お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

【更新】2022/7/29「64.水戸城」(2018/12/23訪問)の記事をアップ

63.八王子城

八王子城に行ってきました。

日本100名城(No.22)に選ばれた、東京都八王子市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

城跡まであと800mということろで、案内図を見つけます。現在地は、宗関寺のすぐそばです。

さらに歩くと、見学スポットの解説が記された詳細な案内図があります。今いる場所は、城下町にあたる「根小屋地区」だそうです。城主・北条氏照公の菩提寺でもある宗関寺と、氏照公の墓は、未訪です。

八角形の屋根が特徴的なガイダンス施設です。日本100名城スタンプはこちらで押せるようですが、開館時刻前だったので、先へ進みます。

立派な城跡碑は、日本百名城とあるので、2006年以降に設置されたと思われます。

管理棟(写真右奥)の南を西へ歩くと御主殿跡ですが、後ほど訪れます。

左手の要害地区(本丸方面)へ行く前に、右の屋外模型広場へ行ってみます。

先ほどの案内図では「エントランス広場」とあった場所の中央に、東屋が見えます。

東屋の中には、模型が展示してあります。肝心の説明文が切れてしまっているこの写真は……どういうつもりで撮影したんでしょうね。訪問時の自分にガッカリです。

こちらのズーム撮影ではかろうじて曲輪の名称等が確認できますが……うーむ。

 

要害地区へ向かいます。

こちらの土橋?を渡り、登山口へ進みます。

本丸付近には神社があるため、入口には鳥居(一の鳥居)があります。

自然公園の看板基部に石積みと、右手の小川にも石積みが見えますが……これは。

反対側を見ると……って、ピンボケひどいなこの写真。

こちらにも石積みが。八王子城は御主殿周辺のほか要害地区にも石垣が用いられていたようですが、どうやらこのあたりは当時の石垣ではないようです。

このような石積み排水溝もいくつか見られますが、後世に設けられたようです。

分かれ道を、案内に従い左へ進みます。

訪問時は当時の石垣が残っているのかも知らず、ただ目に入った石積みを半信半疑でとりあえず撮影していたのですが……後で調べると、どうやら「二の鳥居」の脇にあるこの石垣、当時の石垣だそうです! 主郭の北東を囲うように柵門跡~金子丸の北側に石垣が点在しているようですが、訪問時に確認できたのは、主郭北東石垣の終端部にあたるというここだけでした。これがリアル戦国時代の石垣……うーん、素晴らしい!

戦国期石垣を回り込み、二の鳥居をくぐります。

登山道を横切りいくつも設けられた石積み溝。気になって撮影してしまいます。

やがて、削平地に出ます。

金子丸です。本丸へ到達するには避けて通れない曲輪だったようです。

金子丸の下は「馬蹄段」と呼ばれ、馬の蹄のような小曲輪がいくつも連なっているようです。

金子丸は、東西に細長い曲輪です。

五合目まで来ました。不慣れな登山にバテバテですが……あと半分、です。

山道をゼエゼエ言いながら、登ります。

横は断崖。転ぶわけには、いきません。

時折振り返りながら、なおも登ります。

削平地に出ます。柵門跡、です。立札のあたりに、左奥へ続く道を塞ぐように、門が建っていたのでしょうか。

なぜ柵門跡と呼ばれているのかなど、詳細は不明のようです。

柵門台と書かれた柱には鳥除けのためか、CDか何かが吊るしてあります。

八合目まで来たようです。

道はなおも続きます。ひぃひぃ……。

古そうな石積みが見え、少し持ち直します。

またも削平地に出ましたが、ここは……?

高丸、とあります。この先は、危険だそうです。

なるほど、これは危険です。高丸は、見張り台のような曲輪だったのでしょうか。

ここが九合目。あと、少しです。

にわかに、視界が開けます。

これは……素晴らしい景色! 城下が一望でき、思わず足を止め、撮影します。遠くには、高層ビル群も見えます。

あの八角屋根は……もしかしてガイダンス施設、でしょうか。

 

慣れない登山に体力ごっそり奪われながらも、要害地区の山頂曲輪へ到達します。

休憩所のような建物の傍らに、説明板があります。

山頂には本丸のほか、松木曲輪や小宮曲輪などがあり、今いる場所は「中の曲輪」と呼ばれているようです。

「頂上」の標柱に、達成感を覚えます。

貫禄ある巨木を見上げます。八王子城の終わりを見届けていたのでしょうか。

中の曲輪から、神社のために整備されたと思われる石段を上ります。

氏照公がお城の守護神とした「八王子権現」が祀られている八王子神社です。牛頭天王と眷属である八人の王子を祀ったというここの八王子権現の起源は古く、お城の名称や現在の八王子という地名の由来になったとされているようです。

神社のある中の曲輪の上段は、かなりの広さがあり、周辺の各曲輪へアクセスする足掛かりとなっているようです。

神社の本殿と思われる建物の覆屋に、破損箇所が見られます。

こちらの建物(神楽殿?)も傷みが激しいですね……。

神社の脇には、天狗様が立っています。

神社の南側は、一段高くなっています。

さらに南の高まりが、松木曲輪です。「坎井」なる井戸は、見ていません。

展望台らしきスペースには、慶安期の古絵図が展示されています。

松木曲輪から神社までは、かなりの高低差です。

西側にある、本丸方面へ向かいます。

まず、本丸を目指します。(この後、小宮曲輪を訪れることなく下山してしまいます)

本丸跡です。立派な碑と、お堂があります。

横地監物が守っていたとされる本丸。先ほど本殿の左手に見えた小さなお堂は、横地監物を祀るものでしょうか。

確かに、本丸はあまり広くありません。本丸のお堂には、また別の誰かが祀られているのでしょうか。

上りとは違う道を通って本丸を下りると、本殿北側の石段に出ます。

完全に忘れていたのか、疲労のためパスしたのか、通じる道が分からず断念したのか……。訪問時に小宮曲輪を訪れなかった理由は思い出せませんが、この写真を最後に、要害地区から下山します。

 

管理棟まで戻り、居館地区へ向かいます。

陰陽図・鳥瞰図の背後に見えるのが、管理棟です。建物前に置かれたテーブルの下には、北条氏の家紋「三つ鱗」が見えます。

100名城スタンプは、管理棟にもあるようです。

管理棟の前には、情報量の豊富な説明板が並んでいます。

管理棟の西側にある橋より向こうは、ガイド同伴でないと行けないようです。橋が架かっているのは空堀で、奥が御主殿の東にあるアシダ曲輪です。空堀は、居館地区の東を区画する重要な防御ラインだったと思われます。

御主殿跡へは、橋より南側の道を通れば行けるようです。

こちらのパネルは整備についての情報がもりもりで、ありがたいです。

意外な場所に、意外な向きで、史蹟碑があります。碑より奥は城跡と逆方向なのですが……。

案内に従い、アシダ曲輪の南側の道を西へ歩くと橋がありますが、写真右手に注目。

アシダ曲輪の南面土塁の一部に、石垣が見えます。これはどうやら、当時のものらしいです。素晴らしい!

橋の向こうに、竪堀と、そこに架かる橋が見えます。

写真左手の階段上から右(西)へと続き橋を渡る道が、当時の大手道だったようです。竪堀は復元されたものらしいですが、実に見事な堀です。

階段を上った所が、大手の門跡です。調査時の写真によると、敷石や立派な礎石が出土したようです。

敷石や礎石は埋め戻されたのか、見当たりません。

門跡より東をのぞいてみると、坂道が北へ折れているようですが……。

その先はけっこうな段差があるように見えます。当時はどのような道だったのでしょうか。

大手門を通らずに大手道につながるこの階段は当時の道ではないと思われますが、せっかく門が発掘されたのだから、大手門跡を通る当時の大手道がいつか再現されることを願っています。

大手道を、御主殿のある西へと歩きます。

橋を渡り振り返ると、かなりの高低差です。階段下の広い曲輪(写真左)は、兵の待機場所だったのでしょうか。

大手道は、状況証拠から明らかになったんですね。

堀切で防御された大手道(古道)からは、曳橋を落とせば御主殿へ入ることは困難になります。

曳橋が見えました。

曳橋の向こうには、何段もの石垣と、御主殿への石段が見えます。これは……素晴らしい!

曳橋へと至る石段は、当時のものでしょうか。

古絵図によると、御主殿曲輪の東西に城山川を越えるための橋が架かっていたようです。現在の曳橋は、東側の橋にあたります。

橋台石垣の発見により、橋の存在が裏付けられたのですね。

構造や形状は不明ですが、このくらいの長さの橋が架かっていたのは間違いないでしょう。

何やら石材が散乱していますが……こちら(南)側の橋台石垣がどのような状態なのか、イマイチよく分かりませんでした。

曳橋を渡ります。模擬復元とはいえ、雰囲気があります。

何段も重ねて高さを稼いでいる石垣に、時代を感じます。

曳橋の西にスペースが見えますが、橋を越えようとする敵を撃つための場所でしょうか。

曳橋の下に道が見えますが、江戸時代に通された林道とのことで、御主殿へ至るには曳橋を渡って城山川を越えるルートしか当時は無かったようです。

曳橋を渡り終えると両脇に石垣があり、向こうに潜む兵にやられそうな気配がします。

西側にはこれだけのスペースがあり、東の御主殿へと向かう敵を背後から襲い放題です。

築城当時の石垣が大規模に残っていたことにも驚きですが、石材・積み方ともに全く違和感のない復元整備のクオリティにも驚愕です。

東を向くと、御主殿へと続く道が北へ折れています。

このあたりは、大きな石が多用されています。

右手には、石垣上へと上るためか、雁木が設けられています。

居館地区・御主殿曲輪の見所、東→北→西と道を「コ」の字に曲げた上で長い階段通路としている、御主殿虎口です。石段の両脇は石垣で固められ、巨石もいくつか用いられています。うーん、見事!

虎口下と御主殿曲輪とは、これだけの高低差があります。石垣の隅部には、巨石が見えます。

石段の途中にある踊り場が、櫓門跡です。ここの石垣隅部にも、巨石。

大部分は検出された遺構がそのまま展示されているようで、礎石がはっきりと分かります。全面石敷きって、すごいです。

行く手を阻むように、櫓門が建っていたのでしょうか。

道を曲げ、高低差をつけた、堅固な虎口です。

石段は西へ折れ、ようやく御主殿跡への入口が見えます。曲輪は塀で守られ、入口には冠木門があります。

冠木門は模擬復元のようですが、門扉はつけておいて欲しかったなあと思ってしまいます……。

 

冠木門を越えると、御主殿跡です。

おおお、広大!

遺構分布図には、検出された遺構の図面とその種別が描かれ、説明文には遺構の保護方法から復元整備に用いた石材までもが詳細に記されています。

塀の内側には、出土品の写真があります。右端のレースガラス器は、国内では八王子城でしか出土例がないようです。

手前は遺構分布図にある「SJ09」の石囲水路と思われますが、それと直交する「SD02」が何なのか、分布図には記載がありません。形状や幅からすると、水路でしょうか。

分布図には「SB05」礎石建物群とある所です。会所や主殿に比べ、小規模な建物があったようです。

主殿北東にある通路はどこまで続き、その先には何があったのでしょうか。

通路の西側には、少し間隔を空けて塀が建っていたようです。

塀跡の説明が塀跡から離れた位置にあり、分かりにくくなっていますが、手前の凹部は分布図「SK02」の土坑(分布図には「土杭」とあるが誤字?)、奥は「SJ08」の石囲水路で、その間のラインが「ST03」塀跡と思われます。

柱穴が着色された、写真中央手前から奥へまっすぐ伸びるラインが、塀跡です。

塀の間際にある左の土坑は、庭園の池のようにも見えますが……。

礎石を置かない、掘立建物跡です。すぐそばを水路が通っていますが、どのような役割の建物があったのでしょうか。

枯山水の庭の北側には池が見つかったようですが、全容が不明なため埋め戻されたようです。

庭園跡の東にあるのが、広大な主殿跡です。

政治向きの行事が行われていたと考えられている、主殿跡です。南側には、水路があります。

こちら折中門が、玄関にあたるようです。

会所跡には、床が再現されています。これだけで随分と、建物のイメージがふくらみますね。

これはまた中途半端な写真ですね……反省。

氏照公もここで、庭を見ながら宴を楽しんだのでしょうか。

会所の前面を隠すために築かれたと考えられる、塀跡です。

会所の南東にある、溝を伴う敷石通路です。八王子城には、敷石の道が多いですね。

会所の南西には、舶載磁器片が集中して出土した場所があります。ゴミ捨て場?

会所の南側にある建物跡のすぐ北西には、庭園の池のようにも見える大きめの土坑があります。

建物跡と土坑のすぐ北西には、水路と石列で区画された通路が南西へ伸びます。

会所南東の敷石通路との位置関係は、このようになっています。

御主殿跡の南東には土塁がありますが、近年整備されたものだそうです。

落城以降あまり人の手が入らなかったため、遺構が良好に保存されていたのですね。

 

帰りに、ガイダンス施設に寄ります。

100名城スタンプは、こちらで押しました。

 

御主殿跡の発掘・整備により、戦国武将の暮らしが垣間見える八王子城。今後のさらなる調査に期待がふくらみます。広大な城域のごく一部しか見ていないので、またいつか未訪エリア含めじっくり訪れたいものです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで26城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。