竹田城に行ってきました。
日本100名城(No.56)に選ばれた、兵庫県朝来市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
竹田駅のホームに立つ「ようこそ竹田城跡へ」という看板。雲海に包まれた幻想的な遠景写真を見ると「日本のマチュピチュ」という比喩にも頷けます。行ったことないけど、マチュピチュ。
瓦葺の駅舎は町家風の外観で、竹田「驛」の看板が素敵です。背後の山が竹田城で、山頂付近に石垣がわずかに見えているような……。
100名城スタンプは、駅のほか数箇所に設置されています。
駅舎内の「わだやま観光案内所」には、最後の城主・赤松広秀公時代の廃城直前の様子を再現した模型が展示されています。
本丸を中心とする三枚羽根プロペラのような縄張りの竹田城。今は全て失われた天守や櫓、門、塀が石垣上を埋め尽くす様は、壮観です。
建物意匠にどの程度の歴史的考証・裏付けがあるのか不明ですが、二層天守の形状は備中松山城に似ています。
模型では「プロペラ先端部(北千畳・南千畳・花屋敷)」全てに御殿らしき建物があり、本丸にも御殿があります。
駅の南にある「情報館 天空の城」ではお城に関する展示やムービー上映があります。
城跡の精密な1/300鳥瞰模型や原寸大の石垣ジオラマ、出土瓦など興味深い展示があったのですが……撮影禁止だったのか、館内の写真がありません。
竹田城廃城後は宿場町として栄えたという竹田の町。駅前道路・但馬街道沿いには今も町家が軒を連ね、風情があります。
まだお城ビギナーだった前回訪問時は駅裏登山道から徒歩で登りヘロヘロになりましたが、今回は「天空バス」で登城します。
竹田城跡停留所です。ここからは舗装された道路を歩いて、料金所まで行けます。
お城へ向かいます。
道がお城のある古城山(虎臥山)に差し掛かってすぐ、竪堀のような凹みが見えました。竹田城がまだ土の城だった、太田垣氏が城主の頃の遺構でしょうか。
さらに歩いた所でも竪堀……か?
「落ちない岩」です。石垣遺構周辺では、多くの石取場が確認されているそうです。
落ちない岩から道を挟んで山側、岩盤の隙間を埋めるように積まれた石垣は、近年のものでしょうか。
縄張図の描かれた説明板の左には、石垣にちょうどよさげな石材がゴロゴロ。
右にはもっと大量にゴロゴロ。説明板の背後には主郭部の石垣がそびえているのですが、其処からの転石か、あるいは石垣とは無関係の単なる落石でしょうか。
バス停から15分ほど歩いて料金所に到着。楽ちんです。
祝・令和元年。雲海に浮かぶ写真は、駅のホームで見たものと同一でしょうか。
史「蹟」竹田城「阯」兵庫「縣」。使われる文字に碑の古さを感じます。
観覧料を払い、碑の前を過ぎ、階段を上ります。
階段を折り返すと、眼前に石垣が! ドーパミン的なやつがドバドバ出る瞬間です。
大手口より、城内へ入っていきます。
登城道の右手にまず見えるのが、大手口の東側にある、出隅が連続する石垣です。見上げると入隅部分がV字で、超カッコいい!
V字石垣は南から見ても出隅の連続がカッコいいですね。大手口を守るように築かれたこの石垣上には「見附櫓」があったようです。
見附櫓台から延びる石垣は、大手門へ続く石段のものです。
石垣が鈍角に折れる「シノギ積み」の部分では、石が一部砕けてしまっています。
大手口向かって左には石垣の壁があり、右折を強いられます。背後には三の丸石垣が見えます。
大手口です。左の石垣上と右の見附櫓から挟撃が可能という、堅固な虎口です。
この先の見学路には、遺構保護のため不織布が敷かれています。
石段を上ったところに、大手門があったようです。
大手門跡より、来た道を振り返ります。
大手門を越えた正面には石垣の壁。今度は左折せざるを得ません。
厳重な枡形虎口である大手口。高低差もあり、攻めにくくなっています。
大手門を越え左折し石段を上ると、今度は左手と正面に櫓台らしき石垣が待ち構えています。
三の丸北東に位置し、大手口と三の丸枡形虎口の両方を守る櫓台。右下の巨大な隅石が非常にインパクトあります。
こちらは大手口の石段正面にある櫓台。三の丸枡形虎口の右手側に位置します。二つの櫓台が両方の虎口を守るというのは虎口が連続する竹田城ならではの効率的かつ計算された縄張りだと感心しました。
左側の隅石には右の方に矢穴が見えますが、矢穴の箇所で割るのを断念してそのまま使っています。時折見かけるこのような石に、「残念石」ならぬ「断念石」という呼称を思いついたのですがいかがでしょうか駄目ですかそうですか。
石段を上ると、北千畳です。
千畳敷と呼ばれる広大な削平地を持つ城郭はいくつか存在しますが、竹田城にはそれが北と南にひとつずつあります。北千畳には御殿があったと考えられているようです。
北千畳より、見附櫓台を見ます。左奥に見える山は朝来山で、運が良ければ雲海に浮かぶ竹田城を見られる「立雲峡」があることで知られています。
見附櫓台から柵に沿って歩くと、北へ張り出した櫓台のような横矢部分があります。
横矢部分の南側には、井戸跡にも思える凹みが。
横矢部分からは、北千畳の外周石垣が確認できます。
北千畳の北端から見えるアーチ橋は「虎臥城大橋」です。虎臥城とは、竹田城の別名です。
北千畳の北端付近から南西を見ます。左手前に三の丸北端の櫓台らしき石垣が、右奥には本丸石垣や天守台が見えます。
三の丸北端櫓台の下に落ちている石は、崩落した石垣の一部でしょうか。
櫓台から続く三の丸石垣には鏡石のような巨石が見えますが、隅石にも惜しみなく巨石を用いている箇所が竹田城には多く見られます。隅部は算木積みにより、強度を増しています。
一見、無秩序で荒々しく見えますが、計算され整った面を構築している野面積み石垣。竹田城の石垣は、近江の穴太衆が持つ技法「穴太積み」により築かれているそうです。
三の丸へ向かいます。
大手口に隣接している三の丸枡形虎口。大手口の左手と正面を守る櫓台が、今度は左右から三の丸への進入を阻みます。正面には石垣があり、右折を余儀なくされます。
右折した先には急勾配の石段。両脇には石垣が迫り、挟み撃ち状態は続いています。石段の左半分は観光のためか、角材を敷いて段差を軽減してくれています。
振り返れば石垣。ここは枡形虎口の内部、両脇だけでなく背後から、そして正面からも攻撃は飛んできます。枡形虎口とは、道を折り曲げ敵の勢いを削ぎ、四方から一斉に攻撃を仕掛けるキルゾーンなのです。
右手の石垣は巨石・巨石・また巨石。迫力あります。
石段上から、三の丸虎口を振り返ります。大手口と同様に、高低差を備えた見事な枡形虎口です。
北を向くと、三の丸北端櫓台と、奥には北千畳の石垣も少し見えます。
枡形虎口を越え、三の丸に入りました。
枡形虎口の南西には、西側へ開くもうひとつの虎口があります。規模は小さく、裏口・通用口という印象を受けます。何処へ通じているのか気になりますが、立入禁止です。
三の丸より、枡形虎口を見ます。見下ろした方が、虎口形状が把握しやすいです。
三の丸枡形虎口を出てすぐに、大手口があります。
三の丸からは大手口もよく見え、大手口の守備に三の丸が重要な役割を果たしていたことが想像できます。
南西方向を見ると二の丸石垣や、奥には南二の丸・南千畳の石垣も見えます。三の丸から二の丸の東側石垣基部には遺構保護のためか、黒いブロックのようなものが敷き詰められています。
三の丸南西は石垣で区切られ、右側へ行かないと先へ進めません。
ここの隅石は、方形の整った石材がチョイスされています。
三の丸西側の石垣基部には、東側のようなブロックは見当たりません。
石垣の右側を進むと、今度は正面に石垣が現れ、直進を妨げます。食い違い虎口となっているこれら石垣の間にはかつて門があり、「武ノ門」と呼ばれています。
武ノ門北側の石垣北西角です。方形の石材を細かく積んだ北東角と異なり、巨石を縦に使っているので石が四つくらいで事足りています。これは豪快。
かと思えば、南西角は石を平たく積んでいます。ワンパターンではない石積みは、見ていて飽きません。
武ノ門南側の石垣にも、巨石を縦に用いた箇所があります。
外側から見る、武ノ門跡です。
武ノ門北側石垣には、内側に石段が設けられています。立入は、禁止。
武ノ門南側石垣の内側にも、石段が。
内側から見る、武ノ門跡です。門の内外で、高低差があります。
武ノ門跡内側からは城下町が一望! 素晴らしい眺めです。
武ノ門跡を越えると、二の丸石垣が見えてきます。
二の丸北西角にも巨石。隅石の縦積み巨石も、通り道の目立つ所に配置されているように思えます。「隅鏡石」とでも呼ぶべきでしょうか。
振り返ると、石段が設けられた武ノ門南側石垣と、奥には三の丸北端櫓台と北千畳が見えます。
ここでルートが分岐します。直進すれば本丸を囲む帯曲輪「平殿」へ、左の階段を上れば二の丸へ行けます……が、見学順路は固定されており、先に二の丸へ行くしかありません。
というわけで、二の丸へ入っていきます。
不織布で覆われた、二の丸への階段です。三の丸から二の丸に通じるこの出入口はあまりにもシンプルで、防御機構らしきものも見当たりません。本丸の手前、二の丸の虎口がこれで良いのでしょうか。先ほどの武ノ門より奥が二の丸だと言われた方が、しっくりくるのですが……。
低い石垣にも、考え抜かれた石材のチョイスにより美しいラインが見られます。
階段を上ると、左に二の丸を示す標柱が。
北側を見ると、左に武ノ門跡が、右奥には大手口が見えます。
二の丸には、記念撮影用に某SNS風の枠が置いてあります。
二の丸から南側は本丸から南二の丸、南千畳、麓の街並みまで一望でき、まさに絶景! 記念撮影枠があるのも納得です。
前面の平殿から立ち上がる本丸石垣の中央に、ひときわ高くそびえる天守台。天空の城にかつて建っていた天守は、麓からもよく見えたのでしょうか。
平殿石垣の基部には、ライトアップ用の照明が並んでいます。
天守台の東側には、二の丸と平殿を区切るL字型の低い石垣があります。
L字石垣と天守台との間には、仕切門があったのでしょうか。
右手前の巨石をふんだんに用いた豪快な本丸石垣と、左奥の比較的大きさの揃った石材を美しく積み重ねた繊細な天守台が、対照的に見えます。
本丸へ向かいます。
遺構保護のためか、本丸への長い坂道には木の階段が設けられています。階段の下にあったのは石段か、あるいはスロープか。
坂道を上る間ずっと、巨石をふんだんに用いた天守台の東に張出す本丸石垣からロックオン状態です。
本丸東石垣にも、割れ目以外に矢穴の残る「断念石」が見られます。
振り返ると、二の丸・三の丸・北千畳が一望できますが、石垣の多くは木に隠れています。
坂道は左へ折れ、天守台が見えてきました。この先で道は右折します。
坂の右手には、櫓台のように石垣が張り出しています。この左側に、本丸への門が建っていたのでしょうか。
長い坂を上り、左折・右折し、門跡(?)を越え、ようやく本丸にたどり着きました。
天守台の北側には、それなりのスペースがあります。ここに本丸御殿が建っていたのでしょうか。
本丸には、先ほど上ってきた坂の他に、天守台の西側にもうひとつ虎口があります。この階段、写真では隠れて見えませんが、下りていくと左側の石垣を回り込んで幅が広くなる変わった構造をしています。攻め手からすると、途中で幅が狭くなり大勢で上りづらくなっている、というわけですね。
本丸南虎口付近より、南二の丸・南千畳を望みます。南虎口を下りると平殿で、東へ進むと二の丸へ、西へ進むと南二の丸へ通じています。
平殿から立ち上がる天守台。10mを超える高石垣だそうです。
本丸から見る天守台もそこそこの高さがあり、階段が無いと上るのは難しいでしょう。しかし天守台のどの面にも石段等は設けられていません。当時は付櫓などの天守に附随する建物から天守内へ入ったのでしょうか。
現在は見学用に階段が設けられており、天守台に上ることができます。
天守台に上り、眺望を楽しみます。
振り返って北側、本丸を見ます。
南側、城下を見渡します。時の殿様は、ここより高い天守最上階から城下を眺めたのでしょうか。
東側、二の丸(右奥)を見ます。左奥には三の丸・北千畳が、左手前には本丸の東張出し部が見えます。
南西側、南二の丸・南千畳を見ます。様々な石垣が見えますが、とりわけ複雑な折れを持ち石段まで備えた低い石垣が写真右、本丸南虎口を下りた平殿にあります。左には石段付きの扇形、中央には三角形、右に方形と、三つのパーツがつながったように見えます。その向かいにある本丸石垣からは、長方形の低い石垣が延びています。
本丸南虎口と、その下にある複雑な折れの石垣です。本丸石垣から延びる低い石垣と複雑折れ石垣との間には、仕切門があったのでしょうか。
天守台を下ります。
本丸東虎口の北にある櫓台、鋭角なラインが素敵です。
本丸を出ます。
二の丸出入口まで引き返し、階段を下りました。順路に従い、平殿へ向かいます。
階段近くの二の丸石垣には矢穴がたくさん見られます。ここにも「断念石」!
順路の右手に、平殿の北側石垣が見えます。道はこのあたりから右へカーブします。
本丸への長い坂道の側面石垣です。
振り返ると、道が折れている様子が分かります。二の丸、三の丸の高低差も視認できます。
本丸東虎口の北にある櫓台は崩落のおそれがあるのか、ネットで覆われています。
平殿から見える虎口階段は、花屋敷へ通じています。主要な曲輪のうち訪問時に唯一立入禁止となっていたのがここ、本丸の北西に位置する花屋敷です。
花屋敷の特徴がこの、北辺に設けられた石塁です。鉄砲狭間を有する石塁は他に類例が少なく珍しいものだとか。
平殿から花屋敷へ通じる虎口は石垣が折り曲げられ、枡形状になっています。道はこの先でさらに左折・右折するつづら折れになっているようです。
花屋敷への虎口付近には業務用モノレール?が設置されています。花屋敷の南辺にも、
北辺と同様に石塁が築かれています。
本丸石垣の西面にはネットがなく、石垣をよく観察できます。上方の隅石に、矢穴が見えます。
本丸西面石垣に寄りかかる、平殿の標柱。平殿は、二の丸を下りてから歩いた本丸の東~北~西にかけてのエリアと、先ほど天守台から見た本丸南側エリアが該当し、本丸外周をぐるりと囲む帯曲輪の役割を果たしています。
平殿の西辺には、櫓台のような張出部があります。櫓台の向こうは、南二の丸と平殿をつなぐ虎口です。
この道を直進すれば平殿の南辺から天守台そばの本丸南虎口へ到達できますが、残念ながら立入禁止。順路は、右へ折れます。
右折すると、不織布で覆われた階段があり、階段の下で道は左折しています。ここが南二の丸と平殿をつなぐ虎口で、枡形状になっています。階段の上あたりに、門があったのでしょうか。
階段の正面付近には横矢のある本丸石垣がそびえ、南二の丸から攻め込む敵に備えています。
虎口の北、AEDの背後には、先ほど見た平殿西辺の櫓台があり、虎口へ迫る敵を迎撃。櫓台と本丸石垣で挟撃できる構造となっています。
虎口を出ると、南二の丸です。
天守台から見た複雑な折れを持つ低い石垣も、こちらから見ると複雑さを感じられません。当時はこの上に狭間付きの塀などが建ち、南二の丸の敵を狙い撃てる備えだったのでしょうか。
複雑な折れの石垣から北方へ延びる、平殿の南西辺石垣です。ここにも狭間付き塀が連なっていたのでしょうか。
複雑な折れの石垣は、南から見ると平殿南辺石垣と一体化しており、けっこうな高さがあります。
平殿南辺石垣から道を挟んで南には、独立した櫓台のような石垣があり、石段を備えています。
石段の西側には、城外側から石段を隠すように石垣が築かれています。
櫓台と平殿南辺石垣との隙間はわずかで、ほかに道はなく、敵は両側から猛攻を受けながらこの隙間をかいくぐり、奥に見えるAED右の虎口を目指さないといけません。
平殿南辺石垣の東には、二の丸まで連なる石垣が見えます。
平殿南辺石垣の南にある櫓台の南には、またもや石段を備えた独立櫓台があります。
北側櫓台と南側櫓台との隙間もごくわずかです。南二の丸へ入り平殿を目指す敵は、櫓台や平殿石垣の間を右へ左へ曲がりながら両側からの猛攻に晒されながら進まないといけません。なんというキルゾーン。
ここで振り返ると、本丸石垣も見えます。
どんな形だったのか、何階建てなのかも分からない天守の幻を、天守台の上に思い浮かべます。
北側櫓台には、隅石にもそれ以外にも多くの巨石が用いられています。城外側は見事な算木積み。
南側櫓台も、巨石マシマシです。
傷みが目立つ南二の丸の標柱です。道が狭くキルゾーンな北側とは対照的に、南二の丸の南側にはオープンな雰囲気の広大な平場があります。
平場の南東端には櫓台のような方形の張出部があります。右奥の一段下がった平場は、南千畳です。
南東端張出部から道を挟んで東には、櫓台があります。この張出部と櫓台の間が、南二の丸と南千畳をつなぐ虎口です。右奥には、南千畳の横矢石垣が見えています。
駅の模型では、虎口に櫓門が建っていました。櫓台の北には石垣が連なり、道幅を狭くしています。
平場の東には、虎口北側の道へ通じる狭い階段があります。通用口のような印象を受けますが……。
石垣の張出部を挟んですぐ北には幅の広い階段があり、こちらが正規の通路と思われるのですが……それだと南千畳から虎口を突破してきた敵は先に通用口へ到達してしまいます。ちょっと解せない構造ですね。
狭い階段付近から本丸・二の丸を見ます。天守台が目立ちます。
狭い階段は立入禁止のため、幅広階段から下ります。階段のすぐ脇には櫓台があり、やすやすと侵入を許してはくれません。
櫓台の東からは、石垣が折り重なる素晴らしい光景!
四百年以上の時を経てなお、威容を今に伝える天守台です。
周囲の山々と一緒に撮ると、マチュピチュ感が出ます。
階段下の通路から、南二の丸の平場へ通じる狭い階段を見ます。階段の奥に、南二の丸の標柱が見えます。
ここから虎口までは、坂道になっています。
虎口東側の櫓台です。櫓台の北に続く石垣は通路側にせり出しています。
虎口西側石垣の前には傾いた「正門」という標柱。はて、こちらが正門なら北千畳が裏手ということでしょうか……いやでもあちらが「大手口」だし……ううむ。標柱そばの石は門礎石のようにも見えますが、単に石垣の崩落石材かもしれません。
外側から、正門跡を見ます。櫓門跡と思われる立派な石垣と、それに続く直線的な通路……確かに正門感はありますね。
写真奥には天守台西側の途中から幅が狭くなる階段が写っていますが……ちょっと分かりづらいでしょうか。
正門跡を出ると、南千畳です。
正門跡西側石垣には、隅石や南面中央に巨石が配置されています。
正門跡西側石垣の西、南二の丸南辺石垣の前に、標柱が見えます。
立入禁止エリアのためカメラをズームしてみると「搦手口」と書いてあるようです。
南千畳の北側にある句碑をよく見ると「夏草や兵どもが夢の跡」という松尾芭蕉の有名な句が刻まれており、もしやあの句はここで詠まれたのか?と気になって調べたら、竹田城ではなく奥州・平泉で詠まれた句でした。
句碑の南に「南千畳」の標柱が立っています。
南千畳の南端付近より、城下を眺めます。
北千畳に匹敵する広大な平場を持つ南千畳。かつては御殿が建ち、その御殿からは本丸周辺の櫓や天守が見えていたのでしょうか。
ここにはどんな建物が有ったのか。どのような姿のお城だったのか。あれこれ想像してみても、石垣は何も語らず、ただ其処に在り続けます。
南千畳の東にある虎口を抱きかかえるように、横矢石垣が南へせり出し、西へ折れています。
虎口の東側は、横矢石垣によってがっちりガードされています。
対して、虎口の西側には石垣が見られません。岩盤が露出しているので石垣は不要だったのでしょうか。それにしてもこれだけ全周を石垣で固めておいて、こんなごく一部分だけ石垣を省略するなんで、不思議に思います。
石垣が見られないのは本当に虎口の周辺だけで、南千畳の南辺にはしっかりと石垣が積まれています。うーん、不思議。
南千畳を出て、料金所まで戻ります。
駅裏登山道を下ります。
登山道には石段が築かれ、休憩所もあります。料金所から200m。
この石段は当時のものかもしれない、とか。
この石垣はお城の関連遺構かもしれない、とか。そんなことばかり考えながら、下りていきます。
獣除け柵に開かれた門扉。夜間は閉まっていると思われます。
柵の外にも内にも、石垣。
「これはさすがに関係ないか……」「いやいやこれは怪しいんじゃないか……」などとブツブツ言いながら歩く本人が一番怪しいっていう、ね。とりあえず石垣を見ると反射的に撮影してしまうんですよね……。
そんな石垣の中でもこれはとても雰囲気があり、麓の居館跡に関係する石垣だといいなあ、なんて思いました。
そんなこんなで、20分ほどで登山口に到着しました。右奥に見えるのが、前回登城時にスポーツドリンクを買った自販機です。
登山口の隣にある法樹寺は赤松広秀公の居館跡で、境内には供養塔があるそうです。
麓からも石垣が見えていることを、確認できました。
「城郭」としての性質に注目しながら見て回った二度目の竹田城。中世山城としての竪堀遺構を確認できたり、巧妙に配置された虎口や櫓台による堅固な防御システムを体感できたのは大きな収穫です。巨石を豪快に用いながらも繊細で緻密な技術により積まれた石垣は独自色が強く、個性を感じました。
日本100名城スタンプラリー、こちらで49城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。