お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/3/20「82.岡城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

5-2.高松城

高松城に行ってきました。

日本100名城(No.77)に選ばれた、香川県高松市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

かつての内堀内より、線路越しに本丸を見ます。南西隅にある地久櫓台の巨大さが、鉄道設備との比較でよく分かります。櫓台西面は、防護のためかネットで覆われています。

現在は、西側内堀跡に高松築港駅があり、本丸の西側スレスレから南の桜の馬場を縦断するように鉄道が敷設され、ことでんが走っています。

駅の南にある踏切より、本丸南面石垣を見ます。右奥のひときわ高い石垣が、天守台です。今いる所は桜の馬場と呼ばれ、本丸~三ノ丸の南側にあり東西に長く、当時は線路より手前(西)側にも桜の馬場が延び、その北にある西ノ丸と地続きでL字型の曲輪を形成していたようですが、現在は線路より西の桜の馬場と西ノ丸は市街地化しています。

線路は桜の馬場内で大きく東へカーブし、中堀の南へ抜けます。

線路の向こうに見える石垣は、生駒氏時代の大手門、古太鼓御門跡です。枡形虎口を形成していた石垣が、良く残っています。

線路沿いを東へ歩くと、桜の馬場の南東隅にある太鼓櫓跡が見えます。櫓台に建っているのは、移築された艮櫓です。

原位置にはありませんが、現存する貴重な三重櫓です。移築の際に石垣が拡張されたとのことですが、城内側(右)をよく見ると、確かに隅部が継ぎ足されているように見えます。

中堀の手前には石垣の天端石が見えていますが、ここは桜の馬場の東に位置する下馬所だったようです。

下馬所から、桜の馬場の大手を見ます。隅櫓と堀に架かる橋、門、遠く左奥に見えるは、月見櫓の屋根でしょうか。お城らしい素晴らしい景色です。艮櫓は本来の位置にないのですが……当時の太鼓櫓は、どのような姿だったのでしょうか。

 

東ノ丸へ向かいます。

作事丸だったとされる東ノ丸の南側に建つ、県立ミュージアムです。西側出入口前の石垣は非常に雰囲気出ていますが、位置的にも模擬だと思われます。

ミュージアムにはいくつか撮影可能な展示があり、そのうちのひとつ、復元された御座船・飛龍丸の一階御座之間です。カラフル!円形に囲われた天井画がなんともオシャレです。

ミュージアムの窓から、お城を見渡します。披雲閣、天守台、旭門、艮櫓などが見えます。奥のビル群や電車等と比べると、天守台や艮櫓の大きさが分かります。

ミュージアム東出入口から出ると、南側に石垣が延びています。模擬かもしれませんが、西側出入口にある石垣と違って、こちらは東ノ丸の東辺に沿って築かれていると思われます。

そして東出入口の北側に延びる石垣は、手前が復元、右奥に少し見えるのが現存です。

下側の解体復元部分と上側の再現部分には明確なラインが見えますが、石材の色味や積み方は揃えられています。

道路の向こうが、現存する東ノ丸東辺石垣の北側部分です。奥には、艮櫓台が見えます。道のあたりに、城外へ通じる門があったのでしょうか。

道を西へ歩くと職員専用門がありますが、当時は三ノ丸東辺のこの場所に門は無かったようで、後世に石垣を撤去して門を築いたことが、門両脇石垣の積み方が周囲と異なる様子から見て取れます。

道の南には中堀が延び、奥に旭橋と桜の馬場石垣が、右には竜櫓台と三ノ丸石垣が見えます。三ノ丸石垣の上部は色も積み方も下部とずいぶん異なりますが、後世の積み直しでしょうか。

中堀は本来もっと北まで入り込んでいたようで、道の北側も、そもそもこの道も、当時は堀の中だったようです。

職員専用門付近より、東ノ丸を見ます。堀際に見える西辺の石垣は、当時のものでしょうか。

それにしても三ノ丸東辺の石垣修理(と思われる箇所)は、ただ隙間を埋めただけというか何というか……酷いですね。そして写真のピンボケも酷い……。

東ノ丸の現存東辺石垣まで戻り、内側を北へ歩きます。周辺の開発が進む中、これだけの石垣が取り壊されず残ったのは、奇跡です。ミラクル!

東辺では、堀側に比べ城内側の石積みは低くなっています。

移築前の艮櫓が建っていた、東ノ丸の北東隅、艮櫓台です。松平氏時代に増築された東ノ丸石垣は打込み接ぎで、隅部の算木積みが整っています。櫓台の右下に石材が散乱していますが、これは何処から……?

艮櫓台から西側の東ノ丸北辺石垣は、城内側も高く積まれています。石垣を避けるように建てられた県民ホールの建築に、感心します。

石材は大半が花崗岩で、一部に安山岩や凝灰岩も見られるそうですが、一見すると色々な種類の石を用いているように感じます。カラフル。

東ノ丸北辺石垣は、西側で北ノ丸東辺石垣と接続しています。

北ノ丸東辺石垣を南へたどると、門跡があります。北ノ丸の東に設けられた、黒門跡と思われます。

 

下馬所まで戻り、大手から桜の馬場へ向かいます。

下馬所から桜の馬場へ斜めに架かる旭橋の手前に、玉藻公園の碑があります。城跡は現在、玉藻公園として整備されています。

下馬所にある案内図です。本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸と桜の馬場の東側が公園整備されており、それ以外の城域は、市街地化しています。

生駒氏時代に桜の馬場南側にあった大手は、松平氏の時代になって南東に移されたそうです。

旭橋より艮櫓を見ます。下方が大きく広がる石落しの影響もあってか、ずっしりと安定感のある印象を受けます。全ての階に多くの狭間が設けられ、石落しにも狭間があります。

艮櫓をよく見ると、鬼瓦はちょっと不鮮明ですが……唐破風の懸魚中央に、葵の御紋が見えます。生駒氏から松平氏に代わった時の初代城主は松平賴重公で、水戸黄門こと徳川光圀公の兄にあたる方だそうです。将軍家と近親な関係ゆえ、葵紋の使用を許されたのでしょうか。

旭橋の北には中堀が延び、右には東ノ丸、左奥には三ノ丸が見えます。

旭橋を渡ると、旭門があります。大手枡形の外門にあたる高麗門で、再建された門のようですが、一部に江戸期の部材が残るそうです。門左右の袖塀石垣は、表面仕上げが施された切込み接ぎです。

門の脇には、門松が置かれています。正面の枡形石垣には、巨大な鏡石が効果的に配置されています。

旭門を内側から見ます。外の旭橋が斜めに架かっているのが分かります。門の右手前にある建物は、料金所です。ここで入園料を払い、100名城スタンプを押しました。

旭門を越えると、大手枡形です。石垣はこれまで見てきたものと大きく異なり、石材に表面加工が施された切込み接ぎとなっています。枡形の内門は南(写真の反対側)ですが、北側石垣に、何やら開口部があります。

埋門です。石垣をくり抜くように構築された門は他のお城にもありますが、枡形虎口内に設けられた例は非常に珍しいのではないでしょうか。敵を足止めし、迂回させるための枡形虎口にショートカット門があるとは……不可解です。

現在は板が張られ、通り抜けることはできません。部材の一部は江戸期のものだそうですが、門柱などでしょうか。

埋門の西、旭門を入って正面にある枡形石垣には、いくつもの鏡石が使われています。形も大きさもまちまちに加工された切石をパズルのように隙間なく積んだ切込み接ぎ石垣は、もはや芸術の域です。

枡形の南側には大手虎口の内門である太鼓御門跡があります。石垣形状からして、大きな櫓門が建っていたのでしょうか。奥には、太鼓櫓跡に建つ艮櫓が見えます。

艮櫓、最上階の破風にも窓がありますね……これは珍しいのでは。

太鼓御門跡石垣、隅部は表面加工した石をぴっちり積んでいるのに、中央部(櫓門で隠れる部分?)は加工もそこそこに矢穴のある石も混ざった打込み接ぎ状になっているのが面白いですね。経費削減、あるいは工期短縮のためでしょうか。

城内より、移築艮櫓を見上げます。城内側にまで狭間が開いているのは珍しいですね。門を突破され城内にまで攻め入った敵を迎撃する想定かもしれません。切石積みとなっている城内側の石垣はすべて、移築の際に拡張されたものでしょうか。

太鼓御門跡を過ぎると、撮影してくださいと言わんばかりに看板があったので。看板の奥、太鼓御門跡背後の石垣も、美しい切石積みです。

西半分ほどが市街地化した桜の馬場ですが、それでもこれだけの広さがあり、存分に馬が走れそうです。右奥が艮櫓、左が県立ミュージアムと県民ホールです。

内側から見る旧大手、古太鼓御門跡石垣です。よく整っていますが算木積みの未発達な隅部に、時代の古さを感じます。立入禁止ロープの向こうにはブロック塀が築かれ、枡形内部の様子を見ることはできません。

桜の馬場にある、案内図です。ここから北にある土橋を通って三ノ丸に行けるのですが……。

おや、土橋より西側の内堀内に、道が築かれています。今は通れませんが、ここを歩くと三ノ丸南寄りの西辺へたどり着けそうです。

三ノ丸へ通じる土橋の左(西)に見える白い柵が、先ほどの通路です。あの通路を行けば、目の前の土橋を通らずに三ノ丸へ行けそうですが……

土橋の中央に、立札が見えます。

枡形虎口まであと123歩。西門から来た人へのアピールでしょうか。

 

三ノ丸へ向かいます。

土橋の先に、門跡があります。空襲で焼失した三ノ丸の正門、桜御門跡です。枡形虎口ではありませんが、門の先には低い石垣があり、先にある御殿への直進を許しません。

石垣の積み直しを経て、門の復元を目指しているようです。

被熱し変色・損傷した石材も可能な限り再利用し、積み直された桜御門石垣です。向かって右(東)側の石垣は門より少し前(南)へ張り出しており、門に迫る敵へ横矢を掛けられます。門跡には、ほぞ穴のある礎石や斜めのタイル状石敷きが良く残っています。

石垣をよく見ると、測量のためか、マーカーのような物が付けられています。

いつの日か、復元された桜御門が見られるでしょうか。

桜御門を越えると、三ノ丸です。

南東隅にある、竜櫓跡です。右手には石垣上に上るための雁木が見えますが、竹垣があり、上れません。

高松城には竜のほかにも鹿、虎、烏など、動物の名が付けられた櫓があったようです。

井戸は、当時のものでしょうか。

元は(現)披雲閣の馬小屋として建てられたという陳列館には、お城に関する展示が陳列されています。

三ノ丸御殿・披雲閣跡に建てられた松平家別邸・披雲閣です。現存御殿と見紛う玄関の威容! 現在は、貸会場として利用されているようです。

披雲閣の玄関前にある石垣は「ひんぷん」を連想させます。

ひんぷん状石垣の西に、先ほど見た通路が接続しています。もしかして、桜御門の復元工事が始まり土橋が通れなくなった時の迂回路……かもしれません。

通路の向こう、内堀に浮かぶのは、巨大な天守台です。石垣が積み直され、見ていて安心する安定感があります。静かな水面には「逆さ天守台」が映ります。

復元イメージがあります。調べたところ、天守台が13m、天守建物が推定28.6mで建物だけなら松本城より高く、石垣含む総高は41.6mにもなります。四国最大規模を誇ったというその巨大さもさることながら、非常に特徴的なのがデザイン。下層より張り出した南蛮造りの最上階、北面・南面に設けられた窓の形状はなんだかロボットの顔みたいでめちゃめちゃキュート! これはオンリーワンな愛嬌です。

今にも「ギギギ……」とか駆動音を出しそうなメカっぽい天守がそびえる姿を、夢想します。いつの日か、現実に……。

こちらの門から、庭園に入ります。

三ノ丸の半分くらいの面積を占めると思われる広大な現・披雲閣。しかし当時はこの約二倍もの建物があったそうです。ひえー。

銀閣寺型手水鉢です。「型」の字を小さくして、銀閣寺をアピール。

左端わずかに写るのが、ひとつの花崗岩をくり抜いて作った石橋と思われます。右の井戸は、当時のものでしょうか。

丸い大きな飛石の上を歩き、庭園を散策します。正面に見える披雲閣二階からの眺望は、格別でしょうね。

 

北ノ丸に向かいます。

松平氏時代に東ノ丸とともに増築された北ノ丸は、三ノ丸の北東角を覆うように配置されています。土塁上に見えるのが北ノ丸北東隅の鹿櫓跡です。階段から櫓台へ近づけそうですが、残念ながら進入禁止です。

鹿櫓台付近から、西を見ます。右(北)の土塁が北ノ丸北辺で、外側は石垣です。左奥に見える石垣は三ノ丸北東隅と思われ、かつてはこのあたりまで海が迫っていたのでしょうか。

そして正面奥に、現在の高松城の顔とも言える建造物群があります。

月見櫓と続櫓、水手御門、渡櫓です。ひとつひとつが貴重なのに、この四棟が揃ってここに現存するというミラクル。
それにしても続櫓、月見櫓の唐破風にめり込むように建っていますね……なんとしてもここに唐破風を付けるのだという強い意志を感じます。その唐破風の下、続櫓の屋根には雨落ち瓦が敷かれています。そしてこれら建物の瓦や懸魚には、葵の御紋。あっ……雨落ち瓦右側の丸瓦が、落下してしまっています。

海へ直接出入りできるお城の門としては唯一の現存例である、水手御門です。

訪問時には、固く閉ざされていました。

右(北)へ大きく継ぎ足された、渡櫓石垣です。この渡櫓、生駒氏の海手門を改修したものらしいですが……まさか、もともと左端の道をまたいで建っていた櫓門を北へスライド移築した、ということでしょうか?

隅石には、刻印があります。

渡櫓のそばから、月見櫓を見上げます。

渡櫓より西側は三ノ丸です。このあたり、石垣が入り組んでいます。

この道側に少し出っ張った石垣は、どういう意味があるのでしょうか。

渡櫓のそばに、石垣上へ上れる階段を見つけます。

月見櫓が少し松に隠れていますが、素晴らしい写真が撮れました。続櫓・渡櫓の外側には石落しや狭間が設けられています。海城・高松城を実感できる、最高の光景です。

この木の階段のおかげで、良い撮影が出来ました。

ここは何やら、石材も積み方も雰囲気が違いますね……。これら謎の出っ張り石垣は、後世に築かれたのでしょうか。

堀に海水を引き入れている高松城。内堀が北へ入り込む三ノ丸のくびれた西端部に、水位調節のため水門が設けられています。この水門、もちろん後世に築かれたもので、当時はどのようにお堀の水を管理していたのか、まだよく分かっていないようです。

 

二ノ丸へ向かいます。

二ノ丸の東にある、鉄門跡です。近年の強風による毀損を機に、石垣が積み直されたそうです。

鉄門のすぐ北には、武櫓があったようです。

鉄門北側石垣です。隅の算木積みは未発達ですが、巨石を惜しげもなく使用し、迫力があります。説明にある門扉のサビとは、右隅中ほどの石に見える縦線でしょうか……?

鉄門南側石垣です。こちらもワイルド、大迫力です。北側よりも長く三ノ丸側へ張り出しており、桜御門と同様に、門へ迫る敵に横矢を掛けることが可能です。

すぐ南には黒櫓があり、鉄門は両脇に櫓を備えた非常に堅固な門だったようです。

鉄門を越えると、二ノ丸です。松平氏時代の初期には二ノ丸に御殿があったのが、後に三ノ丸へと移されたようです。左端には東辺石垣、その奥には鞘橋が見えます。

本丸に通じる唯一の橋、鞘橋です。当初は欄干橋だったのが、屋根付きの廊下橋に改められたようです。

昔も今も、ここからしか入れない内堀中央にそびえる本丸のラスボス感が、素敵です。

右には、二ノ丸と本丸を隔てる内堀の向こうに、駅のホーム。当時はさらに、内堀が広がっていたでしょう。

そして左からは、天守台がよく見えます。当時は橋の上から、巨大な天守の姿を拝めたでしょうか。

 

鞘橋を渡ると、本丸です。

鞘橋の正面には石垣があり、右折を余儀なくされます。

鞘橋正面の石垣(写真左)上には門を伴う多聞櫓・中川櫓があり、門のすぐ西(写真右端)には中櫓があったようです。中川櫓台前の、道を塞ぐように並ぶ石列が、気になります。

鞘橋を越え西へ歩くと、またも正面に石垣が立ちはだかり、天守がある方向とは逆の西側に階段があります。しかし、資料等によるとこの正面手前に門が、そして正面石垣方向(南)へ道があり本丸中央部へ進めたようなのです。明治期に天守台上には玉藻廟が建てられたそうですが、建設の際に石垣の改変があったと考えられているようです。

かつての姿から改変されているかもしれない本丸虎口を、階段上から見ます。右奥に、天守台がのぞいています。

天守に次ぐ規模の本丸南西隅にあった二重櫓・地久櫓の櫓台です。地久、とはまた変わった名前の櫓ですね……由来が気になるところです。

地久櫓台付近より、本丸を見渡します。生駒氏時代には、ここにも御殿があったようです。中央奥に見える四角い枠は、井戸です。

縄張りのど真ん中に位置する天守台に、たどり着きました。

石垣や石段への負担を極力軽減する構造になっていそうな金属製の手すりが、素敵です。

石段の途中から、北の中川櫓台を見ます。これより西に中櫓、北西隅には矩櫓があり、多聞櫓で連結されていたようです。奥には鞘橋と二の丸が、右奥には水門が見えます。

南石垣を見ます。本丸南辺にも多聞櫓が連なり、南西隅の地久櫓、北西隅の矩櫓もそれぞれ多聞櫓で連結され、天守以外の本丸外周建物は全て多聞櫓でつながれた非常に厳重な構えだったようです。

多聞櫓が建っていたにしては奥に見えている本丸南辺石垣の幅が狭すぎるように感じますが、これは後世に狭く積み直された可能性があるようです。

天守には、地階の穴蔵部分から入る構造だったようです。

穴蔵入口の両端に敷かれた石にはほぞ穴が見えますが、ここに天守地階への門扉があったのでしょうか。

穴蔵入口両脇の石垣、ワイルドかつカラフルです。

穴蔵上に「田」の字に並んだ52個の礎石と、丸太で再現された四箇所の掘立柱跡です。礎石と掘立柱を併用しているのは、面白いですね。

天守台積み直し後、北西端に設置された展望デッキと、説明板です。

デッキより、西を見ます。中川櫓台部分の石垣も、積み直されたのでしょうか。

東には、披雲閣が見えます。

そして北には、内堀の向こうに広がる、海。ここより20m以上高い天守最上階から、歴代の殿様は海城ならではの絶景を堪能したことでしょう。

 

天守台を下ります。

鞘橋から、本丸を出ます。

公園の西門少し北に、簾櫓跡とあります。実際はこれより北、右端に雁木が写っていますが、二ノ丸北西隅に簾櫓はあったと思われます。

公園西門です。当時は刎橋口門があり、西ノ丸に通じていたようです。

奥に鉄門跡と、わずかに月見櫓の屋根が見えます。刎橋口門、当時はどのような門だったのでしょうか。

刎橋口門跡の北側石垣です。左端に、簾櫓が建っていたようです。

北へ歩き、かつての海上である城外から、月見櫓を見ます。行き交う舟は、今より数多くの櫓や塀と、本丸にそびえる天守を見ていたのでしょうか。

写真右の隅部が連続する石垣上には、武櫓が建っていたようです。手前の隅はずいぶん石材の雰囲気が異なりますが、後世の積み直しでしょうか。

こちらは簾櫓台の東側です。入隅が何やら……これは積み直したというより、コンクリートか何かで固めたのでしょうか。

再び刎橋口門跡付近より、二ノ丸西面石垣を見ます。門跡すぐ南の張り出し部に弼櫓が、奥の南西隅には文櫓があったようです。

駅前広場にある城跡の紹介には、月見櫓・水手御門等の写真。海城の象徴であり、高松城の顔ですね。

 

前回から一年ぶりの訪問で、少しはお城への理解も深まったのかなあと実感しています。石垣の改変はいくつかあるものの、現存石垣を避けてのホール建設や、大規模な石垣解体修理など、城跡保存への熱意がひしひしと伝わりました。桜御門の復元、そしてゆくゆくはロボ顔天守が復元され、この貴重な海城の在りし日の姿をより一層体感できる時が来ることを、願ってやみません。

日本100名城スタンプラリー、こちらで37城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。