お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/4/14「83.府内城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

72.岡崎城

岡崎城に行ってきました。

日本100名城(No.45)に選ばれた、愛知県岡崎市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

駅前に「二十七曲り」の説明板があります。東海道は、岡崎城下の総構え内において主郭部を避け北へ大きく迂回するようなルートとなっており、非常に屈曲が多くなっています。

この二十七曲りを、少したどってみます。

総構えの西出入口、松葉総門跡です。

カーブミラーの支柱や電柱などに二十七曲りが表示され、当時の東海道をたどれます。

 

二十七曲りを全てたどるのはまたの機会にして、お城へ向かいます。

板屋町から東海道を外れて東へ歩くと、坂谷橋があります。坂谷橋より手前(西)が白山曲輪、橋の向こう(東)が坂谷曲輪です。

坂谷橋は当時存在せず、白山曲輪と坂谷曲輪をつないでいたのは坂谷門であり、今も残る門の石垣が、坂谷橋から見えています。

坂谷門の石垣近くまで来ました。枡形虎口だったようですが、見えている門跡石垣はひとつだけです。こちらは、外門(高麗門)の石垣でしょうか。

石垣上には「坂谷門阯」の碑があります。

大きな石材を用いた立派な石垣には、矢穴が見えます。そして背後の木の陰には天守の姿が! 坂谷門は、天守のほぼ真西に位置しています。

坂谷門南側石垣は、木に侵食されてしまっています……。

当時は坂谷門から西へ土橋が延び、その先には丸馬出が設けられ、坂谷門は丸馬出+枡形という非常に厳重な虎口だったようです。

坂谷曲輪は二の丸と本丸の西側にかけて南北に延びる帯曲輪で、絵図には曲輪の西側縁辺に土塀が描かれていますが、見えている石は土塀の基礎だったりするのでしょうか。

坂谷門の真西にそびえる天守は、木に遮られよく見えません。この時はまだ、この天守が撮影者泣かせの存在だとは思いもせず……。

坂谷曲輪の南端付近には、本丸南にあったという「えな塚」があります。「えな」とはへその緒・胎盤のことだそうです。葵の御紋をあしらった説明板がとっても「徳川ナイズ(造語)」されていて、良いですね。塚の基壇にも、葵紋が見えます。碑の文字は……「東照公恵那塚」でしょうか?

このあたりが坂谷曲輪の南西端と思われるのですが……本来は堀(写真左わずかに見える)で分断されていた所に道(写真中央より左へ折れる)が通され、曲輪の形状が分かりづらくなっています。絵図によると、当時は坂谷曲輪の南西端に葭櫓という二重櫓が建っていたようです。

葭櫓台推定地?より、東の堀へ下りる階段があります。柵の基部には石積みが見えますが、これも土塀の基礎だったりするのでしょうか。

坂谷曲輪南側のラインは、おおよそ当時のままでしょうか。

坂谷曲輪南東では埋門(写真左奥に石垣が見える)より本丸へ通じており、本丸の立派な石垣を望むことができます。本丸の南には風呂谷曲輪という腰曲輪があり、写真右手前の柵が連なる堀沿い石垣を東へ行った先にあります。

本丸埋門跡の北側で見られる、本丸と坂谷曲輪を隔てる堀と、迫力ある本丸高石垣です。うーん、素晴らしい!

坂谷曲輪の北には、産湯の井戸があります。ここにももちろん、葵の御紋。

本丸・二の丸などは現在、岡崎公園として整備されています。

坂谷橋の東にある案内図の横には、竹千代君らしき像があります。坂谷曲輪に二つ存在した隅櫓のもうひとつ、稲荷櫓があったのはこのあたりでしょうか。

 

坂谷曲輪を出て、お城の北へ向かいます。

三の丸の北に位置する、浄瑠璃曲輪です。市街地化していますが、このあたりにかつて大手門があったようです。曲輪の名称にある浄瑠璃寺が、今も曲輪内に存在します(写真右)。大手門の北西には明治初期に藩校である允文館・允武館があり、跡地に碑が立っているようですが、予習不足のため見逃しました。

浄瑠璃曲輪の南にあるのが三の丸ですが、こちらも市街地化しており、写真の大きな道路(国道1号)により南北に分断されています。道路の向こうには模擬門と御殿風建物、そして奥に天守が見え……木に隠れてほとんど見えません。

歩道橋にも、葵の御紋。門の手前には「徳川家康公生誕の地 岡崎」とあります。

 

歩道橋を下り、東曲輪へ向かいます。

門の前に、二十七曲りの碑と「従是西岡崎領」「従是東岡崎領」の道標がありますが、ここが二十七曲りのひとつということではなく、東海道はお城を避けるように大きく北側へ迂回しています。

こちらは岡崎公園の入口に建てられた立派な櫓門で、「大手門」と呼ばれていますが、本来の大手門は三の丸の北にある浄瑠璃曲輪にあったので、この大手門は模擬門であり、当時この位置に門は無かったようです。

正月なので、門の前に門松が置かれています。模擬大手門の南側には当時、二の丸正門である七間門があったようです。七間門は絵図には櫓門のように描かれていますが、名前からして七間の大きさを誇る立派な門だったのでしょうか。

城跡は、市の文化財に指定されているようです。

模擬大手門より東、二の丸の東側に位置するのが東曲輪です。東曲輪と二の丸を隔てていた堀は失われ、現在東曲輪は岡崎公園の駐車場となっています。二の丸とは土塀で区切られており、お城感を演出しています。

車の向こうに見える櫓を、見に行きます。

東曲輪の南側には、控柱付きの土塀が櫓まで続いています。このあたり、絵図にも土塀が描かれています。そして瓦には本多氏の家紋「立葵」が見えます。岡崎城は明治初期まで、本多家が城主を務めたようです。

東曲輪の南東隅に建つのがこの、東隅櫓です。絵図や松山城の野原櫓などを参考に再建されたもので、図面は現存せず、正確な復元建物というわけではないようです。

東隅櫓の屋根瓦にも、立葵が見えます。

東隅櫓と書かれた立札は傾き、字がかすれてしまっています……。

おや、櫓の扉が開放されています。どうやら、中へ入れるみたいです。

中を覗くと、説明板と、二階への階段が見えます。土足厳禁とのことで、靴を脱いでお邪魔します。

説明板には、東隅櫓の説明と、絵図があります。

反射して見づらいので半分ずつ撮影します。東隅櫓は、東側の切通しへ横矢を掛けていたようです。

絵図は、北が下になっています。当時の縄張りや建物の様子を知ることができる、とても貴重な資料です。岡崎城の縄張りは複雑な形状で隅櫓が多く、虎口はどれも厳重で堅固さを感じます。屏風折れ塀のように見える土塀も描かれています。

階段の注意書きは「立入禁止」ではなく「上り下りに注意してください」とな?これはもしや……二階へ上れる??

期待して見上げると、階段の上が板で塞がれています。残念。

奥へ進むと、トイレらしき小部屋と、その右にも部屋があります。

キッチンと、エアコンまであります。史実に忠実な復元ではないので、櫓には休憩所としての役割も持たせているようですが……これだけの設備があれば「城泊」も可能に思えます。

先ほどの絵図の東曲輪をアップで。二重の東隅櫓の左(東)に、狭い通路が描かれています。切通しです。

絵図にある切通しは、現在もこのように、良好に残っています。素晴らしい! これは北側から見た様子で、道は屈曲し、先が見通せないようになっています。

堀底道といった雰囲気で、この高さをよじ登るのは、難しそうです。

矢穴のある石材も見えますが、石垣は当時のままなのでしょうか。

道は東へ大きくカーブしており、スピードダウンを余儀なくされます。

ただでさえ狭い道を通る敵がカーブで減速した所を、東隅櫓から狙い撃ち、です。

切通しの南側入口より、切通しを見ます。切通しの南側入口には当時、枡形虎口があったようで(写真よりもう少し手前(南)側?)、南にある菅生曲輪から三の丸などの城郭中枢部へ通じる道ということもあり、枡形からの狭く屈曲する切通しに加えて東隅櫓の横矢という非常に厳重な虎口となっていたようです。

 

切通しを南へ抜けると、菅生曲輪です。

菅生曲輪から東隅櫓と土塀を見上げます。曲輪間の高低差がよく分かります。

コンクリートの基部に見える石垣は、当時のものでしょうか。

土塀より西側の石垣は、なんだかよくわからない状態ですね……。石材自体は古そうですが、公園化の際に積み直したのでしょうか。

菅生曲輪には武家屋敷や侍長屋があったようですが、現在は北側が広場となっています。

菅生曲輪の西側には、隠居曲輪があります。撮影場所はおそらく東曲輪の南端付近で、写真左の広場が菅生曲輪、その右の建物がある所が隠居曲輪です。謎石垣の上は……おそらく二の丸にあたると思われます。

東曲輪の南端付近から、土塀と東隅櫓を見ます。お城感をふんだんに醸し出す、良い再建造物です。

 

二の丸へ向かいます。

模擬大手門を内側から。門をくぐると、二の丸です。

東曲輪の土塀と東隅櫓は立葵でしたが、大手門屋根瓦の家紋は葵の御紋(三つ葉葵)のようです。

模擬大手門の南に、天守を模したと思われる電話ボックスがあります。破風に三つ葉葵まで付いてて、これは……可愛い!

城主の御殿があったという二の丸には、奥に何やら御殿風の建物が見えますが……その前に写真左、二の丸井戸跡の立札が右を指しています。

立札に従って歩くと、売店の軒下に、井戸があります。

覗き込むと、中は埋まっていますが、石組井戸が見えます。

二の丸御殿に伴う井戸が、発掘調査により見つかったようです。

井戸の位置から、絵図の赤丸で示されたいずれかと考えられるようです。

御殿風建物は「三河武士のやかた 家康館」という歴史資料館です。

家康館の前では、武将隊による演武が行われていました。

家康公の「しかみ像」です。元になった肖像画があるんですね。寄贈者はなんと、徳川宗家十八代当主!

二の丸にはほかにも、本多忠勝公や別の姿の家康公などいくつかの像があるようですが、見逃しました……。

先ほどの絵図(井戸の説明板)を見る限りでは二の丸御殿に能舞台はなさそうでしたが、現在は二の丸南西隅に立派な能楽堂があります。

能楽堂の東から南を見ると、一段と高い曲輪の突出部が見えます。本丸と二の丸の間にある、持仏堂曲輪です。

持仏堂曲輪の向こうには、少し木に隠れていますが、天守と付櫓である井戸櫓が見えています。持仏堂曲輪の法面に見える石垣は、当時のものでしょうか。

二の丸と持仏堂曲輪を隔てる空堀は、大迫力です。

二の丸の南西出入口です。右手に能楽堂建物、左手には二の丸と持仏堂曲輪を隔てる堀があり、正面に産湯の井戸が見えます。絵図では写真右手前・能楽堂の南東端付近に門が描かれ、当時もここに二の丸と坂谷曲輪をつなぐ道が存在したようです。

持仏堂曲輪の北西角です。上部は土塁ですが、基部にはしっかりと石垣が積まれており、隅部はきれいな算木積みです。

坂谷曲輪から、持仏堂曲輪と本丸の間の堀を見ます。奥には、持仏堂曲輪と本丸をつなぐ廊下橋の石垣が見えています。

 

持仏堂曲輪へ向かいます。

二の丸能楽堂の南東から延びる土橋の先、低い石垣に両脇を固められた雰囲気のある石段を上ると持仏堂曲輪の北西あたりに入れるのですが……どうやら二の丸から持仏堂曲輪へ通じる虎口は二の丸南東(持仏堂曲輪北東)側にしか存在せず、この石段も手前の土橋も、後世の改変と思われます。

持仏堂曲輪の内部です。写真左に今上ってきた石段、右奥に本来の虎口である太鼓門の石垣が見えます。

「持佛堂廓阯」の小さな碑を見つけました。持仏堂曲輪の名は、家康公所持の阿弥陀仏を安置したお堂があったことに由来するそうですが、その持仏堂建物があったとされる場所(曲輪の西端)には現在、和食料理屋が建っています。

持仏堂曲輪から見る天守と井戸櫓の北面は、木の妨害が少なくよく見えるのですが……撮影者的には天守の非常階段がいただけません。

街灯のたもとに「廓下橋阯」の碑を見つけました。ん?廓下橋ではなく「廊」下橋では……? さておき、持仏堂曲輪と本丸をつなぐ土橋は当時、廊下橋だったようです。

現在は廊下橋の建物部分はなく、土台となる土橋は明治期以降に改修されたようで、アーチ橋となっています。橋を渡った先の天守台北面には、巨大な鏡石が見えます。

廊下橋の西、先ほど坂谷曲輪から見た持仏堂曲輪と本丸の間の空堀です。ものすごい高さ! 天守台下の本丸石垣をよく見ると、排水口らしき穴が見えます。

そして廊下橋の東にも、とんでもない深さの空堀が続きます。「清海堀」と呼ばれるこの持仏堂曲輪と本丸の間の堀は、外側が見事にカーブを描く石垣、内側が急斜面の土塁となっており、岡崎城最大の見所といっても過言ではないように思います。

持仏堂曲輪の北側突出部です。外周土塁内側にも、石垣が見えます。

突出部の先端より、二の丸を見ます。

北側の堀では外側(二の丸側)に石垣が見えます。突出部からは二の丸へ広範囲に横矢を掛けられ、門へ迫る敵を狙い撃ちまくりです。

北側突出部のすぐ東側には、門跡の石垣が残っています。太鼓門跡です。

二の丸と持仏堂曲輪をつなぐ太鼓門は、絵図によると外門と内門からなる枡形虎口で、外門を越え左折し、土橋(写真手前)を越えた先に石垣の残る内門があったようです。現在は本丸にある龍城神社の入口となっており、門石垣の前に碑が立っています。

土橋の上から、二の丸と持仏堂曲輪の間の堀を見ます。深い堀は土橋の南側からは大きく東へ曲がり、南へとカーブしていきます。持仏堂曲輪の外側上部(写真2枚目右側)には、石垣が見えます。

太鼓門跡の南側石垣上部には、段差があります。

太鼓門の南側からは、持仏堂曲輪は非常に細長い帯曲輪となって本丸外周に沿ってカーブを描いており、太鼓門を越えて180度ターンさせられた後、帯曲輪上をぐるーっと大きく東へ迂回しないと本丸門へたどり着けない構造となっています。曲輪の外側には、太鼓門から続く石垣が連なり、曲輪の堅固さを印象付けます。

帯曲輪を行く敵は、常に本丸(写真右)から横矢を掛け続けられます。これは厳しい!

帯曲輪外周の石垣には、雁木があります。

南側では石垣が高くなり、雁木もそれに合わせて多く、かつ幅が広くなっています。

外周石垣の南端には何やら碑が立ち、その碑へ上るために後付けされたような石段があります。絵図によると、このあたりに挑燈櫓という隅櫓が建っていたようです。

挑燈櫓台と思われる石垣の南、帯曲輪の南端部にもしっかりと石垣が積まれています。

この細長い坂道を下りた先が、隠居曲輪です。帯曲輪とはかなりの高低差があります。

 

本丸へ向かいます。

隠居曲輪より東を見ると、本丸石垣が見えます。左の低い石垣は本丸南側を取り巻く風呂谷曲輪のもので、右の二段構成となっている高石垣は本丸東端(天守から見ると南東方向)の隅櫓があった辰巳櫓台です。

辰巳櫓台はサイズの揃った石材による完成度の高い石垣で、算木積みの隅部は稜線が直線的に整えられています。櫓台上に平櫓のような建物がありますが、これは巽閣という後世に建てられた施設の一部です。

右が帯曲輪側の、左が本丸側の石垣で、その間が本丸へ通じる土橋の石垣です。いずれも高さがあり、とりわけ本丸石垣は非常に高く積まれています。

もう一度、帯曲輪から清海堀を見ます。うーん、美しい!

写真奥の廊下橋、よく見ると傾斜がついていますね。

清海堀外側の石垣はぐるりとカーブし、本丸御門西側の石垣へ接続します。

本丸御門手前から、ほとんど木々に隠れない天守東面と井戸櫓を撮影できました。今回の訪問における個人的ベストショットと考えています。

でもここからじゃ、初重が見えないんですよね……ぐぬぬ

本丸御門東側には、石材を精密に加工し隙間なく積んだ切込接ぎの石垣があり、石材表面にも仕上げ加工が施されています。切込接ぎが見られるのは、城内でここだけのようです。

 

本丸御門を越えると、本丸です。

絵図では辰巳櫓や三階櫓があったとされる東端部には、現在「巽閣」という御殿に隅櫓が附属したような外観の貸会場が建っています。屋根瓦には、葵の御紋。

巽閣の西、本丸の中央付近にある龍城神社には、家康公と本多忠勝公が祀られているそうです。天守と井戸櫓が良い感じに並んで見えそうな南東方向からは神社に隠れてしまいご覧の通り。ぐぬぬ

天守の前には、いかつい亀に乗った「東照公遺訓碑」があります。左奥に見える碑は、跡継ぎに遺したという「家康公遺言碑」です。

屏風のような碑(?)もあります。暁以前。

こちらは大屋根の両脇に小屋根が付いてなんだか豪勢な説明板です。歴史や入館料の説明もあります。

これら碑などの配置は写真のとおりです……って、屏風型の碑が左の木に隠れてしまっていますね。手前の石列は後世のものに見えますが、絵図によるとここに土塀の基礎があってもおかしくはないのですが……はたして。

そして入口のある南からはさすがに天守がよく見える……と思ったら、大きな木に邪魔されています。井戸櫓に至っては建物(神社関連の施設でしょうか)に隠れてほとんど見えません。これは参りましたね……東西南北全方位において、ここまで思うように撮影できなかった天守は初めてです。

天守台は、算木積みのやや未発達な野面積みで、隅部に反りはなく、直線的に見えます。扇の勾配とは逆方向、内側に反っているようにも感じますが、経年劣化によるものでしょうか。

天守台上部の色が異なるのは、再建時の積み直しによるものでしょうか。

 

天守の中へ入ります。100名城スタンプは、天守内で押しました。

入口には、レトロな記念メダル販売機と、新しそうなガチャがあります。左の再建天守の梁(?)に貫かれた石垣や、メダル販売機後ろの石垣は現存でしょうか。

一階には、用材や潜戸、門扉などが展示されています。

天守礎石も残されています。岡崎城天守には、心柱があったようです。

一階内部より、天守入口を見ます。

本多時代の絵図です。建物などは描かれず、ざっくりしています。

こちらの絵図は曲輪名称や建物が描かれ、当時の様子がより詳しく分かります。

最上階からの眺望、まずは南です。埋門東側のL字石列(写真中央・青い車の左側)はやはり、土塀基礎跡ではないかと思えて仕方ありません。

東です。二重の付櫓である井戸櫓と、その東に続く土塁が見えます。絵図ではここにも建物(多聞櫓?)があったように描かれています。

北です。持仏堂曲輪の形状が確認でき、廊下橋や清海堀の石垣がよく見えます。

 

天守を下り、本丸の南側へ向かいます。

天守の南、本丸南西に位置する虎口が、この本丸埋門跡です。現在はスロープ状の園路が整備されており、本丸の外側とはかなりの高低差があります。

埋門北袖は見事な高石垣で、素晴らしい見所のひとつです。

本丸の南を取り巻く腰曲輪が、風呂谷曲輪です。このあたりでは、石材に表面仕上げが見られます。

風呂谷曲輪を東へ歩くと、隅部の稜線が美しい高石垣が見えてきます。月見櫓台です。

いやー、月見櫓台も素晴らしい! かつては隅部に二重の月見櫓と、その東には二重の脇多聞櫓が連なっていたようです。

月見櫓台の南、龍城堀に架かる神橋です。朱色が美しい橋ですが、電飾でぐるぐる巻きです……。当時は、風呂谷曲輪から龍城堀へ架かる橋は無かったようです。

月見櫓台と神橋の間に、風呂谷曲輪を表すと思われる「風呂谷阯」の碑を見つけました。

風呂谷曲輪には、本丸南東へと通じる石段があります。月見櫓・脇多聞櫓台(写真左端)の右に見える石垣の穴は、排水口でしょうか。

石段右手の低い石垣上には、土塀が建っていたのでしょうか。石段を上った所に、風呂谷門があったようです。

風呂谷門付近から、石段を振り返ります。正面の石垣が月見櫓・脇多聞櫓台で、その右手前にある石垣上には平櫓が建っていたようです。

 

お城の南を流れる乙川(菅生川)の川岸へ向かいます。

舟形の碑の右にある碑には……「御城下舟着場跡」と書いてあるでしょうか。

ここはかつて、舟着き場だったようです。

菅生川端の石垣には、三つの横矢枡形が設けられていたようです。この説明板の位置図によると、三つとも露出しているようですが……?

一つめは……これでしょうか。

二つめは、舟形の碑が乗っている所のようです。ここは四段の隅部が見えており、明瞭ですね。

そして三つめは……これ? うーん、自信がない。

岡崎城では、三種類ある石垣の積み方全てが見られます。割石積みは「打込接ぎ」とも、切石積みは「切込接ぎ」とも言います。

刻印の付いた石もあるんですね。

三つの横矢を伴いつつ400mも直線的に連続する石垣は日本最長級であり、他に類を見ないようです。

ここの石垣は隅石が見えているようなので、菅生曲輪南側の石垣折れ部西端でしょうか。

総構えを含めた城域は全国屈指の広さだったようです。古写真を見ると、再建天守と井戸櫓はおおよその外観は再現できているのかなあという気がします。

川端石垣だけでなく籠崎堤という人口堤防も築かれ、治水機能を担っていたようです。

ここが菅生曲輪南側の石垣折れ部東端でしょうか。

菅生川端石垣と、天守です。石垣上のホテルが建っているあたりが菅生曲輪の南側で、当時は菅生櫓が建っていたようです。

乙川(菅生川)対岸から、天守と川端石垣を見ます。しまった、指が写り込んで……。

ここまで離れてようやく、天守がよく見えるっていう、ね……。

 

天守の撮影は非常に手強かったものの、様々な石垣が良好に残り、大迫力の空堀や曲輪間の高低差など見所多数。発掘調査や整備も進んでいるようで、これからも楽しみな城跡です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで34城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。