お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
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71.首里城(その2)

その1の続きです)

奉神門をくぐると、目の前には、壮麗な正殿が!

ここは「御庭(うなー)」、首里城の中枢です。

敷かれた「磚」は色分けされ、正殿へ通じる中央には「浮道」があります。白い部分に、諸官が並んでいたのでしょうか。

左(北)を向けば、中央政庁であり、歓待の場でもあったという、北殿が。

右(南)を向けば、取次施設・番所(ばんどころ)と南殿が。

そして正面(東)には、正殿! 屋根の大きな三つの「龍頭棟飾」や唐破風屋根のカラフルな装飾が目を引きます。豪奢でありながらも風雅な、首里城という存在を体現する建物という印象です。雨に濡れて、赤色が際立っているように見えます。

奉神門から正殿に通じる「浮道」は、正殿に向かって少し右斜めになっている(そもそも、奉神門と正殿が平行ではない)のですが、その理由はよく分かっていないようです。

屋根の龍頭棟飾はヒゲまで立体的に作られており、唐破風屋根上の龍頭はヒゲを前方にピンと伸ばしています。唐破風内にも龍の彫刻があり、柱にも龍、欄干にも龍、そして「大龍柱」と、龍づくしです。上に行くほど幅が狭まる階段も、特徴的ですね。

この最も目を引く唐破風屋根の中央部分は「唐玻豊(からはふ)」と呼ばれ、二階部分の扉の中には国王が儀式の際などに座る部屋があるそうです。

正殿の前、階段の下には阿形と吽形の「大龍柱」が向かい合っています。

正殿二階の窓には、鶴や亀などが描かれた和風な掛軸?が掲げられています。これはお正月のスペシャルな装飾でしょうか。

唐玻豊の側面、欄間のような波打つ装飾も、手が込んでいます。正殿には、正面以外にも石段が設けられているのが分かります。

正殿と南殿の間、奥に見えるのが「黄金御殿」で、その一階部分を通り御庭と御内原をつなぐ門が「左掖門」です。正殿の右、赤い建物の右端にぽっかり開いているのが左掖門だと思うのですが……近くで見るのを忘れていました。

御庭の正殿近くから、奉神門を見ます。門の左(南)が君誇、右(北)が納殿です。

御庭の北側にある北殿は、正殿と同様に赤く塗られ、中国風の外観です。

一方、御庭の南側にある南殿は、彩色はされていません。ベランダ?が設けられた開放的な二階建ての姿は、正殿に次いでインパクトがあります。説明板には「日本風の建物」とありましたが、日本風……? 

 

建物の中を見ていきます。

中枢建物群へは、番所から入る順路となっています。かつて登城者の取次を行ったという番所が現在も観覧ルートのスタートになっているのが、良いですね。

南殿は現在、王朝時代の美術工芸品等の展示スペースとなっており、撮影禁止です。

この先の書院・鎖之間からは撮影OKのようです。

国王の執務の場だった書院と、王子などの控所だった鎖之間です。

復元に使用された漆喰壁・瓦・釘・釘隠し・継手などのサンプルがあります。

沖縄といえば赤瓦のイメージがありますが、首里城では灰色瓦も出土しているんですね。鬼瓦にデザインされているのは、魔除けの果実・桃でしょうか。

様々な資料に基づき復元された書院・鎖之間と庭園。鮮明な古写真が残っているのは大いに参考となったことでしょう。

書院の縁側から外を見ます。向かいの建物は、鎖之間です。

石灰岩の露頭や植物は他のグスクでも御嶽などで見てきましたが、庭園として整備されているのは、グスクでは首里城で初めて目にします。松の木に、和のテイストを感じます。

建物は2007年復元とのことで、木材の色合いに新しさを感じますね。

国王が執務を行ったという「御書院」は畳敷きで、漆喰壁、欄間、釘隠し、床の間、違棚などなど、ここがグスクであることを忘れそうなほど純和風な内装です。

書院の南東には、お茶を点てる「内炉之間」という部屋があります。

書院の東縁側から東を見ると、右から奥書院、近習詰所、南殿が並び、近習詰所の向こうには黄金御殿の屋根が見えています。近習詰所が奥書院・黄金御殿と南殿をつなぐ位置にあるのが分かります。

奥書院の南には庭園があり、その南を区切る城壁の向こうには、城下の街並みが広がります。書院のすぐ東には説明板によると奉行詰所・御物当詰所なる建物の名称が表示されていますが、復元はされていないようです。

書院を一周して、書院の西側に建つ鎖之間へ。王朝時代の伝統菓子とお茶で、ひと息つきます。

こちらで閲覧できるパンフレットが素晴らしい。明治期の古写真とほぼ同じ角度で撮影された写真に、復元の正確さを垣間見て感嘆します。

パンフレットを開くと、書院・鎖之間の正確な復元図面に、庭園の石灰岩は遺構と復元部が色分けされ、参考となった絵図等の引用、古写真の撮影位置まで表示されるなど、ものすごい情報量です。

鎖之間の北西、城壁の脇にいくつか置かれた石が、庭園から出土した庭石のようです。

鎖之間の南側は、復元された露岩ということになるのでしょうか。

屋根の赤瓦に、沖縄を感じます。

鎖之間の西(写真右方向)は、京の内です。

菓子とお茶をいただいたのが、王子が役人を接待したという「御鎖之間」です。

御鎖之間の南東には、お茶を点てる「裏御座」があります。

鎖之間東側の廊下です。

東には、書院が見えます。

鎖之間を出ます。

これは……書院の釘隠しをズーム撮影したと思われますが、ピントが甘いですね……。

近習詰所に入ります。

古写真は、現在の復元建物と比較して黄金御殿がよく見えていますが、撮影された大正期には黄金御殿の西面を隠していた正殿南側建物が何らかの理由で撤去されていたのでしょうか。

古写真とは逆に、近習詰所から御庭を見ます。左に南殿が、右に正殿が見え、正殿南側建物の背後に、黄金御殿の西面二階部分の窓が見えています。

「表」と「内」の取次は、このような鈴の付いた紐を引いて合図を送っていたようです。同様の仕組みは、江戸城にもあったんですね。

正殿の裏側(東)が、国王とその家族や女官の居住空間「御内原」です。世添殿や西ノ当蔵、金蔵、寝廟殿など、復元されていない建物も多くあるようです。

国王ファミリーのプライベートルーム「黄金御殿(くがにうどぅん)」と、王家の台所「寄満(ゆいんち)」です。古写真は、先ほどの近習詰所と同じものが掲載されています。訪問時は、現在展示場となっている黄金御殿の中を通過するだけでしたが、御内原から黄金御殿や寄満の外観を見てみたかったです。

 

いよいよ、正殿の中へ入ります。

黄金御殿から、正殿二階「大庫理(うふぐい)」に入っていきます。

二階は中央に御差床、その前(西)に唐玻豊があり、その周囲に拝礼の部屋「おせんみこちゃ」などいくつかの部屋があるようです。

御内原建物配置図を見ると、書院の南側などに現状示されていない建物がいくつかあったようです。

御差床の上部には、大きな扁額が三つ見えます。両端は難しい漢字ですが、中央は「中山世土」とよく知っている字で書かれ、『琉球は中山(琉球国王)が代々治める土地である』というような意味らしいです。

なんともゴージャスな「御差床(うさすか)」の玉座は、詳細な絵図があったから復元できたのでしょう。壇側面の葡萄と栗鼠、もっとアップで撮っておくんでした……。

玉座サイドから、国王目線を疑似体験……というわけではありません。正殿の唐破風屋根を支える柱に似た、鳥居のような柱がとても目を引きます。

唐玻豊にも、復元の根拠となる絵図があるのですね。儀式の際には扉が開き、ここから国王が御庭を見渡したのでしょう。

御差床の北に一階へ続く階段がありますが、ここからは下りられません。

三階への階段、めちゃめちゃ急です。ほぼハシゴ。

三階は立入禁止だし、階段を上ったところで蓋がされており、物理的に入れません。

窓を覗くと、正殿の北にある右掖門が見えます。

復元工事の参考にされた、巨大な構造検討用模型です。この部屋は、案内図に「西之みこちゃ」とあった場所でしょうか。

御差床の背後(東側)を南へ歩くと、またも下りられない階段が。

そのすぐ南にも下りられない階段……こ、ここはもしかして、一階の御差床へ通じているのでは?

階段のすぐ南、二階南東に位置するのが国王自ら毎朝拝んでいたという拝礼の間「おせんみこちゃ」です。奥に見える金色と黒の神棚が、説明板の絵図にある「御床」でしょうか。

御差床の南にある階段には、取次用の鈴引があったようです。この階段からも下りられず、正殿一階へは、いったん黄金御殿へ戻る必要があります。

正殿一階へ向かいます。

黄金御殿を経由して、ようやく一階に入ります。

取次用の鈴引があったという階段を、一階から見上げます。

一階床の一部がガラス張りとなっており、覗き込んでいる人がいます。何でしょうか。

なんと、貴重な正殿遺構の展示のため、床がガラス張りになっています。見えているのは、正殿基壇の石積みのようです。

奥にも石積みが見えるのは、正殿が焼失・再建のたびに変更・拡張されたということでしょうか。

復元された正殿は、18世紀はじめに再建され戦前まで残っていた建物をモデルにしているそうです。

一階の御差床、二階に比べて地味な印象を受け、天井が低いので狭い感じもします。先ほど見たおせんみこちゃ横の階段、やはり一階御差床に通じているようです。

二階の大庫理に対して一階は「下庫理」と呼ばれていたようです。うーん、名称的にも二階がメインだったのでしょうか。

うーん、ピンボケ。

 

正殿を出て、北殿に向かいます。

北殿は現在、売店や休憩コーナーのほか、様々な展示があります。

北殿の展示のひとつ、正月の「朝拝御規式」を再現した、御庭の精巧な模型です。道具類まで精密に作られ、儀式の様子が伝わってきます。磚の間の白い所に諸官が並ぶのかと思っていましたが、模型では磚の上に並んでいます。正殿スタッフさんの衣装はおそらく、この役人たちをイメージしているんでしょうね。

唐玻豊に国王がいることを教えてくれているのに、しゃがんでズーム撮影しておくんでした……。写真を拡大してよく見ると、扉が開き王様が座っているのが、かろうじて分かります。

こちらは正殿の上部が省略された、冊封儀式の模型です。琉球国王は、中国皇帝が任命していたんですね。闕庭や宣読台が設けられるなど、儀式が大がかりなのが分かります。

北殿の北側には展望広場があり、北側の城下が見渡せます。

西を見ると、奉神門、広福門、漏刻門、供屋が見えます。

東を見ると、右掖門と、わずかに淑順門、その右の屋根は……女官居室でしょうか。

さらに東の方では、ずいぶん地形が高くなっており、城壁もそれに合わせて築かれています。

人が増えてきたので、北殿の東側から人を避けるように上向きに撮影したのは分かるんですが……もうちょっとどうにかならんかったのでしょうか。北殿(右)に比べ、正殿(左)の外壁塗装が鮮やかなのは分かりますが。

御庭を出て、右掖門の方へ続く石段を下ります。

石段脇に設けられた低い石垣は、下から上ってくる人への目隠しのためか、大勢に攻め入られないよう道を狭くするためか……あるいはその両方でしょうか。

振り返り、正殿(左)と北殿(右)を見ます。

首里城の象徴であり、和式城郭なら「天守『格』」と位置付けられそうな正殿。北面からも龍頭棟飾が見えています。御内原から東面も、見てみたかったです。

右掖門南側の城壁には、やや古そうな石もあるように思えますが、全体的には非常に綺麗なので、積み直しでしょうか。

 

北東エリアへ向かいます。

石段を下りて東を向くと、高くそびえる城壁の中央に、門が見えます。

御内原への表門、淑順門です。建物がたくさん描かれた1894年の絵図は非常に興味深いですね……この年あたりまでは、これくらいの建造物が現存していたということでしょうか。一方、1931年の古写真はこれまでの説明板に掲載されていた他の建物の写真より年代が下るとはいえ、今にも崩壊しそうなほど傷みが激しいように見えます。扉の開きからすると、御内原側からの撮影でしょうか。

現在の淑順門は、積み直されたと思われる非常に整った石段の上、綺麗な城壁の間に復元されています。

「淑順」の縦書き扁額は、文字の塗装が剥がれかかっています。

淑順門からは現在、御内原へ入ることはできません。門扉上部の格子から、わずかに正殿と思われる建物が見えます。

門扉両脇の石垣や石畳の一部に古そうな石材が見えますが、これは現存部分でしょうか。

淑順門と右掖門の位置関係です。先ほど下りてきたのは、右掖門左の石段です。

この先の北城郭東地区は、最近供用エリアが拡大されたようです。

説明によると、説明板左の石垣の間にはかつて門があり、この先の城郭北東部が「寄内」と考えられているけど、ふたつの御嶽の場所は明らかになっていないようです。

再現された竹林は、もう少し竹が成長すればそれっぽくなるように思います。

寄内エリアは広場として整備されているからかもしれませんが、非常に広大です。

このエリアで最も気になるのは、入口の説明にもあった「ガマ遺構」です。ガマの右側に設けられた石段も気になりますが……ここからガマの上部を通って城郭東側へ通じる道が当時はあったのでしょうか。

このガマは自然洞穴ではなく、人力で掘られ整備されたもののようです。ここに寄内の御嶽があったという説は、納得できるように思います。

この穴は、近年掘られたという「留魂壕」でしょうか。

こちらがガマの入口で、右の穴は調査の際に設けたもの、だそうです。入口両脇下部に開けられた小穴は説明に「マド」とありますが、通気・採光などが目的でしょうか。

ガマ入口の東には、もともとの岩盤らしき巨岩と、上部には古そうな石積みが見えます。

ガマ遺構の全景です。これだけの規模の遺構が出土した時の興奮・感動は、いかほどだったでしょうか。

再現されたリュウキュウマツ、すくすく育ってほしいですね。

正殿屋根がのぞいている部分から左の城壁はずいぶんと白いですが、最近整備・積み直しがされた箇所でしょうか。

寄内エリアの東に、城郭東端部へ通じていると思われる階段があります。写真右上の城壁が高くなっている所は標高約140mある東の物見台「東(あがり)のアザナ」です。ちなみに西の物見台「西(いり)のアザナ」は標高130mだそうです。どっちも高い!

ん?東が「あがり」で西が「いり」……もしかしてこの読み、太陽が「上がり」の方角、「入り」の方角からきているのでは??

階段を上ると柵があり、ここから先へは進めません。残念……。

右(西)を向くと、ガマの西側に設けられた石段からの道がなんとなく見えます。そうか、この階段は観光用に設置されたものだから、寄内から城郭東端方面へ行くための当時の道はガマ西側の石段からしか無かったんですねきっと。

階段上から、寄内エリアが一望できます。うーん、広い!

発掘された古い石積みと、真っ白な整備された城壁と。整備城壁、両脇の石垣との対比で白さが際立ちますね。

美しく積み直された城壁ときらびやかに再建された建造物群は首里城の威容が体感できて非常に素晴らしいのですが、それはそれとして、埋もれていた現存石垣からは当時の首里城の息吹が伝わってくるようで、とっても興奮します。

 

寄内エリアを出て、西へ向かいます。

淑順門の東側城壁、基部に現存石垣と思われる部分が見えています。

右掖門の説明にあるように、先ほどの淑順門もそうですが、右掖門周辺の石垣や石畳は現存遺構と思われる部分が一部に露出し、遺構を補完するように石積みが復元されていることが分かります。

右掖門右(北)側には、櫓へ上るための石段が見えます。

説明板の古写真は随分と不鮮明でしたが、こちら城内側からの撮影でしょうか。

遺構保護のためか、門の外側には階段が設置されています。

復元箇所と思われる門の左側は布積みですが、右側は相方積みとなっており、こちら右側は現存遺構でしょうか。

やや色褪せていますが、「右掖」の横書き扁額は文字が鮮明です。

右掖門を出ると、石畳の道が西へ伸びています。左手城壁上に見える赤い建物は、漏刻門の櫓でしょうか。そして、正面に伸びる道は「短縮順路」、右手(北)へ折れる道は「標準順路」とあります。

標準順路に沿う石垣は、カクカクと折れ曲がりながら北東方向へ伸びています。曲線的に連なることが多いグスクの石垣の中でここまで直線的な折れは、違和感を覚えるほど目立ちます。この直線的石垣は資料に基づく復元なのか、あるいは観覧ルートのために模擬的に築かれたものなのでしょうか。

カクカク石垣の階段を下りると、右掖門北側城壁基部に現存遺構らしき石垣があるのは分かるとして、カクカク石垣の基部にも何やら古そうな石積み……? このカクカク石垣も、発掘成果などを根拠にした復元だというのでしょうか。むむむ。

カクカク石垣の北側には黒いフェンスが設けられ、その北には何やら石積みが見えます。

説明・案内等は見当たらず詳細不明ですが、これも何らかの遺構でしょうか。

カクカク石垣の階段下から北へ延びる道を歩くと、外郭北側城壁そばに整備された道に出ます。右手には淑順門と、正殿の屋根が見えます。

外郭城壁の外側に、遊歩道のような道が見えます。

外郭城壁は胸壁を伴い、複雑にカーブしながら西へ連なります。

休憩施設となっている、銭蔵跡です。高床風二階建てということは、この休憩施設の屋根上に銭蔵が載っていたようなイメージでしょうか。

銭蔵跡の東には、厩・係員詰所が平面復元されているようです。

銭蔵と久慶門の間には石垣が築かれ、久慶門をくぐっても銭蔵が見えないようになっています。その久慶門東に築かれた石垣の東側には、城壁に上り久慶門の櫓へ入れるよう石段が設けられています。

銭蔵の南側には、右掖門から延びる石畳の道が久慶門を過ぎ歓会門まで続いています。

久慶門の南にある水源「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」です。石畳道のすぐ南側にあり、写真奥には右掖門が見えます。

石垣に開いた穴の奥が水源でしょうか。穴の下部に設けられた石樋が、手前の方形に加工された水溜に延びています。

寒水川樋川の手前側には、あふれた水の通り道と思われる穴が見えます。水はこの穴から、いったん久慶門外側の左右へ抜けていくようです。

それでは寒水川樋川の北にある久慶門から出ようと思ったら、何やら様子が……。

外郭北側城壁に設けられたアーチ門、久慶門です。往時は通用門として使用され、現在は観光ルートの出口となっているようですが、訪問時は悪天候のためか、それとも他に理由があったのか不明ですが、通行できませんでした。

アーチ門上には櫓が載っているので、積み直された石垣は日差しや雨などから守られ、もとの美しい白色を維持しているのでしょうか。

 

外郭を出て、城外を歩きます。

久慶門が通れないので、歓会門を出て、北側外郭城壁の北を歩きます。

歓会門北側城壁です。方形加工された同サイズの石灰岩が隙間なく布積みされた城壁は隅部が曲面で整えられ、上端の隅頭石も相まってなんとも優美です。

外郭北側にはこのように、高さのある美しい城壁が続きます。

うーん、美しい。下の方は現存でしょうか。

これ、外観は昔の面影かもしれませんが、もはやアカギじゃなくてアコウの大木ですよね……。

歓会門からぐるっと回り込み、久慶門の外側に着きます。

歓会門と同様のアーチ門で、櫓が朱色に塗られていないのも歓会門と同じですが、久慶門は門の手前に石段と、両脇に低い石垣が築かれています。

櫓には色鮮やかな、横書きの扁額が見えます。

久慶門の左側には、寒水川樋川の説明にあったとおり、排水口があります。

方形石組上部に設けられた石樋は直角に曲げられ、石段と平行に北側へ水を導きます。

石樋の先にある石畳には傾斜がつけられ、石樋から流れる水を石垣に穿たれた穴へと誘います。

石垣の穴の先には水路があり、水はこの水路を通り写真右の穴へと入り、この先にある円鑑池へと注ぐようです。なんとも複雑で美しい排水ルート……! もしかしたら、暗渠にしてしまうのではなく、あえて通用門である久慶門の脇にこのような排水機構を設けることで首里城が持つ技巧や機能美をアピールする意味があったのかもしれませんね。

久慶門の右側にも、同様の排水機構があります。

このあたり、上部と下部で明確に城壁の様子が異なります。下部は現存部分でしょうか。

久慶門から東へ、城壁沿いに石畳と低い石垣が整備された遊歩道を歩きます。

突如フェンスが現れ、遊歩道はここで外側へ曲げられています。はて。

城壁から少し離れた遊歩道から城壁を見ると、何やら古そうな石積みがちらほら見えるような……。

遊歩道が再び城壁沿いの石畳へと戻った所で振り返ると、なるほどこのあたりは貴重な遺構があるようで、保存のため遊歩道が曲げられていたんですね。

分かれ道に出ますが、城壁に沿って、右手の階段を上ります。

振り返ると、中央奥に、復元された円覚寺総門が見えます。

写真中央奥、外郭城壁の内側に突き出て見えるのは、東のアザナでしょうか。

ここまで布積みだった城壁は、このあたりでは相方積みとなっています。基部に現存石垣らしき部分が見え、遺構に忠実に復元したのだと思われます。

振り返ると、大きくカーブする部分の中間あたりから積み方が変化しているようです。郭を拡張したか、あるいは劣化した城壁を修復したのでしょうか。

 

外郭城壁の東側には、「上の毛(うぃーのもー)」があります。

上の毛は東西に細長い丘陵地で、西端・東端にそれぞれ御嶽があったそうです。写真右奥に見えるのが外郭城壁の東端部で、その左手前に低い石垣で囲われ植物の生える場所が「国仲城御嶽」と思われます。

現在は公園として整備されている上の毛ですが、もとはグスクだったそうで、低い石垣と土塁に囲われています。

赤瓦屋根のトイレを過ぎると、低い石垣で囲われたエリアがあります。上の毛の東端部「カタノハナ」です。ここが、上の毛東側の御嶽でもあったのでしょうか。

高台にあるため物見として優れており、出城があったという説に納得です。

外郭城壁東端部付近まで戻り、左の城壁外ルートを歩きます。

 

上の毛を出て、外郭城壁の南側へ向かいます。

城郭の南東付近に下りてきます。

南へ歩くと、謎の鉄格子を見つけます。

どうやら井戸?のようですが、鉄格子上部の文字は「寒水川」と読めます。城内にある寒水川樋川と、何か関係があるのでしょうか。

寒水川と書かれた井戸から南東へ歩くと、継世門があります。門両脇の石碑は、古写真でも確認できます。

こちらから入ることはできません。最も美しい門と言われていたそうですが、櫓がネットで覆われており、まだ工事中なのかもしれません。

歓会門、久慶門、木曳門とこの継世門、外周部にある門は全てアーチ門かつ内側に凹み相横矢が掛かる構造となっており、防御力を高めていることがうかがえます。

櫓には、青色文字の縦書き扁額が見えます。

扉の格子をのぞくと、重機の背後に櫓門らしき建物が見えます。御内原へ通じる美福門と思われます。

これで外周部にある門は全て、見ることができました。

真珠道等の工事現場を、守礼門とは反対側から見ます。

木曳門の西側に、史跡碑を見つけます。左の説明板?は文字が読めません……。

小さな史跡碑と、琉球大学跡の碑もあります。

史跡碑から道を挟んで西側にあるのが、インフォメーションセンター「首里杜館」です。100名城スタンプは、首里杜館の館内で押しました。

 

ここからは、城郭中心部を離れ、綾門大道周辺の旧跡などを見て回ります。

中山門跡の南にある「美連嶽(めづらだけ)」です。かつては拝殿があったようですが、現在はそびえる巨岩が確認できます。

美連嶽の北、綾門大道の西端にかつて建っていたのが、守礼門と同型の牌楼式門「中山門」です。現在は説明板と、首里琉染の建物前面に大きく「中山門趾」の看板が掲げられています。看板の右側には、道標が見えます。

那覇港から訪れた人々に、ここからは王都のメインストリートだと告げるがごとく建っていた中山門に、思いを馳せます。

薩摩藩在番奉行などの控所、「御客屋(ウチャクヤ)」跡です。

御客屋は更地となってしまったようですが、その東には今も、安国寺があります。

安国寺の北には、「大美御殿(ウフミウドゥン)」跡があります。中城御殿は、龍潭の北へ移転する前には大美御殿の西にあったようです。

 

安国寺の西にあるのが、「玉陵(たまうどぅん)」です。

玉陵は、国指定重要文化財・史跡であり世界遺産でもあります。

第二尚王家歴代の陵墓、それが玉陵です。

「西の御番所(いりのうばんじゅ)」跡(?)です。戦前まで在ったはずなのに発掘調査で遺構が発見できなかったとは、一体どういうことなのでしょう……?

発掘調査をもとに復元された「東の御番所(あがりのうばんじゅ)」です。なるほど……この説明を読むと、ひょっとすると西の御番所だと思っていたのは東の御番所で、実際の西の御番所は違う建物で、調査地とは異なる位置にあったのかもしれませんね。

そしてこの石垣内に、陵墓があります。

上部が平たいですが、これはアーチ門……と呼んで良いのでしょうか。

門をくぐると、前庭です。左手には、入口近くの説明にある碑が見えます。

前庭と陵墓を仕切る石垣は低く、墓堂が見えています。

前庭と陵墓を仕切る、中門です。

此処より先は畏れ多い気もしますが、失礼して……。

中門をくぐると、三基並んだ墓堂が間近に見えます。

こちらが東室です。洗骨後の王と王妃が葬られたそうで、なるほど他の二室に比べ二階建て風の立派な作りです。

こちらが中室です。洗骨前の遺骸が安置されたそうです。

こちらが西室です。前庭の碑に記された、限られた家族が葬られたそうです。

当時の宮殿を表したという壮大な陵墓・玉陵。独特の形状と規模に驚き、城郭を構成する施設とは違うのですが、王家の威厳が感じられる素晴らしい史跡ということもあり、たくさんの写真を掲載してしまいました。

 

綾門大道から東へ歩き、城郭北側の史跡等を見て回ります。

久慶門の北にある、寒水川樋川からあふれた水が注ぐという円鑑池です。写真右手に、碑があります。

復元された「重修天女橋碑記」です。

円鑑池の中には、弁財天堂が浮かんでいます。

弁財天堂に架かるのが、修復された天女橋です。

橋を渡ると、史跡碑が立っています。

復元された弁財天堂を間近に見ることができます。

円鑑池が満水になると、龍淵橋を挟んですぐ北西にある龍潭へ注いだようです。おや、スタンプラリーは龍「潭」の字が誤っているようです。

橋とお堂が復元され、往時の姿が蘇った円鑑池です。写真左端に見えるのは、瑞泉門でしょうか。

城壁の上には、広福門・漏刻門に、系図座・用物座の屋根らしきものが見えます。

円鑑池の東にある、第二尚氏王統の菩提寺円覚寺跡です。

総門が復元されていますが、ここから入ることはできません。

総門の右手には石垣が連なり、その先に切れ目があります。

ここに掖門があったようです。

総門の左手にも掖門があったようですが、こちら側は石垣が積まれ、通路が高い位置にあります。

通路から、総門を見下ろします。

総門左側の掖門跡です。

掖門跡をくぐると、放生池と放生橋が見えます。放生橋の先の石段上に、山門があったのでしょうか。

南側には、淑順門・正殿・北殿など首里城の建物がすぐそばに見えています。

首里市庁跡付近からは、広福門がよく見えます。

首里市庁跡の北側には、貝摺奉行所なる役所があったようです。

 

琉球王府の中枢・首里城。大半の建物が復元されたその威容は、往時の栄華を思い起こさせ、在りし日のグスクというものの姿への理解を深めることができました。城壁の規模と形状、高低差と城郭への活用、排水機構、門・各郭の構成と防御システム、周辺の関連史跡などなど、見所はとんでもなく多く、まだまだ回れていない場所もあり、復元工事中の未開放エリアもあるので是非とも再訪したいですね。

日本100名城スタンプラリー、こちらで32城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。