お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
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66.武田氏館

武田氏館に行ってきました。

日本100名城(No.24)に選ばれた、山梨県甲府市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

躑躅ヶ崎館とも呼ばれる武田氏館を築いた、甲府駅北口にある武田信虎公の像です。甲府駅の南口には信虎公の子・信玄公の像があるらしいのですが……見逃しました。

甲府駅の一角では、「こうふ開府500年メモリアルギャラリー」の常設展示があり、入場無料でした。

展示のひとつ、武田氏館の模型(南から見る)です。単なる方形居館ではなく、主郭の周囲にいくつかの曲輪を配置し、主要な虎口には丸馬出があったようです。

東から見ます。現在堀に架かる「神橋」は、当時は無かったようです。

北から見ます。北側には御隠居曲輪、稲荷曲輪、味噌曲輪などがあったようです。

 

それでは、現地に向かいます。

現在、館の跡地には、信玄公を祭神とする武田神社があります。

神社入口のすぐ南には、武田氏の家臣・穴山信君公の屋敷があったようです。

穴山信君公の屋敷跡には、ガイダンス施設が建設中でした。こうふ開府500年に合わせてオープンする模様です。

古府の図(及び、現代の図)を見ると、武田氏館の周囲には穴山信君公のほかにも「武田二十四将」と呼ばれる家臣の屋敷が立ち並び、城下町を形成していたことが分かります。

神橋から西を向き、主郭の南側にある堀を見ます。水を湛えた堀が、よく残っています。当時ここに橋は無かったようなので、この位置から堀を見ることはなかったでしょう。

神橋を渡ると、両脇に高石垣がそびえますが、当時ここに虎口は無かったので、後世に積まれたものではないかと思われます。

石垣のそばに、立派な史蹟碑があります。

神社全図の社務所北側に描かれている石垣は……もしかすると天守台でしょうか。武田氏滅亡後、徳川氏の時代には天守が築かれたようです。

こちらの説明に描かれた図には「中世の甲府」とありますが、よく見ると武田氏滅亡後に拡張されたという梅翁曲輪があったり、虎口が丸馬出ではなく石垣で囲われていたりするので、武田氏後の姿と考えられます。

 

主郭には入らず、東の大手方面へ向かいます。

草木で分かりにくいですが……主郭南東隅を撮影したものと思われます。わずかに石積みが見えます。

主郭の大手門跡から道路を挟んで東側は、史跡として整備されています。遺構としては最上部にあたる武田氏滅亡後の曲輪構造が再現されているようです。

武田氏滅亡後に築かれたとされる大手石塁の下からは、武田氏時代に築かれたと考えられる三日月堀が見つかっているようです。武田氏のお城に特徴的な丸馬出を見たかった気もしますが、その上の石塁もまた貴重な遺構……時代と共に姿を変えるのが、お城なんですよね。

美しく復元整備された大手石塁の下には、信玄公も通ったであろう大手丸馬出と三日月堀が眠っているのだなあと、お城の変遷に思いを馳せます。

石塁には石段が設けられています。当時は、大手を守るために塀などが建っていたのでしょうか。

大手石塁の東には、大手門東に広がる曲輪の北側を区切る土塁が伸びています。

土塁に沿って東へ歩くと、武田菱のあしらわれた説明板が立つ、北側虎口の土橋があります。

土橋の南には大手曲輪の堀と土塁が続き、その先に南側虎口の土橋が見えます。写真左の道が、鍛冶小路です。

鍛冶小路から、北側虎口を見ます。大手曲輪は南北で高さが異なり、虎口の先が、一段高くなっている上段部にあたります。

北側の土塁には階段などが設けられ、土塁上を歩くことができます。

土塁が北へ折れる隅部からは低い石垣が伸び、石塁との間には門が設けられていたようです。大手曲輪上段部が下段部と塀などで仕切られていたならば、鍛冶小路から北側虎口を越えたらこの門を通らないと大手門へ行けなかったのでしょうか。

土塁上から、北側虎口を見ます。むむ、中央奥にかすかに見えるは、富士山でしょうか。

土橋を渡ったところに石段が見つかったということは、当時から鍛冶小路より大手曲輪の方が低い位置にあったのですね。

北側虎口の北東に巨大な石垣が見えたので思わず撮影しましたが、どうやら大正期に造られた「竜華池」という人工池の石垣らしく、お城とは無関係でした。しかしあれだけの高さがあれば、上からの眺望は良さそうですね。

門礎石が見つかったという、南側虎口です。礎石は埋め戻されたようで、復元はされていません。

北側虎口の土橋を見ると、石垣で作られているのが分かります。

堀の両脇にも石積みが見えます。

基底部の石積みが残っていたから、土塁や惣堀が復元できたのですね。

南側虎口から、大手曲輪の下段に入ります。右奥に見えている山はやはり、富士山のようです。

曲輪の下段と上段では、これだけ高さの違いがあります。

大手石塁の南側にある、厩跡です。柱の根元には礎石ならぬ「礎板」が見つかっているようです。

大手門跡の両脇には、土塁が高くそびえます。信玄公の時代には、どのような門が建っていたのでしょうか。

大手門跡の東に架かる土橋から、主郭東側北の堀を見ます。このあたりは現在、空堀となっています。

 

大手周辺から、北へ歩きます。

色褪せた史跡標柱を見ながら、なおも北へ歩きます。

御隠居曲輪の南は、公園として整備されています。

公園の北側が御隠居曲輪です。信玄公の母・大井夫人の隠居所とされているようです。

木の植えられたあたりが、御隠居曲輪の西辺にあたるようです。

御隠居曲輪の南西には、主郭北虎口を守る馬出があったようです。木の向こう、石積みで方形に囲われた区画が、馬出でしょうか。

主郭北側へ通じる階段と思われますが……当時のものなのか、馬出との位置関係などは、不明です。後で見た時に周囲の状況や位置関係が分かるような撮影を心がけないと、ですね。

主郭の北側には、深い堀が続きます。

西へ歩くと、道が鍵の手に曲がり、石積みが見えます。

御隠居曲輪と味噌曲輪の間には、無名の曲輪があったようです。

北の曲輪群の一番西側に位置するのが、味噌曲輪です。西曲輪のすぐ北に位置し、現在は発掘調査が行われている模様です。

味噌曲輪の南東に、石垣が積まれた小さな区画があります。稲荷曲輪です。

稲荷曲輪の石垣はしっかりと積まれていますが、いつの時代のものでしょうか。

稲荷曲輪には現在、小さな石の祠が並んでいます。かつては稲荷社があったのでしょうか。

稲荷曲輪南側の、入隅部です。堀を隔てて南には、主郭があります。

西側から見る、稲荷曲輪の全景です。

稲荷曲輪から西へ歩き、振り返ります。写真中央奥が、稲荷曲輪です。その手前の石積みが、目を引きます。

石積みは、味噌曲輪東を区切るものでしょうか。発掘調査の成果が、楽しみです。

これは……主郭と西曲輪の間の堀を撮影したものと思われます。

 

西曲輪に向かいます。

西曲輪の北虎口へ通じる土橋です。

土橋の左右には深い堀が穿たれ、土橋以外の場所から攻め入るのは難しそうです。

土橋を渡ると、枡形虎口があります。

虎口の南北で門の位置が喰い違っており、敵の直進を妨げます。

虎口内でスピードの緩んだ敵を、高い土塁上から狙い撃ちです。

いやーこれは見事な枡形ですね。撮影が止まりません。

虎口南側の門跡両脇に積まれた石垣も、実に素晴らしい!

南側の門跡から見る、枡形全景です。当時のお城の守りが体感できる、素晴らしい虎口、素晴らしい整備です。

土塁上からも、枡形虎口を撮影しまくります。

上から見ると、土橋の幅や堀の深さも、より分かりやすく思えます。

枡形虎口を越えると、曲輪内が低くなっている構造は、先ほどの大手曲輪と似ていますね。

西曲輪と主郭の間の堀を撮影している……と思われます。

こちらは、井戸のようです。

西曲輪と主郭をつなぐ、土橋です。

土橋の南側は、水堀になっています。

土橋付近にある館配置図には、建物の配置も描かれています。主郭は、中曲輪と東曲輪から成っていたようです。

西曲輪には、南にも枡形虎口があります。

内側(北側)の門跡には、このように立派な石垣があります。

こちらの石垣も、素晴らしい!

虎口の左右には高い土塁。

北も南も、よく整備された、素晴らしい枡形です。

南虎口を出ると、土橋の両側に、水堀が広がります。

西曲輪の南には、武田氏滅亡後に、梅翁曲輪が設けられたようです。

 

主郭へ向かいます。

堀を眺めながら、東へ歩きます。

石垣(写真右)を見ると、手が勝手に撮影してしまうんです。(城跡と石垣との関連は不明)

改めて、神橋を渡り、主郭である武田神社の境内へ入ります。

とても立派な石垣なのですが、こちらに虎口が無かった以上、当時のものではないと思われます。

主郭の中央に位置する、武田神社の拝殿です。

主郭南西に建つ、甲陽武能殿です。かつての館にも、能舞台があったのでしょうか。

甲陽武能殿の北、こちらの道を北上すれば、主郭北西にある天守台と思われますが……残念ながら立入禁止です。

宝物殿には、武田家ゆかりの武器・防具や、なんとあの風林火山の旗も展示されていますが、館内撮影禁止です。100名城スタンプは、宝物殿で押したように思います。

おや、こちらの配置図は、先ほどのものと細部が異なるような……? 能舞台とあった所が、こちらの図では「的山」になっています。むむむ。

館の中心部(配置図「台所」の東あたり?)に今も残る、信玄公御使用井戸です。

社殿が建つエリアには、かつて信玄公が暮らす居館があったのでしょうか。

武田菱のあしらわれた拝殿は、かつて武田氏の館があったことを物語ります。

 

主郭は神社と化しているものの、堀や土塁はよく残り、周辺整備が進み枡形虎口や石塁にお城の堅固さを垣間見ることができます。発掘調査も進行中で、ガイダンス施設のオープンも予定されており、今後がまだまだ楽しみな城跡です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで29城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。