勝連城に行ってきました。
続日本100名城(No.200)に選ばれた、沖縄県うるま市にあるお城(グスク)です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
城跡から道路を挟んで北東にある、休憩所です。続日本100名城スタンプは、ここで押しました。
休憩所内には様々な展示があります。
勝連城の築城はなんと13世紀前後! 世界遺産に登録されたグスクでは、最古だそうです。
建物の復元はあくまでイメージとのことですが、石垣しか残らないグスクが当時どのような施設であったのかを想像するのに、こういった模型は非常にありがたいです。アーチ門には櫓(?)が築かれ、門扉もあったんですね。
展示しているアーチ石の一部は、現物でしょうか。これまでふたつのグスク(今帰仁城・座喜味城)を見てきて石積み技術だけでも相当のものだと感心していましたが、こういった装飾まで取り入れていたとは、当時の技術力に驚くばかりです。
世界遺産認定書の複製も展示してあります。
休憩所の外にも、模型があります。こちらは建物表現はなく、石垣のみです。右の最高所が一の曲輪で、そこから階段状に二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪が南東方向へ連なり、さらに南東には東の曲輪が高所にあるという縄張り構造です。
城跡の南西側には、お墓や御嶽などが点在しているようです。
模型の脇に設置されている説明板です。自然地形を活かして曲輪を造成したんですね。
城跡周辺の文化財についても説明があります。
休憩所の駐車場から、石垣の頭が見えています。うーん、高い。
何やら工事中のようで、仮設歩道の案内があります。
案内に従い、仮設歩道から城跡へ向かいます。
高所にそびえている石垣が発する要塞感がすごいですね。遠くからでも全体像が見えるので、この距離からもう、テンション上がりまくりです。
城の北東には、防御田地が広がっていたようです。
四の曲輪へ向かいます。
歩道を上ると、道のすぐそばまで石垣が迫っています。四の曲輪外周城壁です。
城壁は丘を登るように、カーブしながら西方向へ伸びています。
城壁は道路で途切れていますが、道の反対側、東方向にも続きが見えます。写真手前の崩れかけた石積みも、城壁の名残でしょうか。
城壁の中が、四の曲輪です。
四の曲輪内に建つ史跡碑です。眼前の超カッコいい石垣に駆け寄りたいと逸る気持ちを抑え、まずは四の曲輪内を見ていきます。
勝連城を含む五つのグスクが、世界遺産に登録されています。
西原御門のそばにある、門口のカーです。「カー」は泉のことなんですね。覗くと、石組に囲われた泉の底には今も水が湛えられています。
パンフレットなどを見ると、門口のカーは西原御門を入って右手(北)にあるように描かれていますが、ガードレールの道は門口のカーより北を通っており、道が通された位置は西原御門より北なのかもしれません。
マチダ・ナケージガーです。んん、「カー」も「ガー」も同じ泉という意味なんでしょうか。こちらは水面が見えませんが、石組で整えられているのは門口のカーと同様です。
マチダ・ナケージガーは西原御門を入って左手(南)の城壁近くにあります。
写真奥、東の曲輪付近では城壁は草木に覆われ、東側へどこまで続いているのかは不明です。
このあたりの城壁は積み直していると思われますが、何故こんなにもナナメに復元されているのでしょうか……何か事情があるのかしら。
黒いパイプの通されたあたりに少し前は道が通っていたようで、ここが西原御門跡だと思うのですが……。道の変更は事情あってのことで仕方ないかもしれませんが、せめて西原御門が何処にあったのかぐらいは示して欲しいと思いました。城の正式な出入口がこの状態というのは、あまりに寂しいです。
四の曲輪のほぼ中央にある、カンジャガーです。水はありませんが、しっかりとした石組があります。
カンジャガーの南側では、発掘調査が行われているようです。
四の曲輪の南側にあった南風原御門を入ってすぐ左手(西)には、低い石垣に囲われたエリアと、門跡のような隙間があります。城にとって重要な人物の住居、あるいは城にとって重要な機能を有する施設などがあったりしたのでしょうか。
低い石垣に囲われたエリアのすぐ西にあるウタミシガーは、なみなみと水を湛えています。……え、水が豊富だと不作なんですか。
南風原御門跡付近から三の曲輪石垣を見上げる、個人的超お気に入りショットです。こちらの城壁も上部が欠損しているようですが、もしかしたら西原御門東側もここ南風原御門西側も、上部の形状が不明なためこれ以上の復元・積み直しができないのでしょうか。
南風原御門跡付近から南を望むと、色鮮やかな沖縄の海が広がります。かつては城の南にあった港が、貿易拠点となっていたそうです。
低い石垣で囲われたエリアは、かなりの広さです。
ウタミシガーの北にある、ミートゥガーです。中から木が生えています。
三の曲輪へ向かいます。
ぎゅいんと大きくカーブした石垣に導かれるように、三の曲輪へ通じる道に入ります。この道こそが勝連城の最高にスタイリッシュでカッコいい特徴だと思うんです。見た目の美しさだけでなく、高石垣に囲われた曲輪への進入路を狭くカーブする坂道一ヶ所のみに絞ることで防御力も高めているのが良いですね。この角度から見る、様々な曲線を描きながら幾重にも折り重なる石垣、たまりません。
綺麗に白く舗装された道は、途中から階段になります。
この位置からは見えませんが、写真右奥に見える四の曲輪外周城壁は、この奥で三の曲輪北面石垣に接続しているようです。
道の左側に見えるやや低い石垣は、崩落防止のいわゆるはばき石垣のような役割に思えますが、後に補強したのではなく、もともと斜面に沿って階段状に石を積んだのかもしれません。
岩盤が顔を出し、そのまま城壁に取り込んだような岩盤とのコラボレーション石垣も見られます。
木製階段の下には石畳が見えますが、これが本来の道でしょうか。
石畳の坂道は、門の手前で石段になります。
来た道を振り返ります。道に沿う石垣のカーブが本当にすごい!
そして四の曲輪との高低差もすごい! これまで見てきたスポットの位置関係がよく分かります。それにしても、東の曲輪はがっつり植物に覆われ、様子がまるで分かりませんね……。
三の曲輪出入口の門があったと思われる場所、両脇の石垣に二つずつ溝があります。これは……?
なんとここには、四脚門が建っていたようです。グスクの門にも色々あったんですね。
それにしても……薬医門の例にわざわざ東大の赤門を挙げているのにちょっと違和感を覚えます。薬医門は16世紀以降のお寺だけでなく、和式城郭にも数多くみられる様式だというのに……。知名度で選んだのでしょうか。
四脚門の柱が建っていたとされる溝には、片方ずつに礎石らしき石が見えます。
石垣と石段との間にも、門柱の礎石があるように見えます。
三の曲輪では見つかった遺構により時代の変遷が明らかになっているようです。説明には「廃城後に祭祀の場として使用された」とあり、なるほどグスクというものは常に軍事施設と祈りの場が同居していたというわけではなく、勝連城のように滅びた城の跡地が祭祀・礼拝の場として「再利用」された例もあるんですね。となるとやはり、この石垣要塞としてのグスクは軍事施設としての意味合いが大きかったと考えても良いのかもしれません。
四脚門跡から、三の曲輪の左側(南)を見ます。四脚門は曲輪の南寄りにあるため、すぐそばに外周城壁が見えます。
四脚門跡から、三の曲輪の右側(北)を見ます。こちらが三の曲輪のメインエリアで、奥には二の曲輪へ通じる石段がふたつ並んでいます。
城壁のそばに、グスクの石積み分類についての説明があります。勝連城は、大半が布積みだそうです。この外周城壁も、当時はもっと高さがあったのかもしれません。
石の並びで表現されたすり鉢状遺構です。けっこうな大きさです。
すり鉢状遺構は、もうひとつあります。いずれもグスク成立以前、あるいは築城初期の頃の遺構でしょうか。
写真中央、木の手前にふたつ並んでいる円が、すり鉢状遺構です。人と比較して、その大きさが伝わるでしょうか。
廃城後の祭祀に使用されたという、肝高の御嶽と、御嶽から石列がコの字型に配置されたトゥヌムトゥです。
トゥヌムトゥの西、南側外周城壁のそばには、二の曲輪へ上る石段(と補助階段)が見えます。
北側外周城壁のそばにも石段と、そのすぐ左にも石段があり、二の曲輪への石段は合計三ヶ所に設けられています。
二の曲輪へ向かいます。
写真手前のパイロン(2個目まで)が置かれているあたり、二の曲輪基壇が奥まっているのが分かります。舎殿の基壇は奥まっているラインより三の曲輪側へ出ており、舎殿の建て替えに合わせて二の曲輪基壇を大きくしたということでしょうか。
三の曲輪から、基壇の奥まっている部分を見ます。発掘したら古い基壇の石垣が見つかったとは説明に書かれておらず、舎殿の基壇に干渉しないこの部分はもともとこのような状態だったのでしょうか。
しかし、もともと基壇の一部を凹ませた状態が完成形ならば、このように中の栗石?が露出した状態にしておくのは不自然に思えるのですが。ここが切石でちゃんと蓋がされていれば、色々納得がいくんだけど……うーむ。
こちらが奥にある、古い時代の基壇石垣です。加工された切石を隙間なく積んでいます。
こちらは手前側、新しい時代の基壇石垣です。同じく加工された切石を隙間なく積んでおり、積み方に大きな違いは感じられず、古い時代の基壇を築いた段階で石積み技術は完成していたと思われます。
北東側では、二の曲輪基壇石垣にいくつか穴が見られます。排水口でしょうか。
南から、二の曲輪を見渡します。曲輪の半分以上を、舎殿が占めています。イメージ図では舎殿へ上る階段が中央と左右に計三つありますが、実際には右側にひとつあるのみで、残りは失われたのでしょうか。
舎殿脇のこの石積みは一体……? 石畳通路にしては位置が不自然に思えるので、もしかしたら「ひんぷん」の根元だけが残ったもの、でしょうか。
舎殿跡の四隅より少し内側にあるこの方形石積み、謎ですね……。
基壇北側の低い石垣、当時はもっと高くて、一の曲輪への侵入を阻む役割があったのでしょうか。
舎殿基壇と低い石垣との間に設けられた溝は、排水溝でしょうか。
ウミチムン、もともとはイメージ図のように屋根があったのでしょうか。
抜け穴説の残る、ウシヌジガマです。「ガマ」は洞穴を意味するようです。
舎殿跡とウミチムン、ウシヌジガマの位置関係はこのようになっています。背後には、高くそびえる一の曲輪石垣が見えます。
二の曲輪北側から、四の曲輪外周城壁が見えます。
北西を向くと、外周城壁のそばに、一の曲輪へ上るための階段が設けられています。
一の曲輪へ向かいます。
三の曲輪への道と同様、もとは石畳の所に、階段を設けているようです。
振り返ると、二の曲輪北側に築かれた低い石垣の形状・配置が分かります。
一の曲輪東側の、曲線的な隅部が見えます。
徐々に狭まる一の曲輪階段、もうちょっと上まで撮影すべきでしたね……。
階段の手前からだと、植物に阻まれあまり二の曲輪・三の曲輪を見渡せません。
階段の左には腰曲輪的なスペースがあります。有事に兵を待機させる想定などしていたのでしょうか。
麓の休憩所では一の曲輪城門付近からアーチ石が発見されたとありましたが、門跡には低い石垣しかありません。上部は失われたのでしょうか。
だんだん狭くなる階段を上ると道は曲げられ、敵の勢いを削ぎます。枡形虎口と似たような仕掛けですね。
階段の上からは、二の曲輪・三の曲輪城壁の一の曲輪への接続部が見えます。
アーチ門跡をくぐると、一の曲輪です。
説明板の図でも分かるように、一の曲輪は面積が最も小さく、かなり狭い印象を受けます。瓦が出土しており、瓦葺の建物があったようです。
建物礎石から転用されたと考えられている、玉ノミウヂ御嶽です。この穴から二の曲輪のウシヌジガマに抜けられるというのが、抜け穴伝説ですね。
かつてここには、宝物殿があったのでしょうか。
勝連城最高所の一の曲輪から、眺望を堪能します。
南東には、二の曲輪・三の曲輪と、森と化した東の曲輪らしきエリアが見えます。四の曲輪は低すぎて、ここからはよく見えません。
北東には、石垣隅部越しに右に休憩所、左に池が見え、いずれの周辺も工事が進められています。海の向こうに見えるのは、宮城島・平安座島・浜比嘉島あたりでしょうか。
気持ちいいほどぐねんぐねんの城壁です。
北西には、かつて城の財政を支えたという水田地帯に、今も農地が見えます。
一の曲輪を一周して、再び門跡が見えてきます。当時はこのように周囲が見渡せないほど高く城壁が築かれていたのでしょうか。
かつての城主も、一の曲輪から城下を眺めたのでしょうか。
こちら南側には、海が近くに見えます。貿易拠点として栄えたという港があったのは、あのあたりでしょうか。
一の曲輪を下り、帰路につきます。
階段下から、一の曲輪城壁を見ます。上と下とで雰囲気が異なるのは、現存と積み直しの差でしょうか。
一の曲輪へ向かう道の下にあるこのあたりの低い石垣も、役割が謎です。
舎殿基壇の北西には、奥への侵入を阻むように衝立のような石垣があります。
このあたりの城壁も、もう少し高さがあったのかもしれません。
三の曲輪城壁と通路石垣との接合部です。
ここの色の違いも、現存と復元の境界っぽく見えます。(そう思うだけですが)
最後にもう一度振り返り、美しい石垣を目に焼き付けます。
丘陵にそびえる石垣群と長大カーブ通路のデザインセンスに心奪われまくった勝連城。グスクはどれも個性的で、なんていうか発想の自由度が高いように感じますね。発掘・整備が一層進むことを、願っています。
続日本100名城スタンプラリー、こちらで7城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。