お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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77.松前城

松前城に行ってきました。

日本100名城(No.3)に選ばれた、北海道松前郡松前町にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

お城の最寄り、松城バス停の待合所は蔵風の外観です。屋根の下にある「丸に武田菱」は、松前氏の家紋です。

待合所にある文化財一覧表です。松前城は国の史跡に指定されており、本丸御門は重要文化財です。

松前川の河口付近から、天守の頭が見えます。大松前川はお城の東を流れ、天然の堀になっていたと思われます。

バス停の西に松城商店街の大きな看板があり、看板や街灯には武田菱風の意匠が見られます。

商店街には瓦屋根の建物が並び、城下町風に整備されているようです。

城跡は現在、松前公園となっており、さくらまつりが開催中です。公園の南出入口付近には、三ノ丸に通じる「沖之口門」があったようです。

 

沖之口門跡からは入らず、商店街を東へ歩きます。

お城の南東、大松前川の東岸まで来ました。桜が綺麗です。

武家屋敷風の休憩所、ヒストリーオアシスです。このあたりは武家屋敷地だったのでしょうか。

ヒストリーオアシスの北には松前町役場があり、かつては松前奉行所が建っていたようです。

町役場のすぐ北にある、大松前川に架かる馬坂橋です。馬坂の由来が書かれた説明板は透門風の凝った意匠ですが、屋根部分が傷んでいますね……。

城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、馬坂です。橋も坂も、綺麗に整備されています。

馬坂の左には非常に整った石積みによる側溝がありますが、こちらも近年の整備によるものでしょうか。

馬坂の右手、曲がり角付近にあるこちらの石垣は絵図にも記載があり、当時のものではないかと思われます。

積み方は松前城の石垣に共通の、六角形に整形した石材を多用する「切込接・亀甲積み」です。

日本最北にして、最後期の和式城郭。松前城はどうやら「福山城」が正式な呼称のようです。

説明板横の桜が、見事です。

史跡碑も、松前城ではなく、福山城です。

曲がり角を南へ折れて右手の、当時のものと思われる古そうな石垣は、一部に後世の補強と思われる異なる石積みが見られ、また一部では崩落があります。

案内図によると、この先の二ノ丸・三ノ丸南東部は発掘調査に基づく復元・整備が進んでいるエリアのようです。

馬坂門跡の手前に、外堀に架かる石橋があります。

三ノ丸と二ノ丸を南北に区切る外堀は、ここで東へ折れます。

外堀はこの先で東の大松前川に注ぎ、堀の余分な水を排水していたと思われます。

石橋を渡ると、馬坂門跡です。復元と思われる四半敷の敷石と礎石があり、門跡の左右には柵があります。

馬坂門跡の西には、搦手二ノ門が見えます。

搦手二ノ門へ通じる木橋のすぐ南にある番所跡には、城郭及び城下町の復元模型が展示されています。

この模型では、先ほどのヒストリーオアシス辺りは武家屋敷ではなく町屋となっているようですが……さておき、お城のすぐ北側には城郭と同程度の規模で寺社地が広がっていることが分かります。

現在地は赤いポッチ、三ノ丸南東部です。海岸に近い三ノ丸に七つの台場を備えていたのが、外国船の脅威に対抗すべく築城された松前城の大きな特徴です。

番所の南には、鉄砲置場があったようです。

番所の東には、櫓台のような低い石積みと、その上には、屋形。

石段の上に「七番台場」のプレート。これこそが、三ノ丸に七つあった台場のひとつ、最東端の七番台場跡なのです。

屋形の中には大砲ではなく、ベンチ。現在は休憩所となっています。当時の台場は、どのような姿だったのでしょうか。

さらに南へ歩くと、次の台場跡があります。七番の次ということは、六番でしょうか。

ありゃ、ハズレです。五番でした。

五番台場跡の南には、海が見えます。此処からの砲撃は、余裕で迫り来る外国船に届いたことでしょう。

五番台場のあたりで外堀は西へ折れ、一番台場の北まで延びていたはずですが、復元整備はここで途切れています。途切れた堀の南あたりに、四番台場があったようです。

それでは六番は何処にあったのか。どうやら写真左端の土塁が折れる部分に存在したようですが、その痕跡を見つけることはできませんでした。

六番と七番の台場の間には、復元された天神坂門があります。屋根瓦には、丸に武田菱。

四半敷の敷石と礎石の上に、高麗門形式の城門が復元されています。馬坂門も、同様の形式だったのでしょうか。

門脇南側の石垣は、非常に整った切込接・亀甲積みです。

天神坂門を出ると、城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、天神坂です。夫婦桜が覆い被さるように咲いています。

おや、石垣の一部が風化してしまったのでしょうか。松前城の石垣には緑色凝灰岩が使用されているそうですが、風化しやすい特徴があるようです。

再び天神坂門をくぐり、三ノ丸へ入ります。

 

二ノ丸へ向かいます。

木橋の先、搦手二ノ門の手前にあるこの空間も、松前城独特のものではないかと思われます。中央付近に「三本松土居」があり、門まで直進できず、そもそも門が見えにくい。優雅な庭園風の玄関口という見方もあるかもしれませんが、搦手二ノ門内にある枡形と合わせて連続枡形的な防御空間とも捉えられるように思います。

木橋から南を見ます。外堀の途中に堰が設けられ、その南から水堀になっています。

木橋から北を見ます。堀が東へ折れるあたりの石垣に、排水口らしき方形の穴が見えます。

三本松土居です。基部に石垣が積まれ、南北に長い楕円形をしています。直線的に加工された切込接・亀甲積みの石垣を用いながら、楕円形に仕上げているところが、見事です。

三本松土居を、北から見ます。搦手二ノ門周辺の土塀は漆喰が剥がされていたのですが、塗り直しの最中でしょうか。

搦手二ノ門は天神坂門と同様、高麗門形式です。

四半敷の敷石も馬坂門、天神坂門と同じですね。緑色凝灰岩の石垣が、鮮やかなブルーで美しい!

三本松土居エリア、かなり広いスペースがあります。

搦手二ノ門を越えると、二ノ丸です。

搦手二ノ門内側の脇には、石垣へ上るための雁木があります。

標準木左の水路や石積みは、当時のものでしょうか。

こちらの立派な史蹟碑の表記は「松前城」。

天守の東、搦手枡形の西側石垣上には多聞櫓が建っていたようですが、枡形石垣は撤去され、多聞櫓跡付近には現在、多聞櫓風(?)の資料館受付・出入口があります。

復興天守は資料館となっています。

 

受付で入館料を払い、天守内へ入っていきます。

受付付近より、天守東面を見ます。

明治以降、大戦後も残り、国宝に指定されていた天守は、1949年に役場火災の類焼により惜しくも焼失。1961年にRC造にて外観復元天守が復興・再建されたようです。

天守と多聞櫓風建物との間には土塁があります。かつて天守と多聞櫓は土塀でつながり、土塁上には物見櫓が建っていたようです。

多聞櫓風建物より、城内入口へ進みます。

多聞櫓風建物と天守は地下通路でつながっており、こちらの地下通路を抜けると、天守地階に出ます。

窓の外に本丸御門が見えますが……どうしても窓周辺の傷みが気になります。

天守内には様々な展示がありましたが、写真掲載は割愛します。

天守からの眺望です。

出口より、天守の外へ出ます。こちら側は、本丸です。

ブルーの敷石に傷みが見られますが……当時のものでしょうか。

出口より、天守一階を見ます。一階部分は天守台ギリギリに建っておらず、犬走のような余地があります。

天守の北東には、内堀があります。

現在は広場となっている天守北西には、本丸御殿が建っていたようです。

そして天守の西には、類焼を免れた現存本丸御門があります。

天守の西にあり天守から本丸御門まで続く本丸御門東塀は天守とともに国宝指定されていましたが、類焼により天守とともに全焼。現在ある写真の東塀は、復元されたものです。

個人的に好きな見上げアングルの天守。しかし一階・二階の屋根が切れてしまっていますね……。

天守西面を見ます。最上階以外に破風のないシンプルな外観です。

最上階の屋根瓦には「丸に武田菱」があしらわれているように見えます。

天守とすぐ隣の東塀まで全焼したにもかかわらず、奇跡的に焼失しなかった本丸御門です。松前城で唯一、原位置に現存する建造物です。櫓門ですが、内側から見ると屋根が大きくせり出し二階櫓部分が見えず、石垣上に直接屋根が載っているように見えます。

四半敷の敷石は、緑色凝灰岩ではなく花崗岩のようです。

本丸御門の石垣もこれまでと同様に切込接・亀甲積みで石材加工も色合いも非常に美しいのですが、風化のためか基部に傷みがあります。一部、漆喰のようなもので石材の隙間が充填されていますが、風化によって生じた空隙の補修でしょうか。

天守もそうですが、石垣と建物との間には緑色凝灰岩ではない石材が用いられているように見えます。

門扉は両脇戸付きで、メインの大きな門扉は閉ざされ、左右の脇戸は開いています。

脇戸の横には戸が設けられ、一階部分にも部屋があります。東側の部屋に、上階への階段があるようです。

 

本丸御門をくぐり、一旦本丸を出ます。

門扉外側脇の石垣もきわめて丁寧に整形されていますが、一部に劣化・剥落が見られます。

緑色凝灰岩は、しばしば大粒の礫を含んでいます。

横から見ると、屋根の非対称な構造がよく分かります。屋根瓦には、家紋が見られません。

安政元年建立、昭和期に修理が行われている重要文化財・本丸御門。よくぞ今まで残ってくれました。

外側正面から本丸御門を見ます。門扉上部には、石落としが設けられているようです。

本丸御門の南西には、伏見城からの移築と伝わる本丸表御殿の玄関が現存しています。もともとは表御殿なので本丸内にありましたが、現在は場所を変え本丸の外(二ノ丸)にあります。屋根瓦には、家紋は見られません。

松竹梅に鶴亀の彫刻された蟇股が、御殿の優美さ、豪華さを今に伝えます。

玄関だけでも、よくぞ残ってくれました。松前城天守と御殿が同時に見られる、数少ない城郭ということになります。

門と、天守。松と、桜。二ノ丸の本丸御門前エリアは、本丸御門や天守をじっくり見られる絶好の撮影スポットです。

天守を南西から。破風のないシンプルな外観の三層天守ですが、しっかりと天守らしい威容を備えているように思います。

天守を南から、カラフルな記念撮影用の看板とともに。金色の鯱と、ブルーの石垣、ブルーの銅板葺き屋根とのコントラストが素敵です。

天守はどうしても「あおり」で撮影したくなります。

天守は再建ですが、天守台は現存です。石垣の大きな丸い窪みは、箱館戦争時の弾痕だそうです。

お城には、桜が似合います。……が、本丸御門が隠れてしまいました。

やはり、せっかく並んで建っているのだから、セットで撮影したくなります。個人的ベストショットです。

松前氏のルーツは武田氏。だから家紋にも、武田菱が使われているんですね。

天守を南東から……うーん、桜。天守台の隅石、なかなかの巨石です。

天守を東から。天守台東側は、南半分が東へせり出していますが、これは当時東に建っていた土塀などの位置関係によるものでしょうか。

 

多聞櫓風建物から、有料エリアを出ます。

多聞櫓風建物の東、搦手二ノ門の北西に、搦手門跡の立札があります。搦手二ノ門を外門、搦手門(櫓門と思われる)を内門とする枡形虎口を形成していたようですが、絵図を見ると北側にある搦手門の反対側、枡形の南側にも門が設けられ、枡形から北にも南にも通じていたようです。立札の手前に並ぶ石列は、枡形西側石垣(多聞櫓台?)の名残でしょうか。

搦手門を越えると、東郭です。

東郭にある隅櫓跡です。馬坂を駆け上がってくる敵を狙える位置にあります。櫓基礎部分は平面復元されていると思われ、新しい感じです。

隅櫓の南に接続する復元土塀は櫓に接続する手前で城内側へせり出すように屈曲し、絵図でもそのように描かれています。

東郭と本丸との間には、内堀が南北に延びています。

内堀の南寄りには橋(木橋と思われる)が架かっていたようですが、現在は失われています。

現在は内堀を北から回り込めば東郭と本丸を自由に往来できますが、当時は内堀のすぐ北に板蔵が、その東には東郭と北郭を区画する石垣が連なり、東郭から本丸へ入るには内堀に架かる橋を渡るしかなかったようです。

内堀の北西には東西方向に石垣が延びていますが、東郭と北郭を区画していた石垣の一部でしょうか。

内堀北端より、天守を見ます。この辺りでは、天守とお堀を一緒に見られるのが良いですね。

 

内堀を北から回り込み、再び本丸へ入ります。

「公立松城尋常高等小学校」の門柱があります。松城小学校の前身でしょうか。

門柱付近に、東郭から内堀を渡り本丸へ通じる「堀上ヶ門」があったようですが、門礎石など当時のものが流用されている可能性は、あるのでしょうか。

堀上ヶ門が門柱付近にあったとすると、内堀の橋もこのあたりに架かっていたのでしょうか。

天守を北から見ます。

天守を北西より。

本丸御殿跡の広場では、松前神楽が上演されていました。

舞台の後方、広場の北入口に、本丸表御殿跡の立札を発見。

本丸御殿跡の北には現在、松前神社が建っています。当時は御殿のすぐ北に「大土手」と呼ばれる巨大な土塁が東西に延び、その北エリア(現在の神社境内)には大きな池と、鷹部屋や馬見所などの施設があったようです。この写真には写っていませんが、鳥居の東には大土手の東端部と思われる大きな土塁が一部残っています。

ところで、鳥居をよく見ると「天保二年(1831年)」とあります。松前城の竣工(1854年)より古く、そもそも松前神社の創建は明治期らしいので、この鳥居はもともと別の神社にあったものでしょうか。

 

本丸を出ます。

松前神社の西から北へ歩くと「北海道遺産 福山城と寺町」の看板があります。お城の北側には寺町が形成され、現在も五つの寺があります。写真の石垣は、松前神社が建つ本丸北側エリアを囲う西側石垣です。

多くの建物が江戸期から現存する、重要文化財の龍雲院です。

龍雲院の南側道沿いには石垣が築かれています。石柱には「文久二年(1862年)」とあります。

こちらの山門も重要文化財の、法源寺です。

法源寺にも整った切込接・亀甲積みの石垣があります。法源寺の西を北へ行けば松前家の墓所があるようですが、未訪です。

本丸北エリアを囲う石垣です。立札に道の半分は堀だったとありますが、絵図によると石垣に沿って外堀が続いていたようで、現在は埋められています。

本丸北エリアの北側石垣に沿って東へ歩くと、外堀跡の立札があります。

外堀跡の立札から道を挟んだ東には、寺町門跡の立札。門跡の奥から左方向(南)へ延び城内へ通じる道は当時存在せず、立札付近から右方向(北)へ西向きに建つ寺町門が寺町方面から城内への唯一の出入口だったようです。

お城の鬼門に位置する、阿吽寺です。

写真右に「城門 堀上門」とあります。阿吽寺の山門は、堀上門を移築したとされています。この堀上門とは、パンフレットでは「堀上ヶ門」とされている東郭から本丸へ通じる門のことなのか、詳細は不明です。

堀上門とされる阿吽寺の山門は、門扉は失われていますが大きく立派な門です。屋根には、丸に武田菱の紋が見えます。

阿吽寺のすぐ南に石垣隅部が見えていますが、ここがお城の鬼門(北東隅)、北郭の外周石垣でしょうか。

鬼門から南西へ歩くと、北郭と本丸北エリアとを区画すると思われる石垣があります。隅部がゆるくカーブしている形状も、絵図で描かれているとおりです。

北郭を南へ歩きます。石垣の一部に、崩落が見られます。

 

本丸方面へ戻ります。

本丸御殿跡の北まで戻ってきました。何やら立派な石の台座に飾られた説明板があります。背後に見えるのは、大土手の東端部と思われる大きな土塁です。

説明板の絵図には建物名や御殿の部屋名称まで詳細に書かれており、とても参考になります。今いるのは大土手東端付近の南、御金蔵の北あたりと思われます。

松前神社の西側には池がありますが、大土手の北にあった「御池」の名残でしょうか。

お城の西側には、堀廻水路が木道で表現されているようですが、当時のまま水路を復元することは出来なかったのでしょうか……。

イベント会場を避け、本丸の西側へ来ました。

本丸御門のすぐ北あたりに、石碑があります。

本丸表御殿玄関の碑です。絵図では確かに玄関はこの辺りにあり、松前小学校時代にもきっと、此処に在り続けたのでしょう。

本丸御門の西から延びる石垣はここで途切れており、このあたりに桜門があったようです。

本丸の南西には耳塚や闇の夜の井戸があります。桜門跡より西側の石垣は失われており、本丸と二ノ丸(本丸西帯曲輪?)との境界は不明瞭になっています。

 

本丸を出て、二ノ丸~三ノ丸を散策します。

本丸から桜門跡の南(二ノ丸)に移設された、表御殿玄関です。

玄関の裏側は、板で塞がれています。

二ノ丸の南側は二段構成となっており、二ノ丸下段とでも呼ぶべき低いエリアに下りてきました。絵図では、下段エリアへの階段はもう少し西にあったように見え、このあたりは後世の改変があるように思います。

絵図では北側中央付近(写真右手やや奥か)に上段からの階段が設けられている二ノ丸下段南西隅です。土蔵があったようです。

二ノ丸下段南西隅のすぐ東は、追手門枡形虎口です。下段南西隅の土蔵エリアとは埋門でつながっていたように絵図では描かれており、このあたり(写真中央)の石垣に埋門が設けられていたのかもしれません。

先ほどの階段から南を見ます。道の先、車止めのあたりから左右(東西方向)に外堀があったようです。

二ノ丸下段南西隅を囲う石垣です。外側の低い石垣は後世のものだと思うのですが、内側の石垣も絵図とは東面などが異なり、こちらも何らかの改変があるように思えます。南面石垣のすぐ南(写真手前左右方向)に外堀があったようです。

外堀跡に沿って西へ歩いてきました。二ノ丸下段南西隅エリアの南西隅石垣が、写真右端です。中央奥の高まり、二ノ丸上段南西隅には、隅櫓が建っていたようです。左の堀廻水路跡に沿って、散策路が整備されています。

さらに西へ歩くと、下り坂と、両脇に石垣があります。ここが城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、湯殿澤坂で、坂の上あたりに湯殿澤門があったようです。

湯殿澤坂の北側石垣は非常に美しく、表面仕上げの様子もよく分かります。

湯殿澤門跡から南へ歩き、三ノ丸南西の南側土塁上から東を見ます。この付近には一番台場が撮影場所周辺(西側)に、二番台場が写真奥(東側)にあったようです。

最初に訪れた沖之口門跡付近の、城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、沖之口坂に来ました。このあたりもかなり改変があるようで、当時の縄張りが分かりづらくなっています。写真左に見える石垣は当時のもの(沖之口門の西側石垣?)でしょうか。

道の東側に残る石垣、訪問時は三番台場の名残かと思いましたが、絵図と比較すると沖之口門の北にあった馬出門の石垣ではないかと、思い直しています。

三番台場跡の北側に積まれた石材は公園整備のために準備されたものか、あるいはお城に使われていたものなのか……。

追手門枡形虎口へ通じる石段、これは当時のもので、この上あたりに追手二ノ門が建っていたのでは……と妄想します。

追手門枡形虎口の内部です。

追手門跡から、東へ歩きます。

城内に三つあった二重櫓のひとつ、太鼓櫓です。櫓基礎部分は新しく、平面復元されていると思われます。

櫓台の外側にも、低い石積みがあります。

太鼓櫓跡の南東に、五番台場跡が見えます。海の向こうに見える陸地は、津軽半島でしょうか。

太鼓櫓台から北東、馬坂方向を見ます。太鼓櫓台から北へ延びる土塀も、漆喰が剥がされている状態です。

土塀の内側は板張りとなっており、控柱が支えています。太鼓櫓台の外側にある低い石積みは、土塀の内側を北へ続いています。

低い石積みに沿って北へ歩くと、栗石が露出した石垣があります。搦手枡形から南側の門を越えるとそれより南を見通せないように石垣の壁が設けられていたようで、その石垣を園路を遮らないよう途中まで復元したものと思われます。

栗石露出石垣の北にある、少し張り出した石垣です。ここに搦手枡形から南へ通じる門があったと思われます。

それにしても……ごく最近積んだ復元石垣もこのように風化してしまっては、今後の整備に不安を感じてしまいますね。

桜にまみれる天守に、別れを告げます。

つづら折れの天神坂を下り、城跡を後にします。

 

北海道唯一の和式城郭・松前城。現存本丸御門や再建天守、整備された南東エリアなどは非常に見応えがありますが、非整備エリアとの落差が激しく、今後の整備に期待したいところです。個人的にはあちこち行ったり来たりで無駄が多かった割に予習不足で見落としも多く、縄張りをしっかり把握した上で三ノ丸・二ノ丸など曲輪ごとに回れば良かったなあと反省しています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで42城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。