうひとつの大堀切です。

橋の向こうは、馬出しの機能を持つ、出曲輪です。

大堀切の両岸には高石垣。ここを登るのは困難でしょう。

橋の左側では、排水溝が大堀切へ通じています。

この深さ、この高石垣!

大堀切の西の丸石垣隅部からは登り石垣が東西に延び、斜面の横移動を阻みます。右が出曲輪、左が西の丸で、写真奥に、西の丸石垣隅部の根元から延びる登り石垣が見えています。

西の丸三重櫓と続櫓には狭間があり、出曲輪から西の丸へ迫る敵を容赦なく射撃できます。

橋を渡ると、出曲輪です。

出曲輪の石垣は、穴太衆が築いたと伝わるようです。

出曲輪の虎口は、西の丸に近い南西側に設けられています。虎口には、櫓門があったようです。

出曲輪より、大堀切を見ます。木橋は、明治以降に架けられたようです。

どことなく気品漂う三重櫓。小谷城天守を移築したという伝承もあるようですが、今ある建物は嘉永年間の大修理時に部材の約八割が取り替えられたようです。

西の丸西側登り石垣の手前には、竪堀が見えます。当時は登り石垣の上に塀が建っていたようなので、斜面の横移動はほぼ不可能だったことでしょう。

出曲輪の虎口外側では道が曲げられ、坂を駆け上って来る敵の勢いを削ぎます。出曲輪虎口の排水溝右側に礎石らしき石が見えますが、このあたりに櫓門があったのでしょうか。こちらの虎口周辺にも、排水溝がしっかり備わっています。

虎口へ通じる坂道の曲がり角に、低い石垣と雁木。これはまた珍しい構造です。この横が門だったということでもなさそうで、当時は石垣上に塀などが建ち、坂を上り道を曲がろうとする敵をここから狙い撃つ役割でしょうか。

道の外側に築かれた石垣上には、塀が並んでいたのでしょうか。

ここからの山崎山道は、しばらく石段の坂道がまっすぐ延びます。坂を下った先には観音台があり、城が築かれる以前に存在した彦根寺の観音堂があったとされています。

山崎山道は観音台の手前で北へ曲げられ、山の麓へと続きます。

石段の途中に、周りと比べ不自然に大きく、四角い石。転用石の類でしょうか。

山崎山道の上り口には、石垣が築かれています。

 

山崎曲輪へ向かいます。

山崎山道を下りて腰曲輪を北へ歩くと、内堀内で最北端に位置する山崎曲輪があります。曲輪へ上るための石段がふたつ見え、右手石垣上には二重櫓が建っていたようです。

西側石段の西には、山崎門跡があり、石垣が残っています。古写真などによると当時は櫓門が建っていたようですが、現在は冠木門があります。門の前に散在する石材は、崩壊した石垣の一部でしょうか。

山崎門跡の石垣上より、内堀を見ます。

山崎門の外には木橋が架かっていたようですが、現在は失われています。内堀の向こう、建物のある辺りには作事所が、その左(南西)には藩校・弘道館があったようです。

作事所跡の北東には、中堀に開く四つの門のひとつ、長橋口門跡があり、上部は失われているようですが、石垣が残存しています。こちらも今は失われていますが、長橋口の外には橋が架かっていたようです。

山崎曲輪の西面石垣です。写真奥の曲輪北西端にはかつて三重櫓があり、城内に天守以外の三階建物は西の丸三重櫓とここ、山崎曲輪の三重櫓のふたつだけだったようです。

二重櫓台の西側に、建物礎石のような石列があります。山崎曲輪には、木俣屋敷があったそうなので、屋敷建物跡の一部かもしれません。

二重櫓台は、山崎曲輪の南東隅に位置します。

二重櫓台の南側では、石垣に横矢あり。

来た道を戻り、山崎山道を通り過ぎ、腰曲輪を南へ歩きます。

山の斜面に、西の丸北東端から延びる登り石垣の下端部が見えます。下端部の基部付近に低く積まれ一部が崩れた石垣は、崩落防止用の「はばき石垣」でしょうか。

登り石垣の北には竪堀がよく残り、その先には西の丸に架かる木橋が見えます。この竪堀を登ったところで大堀切があり西の丸には行けず、登り石垣があるので西の丸側の斜面に取り付くこともできません。

さらに南へ歩くと、黒門跡があります。古写真によると、黒門は二階部分が小さい二重櫓が載るタイプの重厚な櫓門だったようで、現在は写真に見えるとおり門跡石垣と脇の雁木が残っています。写真右わずかに写る建物は番所風トイレで、当時もこのあたりに番所があったようです。

黒門跡のすぐ南には、腰曲輪を南北に分断する仕切門の跡と思われる低い石垣と、礎石らしき石が残ります。

仕切門跡の内側より、黒門跡と番所風トイレを見ます。仕切門跡の石垣内側(写真右手前)には、三段ほどの雁木があります。

 

黒門山道へ向かいます。

仕切門跡のすぐ南には、四つある登城山道のひとつ、黒門山道があります。井戸曲輪を経由し、西の丸の東へ至るルートです。

坂を上ると、正面に井戸曲輪の高石垣が見えてきます。

井戸曲輪の石垣は20m近くあり、城内で最も高いようです。奥に見えるのは、本丸石垣です。

黒門山道にも、しっかりと排水溝が設けられています。道の傾斜を考慮し、途中で道を横切っています。

井戸曲輪の入口に、門跡があります。

両脇に石垣が積まれ、礎石らしき石が残ります。

門跡の石垣も、その北側の石垣も、よく整っているように見えます。周囲の石垣より後に積まれたのか、あるいは修理・積み直しがされているのでしょうか。

曲輪南東の雁木や塩櫓台は見えますが、井戸はここからだとよく見えません……。

井戸曲輪の南、本丸石垣上には多聞櫓と付櫓がそびえ、黒門山道からやってくる敵を迎撃しまくることができます。

西の丸の東にある、水手御門虎口です。高麗門が建っていたようですが、発掘調査で礎石が見つかり、築城当時は櫓門だった可能性があるようです。

水手御門虎口からは、付櫓が高石垣上に築かれていることが分かります。

 

再び天守を拝んだところで、太鼓門から帰路に就きます。

本丸より、太鼓門の外側を見ます。こちら側にも、井桁の屋根瓦。

太鼓門外側のこのあたり、よく見るとめちゃめちゃ地山の岩盤が露出しているじゃないですか! しかも地層が褶曲しているようにも見え……こ、これは、大変に良いものです。

どうでしょう、このさりげない岩盤と石垣のコラボレーション。四度目の訪問にしてようやく気付けたとは……不覚です。

太鼓丸・鐘の丸・大堀切と歩き、帰りは表門山道を通ります。これで大手山道・山崎山道・黒門山道・表門山道と四つの登場山道すべてを歩きました。

表門山道でも、途中から道を横切る排水溝が見られます。シートを被せてある箇所は、土砂の崩落などがあったのでしょうか。

表門山道を振り返ります。道の脇も、石垣でしっかり固めています。

確かに、四つの山道いずれも、石段は上り下りがしづらく感じました。

内堀に開く五つの門のひとつ、表門跡です。古写真などによると、櫓門と高麗門から成る枡形虎口で、高麗門のすぐ東(写真中央奥の石垣上)には櫓が建っていたようです。

表門跡のすぐ南には登り石垣の下端部が見え、雁木を上ると鐘の丸下段の腰曲輪を通って大手櫓門の背後まで行けると思われますが、立入禁止です。

復元された表門橋の手前より、表門跡枡形虎口を琵琶湖八景の碑とともに見ます。高麗門跡すぐ左の櫓台や、背後によく見える登り石垣との位置関係が分かります。全国的にも現存例の非常に少ない登り石垣がここまで良好な状態でいくつも見られるのは、実に素晴らしいことです。

二の丸に現存する、佐和口多聞櫓です。南端部は二重櫓となっています。以前は内部を公開していたようですが、現在は残念ながら中に入ることは出来ません。

佐和口多聞櫓の西側に隣接するのは、貴重な現存馬屋です。こちらは近年保存修理を終え、内部を観覧できます。

馬屋近くの二の丸休憩所脇に、天守がちょこんと乗ったポストがあります。なかなかにリアル。

佐和口は枡形虎口で、かつては外門に冠御門と、内門に三階御門という櫓部分が二階建ての櫓門に囲われたとっても厳重な虎口だったようですが、現在は冠御門と三階御門の両方が失われ、虎口には車道が通されています。虎口北側の多聞櫓は外観復元されましたが、三階御門跡だけぽっかりと空いたままで、かろうじて門礎石が残っています。

外観復元された佐和口北側の多聞櫓は開国記念館と名付けられ、展示施設として公開されています。左に見える門は、家老・木俣屋敷跡です。

佐和口の冠御門跡付近より、外観復元された開国記念館を見ます。当時は手前の二重櫓に接続する巨大な三階御門がこの左側にあったんですよね……。

開国記念館のおかげで、かつての佐和口の威容をより感じられるようになっていると思われます。背後に小さく、天守が見えますね。

佐和口を出てまっすぐ歩くと、外堀跡があります。このあたりは、中堀と外堀の距離が最も接近していたようです。

 

締めは、天守です。

冬の木の間からのぞく姿も、風情があります。

最上階の破風にも、窓(?)が見えますね。

 

四度目の訪問では、これまでに未訪の場所を含めじっくり見て回り、新たな魅力にも気付けました。排水溝に着目すると、城内の至る所に設けられ、計画的に張り巡らされていることが分かったのも非常に興味深く、城内施設や石垣を守るために排水の管理を徹底していたのだろうなあと感心しきりです。

家紋と旗印があしらわれた御城印は、珍しい赤地の紙です。

 

素敵なお城でした。ありがとう。