お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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84.金沢城(その1)

金沢城に行ってきました。

日本100名城(No.35)に選ばれた、石川県金沢市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

百万石まつりの開催を控えた金沢。駅前には陣中風の撮影スポット?が設けられています。陣幕には金沢城主・前田氏の家紋「加賀梅鉢」や前田利家公の甲冑がデザインされています。

鼓門が印象的な金沢駅から、お城目指していざ、出陣!

 

まずは、城下の遺構を見て回ります。

金沢城にはなんと、城下町を守る惣構が二重に造られており、その遺構のいくつかは、今も見ることができるようです。

西外惣構の北西に設けられていた升形遺構です。発掘調査に基づき、土居と堀の一部、及び堀の石垣が復元されています。

復元された土居の高さは5.3m。車や周囲の建物と比較すると、その規模が分かります。

升形の土居はもう少し道路側(南)へ延びていたようですが、道路があるため途中でカットされています。

堀は段階的に狭められ、江戸末期には当初の半分以下となっていたそうです。

升形はほかにもあったのに、ここだけが地名になっているというのは面白いですね。

手前の柵あたりに門が設けられ、右折して城下へ入るようになっていたんですね。

升形遺構から道路を挟んで南にある水路は、惣構の堀跡と考えられます。石垣は、いつの時代のものでしょうか。

西外惣構の堀跡をたどりながら、南下します。

西外惣構の外側には、加賀八家のひとつ「長家」の屋敷跡があります。

屋敷跡の南側では鞍月用水が西外惣堀に合流しており、水路に沿って石垣が見えます。

西外惣堀は東へ大きく蛇行し、このあたりで金谷出丸に近付きます。

 

金谷出丸へ向かいます。

金谷出丸の西側にはかつて西内惣構の堀があり、道路となっている堀跡と出丸との間に明確な高低差が見られます。玉垣が建つ美しい切石積みの石垣は、お城の遺構でしょうか。

金谷出丸には明治期に、尾山神社が建てられています。

和・漢・洋折衷の神門は神社の門らしからぬインパクトがあり、デザインにばかり目を奪われがちですが、梅鉢紋があしらわれている点にも注目です。

見事な彫刻は、金谷御殿の欄間を模したものかもしれない……などと妄想が捗ります。

尾山神社は西側の神門が正面と思われますが、金谷出丸の正面は北側で、七十間長屋門が設けられていたそうです。また当時は、東の玉泉院丸とは鼠多門橋で、南の「堂形」と呼ばれるエリアとは金谷門前の土橋でつながっていました。

金谷御殿の庭園には辰巳用水から分岐して引水していたそうで、石の導水管が展示されています。

神苑」は、江戸末期に作庭された金谷御殿の庭園です。

神苑の前に建つ前田利家公像は赤母衣衆時代をイメージしたものでしょうか、母衣を背負い十文字の槍を高々と掲げる騎馬姿が凛々しいですね。

二ノ丸の唐門を移築した東神門です。瓦や懸魚に梅鉢紋が見えます。

門の表側には、見事な彫刻!

幾度も火災に遭った金沢城において、彫られた二匹の龍が水を呼び、この唐門は焼失を免れたと伝わるそうです。ありがたや。

 

東神門より、金谷出丸を出ます。

金谷出丸の東にある玉泉院丸では、明治期に失われた鼠多門橋及び鼠多門が復元整備中です。

鼠多門橋・鼠多門は古写真が残されており、鼠多門は櫓部分が二階建ての巨大な櫓門だったことが分かります。鼠多門背後の二ノ丸御殿、建物の密度がすごい!

巨大な素屋根に覆われた鼠多門。工事はどこまで進んでいるのでしょうか。

金谷出丸側でも、鼠多門橋の基礎工事が行われているようです。

道路と化した堀跡に再び橋を架ける工事は大変そうですね。

玉泉院丸の北西に位置する、鼠多門続櫓台石垣です。「鶴目積」と呼ばれる石垣は比較的サイズのそろった丸みのある石が多用され、隅部は切石による隙間のない算木積みとなっています。

解体・積み直しが行われたという玉泉院丸南西石垣は、隅部が鈍角になっています。

玉泉院丸南西石垣の前には説明板が四つも集中しています。先ほど紹介した「明治初めの鼠多門・鼠多門橋」の説明板もここにあったのは、工事に伴い一時的に移動されたのでしょうか。

金沢城には日本三名園のひとつ、加賀藩の広大な大名庭園である兼六園が隣接しています。今いる場所はお城の西側に位置する玉泉院丸の西です。

築かれた時代や用途の違いにより多種多様な石垣が見られる「石垣の博物館」金沢城。その見学ルートがいくつか紹介されています。

鈍角出隅の南西部のみが突出している玉泉院丸石垣上には、当時何らかの建物が存在したのでしょうか。

石垣に沿って南東へ歩くとまた出隅があり、いくつも折れを持つ複雑な形状をしています。

よく見ると、天端石が凸型になっている部分があります。その用途は如何に。

 

歩いている道はかつてお城を囲っていた堀だった場所で、南西側にあった堀は「いもり堀」と呼ばれています。

いもり堀北西部の石垣、一部石材の色味が異なるのは、積み直し修理によるものでしょうか。説明にあるとおり、鼠多門付近からこのあたりまでの玉泉院丸外周部は総石垣ではなく、土手上部のみに石垣を巡らす鉢巻石垣となっています。

堀跡を南東へ歩くと、いもり堀が一部復元されています。奥に見えるのは、復元された鯉喉櫓台です。

復元いもり堀の北側石垣は、二段になっています。上段は、本丸石垣と思われます。

復元いもり堀と二段の石垣との間の園路沿いには、石垣模型等の展示があります。

こちらは「粗加工石積み」の模型。いわゆる「打込接ぎ」に分類されるでしょうか。比較的多くのお城で見られる積み方ですね。

そしてこちらが「切石積み」です。「切込接ぎ」とも呼ばれる隙間なく積まれる美しい石積みは江戸城大坂城などでも見られますが、金沢城のそれは石材に縁取り加工を施したり石材の色合いにまでこだわるなど、より芸術性が高く感じられます。

途中、石垣めぐり「薪の丸コース」への分岐路を挟みつつも、様々な石材の展示が続きます。

二段の石垣下段部分は明治期の崖面保護石垣ではあるものの、石材自体は本丸石垣を再利用しているそうです。上段には、本丸石垣の出隅が見えています。

復元いもり堀の南東端に、復元された鯉喉櫓台があります。

開放時間が決められています。ただいま、開園中。

櫓台上には、石垣の特徴と施工手順の説明があります。

櫓台から北西には、復元いもり堀が一直線に延びています。かつてはさらに北西の、玉泉院丸外周まで続いていました。写真左、いもり堀の外側にあったのが「堂形」と呼ばれるエリアで、宝暦の大火後には役所施設が建てられたそうです。

櫓台から北東には、明治期石垣の上に三段重ねの本丸石垣が見えます。

ここは本丸の南東隅にあたりますが……隅部がちぐはぐで、なんだか不自然です。

なんとこちらは、もともと22mを超える城内随一の高石垣だったのが明治期に撤去・改変され無惨な姿になったそうです……いやはや。

鯉喉櫓台は折れ曲がりながら南東へ続いていたそうですが、道路と歩道の都合上これ以上復元できないため、ぶつ切り状態となっています。本来の形状と異なる歩道側のぶつ切り面は、あえて石積みを変えています。

角部は隙間の無い、見事な切石積みです。

名前の由来は不明、櫓台なのに建っていたのは塀のみ……なかなかミステリアスな櫓台ですね。

発掘された残存部をもとに、上部に積増しを行ったんですね。

それにしても鯉喉櫓台、説明が手厚いです。

いもり堀の復元整備についての説明もあります。いもり堀という名称の由来も、不明。

蘇った鯉喉櫓台と、失われた本丸石垣と。鯉喉櫓台は本来、さらに写真右方向へ続いていました。少し色合いの異なる櫓台基部が、現存石垣でしょうか。

鯉喉櫓台の北東には、いもり堀と北側の堀の水量調整をする水門があり、その水門に車橋が架かり、車橋門が設けられていたそうです。

道路工事により水門も周囲の石垣も失われ、車橋門の姿を想像するのは難しくなっています。

 

車橋門の北、お城の東側にあった堀は「蓮池堀」または「百間堀」と呼ばれています。

蓮池堀は埋め立てられ道路になっており、歩道から堀石垣を間近に見られます。

「刻印天国」な蓮池堀石垣。刻印や矢穴が数多く見られます。

工事の分担のためでしょうか、数mごとに同種の刻印が固まって見られると説明にありますが、確かにここは下側に同じような印がいくつも見えます。

ここでは左側には「丸に一文字」のような印が多く見えますが、右側には明らかに違う印が。刻印の切り替わりです。

右側は「丸の中に三角」の印。

このあたりは混在しているような……いや、上段と下段で分かれているのかも。左上には、石樋が見えます。

城内最古かつ日本有数の規模を誇るという東ノ丸東面石垣は、木に遮られよく見えません……。

石垣ばかり見ながら蓮池堀跡を北へ歩いていたら、突如現れる石垣上の美しい建物に目を奪われます。金沢城の貴重な現存建造物、石川門の建物群です。

石川門が建つ三ノ丸東面石垣は、文化年間に全面的修築が行われたそうです。意図的にずらして、というのはよく分かりませんが、荒々しさは伝わります。

塀の途中にある出窓は「出し」と呼ばれ、下部に石落しを備えています。塀に附属する石落しは多くのお城で見られますが、優美な唐破風屋根付きの出窓というスタイルは金沢城独特の美を感じます。下半分に瓦を張り付けた海鼠壁の「海鼠塀」も美しいです。

この「出し」と「海鼠壁・海鼠塀」はこの先何度も目にする、金沢城の美しさを表現する上で重要なデザイン要素です。

こちらの切石積みの出隅も、文化年間の修築によるものでしょうか。

蓮池堀跡から、石川門の南側にある二重櫓「石川櫓」を見上げます。一階部分には「出し」があります。

堀底からは、表門と櫓門はよく見えません。

かつては土橋だった石川門の手前には、コンクリートアーチ橋「石川橋」が架かっています。

石川橋の両端に積まれた石垣は、架橋の際に整備されたものでしょうか。

石川橋の北からは、木に遮られ石川門がよく見えません。

石川橋の北、「白鳥堀」跡に建つ前田利家公の像です。甲冑姿の銅像は、金鯰尾兜のみ金色に彩られ、目を引きます。

利家公像から道路(堀跡)を挟んで東側に、紺屋坂があります。

紺屋坂を上ると、左手に兼六園の桂坂口が、そして右手に石川橋があります。

 

堀跡の南半分を歩き終え、石川橋を渡って石川門へ向かいます。

城跡は様々に利用された後、金沢城公園として整備されています。入園は無料で、一部建物への入館は料金が必要です。

明治期の旧橋を継承し、平成期に架け替えられた石川橋。欄干や街灯が素敵です。

橋から見下ろすと堀だったんだなあと感じる、百間堀(蓮池堀)跡です。

「三御門」のひとつ、石川門です。当時は搦手門(裏門)だったそうですが、今や公園のメインゲートとなっています。オシャレな橋の先にそびえる石垣上の堂々たる現存建物群は、此処は加賀百万石のお城だったのだと謳うようで、入る前から心が躍ります。

門の左手には、二重二階の石川櫓が守りを固めます。一階の海鼠壁と唐破風の「出し」、建物の隅角部に張られた金属板がデザインのアクセントとなり、全体として非常に優美な姿です。

門の右手には、櫓門の「出し」が門へ迫る敵に備えます。

そして中央には、「一の門」である表門。間口が狭く、敵が大勢なだれ込んで来るのを防いでいます。門両脇の太鼓塀には、狭間がないように見えますが……。

金沢城建造物の大きな特徴のひとつが屋根の「鉛瓦」です。瓦屋根の形状をした木造の屋根に鉛板を張り付けてあり、独特の色合い・光沢があります。

鉛瓦にもしっかり、梅鉢紋があしらわれています。家紋を入れる手間は、普通の瓦とどちらが大変なのでしょうか。

石川櫓の南へ続く太鼓塀は、奥では一段低くなっています。

海鼠壁というと斜めのイメージでしたが、金沢城のそれは壁と平行で、一列ごとに瓦を半分ずらしてあり、優美さを引き立てているように感じます。

石垣、壁、鉛瓦、金属加工……全てこだわり抜いた職人の技術は、いつまでも見ていられます。……いつまでも見ていたくて、なかなか門をくぐれません。

門扉や外側の柱にはびっしりと鉄板が張られています。右側の門扉には、潜戸が設けられています。

表門をくぐると石垣と建物に囲まれた方形空間。枡形です。左手には石川櫓、右手には櫓門の「出し」、正面には続櫓があり、門を突破した敵は三方から一斉に攻撃され、逃げ場がありません。

表門脇の太鼓塀を枡形内から見ると、石垣へ上る雁木と……あれ、狭間があります。外からは隙間のない海鼠壁ですが、有事の際には内側から瓦を突き破ると門へ迫る敵を銃撃できる「隠し狭間」です。

櫓門には、城外と枡形内それぞれに「出し」が設けられ、隣接しています。

続櫓の石垣は、表門正面側は隙間のない「切石積み」ですが……。

石川櫓のある左側は「粗加工石積み」となっています。

同じお城でも時期により積み方が異なるのはよくあることですが、ここの石垣は同時期に改修されたとのことで、職人の強いこだわりがひしひしと伝わってきます。いやーこれは面白い!

同一の枡形内で、同時期に積まれた石垣がここまで明確に異なるのは非常に珍しいと思われます。「石垣の博物館」の中でも屈指の見所ではないでしょうか。

左の石垣には刻印がびっしり! これもデザインの一環でしょうか。

石川門の「二の門」がこちらの巨大な櫓門です。石川櫓や続櫓のような海鼠壁は、櫓門にはありません。石川門は、一の門を通り右折して二の門へ至る、枡形が城内側に設けられた内枡形門です。

櫓門の石垣は、表門正面側と同様に切石積みです。オレンジ色の石材が所々に配置され、彩りを添えています。

櫓門は両脇に脇戸を備えています。表門と同様、門扉や周囲の部材には鉄板がびっしり。門柱の基部は特に厳重で、カロリーメイトみたいに加工した鉄製の短冊が並べられています……これはすごい。

表門と石川櫓です。表門は高麗門形式ですが、屋根が控柱の屋根を覆い隠すほど大きく、薬医門と見紛うほどです。石川櫓の一階海鼠壁は外から見ると割合が少ないなあと思いましたが、隣接する続櫓と海鼠壁の高さを合わせてあるのかもしれません。

頭上のぶっとい梁に感心しつつ、ようやく櫓門をくぐります。

 

石川門を越えると、三ノ丸です。

石川門の櫓門は、内側にも海鼠壁がありません。左奥に櫓内へ入る扉が見えますが、下の石垣には階段がありません。当時は木の階段等が設けられていたのでしょうか。

扉前方の低い石垣へ上るための石段は、存在しています。石垣上には太鼓塀があり、狭間と控柱が交互に並んでいます。こちらの狭間も、外からは海鼠壁で見えない「隠し狭間」と思われます。

太鼓塀は内側へ折れる部分で一段低くなり、そのまま奥(北東)へ延びています。塀の途中には「出し」と、一番奥には櫓台のような低い石垣が見えます。

太鼓塀の西側(石川門の北側)には、総合案内所があります。こちらでガイドマップをいただき、100名城スタンプを押しました。

復元整備中の鼠多門では、寄進事業が行われています。

総合案内所併設の休憩所には、整備計画模型が展示されています。訪問時の状態を再現していると思われます。まず東から。現在地は示されているとおり三ノ丸内、石川門の北です。

北から。左手前が大手門で、大手堀の奥に広大な新丸が、その右に藤右衛門丸があります。

西から。中央に二ノ丸、右下に玉泉院丸、右上に本丸があります。

南から。手前中央に本丸、その左に玉泉院丸があります。玉泉院丸外周~いもり堀~蓮池堀~石川門がこれまで歩いてきたルートです。

案内所とトイレの間から、石川門北側太鼓塀の「出し」を見ます。外から見ると唐破風屋根ですが、内側は切妻屋根になっていますね。

トイレ付近から、三ノ丸北東隅の櫓台石垣がよく見えます。石川門の北から延びる太鼓塀は櫓台部分で一段高くなり、また低くなって西へ続いています。金沢城は火災等で何度か建物の変遷があったそうなので、この櫓台にも石川櫓のようなオシャレ櫓が建っていた時期があったのでしょう。

三ノ丸北辺に延びる太鼓塀は、二箇所の「出し」を伴います。こちらの出しも、内側は切妻屋根です。江戸前期には太鼓塀ではなく、河北門のすぐ東まで達する長大な多聞櫓「九十間長屋」が建ち、北東隅の櫓を経て、石川門のすぐ北まで続いていたようです。現在見られる長大な塀でも圧倒されるのに、ここにあの「金沢城スタンダード」の優美なデザインの多聞櫓が連なる様は、さぞかし壮観だったでしょう。

広大な広場と化した三ノ丸北エリアの奥にそびえる巨大な櫓門は、河北門です。

明治以降は軍用地、金沢大学キャンパスを経て、国の史跡に指定されています。

 

再び、石川門へ向かいます。

なななんと、内部公開中!

石川郡が石川門の、そして石川県の名前のルーツになっているようです。

「切石積み」と「粗加工石積み」の積み分けは、城内側でもきっちり行われています。

石川櫓と接続する続櫓にそれぞれ扉があり、隣接しています。櫓門の扉手前には階段がありませんでしたが、こちらには幅の広い階段があります。

階段上から、続櫓を見ます。瓦のすぐ下や建物と石垣の間にも金属板を張ってあるようです。レンガ調の海鼠壁が江戸期の建築とは思えないほどスタイリッシュです。窓枠を海鼠壁のラインより上にずらしているのも、職人のこだわりでしょうか。

続櫓の扉からは入れないみたいなので、石川櫓の扉から中へ入ります。

石川櫓は菱形平面をしており、ここでは「菱櫓」とされています。

こちらの図面を見ると、石川櫓が菱形だということがよく分かりますね。

石川櫓の二階は、立入禁止です。

石川櫓二階への階段には、大きな踊り場が設けられています。

石川櫓の窓からは、表門から侵入する敵が丸見え。こちらと向かいの櫓門の「出し」とで挟撃できます。

石川櫓に接続する続櫓の内部です。見学順路は中央で仕切られ、一方通行です。

複雑な木組み! うーん、ちょっとピンボケ。

西側の続櫓から窓を覗きます。ここからは、正面に表門が見えます。

先へ進むと、櫓門がすぐ近くに。一階屋根と二階の間には小屋根のような構造が見えます。雨水を逃がすための工夫でしょうか。

櫓門内部です……あちゃー、これはかなりのピンボケ。暗い室内での撮影は慎重にやらないと、ですね。

正面に石川櫓。この屋根全部が鉛板を加工して造られているのすごすぎる……途方もない労力です。

これがおそらく、手前に階段のない扉です。

「出し」には、蓋付きの石落しがあります。

現存建物の内部をこうして見学できるのは、とてもありがたいことです。

窓の格子はナナメではなく、窓枠と平行です。

建物の外へ出ます。

石川櫓の扉への階段は、途中から続櫓の扉への階段へ分岐しており、複雑な石組みになっています。

国の重要文化財に指定されている石川門。枡形を囲む建物群が全て現存するのは大坂城大手門とここ、石川門だけ! とっても貴重なんです。

 

石川門を離れ、三ノ丸から鶴ノ丸へ向かいます。

石川櫓の南に連なる太鼓塀が一段低くなるあたりまで、三ノ丸と鶴ノ丸を区切る空堀が延びていたと思われます。

蓮池堀跡からもよく見えた石川門南側の「出し」は、鶴ノ丸に位置します。こちらの出しは内側も優美な唐破風屋根です。石川門の北側で見た切妻屋根の出しは、後世に修復・再建されたものでしょうか。

太鼓塀をさらに南へたどると内側(西)へ折れ、再度南側へ折れた先に、水の手門があります。鶴ノ丸の東、蓮池堀沿いの帯曲輪状エリアに通じる門で、小さく簡素な高麗門ですが、江戸前期の絵図には立派な枡形門が描かれているように見えます。

太鼓塀は水の手門のすぐ南で途切れ、その先には……。

美しい勾配を持つ見事な高石垣! 築城最初期に積まれた、自然石積みの東ノ丸北面石垣です。石垣奥のさらに高い石垣は櫓台で、ここには丑寅櫓が建っていたようです。

すぐ隣の東ノ丸附段石垣は時代が下るのでしょうか、隅部には加工石による算木積みが採用されています。石垣上には、現存土蔵である鶴丸倉庫が見えます。

きわめて高い技術により城内に水を引いていたという辰巳用水。鶴ノ丸に石管が展示されています。

同じく鶴ノ丸に展示されている井戸枠。大きな石材を綺麗な円形にくり抜いています。

こちらは八枚の石を組み合わせて円形に。色の違う石を一枚使ってたりと、井戸までオシャレな金沢城

三ノ丸と鶴ノ丸を区切る、南門跡です。園路に門や塀のラインが描かれており、右手の三ノ丸から来た敵は左折し、門を越え今度は右折しないと鶴ノ丸の奥には進めない、喰い違い虎口となっています。説明板のあたりには、門の出入りを監視するための番所が建っていたようです。

当時は南門のすぐ横まで続いていたという、復元された海鼠塀です。

こちらの海鼠塀にも隠し狭間が仕込まれており、内側には等間隔で控柱と狭間が並んでいます。奥に見えるのは、橋爪門の建物群です。

鶴ノ丸にある真新しい便益施設「鶴の丸休憩館」からは、ガラス越しに橋爪門などの復元建物群を見ることができます。「出し」の内側は、切妻屋根ですね。

休憩館のそばには、土塀の構造模型があります。

 

鶴丸倉庫へ向かいます。

東ノ丸附段の北を西へ歩くと、石垣の開口部があります。ここ東ノ丸附段の西側虎口は、本丸がお城の中枢であった頃は、本丸方面へ通じる重要な門があったと考えられます。

正面には本丸の高石垣が立ちはだかり、左折して虎口へ進むほかありません。

虎口を越え東ノ丸附段に入ると、右手には東ノ丸に通じる虎口が見え、左折・右折して再び左折・右折する連続喰い違い虎口となっています。東ノ丸手前の広い方形区画である東ノ丸附段は、巨大な枡形虎口、あるいは武者溜り・馬出などの機能を持たせていたのかもしれません。

東ノ丸・本丸は、後ほど訪れます。

東ノ丸附段にある巨大な土蔵が、鶴丸倉庫です。

鶴丸倉庫の建っている場所は東ノ丸附段で、すぐ隣に鶴ノ丸という曲輪があるので、曲輪の誤認により名付けられた可能性もありそうですが、「東ノ丸附段倉庫」というのもなんだか長ったらしいし、呼び名としては鶴丸倉庫で良かったように思います。

城郭内土蔵としては全国最大級! その大きさに圧倒されます。よく見ると、屋根瓦に梅鉢紋。

二つある入口扉は大きな庇と板壁で囲われ、窓にも庇が付いています。他の現存建物とは意匠がかなり異なり、明治以降の建築と考えられていたのも頷けます。しかしながら、窓枠のデザインに石川櫓の扉まわりとの類似性を感じます。

鶴丸倉庫の大きな特徴はこの、外壁の石張りです。金具で壁に固定されているように見えます。金沢城といえば海鼠壁、そして土蔵といえば海鼠壁ですが、あえての石張りというのも何らかのこだわりあってのことでしょうか。

城内の現存建物ではちょっと異質な存在ですが、重要文化財であり、江戸末期の貴重な建築です。

鶴ノ丸に戻り、橋爪門の枡形を南から見ます。櫓門付近に積まれた石垣は右側では途切れ、土塁となっています。

内堀石垣上の海鼠塀、下の方は漆喰が剥がれていますね……。

 

鶴ノ丸から内堀を左手に見ながら、三ノ丸に戻ります。

「三御門」のひとつ、復元された河北門です。石川門がメインゲートっぽい印象を受けますが、三ノ丸の正門はこちらです。

石川門より一回り大きな河北門「二の門」です。間近で見ると、正門の貫禄を感じます。海鼠壁のないデザインも、石川門と共通ですね。

美しくカラフルな切石積みの石垣も、見事に復元されています。基部に見える色の濃い石材は、現存石垣でしょうか。

復元されて十年経っておらず、木材の色合いがまだフレッシュです。

二の門の北側には木組み階段とバリアフリーのスロープが設けられ、扉へとつながり櫓内部へ入ることができます。当時はこの扉へ入るためにどのような階段等があったのか、気になります。

扉付近からの景色です。左奥に石川門、右奥には内堀海鼠塀・南門跡・東ノ丸北面石垣が見えます。

中央奥に総合案内所とトイレ、その左には、かつて九十間長屋が建っていた三ノ丸外周に沿って、太鼓塀が連なっています。

扉手前のスロープからは一の門とニラミ櫓台、その向こうには菱櫓・五十間長屋が見えます。

扉から、中へ入ります。内部の木組みもフレッシュ。

右手には、枡形内部に向く「出し」があり、石落しの蓋が開いています。出窓側面の扉も開いています。

出窓からは、一の門が見えます。

枡形門として建てられた当初は二の門に接続する長屋や一の門脇にニラミ櫓があったようですが、宝暦の火災で焼失し再建されず、火災後に再建された建物を復元した姿となっています。

部材により様々な木材が使用されています。

壁面の構造模型です。

床の一部がガラス張りになっており、石材が鉛製の「千切り」により固定されている様子が見られます。

二の門の格子窓から、菱櫓を見ます。

外へ出て、二の門の屋根を見ます。鉛瓦には、梅鉢紋。

河北門を出ると新丸があり、三ノ丸との間は河北坂と呼ばれる土橋で連絡されています。

手前に河北門、奥に菱櫓・五十間長屋・橋爪門と、復元建物を一度に収めた良い写真が撮れました。江戸末期に見られたであろう光景が今、眼前に蘇っています。

河北門二の門から、枡形へと出ていきます。木の形状を活かした梁がぶっとい!

二の門脇柱の現存礎石は、そのまま再利用されています。礎石上の柱根元には、カロリーメイト金物。

石垣にも木材にも金物にも、繊細で優美な加工が施されています。

一の門石垣・石組溝の現存遺構を修理・活用した整備。江戸期にこだわり抜いて築かれたお城が、こだわりの復元整備により蘇っています。

ニラミ櫓台には隠し狭間付き海鼠塀が載るだけですが、当初は此処に在った二重のニラミ櫓から、一の門に迫る敵を迎え撃ったのでしょう。

そして反対側には二の門の「出し」。守りの仕組みも、石川門とよく似ています。

河北門独自の仕掛けがこちらの、枡形土塀。一見すると単なる土塀ですが、中身は石垣という「隠し石垣」仕様なのです。南側(写真左手側)には当初長屋が接続していたそうなので宝暦大火後の改修と思われますが、城内唯一の隠し石垣とされており、もしかすると日本一頑丈な城郭土塀かもしれません。このお城は実に、色々なアイデアの宝庫ですね。

一の門は、石川門と同じく主屋根が大きな高麗門です。両脇土塀も石川門同様の隠し狭間仕様。

一の門を出て右手には三ノ丸石垣が張り出しています。当時は塀などが建ち、門前に横矢を掛ける防御設備だったのでしょう。

左手にはニラミ櫓台。門両脇の土塀は海鼠壁で、外からだと狭間が隠されていることは分かりません。櫓台の前には三ノ丸と新丸を隔てる堀があり、一部が再現されています。

河北門一の門を、河北坂から見ます。一の門を越え左折し二の門へ至る枡形で、石川門とは左右が逆になっています。

新丸方向に「出し」のある太鼓塀が巡るニラミ櫓台。絵図によると、新丸側は一階・二階ともに出しを備え、枡形内にも出しを持つ二重櫓だったようです。ニラミ櫓が健在だった頃は、背後に見える菱櫓と共に大手筋にたいへん睨みを利かせていたことでしょう。

再び河北門枡形へ入り、二の門をくぐります。

次に向かうは、金沢城の新たな「顔」。

その2へ続く)