お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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  • 2024/6/9「11-2.竹田城」(2019/5/12訪問)の記事をアップ

7-2.松江城

松江城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.64)に選ばれた、島根県松江市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

松江駅の階段から、国宝天守が出迎えてくれます。

お城から大橋川を隔てて南東、松江駅の北西には遊郭があったらしく、昭和期に建てられた遊郭建物とされる旧米江旅館は登録有形文化財になっています。

松江大橋のたもとには、千人がかりでも大橋から先へ動かせなかったという「大庭の音のする石」があります。

松江大橋の上から、天守が見えます。

お城の北に現存する武家屋敷の長屋門が、マンホール蓋にデザインされています。

カラコロ工房の西に、文久頃の士族屋敷図があります。現在地は三之丸の南東、京橋を渡ってすぐ左手(北西)あたりと思われます。

 

城下を抜け、お城へ向かいます。

現在は島根県庁の建っている場所が三之丸で、当時は藩主の御殿があったようです。

三之丸は方形で四方を堀に囲まれ、本丸・二之丸から堀を隔てて南に出丸のように位置しています。写真では北東に石垣がよく残り、手前の柵付近が東に架かる土橋です。奥の高石垣上は二之丸で、復元された南櫓・中櫓が見えます。

堀尾・京極の後に入った松平家初代藩主、松平直政公の騎馬像です。像は三之丸南東に建っており、当時ここは堀だったかもしれません。

三之丸北東隅に建つ「三丸舊趾」の碑です。な、な、なんというカッコいい碑でしょう!刻まれた文字の美しさ・力強さ、そして何より碑の形状!自然石をそのまま利用したような……いやこんな「碑にしてください」と言わんばかりの石がそうそう見つかるかな……でもこんな荒々しい形状に加工したのだとしたらセンスありすぎるな……などと色んな妄想がぐるぐる。ここから撮影すると奥の二之丸高石垣とその上の南櫓まで収められるのも嬉しいところです。

三之丸北西に架かる「緑樹橋」です。対岸のコンクリート護岸の間に少し石垣が見えていますが、当時のものでしょうか。

緑樹橋の下をくぐって、遊覧船が南へ進んでいます。お堀の左手(東)が三之丸で、右手(西)は三之丸之内・御花畠と呼ばれるエリアです。

御花畠側から三之丸北西隅を見ると、緑樹橋の北側に、北西へ斜めに突き出た橋台のような石垣が見えます。

当時は緑樹橋が存在せず、北西出入口として助次橋がこの斜めの橋台に架かっていたようです。

三之丸の北には、主郭部へ通じる木橋が架かっています。標柱には「千鳥橋(御廊下橋)」とあります。はて、廊下橋とは屋根付きの橋だったと思うのですが……。

説明によると、江戸期には確かに屋根付きの廊下橋があったようで、現在の千鳥橋は平成期に架けられたそうで……廊下橋には、出来なかったのでしょうか。

千鳥橋から振り返ると、三之丸の北、橋のすぐ東側に雁木が設けられています。

 

千鳥橋を渡り三之丸を出て、主郭部へ向かいます。

千鳥橋を渡ってすぐ左手は、立入禁止となっています。石垣の修理工事が、あと二年近く続くようです。

正面には、階段が右へ延びています。右手の石垣隅部は、石材が加工され稜線がまっすぐ整っています。

石垣は高さを増しながら東へ延び、二之丸南櫓台へ続いていくと思われます。

階段は後世の整備が入っているように見えますが、階段左脇の石垣は当時のものでしょうか。

階段右脇の石垣には矢穴のほか、ほぞ穴も見えます。石垣上に何らかの建物があったと考えられますが、正保城絵図では御廊下橋から南口門に至るまで長屋が連なっていたように描かれています。

東へ延びる階段を上ると、正面に南櫓が見えてきます。

南櫓すぐ西の石垣には排水口があり、その前面には排水溝が設けられているようです。

ここから階段は北へ折れ、その先の石垣開口部には門が見えます。

二之丸南口門跡です。現在は、冠木門が建っています。

ほぞ穴のある礎石が残っています。当時はどのような門だったのでしょうか。

南口門両脇の石垣には、大きな石材が多く見られます。刻印らしき紋様が見えるように思うのは、気のせいでしょうか……。

門東側の石垣が西側とずいぶん色が違うのは、塀を復元する際に積み直したからでしょうか。

南口門を越えた後も石段が続き、両脇に門より高い石垣があるので、埋門のような格好になっています。

 

南口門跡を越えると、二之丸です。

門跡を越え石段を上ると、すぐ西に石垣と石段が見えます。今いる場所は二之丸で、石垣の上も二之丸。二之丸は、西側が東側より高い二段構成となっています。

石段の北に延びる石垣には矢穴が目立ち、中央に矢穴が穿たれた石材もあります。

石垣基部には、石組の排水溝が設けられています。

石段南側の石垣を上から見ると、台形状になっているのが分かります。石垣南辺部の内側にも石列があり、塀の基礎のように見えます。絵図ではここから二之丸北西の西門まで、塀が複雑に折れ曲がりながら続いています。

石垣と内側の石列は並行して西へ延び、やがてシートや土嚢で覆われたエリアに到達します。どうやらここが、千鳥橋の左手で見た石垣修理工事の現場と思われます。

工事現場付近に「御月見櫓跡」の標柱。このあたりに、月見櫓があったようです。

小屋と興雲閣の間には、柵。この先は立ち入らない方が良さそうですが……奥に見える低い石垣が気になります。塀の基礎らしき石列の延長でしょうか。

二之丸を東西に区切る石垣の北には階段がありますが、後世の整備でしょうか。

二之丸の西、御書院跡付近には現在、興雲閣があります。明治期に建てられた洋館で、迎賓館としても機能していたようです。

興雲閣と松江神社の間にある道は関係者以外立入禁止……二之丸西辺部を見るのは難しそうです。

興雲閣の北には松江神社があります。松江城国宝指定の決め手となった祈祷札が見つかったのがここ、松江神社なのです。後足をぴんと伸ばして戦闘態勢の個性的な狛犬は、出雲では多く見られるようです。

城下にあった東照宮を移築したという松江神社の社殿。屋根には、葵の御紋が輝いております。

 

当時の城郭建造物とは無関係の建物が並ぶ西側に対して、二之丸東側では復元・整備が進んでいます。

松江神社のすぐ東に、下見板張りの長屋風トイレがあります。こういった便益施設を城跡の景観に合うデザインにする取り組みは大歓迎なのですが……実はこのトイレ、単なる城郭風建物ではありません。

なんとここには御殿を警備する番所があり、発掘調査でも存在が確認された場所に、番所と同程度の規模のトイレを復元的に整備しているのです。素晴らしい!当時建物が無かった場所に味気ないトイレを建てるのではなく、番所があった場所に番所風のトイレを建てる。当時存在した建物そのままを復元するのがベストかもしれませんが、観光地に欠かせない便益施設と復元的整備を兼ねたひとつの選択肢であり、好例だと個人的には思います。

復元整備の説明には元禄期の絵図や発掘調査時の写真、古写真もあり、とても情報量が豊富です。

番所跡の南に復元された井戸屋形です。屋形の向こうに段差が見えており、東西の高さの違いが分かります。

井戸屋形の東には、御殿跡が平面表示されています。排水溝を挟んで右が下御台所跡、左が御式台跡、奥が御広間跡で、左奥の中櫓手前にある柵の開口部が平地門跡です。

これら排水溝も、発掘調査の成果をもとに復元整備されたものでしょうか。

塀は南口門跡の東から石垣に沿って復元されており、南へ延び、東へ折れ、南櫓へ接続しています。

復元櫓では唯一の二重櫓である、南櫓です。南東隅に斜めに張り出して建てられています。南東方向・三之丸東虎口などの監視のほか、南西にある南口門を監視する役割もあったのでしょうか。

南櫓の大棟鬼瓦には、家紋は見られません。

復元櫓は内部も公開されており、中へ入ることができます。

南櫓の一階内部です。左の柱には釿(ちょうな)がけの跡と思われる模様が見られ、伝統工法により復元されたことが分かります。

二階への階段には、踊り場が設けられています。

南櫓の二階内部です。

これは……一階屋根の垂木が突き出ている?強度を上げるためなど、何らかの意味があるのでしょうか。

天井付近に、棟札が見えます。梁などの部材に見られる墨書きが良いですね。

二階の格子窓には、突き上げ戸が付いています。

他の三方は突き上げ戸ですが、城外に面する南東だけは引き戸です。

この窓からは、先ほど訪れた三丸舊趾の碑が建つ三之丸北東隅や、長屋門が建っていたという三之丸東虎口がよく見えます。

北東の窓からは、南櫓のすぐ東側で複雑に折れ曲がる塀が見えます。

南櫓を出ます。

狭間を備えた塀は南櫓の東から北東・東・北と石垣の横矢に合わせて細かく折れ、そのまま二之丸東辺に沿って北へ延び、中櫓へと接続しています。

中櫓は、南北方向に長い平櫓です。南櫓もそうでしたが、櫓の周囲には排水溝が設けられています。

幕末には「御具足蔵」とも呼ばれていたという中櫓。こちらの大棟鬼瓦にも、家紋は見られません。

中櫓の内部です。部屋の中央を仕切る壁があります。

中櫓は、城外に面する東の窓が突き上げ戸で、南の窓には引き戸が見えます。南東隅には、狭間と石落としがあります。

北の窓も突き上げ戸です。

中櫓を出ます。

中櫓の北に接続する塀は二之丸東辺に沿ってまっすぐ北へ延び、柵の向こうに見える太鼓櫓へと接続しています。

中櫓のすぐ北にある柵の開口部が、平地門跡です。当時は平地門の両脇に、しっかりした塀があったと思われます。

復元櫓三棟の三つめ、北東隅にある太鼓櫓です。こちらも大棟鬼瓦には家紋なし。

中櫓とほぼ同規模ですが、太鼓櫓の入口には庇があります。

庇は杮葺きに見えますが……植物が繫茂していますね。

太鼓櫓の内部は、中櫓と違って仕切り壁はありません。狭間・石落としのある北東隅には、復元されたと思われるぴかぴかの太鼓が置かれています。

太鼓櫓の西に接続する塀は、この場所で途切れています。

塀の西、石垣が北へ張り出すこの場所には御門東之櫓と定御番所があったようです。左奥に見える石垣は本丸武具櫓台で、その右奥に天守が見えています。

御門東之櫓跡から、下見板張りの瓦塀に開く矢狭間・鉄砲狭間と、太鼓櫓から張り出す石落としが見えます。

 

二之丸を出て、大手口へ向かいます。

大手前に立つのは松江開府の祖・堀尾吉晴公の像です。右手を高く掲げ、築城を指揮している姿でしょうか。

堀尾吉晴公像の北、大手柵門(注)北側石垣のすぐ東にある、多言語対応の大きな案内板です。曲輪や建物・建物跡名称まで記載されているのがありがたいです。

(注:案内図には「大手木戸門」とありますが、後の説明では「柵門」とあり、他の資料には柵門の表記が多く見られるため、柵門としています)

案内板の背後に見える馬溜の東側石垣には、東に犬走りがあります。

犬走りの東には、広い内堀と、二之丸下之段の石垣が見えます。

大手柵門南側石垣の前に建つ真新しい「国宝 松江城天守」の碑と、背後の石垣上に建つ「史蹟」松江城の碑です。

大手柵門両脇の石垣です。さすが大手口、大きな石材をふんだんに使っています。

大手柵門を越えると、馬溜です。

広大な巨大枡形・馬溜。その名のとおり、馬や城兵の駐屯地としての役割があったようです。

馬溜の南東にある井戸跡です。

遺構面は50cm下らしいので、井戸の周囲にある石組水路も復元されたものでしょうか。奥には、馬溜南側の腰石垣と土塁が見えます。

北西にある井戸には屋形が復元されており、周囲には石組水路があります。

高さ13m、大迫力の二之丸東辺石垣です。これを越えるのは無理、でしょう。馬溜にあまり留まると、二之丸にある左右の櫓から狙い撃ちされそうです。

石垣の左右で色の違いが見られるのは、積み直し修理によるものでしょうか。

左手には中櫓。石垣基部の一部が、乱れているように見えます。

右手には太鼓櫓。こちら側の石積みは、非常に整っています。

馬溜内部より東、大手柵門跡を見ます。

馬溜内部より北、大手門跡を見ます。大手柵門跡とは石垣間の距離も石垣の高さも全然違います。大手門がいかに巨大な櫓門だったのか、よく分かります。

大手門の礎石は50cm地下にあるそうなので、見えている礎石は復元表示されたものと思われます。

高くそびえる、大手門脇の石垣です。

大手門の復元資料、見つかると良いのですが。

 

馬溜を越えると、二之丸下ノ段です。

広大な外曲輪である二之丸下ノ段。復元・整備された遺構もあるようです。

大手門東石垣から、二之丸下ノ段の南辺土塁と腰石垣が延びています。

土塁・腰石垣の北側には御破損方・寺社修理方があり、発掘調査で二棟の礎石建物跡が確認された場所に同規模の建物を建て、それぞれ観光案内所・茶屋として利用されています。二之丸のトイレ同様、復元的整備が便益施設を兼ねる好例です。茶屋の左に見える石積みは平面整備された米蔵の基礎で、石積みの左あたりに門があったようです。

この場所の建物は江戸期中に何度か変遷があったようで、幕末頃の絵図には右(北)に御破損方の会所が、左(南)に御小人長屋が描かれているようです。下見板張りの城郭風建物は、右奥にチラリと見える天守とも調和していて良いですね。正面奥に見える石垣は、武具櫓台です。

昭和期の説明板には、当時の建物の様子が描かれています。左下が現在便益施設の建つ御破損方・御小人長屋で、その右にある米蔵は築城当時から存在するらしく、間に門が見えます。

天守の案内看板の背後に、平面整備された米蔵の基礎が見えています。奥に見えるのは中曲輪の石垣で、米蔵は西側でほぼ石垣に接して建っていたようです。

二之丸下ノ段より、馬溜を見ます。当時は大手門があり、馬溜の内部は全く見えなかったでしょう。

説明には石垣内部より発見されたとあった、馬溜北側石垣の石組み階段です。後世に改変があり、階段が埋められていたのでしょうか。

階段は大手門の方向へ続いています。大手門の二階櫓部分へ上るための階段でしょうか。

発見された階段の西側にも階段があります。こちらは石垣に上り、馬溜に侵入した敵を迎え撃つための階段でしょうか。

 

中曲輪へ向かいます。

中曲輪への階段は非常に整っており、後世に整備されているように見えます。

階段のすぐ南には太鼓櫓。狭間や石落としがこちらを狙っており、のんびり歩いてはいられません。石垣隅部は、美しく整った算木積みです。

駆け抜けたいところですが、坂の上の石垣が直進を拒みます。当時は石垣上に櫓(御門東之櫓)が建っていたようなので、敵は左から正面から攻撃されまくりです。

階段の右、中曲輪の南端部にも石垣があります。ここにも塀などが設けられ、敵を迎え撃ったのでしょうか。

この石垣、よく見ると同じ刻印があちこちに見えます。

中曲輪南端石垣へ上る石段の手前に、刻印の説明があります。数多く見られる分銅紋は、堀尾家の紋だそうです。

石段にも、分銅紋。

南端石垣の西には、中曲輪のここより北側を区画するような石積みがあります。

その西には、方形の石列。右には石段らしきものも見られ、何かの建物跡でしょうか。

中曲輪南端石垣の北から、坂の北側石垣を見ます。

今上ってきた「本坂」と呼ばれる坂は南に太鼓櫓、北に南端石垣、正面に御門東之櫓と非常に防御力が高く、さすが大手から本丸へ通じるルートです。

御門東之櫓台の北にある階段を上ったところに二之丸の解説があり、当時の建物を腰掛や雪隠(トイレ)に至るまで解説してくれています。

二之丸地区解説板の横には、現在の地図を重ねた正保期の絵図もあります。

解説板の右手には、高くそびえる武具櫓台。太鼓櫓台と違って算木積みは未発達ですが、美しく整っています。

武具櫓台の向こうには、天守がチラリ。

 

二之丸へ戻り、本丸を目指します。

中曲輪から二之丸へ通じる、三ノ門跡です。礎石など門の痕跡は見られません。

三ノ門を入ってすぐ左(東)にある定番所跡です。先ほどの解説板では御門東之櫓と定番所の名称が同じ建物の上に記されていましたが、櫓の中に番所があったということでしょうか。

三ノ門から南西に歩くと、二ノ門跡があります。二之丸から本丸方面へ通じる門で、大きな礎石が残っています。

二ノ門南側の石垣上には長局が建っていたようです。木の根が原因か、石垣の崩壊が進んでいるように見えます。

二ノ門跡を越えるとすぐ右(北)に階段。本丸へ通じる虎口です。

本丸への階段、右端を進むと石垣に邪魔されて直進できません。そういう仕様なのか、あるいは出入口を狭めるために後から石垣を積み足したのか。

階段を上ってすぐ左(西)にある弓櫓台です。さすが本丸虎口、巨大な鏡石が多用されています。

本丸虎口より、二之丸を見下ろします。電線の地中化は、遺構保護の問題もあり難しいのでしょうか……。

本丸虎口は枡形状となっており、北は多門櫓、西は弓櫓が守る非常に堅固な虎口だったようです。現在は北の多門櫓と一ノ門が再建されていますが、一ノ門は随分と奥まったところに建っており、その手前には……。

「一ノ門」の標柱。本来はここに一ノ門が、多門櫓と弓櫓を連結するように建っていたようです。現在は異なる位置に門が再建されているのだから、この標柱は「一ノ門跡」で良いように思うのですが……。

一ノ門跡には礎石が残っています。本来の一ノ門を越え本丸へ入るための道には、再建門との隙間を埋めるべく多門櫓(写真左わずかに写る)が建てられており、東側の再建多門櫓との間におかしな段差が生じています。

 

一ノ門を越えると、本丸です。

管理事務所の東には、弓櫓台へ通じると思われる石段が見えます。石段の右側には石列や低い石垣が見えており、当時は弓櫓と本丸南西端にある坤櫓の間には多門櫓が建ち、ふたつの櫓を連結していたようです。

本丸南西端の、坤櫓跡です。

坤櫓の北には「多門跡」の標柱。坤櫓の北にも多門櫓が延びていたようです。

本丸の散策は後回しにして、そろそろ天守へ入っていきたいところですが……。

天守前には長蛇の列。さすがGWです。

最上階までは二十分待ち。列の最後尾に並びます。

天守は四重で内部は五階+地階、附櫓を伴う「複合式望楼型」に分類される、全国にたった十二しかない「現存天守」のひとつです。

最上階の屋根には、鯱。木彫り・銅板張りだそうです。瓦の家紋は、この写真では不鮮明なので確認できません。

南面では附櫓や三重・四重目などに白壁が認められます。三重目の狭間も、白壁のおかげでよく見えます。

附櫓の南面両脇に石落としと、石落とし含む下見板張りの壁には狭間がいっぱい。出入口は、附櫓の中央からやや左寄りに設けられています。

気付けば、出入口が目の前に。天守を眺めていれば、二十分なんてあっという間です。

出入口の柱や梁や扉は鉄板で覆われ、補強されています。

附櫓の石垣は矢穴が目立ち、刻印らしき紋様も見えるような……。もう少し近くで外観をじっくり観察したいところですが、今は順番が回ってきたので中へ入りましょう。

 

附櫓より、天守内へ入っていきます。

前回訪問時にあった下駄箱は撤去され、靴を袋へ入れる方式に変更されています。おかげで、附櫓入口に設けられた石打棚本来の姿や、下の石垣の様子がよく分かるようになりました。石打棚に沿ってずらりと並ぶ狭間と、「石打棚」看板の背後には石落としが確認できます。

附櫓入口から階段を上って左側には板張りの空間があり、この直下が附櫓の入口で、壁には狭間と反対側の石落としが確認できます。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。松江城のチェックポイントは附櫓にありました。

なお、この写真の右手方向に天守受付があり、100名城スタンプはそこで押しました。

附櫓から天守への階段右手に「写真撮影OK」のお知らせ。これがあると安心して撮影できます。ありがたや。

階段を上ると、天守の地階です。

階段を上って右手にある石打棚です。地階南面の窓からの攻撃を想定した足場です。

地階は、石打棚のある南側と北側が壁で仕切られ、石打棚のすぐ北には格子窓があります。窓の格子には何やら墨書きが……当時のものでしょうか。

地階格子窓の西にある階段から、一階へ上がります。現存天守で二番目の平面規模だそうで、説明板に見所などが紹介されています。

天守を支える、東のぶっとい最大柱です。

階段の引き戸は、この時は確認できず。彫込番付は、見逃しました……。

突き上げ戸の支え棒、窓を閉めている時はこうやって柱に掛けてあるんですね。

一階外壁にも多くの狭間が並びます。縦長が矢狭間、正方形が鉄砲狭間です。

一階全景です。展示物は少なく、建物の構造がよく分かります。たくさんのごつい柱と、天井に並んだぶっとい梁が、今日まで天守を支えてくれています。

現存天守では松江城だけに見られるという、柱の包板。こまめな修復が天守を守ってきた、ということでしょうか。

二階です。ぶっとい梁がド迫力! 松江城天守には地階から最上階まで全てを貫く柱は存在せず、二階分を貫く「通し柱」を効果的に配置することにより、重量を分散させ、建物を安定させる構造となっているようです。

開いた突き上げ戸を中から見ると、こんな感じです。

南櫓でも見られた、屋根の垂木?が壁に突き出ている様子は天守でも見られ、やはり何らかの意味があると思われます。

石落とし左側の柱に彫込番付「上一ノ七」があると知らせてくれているにもかかわらず、見逃しました……。

三階です。通し柱が二階分を貫くのは見えましたが、花頭窓は撮影できてません……。

三階は屋根に合わせて形状が複雑になっている部分があります。

破風の内部を活用したと思われる「隠し部屋」のような空間もあります。

四階・五階の解説です。

四階の梁の上から立ち上がる柱、ライトが当たって分かりやすくなっています。

西側の大破風内側に設けられた、箱便所の跡です。引き戸の付いた小部屋になっています。

西側大破風の北側には引き戸がなく、単なる狭間のある小部屋です。

東側の大破風内部は開放的で、箱便所は西側南寄りにのみ存在したようです。

ここの部材のカーブ……なんか良いですね。

四階への階段上り口は正面が藩主用、左の小さなステップが小姓用と考えられているようです。

最上階への階段には、踊り場が設けられています。

天守五階、最上階「天狗の間」です。四階・五階の解説にあった「手摺の装飾」とは、写真右に見えるカーブした階段手摺のことでしょうか……確かに凝った意匠です。敷居はありませんがよく見ると鴨居が残っており、当時は建具があったのかもしれません。

展示されている国宝指定書は写しで、原本は松江歴史館にあるようです。

城絵図も展示されています。

天狗の間からの眺望を楽しみます。

西です。右に乾櫓台が、そこから本丸西辺に沿って左へ多門櫓跡が延びています。

北です。木々の間から、本丸北側の石垣が見えています。

北東です。何故わざわざ北東を撮ったのでしょうか……。

東です。正面に松江歴史館が、その左には内堀につながる川が見えます。

南東です。またしても何故わざわざ南東を撮影したのか、さっぱり思い出せません……。眼下には本丸東辺の多門櫓跡と、奥に武具櫓跡が見えます。

南です。奥には宍道湖が見えます。

宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島もはっきり見えます。

あっ、これでしょうか、階段の引き戸。

国宝指定の決め手となった祈祷札はもともと地階にあったらしく、現在はレプリカが展示されています。

現存天守では唯一という地階にある井戸を覗いてみると、石組が見えました。

附櫓の出入口階段へ向かって開く狭間を撮影したのですが……壁に展示してある大名紋章及城郭図、めちゃめちゃ気になります。じっくり見たい!

附櫓出入口階段上の扉には、潜戸があります。

先ほど見た狭間は、出入口階段直上のこの位置にあります。附櫓に侵入した敵が階段を上るところを背後から攻撃! 恐ろしい仕掛けがてんこ盛りです……。

附櫓出入口の鉄扉にも、潜戸があります。

天守内は暗かったので、不鮮明な写真が多いのが悔やまれます……。

 

天守を出て、本丸内を見て回ります。

本丸南東にある、武具櫓台です。櫓台の規模から、大きな櫓だったことが窺えます。

武具櫓台からは、本坂を越え三ノ門に迫る敵の様子が丸見えです。

武具櫓跡の西には、一ノ門跡北側から建つ再建多門櫓が武具櫓台のある東へ延びているのですが……いかんせん寸足らず。いや、何寸どころか何尺、何間も足りません。本来は低い石垣いっぱいまで延び武具櫓に接続していたであろう多門櫓は、半分程度の長さのものが再建され、その東には下見板風のフェンスに囲われた何かがあります。再建多門櫓の基礎となっている低い石垣や石段は、当時のものでしょうか。

一ノ門の北から連なる多門櫓は東で本丸南東の武具櫓に接続し、武具櫓の北からも本丸東辺に沿って多門櫓が延びていたようです。写真一番手前が武具櫓台で、その奥の石垣が多門櫓跡、さらに奥で内へ折れて高くなっている石垣も多門櫓跡と思われます。

本丸東辺南側の多門櫓跡より、高くなっている東辺北側の多門櫓跡を見ます。天守の右(東)に見えている石垣は「祈禱櫓」跡で、東辺北側の多門櫓はこの祈禱櫓に接続していたようです。

「多門跡」標柱の背後には、多門櫓の基礎と思われる石積みが見られます。

南側の多門櫓跡と北側の多門櫓跡では、これだけ高さに差があります。多門櫓間で往来は出来たのか、あるいはそれぞれ独立した建物だったのでしょうか。

東辺北側の多門櫓跡北端付近より、天守を見上げます。家紋があしらわれることの多い天守の鬼瓦ですが、松江城の屋根の隅にある鬼瓦は鬼の顔。表情はそれぞれ異なるそうです。

天守の南東、附櫓のすぐ東にある「祈禱櫓」跡です。説明にもありますが、この櫓にまつわる伝説・逸話があり、「東之出し矢倉」「コノシロ櫓」のほか「荒神櫓」といった別名もあるようですが、ここでは説明板にある「祈禱櫓」とします。櫓の基礎と思われる石列が、よく残っています。

武具櫓(写真奥、最も外側へ張り出している石垣が武具櫓台)から祈禱櫓(一番手前が祈禱櫓台)までは多門が連なり。

祈禱櫓から北、天守東側の本丸東辺には瓦塀が連なっていたようです。

祈禱櫓台より、附櫓を見ます。櫓内部には、側面にずらりと並ぶ狭間のすぐ下に石打棚がありましたね。

そして、天守台石垣が低くなっている所に設けられた天守地階窓の内側にも、石打棚がありました。内部構造を知ってから外観を見ると、理解が深まります。

北東から、天守を見上げます。近すぎて上層部がほとんど見えませんが、黒色の下層階から放たれる威圧感がすごいです。

隅部は算木積み。矢穴のほかに、刻印らしき紋様も見えるような……?

瓦を立てて並べたこれは……雨落ち溝でしょうか。

雨落ち溝?から排水溝を隔てて北に石積みがあり、瓦塀の基礎と思われます。祈祷櫓から北に連なる瓦塀は、西へ折れて天守北側に続き、さらに北へ折れて北ノ門までつながっていたようです。そういえばここ本丸北東部が入隅になっているのはいわゆる「鬼門欠け」でしょうか。

 

本丸東側をほぼ端から端まで歩き終え、本丸西側へ向かいます。

坤櫓の北に連なる多門の先、石垣が西へ張り出す所に、鉄砲櫓跡があります。

鉄砲櫓台の北には櫓台へ上れるブロックの階段がありますが、鉄砲櫓の北にも多門が連なっていたので、本来の鉄砲櫓へ入るための石段などは標柱右の建物あたりにあったのではないかと思われます。

鉄砲櫓の北、縁石より西側が多門跡のラインでしょうか。木で見づらいですが、正面にある木々の先で本丸石垣は内側(東)へ折れ、それに合わせて多門も折れ曲がっていたようです。

東へ折れた本丸西辺石垣が再び北へ折れるあたりです。多門跡のラインと思われる縁石もここから北へ折れ、さらに北側では複雑なラインを描きながら、北端で乾櫓に接続していたようです。

本丸北西にある乾櫓跡ですが……この櫓台、南東に幅広の石段が設けられ、建物が建つスペースが西辺と北辺にしかありません。石段の左にはしっかり排水溝が設けられています。一体なぜ、このような形状をしているのでしょうか。

絵図や復元模型によると、乾櫓は標柱の背後に見える低い石垣上に「逆コの字」型に建ち、北東端で北ノ門に接続していたようです。標柱の右側部分はもう北ノ門の一部と考えても良さそうです。

乾櫓跡より、北ノ門跡を見下ろします。復元模型では、北ノ門の東西に多門が延び、西では一旦南へ折れてから再び西へ折れて乾櫓に接続し、東では南へ折れて瓦塀に接続しています。つまり写真の向きから見ると、北ノ門上部の多門は「逆コの字」型と言えます。乾櫓といい北ノ門といい、非常に複雑な形状をしており、興味深いです。

本丸内より、北ノ門跡を見ます。櫓門というよりは、多門の下部に設けられた「埋門」状の門という印象があります。北ノ門西側石垣は乾櫓台も兼ねており、先ほどの幅広石段は乾櫓へ上るためでもあり北ノ門上部多門へ上るためでもあると考えれば、納得かもしれません。

北ノ門を出てすぐ左(西)に、「奥去口ノ跡」という標柱が見えます。低い石垣も見え、絵図や復元模型では確認できませんでしたが、どうやらここにも出入口があったようです。緊急脱出口的なものでしょうか。近くで見たかったのですが、残念ながら関係者以外は通行禁止。

外側から、北ノ門跡を見ます。大きな礎石が残っています。確か前回は冠木門が建っていたのですが……よく見ると「本扉は仮設です」のお知らせ。改修後には、再び冠木門が建つのでしょうか。

北ノ門跡の東に延びる、本丸北辺石垣を見ます。隅石に矢穴が見えます。

本丸を一周し、天守南東の祈祷櫓から一ノ門を経てぐるっと北ノ門まで、天守付近を除くほぼ全周が多門で囲われ各櫓を連結していたことが分かりました。なんという高防御。

 

北ノ門跡より本丸を出て、お城の北側を見て回ります。

北ノ門跡を出ると腰曲輪で、東に虎口があります。

腰曲輪と東の中曲輪をつなぐ虎口、水の手門跡です。中曲輪から侵入する場合、門手前で右折し、門をくぐって左折しないと先へ進めません。水の手門跡には、礎石が残っています。

えっ、これも礎石……? 何故、排水溝の左ではなく右、スペースの少なすぎる場所を選んだのでしょうか。

水の手門跡西側の石垣は非常に整っており、大きな石材が使われています。左の隅石には矢穴が見えます。刻印は……見えるような見えないような?

水の手門跡東側の石垣も良く整っており、大きな石材も見られます。刻印らしき紋様はいくつかあるような気がしますが、上から二段目の隅石の左にある「口に井」は鮮明に認められます。

水の手門跡を出て左折すると石段があり、腰曲輪と中曲輪との高低差が分かります。石段の下、左に見える池は馬洗池で、右の草地に立つ標柱がギリギリ井戸跡です。門を出てすぐの所に池や井戸があったから「水の手門」と呼ばれたのかもしれません。

石段途中より、水の手門跡を振り返ります。右の段差のある石垣にも刻印らしき紋様がちらほら。

石段を下り、中曲輪へ入ります。

中曲輪から見ると、腰曲輪の石垣は相当な高さです。石段右手にある石垣の段差は、何か意味があるのでしょうか。

高石垣の右寄り上部に隅石のような方形の石材が三段程度見えますが、虎口形状など縄張りに変更が生じたのでしょうか。

腰曲輪石段の南東にある、ギリギリ井戸跡です。名前の由来は諸説あるようですが、現在は付近に井戸は見当たりません。奥に見えるのは腰曲輪の石垣で、その上は本丸石垣です。

ギリギリ井戸跡の東に見られる石列は、当時のものでしょうか。

腰曲輪石段の北東にある、馬洗池です。環境修復作戦は、今も継続中でしょうか。

左手に馬洗池(写真外)、右手に中曲輪石垣の北西隅が位置するこのあたりに「ギリギリ門」が建ち、中曲輪と北側を区画していたようです。

ギリギリ門跡を出て、中曲輪北辺の石垣を見ます。ここから東へ歩くと、脇虎口之門跡から城外へ通じる北惣門橋があります。

ギリギリ門跡から、西へ歩きます。

北之丸跡には現在、松江護国神社が建っています。鳥居が半分しか写っていませんね……。堀尾吉晴公は築城時に、北之丸に仮の御殿を築いていたと言われているそうです。

鳥居の西では、当時のものと思われる北之丸石垣が見えます。

さらに西へ歩くと、城山稲荷神社の入口があります。鳥居の前には、令和の旗。ここを直進して左へ行った所に神社があり、小泉八雲お気に入りの石狐もいるとか。

まだまだ西へ歩き、お城の北西、搦手之虎口まで来ました。写真左は内堀に架かる稲荷橋で、これを渡ると城外ですが、橋の手前を少し戻って右へ進むと……。

搦手之虎口広場があります。かつては侍屋敷等があったようです。

搦手之虎口に戻り、稲荷橋を渡ります。橋の向こうに見える石垣は、当時のものでしょうか。

 

稲荷橋を渡ると、城外です。

稲荷橋のすぐ北西に、内堀北西から西へ延びる川に架かる新橋があります。新橋を渡って内堀沿いに北へ歩くと、塩見縄手です。

塩見縄手西端の交差点そばに小泉八雲の記念館、その東には旧居があります。

武家屋敷が並んでいたという塩見縄手は、今も下見板張りの建物や塀が連なり、伝統美観保存区域に指定されているそうです。

塩見縄手で唯一、当時の姿が残るという武家屋敷。マンホールの蓋にもデザインされています。長屋門全体を撮影すべきだったし、マンホール蓋と同じアングルの写真が欲しかったですね……。

長屋門の左手に、厩。

武家屋敷の主屋です。

塩見縄手を東へ歩き、お城の北東まで来ました。右の石垣が二之丸下ノ段の北東隅、中央奥が北惣門橋です。

北惣門橋のすぐ北東には、内堀から東へ延びる川に宇賀橋が架かっています。擬宝珠のある木橋と、川沿いの石垣と、遊覧船。風情があります。

北惣門橋の東、家老屋敷が並んでいたというエリアに建つ松江歴史館。武家屋敷風の外観は、城下町にとても調和しています。

出雲では、江戸時代から金魚の飼育・品種改良が盛んだったそうです。いずもナンキン。

歴史館内には当時の姿に復原された、松江藩家老朝日家長屋があります。

二之丸下ノ段石垣と遊覧船の浮かぶ内堀を見ながら南へ歩きます。ちょうど石垣の中央付近に、横矢部分が見えています。

亀が乗る石列も、当時のものでしょうか。

大手口東(大手前)にある遊覧船乗り場は、盛況です。橋の下に雁木が見えますが、当時もこの辺りは舟着場だったようです。

帰りに大手前の南付近から、南櫓と中櫓を見ます。天守の頭も、わずかに。

三之丸の東から、南櫓、中櫓と、天守です。

中櫓が見えなくなりましたが、天守がよく見える角度で。

 

締めは、天守です。

外観のチャームポイントである花頭窓は北面にもあります。両脇に窓があるので、この白壁部分が顔に見えて、とっても可愛いです。

天守西面は白壁の面積が少なく、重厚さを感じます。

二階の隅と中央にある石落とし、ここにあるんだと思って見ると、形状がよく分かります。

木で附櫓が隠れると、また違う顔を見せてくれます。

上層の屋根の重なりは、とても複雑。

 

記事を書き進めるほど一部写真の、特に天守内撮影のクオリティの低さに愕然。彫込番付など解説ポイントすら見逃す自分にガッカリ。西ノ門跡や後曲輪など回れていないエリアもあり、再訪を心に誓います。

 

現存天守だけでも見所満載なのに、復元櫓、独特の虎口構造、実は刻印だらけの石垣など、知れば知るほど魅力あふれる松江城。まだまだ知らない顔を見せてくれそうで、次の訪問が今から楽しみです。

御城印には上から松平氏三つ葉葵)・堀尾氏(分銅紋)・京極氏(四つ目結)と、歴代藩主の家紋が並んでいます。

日本100名城スタンプラリー、こちらで45城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。