お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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  • 2024/4/14「83.府内城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

10-2.名古屋城

名古屋城に行ってきました。

日本100名城(No.44)に選ばれた、愛知県名古屋市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅の階段に、天守がプリントされています。

こちらも駅で見つけた、内郭絵図です。本丸全周と西之丸南面、二之丸西面などが多聞櫓で囲われ、巨大な本丸大手馬出にまで多聞櫓が巡らされており、堅固さをうかがわせます。

絵図と比較すると、内郭の縄張りはほぼそのまま残っていることが分かります。

 

内郭へ入る前に、その東~南にかけて配置される広大な三之丸を見て回ります。

三之丸に五つあった虎口のひとつ、清水門跡と思われる場所付近です。今は門の痕跡が見当たりませんが、かつては枡形虎口だったようです。写真は南西方向を撮っており、二之丸東面石垣の左端に見える虎口は東鉄門です。

二之丸北東隅には丑寅隅櫓が建っていたようです。北側には水堀があり、遠くには天守と、いくつもの石垣隅部が見えます。

別の虎口へ向かいます。

市役所北の道路を東へ歩くと、道の両脇に石垣があります。三之丸に五つあった虎口のひとつ、東門跡です。東大手門とも呼ばれているようです。

三之丸の外堀、広い!深い!現在は官公庁街と化している三之丸ですが、これだけの規模で堀が残っていることに驚きです。石垣の南には、土塁が続いています。

東門跡の南側石垣です。枡形虎口を形成する石垣の一部と思われます。

石垣には、刻印と思われる印がいくつも入っています。矢穴も見えます。

道路を挟んだ向こう側には、東門跡の北側石垣が見えます。南側の石垣とは食い違っていますが、門はどのあたりにあったのでしょうか。

北側石垣は北側で東へ折れています。石垣形状からすると、現在見えている堀のあたりが枡形だったように思えますが……このあたりは堀形状など縄張りに改変があったのでしょうか。

東門跡の北側にも、大規模な堀と土塁が続きます。この三之丸外堀の堀底にはなんと、明治期に鉄道が敷設されていたそうです。もしかしたら、そのままだと線路を敷きづらいので東門の枡形虎口部分は削り取られてしまったのかもしれません。

虎口形状は把握しづらくなっていますが、立派な石垣は健在で、ここに門があったことを伝えてくれます。

東門跡のすぐ北側にも道路がありますが、当時はこちらに出入口はなく、つながっていた土塁を断ち切って道を通したように見えます。

別の虎口へ向かいます。

三之丸に五つあった虎口のひとつ、本町門跡です。

三之丸外堀は東門の南で直角に西へ折れ、本町門付近では東西に長く延びています。

本町門跡にも、枡形虎口を形成していたと思われる石垣が残っています。右奥の石垣付近に、門が建っていたのでしょうか。

本町門跡東側石垣は、隅部が非常に整った算木積みになっています。隅部にも、それ以外にも巨石がふんだんに用いられています。

東側石垣の西面には、いくつも矢穴が見えます。

内側から、本町門跡を見ます。こちらも道路が通されるなどして、当時の虎口形状が分かりにくくなっています。

三之丸にはあと二つ、御園門と巾下門という虎口があったようですが、今回は未訪です。

 

西之丸へ向かいます。

三之丸より、大手馬出の南面石垣を見ます。写真左端に見える石垣隅部は西之丸の南東隅で、西之丸と大手馬出は堀で隔てられていたのが後世に埋められたようです。しかし……単に間の堀だけを埋めたのなら、大手馬出の南西隅が見つかりそうなものですが、さっぱり見当たらず、南面を見る限りではどこまでが当時の馬出石垣だったのか全然分かりません。これはどういうことでしょうか……。

空堀に沿って西へ歩くと、土橋が見えてきます。三之丸から西之丸へと通じる、枡形虎口です。

案内板には工事中の区域と、天守が閉館中であることが記されています。

土橋から、西を見ます。空堀は、石垣隅部より西では水堀となっています。西之丸南西隅には、未申櫓が建っていたようです。

現在は特別史跡であり、明治以降には離宮でもあった名古屋城スペシャルですね。

石碑の前の区画は枡形の一部と思われ、この枡形虎口はお堀に少し突き出るような形態となっていたようです。

枡形虎口の西側石垣です。隅部は整い、巨石が多いです。

西之丸の巨大枡形虎口内部です。西側及び北側石垣(写真左)上には多聞櫓が巡らされた高防御な虎口だったようです。

堅固なはずの枡形虎口の北側石垣にぽっかりと、埋門が設けられています。三之丸から直進すれば到達できてしまうこの位置に門があることは防衛上疑問しかありません。後世に設けられたものでしょうか。しかもこの門……車(おそらく関係車両のみ)が通れる?

枡形虎口の櫓門、榎多門跡です。明治期に地震で大破後、門跡には江戸城から蓮池門が移築されたけどそれも空襲で焼失、現在みられる櫓門は蓮池門を外観復元したものだそうです。明治期まで建っていたという榎多門は、どのような姿だったのでしょうか。

櫓門脇戸の横にある本日の行催事にも大きく「天守閣の中には入れません」と。

榎多門跡の復元蓮池門を越えてすぐ、総合案内所があります。100名城スタンプは、こちらで押しました。

西之丸の北側工事区域では、何やら蔵のような建物が建設中です。

蔵風建物と、天守です。小天守は、木に隠れています。

このあたりには当時蔵があったようで、どうやら蔵を模した展示・収蔵施設を建てているようです。完成・公開されたら、また訪れたいですね。

西之丸から、本丸南面に建つ二つの隅櫓を見ます。前を歩く人々と比べ、その巨大さが伝わるでしょうか。

総合案内所の東側から、石段で西之丸南面石垣に上れるようです。石段手前の石材には矢穴が見えます。

石垣上より、榎多門跡を見ます。西之丸南面には、榎多門から多聞櫓が連なっていたようです。

規則正しく並んだ石は、多聞櫓の礎石でしょうか。

石垣上から、西南隅櫓を見ます。天守の屋根が、櫓の背後に見えています。

西之丸南東隅から、大手馬出の南面石垣を見ます。どんなに目を凝らしても、埋められた堀と現存石垣との境界がどうにも見出せません……。

大手馬出上から、南を見ます。かつては多聞櫓が巡らされていたという大手馬出。三之丸(写真右)と比べ石垣が高く築かれているのが分かります。

写真右奥に二之丸大手門と土橋が見え、その手前、三之丸側に石垣隅部が顔をのぞかせています。石垣隅部の前が土塁のようになっていますが、当時は堀幅がこの隅部まであったのかもしれません。

東側の石段から石垣を下りると、大手馬出の説明があります。お城の景観にマッチする木の立札説明板、良いですね。馬出と西之丸の間の堀は、明治期に埋められたんですね。

大手馬出へ通じる道より、馬出東面石垣を見ます。この石垣上にぐるり多聞櫓が巡っていたとは……超強力です。

そして馬出へ通じる道のすぐ北には、江戸期から現存する本丸東南隅櫓。ここから一斉射撃を浴びせれば、敵は馬出にすら侵入できないでしょう。

そういえば、西南隅櫓の窓は開いていましたが、東南隅櫓は閉まっています。

東南隅櫓の屋根瓦には、葵の御紋が見えます。

大手馬出石垣には巨石が多用され、非常に整った積み方(打込接ぎ)です。

大手馬出より、本丸高石垣上の東南隅櫓を見ます。堀底から櫓てっぺんまでの高さは、30mを超えると思われます。櫓の西側には現在建物はありませんが、かつては多聞櫓が巡っていたようです。

 

本丸へ向かいます。

大手馬出を越えた所にある、本丸に三つある虎口のひとつ、表二之門です。左右の袖塀が門と同じ高さなのが特徴的です。本丸大手虎口は、馬出+枡形虎口というスーパー厳重さです。

表二之門前の土橋上から、左右の本丸堀を見ます。本丸の周囲は空堀で、鹿がいます。

枡形虎口から東西の隅櫓までは多聞櫓が巡っていたようで、虎口に近い東南隅櫓の西側には横矢が掛かっています。また枡形虎口自体、堀側へせり出しています。

表二之門は門扉周辺の部材すべてが鉄板で覆われ、非常に堅固な作りです。

門扉には、小さな潜戸があります。鉄板の剥がれている箇所がいくつか見えます。

枡形内側より、表二之門を見ます。袖塀には鉄砲狭間がありますが、袖塀のすぐ裏まで上るための雁木は見当たらず、土塁のようになっています。

枡形内石垣には、巨石があります。さすが本丸大手。

隅石も、巨大です。

この石垣をまたぐように建っていた、巨大な本丸表一之門。空襲での焼失が、残念でなりません。

東南隅櫓を、内側から見ます。かつては西側(右)と北側(左)に多聞櫓が接続していたようです。通常は内部非公開で、訪問時に入ることはできませんでした。

表一之門跡を越えるとすぐに見えてくる、復元された本丸御殿です。背後にチラリとのぞく天守が、良いですね。観覧入口は正面の車寄ではなく、写真右奥の人がいる辺りです。

おや、車寄の西側に、何やら案内が見えます。

なんと、西南隅櫓が公開されているようです。最終入場は16時。現在時刻、15時43分。い、急がねば!

 

駆け足で、西南隅櫓へ向かいます。

なるほど、一度倒壊したのを再建しているんですね……などと悠長に説明を読んでいる余裕などなく、訪問時はとりあえず撮影するだけして、早く櫓へ入らねばと必死でした。

階段の先に、櫓が見えます。なんとか間に合いました。

櫓の中へ入ります。外側には、廊下が巡っています。

重要文化財・西南隅櫓。外観二重・内部三階の櫓は、非常に珍しいそうです。

名古屋城には十一の隅櫓が建っていたようですが、現在残るのは三棟です。

四方が多聞櫓(説明では「多門櫓」となっています)で囲われていた本丸。現在多聞櫓は失われていますが、古写真からは当時の堅固な本丸が窺えます。

内側には特に展示物などはなく、板張りの部屋になっています。

西側窓を覗くと、西之丸の蔵風建物が見えます。そうか、外から見た時に西南隅櫓の窓が開いていたのは、公開中だったからなんですね。

二階へ上ります。薄暗い中慌てて撮影したものだから、写真がピンボケです……。

外観の大きな特徴である出窓の内部に設けられた、石落しです。

全ての窓の下に、水抜きの銅筒が付けられているそうです。そういえば外から見た時、三階の窓には確かに格子がありませんでした。

石垣ごと無惨に倒壊した西南隅櫓が、古写真に記録されています。今こうして当時の姿の隅櫓が見られるのは、大正・平成の修理があったからなのですね。ありがたや。

二階は一階に比べ、天井が高くなっています。

三階への階段には、踊り場が設けられています。

最上階、三階です。金色の釘隠しが目を引きます。

天守最上階の四隅に設置されていたという展望用踏み台・御窓台です。ひとつだけでも、よくぞ残ってくれたものです。

離宮時代に宮内省が修理を行ったため、屋根瓦が皇族の紋章である菊紋瓦に置き換わっている箇所が見られます。二階屋根の前方に並べられている瓦は、先ほどの説明にあった雨落ち瓦でしょうか。

最上階からは、建設中の蔵風展示・収蔵施設がよく見えます。外観はほぼ完成しているようです。蔵のあった場所に蔵の外観をした施設を建てるというのが、とても素晴らしいと感じます。

そして西南隅櫓最上階から望む、大小天守です。少し木が邪魔ですが……この角度からしか見られない姿を撮影できて、満足です。

天守の西、堀の外側には、西之丸・御深井丸間の外周堀が細く入り込み通路が非常に狭くなる「鵜の首」が見えます。

櫓を出ます。城内側の壁にはほとんど窓がなく、のっぺりしています。

櫓北側に延びる石垣上にも、かつては多聞櫓が連なっていたようです。

 

西南隅櫓を出ると時刻は16時を回り、櫓の公開には間に合ったものの、本丸御殿の最終入場時刻を過ぎ、御殿には入れませんでした……。仕方なく、御殿の外観を見て回ります。

御殿の最も西側に位置する、湯殿書院です。寛永期に増築され、将軍専用の浴室があったようで、その浴室も復元されています。右手には上洛殿、背後には大小天守が見え、なかなか良い構図です。

湯殿書院とともに寛永期に増築された上洛殿は、三代家光公の上洛に合わせて建てられた豪華絢爛な御成御殿です。右奥には表書院と、車寄が見えます。

こちらからも顔をのぞかせる大小天守が「ここは名古屋城やで」とアピールしているようです。

左手が上洛殿、正面が対面所、右手が表書院です。上洛殿と対面所の間にあるのが、鷺之廊下です。

藩主との謁見の場、表書院です。

葵紋が散りばめられた金色の破風装飾、とってもゴージャスです。

唐破風屋根が美しい御殿の正面入口、車寄です。将軍など限られた来客のみが入ることを許され、現在も一般観光客はここから入れません。

観覧の際は、湯殿書院・黒木書院とそれ以外では入口が異なるようです。

御殿の北側へ回り込みます。

長囲炉裏や煙出しが備わる、下御膳所です。

左手が、下御膳所の西にある藩主のプライベート空間、対面所です。右手の建物内には孔雀之間、柳之間などがあるようです。

将軍専用キッチン、上台所です。瓦屋根には、煙出しと思われる小屋根が見えます。北側は、ミュージアムショップとなっています。

 

本丸御殿に続いて、天守を見ます。

上台所のすぐ西にある小天守は現在入ることが出来ず、石垣には足場が組まれています。

天守もこのとおり、足場で覆われ天守台が見えません。足場をよく見ると「石垣調査中」とあります。耐震性や、将来の木造復元に向けての調査でしょうか。

こちらの通路から、北側へ抜けられるようです。

本丸に三つある虎口のひとつ、不明門です。門の上に土塀があり、埋門のような形態です。

不明門枡形は天守の真東にあり、枡形の西側石垣は天守台そのものです。間近で見上げる天守の迫力に圧倒されます。金属の足場と外付けエレベーターも相俟って、お城なのに謎のメカ感が出ているような気がします。

不明門外側では、土塀は槍の穂先をびっしり並べた「剣塀」となっており、よじ登っての侵入を許しません。

門扉付近の石材には白黒のマークが貼られていますが、測量の基準点か何かでしょうか。

天守台の北側も、不明門西側までびっしりと足場に覆われています。剣塀の漆喰、一部剥がれてしまっていますね……。

この足場に囲われた姿も、今しか見られない貴重なものなのでしょう。

不明門前の土橋から東を見ると、堀底にずらり並んだ石、石、石。何処かの石垣を解体修理しているのでしょうか。写真右は本丸石垣で、奥の隅部には東北隅櫓が建っていたようですが、現在は失われています。写真左手前には御深井丸の塩蔵門枡形があり、枡形を越えると塩蔵構という曲輪があります(写真左奥)。

塩蔵門枡形は、石垣が良く残っています。訪問時は通行止となっていました。

 

本丸搦手へ向かいます。

空襲で惜しくも焼失した、本丸東一之門跡です。古写真と似たアングルで、立派な櫓門を偲びます。立札の右が、城内最大の巨石・清正石です。清正石の右に見える石も、でかい!

本丸内側から、東一之門跡を見ます。表一之門跡と同様に、枡形石垣は良く保存されています。

本丸東二之門跡にある、旧二之丸東二之門です。ややこしい。原位置にありませんが、貴重な現存門です。

外側の土橋から、本丸東二之門跡にある旧二之丸東二之門を見ます。ややこしい(二回目)。門の向こうに、清正石がのぞいています。表二之門のように全面というわけではありませんが、門扉や柱などに帯状の鉄板が打ち付けられています。

それにしても、移築された門なのに異なる門跡石垣の間にピッタリ収まっています。名古屋城の外門は規格が統一されていたのか、はたまた移築に合わせて石垣を調整・積み直したのか。疑問が残ります。

 

本丸搦手虎口を出ると本丸搦手馬出があり、そこから南へ進むと二之丸に通じます。

二之丸より、本丸東南隅櫓を見ます。

本丸搦手馬出の東、二之丸西北にある埋門跡です。右手の二之丸石垣に切欠きが見える所が埋門跡で、左手は搦手馬出石垣です。緊急時にはここから奥に見える堀を越え、対岸の「下御深井御庭」方面への脱出ルートが決められていたようです。

埋門跡の石段は現在埋められているように見え、そこから下もかなりの高さがあるようですが……当時は梯子などが設けられていたのでしょうか。

本丸搦手馬出は石垣修復中で、北側石垣が解体されています。先ほど見た堀底に並んだ石材は、おそらくこの馬出石垣のものと思われます。十六年が経過してなお、工事が継続しているんですね……。

こちらは二之丸東門(東鉄門)枡形です。写真奥に見える低い石垣が、本丸東二之門跡に移築された二之丸東二之門の原位置というわけですね。ややこしい(三回目)。二之丸東一之門跡の西側石垣は、ばっさりとナナメにカットされてしまっています。通行のためとはいえ、これはなんとも……。

こちらは二之丸大手門(西鉄門)枡形です。一之門(櫓門)は失われていますが、枡形石垣は良く残り、二之門(高麗門)が現存しています。

重要文化財である、二之丸大手二之門です。車が通行するため、ガードレールが設置され、門扉が閉じられなくなっています。

二之丸東二之門と同様、門扉や柱などに帯状の鉄板が打ち付けられています。門両脇の石垣がえらく低いですが、当時は袖塀が脇を固めていたのでしょう。

 

締めは、天守です。

二度目の訪問では広大すぎる三之丸の虎口巡りは中途半端に終わり、天守閉館中なのは承知の上だったものの本丸御殿の入場時刻にまで間に合わないという体たらくでしたが、西南隅櫓の公開で中に入ることができ、前回未訪だった場所もいくつか回れるなど成果もありました。まだまだ未訪エリアが多くあり、次はたっぷり時間をとってじっくり見て回りたいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで35城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。