お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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5-2.高松城

高松城に行ってきました。

日本100名城(No.77)に選ばれた、香川県高松市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

かつての内堀内より、線路越しに本丸を見ます。南西隅にある地久櫓台の巨大さが、鉄道設備との比較でよく分かります。櫓台西面は、防護のためかネットで覆われています。

現在は、西側内堀跡に高松築港駅があり、本丸の西側スレスレから南の桜の馬場を縦断するように鉄道が敷設され、ことでんが走っています。

駅の南にある踏切より、本丸南面石垣を見ます。右奥のひときわ高い石垣が、天守台です。今いる所は桜の馬場と呼ばれ、本丸~三ノ丸の南側にあり東西に長く、当時は線路より手前(西)側にも桜の馬場が延び、その北にある西ノ丸と地続きでL字型の曲輪を形成していたようですが、現在は線路より西の桜の馬場と西ノ丸は市街地化しています。

線路は桜の馬場内で大きく東へカーブし、中堀の南へ抜けます。

線路の向こうに見える石垣は、生駒氏時代の大手門、古太鼓御門跡です。枡形虎口を形成していた石垣が、良く残っています。

線路沿いを東へ歩くと、桜の馬場の南東隅にある太鼓櫓跡が見えます。櫓台に建っているのは、移築された艮櫓です。

原位置にはありませんが、現存する貴重な三重櫓です。移築の際に石垣が拡張されたとのことですが、城内側(右)をよく見ると、確かに隅部が継ぎ足されているように見えます。

中堀の手前には石垣の天端石が見えていますが、ここは桜の馬場の東に位置する下馬所だったようです。

下馬所から、桜の馬場の大手を見ます。隅櫓と堀に架かる橋、門、遠く左奥に見えるは、月見櫓の屋根でしょうか。お城らしい素晴らしい景色です。艮櫓は本来の位置にないのですが……当時の太鼓櫓は、どのような姿だったのでしょうか。

 

東ノ丸へ向かいます。

作事丸だったとされる東ノ丸の南側に建つ、県立ミュージアムです。西側出入口前の石垣は非常に雰囲気出ていますが、位置的にも模擬だと思われます。

ミュージアムにはいくつか撮影可能な展示があり、そのうちのひとつ、復元された御座船・飛龍丸の一階御座之間です。カラフル!円形に囲われた天井画がなんともオシャレです。

ミュージアムの窓から、お城を見渡します。披雲閣、天守台、旭門、艮櫓などが見えます。奥のビル群や電車等と比べると、天守台や艮櫓の大きさが分かります。

ミュージアム東出入口から出ると、南側に石垣が延びています。模擬かもしれませんが、西側出入口にある石垣と違って、こちらは東ノ丸の東辺に沿って築かれていると思われます。

そして東出入口の北側に延びる石垣は、手前が復元、右奥に少し見えるのが現存です。

下側の解体復元部分と上側の再現部分には明確なラインが見えますが、石材の色味や積み方は揃えられています。

道路の向こうが、現存する東ノ丸東辺石垣の北側部分です。奥には、艮櫓台が見えます。道のあたりに、城外へ通じる門があったのでしょうか。

道を西へ歩くと職員専用門がありますが、当時は三ノ丸東辺のこの場所に門は無かったようで、後世に石垣を撤去して門を築いたことが、門両脇石垣の積み方が周囲と異なる様子から見て取れます。

道の南には中堀が延び、奥に旭橋と桜の馬場石垣が、右には竜櫓台と三ノ丸石垣が見えます。三ノ丸石垣の上部は色も積み方も下部とずいぶん異なりますが、後世の積み直しでしょうか。

中堀は本来もっと北まで入り込んでいたようで、道の北側も、そもそもこの道も、当時は堀の中だったようです。

職員専用門付近より、東ノ丸を見ます。堀際に見える西辺の石垣は、当時のものでしょうか。

それにしても三ノ丸東辺の石垣修理(と思われる箇所)は、ただ隙間を埋めただけというか何というか……酷いですね。そして写真のピンボケも酷い……。

東ノ丸の現存東辺石垣まで戻り、内側を北へ歩きます。周辺の開発が進む中、これだけの石垣が取り壊されず残ったのは、奇跡です。ミラクル!

東辺では、堀側に比べ城内側の石積みは低くなっています。

移築前の艮櫓が建っていた、東ノ丸の北東隅、艮櫓台です。松平氏時代に増築された東ノ丸石垣は打込み接ぎで、隅部の算木積みが整っています。櫓台の右下に石材が散乱していますが、これは何処から……?

艮櫓台から西側の東ノ丸北辺石垣は、城内側も高く積まれています。石垣を避けるように建てられた県民ホールの建築に、感心します。

石材は大半が花崗岩で、一部に安山岩や凝灰岩も見られるそうですが、一見すると色々な種類の石を用いているように感じます。カラフル。

東ノ丸北辺石垣は、西側で北ノ丸東辺石垣と接続しています。

北ノ丸東辺石垣を南へたどると、門跡があります。北ノ丸の東に設けられた、黒門跡と思われます。

 

下馬所まで戻り、大手から桜の馬場へ向かいます。

下馬所から桜の馬場へ斜めに架かる旭橋の手前に、玉藻公園の碑があります。城跡は現在、玉藻公園として整備されています。

下馬所にある案内図です。本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸と桜の馬場の東側が公園整備されており、それ以外の城域は、市街地化しています。

生駒氏時代に桜の馬場南側にあった大手は、松平氏の時代になって南東に移されたそうです。

旭橋より艮櫓を見ます。下方が大きく広がる石落しの影響もあってか、ずっしりと安定感のある印象を受けます。全ての階に多くの狭間が設けられ、石落しにも狭間があります。

艮櫓をよく見ると、鬼瓦はちょっと不鮮明ですが……唐破風の懸魚中央に、葵の御紋が見えます。生駒氏から松平氏に代わった時の初代城主は松平賴重公で、水戸黄門こと徳川光圀公の兄にあたる方だそうです。将軍家と近親な関係ゆえ、葵紋の使用を許されたのでしょうか。

旭橋の北には中堀が延び、右には東ノ丸、左奥には三ノ丸が見えます。

旭橋を渡ると、旭門があります。大手枡形の外門にあたる高麗門で、再建された門のようですが、一部に江戸期の部材が残るそうです。門左右の袖塀石垣は、表面仕上げが施された切込み接ぎです。

門の脇には、門松が置かれています。正面の枡形石垣には、巨大な鏡石が効果的に配置されています。

旭門を内側から見ます。外の旭橋が斜めに架かっているのが分かります。門の右手前にある建物は、料金所です。ここで入園料を払い、100名城スタンプを押しました。

旭門を越えると、大手枡形です。石垣はこれまで見てきたものと大きく異なり、石材に表面加工が施された切込み接ぎとなっています。枡形の内門は南(写真の反対側)ですが、北側石垣に、何やら開口部があります。

埋門です。石垣をくり抜くように構築された門は他のお城にもありますが、枡形虎口内に設けられた例は非常に珍しいのではないでしょうか。敵を足止めし、迂回させるための枡形虎口にショートカット門があるとは……不可解です。

現在は板が張られ、通り抜けることはできません。部材の一部は江戸期のものだそうですが、門柱などでしょうか。

埋門の西、旭門を入って正面にある枡形石垣には、いくつもの鏡石が使われています。形も大きさもまちまちに加工された切石をパズルのように隙間なく積んだ切込み接ぎ石垣は、もはや芸術の域です。

枡形の南側には大手虎口の内門である太鼓御門跡があります。石垣形状からして、大きな櫓門が建っていたのでしょうか。奥には、太鼓櫓跡に建つ艮櫓が見えます。

艮櫓、最上階の破風にも窓がありますね……これは珍しいのでは。

太鼓御門跡石垣、隅部は表面加工した石をぴっちり積んでいるのに、中央部(櫓門で隠れる部分?)は加工もそこそこに矢穴のある石も混ざった打込み接ぎ状になっているのが面白いですね。経費削減、あるいは工期短縮のためでしょうか。

城内より、移築艮櫓を見上げます。城内側にまで狭間が開いているのは珍しいですね。門を突破され城内にまで攻め入った敵を迎撃する想定かもしれません。切石積みとなっている城内側の石垣はすべて、移築の際に拡張されたものでしょうか。

太鼓御門跡を過ぎると、撮影してくださいと言わんばかりに看板があったので。看板の奥、太鼓御門跡背後の石垣も、美しい切石積みです。

西半分ほどが市街地化した桜の馬場ですが、それでもこれだけの広さがあり、存分に馬が走れそうです。右奥が艮櫓、左が県立ミュージアムと県民ホールです。

内側から見る旧大手、古太鼓御門跡石垣です。よく整っていますが算木積みの未発達な隅部に、時代の古さを感じます。立入禁止ロープの向こうにはブロック塀が築かれ、枡形内部の様子を見ることはできません。

桜の馬場にある、案内図です。ここから北にある土橋を通って三ノ丸に行けるのですが……。

おや、土橋より西側の内堀内に、道が築かれています。今は通れませんが、ここを歩くと三ノ丸南寄りの西辺へたどり着けそうです。

三ノ丸へ通じる土橋の左(西)に見える白い柵が、先ほどの通路です。あの通路を行けば、目の前の土橋を通らずに三ノ丸へ行けそうですが……

土橋の中央に、立札が見えます。

枡形虎口まであと123歩。西門から来た人へのアピールでしょうか。

 

三ノ丸へ向かいます。

土橋の先に、門跡があります。空襲で焼失した三ノ丸の正門、桜御門跡です。枡形虎口ではありませんが、門の先には低い石垣があり、先にある御殿への直進を許しません。

石垣の積み直しを経て、門の復元を目指しているようです。

被熱し変色・損傷した石材も可能な限り再利用し、積み直された桜御門石垣です。向かって右(東)側の石垣は門より少し前(南)へ張り出しており、門に迫る敵へ横矢を掛けられます。門跡には、ほぞ穴のある礎石や斜めのタイル状石敷きが良く残っています。

石垣をよく見ると、測量のためか、マーカーのような物が付けられています。

いつの日か、復元された桜御門が見られるでしょうか。

桜御門を越えると、三ノ丸です。

南東隅にある、竜櫓跡です。右手には石垣上に上るための雁木が見えますが、竹垣があり、上れません。

高松城には竜のほかにも鹿、虎、烏など、動物の名が付けられた櫓があったようです。

井戸は、当時のものでしょうか。

元は(現)披雲閣の馬小屋として建てられたという陳列館には、お城に関する展示が陳列されています。

三ノ丸御殿・披雲閣跡に建てられた松平家別邸・披雲閣です。現存御殿と見紛う玄関の威容! 現在は、貸会場として利用されているようです。

披雲閣の玄関前にある石垣は「ひんぷん」を連想させます。

ひんぷん状石垣の西に、先ほど見た通路が接続しています。もしかして、桜御門の復元工事が始まり土橋が通れなくなった時の迂回路……かもしれません。

通路の向こう、内堀に浮かぶのは、巨大な天守台です。石垣が積み直され、見ていて安心する安定感があります。静かな水面には「逆さ天守台」が映ります。

復元イメージがあります。調べたところ、天守台が13m、天守建物が推定28.6mで建物だけなら松本城より高く、石垣含む総高は41.6mにもなります。四国最大規模を誇ったというその巨大さもさることながら、非常に特徴的なのがデザイン。下層より張り出した南蛮造りの最上階、北面・南面に設けられた窓の形状はなんだかロボットの顔みたいでめちゃめちゃキュート! これはオンリーワンな愛嬌です。

今にも「ギギギ……」とか駆動音を出しそうなメカっぽい天守がそびえる姿を、夢想します。いつの日か、現実に……。

こちらの門から、庭園に入ります。

三ノ丸の半分くらいの面積を占めると思われる広大な現・披雲閣。しかし当時はこの約二倍もの建物があったそうです。ひえー。

銀閣寺型手水鉢です。「型」の字を小さくして、銀閣寺をアピール。

左端わずかに写るのが、ひとつの花崗岩をくり抜いて作った石橋と思われます。右の井戸は、当時のものでしょうか。

丸い大きな飛石の上を歩き、庭園を散策します。正面に見える披雲閣二階からの眺望は、格別でしょうね。

 

北ノ丸に向かいます。

松平氏時代に東ノ丸とともに増築された北ノ丸は、三ノ丸の北東角を覆うように配置されています。土塁上に見えるのが北ノ丸北東隅の鹿櫓跡です。階段から櫓台へ近づけそうですが、残念ながら進入禁止です。

鹿櫓台付近から、西を見ます。右(北)の土塁が北ノ丸北辺で、外側は石垣です。左奥に見える石垣は三ノ丸北東隅と思われ、かつてはこのあたりまで海が迫っていたのでしょうか。

そして正面奥に、現在の高松城の顔とも言える建造物群があります。

月見櫓と続櫓、水手御門、渡櫓です。ひとつひとつが貴重なのに、この四棟が揃ってここに現存するというミラクル。
それにしても続櫓、月見櫓の唐破風にめり込むように建っていますね……なんとしてもここに唐破風を付けるのだという強い意志を感じます。その唐破風の下、続櫓の屋根には雨落ち瓦が敷かれています。そしてこれら建物の瓦や懸魚には、葵の御紋。あっ……雨落ち瓦右側の丸瓦が、落下してしまっています。

海へ直接出入りできるお城の門としては唯一の現存例である、水手御門です。

訪問時には、固く閉ざされていました。

右(北)へ大きく継ぎ足された、渡櫓石垣です。この渡櫓、生駒氏の海手門を改修したものらしいですが……まさか、もともと左端の道をまたいで建っていた櫓門を北へスライド移築した、ということでしょうか?

隅石には、刻印があります。

渡櫓のそばから、月見櫓を見上げます。

渡櫓より西側は三ノ丸です。このあたり、石垣が入り組んでいます。

この道側に少し出っ張った石垣は、どういう意味があるのでしょうか。

渡櫓のそばに、石垣上へ上れる階段を見つけます。

月見櫓が少し松に隠れていますが、素晴らしい写真が撮れました。続櫓・渡櫓の外側には石落しや狭間が設けられています。海城・高松城を実感できる、最高の光景です。

この木の階段のおかげで、良い撮影が出来ました。

ここは何やら、石材も積み方も雰囲気が違いますね……。これら謎の出っ張り石垣は、後世に築かれたのでしょうか。

堀に海水を引き入れている高松城。内堀が北へ入り込む三ノ丸のくびれた西端部に、水位調節のため水門が設けられています。この水門、もちろん後世に築かれたもので、当時はどのようにお堀の水を管理していたのか、まだよく分かっていないようです。

 

二ノ丸へ向かいます。

二ノ丸の東にある、鉄門跡です。近年の強風による毀損を機に、石垣が積み直されたそうです。

鉄門のすぐ北には、武櫓があったようです。

鉄門北側石垣です。隅の算木積みは未発達ですが、巨石を惜しげもなく使用し、迫力があります。説明にある門扉のサビとは、右隅中ほどの石に見える縦線でしょうか……?

鉄門南側石垣です。こちらもワイルド、大迫力です。北側よりも長く三ノ丸側へ張り出しており、桜御門と同様に、門へ迫る敵に横矢を掛けることが可能です。

すぐ南には黒櫓があり、鉄門は両脇に櫓を備えた非常に堅固な門だったようです。

鉄門を越えると、二ノ丸です。松平氏時代の初期には二ノ丸に御殿があったのが、後に三ノ丸へと移されたようです。左端には東辺石垣、その奥には鞘橋が見えます。

本丸に通じる唯一の橋、鞘橋です。当初は欄干橋だったのが、屋根付きの廊下橋に改められたようです。

昔も今も、ここからしか入れない内堀中央にそびえる本丸のラスボス感が、素敵です。

右には、二ノ丸と本丸を隔てる内堀の向こうに、駅のホーム。当時はさらに、内堀が広がっていたでしょう。

そして左からは、天守台がよく見えます。当時は橋の上から、巨大な天守の姿を拝めたでしょうか。

 

鞘橋を渡ると、本丸です。

鞘橋の正面には石垣があり、右折を余儀なくされます。

鞘橋正面の石垣(写真左)上には門を伴う多聞櫓・中川櫓があり、門のすぐ西(写真右端)には中櫓があったようです。中川櫓台前の、道を塞ぐように並ぶ石列が、気になります。

鞘橋を越え西へ歩くと、またも正面に石垣が立ちはだかり、天守がある方向とは逆の西側に階段があります。しかし、資料等によるとこの正面手前に門が、そして正面石垣方向(南)へ道があり本丸中央部へ進めたようなのです。明治期に天守台上には玉藻廟が建てられたそうですが、建設の際に石垣の改変があったと考えられているようです。

かつての姿から改変されているかもしれない本丸虎口を、階段上から見ます。右奥に、天守台がのぞいています。

天守に次ぐ規模の本丸南西隅にあった二重櫓・地久櫓の櫓台です。地久、とはまた変わった名前の櫓ですね……由来が気になるところです。

地久櫓台付近より、本丸を見渡します。生駒氏時代には、ここにも御殿があったようです。中央奥に見える四角い枠は、井戸です。

縄張りのど真ん中に位置する天守台に、たどり着きました。

石垣や石段への負担を極力軽減する構造になっていそうな金属製の手すりが、素敵です。

石段の途中から、北の中川櫓台を見ます。これより西に中櫓、北西隅には矩櫓があり、多聞櫓で連結されていたようです。奥には鞘橋と二の丸が、右奥には水門が見えます。

南石垣を見ます。本丸南辺にも多聞櫓が連なり、南西隅の地久櫓、北西隅の矩櫓もそれぞれ多聞櫓で連結され、天守以外の本丸外周建物は全て多聞櫓でつながれた非常に厳重な構えだったようです。

多聞櫓が建っていたにしては奥に見えている本丸南辺石垣の幅が狭すぎるように感じますが、これは後世に狭く積み直された可能性があるようです。

天守には、地階の穴蔵部分から入る構造だったようです。

穴蔵入口の両端に敷かれた石にはほぞ穴が見えますが、ここに天守地階への門扉があったのでしょうか。

穴蔵入口両脇の石垣、ワイルドかつカラフルです。

穴蔵上に「田」の字に並んだ52個の礎石と、丸太で再現された四箇所の掘立柱跡です。礎石と掘立柱を併用しているのは、面白いですね。

天守台積み直し後、北西端に設置された展望デッキと、説明板です。

デッキより、西を見ます。中川櫓台部分の石垣も、積み直されたのでしょうか。

東には、披雲閣が見えます。

そして北には、内堀の向こうに広がる、海。ここより20m以上高い天守最上階から、歴代の殿様は海城ならではの絶景を堪能したことでしょう。

 

天守台を下ります。

鞘橋から、本丸を出ます。

公園の西門少し北に、簾櫓跡とあります。実際はこれより北、右端に雁木が写っていますが、二ノ丸北西隅に簾櫓はあったと思われます。

公園西門です。当時は刎橋口門があり、西ノ丸に通じていたようです。

奥に鉄門跡と、わずかに月見櫓の屋根が見えます。刎橋口門、当時はどのような門だったのでしょうか。

刎橋口門跡の北側石垣です。左端に、簾櫓が建っていたようです。

北へ歩き、かつての海上である城外から、月見櫓を見ます。行き交う舟は、今より数多くの櫓や塀と、本丸にそびえる天守を見ていたのでしょうか。

写真右の隅部が連続する石垣上には、武櫓が建っていたようです。手前の隅はずいぶん石材の雰囲気が異なりますが、後世の積み直しでしょうか。

こちらは簾櫓台の東側です。入隅が何やら……これは積み直したというより、コンクリートか何かで固めたのでしょうか。

再び刎橋口門跡付近より、二ノ丸西面石垣を見ます。門跡すぐ南の張り出し部に弼櫓が、奥の南西隅には文櫓があったようです。

駅前広場にある城跡の紹介には、月見櫓・水手御門等の写真。海城の象徴であり、高松城の顔ですね。

 

前回から一年ぶりの訪問で、少しはお城への理解も深まったのかなあと実感しています。石垣の改変はいくつかあるものの、現存石垣を避けてのホール建設や、大規模な石垣解体修理など、城跡保存への熱意がひしひしと伝わりました。桜御門の復元、そしてゆくゆくはロボ顔天守が復元され、この貴重な海城の在りし日の姿をより一層体感できる時が来ることを、願ってやみません。

日本100名城スタンプラリー、こちらで37城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

21-2.丸亀城

丸亀城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.78)に選ばれた、香川県丸亀市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

高石垣の上にちょこんと座る天守は、駅からもしっかり見えます。うーん、キュート。

 

まずは、外堀跡を見に行きます。

外堀のすぐ東にあったという、江戸末期の水路跡です。ここは内堀北西角の西にあたり、このすぐ西に西側外堀があったようです。

石組升を挟んで南北方向と、直交して東方向へ延びる石組水路が見えます。

水路跡から南へ歩くと、東に天守が見えます。これだけ離れていても伝わる、石垣の要塞感。

さらに5分ほど南へ歩くと、外堀跡です。生垣に隠れるようにひっそりと佇む、外堀跡の碑。

このあたりが、外堀の南西角だったと思われます。跡地は外濠緑道公園となっており、堀跡を歩けます。

外堀内側には、土塁が良く残っています。

外堀南西角から東、南辺で堀がクランク状に折れ曲がる箇所です。この形状……大好物です。

外堀の南土橋跡付近にある説明板です。外堀には、東西南北それぞれに門があったようです。

ここにも外堀跡の碑。側面に何か、書かれています。

今歩いてきた外堀跡の内側が、十番丁のようです。外堀の内側は武家屋敷地で、北の堀端を一番丁、ここ南の堀端を十番丁としていたそうです。

鳥居のあたりに、南土橋から通じる外堀南側の門があったのでしょうか。鳥居の先の道が微妙にカーブしているのは、当時の虎口の名残かもしれません。

 

内堀へ向かいます。

搦手土橋のやや西、内堀の向こうに……嗚呼、なんということでしょう、崩落した三の丸南西隅の坤櫓跡石垣が見えます。

内堀に架かる、搦手の土橋です。城跡は現在、亀山公園となっています。

土橋より、内堀を見ます。堀の両岸は草木が整えられ、非常に美しく整備されています。

山﨑氏時代には大手だったという、搦手門跡です。門跡の両脇に、石垣が残っています。

石垣の状態は、あまり良くないように見えます。当時はどのような門が建っていたのでしょうか。

搦手口に、立入禁止区域が赤線で示されています。天守などは、通常営業のようです。

南西部石垣の前を通る園路は、封鎖されています。

崩落石垣を、間近から見ます。

ニュースなどで画像・映像は見ていましたが、こうして目の当たりにすると、ショックが大きいです。前回訪問時には凛々しくそそり立っていた高石垣が、こうも無惨に崩れてしまうとは……。途方もない作業になりそうですが、復旧を、願うばかりです。

 

山上の曲輪へ向かいます。

気を取り直して、搦手口から登城します。現在地は、搦手門跡の北、山下曲輪にいます。

現在は内堀を渡る橋が五箇所ありますが、当時は南北(搦手・大手)以外には北寄りの東・西に各一箇所の計四箇所だったようです。

坂を上ると、二段の高石垣が見えてきます。下が帯曲輪の、上が搦手口の石垣です。

帯曲輪の下を歩くと南西部石垣へ到達できてしまうため、封鎖されています。

道は東に曲がり、石垣の隙間へと吸い込まれていきます。

山上部の搦手で、最初の門跡に近付きます。

栃の木御門跡です。石垣の間に、門が建っていたと思われます。右手前の石垣に見える段差は、門の部材が載っていた所かもしれません。

石垣には、雁木が設けられています。

道の右手には、斜面に沿って階段状に積まれた低い石垣、そして正面に立ちはだかる、三の丸高石垣。

最初の門跡を越えると、この光景です。行く手を阻む石垣の圧倒的迫力!腰を抜かすほどの威圧感! かつての大手口は、石垣要塞・丸亀城の堅固さを見せつけてくれます。

最初の門跡を振り返ります。複雑な石垣構成です。

三の丸南面の高石垣です。大きさの揃った石材を横目地が通るように積んだ、打ち込みハギ・布積みです。右奥の南東角は、月見櫓跡です。

搦手口南側の、玉櫓跡です。一部石材に切欠きが入るなど、切り込みハギの手法が見られます。玉櫓台石垣の南下段は帯曲輪でここから南西部石垣まで歩けるので、封鎖されています。

そして玉櫓跡の北側にあったのが栃木御門です……あれ? 色んな資料を見ても、ここが栃木御門跡とされており、現地の標柱だけが、手前の門跡(?)を「栃の木御門跡」としています。これはどういうことでしょう。標柱の位置がずれているのか、一帯を大きな虎口とみて外門・内門という扱いなのか。まさか、ここは『栃木御門』で、標柱の場所は『栃「の」木御門』なんてことはないと思うのですが……はてさて。

玉櫓台石垣はすだれ加工など表面仕上げが施されており、栃木御門跡には綺麗に加工された礎石が残ります。

栃木御門跡を越え、坂の上から振り返ります。大手の風格漂う、堂々たる虎口です。

 

三の丸へ向かいます。

栃木御門跡を越えて道は北へ折れ、眼前には櫓台高石垣が守りを固めます。五番櫓跡です。門を越え、搦手から駆け上がる敵を狙い撃ちできる絶好の位置に櫓を配置していることが分かります。

坂を上り切ると、西側が封鎖されています。この先に、崩落した坤櫓跡があります。

二の丸南面の高石垣です。先ほど見上げた三の丸石垣の上に、さらにこれだけ高い石垣が積まれているのは驚愕です。手前が五番櫓跡で、木に隠れていますが奥の二の丸南東隅が辰巳櫓跡です。

三の丸南東隅にある、月見櫓跡です。櫓の礎石らしき大きな石がいくつか見えます。ここはとても眺めが良く、山頂が少し雲に隠れていますが、讃岐富士こと飯野山が綺麗に見えます。殿様も、月見櫓からの讃岐富士や月見を楽しんだのでしょうか。

月見櫓跡から、栃木御門跡を見下ろします。月見櫓は、搦手の監視及び、栃木御門へ迫る敵を背後から狙い撃つ役割もあったかもしれません。

月見櫓跡の北側にも、横矢が掛けられています。

さらに北には、三の丸の北東隅に張り出す、東櫓台があります。櫓台の形状をしていますが、絵図や木図には櫓がなく、早い段階で取り壊されたのか、または何らかの理由で築かれなかったのかもしれません。

東櫓台は、月見櫓跡に負けず劣らず見晴らしが良いです。櫓がなくとも、非常に優れた物見台だったことでしょう。

東櫓台から西を見ます。三の丸石垣の上に二の丸石垣が積み重なる様子が、よく分かります。東櫓台と向こうに見える三の丸石垣の間を、見返り坂から続く大手道が通っています。写真中央、二の丸の北東隅部には番頭櫓が建っていたようです。

 

二の丸へ向かいます。

二の丸大手虎口は枡形状になっています。二の丸へ至る道は舗装されていますが、当時も坂道だったのか、あるいは石段が設けられていたのでしょうか。

二の丸御門跡です。当時は、立派な櫓門が建っていたようです。左の平らな石は、門礎石でしょうか。

門跡を越えると、二の丸です。本丸の東側に位置します。

二の丸御門跡の南側石垣(写真左)と、辰巳櫓台(写真中央やや右、低い木の向こう)です。二の丸御門と辰巳櫓は、渡櫓でつながっていたようです。二の丸御門南側石垣の右にある、渡櫓へ上るために設けられたと思われる石垣スロープが、独特の構造です。

辰巳櫓台です。北(左)と西(手前)に渡櫓が連なっていたようです。

辰巳櫓台より、五番櫓台を見ます。辰巳櫓と五番櫓の間にも、渡櫓があったようです。そしてここにも石垣スロープが。

右手前より、辰巳櫓台、渡櫓跡と石垣スロープ、二の丸御門跡、渡櫓跡、番頭櫓台です。二の丸東面に連なる辰巳櫓・二の丸御門・番頭櫓といった三つの建物は、渡櫓で連結されていたようです。

城内最高所にあり、日本一深いと言われている、二の丸井戸です。

井戸の内側には、石組が見えます。うーん、確かに深そう。

二の丸北東隅の番頭櫓台です。そこそこ離れた位置(写真左端)に「二の丸隅櫓跡」の標柱。おそらく奥の番頭櫓台を指していると思われますが……もしかして、丸亀城では何らかの理由で標柱が遠くに立てられているパターンがいくつか存在するのでしょうか。いやいやそれにしたってさっきの「栃の木御門跡」標柱は遠すぎるし、間違えてあそこに立ててしまった可能性が濃厚……?

番頭櫓台の天端石に、丸いほぞ穴が等間隔で開いています。櫓に伴う遺構か、あるいは単に後世に柵を設置した跡でしょうか。

東には、はるか下方に東櫓台が見えます。見返り坂から三の丸へ入ろうとする敵を、東櫓台と番頭櫓から挟み撃ちできそうです。

すぐ南側には、二の丸大手の枡形状虎口が見えます。二の丸に迫る敵は、ここ番頭櫓と辰巳櫓の両サイドから迎撃できそうです。番頭櫓が重要なポジションに配置されていることが分かります。

西には、渡櫓が建っていた石垣が連なります。ここまで見てきたように、二の丸は(西側には本丸が接続するので)南・東・北と全周が隅櫓・櫓門と渡櫓によって囲われており、非常に堅固な構えです。

番頭櫓跡から長い渡櫓跡を挟んで西、天守のすぐ北に、長崎櫓跡が見えます。ビル群を眼下に、三の丸・二の丸・本丸石垣が積み重なっているのが、この写真で分かります。本丸石垣天端までの標高は約66m! この重層石垣はまさに要塞……いや、もはや『石垣摩天楼』と呼んでも過言ではないように思います。

ここは二の丸の裏口・搦手。すぐそこに天守が見えていますが、本丸高石垣がやすやすと到達を許してはくれません。

二の丸搦手を守る、長崎櫓跡です。櫓台のすぐ南にも、低い石垣が積まれています。

長崎櫓と天守の間にあったのが二の丸の搦手門、不明御門です。名前のとおり、当時は「あかずの門」だったのかもしれません。ほぞ穴まで方形に加工された、よく整った門礎石が二つ、残っています。

天守北面一階の下見板には狭間が見え、一階左(北東)側には石落しもあります。搦手から二の丸へ攻め込もうとする敵は、搦手門南の天守と北の長崎櫓から挟撃に遭ったことでしょう。

門の外側には低い石垣が積まれています。当時は土塀などを建て、外から搦手門を見つけにくくしていたのでしょうか。

本丸石垣も、ご覧の高さです。ここ北東隅には塩櫓があり、搦手門を敵が突破しても、塩櫓から迎撃されそうです。

 

本丸へ向かいます。

台風で毀損した、天守西側の漆喰壁を修繕しているようです。

二の丸から本丸への虎口には、天端に細長い石を用いた石垣スロープが設けられています。本丸虎口は、ここ一箇所のみです。

このあたりに、本丸御門があったようです。門を越えるとすぐ、天守が迎えてくれます。

お知らせにあったとおり、一階西側の壁を覆うように足場が組まれています。

天守内へ入ります。100名城スタンプは、天守内で押しました。

先ほど外から見た、一階北面の石落しと狭間です。

窓からは、長崎櫓台と不明御門跡がしっかり見えます。

急な階段を上ると、二階です。

屋根瓦には京極氏の家紋・平四つ目結が見えます。

最上階より、四方を見ます。

西には、本丸北西隅の姫櫓台が見えます。

北には、玄関先御門・番所・長屋(写真左)や大手門枡形(やや右)が見えます。大手門を出てすぐは広場となっており、外堀までの道の両脇には家老屋敷が並んでいたようです。

東には、塩櫓台が見えます。塩櫓台の手前、ここにも石垣スロープ……いや、ここは石段が見えていますね。先ほど二の丸で見た石垣スロープも、土中には石段が埋もれているのかもしれません。

南には、宗門櫓台が見えます。宗門櫓の左から本丸御門にかけての、天端石が露出しすぎな本丸東面石垣上には、土塀が建っていたようです。

天守を出て、一階西側外壁を見ます。台風被害がどれほどだったのか分かりませんが、一旦漆喰を全部剝がしてから塗り直すのでしょうか。

西から見ると、スリムな印象を受けます。漆喰のない一階西側壁が足場に覆われた、今だけの貴重な姿です。

南から見ると、なんだかずんぐりしています。二階の唐破風が口ひげみたいで、とってもチャーミングです。

本丸南西隅櫓(多門櫓)跡より、本丸を見渡します。かつては南・西・北に渡櫓があり、隅櫓すべてが渡櫓で連結された非常に堅固な本丸だったようです。比類なき高石垣の上には本丸・二の丸ほぼ全周が渡櫓で囲われた要塞……こんなの、見ただけで敵が降参しそうです。

多門櫓台から南を見ると、崩落した坤櫓跡石垣付近の、応急処置(?)の様子が見えます。左手前の四角い枠は、三の丸井戸です。

 

本丸を出て、再び二の丸搦手へ向かいます。

石垣には、いくつか刻印が見られます。これは、本丸塩櫓台の東面基部で見つけたものです。

不明御門跡から二の丸を出て、振り返ります。石段は、当時のものでしょうか。

天守台部分は石垣の色が異なり、横目地が通っていません。もとからの仕様なのか、あるいは積み直し等の理由で今の状態があるのでしょうか。

本丸姫櫓跡石垣です。本丸西側は直接三の丸に載っているため、石垣がとんでもなく高いです。隅部の反りは基部付近で逆向きになっており、崩れるまいと踏ん張っているようにも見えます。

三の丸北西隅より南を見ます。ここは戌亥櫓跡で、礎石が良く残っています。立入禁止となっている右奥が、崩落した坤櫓跡です。三の丸には戌亥櫓と坤櫓、そして月見櫓の三棟が建っていたようです。

三の丸より、長崎櫓跡を見ます。解体修理を実施しているので、天端や隅部の反りが非常に整っています。

長崎櫓跡の北側出隅より、三の丸北の連続する石垣隅部です。この反り、この高さ!

よく見ると、戌亥櫓跡の下にパイロンが設置され通行止となっています。パイロンの先には帯曲輪が連なり、坤櫓跡とともに崩落した帯曲輪南西隅石垣があります。

南側を向くと、真正面に天守です。城外に見せる北面のこのシルエットが、いちばん丸亀城らしさを感じます。

装飾的な二階の唐破風、大きな三階の格子窓、ピンと上方に反り返る屋根の端、そして何より、高石垣の上にちょこんと腰掛けているような姿が、たまらなく愛らしいですね。

 

名残惜しいですが、石垣パラダイスを下り、山下曲輪へ向かいます。

三の丸北面、石垣の美に、しばし見惚れます。

見返り坂には、前回訪問時には無かった手すりが設置されています。

ご当地キャラトリオです。後ろには、顔出しパネル。

山上には天守のみが残りますが、山下曲輪にはいくつかの建物が現存します。こちらは御殿エリアへの正門・玄関先御門と、番所及び長屋です。

御殿は失われていますが、御殿への門や附属する番所、長屋が残る城郭というのはとても貴重です。

長屋は南側で東に折れ、L字型をしています。

山上の天守と、山下の重厚な御殿表門。当時の様子が蘇るようです。

石垣上より、大手門枡形を見下ろします。大手門に高麗門及び両脇の土塀と櫓門が全て残るのは全国に三城しかないのだとか。

雨降る中、大手櫓門を見上げます。ワイルドな梁が素敵です。よく見ると、京極氏の四つ目紋は丸瓦のみならず、平瓦にも入っています。

外側より、大手高麗門を見ます。正月らしく門松と注連縄、家紋入りの幕で飾られています。門の奥に見える枡形石垣は切り込みハギで整えられ、鏡石が効果的に配置されています。

大手門から見上げると、折り重なる66mの石垣上にそびえるは、(当時は)天守をはじめ各櫓が渡櫓で連結された建物群。泰平の世となってもなお、訪れた人々は「この城やべぇ……」とさぞかしビビりまくったことでしょう。

今では山上に天守だけが取り残され、ぽつんと寂しそうにも見えますが、個人的な印象は哀愁より愛嬌が勝ります。

駅の階段に「日本一小さな天守閣」と。一階部分の床面積は、現存天守で最も狭いそうです。なるほど。

 

二度目の訪問は搦手からの登城でまた違った美を魅せてくれた石垣摩天楼・丸亀城。外堀跡の散策により城下にもお城の痕跡が残ることを確認できました。崩落石垣には胸が締めつけられる思いですが、復旧を見守り、応援するためにも、必ずやまたいつの日か、訪れます。

御城印にはやはり、四つ目紋です。石垣の名城。

日本100名城スタンプラリー、こちらで36城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

10-2.名古屋城

名古屋城に行ってきました。

日本100名城(No.44)に選ばれた、愛知県名古屋市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅の階段に、天守がプリントされています。

こちらも駅で見つけた、内郭絵図です。本丸全周と西之丸南面、二之丸西面などが多聞櫓で囲われ、巨大な本丸大手馬出にまで多聞櫓が巡らされており、堅固さをうかがわせます。

絵図と比較すると、内郭の縄張りはほぼそのまま残っていることが分かります。

 

内郭へ入る前に、その東~南にかけて配置される広大な三之丸を見て回ります。

三之丸に五つあった虎口のひとつ、清水門跡と思われる場所付近です。今は門の痕跡が見当たりませんが、かつては枡形虎口だったようです。写真は南西方向を撮っており、二之丸東面石垣の左端に見える虎口は東鉄門です。

二之丸北東隅には丑寅隅櫓が建っていたようです。北側には水堀があり、遠くには天守と、いくつもの石垣隅部が見えます。

別の虎口へ向かいます。

市役所北の道路を東へ歩くと、道の両脇に石垣があります。三之丸に五つあった虎口のひとつ、東門跡です。東大手門とも呼ばれているようです。

三之丸の外堀、広い!深い!現在は官公庁街と化している三之丸ですが、これだけの規模で堀が残っていることに驚きです。石垣の南には、土塁が続いています。

東門跡の南側石垣です。枡形虎口を形成する石垣の一部と思われます。

石垣には、刻印と思われる印がいくつも入っています。矢穴も見えます。

道路を挟んだ向こう側には、東門跡の北側石垣が見えます。南側の石垣とは食い違っていますが、門はどのあたりにあったのでしょうか。

北側石垣は北側で東へ折れています。石垣形状からすると、現在見えている堀のあたりが枡形だったように思えますが……このあたりは堀形状など縄張りに改変があったのでしょうか。

東門跡の北側にも、大規模な堀と土塁が続きます。この三之丸外堀の堀底にはなんと、明治期に鉄道が敷設されていたそうです。もしかしたら、そのままだと線路を敷きづらいので東門の枡形虎口部分は削り取られてしまったのかもしれません。

虎口形状は把握しづらくなっていますが、立派な石垣は健在で、ここに門があったことを伝えてくれます。

東門跡のすぐ北側にも道路がありますが、当時はこちらに出入口はなく、つながっていた土塁を断ち切って道を通したように見えます。

別の虎口へ向かいます。

三之丸に五つあった虎口のひとつ、本町門跡です。

三之丸外堀は東門の南で直角に西へ折れ、本町門付近では東西に長く延びています。

本町門跡にも、枡形虎口を形成していたと思われる石垣が残っています。右奥の石垣付近に、門が建っていたのでしょうか。

本町門跡東側石垣は、隅部が非常に整った算木積みになっています。隅部にも、それ以外にも巨石がふんだんに用いられています。

東側石垣の西面には、いくつも矢穴が見えます。

内側から、本町門跡を見ます。こちらも道路が通されるなどして、当時の虎口形状が分かりにくくなっています。

三之丸にはあと二つ、御園門と巾下門という虎口があったようですが、今回は未訪です。

 

西之丸へ向かいます。

三之丸より、大手馬出の南面石垣を見ます。写真左端に見える石垣隅部は西之丸の南東隅で、西之丸と大手馬出は堀で隔てられていたのが後世に埋められたようです。しかし……単に間の堀だけを埋めたのなら、大手馬出の南西隅が見つかりそうなものですが、さっぱり見当たらず、南面を見る限りではどこまでが当時の馬出石垣だったのか全然分かりません。これはどういうことでしょうか……。

空堀に沿って西へ歩くと、土橋が見えてきます。三之丸から西之丸へと通じる、枡形虎口です。

案内板には工事中の区域と、天守が閉館中であることが記されています。

土橋から、西を見ます。空堀は、石垣隅部より西では水堀となっています。西之丸南西隅には、未申櫓が建っていたようです。

現在は特別史跡であり、明治以降には離宮でもあった名古屋城スペシャルですね。

石碑の前の区画は枡形の一部と思われ、この枡形虎口はお堀に少し突き出るような形態となっていたようです。

枡形虎口の西側石垣です。隅部は整い、巨石が多いです。

西之丸の巨大枡形虎口内部です。西側及び北側石垣(写真左)上には多聞櫓が巡らされた高防御な虎口だったようです。

堅固なはずの枡形虎口の北側石垣にぽっかりと、埋門が設けられています。三之丸から直進すれば到達できてしまうこの位置に門があることは防衛上疑問しかありません。後世に設けられたものでしょうか。しかもこの門……車(おそらく関係車両のみ)が通れる?

枡形虎口の櫓門、榎多門跡です。明治期に地震で大破後、門跡には江戸城から蓮池門が移築されたけどそれも空襲で焼失、現在みられる櫓門は蓮池門を外観復元したものだそうです。明治期まで建っていたという榎多門は、どのような姿だったのでしょうか。

櫓門脇戸の横にある本日の行催事にも大きく「天守閣の中には入れません」と。

榎多門跡の復元蓮池門を越えてすぐ、総合案内所があります。100名城スタンプは、こちらで押しました。

西之丸の北側工事区域では、何やら蔵のような建物が建設中です。

蔵風建物と、天守です。小天守は、木に隠れています。

このあたりには当時蔵があったようで、どうやら蔵を模した展示・収蔵施設を建てているようです。完成・公開されたら、また訪れたいですね。

西之丸から、本丸南面に建つ二つの隅櫓を見ます。前を歩く人々と比べ、その巨大さが伝わるでしょうか。

総合案内所の東側から、石段で西之丸南面石垣に上れるようです。石段手前の石材には矢穴が見えます。

石垣上より、榎多門跡を見ます。西之丸南面には、榎多門から多聞櫓が連なっていたようです。

規則正しく並んだ石は、多聞櫓の礎石でしょうか。

石垣上から、西南隅櫓を見ます。天守の屋根が、櫓の背後に見えています。

西之丸南東隅から、大手馬出の南面石垣を見ます。どんなに目を凝らしても、埋められた堀と現存石垣との境界がどうにも見出せません……。

大手馬出上から、南を見ます。かつては多聞櫓が巡らされていたという大手馬出。三之丸(写真右)と比べ石垣が高く築かれているのが分かります。

写真右奥に二之丸大手門と土橋が見え、その手前、三之丸側に石垣隅部が顔をのぞかせています。石垣隅部の前が土塁のようになっていますが、当時は堀幅がこの隅部まであったのかもしれません。

東側の石段から石垣を下りると、大手馬出の説明があります。お城の景観にマッチする木の立札説明板、良いですね。馬出と西之丸の間の堀は、明治期に埋められたんですね。

大手馬出へ通じる道より、馬出東面石垣を見ます。この石垣上にぐるり多聞櫓が巡っていたとは……超強力です。

そして馬出へ通じる道のすぐ北には、江戸期から現存する本丸東南隅櫓。ここから一斉射撃を浴びせれば、敵は馬出にすら侵入できないでしょう。

そういえば、西南隅櫓の窓は開いていましたが、東南隅櫓は閉まっています。

東南隅櫓の屋根瓦には、葵の御紋が見えます。

大手馬出石垣には巨石が多用され、非常に整った積み方(打込接ぎ)です。

大手馬出より、本丸高石垣上の東南隅櫓を見ます。堀底から櫓てっぺんまでの高さは、30mを超えると思われます。櫓の西側には現在建物はありませんが、かつては多聞櫓が巡っていたようです。

 

本丸へ向かいます。

大手馬出を越えた所にある、本丸に三つある虎口のひとつ、表二之門です。左右の袖塀が門と同じ高さなのが特徴的です。本丸大手虎口は、馬出+枡形虎口というスーパー厳重さです。

表二之門前の土橋上から、左右の本丸堀を見ます。本丸の周囲は空堀で、鹿がいます。

枡形虎口から東西の隅櫓までは多聞櫓が巡っていたようで、虎口に近い東南隅櫓の西側には横矢が掛かっています。また枡形虎口自体、堀側へせり出しています。

表二之門は門扉周辺の部材すべてが鉄板で覆われ、非常に堅固な作りです。

門扉には、小さな潜戸があります。鉄板の剥がれている箇所がいくつか見えます。

枡形内側より、表二之門を見ます。袖塀には鉄砲狭間がありますが、袖塀のすぐ裏まで上るための雁木は見当たらず、土塁のようになっています。

枡形内石垣には、巨石があります。さすが本丸大手。

隅石も、巨大です。

この石垣をまたぐように建っていた、巨大な本丸表一之門。空襲での焼失が、残念でなりません。

東南隅櫓を、内側から見ます。かつては西側(右)と北側(左)に多聞櫓が接続していたようです。通常は内部非公開で、訪問時に入ることはできませんでした。

表一之門跡を越えるとすぐに見えてくる、復元された本丸御殿です。背後にチラリとのぞく天守が、良いですね。観覧入口は正面の車寄ではなく、写真右奥の人がいる辺りです。

おや、車寄の西側に、何やら案内が見えます。

なんと、西南隅櫓が公開されているようです。最終入場は16時。現在時刻、15時43分。い、急がねば!

 

駆け足で、西南隅櫓へ向かいます。

なるほど、一度倒壊したのを再建しているんですね……などと悠長に説明を読んでいる余裕などなく、訪問時はとりあえず撮影するだけして、早く櫓へ入らねばと必死でした。

階段の先に、櫓が見えます。なんとか間に合いました。

櫓の中へ入ります。外側には、廊下が巡っています。

重要文化財・西南隅櫓。外観二重・内部三階の櫓は、非常に珍しいそうです。

名古屋城には十一の隅櫓が建っていたようですが、現在残るのは三棟です。

四方が多聞櫓(説明では「多門櫓」となっています)で囲われていた本丸。現在多聞櫓は失われていますが、古写真からは当時の堅固な本丸が窺えます。

内側には特に展示物などはなく、板張りの部屋になっています。

西側窓を覗くと、西之丸の蔵風建物が見えます。そうか、外から見た時に西南隅櫓の窓が開いていたのは、公開中だったからなんですね。

二階へ上ります。薄暗い中慌てて撮影したものだから、写真がピンボケです……。

外観の大きな特徴である出窓の内部に設けられた、石落しです。

全ての窓の下に、水抜きの銅筒が付けられているそうです。そういえば外から見た時、三階の窓には確かに格子がありませんでした。

石垣ごと無惨に倒壊した西南隅櫓が、古写真に記録されています。今こうして当時の姿の隅櫓が見られるのは、大正・平成の修理があったからなのですね。ありがたや。

二階は一階に比べ、天井が高くなっています。

三階への階段には、踊り場が設けられています。

最上階、三階です。金色の釘隠しが目を引きます。

天守最上階の四隅に設置されていたという展望用踏み台・御窓台です。ひとつだけでも、よくぞ残ってくれたものです。

離宮時代に宮内省が修理を行ったため、屋根瓦が皇族の紋章である菊紋瓦に置き換わっている箇所が見られます。二階屋根の前方に並べられている瓦は、先ほどの説明にあった雨落ち瓦でしょうか。

最上階からは、建設中の蔵風展示・収蔵施設がよく見えます。外観はほぼ完成しているようです。蔵のあった場所に蔵の外観をした施設を建てるというのが、とても素晴らしいと感じます。

そして西南隅櫓最上階から望む、大小天守です。少し木が邪魔ですが……この角度からしか見られない姿を撮影できて、満足です。

天守の西、堀の外側には、西之丸・御深井丸間の外周堀が細く入り込み通路が非常に狭くなる「鵜の首」が見えます。

櫓を出ます。城内側の壁にはほとんど窓がなく、のっぺりしています。

櫓北側に延びる石垣上にも、かつては多聞櫓が連なっていたようです。

 

西南隅櫓を出ると時刻は16時を回り、櫓の公開には間に合ったものの、本丸御殿の最終入場時刻を過ぎ、御殿には入れませんでした……。仕方なく、御殿の外観を見て回ります。

御殿の最も西側に位置する、湯殿書院です。寛永期に増築され、将軍専用の浴室があったようで、その浴室も復元されています。右手には上洛殿、背後には大小天守が見え、なかなか良い構図です。

湯殿書院とともに寛永期に増築された上洛殿は、三代家光公の上洛に合わせて建てられた豪華絢爛な御成御殿です。右奥には表書院と、車寄が見えます。

こちらからも顔をのぞかせる大小天守が「ここは名古屋城やで」とアピールしているようです。

左手が上洛殿、正面が対面所、右手が表書院です。上洛殿と対面所の間にあるのが、鷺之廊下です。

藩主との謁見の場、表書院です。

葵紋が散りばめられた金色の破風装飾、とってもゴージャスです。

唐破風屋根が美しい御殿の正面入口、車寄です。将軍など限られた来客のみが入ることを許され、現在も一般観光客はここから入れません。

観覧の際は、湯殿書院・黒木書院とそれ以外では入口が異なるようです。

御殿の北側へ回り込みます。

長囲炉裏や煙出しが備わる、下御膳所です。

左手が、下御膳所の西にある藩主のプライベート空間、対面所です。右手の建物内には孔雀之間、柳之間などがあるようです。

将軍専用キッチン、上台所です。瓦屋根には、煙出しと思われる小屋根が見えます。北側は、ミュージアムショップとなっています。

 

本丸御殿に続いて、天守を見ます。

上台所のすぐ西にある小天守は現在入ることが出来ず、石垣には足場が組まれています。

天守もこのとおり、足場で覆われ天守台が見えません。足場をよく見ると「石垣調査中」とあります。耐震性や、将来の木造復元に向けての調査でしょうか。

こちらの通路から、北側へ抜けられるようです。

本丸に三つある虎口のひとつ、不明門です。門の上に土塀があり、埋門のような形態です。

不明門枡形は天守の真東にあり、枡形の西側石垣は天守台そのものです。間近で見上げる天守の迫力に圧倒されます。金属の足場と外付けエレベーターも相俟って、お城なのに謎のメカ感が出ているような気がします。

不明門外側では、土塀は槍の穂先をびっしり並べた「剣塀」となっており、よじ登っての侵入を許しません。

門扉付近の石材には白黒のマークが貼られていますが、測量の基準点か何かでしょうか。

天守台の北側も、不明門西側までびっしりと足場に覆われています。剣塀の漆喰、一部剥がれてしまっていますね……。

この足場に囲われた姿も、今しか見られない貴重なものなのでしょう。

不明門前の土橋から東を見ると、堀底にずらり並んだ石、石、石。何処かの石垣を解体修理しているのでしょうか。写真右は本丸石垣で、奥の隅部には東北隅櫓が建っていたようですが、現在は失われています。写真左手前には御深井丸の塩蔵門枡形があり、枡形を越えると塩蔵構という曲輪があります(写真左奥)。

塩蔵門枡形は、石垣が良く残っています。訪問時は通行止となっていました。

 

本丸搦手へ向かいます。

空襲で惜しくも焼失した、本丸東一之門跡です。古写真と似たアングルで、立派な櫓門を偲びます。立札の右が、城内最大の巨石・清正石です。清正石の右に見える石も、でかい!

本丸内側から、東一之門跡を見ます。表一之門跡と同様に、枡形石垣は良く保存されています。

本丸東二之門跡にある、旧二之丸東二之門です。ややこしい。原位置にありませんが、貴重な現存門です。

外側の土橋から、本丸東二之門跡にある旧二之丸東二之門を見ます。ややこしい(二回目)。門の向こうに、清正石がのぞいています。表二之門のように全面というわけではありませんが、門扉や柱などに帯状の鉄板が打ち付けられています。

それにしても、移築された門なのに異なる門跡石垣の間にピッタリ収まっています。名古屋城の外門は規格が統一されていたのか、はたまた移築に合わせて石垣を調整・積み直したのか。疑問が残ります。

 

本丸搦手虎口を出ると本丸搦手馬出があり、そこから南へ進むと二之丸に通じます。

二之丸より、本丸東南隅櫓を見ます。

本丸搦手馬出の東、二之丸西北にある埋門跡です。右手の二之丸石垣に切欠きが見える所が埋門跡で、左手は搦手馬出石垣です。緊急時にはここから奥に見える堀を越え、対岸の「下御深井御庭」方面への脱出ルートが決められていたようです。

埋門跡の石段は現在埋められているように見え、そこから下もかなりの高さがあるようですが……当時は梯子などが設けられていたのでしょうか。

本丸搦手馬出は石垣修復中で、北側石垣が解体されています。先ほど見た堀底に並んだ石材は、おそらくこの馬出石垣のものと思われます。十六年が経過してなお、工事が継続しているんですね……。

こちらは二之丸東門(東鉄門)枡形です。写真奥に見える低い石垣が、本丸東二之門跡に移築された二之丸東二之門の原位置というわけですね。ややこしい(三回目)。二之丸東一之門跡の西側石垣は、ばっさりとナナメにカットされてしまっています。通行のためとはいえ、これはなんとも……。

こちらは二之丸大手門(西鉄門)枡形です。一之門(櫓門)は失われていますが、枡形石垣は良く残り、二之門(高麗門)が現存しています。

重要文化財である、二之丸大手二之門です。車が通行するため、ガードレールが設置され、門扉が閉じられなくなっています。

二之丸東二之門と同様、門扉や柱などに帯状の鉄板が打ち付けられています。門両脇の石垣がえらく低いですが、当時は袖塀が脇を固めていたのでしょう。

 

締めは、天守です。

二度目の訪問では広大すぎる三之丸の虎口巡りは中途半端に終わり、天守閉館中なのは承知の上だったものの本丸御殿の入場時刻にまで間に合わないという体たらくでしたが、西南隅櫓の公開で中に入ることができ、前回未訪だった場所もいくつか回れるなど成果もありました。まだまだ未訪エリアが多くあり、次はたっぷり時間をとってじっくり見て回りたいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで35城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

72.岡崎城

岡崎城に行ってきました。

日本100名城(No.45)に選ばれた、愛知県岡崎市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅前に「二十七曲り」の説明板があります。東海道は、岡崎城下の総構え内において主郭部を避け北へ大きく迂回するようなルートとなっており、非常に屈曲が多くなっています。

この二十七曲りを、少したどってみます。

総構えの西出入口、松葉総門跡です。

カーブミラーの支柱や電柱などに二十七曲りが表示され、当時の東海道をたどれます。

 

二十七曲りを全てたどるのはまたの機会にして、お城へ向かいます。

板屋町から東海道を外れて東へ歩くと、坂谷橋があります。坂谷橋より手前(西)が白山曲輪、橋の向こう(東)が坂谷曲輪です。

坂谷橋は当時存在せず、白山曲輪と坂谷曲輪をつないでいたのは坂谷門であり、今も残る門の石垣が、坂谷橋から見えています。

坂谷門の石垣近くまで来ました。枡形虎口だったようですが、見えている門跡石垣はひとつだけです。こちらは、外門(高麗門)の石垣でしょうか。

石垣上には「坂谷門阯」の碑があります。

大きな石材を用いた立派な石垣には、矢穴が見えます。そして背後の木の陰には天守の姿が! 坂谷門は、天守のほぼ真西に位置しています。

坂谷門南側石垣は、木に侵食されてしまっています……。

当時は坂谷門から西へ土橋が延び、その先には丸馬出が設けられ、坂谷門は丸馬出+枡形という非常に厳重な虎口だったようです。

坂谷曲輪は二の丸と本丸の西側にかけて南北に延びる帯曲輪で、絵図には曲輪の西側縁辺に土塀が描かれていますが、見えている石は土塀の基礎だったりするのでしょうか。

坂谷門の真西にそびえる天守は、木に遮られよく見えません。この時はまだ、この天守が撮影者泣かせの存在だとは思いもせず……。

坂谷曲輪の南端付近には、本丸南にあったという「えな塚」があります。「えな」とはへその緒・胎盤のことだそうです。葵の御紋をあしらった説明板がとっても「徳川ナイズ(造語)」されていて、良いですね。塚の基壇にも、葵紋が見えます。碑の文字は……「東照公恵那塚」でしょうか?

このあたりが坂谷曲輪の南西端と思われるのですが……本来は堀(写真左わずかに見える)で分断されていた所に道(写真中央より左へ折れる)が通され、曲輪の形状が分かりづらくなっています。絵図によると、当時は坂谷曲輪の南西端に葭櫓という二重櫓が建っていたようです。

葭櫓台推定地?より、東の堀へ下りる階段があります。柵の基部には石積みが見えますが、これも土塀の基礎だったりするのでしょうか。

坂谷曲輪南側のラインは、おおよそ当時のままでしょうか。

坂谷曲輪南東では埋門(写真左奥に石垣が見える)より本丸へ通じており、本丸の立派な石垣を望むことができます。本丸の南には風呂谷曲輪という腰曲輪があり、写真右手前の柵が連なる堀沿い石垣を東へ行った先にあります。

本丸埋門跡の北側で見られる、本丸と坂谷曲輪を隔てる堀と、迫力ある本丸高石垣です。うーん、素晴らしい!

坂谷曲輪の北には、産湯の井戸があります。ここにももちろん、葵の御紋。

本丸・二の丸などは現在、岡崎公園として整備されています。

坂谷橋の東にある案内図の横には、竹千代君らしき像があります。坂谷曲輪に二つ存在した隅櫓のもうひとつ、稲荷櫓があったのはこのあたりでしょうか。

 

坂谷曲輪を出て、お城の北へ向かいます。

三の丸の北に位置する、浄瑠璃曲輪です。市街地化していますが、このあたりにかつて大手門があったようです。曲輪の名称にある浄瑠璃寺が、今も曲輪内に存在します(写真右)。大手門の北西には明治初期に藩校である允文館・允武館があり、跡地に碑が立っているようですが、予習不足のため見逃しました。

浄瑠璃曲輪の南にあるのが三の丸ですが、こちらも市街地化しており、写真の大きな道路(国道1号)により南北に分断されています。道路の向こうには模擬門と御殿風建物、そして奥に天守が見え……木に隠れてほとんど見えません。

歩道橋にも、葵の御紋。門の手前には「徳川家康公生誕の地 岡崎」とあります。

 

歩道橋を下り、東曲輪へ向かいます。

門の前に、二十七曲りの碑と「従是西岡崎領」「従是東岡崎領」の道標がありますが、ここが二十七曲りのひとつということではなく、東海道はお城を避けるように大きく北側へ迂回しています。

こちらは岡崎公園の入口に建てられた立派な櫓門で、「大手門」と呼ばれていますが、本来の大手門は三の丸の北にある浄瑠璃曲輪にあったので、この大手門は模擬門であり、当時この位置に門は無かったようです。

正月なので、門の前に門松が置かれています。模擬大手門の南側には当時、二の丸正門である七間門があったようです。七間門は絵図には櫓門のように描かれていますが、名前からして七間の大きさを誇る立派な門だったのでしょうか。

城跡は、市の文化財に指定されているようです。

模擬大手門より東、二の丸の東側に位置するのが東曲輪です。東曲輪と二の丸を隔てていた堀は失われ、現在東曲輪は岡崎公園の駐車場となっています。二の丸とは土塀で区切られており、お城感を演出しています。

車の向こうに見える櫓を、見に行きます。

東曲輪の南側には、控柱付きの土塀が櫓まで続いています。このあたり、絵図にも土塀が描かれています。そして瓦には本多氏の家紋「立葵」が見えます。岡崎城は明治初期まで、本多家が城主を務めたようです。

東曲輪の南東隅に建つのがこの、東隅櫓です。絵図や松山城の野原櫓などを参考に再建されたもので、図面は現存せず、正確な復元建物というわけではないようです。

東隅櫓の屋根瓦にも、立葵が見えます。

東隅櫓と書かれた立札は傾き、字がかすれてしまっています……。

おや、櫓の扉が開放されています。どうやら、中へ入れるみたいです。

中を覗くと、説明板と、二階への階段が見えます。土足厳禁とのことで、靴を脱いでお邪魔します。

説明板には、東隅櫓の説明と、絵図があります。

反射して見づらいので半分ずつ撮影します。東隅櫓は、東側の切通しへ横矢を掛けていたようです。

絵図は、北が下になっています。当時の縄張りや建物の様子を知ることができる、とても貴重な資料です。岡崎城の縄張りは複雑な形状で隅櫓が多く、虎口はどれも厳重で堅固さを感じます。屏風折れ塀のように見える土塀も描かれています。

階段の注意書きは「立入禁止」ではなく「上り下りに注意してください」とな?これはもしや……二階へ上れる??

期待して見上げると、階段の上が板で塞がれています。残念。

奥へ進むと、トイレらしき小部屋と、その右にも部屋があります。

キッチンと、エアコンまであります。史実に忠実な復元ではないので、櫓には休憩所としての役割も持たせているようですが……これだけの設備があれば「城泊」も可能に思えます。

先ほどの絵図の東曲輪をアップで。二重の東隅櫓の左(東)に、狭い通路が描かれています。切通しです。

絵図にある切通しは、現在もこのように、良好に残っています。素晴らしい! これは北側から見た様子で、道は屈曲し、先が見通せないようになっています。

堀底道といった雰囲気で、この高さをよじ登るのは、難しそうです。

矢穴のある石材も見えますが、石垣は当時のままなのでしょうか。

道は東へ大きくカーブしており、スピードダウンを余儀なくされます。

ただでさえ狭い道を通る敵がカーブで減速した所を、東隅櫓から狙い撃ち、です。

切通しの南側入口より、切通しを見ます。切通しの南側入口には当時、枡形虎口があったようで(写真よりもう少し手前(南)側?)、南にある菅生曲輪から三の丸などの城郭中枢部へ通じる道ということもあり、枡形からの狭く屈曲する切通しに加えて東隅櫓の横矢という非常に厳重な虎口となっていたようです。

 

切通しを南へ抜けると、菅生曲輪です。

菅生曲輪から東隅櫓と土塀を見上げます。曲輪間の高低差がよく分かります。

コンクリートの基部に見える石垣は、当時のものでしょうか。

土塀より西側の石垣は、なんだかよくわからない状態ですね……。石材自体は古そうですが、公園化の際に積み直したのでしょうか。

菅生曲輪には武家屋敷や侍長屋があったようですが、現在は北側が広場となっています。

菅生曲輪の西側には、隠居曲輪があります。撮影場所はおそらく東曲輪の南端付近で、写真左の広場が菅生曲輪、その右の建物がある所が隠居曲輪です。謎石垣の上は……おそらく二の丸にあたると思われます。

東曲輪の南端付近から、土塀と東隅櫓を見ます。お城感をふんだんに醸し出す、良い再建造物です。

 

二の丸へ向かいます。

模擬大手門を内側から。門をくぐると、二の丸です。

東曲輪の土塀と東隅櫓は立葵でしたが、大手門屋根瓦の家紋は葵の御紋(三つ葉葵)のようです。

模擬大手門の南に、天守を模したと思われる電話ボックスがあります。破風に三つ葉葵まで付いてて、これは……可愛い!

城主の御殿があったという二の丸には、奥に何やら御殿風の建物が見えますが……その前に写真左、二の丸井戸跡の立札が右を指しています。

立札に従って歩くと、売店の軒下に、井戸があります。

覗き込むと、中は埋まっていますが、石組井戸が見えます。

二の丸御殿に伴う井戸が、発掘調査により見つかったようです。

井戸の位置から、絵図の赤丸で示されたいずれかと考えられるようです。

御殿風建物は「三河武士のやかた 家康館」という歴史資料館です。

家康館の前では、武将隊による演武が行われていました。

家康公の「しかみ像」です。元になった肖像画があるんですね。寄贈者はなんと、徳川宗家十八代当主!

二の丸にはほかにも、本多忠勝公や別の姿の家康公などいくつかの像があるようですが、見逃しました……。

先ほどの絵図(井戸の説明板)を見る限りでは二の丸御殿に能舞台はなさそうでしたが、現在は二の丸南西隅に立派な能楽堂があります。

能楽堂の東から南を見ると、一段と高い曲輪の突出部が見えます。本丸と二の丸の間にある、持仏堂曲輪です。

持仏堂曲輪の向こうには、少し木に隠れていますが、天守と付櫓である井戸櫓が見えています。持仏堂曲輪の法面に見える石垣は、当時のものでしょうか。

二の丸と持仏堂曲輪を隔てる空堀は、大迫力です。

二の丸の南西出入口です。右手に能楽堂建物、左手には二の丸と持仏堂曲輪を隔てる堀があり、正面に産湯の井戸が見えます。絵図では写真右手前・能楽堂の南東端付近に門が描かれ、当時もここに二の丸と坂谷曲輪をつなぐ道が存在したようです。

持仏堂曲輪の北西角です。上部は土塁ですが、基部にはしっかりと石垣が積まれており、隅部はきれいな算木積みです。

坂谷曲輪から、持仏堂曲輪と本丸の間の堀を見ます。奥には、持仏堂曲輪と本丸をつなぐ廊下橋の石垣が見えています。

 

持仏堂曲輪へ向かいます。

二の丸能楽堂の南東から延びる土橋の先、低い石垣に両脇を固められた雰囲気のある石段を上ると持仏堂曲輪の北西あたりに入れるのですが……どうやら二の丸から持仏堂曲輪へ通じる虎口は二の丸南東(持仏堂曲輪北東)側にしか存在せず、この石段も手前の土橋も、後世の改変と思われます。

持仏堂曲輪の内部です。写真左に今上ってきた石段、右奥に本来の虎口である太鼓門の石垣が見えます。

「持佛堂廓阯」の小さな碑を見つけました。持仏堂曲輪の名は、家康公所持の阿弥陀仏を安置したお堂があったことに由来するそうですが、その持仏堂建物があったとされる場所(曲輪の西端)には現在、和食料理屋が建っています。

持仏堂曲輪から見る天守と井戸櫓の北面は、木の妨害が少なくよく見えるのですが……撮影者的には天守の非常階段がいただけません。

街灯のたもとに「廓下橋阯」の碑を見つけました。ん?廓下橋ではなく「廊」下橋では……? さておき、持仏堂曲輪と本丸をつなぐ土橋は当時、廊下橋だったようです。

現在は廊下橋の建物部分はなく、土台となる土橋は明治期以降に改修されたようで、アーチ橋となっています。橋を渡った先の天守台北面には、巨大な鏡石が見えます。

廊下橋の西、先ほど坂谷曲輪から見た持仏堂曲輪と本丸の間の空堀です。ものすごい高さ! 天守台下の本丸石垣をよく見ると、排水口らしき穴が見えます。

そして廊下橋の東にも、とんでもない深さの空堀が続きます。「清海堀」と呼ばれるこの持仏堂曲輪と本丸の間の堀は、外側が見事にカーブを描く石垣、内側が急斜面の土塁となっており、岡崎城最大の見所といっても過言ではないように思います。

持仏堂曲輪の北側突出部です。外周土塁内側にも、石垣が見えます。

突出部の先端より、二の丸を見ます。

北側の堀では外側(二の丸側)に石垣が見えます。突出部からは二の丸へ広範囲に横矢を掛けられ、門へ迫る敵を狙い撃ちまくりです。

北側突出部のすぐ東側には、門跡の石垣が残っています。太鼓門跡です。

二の丸と持仏堂曲輪をつなぐ太鼓門は、絵図によると外門と内門からなる枡形虎口で、外門を越え左折し、土橋(写真手前)を越えた先に石垣の残る内門があったようです。現在は本丸にある龍城神社の入口となっており、門石垣の前に碑が立っています。

土橋の上から、二の丸と持仏堂曲輪の間の堀を見ます。深い堀は土橋の南側からは大きく東へ曲がり、南へとカーブしていきます。持仏堂曲輪の外側上部(写真2枚目右側)には、石垣が見えます。

太鼓門跡の南側石垣上部には、段差があります。

太鼓門の南側からは、持仏堂曲輪は非常に細長い帯曲輪となって本丸外周に沿ってカーブを描いており、太鼓門を越えて180度ターンさせられた後、帯曲輪上をぐるーっと大きく東へ迂回しないと本丸門へたどり着けない構造となっています。曲輪の外側には、太鼓門から続く石垣が連なり、曲輪の堅固さを印象付けます。

帯曲輪を行く敵は、常に本丸(写真右)から横矢を掛け続けられます。これは厳しい!

帯曲輪外周の石垣には、雁木があります。

南側では石垣が高くなり、雁木もそれに合わせて多く、かつ幅が広くなっています。

外周石垣の南端には何やら碑が立ち、その碑へ上るために後付けされたような石段があります。絵図によると、このあたりに挑燈櫓という隅櫓が建っていたようです。

挑燈櫓台と思われる石垣の南、帯曲輪の南端部にもしっかりと石垣が積まれています。

この細長い坂道を下りた先が、隠居曲輪です。帯曲輪とはかなりの高低差があります。

 

本丸へ向かいます。

隠居曲輪より東を見ると、本丸石垣が見えます。左の低い石垣は本丸南側を取り巻く風呂谷曲輪のもので、右の二段構成となっている高石垣は本丸東端(天守から見ると南東方向)の隅櫓があった辰巳櫓台です。

辰巳櫓台はサイズの揃った石材による完成度の高い石垣で、算木積みの隅部は稜線が直線的に整えられています。櫓台上に平櫓のような建物がありますが、これは巽閣という後世に建てられた施設の一部です。

右が帯曲輪側の、左が本丸側の石垣で、その間が本丸へ通じる土橋の石垣です。いずれも高さがあり、とりわけ本丸石垣は非常に高く積まれています。

もう一度、帯曲輪から清海堀を見ます。うーん、美しい!

写真奥の廊下橋、よく見ると傾斜がついていますね。

清海堀外側の石垣はぐるりとカーブし、本丸御門西側の石垣へ接続します。

本丸御門手前から、ほとんど木々に隠れない天守東面と井戸櫓を撮影できました。今回の訪問における個人的ベストショットと考えています。

でもここからじゃ、初重が見えないんですよね……ぐぬぬ

本丸御門東側には、石材を精密に加工し隙間なく積んだ切込接ぎの石垣があり、石材表面にも仕上げ加工が施されています。切込接ぎが見られるのは、城内でここだけのようです。

 

本丸御門を越えると、本丸です。

絵図では辰巳櫓や三階櫓があったとされる東端部には、現在「巽閣」という御殿に隅櫓が附属したような外観の貸会場が建っています。屋根瓦には、葵の御紋。

巽閣の西、本丸の中央付近にある龍城神社には、家康公と本多忠勝公が祀られているそうです。天守と井戸櫓が良い感じに並んで見えそうな南東方向からは神社に隠れてしまいご覧の通り。ぐぬぬ

天守の前には、いかつい亀に乗った「東照公遺訓碑」があります。左奥に見える碑は、跡継ぎに遺したという「家康公遺言碑」です。

屏風のような碑(?)もあります。暁以前。

こちらは大屋根の両脇に小屋根が付いてなんだか豪勢な説明板です。歴史や入館料の説明もあります。

これら碑などの配置は写真のとおりです……って、屏風型の碑が左の木に隠れてしまっていますね。手前の石列は後世のものに見えますが、絵図によるとここに土塀の基礎があってもおかしくはないのですが……はたして。

そして入口のある南からはさすがに天守がよく見える……と思ったら、大きな木に邪魔されています。井戸櫓に至っては建物(神社関連の施設でしょうか)に隠れてほとんど見えません。これは参りましたね……東西南北全方位において、ここまで思うように撮影できなかった天守は初めてです。

天守台は、算木積みのやや未発達な野面積みで、隅部に反りはなく、直線的に見えます。扇の勾配とは逆方向、内側に反っているようにも感じますが、経年劣化によるものでしょうか。

天守台上部の色が異なるのは、再建時の積み直しによるものでしょうか。

 

天守の中へ入ります。100名城スタンプは、天守内で押しました。

入口には、レトロな記念メダル販売機と、新しそうなガチャがあります。左の再建天守の梁(?)に貫かれた石垣や、メダル販売機後ろの石垣は現存でしょうか。

一階には、用材や潜戸、門扉などが展示されています。

天守礎石も残されています。岡崎城天守には、心柱があったようです。

一階内部より、天守入口を見ます。

本多時代の絵図です。建物などは描かれず、ざっくりしています。

こちらの絵図は曲輪名称や建物が描かれ、当時の様子がより詳しく分かります。

最上階からの眺望、まずは南です。埋門東側のL字石列(写真中央・青い車の左側)はやはり、土塀基礎跡ではないかと思えて仕方ありません。

東です。二重の付櫓である井戸櫓と、その東に続く土塁が見えます。絵図ではここにも建物(多聞櫓?)があったように描かれています。

北です。持仏堂曲輪の形状が確認でき、廊下橋や清海堀の石垣がよく見えます。

 

天守を下り、本丸の南側へ向かいます。

天守の南、本丸南西に位置する虎口が、この本丸埋門跡です。現在はスロープ状の園路が整備されており、本丸の外側とはかなりの高低差があります。

埋門北袖は見事な高石垣で、素晴らしい見所のひとつです。

本丸の南を取り巻く腰曲輪が、風呂谷曲輪です。このあたりでは、石材に表面仕上げが見られます。

風呂谷曲輪を東へ歩くと、隅部の稜線が美しい高石垣が見えてきます。月見櫓台です。

いやー、月見櫓台も素晴らしい! かつては隅部に二重の月見櫓と、その東には二重の脇多聞櫓が連なっていたようです。

月見櫓台の南、龍城堀に架かる神橋です。朱色が美しい橋ですが、電飾でぐるぐる巻きです……。当時は、風呂谷曲輪から龍城堀へ架かる橋は無かったようです。

月見櫓台と神橋の間に、風呂谷曲輪を表すと思われる「風呂谷阯」の碑を見つけました。

風呂谷曲輪には、本丸南東へと通じる石段があります。月見櫓・脇多聞櫓台(写真左端)の右に見える石垣の穴は、排水口でしょうか。

石段右手の低い石垣上には、土塀が建っていたのでしょうか。石段を上った所に、風呂谷門があったようです。

風呂谷門付近から、石段を振り返ります。正面の石垣が月見櫓・脇多聞櫓台で、その右手前にある石垣上には平櫓が建っていたようです。

 

お城の南を流れる乙川(菅生川)の川岸へ向かいます。

舟形の碑の右にある碑には……「御城下舟着場跡」と書いてあるでしょうか。

ここはかつて、舟着き場だったようです。

菅生川端の石垣には、三つの横矢枡形が設けられていたようです。この説明板の位置図によると、三つとも露出しているようですが……?

一つめは……これでしょうか。

二つめは、舟形の碑が乗っている所のようです。ここは四段の隅部が見えており、明瞭ですね。

そして三つめは……これ? うーん、自信がない。

岡崎城では、三種類ある石垣の積み方全てが見られます。割石積みは「打込接ぎ」とも、切石積みは「切込接ぎ」とも言います。

刻印の付いた石もあるんですね。

三つの横矢を伴いつつ400mも直線的に連続する石垣は日本最長級であり、他に類を見ないようです。

ここの石垣は隅石が見えているようなので、菅生曲輪南側の石垣折れ部西端でしょうか。

総構えを含めた城域は全国屈指の広さだったようです。古写真を見ると、再建天守と井戸櫓はおおよその外観は再現できているのかなあという気がします。

川端石垣だけでなく籠崎堤という人口堤防も築かれ、治水機能を担っていたようです。

ここが菅生曲輪南側の石垣折れ部東端でしょうか。

菅生川端石垣と、天守です。石垣上のホテルが建っているあたりが菅生曲輪の南側で、当時は菅生櫓が建っていたようです。

乙川(菅生川)対岸から、天守と川端石垣を見ます。しまった、指が写り込んで……。

ここまで離れてようやく、天守がよく見えるっていう、ね……。

 

天守の撮影は非常に手強かったものの、様々な石垣が良好に残り、大迫力の空堀や曲輪間の高低差など見所多数。発掘調査や整備も進んでいるようで、これからも楽しみな城跡です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで34城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

27-2.赤穂城

赤穂城に行ってきました。

日本100名城(No.60)に選ばれた、兵庫県赤穂市にあるお城です。

 

前回の訪問で行きそびれた場所・撮り逃したアングルを補完すべく、訪れます。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

赤穂と言えば忠臣蔵播州赤穂駅前には「義魂」の台座に立つ大石内蔵助と思われる像が今まさに吉良邸へ討ち入りをせんという様子で立っています。大石内蔵助こと大石良雄氏は赤穂城主・浅野家の筆頭家老でした。

こちらも播州赤穂駅前にある、山鹿素行の紹介です。軍学者である素行氏は、赤穂城二之丸縄張りの変更に関与したようです。説明板の下には歴史散策ルートの紹介があります。こちらで紹介されている場所に、いくつか訪れます。

 

まずは、城下を歩きます。

駅から南へ歩くと、城下町の北端に「百々呂屋裏大枡」跡があります。上水道の浄化や水量調整などの役割を担っていたようです。歩道いっぱいに描かれた黒い線により、巨大な設備だったことがうかがえます。説明板の奥に見えるのが、大枡に使われていた石材でしょうか。

そして百々呂屋裏大枡、という名は「百々呂屋」という商店か何かの裏にこの大枡があったから付けられたように思えますが……なかなかインパクトのある名前です。

百々呂屋裏大枡の南にある、元禄赤穂事件にも登場するという「息継ぎ井戸」です。井戸屋形の屋根瓦に浅野氏の「違い鷹の羽」らしき家紋が見えますが、屋形は当時のものでしょうか。

日本三大水道に数えられるという赤穂上水道。この息継ぎ井戸もやはり、上水道から水を引いていたのでしょうか。そういえば先ほどの説明板には「旧赤穂上水道」とあり、こちらでは「赤穂旧上水道」……表記は統一した方が良いかと。

息継ぎ井戸の背後には、昭和初期まで使われていたという汲出枡と上水管が展示されています。

息継ぎ井戸の周辺は公園として整備されており、浅野家の菩提寺であり歴代藩主の菩提寺でもある「花岳寺」の説明があります。

こちらが息継ぎ井戸の南西にある、花岳寺です。

山門は、赤穂城の西惣門を移築した、貴重な城郭遺構です。

高麗門形式で、屋根瓦には浅野氏家紋が見えます。

花岳寺から息継ぎ井戸まで戻り、通りを東へ歩くと、加里屋川の手前に中洲惣門跡の碑があります。花岳寺の山門が元あった場所はここではなく、花岳寺の前の道を西へ歩いた所にある西惣門(塩屋惣門)跡ですが、今回は未訪です。

中洲惣門跡から西へ歩き、花岳寺のそばまで戻ってきます。

花岳寺の南東にある、城下町の船入跡です。船入の中央付近が公園として整備され、説明板や石碑があります。

 

城下の散策を終え、お城へ向かいます。

お城通りを南へ歩くと、三之丸の大手口があります。堀の向こうに見えるのは、赤穂城に10あったという隅櫓で唯一再建された、三之丸の大手隅櫓です。石垣には土塀が復元され、橋の先には大手門も復元されています。

大手隅櫓を、前回とは違うアングルで。門があり、塀があり、隅櫓があり、史蹟碑がある。良く整備された、立派な大手です。

前回訪問ではここからまず縄張り外周を一周しましたが、今回は素直に大手門から三之丸へ入ります。

内側から大手門を見ます。せっかく復元された大手の高麗門、門扉がないのは少し残念です。門の両脇には雁木が設けられ、当時の袖塀には射撃用の狭間があったのかもしれません。

枡形石垣は明治以降に改変があったそうですが、近年旧状に復されたようです。

高麗門から直進し右折した所に、櫓門があったようです。櫓門の先にあった番所跡には番所風の休憩所が整備され、往時の雰囲気が想像しやすくなっています。

櫓門跡を越え、枡形を振り返ります。櫓門跡に見える方形の表示は、門柱の礎石跡でしょうか。

枡形石垣と、隅櫓と、番所(風休憩所)と、土塀と。いいですねー非常にお城っぽいですねー。お城なんですけどね。

大手枡形を南から。枡形の裏手は、とても広い武者溜まりとなっています。枡形石垣の南側には、雁木が設けられています。

枡形石垣の向こう、大手隅櫓が顔を出しています。

三之丸大手門の南側には、長屋門が現存しています。こちらは近藤源八宅跡長屋門。(門部分は非現存)

こちらは大石邸長屋門。あの大石良雄氏のお宅です。屋根瓦には大石氏の家紋「右二つ巴」が見えます。

長屋門から南東へ歩くと、三之丸東側虎口・清水門跡があります。特徴的なL字型門石垣の西(写真手前)側にはかつて直進を防ぐように石垣があり、橋を渡り右折(写真だと左側へ曲がる)しないと三之丸へ入れないようになっていたようです。門前面の橋台石垣(写真右奥)は、発掘調査後に復元整備が行われたそうです。

清水門前面の橋付近から北を見ると、石垣に横矢が掛けられています。右奥の横矢部分は、三之丸東隅櫓台です。

清水門跡の南には、堀の向こうに復元された二之丸東北隅櫓台が見えます。堀を隔てて手前が三之丸、奥が二之丸です。

清水門の外側にはかつて米蔵・薬煙場・番所などがあり、米蔵のあった場所には現在、土蔵風外観の赤穂市立歴史博物館が建っています。

歴史博物館は西側(お城側)から見ると蔵が並んでいるようにしか見えませんが、東側入口付近はモダンな外観です。

100名城スタンプは、ここ歴史博物館で押しました。

 

清水門跡から三之丸の外へ出たので、ここからは歴史博物館の南へ向かい、二之丸外周を歩きます。

歴史博物館(米蔵跡)のすぐ南にある船入跡です。現在は埋め立てられています。

船入跡のすぐ南にある、二之丸東櫓台です。当時は一重櫓が建っていたようです。櫓台の上にブルーシートらしき物が見えますが……これについては後ほど。

複雑に屈曲する二之丸外周石垣。二之丸東櫓台の南側ではこのように、鈍角に折れ曲がる石垣も見られます。ここでは隅部の石材を鈍角に加工して折れを設けています。

二之丸の南側に設けられた船着場です。写真左奥にわずかに見える低い石垣が突堤で、突堤の内側には船着きの雁木があり、その奥にはかつて水手門と米蔵があったようです。写真左奥に見える瓦屋根は、米蔵跡に建てられた米蔵風休憩所の屋根です。

前回訪問時に撮り逃した、突堤の西側から南沖櫓台(写真左奥)へ連なる美しいカーブ石垣です。まるでグスク城壁のように、美しい曲線を描いています。突堤の向こうには水手門跡と、米蔵(風休憩所)が見えます。

水手門の標柱は、突堤に架かる橋の南という水手門からとても離れた位置に、傾いて立っています。

こちらも前回間近からは撮り逃していた、カーブ石垣の西にある南沖櫓台です。

南沖櫓台から二之丸外周を西へ歩くと、二之丸西仕切があります。写真右端にわずかに写るのが西仕切塀で、そこから北(写真左方向)へ続く二之丸外周石垣の先に見える石垣の隙間は、西中門跡と思われます。堀を挟んで西(写真左)側に見えるのは、三之丸石垣です。

三之丸南の干潟門跡も、前回とは異なる東からのアングルで。干潟門跡の西(写真左奥)にあるのが、三之丸西南隅櫓台です。

干潟門跡をアップで。奥には、西中門跡が見えます。このあたりの整備が進むことも、期待しています。

三之丸西側外周部には石垣が一部消失・改変されているように見える箇所がありますが、縄張りの輪郭はしっかり残っています。

ここにも山鹿素行氏の説明板が。

説明板の背後にそびえるのは、三之丸西隅櫓台です。二重櫓が建っていたという櫓台からは当時、土手が西側へ延び、櫓台の裾付近には水門が設けられ、ここより北側へ続く三之丸堀の水量調節を担っていたようです。櫓台の西側基部(写真左)に見える土盛りは、土手の名残かもしれません。

西隅櫓台から北へ連なる石垣は崩壊が進んでいますが、隅部はしっかり確認できます。石垣隅部に立つ城跡碑のさらに北は、三之丸の搦手門があった場所です。

三之丸の搦手、塩屋門跡です。息継ぎ井戸でひと息ついた早使は、ここ塩屋門から城内へ入ったんですね。

枡形石垣から西(写真手前)へ、低い石垣が延びています。この低い石垣のすぐ南(右)に、高麗門が建っていたようです。

低い石垣の内側には、雁木がしっかり残っています。説明板のあたりに、太鼓櫓があったのでしょうか。

塩屋門は高麗門のみからなる枡形門だったようです。明治期の古写真には、高麗門・太鼓櫓・西隅櫓と土塀が鮮明に写っています。

古写真と似たようなアングルで撮影すると、当時の様子が想像しやすい……かもしれません。古写真には高麗門右(南)側に石垣が連なっていますが、現在は失われたようです。

 

塩屋門跡より、再び城内(三之丸)へ入ります。

城内側から振り返り、塩屋門跡を見ます。

三之丸西側には、義士たちの屋敷が建っていたようで、説明板がいくつかあります。

重職義士のひとり、間瀬久太夫の屋敷跡です。

遺構の平面表示は見当たらず、屋敷跡と言われてもピンとこない状態です。

二之丸外堀の北側に石列が見えますが、何かの跡でしょうか。中央奥に見えるのは、二之丸北隅櫓台です。

災害復旧のため取り除かれたという二の丸北側石垣は、二之丸門より西側部分は復元されているようで、真新しい石材によるものと思われる石垣が続いています。奥には、本丸櫓門の屋根が見えます。

古写真を見ると、復元されたと思われる写真右の低い石垣が、古写真の櫓門手前に見える土塀が載った低い石垣にあたるのでしょうか。だとすると櫓門の位置は説明板の付近……? 二之丸門より東側の石垣が失われているため、当時の姿が想像しづらくなっています。

二之丸門手前の、枡形を構成していたと思われる復元石垣を、内側から見ます。雁木の左側石垣は途切れていますが、当時はさらに東へ延び、二之丸門の南へ接続していたと思われます。元通りに復元される日は、来るのでしょうか。

 

二之丸門を越えると、二之丸です。

二之丸庭園は北西にある、二之丸の約四分の一を占める大規模な庭園です。

写真右手前は、二之丸庭園の北側にあった大石頼母助屋敷の復元された屋敷門(薬医門)です。鬼瓦に見えるのは、大石頼母助の家紋でしょうか。写真奥に見えるのは、本丸門です。

大石頼母助屋敷跡の南側から、復元された二之丸庭園が西方向へ続いています。

橋の向こうに、西仕切門が見えます。橋の手前には、アオサギらしき鳥がいます。

こちらにもアオサギ。未だ立ち入り区域が制限される二之丸庭園は、鳥たちの楽園と化しているのかもしれません。舟倉の向こうには、西中門跡が見えます。

ここから先には進めないので、柵の向こうのアオサギも安心してくつろいでいます。

柵のあたりから東へ振り返ります。池のほとりに復元された東屋と、左奥には大石頼母助屋敷門が見えます。

こちらの東屋は高台にあり、傘のような屋根をしています。

傘型の東屋からは、庭園全体が良く見渡せます。そんなに高くなくても、ずいぶんと景色が変わるものですね。

庭園の復元はほぼ完成しているように見えるのですが……。この柵より向こうへ行けるようになれば、また訪れたいですね。

二之丸庭園の北にある、北隅櫓台です。標柱の説明文が判読困難です……こういう所もいずれ再整備してもらえるとありがたいのですが。

北隅櫓台付近から、南を見ます。左に大石頼母助屋敷門が、その右には二之丸庭園表門が見えます。手前の空き地が大石頼母助屋敷だと思われますが……本丸御殿のように平面復元されれば、屋敷があったのだと伝わりやすいように思います。

 

二之丸庭園を出て、本丸へ向かいます。

復元された本丸門です。鮮明な古写真のおかげで、明治期の取り壊し以前の姿が蘇っています。

築城時の建造と推定される本丸門。赤穂城ができて間もない頃と同じ姿を見ていると思うと、感慨深いものがあります。

前回訪問時は水草で水面がほとんど見えなかった本丸門左(東)側の堀は、見違えるほど綺麗になっています。左奥に見える櫓台は、本丸にあった唯一の櫓・東北隅櫓跡です。

二の門は小ぶりで、一度に大勢の敵が進入するのを阻みます。

内側から二の門を見ると、高麗門形式なのがよく分かります。

枡形内の石垣には雁木が設けられ、ここを上って土塀にある大小様々な狭間から本丸へ迫り来る敵を狙い撃ちできます。

二の門を突破されても、巨大な櫓門である一の門が立ちはだかります。

本丸内側より、一の門を見ます。

復元された本丸庭園の大池泉です。歴代城主も、縁側からこの景色を楽しんだのでしょうか。

大池泉のすぐそばへ下りられるよう、石段が設けられています。奥に、天守台が見えます。

大池泉の南側にある刎橋門跡です。門の正面には石段が、左右には合坂があり、三方向から刎橋門へ至れる構造となっています。

門の外側には開閉式の刎橋が架けられていたようですが、今はなく、ここからの出入りはできません。

大池泉の西側にある、砂雪隠です。

砂雪隠のそばにある、石組暗渠排水路です。大池泉の水は、ここを伝って排水されていたのでしょうか。

本丸南東部にそびえる、独立式の巨大な天守台です。ここに天守が築かれることは、なかったようです。

天守台の西面から南面にかけて、上り階段が設けられています。

天守台からは、本丸が一望できます。殿様も時には天守なき天守台に上り、自らの城を眺めたのでしょうか。

天守台の北側は女中たちが使用する奥御殿だったようで、天守台のそばには茶之間や湯殿があったようです。

文字の色がほとんど落ちてしまっていますが……奥御殿の北東にあるのが、本丸に三つある門の残るひとつ、厩口門(台所門)です。

厩口門は本丸跡にあった高校の通用門として改変されていたのを、橋・土塀・周辺石垣とあわせて復元したそうです。門両脇の窮屈そうな袖塀と雁木が、チャーミングですね。

屋根瓦には浅野氏の家紋「違い鷹の羽」らしき紋様が見えます。

門扉には潜戸があります。

 

厩口門から本丸を出て、二之丸に入ります。

案内図で、これまで歩いてきた縄張り形状を見ます。輪郭式の本丸・二之丸に三之丸が北西からかぶさる「変形輪郭式」とも呼ばれる個性的な構造で、各曲輪の外周には数多くの横矢が掛けられています。

おや、案内図の背後に、何やらブルーシートが見えます。

二之丸東櫓台が現在発掘調査中なのか、フェンスによって立ち入りができない状態となっています。二之丸外周を歩いた時に櫓台上部に見えていたブルーシートは、こういうことだったんですね。フェンスには、たくさんの写真や説明が掲示されています。

櫓台の内側上部はかなり崩壊しているように見えます。

厩口門のすぐ東・船入のすぐ南にある東櫓台には一重櫓が建っていたことが、様々な絵図からも分かります。現在の様子と大きく異なる昔の写真資料も、興味深いですね。

事細かに記録しながら進めていく発掘調査の様子が、写真から伝わってきます。

写真に解説が加えられており、理解の助けになります。

とても立派な心柱礎石が残っていたんですね。

北東と北西の隅石の高さの差から、石垣が大きく崩れているのが分かります。

時に石垣崩落の要因ともなる樹木の繁茂ですが、この場合は樹木のおかげで完全な崩落を免れたようです。

そしてブルーシートの隙間から見えるのはもしかして……崩落を免れた北西隅石ではないでしょうか! これは興奮します。

発掘調査終了後は、石垣の修復がされるのでしょうか。

二之丸には東西にそれぞれ仕切があり南北に区画されていたようで、写真手前の堀に張り出した石垣が、二之丸東仕切跡と思われます。

厩口門外側付近から、東仕切跡を見ます。堀へ張り出した石垣から左(東)へ仕切塀が延び、反対側からも延びる仕切塀との間には、仕切門があったようです。

案内図にある、東仕切門のアップです。両側から延びる仕切塀の間に、門が建てられていたようです。

複雑な形状の土塀に挟まれた厩口門の奥に、本丸櫓門が見えています。

帰りに大手隅櫓を振り返り、お城に別れを告げます。

 

100名城スタンプ目的での再訪でしたが、特に撮影面での補完は多くの成果があり、満足しています。二之丸東櫓台の発掘現場を見て、やはりまだまだ現在進行形な城跡なのだと改めて感じたので、三度目の訪問が今から楽しみです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで33城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

66.武田氏館

武田氏館に行ってきました。

日本100名城(No.24)に選ばれた、山梨県甲府市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

躑躅ヶ崎館とも呼ばれる武田氏館を築いた、甲府駅北口にある武田信虎公の像です。甲府駅の南口には信虎公の子・信玄公の像があるらしいのですが……見逃しました。

甲府駅の一角では、「こうふ開府500年メモリアルギャラリー」の常設展示があり、入場無料でした。

展示のひとつ、武田氏館の模型(南から見る)です。単なる方形居館ではなく、主郭の周囲にいくつかの曲輪を配置し、主要な虎口には丸馬出があったようです。

東から見ます。現在堀に架かる「神橋」は、当時は無かったようです。

北から見ます。北側には御隠居曲輪、稲荷曲輪、味噌曲輪などがあったようです。

 

それでは、現地に向かいます。

現在、館の跡地には、信玄公を祭神とする武田神社があります。

神社入口のすぐ南には、武田氏の家臣・穴山信君公の屋敷があったようです。

穴山信君公の屋敷跡には、ガイダンス施設が建設中でした。こうふ開府500年に合わせてオープンする模様です。

古府の図(及び、現代の図)を見ると、武田氏館の周囲には穴山信君公のほかにも「武田二十四将」と呼ばれる家臣の屋敷が立ち並び、城下町を形成していたことが分かります。

神橋から西を向き、主郭の南側にある堀を見ます。水を湛えた堀が、よく残っています。当時ここに橋は無かったようなので、この位置から堀を見ることはなかったでしょう。

神橋を渡ると、両脇に高石垣がそびえますが、当時ここに虎口は無かったので、後世に積まれたものではないかと思われます。

石垣のそばに、立派な史蹟碑があります。

神社全図の社務所北側に描かれている石垣は……もしかすると天守台でしょうか。武田氏滅亡後、徳川氏の時代には天守が築かれたようです。

こちらの説明に描かれた図には「中世の甲府」とありますが、よく見ると武田氏滅亡後に拡張されたという梅翁曲輪があったり、虎口が丸馬出ではなく石垣で囲われていたりするので、武田氏後の姿と考えられます。

 

主郭には入らず、東の大手方面へ向かいます。

草木で分かりにくいですが……主郭南東隅を撮影したものと思われます。わずかに石積みが見えます。

主郭の大手門跡から道路を挟んで東側は、史跡として整備されています。遺構としては最上部にあたる武田氏滅亡後の曲輪構造が再現されているようです。

武田氏滅亡後に築かれたとされる大手石塁の下からは、武田氏時代に築かれたと考えられる三日月堀が見つかっているようです。武田氏のお城に特徴的な丸馬出を見たかった気もしますが、その上の石塁もまた貴重な遺構……時代と共に姿を変えるのが、お城なんですよね。

美しく復元整備された大手石塁の下には、信玄公も通ったであろう大手丸馬出と三日月堀が眠っているのだなあと、お城の変遷に思いを馳せます。

石塁には石段が設けられています。当時は、大手を守るために塀などが建っていたのでしょうか。

大手石塁の東には、大手門東に広がる曲輪の北側を区切る土塁が伸びています。

土塁に沿って東へ歩くと、武田菱のあしらわれた説明板が立つ、北側虎口の土橋があります。

土橋の南には大手曲輪の堀と土塁が続き、その先に南側虎口の土橋が見えます。写真左の道が、鍛冶小路です。

鍛冶小路から、北側虎口を見ます。大手曲輪は南北で高さが異なり、虎口の先が、一段高くなっている上段部にあたります。

北側の土塁には階段などが設けられ、土塁上を歩くことができます。

土塁が北へ折れる隅部からは低い石垣が伸び、石塁との間には門が設けられていたようです。大手曲輪上段部が下段部と塀などで仕切られていたならば、鍛冶小路から北側虎口を越えたらこの門を通らないと大手門へ行けなかったのでしょうか。

土塁上から、北側虎口を見ます。むむ、中央奥にかすかに見えるは、富士山でしょうか。

土橋を渡ったところに石段が見つかったということは、当時から鍛冶小路より大手曲輪の方が低い位置にあったのですね。

北側虎口の北東に巨大な石垣が見えたので思わず撮影しましたが、どうやら大正期に造られた「竜華池」という人工池の石垣らしく、お城とは無関係でした。しかしあれだけの高さがあれば、上からの眺望は良さそうですね。

門礎石が見つかったという、南側虎口です。礎石は埋め戻されたようで、復元はされていません。

北側虎口の土橋を見ると、石垣で作られているのが分かります。

堀の両脇にも石積みが見えます。

基底部の石積みが残っていたから、土塁や惣堀が復元できたのですね。

南側虎口から、大手曲輪の下段に入ります。右奥に見えている山はやはり、富士山のようです。

曲輪の下段と上段では、これだけ高さの違いがあります。

大手石塁の南側にある、厩跡です。柱の根元には礎石ならぬ「礎板」が見つかっているようです。

大手門跡の両脇には、土塁が高くそびえます。信玄公の時代には、どのような門が建っていたのでしょうか。

大手門跡の東に架かる土橋から、主郭東側北の堀を見ます。このあたりは現在、空堀となっています。

 

大手周辺から、北へ歩きます。

色褪せた史跡標柱を見ながら、なおも北へ歩きます。

御隠居曲輪の南は、公園として整備されています。

公園の北側が御隠居曲輪です。信玄公の母・大井夫人の隠居所とされているようです。

木の植えられたあたりが、御隠居曲輪の西辺にあたるようです。

御隠居曲輪の南西には、主郭北虎口を守る馬出があったようです。木の向こう、石積みで方形に囲われた区画が、馬出でしょうか。

主郭北側へ通じる階段と思われますが……当時のものなのか、馬出との位置関係などは、不明です。後で見た時に周囲の状況や位置関係が分かるような撮影を心がけないと、ですね。

主郭の北側には、深い堀が続きます。

西へ歩くと、道が鍵の手に曲がり、石積みが見えます。

御隠居曲輪と味噌曲輪の間には、無名の曲輪があったようです。

北の曲輪群の一番西側に位置するのが、味噌曲輪です。西曲輪のすぐ北に位置し、現在は発掘調査が行われている模様です。

味噌曲輪の南東に、石垣が積まれた小さな区画があります。稲荷曲輪です。

稲荷曲輪の石垣はしっかりと積まれていますが、いつの時代のものでしょうか。

稲荷曲輪には現在、小さな石の祠が並んでいます。かつては稲荷社があったのでしょうか。

稲荷曲輪南側の、入隅部です。堀を隔てて南には、主郭があります。

西側から見る、稲荷曲輪の全景です。

稲荷曲輪から西へ歩き、振り返ります。写真中央奥が、稲荷曲輪です。その手前の石積みが、目を引きます。

石積みは、味噌曲輪東を区切るものでしょうか。発掘調査の成果が、楽しみです。

これは……主郭と西曲輪の間の堀を撮影したものと思われます。

 

西曲輪に向かいます。

西曲輪の北虎口へ通じる土橋です。

土橋の左右には深い堀が穿たれ、土橋以外の場所から攻め入るのは難しそうです。

土橋を渡ると、枡形虎口があります。

虎口の南北で門の位置が喰い違っており、敵の直進を妨げます。

虎口内でスピードの緩んだ敵を、高い土塁上から狙い撃ちです。

いやーこれは見事な枡形ですね。撮影が止まりません。

虎口南側の門跡両脇に積まれた石垣も、実に素晴らしい!

南側の門跡から見る、枡形全景です。当時のお城の守りが体感できる、素晴らしい虎口、素晴らしい整備です。

土塁上からも、枡形虎口を撮影しまくります。

上から見ると、土橋の幅や堀の深さも、より分かりやすく思えます。

枡形虎口を越えると、曲輪内が低くなっている構造は、先ほどの大手曲輪と似ていますね。

西曲輪と主郭の間の堀を撮影している……と思われます。

こちらは、井戸のようです。

西曲輪と主郭をつなぐ、土橋です。

土橋の南側は、水堀になっています。

土橋付近にある館配置図には、建物の配置も描かれています。主郭は、中曲輪と東曲輪から成っていたようです。

西曲輪には、南にも枡形虎口があります。

内側(北側)の門跡には、このように立派な石垣があります。

こちらの石垣も、素晴らしい!

虎口の左右には高い土塁。

北も南も、よく整備された、素晴らしい枡形です。

南虎口を出ると、土橋の両側に、水堀が広がります。

西曲輪の南には、武田氏滅亡後に、梅翁曲輪が設けられたようです。

 

主郭へ向かいます。

堀を眺めながら、東へ歩きます。

石垣(写真右)を見ると、手が勝手に撮影してしまうんです。(城跡と石垣との関連は不明)

改めて、神橋を渡り、主郭である武田神社の境内へ入ります。

とても立派な石垣なのですが、こちらに虎口が無かった以上、当時のものではないと思われます。

主郭の中央に位置する、武田神社の拝殿です。

主郭南西に建つ、甲陽武能殿です。かつての館にも、能舞台があったのでしょうか。

甲陽武能殿の北、こちらの道を北上すれば、主郭北西にある天守台と思われますが……残念ながら立入禁止です。

宝物殿には、武田家ゆかりの武器・防具や、なんとあの風林火山の旗も展示されていますが、館内撮影禁止です。100名城スタンプは、宝物殿で押したように思います。

おや、こちらの配置図は、先ほどのものと細部が異なるような……? 能舞台とあった所が、こちらの図では「的山」になっています。むむむ。

館の中心部(配置図「台所」の東あたり?)に今も残る、信玄公御使用井戸です。

社殿が建つエリアには、かつて信玄公が暮らす居館があったのでしょうか。

武田菱のあしらわれた拝殿は、かつて武田氏の館があったことを物語ります。

 

主郭は神社と化しているものの、堀や土塁はよく残り、周辺整備が進み枡形虎口や石塁にお城の堅固さを垣間見ることができます。発掘調査も進行中で、ガイダンス施設のオープンも予定されており、今後がまだまだ楽しみな城跡です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで29城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

65.甲府城

甲府城に行ってきました。

日本100名城(No.25)に選ばれた、山梨県甲府市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

甲府駅に着くと、ホームから南に石垣と櫓が見え、のっけからテンションが上がります。稲荷曲輪北面の石垣と、復元された稲荷櫓です。

反対側、ホームの北には櫓門の屋根が見えています。清水曲輪に復元された山手御門です。甲府城は現在、JRによって南北に分断されています。

駅を出て、北口へ歩きます。

甲府駅の北口広場に、低い石垣があります。発掘調査により発見された、清水曲輪西面の石垣です。

左図のように、甲府城の縄張りは西を下にすると凸の字形に見え、清水曲輪は北に位置する曲輪です。城内への出入口は三つあり、北に山手門、西に柳門、南に大手門がそれぞれ建っていたようです。

ここから少し北(写真左奥)には、お城の北西隅に位置する清水櫓があったようです。

駅の南口に移動します。

城内への三門のひとつ、西の柳門については近年礎石などが見つかったらしく、跡地付近と思われる県庁北側をうろうろしていたところ、ビルの裏手に空き地を発見し「もしや発掘現場……?」と撮影したのですが、見当違いな場所かもしれません。

柳門跡付近からは、庁舎と県議会の間に二の丸石垣や、その背後に本丸石垣が見えます。西の出入口である柳門を入った所はかつて御殿や政庁が存在した重要なエリアで、おそらくこの撮影場所より南(右手)には楽屋曲輪が、北(左手)には屋形曲輪があった辺りではないかと思われます。

……ええと、ちょっと待ってください。本丸石垣に鎮座しているあの、巨大なオベリスク状の物体は一体。とても、すごく、気になります。

オベリスクには後ほど接近するとして……県庁の南へ移動します。

県庁の南東にある交差点です。城内への三門のひとつ、南の大手門がこの付近にあったようです。写真奥には鍛冶曲輪や本丸の石垣がうっすら写っていますが、左奥の歩道脇にも石垣が見えます。

説明等は見当たらず、模擬石垣と思われます。

大手門跡付近であることが多少なりとも意識されてのものでしょうか。

石垣の向こう、写真左奥にチラッと写る、防災新館という建物に入ります。

楽屋曲輪にあるこの建物、城跡とは関係なさそうに見えますが……地下一階の案内に「甲府城石垣展示室」とあります。建設前の発掘調査にて楽屋曲輪の石垣が発見されたため、その一部が移設・復元されているそうです。

展示室は地下一階ですが、一階にもこのように、上から石垣をのぞける窓が設けられています。

どれどれ……。あっ、バッチリ見えます!

それではさっそく、地下一階へ下ります。

おおお、これは……素晴らしい!

移設された石垣は、楽屋曲輪南西隅の南面石垣のようです。

胴木も発見されたんですね。

石材には矢穴のほか、線刻画も見つかったようです。

本来はもっと高かったようですが、発見されたのは基部から2m程度だそうです。

移設石垣全景です。一階では、上の穴から石垣が見えていたんですね。

野面積みといっても荒々しさはなく、よく選ばれた石材を丁寧に積んだ、整った石垣という印象を受けます。

ペンで書かれた数字は、移設の際に付けられたナンバリングでしょうか。ビルの下に埋もれてしまうところを、よくぞ移設・復元した上で公開してくれたものです。感謝。

 

防災新館から北東へ歩き、石垣がよく残るエリアへ向かいます。

鍛冶曲輪門の東にある石垣上には、塀が復元されています。

鍛冶曲輪門東側石垣から、後世に造成されたと思われる坂道(写真左)をはさんで鍛冶曲輪の南面石垣と内堀が続き、とても江戸期のお城らしい光景です。

当時は坂道がなく、鍛冶曲輪門東側石垣(写真左端わずかに写る)と坂道より東の石垣はつながっていたと思われますが……どうにも高さが合いません。鍛冶曲輪門東側石垣が本来の高さであり、それより東の石垣は高さの改変があるのでしょうか。

石垣の下方、排水口らしき穴が見えます。

いやー、石垣には白壁の土塀が映えますね。手前の内堀には白い復元塀が映り、奥の本丸には復元された鉄門が見え、甲府城の見所が凝縮された写真だと思います。……それだけに、鉄門左にあるオベリスクの異様さが際立ってしまいます。

内堀沿いを東へ歩くと、城内へ架かる遊亀橋がありますが、当時ここに橋はなく、後世に架橋されたようです。

本丸とその周辺の石垣がよく残るエリアは現在「舞鶴城公園」として整備され、遊亀橋は公園南側のメインゲートとなっているようです。甲府城跡は、県指定史跡なのですね。

もともと橋は無かったはずなので、橋付近の石垣は改変されていると思われます。

遊亀橋は渡らず、東へ歩きます。ここから先は内堀が埋められ、道路になっています。

この写真より左側、遊亀橋のすぐ東には、城内にあった庄城稲荷が移されているのですが……見事にスルーしてしまいました。お城付近にある神社や寺はお城と関係が深いものも多いので、チェックしなきゃですね。反省。

かつて内堀に面していたお城の東側には、築城期の野面積み石垣が良好に残っているようです。このあたりは鍛冶曲輪の南東にある横矢部分と思われます。

復元塀の基部には、新たに積まれたような色の異なる石が見えます。

それにしても、大ぶりな石を多用した野面積み石垣と、白い土塀と、青空……うーん、良いですねえ。前日に訪問した水戸城が石垣のないお城だったので、ついつい石垣ばかり見ちゃいます。

石垣に沿って北へ歩くと、一段と石垣が高くなります。ここが数寄屋櫓台で、これより北は数寄屋曲輪です。櫓台上部の石垣は塀を復元する際に積み直したのか、石の色が違って見えます。ていうか……櫓台にまで土塀を復元するのはいかがなものでしょうか。

石垣基部に設けられた排水口と、排水溝と。当時のものでしょうか。

数寄屋曲輪の石垣は、数寄屋櫓台と同じ高さで北へ続きます。

連続する隅部……良い……実に良いです。基部の低い石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

南を振り返り、数寄屋櫓台を見ます。うーん、いい反り。見る角度によって実に様々な表情を見せてくれる、それが、石垣なのです。

数寄屋曲輪の北、稲荷曲輪で石垣はさらに高くなり、なんと17m! 野面積みでこれだけの高さには、そうそうお目にかかれません。ワンダフル!

算木積みの未発達な隅部に、歴史を感じます。

石垣が精密に描かれた案内図を見ます。鍛冶曲輪門の東から内堀を見ながら遊亀橋を過ぎ、公園の外側(図の左側)を高石垣を見ながら現在地まで来ています。かつて南~東~北をぐるりと囲んでいた内堀は、南側の一部が残るのみとなっています。

西には、復元された稲荷櫓が見えます。稲荷櫓の左(南)で石垣が途切れていますが、ここは大正期に資材搬入路が通されたために、もともとつながっていた石垣が解体されてしまったようです。搬入路は現在、公園の出入口となっています。

説明板の写真は、稲荷曲輪北側の発掘調査風景でしょうか。

説明板の立つ稲荷櫓台直下のこの場所も、かつては堀だったということでしょう。芝生の範囲が、堀幅を表しているのでしょうか。

内堀跡に堂々とそびえる、稲荷櫓です。

櫓の東面と北面には張出部があり、石落としを備えています。櫓台上部の石垣色が違うのは、櫓復元時の積み直しによるものでしょうか。

稲荷曲輪の北面にも、見事な石垣が連なります。

思い切り逆光ですが、むしろ神々しさすらあります。

稲荷櫓台より西では、石垣がやや低くなっています。

さらに西側では段々と低くなっていますが、当時はこのあたりから石垣が北(写真手前側)に折れ清水曲輪の東面石垣へと続き、北の山手門までつながっていたようなので、この段々石垣は後世の改変かもしれません。

段々石垣の西側、写真手前の工事が行われている付近が屋形曲輪の東側にあたり、屋形曲輪は外松陰門・内松陰門を介して二の丸(写真右奥・復元塀の建つ石垣上)につながっていたようです。屋形曲輪は堀で囲われていたようですが、市街地化により曲輪の形状すら判然としない現状です。そしてこちらから見ても主張の激しい本丸オベリスク

 

線路を越え、城内への三門のひとつ、北の山手門へ向かいます。

案内図を見ると、楽只堂年録の絵図に比べて土橋が短く、土橋両脇の堀も狭くなっています。民地が迫っており、土橋をこれ以上長くできなかったと思われます。

門の西側に続く清水曲輪の外周ラインは土塁で復元されていますが、絵図では石垣が描かれています。

山手御門の復元エリア全景です。石垣や門・塀をしっかり復元した虎口に比べて周辺の堀や土塁はゆるっとしていますが、当時の縄張りラインが体感できるのはありがたいことです。写真左手前の石垣は、城外側の内堀石垣にしては石の向きや位置に疑問が残るので、修景のための模擬石垣でしょうか。

よく見ると、高麗門の上あたりに、富士山が見えています!

土橋を渡ると、高麗門と櫓門による枡形虎口が形成されています。高麗門は「山手門」と呼ばれ、袖塀を備えた立派な高麗門です。……おや、一般的には城主の家紋があしらわれていることの多い鬼瓦に、何も彫られていません。

高麗門をくぐると、櫓門が待ち構えています。

内側の櫓門、山手渡櫓門です。むむ、こちらの鬼瓦ものっぺらぼう……少し寂しいですね。

枡形は、南北に細長い形状です。

枡形を囲う石垣には、狭間付きの土塀があります。色の違う下部の石垣は、発掘された現存部分でしょうか。

枡形の南辺石垣が東西の石垣より低いのは、史料等に基づく復元でしょうか。高麗門から入るとまず正面に見える石垣なので、大きな鏡石があります。

櫓門の脇戸が開け放たれています。門柱の礎石がよく見えますね。

復元石垣は江戸期に積まれたと言われても違和感のない出来で、現代の職人さんの技術にも感嘆します。楽只堂年録には石垣の高さや石段の数まで記されていたとあり、復元の重要な根拠になったようです。

櫓門をくぐり、枡形を抜けると、清水曲輪です。説明にあった石段とは、説明板の置かれた写真左の、櫓門へ上るための石段を指すと思われます。

復元された石段は上れませんが、その東側に設けられた階段から、櫓門内へ入れます。なんと、入場無料!

中には様々な展示があります。こちらは甲府城のものではありませんが、武田氏館で出土した馬の全身骨格(複製)! きちんと埋葬されていたとのことで、もしかしたら信玄公が駆った名馬かもしれません。

復元櫓門の鬼瓦はのっぺらぼうですが、家紋入りの鬼瓦は出土しているようです。展示されているのは、江戸中期に城主だった柳沢氏の家紋・四つ花菱があしらわれた鬼瓦。

山手御門の土橋には、喰い違いの石垣が設けられていた時期(六つある土橋絵図の右上)もあるようです。これだけの絵図が残されているんですね。

甲府は城下町も堀で区画され、また非常に早い時期から上水道甲府上水」が整備されていたようで、出土した上水の木樋が展示されています。

柳沢氏時代の城下図を見ると、甲州街道が城下を通っているのが分かります。

山手御門の南側からは、稲荷櫓と天守台の間に富士山が見えます。城跡で、しかも櫓などの建造物があって富士山が見える所って、激レアなのではないでしょうか。

三つの出入口で唯一復元された山手御門。甲府城の規模や威容を体感できる、素晴らしい建造物です。

 

線路を越えて南側、二の丸へ向かいます。

舞鶴城公園の北西に、門があります。両脇石垣上部の色が異なるのは、塀復元時の積み直しによるものでしょうか。

門の説明は見当たらず、とりあえず門へ接近してみます。門は、両脇に袖塀を備えた高麗門です。

門の左右で、石垣の高さが違っています。

門の内側に説明を見つけました。ここは屋形曲輪と二の丸をつなぐ内松陰門です。本来はこれより外側に外松陰門があり枡形虎口を形成していたようですが、開発等により外松陰門は石垣もろとも消失してしまったようです。

内松陰門の鬼瓦にも、家紋は見当たりません。

写真左に写る塀は、門の北側に張り出した横矢部分(六つ前の写真・門の左手にある塀で囲われた石垣)なのですが、ここには城内側のより高い石垣から下る石段(写真左の塀すぐ右側)が設けられ、ここから出入りするようです。これは珍しい構造ではないでしょうか。

内松陰門をくぐると、正面には本丸へ通じる石段(写真右奥)があります。

内松陰門を越えると、南側に広がるのが二の丸です。

二の丸東側(写真左手)に続く石垣は、本丸帯曲輪のものです。低い石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

二の丸には現在、昭和期に建てられた武徳殿があります。県警本部の道場として使われているようです。

城跡には、御殿風の武徳殿がよく映えますね……って、オベリスクのせいで台無し。

 

武徳殿の南から二の丸を出て、鍛冶曲輪へ向かいます。

高所に建っている塀が二の丸の南端部で、すぐ南の低い塀より内側が鍛冶曲輪なのですが……二の丸石垣には明らかな改変が見られます。本来の二之丸はここから西へ張り出しており、天守代用ともされる月見櫓が建っていたようですが、道路開発などにより櫓台含む西側石垣がごっそり削り取られてしまったようです。

今いる場所が楽屋曲輪で、この鍛冶曲輪門をくぐると、鍛冶曲輪です。内松陰門と同様に、門の脇には門より高い横矢部分があり、門へ迫りくる敵を狙い撃ちです。

門の袖塀に、脇戸があります。頭上注意。

鍛冶曲輪門は、薬医門形式ですね。門をくぐると、横矢部分へ上る石段があります。立入禁止とは書かれていないので、ちょっと上ってみます。

石段の上からはこのとおり、門の屋根が見下ろせます。レッツ迎撃。

ここから鍛冶曲輪西側の塀に取り付くこともできます。二の丸南面石垣のそばにも、石段が設けられています。

鍛冶曲輪門を越えて東側にはかつて喰い違い石垣があり、厳重な虎口となっていたようです。写真の鍛冶曲輪門東側石垣は、当時もっと東まで伸び、東方の石垣に接続していたのでしょうか。

途切れた鍛冶曲輪門東側石垣から東へ歩くと、写真のように石段の設けられた石垣がしばらく続きます。

さらに鍛冶曲輪を東へ歩くと、遊亀橋のそばに城郭建造物風の外観をした公園管理事務所があります。長屋状なのは、鍛冶曲輪にあったという蔵を意識してのものでしょうか。100名城スタンプは、こちらで押せるようです。

鍛冶曲輪からは、天守曲輪や本丸の石垣が間近に見えます。何かイベントがあるのか、鍛冶曲輪にはテントや飲食ブースが設置されています。

鍛冶曲輪の北側、天守曲輪南東石垣のすぐ南にある、石組の水溜跡です。

鍛冶曲輪の北側は道が歩きやすく整備されていますが、当時はどのような道だったのでしょうか。

鍛冶曲輪の北東にある、石切場です。石切場は城外にもあったようですが、城内からも石が調達できたのなら、石垣積みも捗ったのではないでしょうか。説明板上の石に、矢穴が見えますね。

矢穴のついた石は、石切場のそこかしこにあります。

 

鍛冶曲輪の東、数寄屋曲輪へ向かいます。

数寄屋曲輪は鍛冶曲輪に比べて高所にあることが、外周を歩いた時に分かっています。この長い石段の先にかつて数寄屋表門があり、門を越えると数寄屋曲輪です。

巽の方角にあった数寄屋櫓は、三重櫓だったそうです。

数寄屋櫓の説明板は、何故か櫓台よりやや北に立っているようです。

ここが数寄屋櫓台と思われます。下から見たとおり、城外側には復元塀が建ち、ここが櫓台であったことが分かりにくくなってしまっています。

数寄屋曲輪より、鍛冶曲輪を見ます。テントが並び、すっかりお祭りムードです。中央奥の茶色い建物が地下に石垣展示室のある防災新館、すなわち楽屋曲輪の南西端なので、あそこまでは城内、ということになります。

数寄屋櫓台の西、鍛冶曲輪の南東には、石垣に合坂や石段が見えます。

数寄屋櫓台付近から見る、数寄屋曲輪ほぼ全景です。手前の石段で鍛冶曲輪と、奥(北西)で稲荷曲輪と接続します。

数寄屋表門に迫る敵は、数寄屋櫓と、反対側のこの横矢部分から挟み撃ちにできたことでしょう。

稲荷曲輪に接する、数寄屋曲輪の北側です。

こちらが、地表からの高さが17mにもなる野面積みの高石垣です。

ここの石垣にも、排水口らしき穴が見えますね。右奥に、門跡があります。

ここには、数寄屋勝手門があったようです。礎石は、当時のものでしょうか。

 

数寄屋勝手門を越えると、稲荷曲輪です。

数寄屋勝手門虎口には、直進させないよう低い石垣が積まれており、小さいながらも枡形虎口を形成しています。

解体調査中に発見された二重の石垣が、そのまま展示されています。曲輪の拡張、あるいは縄張りの変更などがあったのでしょうか。このあたりは稲荷櫓の南、稲荷曲輪の北東部にあたり、江戸初期の絵図には多門櫓が描かれていたようです。

かつてはこの石垣上に、多門櫓が建っていたのでしょうか。

甲冑姿のMUSHAが数名いますが、戦の準備……ではなく、鍛冶曲輪で準備されていたイベントに備えているのでしょうか。一番左のMUSHAが見ている説明板のあたりには、現在は遊亀橋の東に移転した庄城稲荷があったようです。庄城稲荷は鎌倉時代からこの地を守護したとされ、稲荷曲輪の名称もこの庄城稲荷からきているのかもしれません。

稲荷曲輪の南西からは、天守曲輪の石垣と、その上の天守台が見えます。そして写真左に連なる塀の奥には、小さな門が見えます。

高麗門形式の、稲荷曲輪門です。こちらの鬼瓦にも家紋は、なし。

稲荷曲輪門東の石垣基部に見える穴は、暗渠でしょうか。

 

稲荷曲輪門をくぐり、再び鍛冶曲輪を歩きます。

幾重にも折り重なる石垣隅部。美を感じます。

天守曲輪の南面石垣基部に、幅のある低い石垣が長く続きますが、帯曲輪というよりは、崩落防止のはばき石垣ではないかと思えます。

西へ歩くと、天守曲輪石垣の張出隅部にもこのように、はばき石垣とみられる低い石垣が積まれています。ストレートな高石垣はとても美しいですが、補修などを経てこのような複雑な面構成となった石垣も大変に趣があり、美しいものです。

もちろん、ストレートな高石垣は大好物です。基部に低い石垣はあるものの、天守曲輪張出部のこの高さ、この反り、この、美!

西側には、さらなる張出部があります。出隅・入隅を整える素晴らしい技術なくしては、石垣の美は語れません。立札にもありますが、この石垣、この美しさ……いつまでも大切にしていきたいですね。

ここまで歩いてきたスロープ(写真左、土色舗装)は近年整備されたもので、鍛冶曲輪から二の丸へは石段(写真手前~右奥、当時は坂道?)が唯一のルートだったようです。

鍛冶曲輪から二の丸へ通じる石段の西、二の丸南東隅から東へ張り出したこの石垣は二の丸虎口の南側を形成しているのですが……どうにも石積みの雰囲気が他と違いすぎるような。後世に補修・改変があったのでしょうか。

石垣の北面には鏡石が配されていたりするものの、やはり積み方がどうにも別物に見えてしまいます。そして石垣上には、巨木。

虎口付近の石垣に、見事な矢穴を発見。

こちら虎口東側の石垣は、隅部に矢穴があり、珍しいように思います。

説明板をアップで撮り損ねましたが……鍛冶曲輪と二の丸をつなぐ虎口にあったのが坂下門です。虎口を右折した所に門があり、本丸方面へ向かうにはさらに右折する必要があります。

坂下門跡を越えると、二の丸です。二の丸は石垣によって区画され、南側(写真左)を台所曲輪、北側(写真右)を山の井曲輪と表記する資料もあるようです。

坂下門跡を越えて東へ歩くと、石垣に囲われたエリアがあります。巨大な枡形虎口と言っても良いかもしれません。

この巨大枡形に立ちはだかるのが、二の丸から天守曲輪へ通じる、中の門跡です。

説明板の付近、岩盤が露出しているように見える箇所があり、岩盤と石垣のコラボのようで、興奮します。

石段の踊り場には門礎石らしき石が並んでおり、これが中の門跡でしょうか。奥の石段や周囲の石垣に比べ、門跡周辺の石段や石畳があまりに整いすぎているように見えるのですが……。門跡の発掘調査後、整備したということでしょうか。

絵図には柵の門として描かれていたそうですが、本丸の手前という立地や、両脇の石垣からすると、重厚な櫓門が建っていてもおかしくないように思えます。

 

中の門を越えると、天守曲輪です。

天守曲輪と聞くと、そこに天守が建っているように思ってしまいますが、天守「がある」曲輪、ではなく、天守「を守る」曲輪、ということらしく、天守台のある本丸の東~南をとりまく帯曲輪を甲府城では天守曲輪と呼んでいます。

天守曲輪の南側から、下を覗きます。本来存在しなかった真下のスロープと、鍛冶曲輪の公園管理事務所が見えます。

天守曲輪は、天守を囲むように東側まで伸びています。写真右(西)の石垣が、天守台です。

天守台のそばに算木積みの説明がありますが、確かに隅部にその傾向はみられるものの、打込接ぎや切込接ぎに比べると未発達でやや不規則に見えます。それよりもこの天守台の圧倒的インパクトですよ! 一段下の曲輪から見上げると大・大迫力です。

天守曲輪から見る稲荷曲輪門です。小屋根の長さが左右で違うのは珍しいように思います。

天守台の南から西へ向き、天守曲輪の南側を見ます。高くそびえる本丸石垣と、オベリスク

天守曲輪の西から、東を見ます。天守曲輪の石垣も、見事ですね。

ここは暗渠ではなく、石垣張出部との境目に排水溝があります。

こちらの低い石垣も、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

門の脇に張り出した横矢掛かりの美しい野面積み石垣、その下の低い石垣、復元された本丸門、そして……オベリスク甲府城の特徴を凝縮したような写真です。

 

本丸へ向かいます。

かつて本丸にふたつ存在した門のひとつ、南の鉄門です。明治期に取り壊されたのを、近年復元したようです。説明には、復元整備について詳細に記されています。

鉄門の名の通り、外側の冠木や門柱などには鉄板が貼り付けられた、立派な櫓門です。左には、脇戸が見えます。

鉄門の内側には鉄板がありません。東側(写真左)に番所が設けられています。二階櫓部分を見ると、梁の先が壁から突き出ています。

鉄門をくぐると、本丸です。

山手御門と同様、鉄門も東の石段から櫓内部を無料で観覧できます。鉄門の鬼瓦にも紋は見られず……うーん。

鉄門内部は展示が少なく、木造復元門の内部構造を堪能できます。

鉄門の横から、本丸南虎口付近を見ます。天守曲輪の排水溝や、中の門跡の石垣がよく見えます。お城は、上から見下ろした時に曲輪の高低差や縄張りの構造が把握しやすいですね。

もう少し東を向くと、遠くに富士山がしっかりと見えます。殿様も、本丸建物からこのように富士山を眺めていたのでしょうか。

さらに東を向けば、本丸東にそびえる天守台が見えます。手前の本丸石垣も味わえてウハウハな写真です。

鉄門のすぐ西にそびえるオベリスク、ここから「謝恩碑」の文字が見えます。説明によると、明治天皇から皇室の山林を下賜されたことを記念して建てられたものだそうです。その高さなんと18m! 単なる公園だった頃ならまだしも、門や櫓を復元して在りし日の甲府城を蘇らせようとしている現在では、この謝恩碑はあまりにも悪目立ちしているように思えて仕方ありません……。

謝恩碑建設のため、曲輪や周辺石垣にも改変が加えられたようです。当時の本丸南西部はどのような姿だったのでしょうか。

謝恩碑の台座から、本丸を見ます。絵図ではこのあたりに櫓など高い建物は描かれておらず、当時この位置この高さから本丸を見下ろすことはなかったと思われます。

謝恩碑の北に見える石垣は現存か積み直しかは不明ですが、銅門の二階櫓へ上るための石段と石垣だと思われ、かつての石垣形状を表しているのではないでしょうか。

銅門石垣の西側からは、本丸西虎口と帯曲輪、内松陰門と北側の横矢部分とそこへ下りる石段までよく見え、防御を厳重にした本丸西虎口周辺の複雑な形状がよく分かります。

本丸北西にあるトイレ、L字隅櫓風の外観が城跡にマッチしています。といってもここに隅櫓があったというわけではないようで、かつては狭間付きの塀などが建っていたのでしょうか、トイレ背後の石垣には、石段が見えます。

隅櫓風トイレの東にある、本丸排水用の暗渠です。

説明板の写真からすると、このあたりの石垣は解体・積み直しが行われているようです。暗渠の外側にもちゃんと排水口があるのか、確認しておくべきでした……。

本丸櫓跡です。ん?櫓台にしては小さすぎるような?と思ったら、大正期に資材搬入路確保のため、なんと本丸櫓台は解体されてしまったようです。奥の石段はもしかしたら本丸櫓へ上るためのものかもしれませんが、手前の小さな石垣は当時の櫓台形状とは大幅に異なるようです。

おそらくここには、写真右奥に見える稲荷櫓に引けを取らない立派な本丸櫓が建っていたのでしょう。今は櫓台すらなく、規模や位置を想像することも難しい状態です。稲荷櫓南側石垣やこの本丸櫓台を解体してまで通した「資材搬入路」とは一体何のためか……その理由が先ほどの、謝恩碑の建設です。
当時の形状を再現することが困難ならば、せめて当時の形状がどのようなものだったのか、何らかの形で示して欲しいと、思ってしまいます。ほかの何処でもない、此処がそのお城の在った現地だからこそ。

本丸櫓跡の北は、稲荷曲輪です。井戸と、長屋風のトイレが見えます。

右が、本丸櫓台を解体して通した園路です。ここはかつて、右(南)を天守台に、手前(西)を本丸櫓台に囲われた「人質曲輪」という袋小路の曲輪で、出入口は奥(東)の人質曲輪門のみだったようです。ちなみに写真左の、人質曲輪を出た所(天守曲輪東側)から稲荷曲輪へ下りる坂道は、絵図などを見ると当時も存在したようです。

人質曲輪跡から見上げる天守台です。人質曲輪に、はたして人質を閉じ込めておくような建物があったかどうか分かりませんが、もし当時ここに人質がいたなら、この巨大な天守台(とその上にそびえる天守?)を見てさぞかし戦慄したことでしょう。

天守台は、一辺が北西方向へ張り出したいびつな形状をしており、写真は、北西の張出部を正面から撮影しています。この北西張出部にナナメに突き出た付櫓が載っていたという天守復元案もあるようです。

天守についての確たる資料がなく、存在自体が疑問視されてたりもするようですが、この見事な野面積み石垣の不整形天守台に建つ豪奢な天守を夢想するのは、自由ですよね。

天守台は穴蔵構造をしており、入口にはほぞ穴の付いた礎石があり、穴蔵門があったことが絵図で確認されているそうです。

天守台穴蔵よりオベリスク……じゃなくて、謝恩碑を見ます。

天守台に上り、周囲を眺めます。

西は、本丸です。本丸には書院や毘沙門堂が建っていた時期もあったらしく、毘沙門堂甲府市内に移築現存するようです。

南は、天守曲輪の南側です。その下(写真奥)は、鍛冶曲輪です。

東は、天守曲輪の東側と、その下(写真奥)は稲荷曲輪です。

北は、すぐ下が人質曲輪で、その下は稲荷曲輪です。北(写真奥)には、山手御門が見えます。

北東方向には、稲荷櫓が見えます。

天守台穴蔵を、上から見ます。

天守台を下り、隅櫓風トイレの南側、本丸西虎口から本丸を出ます。

本丸の西虎口を守る、銅門跡です。鉄門同様、立派な櫓門が建っていたようです。柱などには、銅板が貼り付けられていたのでしょうか。

銅門跡には、当時の礎石が良く残っています。

 

銅門跡を越え、本丸を出ます。

銅門跡の西側には方形のエリアがあり、枡形虎口のようになっています。ここから南側(写真左)には帯曲輪が本丸の西~南を鉄門あたりまで取り巻き、北(写真右)へ曲がると二の丸・屋形曲輪方面への石段があります。

帯曲輪には現在行けなくなっており、北の石段を下ります。

石段を下りると、正面に合坂があります。

下りてきた石段(銅門方向)を振り返ります。ここからも謝恩碑の圧倒的存在感。

 

稲荷曲輪へ向かいます。

西側より再び稲荷曲輪に入り、稲荷櫓へ向かいます。

天守曲輪の北東隅石垣と、その上は天守台です。この天守曲輪北東隅の積み方が周囲と異なるように見えるのですが、資材搬入路を通す際に石垣の解体・積み直しがあったのでしょうか。

ちょうど写真中央の松の木を境に、左は当時の野面積み、右は積み直し……という風に見えます。

稲荷櫓南側に通されたかつての資材搬入路です。ここも当時の形状を示してほしい所ですが……もしかしたら、写真左の稲荷櫓台南石垣と、写真右の歴代城主の家紋入り旗?が掲げられた石垣は、同じ高さでつながっていたのでしょうか。

資材搬入路から北を向けば、稲荷櫓です。外側(北・東)には張出部がありますが、内側(南・西)はシンプルな外観です。

稲荷櫓の西にある、壁造り・瓦葺きの工程説明とサンプル模型です。

線刻画の現物が見たかったのですが……ひょっとすると、イタズラ防止のために左の板塀で囲われた中に、線刻画の石垣があるのでしょうか。

バリアフリーな道も用意された稲荷櫓の入口です。なんとこちらも、入場無料!

櫓内へ入ります。100名城スタンプは、稲荷櫓の中で押しました。

鳥瞰図には、現在ある建造物や復元建物が描かれています。

現在の地図に重ねたこちらの城下町絵図は武家地(紫)と町人地(緑)の色分けがされており、今も残る堀跡などを写真入りで紹介するなど、城下を歩く際に是非携帯したい、素晴らしい図です。

屋根隅部の複雑な木組、いいですねー。

右手には、出窓と石落としが見えます。

家紋が連なるのぼり、カッコいいですね。

二階へ上ります。

天井に通されたぶっとい梁、大迫力です。

二階中央に展示された、柳沢氏時代の様子を再現した復元模型です。これまで歩いた景色と比べながら、見ていきます。

真上から。市街地化により楽屋曲輪・屋形曲輪・清水曲輪など西半分の遺構はほぼ消失、三つあった城内への出入口のうち二つは消失し、北の山手御門だけが復元されています。

東から。内堀は鍛冶曲輪南側を残して消失しているものの、築城時の高石垣が良好に残り、稲荷曲輪門や稲荷櫓が復元されるなど、現地でも当時の雰囲気を味わえるエリアです。

北から。復元された山手御門は素晴らしいですがJRで分断され当時の縄張りを想像することが難しく、右手前の清水櫓や左の花畑(稲荷櫓の北、内堀の外)、屋形曲輪などは完全に消失しており、山手御門だけがぽつんと在るのが現地の現状です。

西から。清水曲輪・屋形曲輪・楽屋曲輪とほぼ消失した曲輪ばかりで、最も当時の情報が乏しいエリアです。もう少し何らかの形でこのあたりの曲輪や建物の情報を現地で示してくれればありがたいのですが……。

中心部。天守代用とも言われる中央手前の月見櫓は、櫓台ごと消失しています。築城当時、もしあの天守台に天守がそびえていたなら、それはそれは壮麗なお城だったでしょう。

武田氏時代の城下町のすぐ南に、甲府城下町が形成されたのですね。町割りや堀の名残は、よく残っているようです。

稲荷櫓を出ます。

稲荷曲輪の西側にある、井戸です。奥に写る長屋風トイレの北側には煙硝蔵跡があるようですが、見逃しました……。

帰りがけに発見した、史跡碑です。まだ新しそうに見えます。

 

市街地化・公園化による縄張りの消失・改変が多いものの、残された野面積み石垣は迫力満点で、虎口では高防御力を体感できます。復元・整備も精力的に行われ、今後が楽しみなお城であり、再訪時には堀跡が随所に残るという城下をじっくり歩きたいです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで28城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

64.水戸城

水戸城に行ってきました。

日本100名城(No.14)に選ばれた、茨城県水戸市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

水戸駅前にある、助さん格さんを従えた水戸黄門像です。水戸黄門のモデルになった徳川光圀公は、二代水戸城主です。

「水戸学の道」案内図には現在の地図に当時の縄張図が重ねてあり、とても参考になります。水戸駅周辺は三の丸の南に位置し、武家屋敷地であったようです。

案内図によると、空地のあたりは南三ノ丸の南にある堀で、奥の高まりが南三ノ丸にあたると思われます。

水戸空襲を生き抜いた大銀杏は、水戸の城下も見ていたのでしょうか。

 

旧銀杏坂を上ると、三の丸です。

道路の向こう、塀で囲われたエリアが弘道館のある「中三の丸」です。弘道館の南北にはそれぞれ柵門が設けられていたようですが、南の柵門があったのは現在冠木門が建っている位置より西側のようです。

三の丸は北・中・南に分かれており、道路より南(左)が南三ノ丸、北(右)が中三の丸です。

現在市民センターのある所には、弘道館の施設のひとつ、医学館があったようです。

三の丸西側に現存する、巨大な空堀です。水戸城はこの空堀及び土塁と、大手門枡形・土塁や本丸枡形・土塁が県史跡に指定されているようです。

絵図によると、もとはひとつながりの長大な堀だったようですが、県庁舎への道路が築かれたことで三つに分断されてしまったと思われます。堀を区切る土橋は当時存在せず、北側(写真左奥方向)へまっすぐに堀がつながっていたのではないでしょうか。

三の丸空堀の南端部です。奥の車や建物と比べ、その尋常じゃない規模が伝わるでしょうか。

三の丸庁舎の案内図を見ると、三分割された空堀と、その東に堀と同規模の土塁(堤)が築かれていたことが、よく分かります。東~南と鍵の手になった南堤の南側付近に、三の丸への門があったことが絵図から読み取れます。

この幅、この深さ! 鎧兜をまとった兵が一旦落ちれば、這い上がるのは困難でしょう。水戸城の規模と威容が体感できる、貴重な現存遺構です。

堀の右(東)には、土塁が見えます。

北側の道路に区切られた先にある、三の丸空堀の北端部です。

土橋の脇に設けられた坂は、堀底メンテナンス用に昇降するためのものでしょうか。

城跡で最初に見たのがこの空堀だったので「うおお水戸城すげー!」って大興奮したのを覚えています。

三の丸空堀から北へ歩いたところにある交差点です。左は明治期に建てられた武道場東武館、右の個性的な洋風建築は配水塔だそうです。東武館や配水塔のある道路より北側のエリアが「北三ノ丸」とされ、絵図ではこの付近に三の丸への門が描かれています。

三の丸北西の門跡から東へ歩くと、南に堀と土塁があります。土塁の向こうが弘道館の敷地で、写真右の土塁の西側には、北の柵門があったようです。

江戸期から、弘道館の敷地内には鹿島神社があったようです。

堀は中三の丸北東隅あたりまで続き、土塁は北東隅からさらに南へ続きます。

 

弘道館へ向かいます。

国の特別史跡に指定されている弘道館の正面入口です。塀で囲われた奥側は、一段高く造成されているのが分かります。

創建時より現存する、重要文化財の正門です。説明にあるとおり屋根瓦には葵紋が、門柱などにはいくつかの弾痕らしき穴が見えます。藩主専用の門であり、現在もここから入ることはできません。

争乱や戦災をくぐり抜け、正門などいくつかの建物が現存しているようです。

正門とともに重要文化財に指定されている袖塀は震災で破損したのを、復旧工事が行われたようです。

正門向かって右にある、通用門と番所です。門の奥に見える建物で、観覧料を払います。100名城スタンプは、ここの建物で押しました。

通用門を越え、正門方向を振り返ります。

ここから北西方向(写真右手)の塀に設けられた門をくぐり、中に入ります。

門をくぐるとすぐ、重要文化財の正庁が見えます。

正庁玄関の前には、左近の桜が枝を伸ばしています。

なんだかとってもゴージャスな鬼瓦です。葵紋の下部には、波飛沫のような意匠があります。

玄関上の扁額はちょっと分かりにくいですが「弘道館」と書かれており、徳川斉昭公の書だそうです。

このまま玄関から入りたいところですが、建物の観覧入口は、玄関向かって右手にあり、そちらから入ります。

入口から入って右へ進むと国老詰所が展示室となっており、その縁側からは中庭的スペースが見えます。(中庭は、別にあるようです)

左が玄関、右が諸役会所です。

外を見ます。左が玄関、中央奥が正門です。

藩主が学生の様子を観覧したという、正席の間です。

トイレと、お風呂です。

こちらはトイレの手洗い場。

手前が小便用、奥が大便用です。畳張りとなっており、偉い人専用だったのかもしれません。

江戸期には、こういうタイプの小便器もあったんですね。

こちらはお風呂……といっても浴槽はありません。

長い畳敷の廊下です。

廊下の先にある建物が、至善堂です。

こちらは至善堂の、御座の間です。

御座の間から二の間、三の間と続き、奥に見えているのが四の間です。

四の間には、徳川慶喜公が使用したという長持や江戸期の消防ポンプなど、貴重な展示品があります。

長い廊下を歩き、正庁へ戻ります。

ハート付きの、鬼瓦です。

玄関向かって左側にだけ、火灯窓が設けられています。

ここからは、建物の周囲を歩きます。

南西から、正庁を見ます。建物中央にない破風が、印象的です。「游於藝(げいにあそぶ)」と書かれた扁額が見えます。

至善堂の屋根には破風がなく、寄棟造になっています。

お風呂とトイレを、外から見ます。

南西隅あたりの塀には木製の控柱が見えますが、現存塀でしょうか。

このあたりの塀は、後世の建造に思えます。

「對試場(対試場)」は武術の試験などが行われた場だそうです。正席の間はこちらの
対試場に面しており、藩主は正席の間から試験の様子を観覧していたようです。

建物の周りを一周してきました。玄関の奥に、観覧入口が見えます。

内側から見る、正門と現存袖塀です。左奥に、塀をくぐるように設けられた観覧出入口があります。

通用門の北には、旧字体の史蹟碑があります。

 

二の丸大手門跡へ向かいます。

弘道館正門から道路を渡った所にある案内板です。三階櫓・大手門・弘道館の古写真が載っています。弘道館を除けば、水戸城の建造物で現存しているのは薬医門のみです。

現在、二の丸正面入口である大手門が、古写真や発掘調査の成果に基づいて復元工事中です。大手橋の向こう、足場で覆われていますが、とても巨大な門であることがうかがえます。

大手門付近に立つ徳川斉昭公の像も、門の完成を待ちわびているのでしょうか。

車両は通行止ですが、歩行者は近くで工事の様子が見られるようです。大手橋を渡ります。

大手橋の架かる、二の丸堀です。現在は堀底が道路となっていますが、とんでもない深さです。水戸城の超絶スケールを体感できる、見所のひとつです。

間近で見上げると……でかい!

隙間から、門柱が見えます。

大手門向かって左側に設けられた、歩行者用階段を上ります。

大手橋を振り返ります。二の丸堀の深さや、弘道館の位置関係が分かります。

おお、隙間からけっこう見えますね。

階段はこのように、大手門の脇に設けられています。

透けて見えるのは、屋根部分でしょうか。

門の脇には土塁が現存しているため、階段を設けて土塁をオーバーパスしているんですね。

大手門の完成が、めちゃめちゃ楽しみです。

 

大手門を越えると、江戸期には城郭の中心部だった、二の丸です。

二の丸は現在、大半が学校の敷地となっていますが、門や塀の意匠は城跡を意識されているように見えます。

明治期には、師範学校があったようです。

師範学校跡から道路を挟んで北側には、「大日本史」の編纂された彰考館があったようです。

彰考館跡より、大手門跡を望みます。

彰考館跡の東側には現在、二の丸展示館が建っています。入館無料。

二の丸展示館には水戸城にまつわる様々な展示があります。こちらは「水戸学の道」案内図に使用されていた縄張図の原図でしょうか。

このような実測図も残されているようです。

主要部が復元された城郭模型もあります。水戸城は広大ですが、櫓はとても少なかったようです。

二の丸展示館から東へ歩くと、二中見晴らし台なるものの入口があります。

二中のグラウンド東側を北へ歩くと見晴らし台があり、二の丸の北側、那珂川などが見渡せます。

水戸城のシンボルだった三階櫓(さんがいろ)は惜しくも空襲で焼失したようです。戦災で失われた後に再建されていない「天守格」は、ここ水戸城の三階櫓だけだそうです。跡地は学校敷地となっており、立ち入ることはできません。

水戸城最大の建造物・二の丸御殿跡も学校敷地内にあり、立ち入ることはできません。

二の丸の北口にあたる、杉山門です。再建された門は「再生整備」「歴史的モニュメント」などと紹介され、史実に基づく復元ではないようです。

杉山門は、高麗門形式で建てられています。

杉山門に通じる、杉山坂です。坂道自体が折れ曲がっており、折れ曲がりの先に「やらい門」があったようです。

当時は道路を塞ぐように土塁があり、杉山坂を上ったら左折して杉山門をくぐらないと二の丸に入れない構造だったようです。

二の丸南口にあったのが、柵町坂下門です。古写真では、番所が附属しているように見えます。

こちらは「歴史的モニュメント」として建てられた柵町坂下門ですが……坂の上、柵町門跡のほぼ真東にあるというのは、いかがなものでしょうか。

柵町坂下門は、杉山門と同様に高麗門形式で建てられています。実際の柵町坂下門も高麗門だったようなので、まあそこは史実通りでしょうか。

実際に柵町坂下門があったのは坂の下、交差点に差し掛かるあたりと思われます。道路の関係で原位置付近に建てるスペースが無かったのかもしれませんが……もうちょっとどうにかならんかったのでしょうか。うーん。

さておき、柵町坂下門のモニュメント付近からは、本丸がよく見えます。写真中央やや右、柵の向こうの木の隙間からは本丸南西隅が見え、ここには隅櫓が建っていたようです。

こちらは二の丸堀に負けず劣らず非常に深い、本丸堀です。現在は、堀底をJR水郡線が通っています。

 

本丸へ向かいます。

本丸に架かる、本城橋です。当時も同じような場所に橋があったと思われます。本丸は現在学校敷地となっており、学校関係者以外は、文化財見学者に限り、本城橋を渡ることができます。

案内にもある薬医門を見るため、橋を渡ります。

もはやお城の堀ってレベルじゃないですよね……そりゃあ鉄道もらくらく通れるはずです。何かとスケールがでかすぎて、驚くばかりです。

本城橋を越えると、本丸です。

入口には、枡形土塁が残っているように見えます。左図のとおり、学校敷地内につき見学エリアが制限されています。

本丸跡の説明板のようですが……雨に濡れていることもあり、判読困難です。

そしてこちらが、水戸城唯一の現存建造物、薬医門です。本城橋を渡って枡形土塁の手前にあった橋詰御門だと考えられているようです。

巨大!立派! 奥の学校建物と比較して、大きさが伝わるでしょうか。

横から見ると、説明にあるとおり棟が中心からずれ、非対称形なのがよく分かります。

現在の場所へ移築された際、屋根が茅葺から銅板葺に変更されたようです。

屋根から下に、歴史を感じます。建築年代は江戸期以前、佐竹氏の時代まで遡ると考えられているようです。

向かって左に、脇戸があります。

いやー素晴らしい。重厚で、カッコいいですね。よくぞ残ってくれたものです。

枡形土塁や、橋詰門跡から南側の土塁は、よく残っているように見えます。

本城橋を渡り、本丸を出ます。

柵町坂下門跡付近から、二の丸を見ます。この高さ、絶対よじ登れません。二の丸の南側、現在道路となっている所には、堀があったようです。

二の丸南側の堀跡を西へ歩くと、駐車場の奥に、二の丸南西隅が見えます。

ここ二の丸南西隅にあった隅櫓は、大手門と同様に、復元が計画されているようです。

西から見た、二の丸南西隅です。大手門や隅櫓が復元されると、城跡らしさがぐっと増すのではないでしょうか。

写真中央奥、ピンク色のビルの向こうが、二の丸南西隅です。いつかこの場所から、隅櫓を見てみたいものです。

 

櫓も石垣もないけれど、超広大な縄張りがよく残り、堀の深さに度肝を抜かれる水戸城。あちこちで整備が進んでおり、大手門など復元後の再訪が、今から楽しみでなりません。

日本100名城スタンプラリー、こちらで27城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

63.八王子城

八王子城に行ってきました。

日本100名城(No.22)に選ばれた、東京都八王子市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

城跡まであと800mということろで、案内図を見つけます。現在地は、宗関寺のすぐそばです。

さらに歩くと、見学スポットの解説が記された詳細な案内図があります。今いる場所は、城下町にあたる「根小屋地区」だそうです。城主・北条氏照公の菩提寺でもある宗関寺と、氏照公の墓は、未訪です。

八角形の屋根が特徴的なガイダンス施設です。日本100名城スタンプはこちらで押せるようですが、開館時刻前だったので、先へ進みます。

立派な城跡碑は、日本百名城とあるので、2006年以降に設置されたと思われます。

管理棟(写真右奥)の南を西へ歩くと御主殿跡ですが、後ほど訪れます。

左手の要害地区(本丸方面)へ行く前に、右の屋外模型広場へ行ってみます。

先ほどの案内図では「エントランス広場」とあった場所の中央に、東屋が見えます。

東屋の中には、模型が展示してあります。肝心の説明文が切れてしまっているこの写真は……どういうつもりで撮影したんでしょうね。訪問時の自分にガッカリです。

こちらのズーム撮影ではかろうじて曲輪の名称等が確認できますが……うーむ。

 

要害地区へ向かいます。

こちらの土橋?を渡り、登山口へ進みます。

本丸付近には神社があるため、入口には鳥居(一の鳥居)があります。

自然公園の看板基部に石積みと、右手の小川にも石積みが見えますが……これは。

反対側を見ると……って、ピンボケひどいなこの写真。

こちらにも石積みが。八王子城は御主殿周辺のほか要害地区にも石垣が用いられていたようですが、どうやらこのあたりは当時の石垣ではないようです。

このような石積み排水溝もいくつか見られますが、後世に設けられたようです。

分かれ道を、案内に従い左へ進みます。

訪問時は当時の石垣が残っているのかも知らず、ただ目に入った石積みを半信半疑でとりあえず撮影していたのですが……後で調べると、どうやら「二の鳥居」の脇にあるこの石垣、当時の石垣だそうです! 主郭の北東を囲うように柵門跡~金子丸の北側に石垣が点在しているようですが、訪問時に確認できたのは、主郭北東石垣の終端部にあたるというここだけでした。これがリアル戦国時代の石垣……うーん、素晴らしい!

戦国期石垣を回り込み、二の鳥居をくぐります。

登山道を横切りいくつも設けられた石積み溝。気になって撮影してしまいます。

やがて、削平地に出ます。

金子丸です。本丸へ到達するには避けて通れない曲輪だったようです。

金子丸の下は「馬蹄段」と呼ばれ、馬の蹄のような小曲輪がいくつも連なっているようです。

金子丸は、東西に細長い曲輪です。

五合目まで来ました。不慣れな登山にバテバテですが……あと半分、です。

山道をゼエゼエ言いながら、登ります。

横は断崖。転ぶわけには、いきません。

時折振り返りながら、なおも登ります。

削平地に出ます。柵門跡、です。立札のあたりに、左奥へ続く道を塞ぐように、門が建っていたのでしょうか。

なぜ柵門跡と呼ばれているのかなど、詳細は不明のようです。

柵門台と書かれた柱には鳥除けのためか、CDか何かが吊るしてあります。

八合目まで来たようです。

道はなおも続きます。ひぃひぃ……。

古そうな石積みが見え、少し持ち直します。

またも削平地に出ましたが、ここは……?

高丸、とあります。この先は、危険だそうです。

なるほど、これは危険です。高丸は、見張り台のような曲輪だったのでしょうか。

ここが九合目。あと、少しです。

にわかに、視界が開けます。

これは……素晴らしい景色! 城下が一望でき、思わず足を止め、撮影します。遠くには、高層ビル群も見えます。

あの八角屋根は……もしかしてガイダンス施設、でしょうか。

 

慣れない登山に体力ごっそり奪われながらも、要害地区の山頂曲輪へ到達します。

休憩所のような建物の傍らに、説明板があります。

山頂には本丸のほか、松木曲輪や小宮曲輪などがあり、今いる場所は「中の曲輪」と呼ばれているようです。

「頂上」の標柱に、達成感を覚えます。

貫禄ある巨木を見上げます。八王子城の終わりを見届けていたのでしょうか。

中の曲輪から、神社のために整備されたと思われる石段を上ります。

氏照公がお城の守護神とした「八王子権現」が祀られている八王子神社です。牛頭天王と眷属である八人の王子を祀ったというここの八王子権現の起源は古く、お城の名称や現在の八王子という地名の由来になったとされているようです。

神社のある中の曲輪の上段は、かなりの広さがあり、周辺の各曲輪へアクセスする足掛かりとなっているようです。

神社の本殿と思われる建物の覆屋に、破損箇所が見られます。

こちらの建物(神楽殿?)も傷みが激しいですね……。

神社の脇には、天狗様が立っています。

神社の南側は、一段高くなっています。

さらに南の高まりが、松木曲輪です。「坎井」なる井戸は、見ていません。

展望台らしきスペースには、慶安期の古絵図が展示されています。

松木曲輪から神社までは、かなりの高低差です。

西側にある、本丸方面へ向かいます。

まず、本丸を目指します。(この後、小宮曲輪を訪れることなく下山してしまいます)

本丸跡です。立派な碑と、お堂があります。

横地監物が守っていたとされる本丸。先ほど本殿の左手に見えた小さなお堂は、横地監物を祀るものでしょうか。

確かに、本丸はあまり広くありません。本丸のお堂には、また別の誰かが祀られているのでしょうか。

上りとは違う道を通って本丸を下りると、本殿北側の石段に出ます。

完全に忘れていたのか、疲労のためパスしたのか、通じる道が分からず断念したのか……。訪問時に小宮曲輪を訪れなかった理由は思い出せませんが、この写真を最後に、要害地区から下山します。

 

管理棟まで戻り、居館地区へ向かいます。

陰陽図・鳥瞰図の背後に見えるのが、管理棟です。建物前に置かれたテーブルの下には、北条氏の家紋「三つ鱗」が見えます。

100名城スタンプは、管理棟にもあるようです。

管理棟の前には、情報量の豊富な説明板が並んでいます。

管理棟の西側にある橋より向こうは、ガイド同伴でないと行けないようです。橋が架かっているのは空堀で、奥が御主殿の東にあるアシダ曲輪です。空堀は、居館地区の東を区画する重要な防御ラインだったと思われます。

御主殿跡へは、橋より南側の道を通れば行けるようです。

こちらのパネルは整備についての情報がもりもりで、ありがたいです。

意外な場所に、意外な向きで、史蹟碑があります。碑より奥は城跡と逆方向なのですが……。

案内に従い、アシダ曲輪の南側の道を西へ歩くと橋がありますが、写真右手に注目。

アシダ曲輪の南面土塁の一部に、石垣が見えます。これはどうやら、当時のものらしいです。素晴らしい!

橋の向こうに、竪堀と、そこに架かる橋が見えます。

写真左手の階段上から右(西)へと続き橋を渡る道が、当時の大手道だったようです。竪堀は復元されたものらしいですが、実に見事な堀です。

階段を上った所が、大手の門跡です。調査時の写真によると、敷石や立派な礎石が出土したようです。

敷石や礎石は埋め戻されたのか、見当たりません。

門跡より東をのぞいてみると、坂道が北へ折れているようですが……。

その先はけっこうな段差があるように見えます。当時はどのような道だったのでしょうか。

大手門を通らずに大手道につながるこの階段は当時の道ではないと思われますが、せっかく門が発掘されたのだから、大手門跡を通る当時の大手道がいつか再現されることを願っています。

大手道を、御主殿のある西へと歩きます。

橋を渡り振り返ると、かなりの高低差です。階段下の広い曲輪(写真左)は、兵の待機場所だったのでしょうか。

大手道は、状況証拠から明らかになったんですね。

堀切で防御された大手道(古道)からは、曳橋を落とせば御主殿へ入ることは困難になります。

曳橋が見えました。

曳橋の向こうには、何段もの石垣と、御主殿への石段が見えます。これは……素晴らしい!

曳橋へと至る石段は、当時のものでしょうか。

古絵図によると、御主殿曲輪の東西に城山川を越えるための橋が架かっていたようです。現在の曳橋は、東側の橋にあたります。

橋台石垣の発見により、橋の存在が裏付けられたのですね。

構造や形状は不明ですが、このくらいの長さの橋が架かっていたのは間違いないでしょう。

何やら石材が散乱していますが……こちら(南)側の橋台石垣がどのような状態なのか、イマイチよく分かりませんでした。

曳橋を渡ります。模擬復元とはいえ、雰囲気があります。

何段も重ねて高さを稼いでいる石垣に、時代を感じます。

曳橋の西にスペースが見えますが、橋を越えようとする敵を撃つための場所でしょうか。

曳橋の下に道が見えますが、江戸時代に通された林道とのことで、御主殿へ至るには曳橋を渡って城山川を越えるルートしか当時は無かったようです。

曳橋を渡り終えると両脇に石垣があり、向こうに潜む兵にやられそうな気配がします。

西側にはこれだけのスペースがあり、東の御主殿へと向かう敵を背後から襲い放題です。

築城当時の石垣が大規模に残っていたことにも驚きですが、石材・積み方ともに全く違和感のない復元整備のクオリティにも驚愕です。

東を向くと、御主殿へと続く道が北へ折れています。

このあたりは、大きな石が多用されています。

右手には、石垣上へと上るためか、雁木が設けられています。

居館地区・御主殿曲輪の見所、東→北→西と道を「コ」の字に曲げた上で長い階段通路としている、御主殿虎口です。石段の両脇は石垣で固められ、巨石もいくつか用いられています。うーん、見事!

虎口下と御主殿曲輪とは、これだけの高低差があります。石垣の隅部には、巨石が見えます。

石段の途中にある踊り場が、櫓門跡です。ここの石垣隅部にも、巨石。

大部分は検出された遺構がそのまま展示されているようで、礎石がはっきりと分かります。全面石敷きって、すごいです。

行く手を阻むように、櫓門が建っていたのでしょうか。

道を曲げ、高低差をつけた、堅固な虎口です。

石段は西へ折れ、ようやく御主殿跡への入口が見えます。曲輪は塀で守られ、入口には冠木門があります。

冠木門は模擬復元のようですが、門扉はつけておいて欲しかったなあと思ってしまいます……。

 

冠木門を越えると、御主殿跡です。

おおお、広大!

遺構分布図には、検出された遺構の図面とその種別が描かれ、説明文には遺構の保護方法から復元整備に用いた石材までもが詳細に記されています。

塀の内側には、出土品の写真があります。右端のレースガラス器は、国内では八王子城でしか出土例がないようです。

手前は遺構分布図にある「SJ09」の石囲水路と思われますが、それと直交する「SD02」が何なのか、分布図には記載がありません。形状や幅からすると、水路でしょうか。

分布図には「SB05」礎石建物群とある所です。会所や主殿に比べ、小規模な建物があったようです。

主殿北東にある通路はどこまで続き、その先には何があったのでしょうか。

通路の西側には、少し間隔を空けて塀が建っていたようです。

塀跡の説明が塀跡から離れた位置にあり、分かりにくくなっていますが、手前の凹部は分布図「SK02」の土坑(分布図には「土杭」とあるが誤字?)、奥は「SJ08」の石囲水路で、その間のラインが「ST03」塀跡と思われます。

柱穴が着色された、写真中央手前から奥へまっすぐ伸びるラインが、塀跡です。

塀の間際にある左の土坑は、庭園の池のようにも見えますが……。

礎石を置かない、掘立建物跡です。すぐそばを水路が通っていますが、どのような役割の建物があったのでしょうか。

枯山水の庭の北側には池が見つかったようですが、全容が不明なため埋め戻されたようです。

庭園跡の東にあるのが、広大な主殿跡です。

政治向きの行事が行われていたと考えられている、主殿跡です。南側には、水路があります。

こちら折中門が、玄関にあたるようです。

会所跡には、床が再現されています。これだけで随分と、建物のイメージがふくらみますね。

これはまた中途半端な写真ですね……反省。

氏照公もここで、庭を見ながら宴を楽しんだのでしょうか。

会所の前面を隠すために築かれたと考えられる、塀跡です。

会所の南東にある、溝を伴う敷石通路です。八王子城には、敷石の道が多いですね。

会所の南西には、舶載磁器片が集中して出土した場所があります。ゴミ捨て場?

会所の南側にある建物跡のすぐ北西には、庭園の池のようにも見える大きめの土坑があります。

建物跡と土坑のすぐ北西には、水路と石列で区画された通路が南西へ伸びます。

会所南東の敷石通路との位置関係は、このようになっています。

御主殿跡の南東には土塁がありますが、近年整備されたものだそうです。

落城以降あまり人の手が入らなかったため、遺構が良好に保存されていたのですね。

 

帰りに、ガイダンス施設に寄ります。

100名城スタンプは、こちらで押しました。

 

御主殿跡の発掘・整備により、戦国武将の暮らしが垣間見える八王子城。今後のさらなる調査に期待がふくらみます。広大な城域のごく一部しか見ていないので、またいつか未訪エリア含めじっくり訪れたいものです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで26城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

62.小机城

小机城に行ってきました。

続日本100名城(No.125)に選ばれた、神奈川県横浜市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅から城址までの案内があります。城代・笠原氏歴代の墓所があるという雲松院は、未訪です。

あいにくの天気ですが、お城を目指します。道中は、兜をかぶったマリノスケとミズキーがこのように道を示してくれます。

踏切を渡ってすぐの交差点を、左折します。

城址入口までやってきました。

根古谷広場、とあります。ここ根古谷には、城主の館や家臣の屋敷があったようです。

市民の森の案内板には、空堀や櫓跡などの情報があります。

道をよく見ると、岩盤が露出しているような箇所があります。

やがて、眼前に空堀が現れ、道が左右に分岐します。

本丸に近い、左(西)の道を進みます。写真右奥に、本丸への土橋が見えます。

この高低差、この空堀の深さ!いやーこれは圧倒されますね。素晴らしい!

本丸への土橋の手前には小さな郭があり、ここを通過して北へ伸びる土橋を通らないと本丸には行けません。小さな郭は、馬出の役割をしていたようです。

ここから左へ行くと「富士仙元」と案内があります。

この道を下り、西にある第三京浜道路をくぐると西側の郭跡に行けるようですが、未訪です。小机城は、現在は高速道路により分断されていますが、本丸より西側にも郭があり、富士仙元とはその西側郭にある小机富士に立てられた「富士仙元大菩薩」の碑を指すようです。

本丸手前の小郭(馬出)より、本丸方向(北)を見ます。本丸への土橋にはカーブがつけられており、虎口東側の櫓台(写真右の高まり)前を通らせるような構造となっているようです。馬出とカーブ土橋、これは堅固!

空堀の説明と、土橋西側の空堀です。右が本丸です。

 

土橋を渡ると、本丸です。

本丸入口には、冠木門があります。模擬門と思われますが、お城っぽさが演出されますね。

小机城は主要な郭がふたつあり、現在は西の郭が本丸、東の郭が二の丸とされていますが、それを裏付けるだけの調査資料が出ていないのか、断定はできないようです。不確かなことを「不確かだ」と教えてもらえる方が、逆にすっきりするなあって、個人的には思えます。あの馬出とカーブ土橋というスーパー堅固な防備を見れば、こちらが本丸だと考えてしまうのにも、納得です。

冠木門の傍らにぽつんと佇む城址碑を見つけます。これだけ立派なお城なのだから、もっと目立つ位置に、大きな碑があってもいいようなものですが。うむむ。

本丸は方形に近く、周囲に土塁を巡らせているようです。何故かブルーシートが張られていました。

本丸の南側を、東へ歩きます。右手に、本丸南側の土塁が分かります。

ほぼ正方形の本丸ですが、南東隅は東へ突き出しており、東にある「つなぎの郭」と土橋でつながっています。写真奥に、土橋に設けられた階段が見えます。

内容よりも、修正箇所の多さが気になってしまいます。校正って、大事ですね……。

根古谷広場にあったものより詳細な、縄張図です。堀の両側に土塁を巡らせる「二重土塁」は、北条氏特有の築城法だそうです。

説明板のある本丸南東隅の突出部から北には、空堀があります。左に柵が見えますが、本丸北東から堀底へ下りられる道があったようで、そちらを訪れていないのが、悔やまれます。

本丸南東隅と「つなぎの郭」をつなぐ土橋を、本丸側から見ます。

本丸東側の空堀です。南(写真奥)側では、堀がさらに深くなっているのが分かります。

 

土橋を渡ると、「つなぎの郭」です。

勾配のある土橋を上り、つなぎの郭が本丸より高所にあることが分かります。

土橋すぐ南の高まりには、矢倉跡の標柱が立ちます。

つなぎの郭は、矢倉跡から南へ、細長く伸びます。

南端部の櫓台には、物見櫓があったと考えられているようです。

高所から周囲を見渡せる見張台が、天守のルーツなんでしょうね。

木が茂って分かりにくいですが、南に突出した櫓台からは空堀の南を歩く敵兵をバシバシ狙い撃ちできそうです。

つなぎの郭は矢倉跡から北側にも、細長く伸びています。

北端部からは、本丸北西より堀底へ通じる道がよく見えます。それにしても、竹だらけです。

西を見ると、つなぎの郭が本丸より高いことがよく分かります。

そして東を見ると、つなぎの郭が二の丸よりも高いことが分かります。

 

小机城で最も高所にある「つなぎの郭」を東へ下りると、二の丸です。

つなぎの郭から階段を下りてすぐ北にある、土塁です。

二の丸です。このあたりは狭いですが、北東へ行くと広くなっています。左手(北側)の高まりは櫓台ですが、当時は井楼跡の標柱が立つ右手(南側)にも櫓台があったようです。

南側の櫓台には、井楼が建っていたようです。

北側の櫓台は残っており、かなりの高さです。

櫓台からは、二の丸が見渡せます。

櫓台(写真右奥)を下り、二の丸広場に出ます。

本丸と同様、ここは二の丸と断定できないことが記述されています。

本丸より広く感じる、二の丸です。

 

二の丸を出て、帰路につきます。

井楼跡の西にある道を南へ下ります。右手は、つなぎの郭です。

堀底から見上げる、つなぎの郭南端の櫓台は大迫力です。おそらく当時はさらに堀が深く、絶望的な高低差だったことでしょう。

こちらの小さな郭には、祠があります。

つなぎの郭~本丸の南側にある深い堀を見ながら帰ります。

左に続日本100名城選定を祝う看板が見えます。続日本100名城のスタンプは、奥の地区センターで押しました。

 

訪問後、パシフィコ横浜にて開催されていた「お城EXPO 2018」に行きました。

様々な展示などがあり、とても楽しいイベントでした。

こちらのイベントで、タイムリーなことに、小机城の模型が展示されていました。

立体感や高低差を味わうことが目的の城郭模型を、どうして真上から撮影したんでしょうね……。

 

振り返ると、縄張の予習不足と、戦国の城のすごさを写真で伝えるのは難しいけれど、もう少し工夫出来たんじゃないかと思う点が数多くありました。まだまだ、未熟です。

 

ダイナミックな空堀とテクニカルな縄張りが残り、北条氏のお城の技巧を存分に体感できる小机城。天候不順と知識不足のため散策を早々に切り上げてしまったことを後悔しています。願わくば再訪し、未訪エリアを見て回り、もっと良い写真を撮りたいと思います。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで6城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。