お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/4/14「83.府内城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

83.府内城

府内城に行ってきました。

日本100名城(No.94)に選ばれた、大分県大分市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

アーケード商店街「ガレリア竹町」の一角にある「府内城を復元する会」です。当時このあたりは外堀に囲われた城下町で「竹町」と呼ばれ、西側のアーケード出口付近には外堀に三つ設けられた城下町への出入口のひとつ「笠和口」があったようです。

府内城を復元する会には、1/70本丸模型が展示されています。東南の廊下橋は、二之丸(東之丸)へ通じています。

東から。本丸北東部は角を設けない「鬼門欠け」で、斜めになっています。手前の狭い虎口は、水の手口です。

北から。四層の天守は破風のないシンプルな形状で、最上階には高欄と華灯窓があります。中央手前の人質櫓は、現存します。

西から。手前の枡形虎口は二之丸(西之丸)に通じています。天守に直接入る出入口は存在せず、西か南の渡櫓から入る構造となっていたようです。

 

三之丸へ向かいます。

三之丸の小学校跡地は上級家臣の武家屋敷だったらしく、発掘調査が行われています。

本丸・二之丸の西と南をL字型に囲う三之丸。北口に程近いこの道路は「北廣小路」と呼ばれていたそうです。

駅名標風のボード、センスがあります。右上の「釘抜紋」は、幕末まで城主を務めた大給松平氏の家紋です。ボードにあるとおり、東西に延びる北廣小路を西へ行くと中堀に、東へ行くと内堀に出ます。

発掘では、すでに焼き物等が出土しているそうで、今後が楽しみです。

かつての北廣小路を東へ歩くと、内堀と石垣が現存しています。石垣は西之丸の西辺にあたり、中央の土橋及び出入口は石垣を壊し後に通されたもので、当時ここから出入りは出来ませんでした。

奥に天守みたいな骨組みが見えますが……アレの正体については後ほど。

左隅の櫓台は「西北隅二重櫓」跡です。櫓台のすぐ右から塀が延びていますが、西北隅二重櫓の南には「取付櫓」が附属していたようです。石垣基部の犬走りは後世に付加されたもので、当時の遺構ではないそうです。

土橋のすぐ右には「二重中櫓」があったそうです。上段・下段と交互に四角い狭間が開く塀は、貴重な現存塀だそうです。櫓台基部には、犬走り上をカートを押して歩く作業員さんの姿。

塀の先に建つ「西南隅二重櫓」です。空襲で焼失し、昭和期に外観復元されました。

一階・二階ともに狭間があり、西南隅には石落しが設けられています。櫓の再建時に石垣を積み直したのか、櫓台上部の石材は下部と色合いが異なります。櫓台隅部は、よく整った算木積みです。

屋根瓦には、釘抜紋。

西南隅二重櫓には古写真が存在し、再建櫓とは狭間の位置に差異があります。

内堀西南隅から。手前に西南隅二重櫓、その向こうに宗門櫓、奥には着到櫓が見えます。

内堀の外側石垣にも、犬走りが付加されています。

西南隅二重櫓の東、西之丸南辺中央に位置するのは、二つある現存櫓のひとつ「宗門櫓」です。

現在は保存修理工事中で、外壁の漆喰が剥がされています。窓の左には狭間が、右には石落しがあります。

宗門櫓の東には、大手門があります。大手口には現在、石垣による土橋が架かっていますが、当時は廊下橋だったようです。

橋を渡って正面には石垣の壁。二之丸へ入るには、左折しなければなりません。

現在は整備工事のため、大手門から入ることはできません。

道路元標の背後、大手門へ迫る敵を狙える絶好の位置に建つのが、着到櫓です。

幕末以降も残り、明治期には測候所として使用されたという着到櫓ですが、空襲で惜しくも焼失、昭和期に外観復元されています。各階に狭間を、隅部に石落しを備える意匠は、西南隅二重櫓と共通します。

着到櫓付近から、西を見ます。櫓や門が白壁の塀によって連結されている様子はとても「お城らしさ」を感じますね。

大手門である「大手口多門櫓」の西には「取付櫓」が附属し、いずれも南側の窓が華灯窓となっているのが、外観の大きな特徴です。華灯窓が付くだけで、なんだか優雅な雰囲気を漂わせます。それにしても、背後の骨組み天守の存在感……。

犬走りでは、作業員により除草が行われています。こういった方々のおかげで城跡が美しく保たれていることに、感謝です。

 

西側の土橋まで戻り、二之丸へ入ります。

二之丸は内々堀を挟んで本丸を西・南・東とコの字型に囲み、西側を「西之丸」、東側を「東之丸」と呼んでいましたが、現在は内々堀が埋められ本丸南側石垣が取り壊され、西之丸と東之丸の境界はおろか、本丸と二之丸の境界すらも分からず、二之丸と本丸が同一の曲輪であるかのように見える、非常に残念な状態です。西之丸は、市役所の臨時駐車場に利用されています。右奥に宗門櫓が、その左に大手門が見えています。

西之丸の西北側(写真左)では石垣開口部より城内側へ石垣が張り出し、塀もその石垣に沿って折れ曲がっていますが、当時ここに開口部はなく、塀はまっすぐ南へ延びていたと思われます。西北隅二重櫓跡の東、西之丸の北辺にも塀が建っています。

西南隅二重櫓の北にある現存塀はやや内側に傾いているように見え、それを倒れないように支えるためか、木組みによる控柱のような支柱があります。櫓のすぐ北の石垣には、合坂が設けられています。

西南隅二重櫓に近付くと、不思議な光景が。櫓台が、ありません。櫓の台座となる石垣は隅部が欠損しており、北東隅から延びる柱は西之丸の地面に直接載っています。この部分にはどうやら地階……いや、西之丸地面から見れば一階に相当するでしょうか、ともかく櫓台の代わりに建物があったらしく、外から見ると二重櫓ですが、内から見ると三階櫓という構造だったようです。再建された西南隅二重櫓では、一階部分は省略されています。西南隅二重櫓のすぐ東にも、合坂が見えます。

東へ歩くと、西南隅二重櫓と宗門櫓との間にもうひとつ、合坂があります。

宗門櫓も西北部分に櫓台石垣がなく一階(地階)部分があり、外から見ると平櫓ですが内から見ると二階櫓という、内外で階層が異なる構造です。

屋根瓦には釘抜紋がはっきりと確認できます。雨樋は、保存修理工事期間限定の設備と思われます。

二階北側の扉が何故この位置にあるのか不思議ですが、当時は扉下部の石垣が北へ延び、石垣の先に西之丸と東の「出合曲輪」を仕切る門が建ち、石垣内側には合坂が設けられていたようです。

現在は、荒壁を乾燥させる養生期間だそうです。

次に訪れる時には、白壁の宗門櫓が見られるでしょうか。

 

宗門櫓の東、西之丸と東之丸の間にある二之丸南側エリアは「出合曲輪」と呼ばれています。

出合曲輪の中央にあるのが大手門で、一階部分が門になっている「大手口多門櫓」と南西側に附属する「取付櫓」により構成されています。取付櫓の右には、合坂が見えます。大手門は工事中につき、内側からも通行は出来ません。

大手口多門櫓・取付櫓ともに城内側にも華灯窓があります。屋根瓦には釘抜紋。

100名城スタンプ、従来は大手門に設置されているようですが現在は工事中のため「府内城絵巻」と掲げられた大手門そばのコンテナハウスに移設されており、スタンプはこちらで押しました。内部はパネル展示等が充実しており、パンフレット等の資料も豊富でした。

城址公園のほぼ中央、天守台のすぐ南に建てられ、先程から常時視界に入ってくるこちらの骨組み天守。「仮想天守イルミネーション」と名付けられ、夜には天守台石垣部分が青く、天守建物部分が白く輝き、規模・形状ともに再現度が高く、まるで現代に天守が蘇ったかのごとき光景を見せてくれるようですが……日中だと天守っぽい輪郭をした金属パイプの巨大な謎オプジェです。夜に見たかったですね。

 

出合曲輪から、東之丸へ向かいます。

写真中央奥、城郭建物風のトイレ付近に当時は平櫓が建ち、そのすぐ東には仕切門があり出合曲輪と東之丸を区画していたようです。大手門のあたりが出合曲輪、トイレより左(東)が東之丸、右手前は本丸……なのですが、境界は完全に消滅しています。

大手口に横矢を掛けている着到櫓は、東之丸の西南隅に位置します。

着到櫓も、北東隅に櫓台石垣がなく柱一本で支えられており、当時は西南隅二重櫓と同様に一階部分があり、外からは二階、内からは三階建てに見える櫓だったようです。

着到櫓のすぐ横に金属製の階段がありますが……もしかすると、櫓を測候所として使用していたという明治期に設けられたものでしょうか。櫓の扉には、八双金物が四つ見えます。

着到櫓の東には合坂があり、当時はこれを使って櫓内へ出入りしたと考えられます。

狭間を覗くと、塀の厚みが分かりますね。

石垣上を東に歩くともうひとつ合坂……と思ったら、階段は片方だけ。

東之丸の東南隅にある再建櫓は城内側にも櫓台石垣がありますが……なんだか櫓のサイズに合っていないような。

当時ここには、北に取付櫓を伴う平櫓が建っていたらしく、しかも宗門櫓と同様に城内側に櫓台石垣が無く一階建物を持つ櫓だったようです。うーん……見栄えを優先して二重櫓にするだけならまだしも、存在しなかった櫓台まで築いてしまうのはいただけません。

この模擬二重櫓の北東には、西と北に取付櫓を伴う「東三重櫓」が建っており、天守に次ぐ立派な建物だったそうです。

模擬二重櫓から北の石垣手前にはフェンスが建ち、ここからは塀が再建されていないので転落防止のためと思われますが、ちょっと無粋ですね……。

東之丸の北東隅にある「北東隅二重櫓」跡には、模擬二重櫓が再建されています。模擬ですが、こちらは二重櫓跡に建てられた二重櫓なので良し、です。櫓台石垣も当時のままと思われ、隅石も立派で……そう、ここには城内側に櫓台が、あるんです。絵図にも城内側に一階部分は描かれていません。この、城内側櫓台の有る無しの違いは、何なのでしょうか。

北東隅二重櫓から西へ延びる石垣上には、西寄りに短い塀が建っていますが……こんな中途半端に再建するでしょうか。まさか現存塀? この石垣、おそらく当時はさらに西へ延び内々堀に接し、東之丸と水手口を区切っていたと思われます。

 

本丸へ向かいます。

左が仮想天守イルミネーション、右が現存する天守台です。寛保の大火で焼失したという巨大な四層の天守は高さ29m(天守台含む)。同規模で建てられている仮想天守に、在りし日の威容を重ねます。

天守のすぐ南には続櫓、その南に渡櫓、東大櫓門と続き、その南には内々堀が広がっていたようですが、現在は全て失われています。

隅は算木積み、他は野面積みの天守台。石垣だけで高さ約10mあります。

天守台の東から北にかけては、庭園風に整備されています。右に見える石垣の右側が、本丸東側にあった水手口跡と思われます。

北東から、天守台を見ます。仮想天守の存在感!

天守台の北、本丸の北端にあるのが、二つある現存櫓のひとつ「人質櫓」です。こちらは城内側にも櫓台石垣があり、内外どちらから見ても二階櫓です。城内側に櫓台が無い櫓(宗門櫓)と有る櫓(人質櫓)がひとつずつ現存しているのは、なかなかにミラクルですね。人質櫓の南には、塀が建っています。

人質櫓の東にも塀が建っていますが、東側の塀には段差があります。櫓の南と東に扉があり、付近の石垣にはそれぞれ合坂が設けられています。

屋根瓦には釘抜紋。外壁の漆喰が、扉や窓との境目でカーブするよう滑らかに仕上げられているのに、職人のこだわりを感じます。

白塗りの扉には四つの八双金物。再建櫓の扉も、意匠は統一されています。

北から天守台を見ると、仮想天守の頭だけがのぞいています。

再び天守台を南から。此処にそびえる四層の天守は、さぞかし壮観だったでしょう。

天守台の西側石垣が何やらよく分からないことになっていますが……とりあえず、当時は存在しなかったであろう天守台のすぐ西に設けられた階段を上ります。

階段右手の崩れかけ石材は、天守のすぐ西にあった取付櫓台の名残でしょうか。

天守には西の取付櫓、または南の続櫓から入る構造だったようですが、現在は金属製の階段が設けられ、天守台へ上ることができます。

天守台から、周囲を眺めます。

まず南。天守台から見る仮想天守は、天守っぽいシルエットですね。そして、でかい。

東です。右が模擬の北東隅二重櫓で、灯籠の左上に見える石垣の出隅付近が水手口、内堀の向こうに見える石垣は帯曲輪です。

北です。人質櫓から内堀を隔てて西に見える石垣は、山里丸です。

西です。左には天守台から本丸石垣が続き、端には二重櫓跡が見えます。奥の廊下橋により、西之丸と右の山里丸がつながっています。

天守台の西、取付櫓や渡櫓が建っていた石垣の城内側は、まったくもって謎な状態です……どうしてこうなった。

乱れる石垣に乱される精神。美しく佇む人質櫓を見て、心を落ち着かせます。

山里丸の北側は現在埋め立てられており、右の石垣出隅から右奥の建物がある場所も当時は堀だったようです。

山里丸と西之丸をつなぐ廊下橋は、復元されたものです。

絵図入り説明板の位置が東大門の西北ということは……仮想天守は東渡櫓の辺りに建っていることになるでしょうか。

仮想天守、見上げると実に巨大です。

本丸西北の二重櫓台、西側は原形をとどめているようですが、東側はかなり怪しい状態です。当時は二重櫓台の東南隅から石垣が南へ延び、二重櫓の南側に枡形虎口を形成していたようです。

二重櫓台の西側にはL字型に石垣が残り、内側には雁木があります。この石垣に接して「西枡形冠木門」が本丸西枡形の外門として建っていたようです。

L字石垣の脇に「人柱お宮」の説明。

西枡形冠木門跡付近より、本丸と西之丸をつなぐ土橋を見ます。左手のロープから左側に、内々堀が延びていたようです。右手前石垣の向こうに、人柱お宮の説明に出てくる下り階段があります。

 

階段を下り、内堀沿いを歩きます。

本丸と西之丸をつなぐ土橋の北側には堀が入り込んでいたようですが現在は埋められており、二重櫓台の北から付加された犬走り上をしばらく歩いて行けそうです。

算木積みが未発達な二重櫓台の西北隅を見上げます。大迫力! 隅石が少しズレてきているようにも見えますが、四百年以上持ちこたえてきた石垣です。

天守台の西側に積まれた低い石垣上に、お宮を祀った祠があります。今は犬走りを歩いて来られるし、左には石垣へ上る階段も設置されていますが、犬走りの無い江戸時代にはどうやってここへお参りしていたのでしょうか……やはり船? それとも本丸から下りられる通路を設けていたとか。

本丸石垣に、排水のためと思われる石樋を見つけました。

西側の石垣下から、人質櫓を見上げます。塀には汚れが見えますが、櫓は美しい白壁です。

人質櫓の石落しは「袴腰型」と呼ばれるタイプで、石垣天端から一階屋根まで達する大型のものです。

隅部をすっぽり覆う形状に広がる石落しは北面・西面いずれも床長さの半分近くあり、どうにか堀を渡り石垣に取り付いた敵も、ここから槍やら鉄砲やらで狙われてはひとたまりもありません。

天守台西側に延びる本丸高石垣を見ます。左は、祠への階段です。

人質櫓下の石垣に色の異なる部分があるのは、櫓の解体修理に伴う積み直し等があったためでしょうか。

犬走りから、堀対岸の山里丸を見ます。山里丸の石垣基部にも、犬走りが付加されています。

犬走りからは、復元された廊下橋を間近に見られます。

橋の長さは21.7m。これが堀幅とイコールです。下見板の下部には、雨覆とみられる庇が設けられています。

西之丸側では廊下橋の東から塀が接続し、塀は石垣に沿って南へ折れ、枡形エリアを囲んでいます。

左の低い石垣は、西之丸と本丸の間に架かる土橋です。今いる場所は当時、堀の中でした。

堀だった場所から、本丸二重櫓台を見ます。

 

西之丸へ入り、廊下橋へ向かいます。

西之丸の西北隅二重櫓は城内側に櫓台石垣が無く、内外で見た目階層が異なるタイプの櫓と思われます。

西之丸の廊下橋前には、冠木門と石垣、塀により枡形虎口が形成されています。

説明の通り、冠木門の礎石は今も残り、礎石には方形の穴が開いています。

門南側の石垣は、塀右側の石垣と同じくらい高さがあったのかもしれませんが、現在は非常に低く、上部は土塁状になっています。当時はここに塀が建ち、枡形内から西之丸の様子は分からなかったでしょう。

西之丸北辺に延びる冠木門北側の石垣は、高さがあります。

冠木門を越え左折すると、両脇をしっかりと塀に囲われた廊下橋の入口があります。屋根瓦にはやはり、釘抜紋。

攻め手からは、廊下橋を越え右折すると冠木門、です。橋を越えた敵は西から南から、西之丸で待ち構えている兵に迎撃されたことでしょう。復元された廊下橋には扉があり、利用時間外には閉扉していると思われます。

壁と屋根に囲われた廊下橋は、味方の移動を敵に察知されにくいという利点があります。有事には、床板を外し敵の進入を防いだそうです。

 

廊下橋を渡ると、山里丸(北之丸)です。

山里丸側から、廊下橋を見ます。当時はこの他にも、大手口と、本丸東南部と、全部で三つの廊下橋が架かっていたそうです。

西北隅二重櫓跡です。西之丸北辺にも、塀が建っています。

夕日に染まる人質櫓です。人質とは物騒な名前ですが、もし本当に人質がこの櫓に住まわされていたとしても、海が近く眺めも良い二階櫓で、存外に優雅な暮らしを送っていたかもしれませんね。

山里丸には現在、松栄神社が建っています。江戸中期にはここに在ったのが一旦城外へ移転し、再び元の地へ戻ってきた、ということらしいです。

山里丸の西南部では、慶長期の野面積み石垣が見られます。

おそらく当時はもっと高さのある石垣が北(写真左方向)へ延び、山里丸の西側出入口である多門櫓門の東側石垣を構成していたと思われます。

松栄神社西側の玉垣は、概ね山里丸西辺ラインと一致するのでしょうか。

今も府内城周辺に残る「荷揚町」の地名。福原直高による築城時には「荷揚城」と名付けられ、後に竹中重利が「府内城」に改めたそうです。

かつて北辺の東西両角に二重櫓が建っていた山里丸。西角櫓の石垣は失われていますが、東角櫓台は残っています。

山里丸から堀を挟んで東には、本丸北側から三之丸東側に至るまで全長600m以上にも及ぶ細長い堤防状の「帯曲輪」があり、現在も公園として半分以上が残っているのですが、なんと数日前から公園改修工事のため立入禁止……これはショックでした。

人質櫓の東にある扇櫓跡(人質櫓の左・塀の途切れている石垣上)や菱櫓跡などの本丸石垣を帯曲輪から当時の堀幅がそのまま残る内堀越しに眺め、帯曲輪を東之丸の東側まで歩きたかったのですが……工事中では仕方ありません。

人質櫓と、仮想天守に別れを告げます。

 

大手口まで戻ります。

当時は廊下橋が架かっていたのを、明治期に埋め立て土橋になったという大手口。横から土橋を見れば、当時の石垣との境界が見つけられるかと思ったのですが……そもそも石垣自体が拡幅されているようで、見えている石垣は全て明治期以降のものと思われます。

廊下橋が復元されることはなさそうな状況ですが……この木枠上には塀が建てられたりするんでしょうか。

次に訪れる時には、整備された土橋を渡って大手門をくぐりたいものです。

東之丸東南隅、平櫓跡に建つ模擬二重櫓を、外から見ます。右奥に、東三重櫓台がちらりと見えています。

東之丸の東からも当然、帯曲輪へ入ることは出来ず……帯曲輪の散策も、次に訪れる時までおあずけです。

帯曲輪の東側には水路が残り、帯曲輪東辺の形状を今に残しています。手前に見える石垣は当時のものではないように見えますが、現存部分もあるのでしょうか。奥には模擬再建の北東隅二重櫓が見えます。

この水路、道路を挟んで南側にもしばらく追いかけることができ、お城の輪郭を今に伝えています。石垣も、当時のものが一部残っているのかも……?

 

再び、大手口まで戻ります。

大手口から道路を挟んで南に立つフランシスコ・ザビエル像。天文二十年に大友宗麟公の招きにより、大分で布教が行われたそうです。

ザビエル像のある大手公園には、三之丸の解説があります。

大手公園は大手口のすぐ南、中廣小路に面し、増沢虎之丞屋敷跡の北に位置すると思われます。

こんな街中の道路も、かつては外堀(城下町を区切る南側の外堀)だったと思えば、なんとなく違って見えてくる不思議。

 

現存櫓二つ(宗門櫓・人質櫓)と再建造物七つ(廊下橋・西南隅二重櫓・大手口多門櫓・同取付櫓・着到櫓・平櫓跡の模擬二重櫓・北東隅二重櫓)を擁し、白壁の建物群が白い土塀で連結された南側からの主郭部外観は「白雉城」の別名が表す通り実に優雅です。しかしながら、内々堀の埋め立てと石垣の破壊により本丸と二之丸の境界が不明となり、広大な更地と化した主郭部内側は非常に残念。今後の発掘・整備が待たれます。宗門櫓・大手門・帯曲輪と三つの工事が重なった今回の訪問もタイミングが悪く、全ての工事終了後に必ずや、再訪したいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで48城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。