お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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  • 2024/6/9「11-2.竹田城」(2019/5/12訪問)の記事をアップ

81.高取城(その2)

その1の続きです)

城代屋敷跡を過ぎ、目の前に現れた石垣に度肝を抜かれました。大手門跡の枡形虎口です。これまで見てきた門跡でも石垣がよく残っているものだなあと感心していたのですが、まさかここまで往時のままにそそり立つ石垣が見られるとは! いやー、来た甲斐がありました。

長ーく延びる大手門北側石垣に沿って、西へ歩きます。

前方右手に、石垣の開口部が見えてきます。壺坂口中門跡です。

壺坂口中門跡には大きな礎石が残っており、門跡だとよく分かります。奥の階段を下りると壺坂口門跡があるようですが、今回は未訪です。

城外側より、壺坂口中門跡を見ます。門を越えた敵は、正面に立ちはだかる高石垣に怯んだことでしょう。

壺坂口中門両脇の石垣を見ます。礎石は加工・整形されているように見えます。

大手門跡まで引き返します。奥の石垣左隅には、角櫓があったようです。

大手門北側石垣の北西隅です。算木積みは未発達ですが、隅部は石材の形状・方向が考慮されて積まれています。右の低い石垣は、崩落防止の「はばき石垣」でしょうか。

高さがあり、長さもある大手門北側石垣。うーん、素晴らしい。

道を挟んで北には、城代屋敷跡の南側石垣が延びています。

戻ってきました、大手門跡虎口。正面奥の石垣上に竹櫓が、虎口を右折したところに大手門が建っていたようです。

大手門付近から本丸の西を見上げるように撮影された古写真が残っているようで、左の再現CGに説得力が増します。本丸まで、200m。

大手門虎口手前の東側は深い谷となっていますが、どうやら手前(北)側に下りられる道があるらしく、下りた先に吉野口門跡があるようですが、今回は未訪です。

説明にあるとおり、二の門・壺坂口門・吉野口門のいずれから侵入しても道は大手門の前に通じ、大手門以外からは二ノ丸・本丸へ入れない構造となっています。

大手門北側石垣、苔生しながらも崩れそうな危うさを微塵も感じない力強さがあります。

隅部は不揃いですが安定感すら感じます。ワイルド!

大手門虎口東側の石垣は石材がよく加工され矢穴が見られ、門北側石垣とはかなり様子が異なります。積まれた時代が違うのでしょうか。

大手門跡です。石段の上あたりに、門が建っていたのでしょうか。門を越えると正面には石垣。今後は左折を強いられます。

字が消えかけた、古い「大手門跡」の立札もあります。

大手門跡を振り返ります。右の石垣上には竹櫓があり、大手門へ迫る敵を迎撃したと思われます。竹櫓台の手前に四角い石が見えますが、大手門の礎石でしょうか。

大手門で右折、左折と勢いを削がれた上に、その先には石段。敵兵の体力は、順調に奪われます。

竹櫓台の背後(南)には、櫓へ入るために設けられたと思われる石段が見えます。

大手門を越え、現れた二ノ丸北辺の高石垣に大興奮! 石垣上には多門櫓が建っていたようなので、どうにか大手門を越えてきた敵兵は絶望する暇もなく蜂の巣だったかもしれません。多門櫓跡高石垣の左(東)が、二ノ丸虎口です。

竹櫓の東、二ノ丸の北は広い曲輪となっています。右奥が竹櫓台、左奥が二ノ丸虎口です。

二ノ丸北辺石垣の東側には鈍角の出隅がありますが、この上に櫓は建っていなかったようです。石垣の中ほどから木が生えており、危険な感じです。

二ノ丸虎口まで戻ってきました。道は石垣の壁により、右へ折れています。

手前には加工された礎石。虎口の手前側にも門があったのでしょうか。そして奥には「十三間多門跡」の立札。多門櫓の長さが十三間(約23.7m)あった、ということでしょうか。

左(東)石垣では隅石の隣にある礎石、その石列の延長は右(西)石垣の中ほどとなり、多門櫓が建っていた右の高石垣が手前(北)にせり出していることが分かります。

この虎口奥に建っていたと思われる十三間多門は一階部分が門、二階部分が多門櫓となっており、多門は右(北)で西へ折れ、北辺石垣上に延びていたようです。ここにも、門礎石らしき平たい石がいくつか見えます。

北辺石垣の内側は中央部分が欠けた凹の字型をしています。この部分は、多門櫓に地下室のような空間があったのでしょうか。

 

十三間多門跡を越えると、二ノ丸です。

十三間多門跡から180度ターンしないと本丸方向には進めず、虎口構造はどんどん厳重になっていきます。

低い石垣の開口部には門が、その奥には長屋状建物があり、御殿のある右(南)エリアと左(北)の本丸へ向かう城道が区画されていたようです。奥に見える高石垣は、太鼓櫓・新櫓台です。

右の沿革は字がかすれて判読困難です……。左は、高取城が比高日本一(446m)、岩村城が標高日本一(721m)、備中松山城現存天守日本最高所と、何故この三城が日本三大山城なのかを簡潔に理解できる説明板です。

御殿があったという二ノ丸は非常に広大で、今は東屋が建つだけの広場となっています。右端は、先ほど通った二ノ丸虎口です。

二ノ丸南西、客人櫓跡と思われる高まりです。櫓の基礎らしき石列が見られます。

客人櫓跡より、二ノ丸を見ます。

客人櫓台から下をのぞきます。葉の陰に低い石垣が見えますが、補強用「はばき石垣」でしょうか。

客人櫓台より、二ノ丸西辺石垣を見ます。

おそらく、客人櫓台の東にある二ノ丸南辺石垣の折れ部分……かと思われます。

二ノ丸と本丸の間にある高石垣は昭和四十七年に修復されたそうで、美しく整っています。北側に太鼓櫓、こちら南側には新櫓が建っていたようです。隅部の算木積みは、未発達です。

南東より、新櫓台を見ます。現在は新櫓台の南側を通って二ノ丸から搦手へ行き来できますが、当時は仕切門などがあったのでしょうか。

訪問時は蜂(スズメバチ?)が飛び回っており、撮影に集中できなかった記憶があります……右上に写っているの、蜂かもしれません。

新櫓台の東にある、搦手虎口です。石段の上あたりに門があったのでしょうか。石段を上ると、道は右折します。

搦手虎口の東側石垣は斜面を下るほど高さを増し、大迫力です!

足元をのぞき込むと、ここにも石垣。この先を下りると水の手「七つ井戸」ですが、今回は未訪です。

新櫓・太鼓櫓台の西側を北へ歩き、正規ルート(?)に戻ります。

太鼓櫓台(写真右端)の向こう(東)には本丸へ通じる門がありましたが、その手前、太鼓櫓台の北側には低い石垣により食い違い虎口が形成されています。虎口の厳重さが増し、本丸が近いことを感じます。

低い石垣は非常に整っていますが、太鼓櫓・新櫓台と同時期に修復されたのでしょうか。

このあたりに門があったと思われます。二ノ丸からは左折、右折、もう一度右折しないと、次の虎口へ到達できません。

食い違い虎口を越えた先にあるのが、十五間多門跡です。二ノ丸虎口より二間ほど長い十五間(約27.3m)の多門櫓が石垣上に建ち、開口部に門があったようです。

十五間多門は西側で太鼓櫓と接続しており、立札背後の石垣には両方の櫓が載っていたようです。右手前の石材、矢穴がずらり。

門両脇の石垣上に、十五間多門が建っていたようです。石段最上部には平たい石があり、門礎石かもしれません。

十五間多門跡を越えると、右(西)には太鼓櫓・新櫓台。二つの櫓台が連結された凹字型の石垣中央部に石段が設けられています。

太鼓櫓台の東、十五間多門が載る箇所には、石垣が東へ延長されたような痕跡(「太鼓櫓跡」立札のすぐ右に石垣隅部の直線的なラインが見える)があります。石垣構築後、何らかの縄張り変更があったのでしょうか。

搦手虎口を、城内側から見ます。新櫓台東側から、虎口を形成する石垣が延びています。

搦手虎口の道は右折し、本丸後方へ延びており、その先には……!

 

本丸が、すぐ其処に迫ります。

十五間多門東側石垣です。左端に十五間多門が載り、中央やや右には草で埋もれて分かりにくいですが、石垣へ上るための石段があるようです。

草に埋もれた石段の右で櫓台石垣に接続し、道は右へ折れます。櫓台手前の低い石列は塀跡で、櫓台と塀の間には「下ノ門」が、櫓台上には「石火矢櫓」が建っていたようで、この狭い道を通らないと本丸に行けません。小さな下ノ門を目指して櫓台めがけて駆けてくる敵は、正面の石火矢櫓からことごとく狙い撃ちされたことでしょう。

下ノ門を越えると道は左折し、石段を上る間にもすぐ左の石火矢櫓から執拗な攻撃を受けそうです。

石段の右にそびえる杉の巨木は高取城の別名・芙蓉城から「芙蓉姫」と名付けられています。樹齢七百年、築城以前から此処にあったと思われ、その樹高は本丸石垣を遥かに凌ぎます。大自然の驚異には圧倒されますが……驚愕すべきは、その背後。

高さ約12m、城内最大を誇る本丸天守台石垣です。見上げ、しばし放心してしまいました。これは……何だ。どうしてこれだけの石垣が、四百年以上の時を経てなお、その威容を保ち続けているのか。大手門跡を見て「来た甲斐があった」と思ったのは何だったのか。何もかも、圧倒的すぎて、うまく言葉にできません。

古びた小ぶりな城址碑が、「これが高取城だ」と厳かに告げます。ああそうか、これだったんだ。駅から6kmもの道のりと比高446mの登山はしんどかったけれど、これに会うために、この光景を見るために、ここまで来たのだ、と。理解させられました。ありがとう。ありがとう。

天守台の隅部は見事な算木積み。その稜線には一切の反りがなく、直線的です。中央部がやや孕み、微塵も綻びがないとまでは言えませんが、これまで見てきたどの石垣よりも安定感があり、苔生した姿と相俟って、まるで太古の昔からこの地に佇んでいるように思えます。

石段を上って左、天守台と石火矢櫓台との間には加工された礎石が並んでいます。上ノ門跡です。まず右折、下ノ門を越えて左折、石段を上り左折すると上ノ門、道はずっと石火矢櫓台に沿っており、常に石火矢櫓の射程を進むことになります。本丸への虎口は、上ノ門を越えた先にあります。

石火矢櫓台から、すぐ南の石段を見ます。櫓台には、瓦が落ちています。

石火矢櫓台から、本丸西下段の曲輪を見ます。手前に櫓台を囲う塀跡の石列が見え、石火矢櫓から撃たれ放題間違いなしな本丸への狭い道の様子がよく分かります。奥には新櫓・太鼓櫓台が見えます。

石火矢櫓台の前(東)にある碑には「巽高取 雪かとみれば  雪でござらぬ 土佐の城」と謳われ、城下町の南東(巽)に位置する山頂の城郭は天守・櫓・塀など城漆喰の建物群が並ぶ白亜の装いで、まるで冠雪のように見えた……というところでしょうか。

天守を最奥ではなく、あえて本丸で一番最初に見える所に建てているのがまた良いですね。この上に三重の天守が建つ圧倒的威容は戦意喪失待ったなし、太平の世でも来客に権威をこれでもかと見せつけたに違いありません。

本丸帯曲輪と本丸西下段の曲輪とは高低差が少なく低い石垣があるのみですが、当時はこの石垣上に塀がありやすやすとは越えられず、本丸へ入るには先ほどの下ノ門・上ノ門を通るしかなかったようです。

 

本丸へ入る前に、帯曲輪を歩きます。

今いる所は帯曲輪で、本丸の外周を取り巻いています。天守台の前から、上ノ門と逆方向に帯曲輪を歩きます。

稜線だけでなく、正面も側面もまっすぐな天守台。ここまでの「直線の美」を持つ石垣も、珍しいのではないでしょうか。

搦手虎口の東側石垣、見下ろしても大迫力です。

未申櫓が建っていた帯曲輪の南西隅から、小天守が建っていた本丸高石垣を見上げます。

間近から見上げる小天守台、大天守に負けず劣らず素晴らしい石垣! 矢穴のある石材がいくつか見えます。

天守台の東からは、内側に湾曲する長大な本丸南石垣が連なります。

天守台も、大天守台と同じく反りのない、直線的な石垣です。

本丸南石垣の東端には、崩落防止補強用と思われる低い石垣。

反対側から見ると、本丸石垣の構築後に積まれたことが分かります。矢穴だらけ。

波のようなラインの入った瓦を発見。このあたりでも、大量の瓦が見られます。

帯曲輪南東隅に、櫓の基礎と思われる石列。ここには辰巳櫓が建っていたようです。

辰巳櫓跡の北にある、帯曲輪東石垣の出隅……だと思われます。

出隅の北には、しっかりとした櫓台があります。ここには平櫓があり、西には帯曲輪を仕切る門が建っていたようです。

櫓台への石段も、しっかり残っています。

本丸東石垣です。本丸南東隅には煙硝櫓が建っていたようです。

本丸東石垣の北端にも、補強用と思われる低い石垣。本丸北東隅には、鉛櫓が建っていたようです。

南東とは異なり、本丸北東隅を囲うように低い石垣が築かれています。北東隅が入隅となっているのは、「鬼門欠け」でしょうか。

鬼門欠け北東隅の北面にも低い石垣。本丸北東部の石垣は非常に複雑な面構成となっており、見応えがあります。

さらに西へ歩くと見えてくる低い石垣は補強用ではなく、本丸虎口のものです。

本丸虎口の北、帯曲輪の北端部には、狭い虎口があります。

虎口は西に開口部があり、絵図等を見るとここを出て斜面を横移動すると大手門東の曲輪へ、あるいは北側へ下りていくと本丸北東の腰曲輪にも到達できそうな気もしますが……この先は未訪です。

虎口は右折二回で本丸へ入る構造です。

虎口上部のこの位置に、櫓基礎と思われる石列の隅部……この付近には「十方櫓」という櫓が建っていたようですが、もしかすると虎口を覆い隠すように櫓が建ち、有事の際には櫓地下に秘められたこの虎口が城主を逃がすための緊急脱出ルートだったのでは……などと、妄想がふくらみます。

 

帯曲輪をほぼ一周したところで、いよいよ本丸へ向かいます。

これは見事な現地調達木工アート。木彫りの熊に案内され、右奥に見える本丸虎口へ歩きます。熊の左に見える木彫りは、大天守でしょうか。

先ほども見た低い石垣が本丸北側へL字型に張り出し、外枡形虎口を形成しています。

本丸虎口のすぐ背後には二重の「鐙櫓(※「具足櫓」とする資料もあり)」が建っていたようで、虎口へ迫る敵を背後から狙撃、狙撃です。

虎口を直進すると門があったようで、よく見ると礎石らしき平らな石が残っています。

鐙櫓の東からは多門が延び、この先にある櫓門に接続し、その両方がこの石垣に載っていたようです。下の方には鏡石らしき巨石を配置しており、さすが本丸虎口です。

鐙櫓と多門からの攻撃を振り切って本丸虎口最初の門を突破すると外枡形の道は右折、右折と180度ターン、今度は櫓門が行く手を阻みます。

櫓門跡には加工された礎石がしっかり残っています。

櫓門を越えても正面に鐙櫓、右に多門。攻撃の手は緩みません。

櫓門を越え、石垣の壁により左折を強いられた先は……なんと、左右に分かれ道。ここが、高取城の本丸における大きな特徴であり、とても面白いポイントです。

櫓門の南石垣。石材大きめ、矢穴たくさんです。

来た道を振り返ります。右奥の開口部を跨ぐように、櫓門があったようです。

さて、丁字路です。写真は西側の分岐路からもう一方の東へ延びる分岐路を撮影したもので、左手が来た道、左奥は櫓門の南石垣です。縄張りの定石で行けば、最初の門から180度ターンさせて櫓門、さらに180度ターンさせて天守と逆方向に進ませる正面(東)のルートだけあれば良いように思いますが……。

何故か、反対側、天守への近道となってしまう西にも、ちゃんとした道が設けられているんです。もちろん素通りできるわけではなく、この西の分岐路入口には門があったようです。礎石らしき石も見えるような……。

西の分岐路を進んだ突き当たりです。正面石垣の右下にある隙間、石のズレで生じたようには見えないのですが……排水口でしょうか。

突き当たりで右を向くと、階段。上には門があったようですが、その先正面には大天守の真東にある鐙櫓、左手にはすぐ、大天守です。

西の分岐路を振り返ります。階段の上には門礎石らしき石が見えます。あまりにも容易に天守まで来れてしまうこのショートカットルート、これもまた城主用の緊急脱出路だったのではないでしょうか。大天守からこの道を通り速やかに本丸を出た後に、本丸虎口のすぐ北にある帯曲輪北端の櫓地下虎口から逃げ延びる……妄想は尽きません。

西側から、本丸虎口を見下ろします。多くの屈曲と謎の分岐を備えた、城内で最も堅固な虎口です。

ちょっとズルをしたような気分ですが、ショートカットから本丸へ入りました。西の分岐路の南側、本丸中央の広い空間には、御殿が建っていたようです。

右が鐙櫓台、正面が大天守台です。

天守台の南には大きな井戸があり、東側には井戸を囲うような石列が見えます。

西の分岐路を南から見ます。正面石垣の隙間が気になります。

ぐるっと回り込んで、東の分岐路東端から西を見ます。道は微妙に南側へ曲げられ、右折、左折の後ようやく本丸へ入れる構造です。

東の分岐路からの直進を阻むのがこちらのL字型石垣。出隅部分には、平櫓が建っていたようです。

平櫓跡の西には雁木が設けられています。左(東)の平櫓、あるいは右(西)の本丸虎口櫓門へ入るためのものと思われますが、この位置だと東の分岐路から侵入してきた敵も入れてしまうのでは……。

平櫓跡からは本丸虎口がよく見え、ここからも敵を迎撃出来たでしょう。

東の分岐路東端を北から見ます。道を横切る石列のあたりに門があったようです。

東を向き、本丸北東隅の鬼門欠けを撮影したのですが……これは盛大なピンボケ。

鬼門欠けに接近します。櫓台との間に段差があったのは、下からだとよく分かりませんでした。高くなっている櫓台に建っていた鉛櫓は、三重の大きな櫓だったようです。

南東隅の煙硝櫓(こちらも三重の櫓)跡付近から本丸南石垣を見ると、内側に湾曲している様子が分かります。北東隅の鉛櫓と煙硝櫓は多門で連結し、煙硝櫓と南西隅の小天守も本丸南辺に延びる長大な多門によって連結されていたようです。ここから一番奥の小天守台手前まで続く多門櫓……長い!

天守台です。三重の小天守は大天守には及ばないものの、かなり大きな櫓だったことが天守台のサイズから分かります。

天守台の北には大天守台。小天守と大天守も多門で連結され、しかも二層の多門櫓だったようです。大小天守と櫓を多門で連結する連立式天守は姫路城・和歌山城松山城などいくつかありますが、本丸のほぼ全周を多門で囲ってしまうというのはスケールが大きく、非常に堅固な構えです。

天守台へ近付きます。この隅部の直線美!

天守台の地下部分は穴蔵となっており、開口部の中に地下室スペースがあります。開口部左側石垣の一番上と上から四段目の隅石は、古墳の石棺を用いた転用石だそうです。右側石垣には、矢穴がたくさん見られます。

穴蔵へ入ってみます……が、建物が失われ地下から上がる階段もないため、ここから天守台上には行けません。

現在は大天守台の東、鐙櫓台上に階段が設置され、天守台に上ることができます。

鐙櫓台からは、本丸虎口が丸見えです。

天守台上から、穴蔵を見下ろします。

穴蔵のこちら(西)側、石垣が少し低いように思いますが、ここに一階への階段があったのでしょうか。

おそるおそる、下をのぞきます。ひえー。

本丸西下段の曲輪が一望。

天端石にも、矢穴。

北側、本丸虎口方向。

本丸南辺多門跡の中央手前にある、本丸の説明です。鉛櫓台下の付台石垣には、胴木が敷かれていたんですね。

多門櫓基礎石垣に設けられた、少し怪しい石段。ここに多門櫓の出入口があったのか、あるいは後付けの観光用か。

本丸南辺にはこのように、多門櫓基礎と思われる低い石垣が良く残っています。

本丸を下り、天守台に別れを告げます。まずは北から。

西から、芙蓉姫とツーショット。樹高26m近い姫が普通の木に見えてしまう天守台の破格さ。サイズ感がバグってきました。

逆にこの写真だと姫の存在感ゆえか天守台がなんだか小さく見えてきます。不思議。

 

再び、城下へ向かいます。

一時間ほど歩き、夢創舘へ戻ってきました。

ここは大正初期に呉服商として建てられ、現在は観光案内所「夢創舘」として利用されているようです。100名城スタンプは、こちらで押しました。

左の司馬遼太郎氏の文章、訪れた今ならしみじみと同意できます。あれは日本のアンコールワットです。ええ、ええ。間違いない。

夢創舘の建物内には日本百名城認定証のほか、古写真等の展示や再現CGの上映が行われていましたが、撮影の可否が不明だったので、掲載は割愛します。

最後に訪れたのは、移築門のある子嶋寺です。

少し読みづらいですが……ここに移築されたのは「二の門」で、松ノ門が一部焼失した今となっては、原形を保つ唯一の高取城内建造物、ということになるでしょうか。(前半で見た移築火薬庫については、城内での所在地含め、詳細不明です)

こちらが、移築二の門です。ぶっとい本柱や桁の形状は松ノ門によく似ており、同じお城の門というのには、大いに納得です。

門扉も年季が入っています。二の門の外門は冠木門だったようなので、こちらは内門ということになるでしょうか。

幟で見た城主・植村氏の家紋「丸に一文字割桔梗」の屋根瓦が、これは間違いなく高取城の門であると、誇らしげに語っているように思えます。かつては大小天守のほか二十七の櫓と三十三の門が建っていたというのに、原形を留める建造物がこれだけなのはなんとも寂しい限りですが、それでも、よくぞ残ってくれました。

 

長時間の徒歩、登山を経て、土へ還る石垣の数々をかいくぐった先に力強く残る大手門、二ノ丸石垣、そして……天守台。疲れも吹っ飛ぶあの衝撃は、現地を訪れないと味わえない気がします。広大な縄張りは未訪のエリアも多く、またいつか、必ずや、「日本最強」に会いに行きます。

御城印にはやはり、丸に一文字割桔梗紋。登城証明書と家紋バッジも頂きました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで46城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。