お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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  • 2024/6/9「11-2.竹田城」(2019/5/12訪問)の記事をアップ

81.高取城(その1)

高取城に行ってきました。

日本100名城(No.61)に選ばれた、奈良県高市郡高取町にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

壺阪山駅から、お城を目指します。案内によると、ここから南東6km!

NHKの番組で「日本最強の城」に選ばれた高取城。幟には城主・植村氏の家紋「丸に一文字割桔梗」があしらわれています。

駅の観光案内を見ます。キトラ古墳まで15分か……いやいや、今日はお城です。

 

まずは、城下を歩きます。

駅近くの案内を見て、これから見るポイントをチェックします。はて、ここは高取なのに「土佐」街道とはこれ如何に。

駅にはお城まで6kmとあったので、4kmとは砂防公園までの距離でしょうか。移築門のある子嶋寺には、後ほど訪れます。

土佐街道を、南へ歩きます。

高取町のすぐ北は明日香村。案内図のタイトルも「飛鳥観光」となっています。右の立札は土佐街道の説明ではなく「まちなみ作法(周辺景観住民協定)」でした。

案内にあった「昔のたたずまいの残る薬屋」です。一階の格子や二階の虫籠窓が、江戸時代の風情を今に伝えます。

土佐街道の両脇には水路が流れ、道の端は石畳。先ほどの薬屋のような昔ながらの建物が多く残ります。二階部分の天井が低い町家を「つし二階建て」と言うそうです。

今回最初に出会ったお城の痕跡がこちら、藩主下屋敷の移築表門です。非常に状態が良く、修理・改変があるのかもしれませんが、貴重な現存遺構であることは間違いありません。現在は、石川医院の門となっています。

屋根瓦は植村氏の家紋とは異なるようですが、石川さんの家紋なのでしょうか。

奈良産業大学のプロジェクトによる再現CGが壮観です!この看板のあたりで、土佐街道は南東へ折れます。城跡まで、約5km。

街道・町名「土佐」の由来はなんと、今から千四百年も遡るものでした。確かに明日香村のすぐ南、飛鳥宮からも程近い場所になります。ここは大年寄・池田邸屋敷跡だそうで、碑があります。

資料館では、ドローン映像やパネル展などがありました。街の駅「城跡(きせき)」。

夢創舘には、後程訪れます。

札の辻跡です。カーブミラー脇の道標には「右 つぼさかよしの道」と書かれているそうです。

札の辻跡の東にある児童公園には、貴重な現存建造物のひとつ、松ノ門が移築されています。

大手門の三つ手前に、松ノ門があったようです。

移築後、火災で一部焼失し解体保存されていたという松ノ門。屋根部分が焼失してしまったのでしょうか。それでも、よくぞ残ってくれました。

形式としては、薬医門になるでしょうか。ぶっとい本柱や桁に、立派な城門の風格が漂います。控柱や門扉の部材は新しそうですが、復元部分でしょうか。

田塩家長屋門です。二つ並んだ与力窓、左が写っていません……。

武家屋敷地への入口に建っていたという巨大な二階建て長屋門・総門は現在失われており、碑と説明版があります。

総門左手の土塀は今も残り、当時の様子を伝えます。総門の東に、藩主下屋敷があったようです。石川医院に移築現存する表門は、もともと藩主下屋敷にあったものです。

坂の途中に建つ、植村家長屋門です。もと筆頭家老の屋敷で、現在は旧藩主・植村氏の住居となっているそうです。屋根瓦の家紋は、筆頭家老のものでしょうか。長屋門の南が、藩主下屋敷跡です。

瓦を釘で留めてあるのでしょうか、白い点がデザインのアクセントになり、とても美しい海鼠壁です。

重厚な門扉の右には、脇戸と格子窓があります。

 

城下町を過ぎ、お城を目指して歩きます。

馬冷と呼ばれる場所を過ぎ、民家がまばらになります。

砂防公園の入口付近まで来ると、案内がたくさん。自販機は、これより先には無かったように思います。

お城へは、直進です。

道沿いにはためく、数多くの幟。日本最強の城へ、歩みを進めます。

ここより本丸まで、トイレはありません。用は確実に、済ませましょう。

正面奥に見える民家の蔵は、お城から移築された火薬庫ではないかと言われているそうです。本丸まで、2.5km。

 

いよいよ、お城へ入っていきます。

沢に架かる橋の向こうに、黒門跡の立札。高取城第一の門であり、ここからが「郭内」です。

黒門跡の脇に積まれた石垣は、当時のものでしょうか。

しばらく歩くと、分かれ道があります。右へ行くと初代藩主・植村家政公の下屋敷があった場所で、現在は藩主の菩提寺・宗泉寺(未訪)があります。お城へは、直進です。

このあたりは別所郭という曲輪で、黒門は別所郭の入口にあたるようです。そしてなんということでしょう、案内には「いよいよ山登りのはじまりです」とあります。ここまで結構登ってきたつもりでしたが、まだ始まってすらいなかったとは……。本丸まで、約1.8km。

案内図の先へ歩くと、道の分岐があります。いや分岐……? 左の先には、はたしてちゃんと道はあるのでしょうか……? とりあえず右がお城で、ホッとしました。

道の脇には、わずかに石垣。

かなり大規模な石垣もあります。これらも、高取城の遺構でしょうか。

道に散乱している石は、石垣が崩れたものかもしれません。

この先が、七曲りです。本丸まで、約1.7km。

立派な城阯碑です。でも何故に七曲りの始まる、この場所に建てたのでしょうか。もしかすると「ここから先に、お城の跡が良く残ってるよ」ということかもしれません。

右へ左へ、ぐねぐねとカーブする七曲り。途中、小さな城「趾」碑がありました。

こういう道は当時のままなのかもしれない、などと思いつつ。

道の脇には、石垣により小曲輪が造成されているような場所がいくつかあります。

石垣で城道を造成したような箇所も。

この先が、一升坂です。本丸まで、約1.2km。

先が見えない七曲りもきついですが、急な上り坂が一直線に見えている一升坂も、こたえますね……。

一升坂の谷側には、石積みがあります。きつい上り坂、ふらつきによる転落防止でしょうか。

上の方に、少しだけ石垣。

おおっ、これは郭内に入ってから一番しっかりした石垣のように思います。道の脇には石列があり、石段も築かれています。

右側にも、しっかりした石垣。

岩屋不動は、未訪です。

道の折り返し部分は隅に巨石を用いた石垣で、しっかり補強されています。

次第に石垣を目にする機会が増えてきます。この上の曲輪を造成するための石垣でしょうか。

本丸まで、760m。ついに、1kmを切りました。

ここで道は左へ分岐し、分岐点には何やら、ファンキーでモンキーな石像。猿石です。

飛鳥時代に作られたと考えられている猿石。デフォルメされた二頭身で、確かに男根らしき表現もみられます。石垣に使われずここに置かれたのは目印・魔除けなどの意味があったのでしょうか。

左はこれ……どうなっているんでしょうか。

背中にも何かありますが……うーん。

猿石の道を挟んで東には、石垣が北へ長く延びています。明日香村栢森の案内に従って北へ進むと岡口門跡があるようですが、今回は未訪です。

これは……先ほどの長い石垣の一段上にある石垣、かと思われます。後から見返すと、何処を撮影したのか分からなくなるような写真には気を付けないと、ですね。

道の右手には、崩壊した灯籠。八幡宮が、この近くにあったのでしょうか。

 

猿石を越え坂を上ると、「城内」です。

二の門跡です。ようやくお城らしい構えの石垣が現れ、テンションが急上昇します。二の門跡手前の土橋部分に、当時は欄干付きの木橋が架かっていたようです。

なお、二の門は移築現存しており、後ほど見に行きます。

土橋から、来た道を振り返ります。橋の手前側にも、両脇に石垣が組まれています。

橋手前、東側の石垣を東から見ると、道に沿って続いているのが分かります。もとは道の両脇が石垣によってしっかり固められていたのでしょうか。

二の門跡の手前東側には、山城には珍しい水堀があります。門手前に木橋が架かっていたということは、手前の地面部分まで増水する場合があったのかもしれません。

奥の堤は中央部が凹んでおり、増水時には向こうの谷へ余分な水を落としていたようです。右側の低い石垣上をよく見ると、石組井戸があります。

山奥にこの高石垣! ここからは城内、やすやすとは越えさせぬ!という守りの意志を感じます。手前の低い犬走り状石垣の左に石組井戸があるのですが、低い石垣が土で埋もれて(崩れて?)いる部分には、もしかすると石垣へ上るための石段などがあったのでしょうか。

二の門跡両脇の石垣を見ます。この間には、冠木門が建っていたようです。

二の門跡東に延びる高石垣の隅部は算木積み。植物に覆われながらも、その威容を保ち続けています。

冠木門跡を越えると道は左折し、このあたりに内門があり、枡形虎口を形成していたようです。

門は失われても、立ちはだかる石垣が直進を許しません。

二の門を越えると「城内」。主郭部へ近付きます。

二の門を越えた所にある曲輪は侍屋敷跡らしいですが、かなり大量の瓦片があり、中にはかなり原形をとどめるもの、紋が残るものもありましたが、当時のものでしょうか。

これらは貴重な文化財かもしれません。触らず現状維持、見るだけにとどめます。

さすがに茶碗の破片などは現代の物だと思うのですが……。触らず、触らず。

侍屋敷跡を越え道は左へ折れ、右手に石垣が連なります。

この付近、あるいは少し手前が、三の門跡でしょうか。道を塞ぐように、門が建っていたようです。

ここまで黒門・二の門・三の門とありましたが「一の門」は無かったようですが……「黒門=一の門」ということでしょうか。

道の左手にも石垣。この石垣の北西隅が、二重櫓(三ノ門櫓)が建っていた場所と思われます(見えているのは南西隅)。

道の右手に見ていた石垣の切れ目です。この奥も侍屋敷跡で、右の石垣上には多門櫓が建っていたようです。

これは……。石の色から察するに、比較的最近石垣が崩壊した箇所かと思われます。木の根が原因でしょうか。おかげで、石材のもともとの白さは分かりましたが。

落石注意の看板まで、埋もれつつあります。ここまで崩壊が進むと、修理・整備は難しいのかもしれません。土から成ったお城が土へ還ってゆく光景が、なす術なく眼前に広がります。

またも立派な石垣が見えてきます。矢場門跡です。ここで右に国見櫓の案内。

先に、国見櫓跡へ向かいます。

右手に石垣。侍屋敷跡の曲輪外周と思われます。

大きな石材を用いており、見応えがあります。

国見櫓台に到着です。

城下町の南東に位置する高取城。北西に張り出した石垣上に建つ国見櫓からは城下が一望、まさに「国見」が出来たことでしょう。この国見櫓台、土佐街道から白い点として視認できるようですが、未確認です……。

おお、まさに大和国が一望! しかし高取城下は木に隠れてイマイチ……。

この石列、櫓の基礎部分でしょうか。

櫓台石垣も、よく残っています。

矢場門跡へ引き返します。

矢場門跡まで戻ってきました。立派な石垣は、門北側のものです。

矢場門跡南側の石垣は崩壊が進んでおり、ネットが張られています。ヤバ門です。

矢場門跡を越えると道は左折し、右手に雛壇状の侍屋敷跡が見えてきますが……石垣はほとんど植物に呑まれています。

左手の高い所にも、侍屋敷跡らしき曲輪の石垣。

手前の石垣は、もはや完全に崩壊しています……。

崩壊石垣を過ぎると、松ノ門跡です。麓の児童公園で見たのは、ここにあった門です。

門北側の石垣は矢場門跡と同じく防護ネットが張られており、基部にはコンクリートの崩落防止ストッパー?も見えます。

南側、立札付近の石垣も木の根等により崩壊寸前、ピンチです。

寸前石垣の先には石垣の壁。直進は、できません。

門北側石垣、どうやら防護ネットを鎖でコンクリートブロックに固定している模様。石垣のサイドにも、コンクリートブロックがあります。

門北側石垣の上部は侍屋敷跡で、絵図では北端と西辺に多門櫓が描かれています(撮影は南端から)。よく見ると、植物に埋もれかけた石段が見えるような……。

松ノ門は、このあたりに建っていたのでしょうか。

松ノ門から門が連続するエリアとなり、松ノ門跡を越えると次は、宇陀門跡です。

宇陀門の北、道の右手からせり出す石垣。この上には、到着櫓があったようです。

到着櫓を過ぎると道は右折し、枡形虎口状になっています。門南側の石垣上にも櫓があったらしく、宇陀門に迫る敵を両側から挟み撃ちです。

宇陀門跡を振り返ります。かなり高低差のある枡形で、急坂を上りながらの右折途中に両側の櫓から撃たれまくり……かなりのキルゾーンですね。

宇陀門南石垣は、植物に呑まれながらも持ちこたえている感があります。

宇陀門を過ぎると、千早門跡です。

宇陀門と同様、道の右手からせり出す千早門北側石垣。この石垣により左折を余儀なくされ、石垣に沿って180度ターンを強いられます。

そして千早門も、門両側の石垣上から狙撃されるキルゾーン。ずいぶん手前に立札がありますが、実際はもう少し奥、石列(礎石?)の見えるあたりに門が建っていたのではないかと思われます。

千早門南石垣、植物に負けず踏みとどまっています。

南石垣の南には、大量の瓦。

千早門を越えると、三ノ丸です。お城の中枢が、すぐそこに。

千早門跡を越えて正面、門北側石垣から連なる低い石垣の向こうが、城代屋敷跡です。

低い石垣の開口部……城代屋敷の門跡でしょうか。

 

城代屋敷跡を過ぎ、その先にあったのは……。

その2へ続く)