お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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27-2.赤穂城

赤穂城に行ってきました。

日本100名城(No.60)に選ばれた、兵庫県赤穂市にあるお城です。

 

前回の訪問で行きそびれた場所・撮り逃したアングルを補完すべく、訪れます。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

赤穂と言えば忠臣蔵播州赤穂駅前には「義魂」の台座に立つ大石内蔵助と思われる像が今まさに吉良邸へ討ち入りをせんという様子で立っています。大石内蔵助こと大石良雄氏は赤穂城主・浅野家の筆頭家老でした。

こちらも播州赤穂駅前にある、山鹿素行の紹介です。軍学者である素行氏は、赤穂城二之丸縄張りの変更に関与したようです。説明板の下には歴史散策ルートの紹介があります。こちらで紹介されている場所に、いくつか訪れます。

 

まずは、城下を歩きます。

駅から南へ歩くと、城下町の北端に「百々呂屋裏大枡」跡があります。上水道の浄化や水量調整などの役割を担っていたようです。歩道いっぱいに描かれた黒い線により、巨大な設備だったことがうかがえます。説明板の奥に見えるのが、大枡に使われていた石材でしょうか。

そして百々呂屋裏大枡、という名は「百々呂屋」という商店か何かの裏にこの大枡があったから付けられたように思えますが……なかなかインパクトのある名前です。

百々呂屋裏大枡の南にある、元禄赤穂事件にも登場するという「息継ぎ井戸」です。井戸屋形の屋根瓦に浅野氏の「違い鷹の羽」らしき家紋が見えますが、屋形は当時のものでしょうか。

日本三大水道に数えられるという赤穂上水道。この息継ぎ井戸もやはり、上水道から水を引いていたのでしょうか。そういえば先ほどの説明板には「旧赤穂上水道」とあり、こちらでは「赤穂旧上水道」……表記は統一した方が良いかと。

息継ぎ井戸の背後には、昭和初期まで使われていたという汲出枡と上水管が展示されています。

息継ぎ井戸の周辺は公園として整備されており、浅野家の菩提寺であり歴代藩主の菩提寺でもある「花岳寺」の説明があります。

こちらが息継ぎ井戸の南西にある、花岳寺です。

山門は、赤穂城の西惣門を移築した、貴重な城郭遺構です。

高麗門形式で、屋根瓦には浅野氏家紋が見えます。

花岳寺から息継ぎ井戸まで戻り、通りを東へ歩くと、加里屋川の手前に中洲惣門跡の碑があります。花岳寺の山門が元あった場所はここではなく、花岳寺の前の道を西へ歩いた所にある西惣門(塩屋惣門)跡ですが、今回は未訪です。

中洲惣門跡から西へ歩き、花岳寺のそばまで戻ってきます。

花岳寺の南東にある、城下町の船入跡です。船入の中央付近が公園として整備され、説明板や石碑があります。

 

城下の散策を終え、お城へ向かいます。

お城通りを南へ歩くと、三之丸の大手口があります。堀の向こうに見えるのは、赤穂城に10あったという隅櫓で唯一再建された、三之丸の大手隅櫓です。石垣には土塀が復元され、橋の先には大手門も復元されています。

大手隅櫓を、前回とは違うアングルで。門があり、塀があり、隅櫓があり、史蹟碑がある。良く整備された、立派な大手です。

前回訪問ではここからまず縄張り外周を一周しましたが、今回は素直に大手門から三之丸へ入ります。

内側から大手門を見ます。せっかく復元された大手の高麗門、門扉がないのは少し残念です。門の両脇には雁木が設けられ、当時の袖塀には射撃用の狭間があったのかもしれません。

枡形石垣は明治以降に改変があったそうですが、近年旧状に復されたようです。

高麗門から直進し右折した所に、櫓門があったようです。櫓門の先にあった番所跡には番所風の休憩所が整備され、往時の雰囲気が想像しやすくなっています。

櫓門跡を越え、枡形を振り返ります。櫓門跡に見える方形の表示は、門柱の礎石跡でしょうか。

枡形石垣と、隅櫓と、番所(風休憩所)と、土塀と。いいですねー非常にお城っぽいですねー。お城なんですけどね。

大手枡形を南から。枡形の裏手は、とても広い武者溜まりとなっています。枡形石垣の南側には、雁木が設けられています。

枡形石垣の向こう、大手隅櫓が顔を出しています。

三之丸大手門の南側には、長屋門が現存しています。こちらは近藤源八宅跡長屋門。(門部分は非現存)

こちらは大石邸長屋門。あの大石良雄氏のお宅です。屋根瓦には大石氏の家紋「右二つ巴」が見えます。

長屋門から南東へ歩くと、三之丸東側虎口・清水門跡があります。特徴的なL字型門石垣の西(写真手前)側にはかつて直進を防ぐように石垣があり、橋を渡り右折(写真だと左側へ曲がる)しないと三之丸へ入れないようになっていたようです。門前面の橋台石垣(写真右奥)は、発掘調査後に復元整備が行われたそうです。

清水門前面の橋付近から北を見ると、石垣に横矢が掛けられています。右奥の横矢部分は、三之丸東隅櫓台です。

清水門跡の南には、堀の向こうに復元された二之丸東北隅櫓台が見えます。堀を隔てて手前が三之丸、奥が二之丸です。

清水門の外側にはかつて米蔵・薬煙場・番所などがあり、米蔵のあった場所には現在、土蔵風外観の赤穂市立歴史博物館が建っています。

歴史博物館は西側(お城側)から見ると蔵が並んでいるようにしか見えませんが、東側入口付近はモダンな外観です。

100名城スタンプは、ここ歴史博物館で押しました。

 

清水門跡から三之丸の外へ出たので、ここからは歴史博物館の南へ向かい、二之丸外周を歩きます。

歴史博物館(米蔵跡)のすぐ南にある船入跡です。現在は埋め立てられています。

船入跡のすぐ南にある、二之丸東櫓台です。当時は一重櫓が建っていたようです。櫓台の上にブルーシートらしき物が見えますが……これについては後ほど。

複雑に屈曲する二之丸外周石垣。二之丸東櫓台の南側ではこのように、鈍角に折れ曲がる石垣も見られます。ここでは隅部の石材を鈍角に加工して折れを設けています。

二之丸の南側に設けられた船着場です。写真左奥にわずかに見える低い石垣が突堤で、突堤の内側には船着きの雁木があり、その奥にはかつて水手門と米蔵があったようです。写真左奥に見える瓦屋根は、米蔵跡に建てられた米蔵風休憩所の屋根です。

前回訪問時に撮り逃した、突堤の西側から南沖櫓台(写真左奥)へ連なる美しいカーブ石垣です。まるでグスク城壁のように、美しい曲線を描いています。突堤の向こうには水手門跡と、米蔵(風休憩所)が見えます。

水手門の標柱は、突堤に架かる橋の南という水手門からとても離れた位置に、傾いて立っています。

こちらも前回間近からは撮り逃していた、カーブ石垣の西にある南沖櫓台です。

南沖櫓台から二之丸外周を西へ歩くと、二之丸西仕切があります。写真右端にわずかに写るのが西仕切塀で、そこから北(写真左方向)へ続く二之丸外周石垣の先に見える石垣の隙間は、西中門跡と思われます。堀を挟んで西(写真左)側に見えるのは、三之丸石垣です。

三之丸南の干潟門跡も、前回とは異なる東からのアングルで。干潟門跡の西(写真左奥)にあるのが、三之丸西南隅櫓台です。

干潟門跡をアップで。奥には、西中門跡が見えます。このあたりの整備が進むことも、期待しています。

三之丸西側外周部には石垣が一部消失・改変されているように見える箇所がありますが、縄張りの輪郭はしっかり残っています。

ここにも山鹿素行氏の説明板が。

説明板の背後にそびえるのは、三之丸西隅櫓台です。二重櫓が建っていたという櫓台からは当時、土手が西側へ延び、櫓台の裾付近には水門が設けられ、ここより北側へ続く三之丸堀の水量調節を担っていたようです。櫓台の西側基部(写真左)に見える土盛りは、土手の名残かもしれません。

西隅櫓台から北へ連なる石垣は崩壊が進んでいますが、隅部はしっかり確認できます。石垣隅部に立つ城跡碑のさらに北は、三之丸の搦手門があった場所です。

三之丸の搦手、塩屋門跡です。息継ぎ井戸でひと息ついた早使は、ここ塩屋門から城内へ入ったんですね。

枡形石垣から西(写真手前)へ、低い石垣が延びています。この低い石垣のすぐ南(右)に、高麗門が建っていたようです。

低い石垣の内側には、雁木がしっかり残っています。説明板のあたりに、太鼓櫓があったのでしょうか。

塩屋門は高麗門のみからなる枡形門だったようです。明治期の古写真には、高麗門・太鼓櫓・西隅櫓と土塀が鮮明に写っています。

古写真と似たようなアングルで撮影すると、当時の様子が想像しやすい……かもしれません。古写真には高麗門右(南)側に石垣が連なっていますが、現在は失われたようです。

 

塩屋門跡より、再び城内(三之丸)へ入ります。

城内側から振り返り、塩屋門跡を見ます。

三之丸西側には、義士たちの屋敷が建っていたようで、説明板がいくつかあります。

重職義士のひとり、間瀬久太夫の屋敷跡です。

遺構の平面表示は見当たらず、屋敷跡と言われてもピンとこない状態です。

二之丸外堀の北側に石列が見えますが、何かの跡でしょうか。中央奥に見えるのは、二之丸北隅櫓台です。

災害復旧のため取り除かれたという二の丸北側石垣は、二之丸門より西側部分は復元されているようで、真新しい石材によるものと思われる石垣が続いています。奥には、本丸櫓門の屋根が見えます。

古写真を見ると、復元されたと思われる写真右の低い石垣が、古写真の櫓門手前に見える土塀が載った低い石垣にあたるのでしょうか。だとすると櫓門の位置は説明板の付近……? 二之丸門より東側の石垣が失われているため、当時の姿が想像しづらくなっています。

二之丸門手前の、枡形を構成していたと思われる復元石垣を、内側から見ます。雁木の左側石垣は途切れていますが、当時はさらに東へ延び、二之丸門の南へ接続していたと思われます。元通りに復元される日は、来るのでしょうか。

 

二之丸門を越えると、二之丸です。

二之丸庭園は北西にある、二之丸の約四分の一を占める大規模な庭園です。

写真右手前は、二之丸庭園の北側にあった大石頼母助屋敷の復元された屋敷門(薬医門)です。鬼瓦に見えるのは、大石頼母助の家紋でしょうか。写真奥に見えるのは、本丸門です。

大石頼母助屋敷跡の南側から、復元された二之丸庭園が西方向へ続いています。

橋の向こうに、西仕切門が見えます。橋の手前には、アオサギらしき鳥がいます。

こちらにもアオサギ。未だ立ち入り区域が制限される二之丸庭園は、鳥たちの楽園と化しているのかもしれません。舟倉の向こうには、西中門跡が見えます。

ここから先には進めないので、柵の向こうのアオサギも安心してくつろいでいます。

柵のあたりから東へ振り返ります。池のほとりに復元された東屋と、左奥には大石頼母助屋敷門が見えます。

こちらの東屋は高台にあり、傘のような屋根をしています。

傘型の東屋からは、庭園全体が良く見渡せます。そんなに高くなくても、ずいぶんと景色が変わるものですね。

庭園の復元はほぼ完成しているように見えるのですが……。この柵より向こうへ行けるようになれば、また訪れたいですね。

二之丸庭園の北にある、北隅櫓台です。標柱の説明文が判読困難です……こういう所もいずれ再整備してもらえるとありがたいのですが。

北隅櫓台付近から、南を見ます。左に大石頼母助屋敷門が、その右には二之丸庭園表門が見えます。手前の空き地が大石頼母助屋敷だと思われますが……本丸御殿のように平面復元されれば、屋敷があったのだと伝わりやすいように思います。

 

二之丸庭園を出て、本丸へ向かいます。

復元された本丸門です。鮮明な古写真のおかげで、明治期の取り壊し以前の姿が蘇っています。

築城時の建造と推定される本丸門。赤穂城ができて間もない頃と同じ姿を見ていると思うと、感慨深いものがあります。

前回訪問時は水草で水面がほとんど見えなかった本丸門左(東)側の堀は、見違えるほど綺麗になっています。左奥に見える櫓台は、本丸にあった唯一の櫓・東北隅櫓跡です。

二の門は小ぶりで、一度に大勢の敵が進入するのを阻みます。

内側から二の門を見ると、高麗門形式なのがよく分かります。

枡形内の石垣には雁木が設けられ、ここを上って土塀にある大小様々な狭間から本丸へ迫り来る敵を狙い撃ちできます。

二の門を突破されても、巨大な櫓門である一の門が立ちはだかります。

本丸内側より、一の門を見ます。

復元された本丸庭園の大池泉です。歴代城主も、縁側からこの景色を楽しんだのでしょうか。

大池泉のすぐそばへ下りられるよう、石段が設けられています。奥に、天守台が見えます。

大池泉の南側にある刎橋門跡です。門の正面には石段が、左右には合坂があり、三方向から刎橋門へ至れる構造となっています。

門の外側には開閉式の刎橋が架けられていたようですが、今はなく、ここからの出入りはできません。

大池泉の西側にある、砂雪隠です。

砂雪隠のそばにある、石組暗渠排水路です。大池泉の水は、ここを伝って排水されていたのでしょうか。

本丸南東部にそびえる、独立式の巨大な天守台です。ここに天守が築かれることは、なかったようです。

天守台の西面から南面にかけて、上り階段が設けられています。

天守台からは、本丸が一望できます。殿様も時には天守なき天守台に上り、自らの城を眺めたのでしょうか。

天守台の北側は女中たちが使用する奥御殿だったようで、天守台のそばには茶之間や湯殿があったようです。

文字の色がほとんど落ちてしまっていますが……奥御殿の北東にあるのが、本丸に三つある門の残るひとつ、厩口門(台所門)です。

厩口門は本丸跡にあった高校の通用門として改変されていたのを、橋・土塀・周辺石垣とあわせて復元したそうです。門両脇の窮屈そうな袖塀と雁木が、チャーミングですね。

屋根瓦には浅野氏の家紋「違い鷹の羽」らしき紋様が見えます。

門扉には潜戸があります。

 

厩口門から本丸を出て、二之丸に入ります。

案内図で、これまで歩いてきた縄張り形状を見ます。輪郭式の本丸・二之丸に三之丸が北西からかぶさる「変形輪郭式」とも呼ばれる個性的な構造で、各曲輪の外周には数多くの横矢が掛けられています。

おや、案内図の背後に、何やらブルーシートが見えます。

二之丸東櫓台が現在発掘調査中なのか、フェンスによって立ち入りができない状態となっています。二之丸外周を歩いた時に櫓台上部に見えていたブルーシートは、こういうことだったんですね。フェンスには、たくさんの写真や説明が掲示されています。

櫓台の内側上部はかなり崩壊しているように見えます。

厩口門のすぐ東・船入のすぐ南にある東櫓台には一重櫓が建っていたことが、様々な絵図からも分かります。現在の様子と大きく異なる昔の写真資料も、興味深いですね。

事細かに記録しながら進めていく発掘調査の様子が、写真から伝わってきます。

写真に解説が加えられており、理解の助けになります。

とても立派な心柱礎石が残っていたんですね。

北東と北西の隅石の高さの差から、石垣が大きく崩れているのが分かります。

時に石垣崩落の要因ともなる樹木の繁茂ですが、この場合は樹木のおかげで完全な崩落を免れたようです。

そしてブルーシートの隙間から見えるのはもしかして……崩落を免れた北西隅石ではないでしょうか! これは興奮します。

発掘調査終了後は、石垣の修復がされるのでしょうか。

二之丸には東西にそれぞれ仕切があり南北に区画されていたようで、写真手前の堀に張り出した石垣が、二之丸東仕切跡と思われます。

厩口門外側付近から、東仕切跡を見ます。堀へ張り出した石垣から左(東)へ仕切塀が延び、反対側からも延びる仕切塀との間には、仕切門があったようです。

案内図にある、東仕切門のアップです。両側から延びる仕切塀の間に、門が建てられていたようです。

複雑な形状の土塀に挟まれた厩口門の奥に、本丸櫓門が見えています。

帰りに大手隅櫓を振り返り、お城に別れを告げます。

 

100名城スタンプ目的での再訪でしたが、特に撮影面での補完は多くの成果があり、満足しています。二之丸東櫓台の発掘現場を見て、やはりまだまだ現在進行形な城跡なのだと改めて感じたので、三度目の訪問が今から楽しみです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで33城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。