お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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65.甲府城

甲府城に行ってきました。

日本100名城(No.25)に選ばれた、山梨県甲府市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

甲府駅に着くと、ホームから南に石垣と櫓が見え、のっけからテンションが上がります。稲荷曲輪北面の石垣と、復元された稲荷櫓です。

反対側、ホームの北には櫓門の屋根が見えています。清水曲輪に復元された山手御門です。甲府城は現在、JRによって南北に分断されています。

駅を出て、北口へ歩きます。

甲府駅の北口広場に、低い石垣があります。発掘調査により発見された、清水曲輪西面の石垣です。

左図のように、甲府城の縄張りは西を下にすると凸の字形に見え、清水曲輪は北に位置する曲輪です。城内への出入口は三つあり、北に山手門、西に柳門、南に大手門がそれぞれ建っていたようです。

ここから少し北(写真左奥)には、お城の北西隅に位置する清水櫓があったようです。

駅の南口に移動します。

城内への三門のひとつ、西の柳門については近年礎石などが見つかったらしく、跡地付近と思われる県庁北側をうろうろしていたところ、ビルの裏手に空き地を発見し「もしや発掘現場……?」と撮影したのですが、見当違いな場所かもしれません。

柳門跡付近からは、庁舎と県議会の間に二の丸石垣や、その背後に本丸石垣が見えます。西の出入口である柳門を入った所はかつて御殿や政庁が存在した重要なエリアで、おそらくこの撮影場所より南(右手)には楽屋曲輪が、北(左手)には屋形曲輪があった辺りではないかと思われます。

……ええと、ちょっと待ってください。本丸石垣に鎮座しているあの、巨大なオベリスク状の物体は一体。とても、すごく、気になります。

オベリスクには後ほど接近するとして……県庁の南へ移動します。

県庁の南東にある交差点です。城内への三門のひとつ、南の大手門がこの付近にあったようです。写真奥には鍛冶曲輪や本丸の石垣がうっすら写っていますが、左奥の歩道脇にも石垣が見えます。

説明等は見当たらず、模擬石垣と思われます。

大手門跡付近であることが多少なりとも意識されてのものでしょうか。

石垣の向こう、写真左奥にチラッと写る、防災新館という建物に入ります。

楽屋曲輪にあるこの建物、城跡とは関係なさそうに見えますが……地下一階の案内に「甲府城石垣展示室」とあります。建設前の発掘調査にて楽屋曲輪の石垣が発見されたため、その一部が移設・復元されているそうです。

展示室は地下一階ですが、一階にもこのように、上から石垣をのぞける窓が設けられています。

どれどれ……。あっ、バッチリ見えます!

それではさっそく、地下一階へ下ります。

おおお、これは……素晴らしい!

移設された石垣は、楽屋曲輪南西隅の南面石垣のようです。

胴木も発見されたんですね。

石材には矢穴のほか、線刻画も見つかったようです。

本来はもっと高かったようですが、発見されたのは基部から2m程度だそうです。

移設石垣全景です。一階では、上の穴から石垣が見えていたんですね。

野面積みといっても荒々しさはなく、よく選ばれた石材を丁寧に積んだ、整った石垣という印象を受けます。

ペンで書かれた数字は、移設の際に付けられたナンバリングでしょうか。ビルの下に埋もれてしまうところを、よくぞ移設・復元した上で公開してくれたものです。感謝。

 

防災新館から北東へ歩き、石垣がよく残るエリアへ向かいます。

鍛冶曲輪門の東にある石垣上には、塀が復元されています。

鍛冶曲輪門東側石垣から、後世に造成されたと思われる坂道(写真左)をはさんで鍛冶曲輪の南面石垣と内堀が続き、とても江戸期のお城らしい光景です。

当時は坂道がなく、鍛冶曲輪門東側石垣(写真左端わずかに写る)と坂道より東の石垣はつながっていたと思われますが……どうにも高さが合いません。鍛冶曲輪門東側石垣が本来の高さであり、それより東の石垣は高さの改変があるのでしょうか。

石垣の下方、排水口らしき穴が見えます。

いやー、石垣には白壁の土塀が映えますね。手前の内堀には白い復元塀が映り、奥の本丸には復元された鉄門が見え、甲府城の見所が凝縮された写真だと思います。……それだけに、鉄門左にあるオベリスクの異様さが際立ってしまいます。

内堀沿いを東へ歩くと、城内へ架かる遊亀橋がありますが、当時ここに橋はなく、後世に架橋されたようです。

本丸とその周辺の石垣がよく残るエリアは現在「舞鶴城公園」として整備され、遊亀橋は公園南側のメインゲートとなっているようです。甲府城跡は、県指定史跡なのですね。

もともと橋は無かったはずなので、橋付近の石垣は改変されていると思われます。

遊亀橋は渡らず、東へ歩きます。ここから先は内堀が埋められ、道路になっています。

この写真より左側、遊亀橋のすぐ東には、城内にあった庄城稲荷が移されているのですが……見事にスルーしてしまいました。お城付近にある神社や寺はお城と関係が深いものも多いので、チェックしなきゃですね。反省。

かつて内堀に面していたお城の東側には、築城期の野面積み石垣が良好に残っているようです。このあたりは鍛冶曲輪の南東にある横矢部分と思われます。

復元塀の基部には、新たに積まれたような色の異なる石が見えます。

それにしても、大ぶりな石を多用した野面積み石垣と、白い土塀と、青空……うーん、良いですねえ。前日に訪問した水戸城が石垣のないお城だったので、ついつい石垣ばかり見ちゃいます。

石垣に沿って北へ歩くと、一段と石垣が高くなります。ここが数寄屋櫓台で、これより北は数寄屋曲輪です。櫓台上部の石垣は塀を復元する際に積み直したのか、石の色が違って見えます。ていうか……櫓台にまで土塀を復元するのはいかがなものでしょうか。

石垣基部に設けられた排水口と、排水溝と。当時のものでしょうか。

数寄屋曲輪の石垣は、数寄屋櫓台と同じ高さで北へ続きます。

連続する隅部……良い……実に良いです。基部の低い石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

南を振り返り、数寄屋櫓台を見ます。うーん、いい反り。見る角度によって実に様々な表情を見せてくれる、それが、石垣なのです。

数寄屋曲輪の北、稲荷曲輪で石垣はさらに高くなり、なんと17m! 野面積みでこれだけの高さには、そうそうお目にかかれません。ワンダフル!

算木積みの未発達な隅部に、歴史を感じます。

石垣が精密に描かれた案内図を見ます。鍛冶曲輪門の東から内堀を見ながら遊亀橋を過ぎ、公園の外側(図の左側)を高石垣を見ながら現在地まで来ています。かつて南~東~北をぐるりと囲んでいた内堀は、南側の一部が残るのみとなっています。

西には、復元された稲荷櫓が見えます。稲荷櫓の左(南)で石垣が途切れていますが、ここは大正期に資材搬入路が通されたために、もともとつながっていた石垣が解体されてしまったようです。搬入路は現在、公園の出入口となっています。

説明板の写真は、稲荷曲輪北側の発掘調査風景でしょうか。

説明板の立つ稲荷櫓台直下のこの場所も、かつては堀だったということでしょう。芝生の範囲が、堀幅を表しているのでしょうか。

内堀跡に堂々とそびえる、稲荷櫓です。

櫓の東面と北面には張出部があり、石落としを備えています。櫓台上部の石垣色が違うのは、櫓復元時の積み直しによるものでしょうか。

稲荷曲輪の北面にも、見事な石垣が連なります。

思い切り逆光ですが、むしろ神々しさすらあります。

稲荷櫓台より西では、石垣がやや低くなっています。

さらに西側では段々と低くなっていますが、当時はこのあたりから石垣が北(写真手前側)に折れ清水曲輪の東面石垣へと続き、北の山手門までつながっていたようなので、この段々石垣は後世の改変かもしれません。

段々石垣の西側、写真手前の工事が行われている付近が屋形曲輪の東側にあたり、屋形曲輪は外松陰門・内松陰門を介して二の丸(写真右奥・復元塀の建つ石垣上)につながっていたようです。屋形曲輪は堀で囲われていたようですが、市街地化により曲輪の形状すら判然としない現状です。そしてこちらから見ても主張の激しい本丸オベリスク

 

線路を越え、城内への三門のひとつ、北の山手門へ向かいます。

案内図を見ると、楽只堂年録の絵図に比べて土橋が短く、土橋両脇の堀も狭くなっています。民地が迫っており、土橋をこれ以上長くできなかったと思われます。

門の西側に続く清水曲輪の外周ラインは土塁で復元されていますが、絵図では石垣が描かれています。

山手御門の復元エリア全景です。石垣や門・塀をしっかり復元した虎口に比べて周辺の堀や土塁はゆるっとしていますが、当時の縄張りラインが体感できるのはありがたいことです。写真左手前の石垣は、城外側の内堀石垣にしては石の向きや位置に疑問が残るので、修景のための模擬石垣でしょうか。

よく見ると、高麗門の上あたりに、富士山が見えています!

土橋を渡ると、高麗門と櫓門による枡形虎口が形成されています。高麗門は「山手門」と呼ばれ、袖塀を備えた立派な高麗門です。……おや、一般的には城主の家紋があしらわれていることの多い鬼瓦に、何も彫られていません。

高麗門をくぐると、櫓門が待ち構えています。

内側の櫓門、山手渡櫓門です。むむ、こちらの鬼瓦ものっぺらぼう……少し寂しいですね。

枡形は、南北に細長い形状です。

枡形を囲う石垣には、狭間付きの土塀があります。色の違う下部の石垣は、発掘された現存部分でしょうか。

枡形の南辺石垣が東西の石垣より低いのは、史料等に基づく復元でしょうか。高麗門から入るとまず正面に見える石垣なので、大きな鏡石があります。

櫓門の脇戸が開け放たれています。門柱の礎石がよく見えますね。

復元石垣は江戸期に積まれたと言われても違和感のない出来で、現代の職人さんの技術にも感嘆します。楽只堂年録には石垣の高さや石段の数まで記されていたとあり、復元の重要な根拠になったようです。

櫓門をくぐり、枡形を抜けると、清水曲輪です。説明にあった石段とは、説明板の置かれた写真左の、櫓門へ上るための石段を指すと思われます。

復元された石段は上れませんが、その東側に設けられた階段から、櫓門内へ入れます。なんと、入場無料!

中には様々な展示があります。こちらは甲府城のものではありませんが、武田氏館で出土した馬の全身骨格(複製)! きちんと埋葬されていたとのことで、もしかしたら信玄公が駆った名馬かもしれません。

復元櫓門の鬼瓦はのっぺらぼうですが、家紋入りの鬼瓦は出土しているようです。展示されているのは、江戸中期に城主だった柳沢氏の家紋・四つ花菱があしらわれた鬼瓦。

山手御門の土橋には、喰い違いの石垣が設けられていた時期(六つある土橋絵図の右上)もあるようです。これだけの絵図が残されているんですね。

甲府は城下町も堀で区画され、また非常に早い時期から上水道甲府上水」が整備されていたようで、出土した上水の木樋が展示されています。

柳沢氏時代の城下図を見ると、甲州街道が城下を通っているのが分かります。

山手御門の南側からは、稲荷櫓と天守台の間に富士山が見えます。城跡で、しかも櫓などの建造物があって富士山が見える所って、激レアなのではないでしょうか。

三つの出入口で唯一復元された山手御門。甲府城の規模や威容を体感できる、素晴らしい建造物です。

 

線路を越えて南側、二の丸へ向かいます。

舞鶴城公園の北西に、門があります。両脇石垣上部の色が異なるのは、塀復元時の積み直しによるものでしょうか。

門の説明は見当たらず、とりあえず門へ接近してみます。門は、両脇に袖塀を備えた高麗門です。

門の左右で、石垣の高さが違っています。

門の内側に説明を見つけました。ここは屋形曲輪と二の丸をつなぐ内松陰門です。本来はこれより外側に外松陰門があり枡形虎口を形成していたようですが、開発等により外松陰門は石垣もろとも消失してしまったようです。

内松陰門の鬼瓦にも、家紋は見当たりません。

写真左に写る塀は、門の北側に張り出した横矢部分(六つ前の写真・門の左手にある塀で囲われた石垣)なのですが、ここには城内側のより高い石垣から下る石段(写真左の塀すぐ右側)が設けられ、ここから出入りするようです。これは珍しい構造ではないでしょうか。

内松陰門をくぐると、正面には本丸へ通じる石段(写真右奥)があります。

内松陰門を越えると、南側に広がるのが二の丸です。

二の丸東側(写真左手)に続く石垣は、本丸帯曲輪のものです。低い石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

二の丸には現在、昭和期に建てられた武徳殿があります。県警本部の道場として使われているようです。

城跡には、御殿風の武徳殿がよく映えますね……って、オベリスクのせいで台無し。

 

武徳殿の南から二の丸を出て、鍛冶曲輪へ向かいます。

高所に建っている塀が二の丸の南端部で、すぐ南の低い塀より内側が鍛冶曲輪なのですが……二の丸石垣には明らかな改変が見られます。本来の二之丸はここから西へ張り出しており、天守代用ともされる月見櫓が建っていたようですが、道路開発などにより櫓台含む西側石垣がごっそり削り取られてしまったようです。

今いる場所が楽屋曲輪で、この鍛冶曲輪門をくぐると、鍛冶曲輪です。内松陰門と同様に、門の脇には門より高い横矢部分があり、門へ迫りくる敵を狙い撃ちです。

門の袖塀に、脇戸があります。頭上注意。

鍛冶曲輪門は、薬医門形式ですね。門をくぐると、横矢部分へ上る石段があります。立入禁止とは書かれていないので、ちょっと上ってみます。

石段の上からはこのとおり、門の屋根が見下ろせます。レッツ迎撃。

ここから鍛冶曲輪西側の塀に取り付くこともできます。二の丸南面石垣のそばにも、石段が設けられています。

鍛冶曲輪門を越えて東側にはかつて喰い違い石垣があり、厳重な虎口となっていたようです。写真の鍛冶曲輪門東側石垣は、当時もっと東まで伸び、東方の石垣に接続していたのでしょうか。

途切れた鍛冶曲輪門東側石垣から東へ歩くと、写真のように石段の設けられた石垣がしばらく続きます。

さらに鍛冶曲輪を東へ歩くと、遊亀橋のそばに城郭建造物風の外観をした公園管理事務所があります。長屋状なのは、鍛冶曲輪にあったという蔵を意識してのものでしょうか。100名城スタンプは、こちらで押せるようです。

鍛冶曲輪からは、天守曲輪や本丸の石垣が間近に見えます。何かイベントがあるのか、鍛冶曲輪にはテントや飲食ブースが設置されています。

鍛冶曲輪の北側、天守曲輪南東石垣のすぐ南にある、石組の水溜跡です。

鍛冶曲輪の北側は道が歩きやすく整備されていますが、当時はどのような道だったのでしょうか。

鍛冶曲輪の北東にある、石切場です。石切場は城外にもあったようですが、城内からも石が調達できたのなら、石垣積みも捗ったのではないでしょうか。説明板上の石に、矢穴が見えますね。

矢穴のついた石は、石切場のそこかしこにあります。

 

鍛冶曲輪の東、数寄屋曲輪へ向かいます。

数寄屋曲輪は鍛冶曲輪に比べて高所にあることが、外周を歩いた時に分かっています。この長い石段の先にかつて数寄屋表門があり、門を越えると数寄屋曲輪です。

巽の方角にあった数寄屋櫓は、三重櫓だったそうです。

数寄屋櫓の説明板は、何故か櫓台よりやや北に立っているようです。

ここが数寄屋櫓台と思われます。下から見たとおり、城外側には復元塀が建ち、ここが櫓台であったことが分かりにくくなってしまっています。

数寄屋曲輪より、鍛冶曲輪を見ます。テントが並び、すっかりお祭りムードです。中央奥の茶色い建物が地下に石垣展示室のある防災新館、すなわち楽屋曲輪の南西端なので、あそこまでは城内、ということになります。

数寄屋櫓台の西、鍛冶曲輪の南東には、石垣に合坂や石段が見えます。

数寄屋櫓台付近から見る、数寄屋曲輪ほぼ全景です。手前の石段で鍛冶曲輪と、奥(北西)で稲荷曲輪と接続します。

数寄屋表門に迫る敵は、数寄屋櫓と、反対側のこの横矢部分から挟み撃ちにできたことでしょう。

稲荷曲輪に接する、数寄屋曲輪の北側です。

こちらが、地表からの高さが17mにもなる野面積みの高石垣です。

ここの石垣にも、排水口らしき穴が見えますね。右奥に、門跡があります。

ここには、数寄屋勝手門があったようです。礎石は、当時のものでしょうか。

 

数寄屋勝手門を越えると、稲荷曲輪です。

数寄屋勝手門虎口には、直進させないよう低い石垣が積まれており、小さいながらも枡形虎口を形成しています。

解体調査中に発見された二重の石垣が、そのまま展示されています。曲輪の拡張、あるいは縄張りの変更などがあったのでしょうか。このあたりは稲荷櫓の南、稲荷曲輪の北東部にあたり、江戸初期の絵図には多門櫓が描かれていたようです。

かつてはこの石垣上に、多門櫓が建っていたのでしょうか。

甲冑姿のMUSHAが数名いますが、戦の準備……ではなく、鍛冶曲輪で準備されていたイベントに備えているのでしょうか。一番左のMUSHAが見ている説明板のあたりには、現在は遊亀橋の東に移転した庄城稲荷があったようです。庄城稲荷は鎌倉時代からこの地を守護したとされ、稲荷曲輪の名称もこの庄城稲荷からきているのかもしれません。

稲荷曲輪の南西からは、天守曲輪の石垣と、その上の天守台が見えます。そして写真左に連なる塀の奥には、小さな門が見えます。

高麗門形式の、稲荷曲輪門です。こちらの鬼瓦にも家紋は、なし。

稲荷曲輪門東の石垣基部に見える穴は、暗渠でしょうか。

 

稲荷曲輪門をくぐり、再び鍛冶曲輪を歩きます。

幾重にも折り重なる石垣隅部。美を感じます。

天守曲輪の南面石垣基部に、幅のある低い石垣が長く続きますが、帯曲輪というよりは、崩落防止のはばき石垣ではないかと思えます。

西へ歩くと、天守曲輪石垣の張出隅部にもこのように、はばき石垣とみられる低い石垣が積まれています。ストレートな高石垣はとても美しいですが、補修などを経てこのような複雑な面構成となった石垣も大変に趣があり、美しいものです。

もちろん、ストレートな高石垣は大好物です。基部に低い石垣はあるものの、天守曲輪張出部のこの高さ、この反り、この、美!

西側には、さらなる張出部があります。出隅・入隅を整える素晴らしい技術なくしては、石垣の美は語れません。立札にもありますが、この石垣、この美しさ……いつまでも大切にしていきたいですね。

ここまで歩いてきたスロープ(写真左、土色舗装)は近年整備されたもので、鍛冶曲輪から二の丸へは石段(写真手前~右奥、当時は坂道?)が唯一のルートだったようです。

鍛冶曲輪から二の丸へ通じる石段の西、二の丸南東隅から東へ張り出したこの石垣は二の丸虎口の南側を形成しているのですが……どうにも石積みの雰囲気が他と違いすぎるような。後世に補修・改変があったのでしょうか。

石垣の北面には鏡石が配されていたりするものの、やはり積み方がどうにも別物に見えてしまいます。そして石垣上には、巨木。

虎口付近の石垣に、見事な矢穴を発見。

こちら虎口東側の石垣は、隅部に矢穴があり、珍しいように思います。

説明板をアップで撮り損ねましたが……鍛冶曲輪と二の丸をつなぐ虎口にあったのが坂下門です。虎口を右折した所に門があり、本丸方面へ向かうにはさらに右折する必要があります。

坂下門跡を越えると、二の丸です。二の丸は石垣によって区画され、南側(写真左)を台所曲輪、北側(写真右)を山の井曲輪と表記する資料もあるようです。

坂下門跡を越えて東へ歩くと、石垣に囲われたエリアがあります。巨大な枡形虎口と言っても良いかもしれません。

この巨大枡形に立ちはだかるのが、二の丸から天守曲輪へ通じる、中の門跡です。

説明板の付近、岩盤が露出しているように見える箇所があり、岩盤と石垣のコラボのようで、興奮します。

石段の踊り場には門礎石らしき石が並んでおり、これが中の門跡でしょうか。奥の石段や周囲の石垣に比べ、門跡周辺の石段や石畳があまりに整いすぎているように見えるのですが……。門跡の発掘調査後、整備したということでしょうか。

絵図には柵の門として描かれていたそうですが、本丸の手前という立地や、両脇の石垣からすると、重厚な櫓門が建っていてもおかしくないように思えます。

 

中の門を越えると、天守曲輪です。

天守曲輪と聞くと、そこに天守が建っているように思ってしまいますが、天守「がある」曲輪、ではなく、天守「を守る」曲輪、ということらしく、天守台のある本丸の東~南をとりまく帯曲輪を甲府城では天守曲輪と呼んでいます。

天守曲輪の南側から、下を覗きます。本来存在しなかった真下のスロープと、鍛冶曲輪の公園管理事務所が見えます。

天守曲輪は、天守を囲むように東側まで伸びています。写真右(西)の石垣が、天守台です。

天守台のそばに算木積みの説明がありますが、確かに隅部にその傾向はみられるものの、打込接ぎや切込接ぎに比べると未発達でやや不規則に見えます。それよりもこの天守台の圧倒的インパクトですよ! 一段下の曲輪から見上げると大・大迫力です。

天守曲輪から見る稲荷曲輪門です。小屋根の長さが左右で違うのは珍しいように思います。

天守台の南から西へ向き、天守曲輪の南側を見ます。高くそびえる本丸石垣と、オベリスク

天守曲輪の西から、東を見ます。天守曲輪の石垣も、見事ですね。

ここは暗渠ではなく、石垣張出部との境目に排水溝があります。

こちらの低い石垣も、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

門の脇に張り出した横矢掛かりの美しい野面積み石垣、その下の低い石垣、復元された本丸門、そして……オベリスク甲府城の特徴を凝縮したような写真です。

 

本丸へ向かいます。

かつて本丸にふたつ存在した門のひとつ、南の鉄門です。明治期に取り壊されたのを、近年復元したようです。説明には、復元整備について詳細に記されています。

鉄門の名の通り、外側の冠木や門柱などには鉄板が貼り付けられた、立派な櫓門です。左には、脇戸が見えます。

鉄門の内側には鉄板がありません。東側(写真左)に番所が設けられています。二階櫓部分を見ると、梁の先が壁から突き出ています。

鉄門をくぐると、本丸です。

山手御門と同様、鉄門も東の石段から櫓内部を無料で観覧できます。鉄門の鬼瓦にも紋は見られず……うーん。

鉄門内部は展示が少なく、木造復元門の内部構造を堪能できます。

鉄門の横から、本丸南虎口付近を見ます。天守曲輪の排水溝や、中の門跡の石垣がよく見えます。お城は、上から見下ろした時に曲輪の高低差や縄張りの構造が把握しやすいですね。

もう少し東を向くと、遠くに富士山がしっかりと見えます。殿様も、本丸建物からこのように富士山を眺めていたのでしょうか。

さらに東を向けば、本丸東にそびえる天守台が見えます。手前の本丸石垣も味わえてウハウハな写真です。

鉄門のすぐ西にそびえるオベリスク、ここから「謝恩碑」の文字が見えます。説明によると、明治天皇から皇室の山林を下賜されたことを記念して建てられたものだそうです。その高さなんと18m! 単なる公園だった頃ならまだしも、門や櫓を復元して在りし日の甲府城を蘇らせようとしている現在では、この謝恩碑はあまりにも悪目立ちしているように思えて仕方ありません……。

謝恩碑建設のため、曲輪や周辺石垣にも改変が加えられたようです。当時の本丸南西部はどのような姿だったのでしょうか。

謝恩碑の台座から、本丸を見ます。絵図ではこのあたりに櫓など高い建物は描かれておらず、当時この位置この高さから本丸を見下ろすことはなかったと思われます。

謝恩碑の北に見える石垣は現存か積み直しかは不明ですが、銅門の二階櫓へ上るための石段と石垣だと思われ、かつての石垣形状を表しているのではないでしょうか。

銅門石垣の西側からは、本丸西虎口と帯曲輪、内松陰門と北側の横矢部分とそこへ下りる石段までよく見え、防御を厳重にした本丸西虎口周辺の複雑な形状がよく分かります。

本丸北西にあるトイレ、L字隅櫓風の外観が城跡にマッチしています。といってもここに隅櫓があったというわけではないようで、かつては狭間付きの塀などが建っていたのでしょうか、トイレ背後の石垣には、石段が見えます。

隅櫓風トイレの東にある、本丸排水用の暗渠です。

説明板の写真からすると、このあたりの石垣は解体・積み直しが行われているようです。暗渠の外側にもちゃんと排水口があるのか、確認しておくべきでした……。

本丸櫓跡です。ん?櫓台にしては小さすぎるような?と思ったら、大正期に資材搬入路確保のため、なんと本丸櫓台は解体されてしまったようです。奥の石段はもしかしたら本丸櫓へ上るためのものかもしれませんが、手前の小さな石垣は当時の櫓台形状とは大幅に異なるようです。

おそらくここには、写真右奥に見える稲荷櫓に引けを取らない立派な本丸櫓が建っていたのでしょう。今は櫓台すらなく、規模や位置を想像することも難しい状態です。稲荷櫓南側石垣やこの本丸櫓台を解体してまで通した「資材搬入路」とは一体何のためか……その理由が先ほどの、謝恩碑の建設です。
当時の形状を再現することが困難ならば、せめて当時の形状がどのようなものだったのか、何らかの形で示して欲しいと、思ってしまいます。ほかの何処でもない、此処がそのお城の在った現地だからこそ。

本丸櫓跡の北は、稲荷曲輪です。井戸と、長屋風のトイレが見えます。

右が、本丸櫓台を解体して通した園路です。ここはかつて、右(南)を天守台に、手前(西)を本丸櫓台に囲われた「人質曲輪」という袋小路の曲輪で、出入口は奥(東)の人質曲輪門のみだったようです。ちなみに写真左の、人質曲輪を出た所(天守曲輪東側)から稲荷曲輪へ下りる坂道は、絵図などを見ると当時も存在したようです。

人質曲輪跡から見上げる天守台です。人質曲輪に、はたして人質を閉じ込めておくような建物があったかどうか分かりませんが、もし当時ここに人質がいたなら、この巨大な天守台(とその上にそびえる天守?)を見てさぞかし戦慄したことでしょう。

天守台は、一辺が北西方向へ張り出したいびつな形状をしており、写真は、北西の張出部を正面から撮影しています。この北西張出部にナナメに突き出た付櫓が載っていたという天守復元案もあるようです。

天守についての確たる資料がなく、存在自体が疑問視されてたりもするようですが、この見事な野面積み石垣の不整形天守台に建つ豪奢な天守を夢想するのは、自由ですよね。

天守台は穴蔵構造をしており、入口にはほぞ穴の付いた礎石があり、穴蔵門があったことが絵図で確認されているそうです。

天守台穴蔵よりオベリスク……じゃなくて、謝恩碑を見ます。

天守台に上り、周囲を眺めます。

西は、本丸です。本丸には書院や毘沙門堂が建っていた時期もあったらしく、毘沙門堂甲府市内に移築現存するようです。

南は、天守曲輪の南側です。その下(写真奥)は、鍛冶曲輪です。

東は、天守曲輪の東側と、その下(写真奥)は稲荷曲輪です。

北は、すぐ下が人質曲輪で、その下は稲荷曲輪です。北(写真奥)には、山手御門が見えます。

北東方向には、稲荷櫓が見えます。

天守台穴蔵を、上から見ます。

天守台を下り、隅櫓風トイレの南側、本丸西虎口から本丸を出ます。

本丸の西虎口を守る、銅門跡です。鉄門同様、立派な櫓門が建っていたようです。柱などには、銅板が貼り付けられていたのでしょうか。

銅門跡には、当時の礎石が良く残っています。

 

銅門跡を越え、本丸を出ます。

銅門跡の西側には方形のエリアがあり、枡形虎口のようになっています。ここから南側(写真左)には帯曲輪が本丸の西~南を鉄門あたりまで取り巻き、北(写真右)へ曲がると二の丸・屋形曲輪方面への石段があります。

帯曲輪には現在行けなくなっており、北の石段を下ります。

石段を下りると、正面に合坂があります。

下りてきた石段(銅門方向)を振り返ります。ここからも謝恩碑の圧倒的存在感。

 

稲荷曲輪へ向かいます。

西側より再び稲荷曲輪に入り、稲荷櫓へ向かいます。

天守曲輪の北東隅石垣と、その上は天守台です。この天守曲輪北東隅の積み方が周囲と異なるように見えるのですが、資材搬入路を通す際に石垣の解体・積み直しがあったのでしょうか。

ちょうど写真中央の松の木を境に、左は当時の野面積み、右は積み直し……という風に見えます。

稲荷櫓南側に通されたかつての資材搬入路です。ここも当時の形状を示してほしい所ですが……もしかしたら、写真左の稲荷櫓台南石垣と、写真右の歴代城主の家紋入り旗?が掲げられた石垣は、同じ高さでつながっていたのでしょうか。

資材搬入路から北を向けば、稲荷櫓です。外側(北・東)には張出部がありますが、内側(南・西)はシンプルな外観です。

稲荷櫓の西にある、壁造り・瓦葺きの工程説明とサンプル模型です。

線刻画の現物が見たかったのですが……ひょっとすると、イタズラ防止のために左の板塀で囲われた中に、線刻画の石垣があるのでしょうか。

バリアフリーな道も用意された稲荷櫓の入口です。なんとこちらも、入場無料!

櫓内へ入ります。100名城スタンプは、稲荷櫓の中で押しました。

鳥瞰図には、現在ある建造物や復元建物が描かれています。

現在の地図に重ねたこちらの城下町絵図は武家地(紫)と町人地(緑)の色分けがされており、今も残る堀跡などを写真入りで紹介するなど、城下を歩く際に是非携帯したい、素晴らしい図です。

屋根隅部の複雑な木組、いいですねー。

右手には、出窓と石落としが見えます。

家紋が連なるのぼり、カッコいいですね。

二階へ上ります。

天井に通されたぶっとい梁、大迫力です。

二階中央に展示された、柳沢氏時代の様子を再現した復元模型です。これまで歩いた景色と比べながら、見ていきます。

真上から。市街地化により楽屋曲輪・屋形曲輪・清水曲輪など西半分の遺構はほぼ消失、三つあった城内への出入口のうち二つは消失し、北の山手御門だけが復元されています。

東から。内堀は鍛冶曲輪南側を残して消失しているものの、築城時の高石垣が良好に残り、稲荷曲輪門や稲荷櫓が復元されるなど、現地でも当時の雰囲気を味わえるエリアです。

北から。復元された山手御門は素晴らしいですがJRで分断され当時の縄張りを想像することが難しく、右手前の清水櫓や左の花畑(稲荷櫓の北、内堀の外)、屋形曲輪などは完全に消失しており、山手御門だけがぽつんと在るのが現地の現状です。

西から。清水曲輪・屋形曲輪・楽屋曲輪とほぼ消失した曲輪ばかりで、最も当時の情報が乏しいエリアです。もう少し何らかの形でこのあたりの曲輪や建物の情報を現地で示してくれればありがたいのですが……。

中心部。天守代用とも言われる中央手前の月見櫓は、櫓台ごと消失しています。築城当時、もしあの天守台に天守がそびえていたなら、それはそれは壮麗なお城だったでしょう。

武田氏時代の城下町のすぐ南に、甲府城下町が形成されたのですね。町割りや堀の名残は、よく残っているようです。

稲荷櫓を出ます。

稲荷曲輪の西側にある、井戸です。奥に写る長屋風トイレの北側には煙硝蔵跡があるようですが、見逃しました……。

帰りがけに発見した、史跡碑です。まだ新しそうに見えます。

 

市街地化・公園化による縄張りの消失・改変が多いものの、残された野面積み石垣は迫力満点で、虎口では高防御力を体感できます。復元・整備も精力的に行われ、今後が楽しみなお城であり、再訪時には堀跡が随所に残るという城下をじっくり歩きたいです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで28城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。