お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

【更新】2022/6/12「62.小机城」(2018/12/22訪問)の記事をアップ

61.松坂城

松坂城に行ってきました。

日本100名城(No.48)に選ばれた、三重県松阪市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

松阪牛で有名な松阪市、駅前にも牛さんがいます。

現在の地名は松「阪」、お城の名称及び旧地名は松「坂」、です。

実は小さな牛さんの向く先には、記念撮影用のゴージャスな牛さんと、観光案内所があります。御城印は、こちらで買いました。

案内所の裏には、銀鯰尾兜の氏郷公(っぽい武将)と松坂城の石垣が!

それでは、いざ城跡へ!(※この案内、実は帰りに見つけました)

 

まずは、移築門や周辺遺構などを見ます。

豪商のまち松阪には、城下にいくつかの商家などが残るようですが、今回は未訪です。まずは駅から南西へしばらく歩いた所にある、来迎寺(地図中央上寄り)へ。

多くの文化財を有する来迎寺、瓦に寛永二年とへら書きのある裏門が、松坂城からの移築だという情報があります。

こちらが伝・中門とされる、来迎寺裏門です。確かに、城門っぽい風格を感じます。

来迎寺から、北西へ歩きます。

一重の堀をめぐらせていた松坂城。どうやら、第一小学校の南にあるこの水路が、堀の名残らしいです。

説明板が痛々しいですが、先ほどの水路は途切れながらも北側へ伸び、市役所のすぐ南までかつての堀跡を伝えてくれます。当時の堀幅は、こちら大手側で特に広くなっていたようです。

四箇所あった出入口のひとつにしてメインゲート、大手門跡です。

絵図を見ると大手口は枡形となっていたようで、道が鍵の手に曲がっています。現在も、わずかに道がカーブしているのが、分かるでしょうか。

食い違い虎口の痕跡を見つけると、ああ、お城に来たんだなあって、感じますね。

 

大手門跡を越えると、三ノ丸です。

三ノ丸を大手通に沿って歩くと、高石垣が迫り、テンション急上昇です。

こちらの説明板、現在の地図に当時の堀が表示されており、堀跡追跡の際には非常に役立ちそうです。

表門の手前には、直進を防ぐ石垣が築かれ、枡形虎口を形成しています。

表門から南東には、二ノ丸石垣が立ちはだかり、門以外からの侵入を阻みます。自転車に乗る人と比べ、この高さです。

というわけで、昔も今も松坂城主要部のメインゲート、表門跡からお邪魔します。

蒲生氏郷公が築いた松坂城天守台を中心に螺旋を描くように連なる石垣が特徴的で、「渦郭式」とされる縄張り構造です。

自分はお城を訪れるとどうしても前のめりになりがちですが、周囲に気を配り、ルールやマナーを守ることを常に心がけないと、ですね。

表門跡の北側石垣は、木の根などが原因で劣化があったのでしょうか、修理工事の最中でした。

こちら側の石垣は整っているように見えますが、積み直しが完了したのでしょうか。

表門跡南側の石垣は大丈夫そうですが、天端石が一部欠損しているように見えます。

表門は古写真が残されており、南北の石垣をまたぐように立派な櫓門が建っていたようです。

 

表門を越えると、二ノ丸です。

二ノ丸に入ってすぐの所にある、蒲生氏郷公激推しの城跡碑と説明板です。入城後わずか二年で会津に転封となった氏郷公ですが、城下を整備し、今ある松阪の礎を築いたようです。

工事の看板みたいなモノが伏せられていて少し気になりますが、二ノ丸を南東へ歩きます。

算木積がやや未発達な、本丸の見事な野面積高石垣です。この上には、月見櫓があったようです。

月見櫓台から伸びる石垣が直進を阻み、反対側から伸びる石垣との間には、仕切門があったようです。このような低い石垣が残っているの、貴重だと思います。

仕切門跡を越え、二ノ丸の南東に広がる主要部に出ます。

巨大な藤棚の傍らに、「二の丸跡」の碑を見つけます。

元あった二ノ丸屋形は荒廃し、紀州藩領となっていた寛政年間に、新たに二ノ丸御殿が建てられ「徳川陣屋」と呼ばれたそうです。

横矢部分から見ると、今いる石垣の高さを実感できます。

写真右奥に見える小山は、お城の鎮守である八幡宮が祀られた南丘で、現在もその神社が松阪神社として在ります。

南には、江戸末期に建てられた御城番屋敷の東棟・西棟が道に沿って建ちます。

無名の櫓があったという、二ノ丸南隅の櫓台です。城内側から見ても、二ノ丸地表面よりかなり高く石垣が積まれています。

南北に長い櫓台の、北東に雁木が設けられています。石垣に注意しながら、上ってみます。

櫓台の隅部には、「チキリ」をはめ込んでいたような跡が見られます。

櫓台の西側が、裏門のあった虎口です。写真奥の石垣上が、隠居丸と呼ばれる曲輪です。

写真左端あたりに、裏門があったようです。

櫓台から北へ伸びる石垣上には、塀が建っていたのでしょうか。

裏門跡の北にある、本丸の太鼓櫓台です。

太鼓櫓台から北東方向へ、見事な高石垣が伸びます。奥が月見櫓台です。

 

隠居丸へ向かいます。

隠居丸の入口には立派な門がありますが、松坂城のものではないようです。

整った石段や、脇の亀甲のように積まれた石垣は、後に整備されたものと思われます。

隠居丸には、本居宣長の旧宅が移築されています。

鴟尾のついた門や、唐破風屋根の御殿風建物は、鈴屋遺蹟保存会の事務所として建設されたようです。

隠居丸は本丸の南、二ノ丸の南西にある曲輪で、曲輪名の由来は不詳だそうです。もとは藩主の隠居屋敷が建っていたのでしょうか。

釣瓶の滑車などは明治以降のものと思われますが、井戸自体は当時のものでしょうか。

米蔵跡です。隠居丸にはほかに、宝蔵と道具蔵二棟があったようです。

無名櫓があったという、隠居丸南隅の櫓台です。松坂城、無名の櫓多いですね……。

隠居丸から、裏門跡を見ます。虎口を入り右へ曲がると、門があったようです。

無名櫓があった二ノ丸南隅を見ます。石垣の高さに圧倒されます。隠居丸側の隅部に、何やらほぞ穴が見えます。

隠居丸西側石垣に、石段が設置されています。旧宅には、生垣の間から行けるようですが、これは一体……? とりあえず、石段を上ってみます。

北には、きたい丸の高石垣が見えます。こちらに埋門があったようです。

こちらが本居宣長旧宅です。ああなるほど、石段に上ると開け放たれた二階書斎がよく見えるというわけですね。

「県居大人之霊位」の掛軸が見えます。師である賀茂真淵の命日に、この掛軸を掲げ偲んだそうです。

石段を下ります。城跡とは直接関係ありませんが、せっかくなので公開されている本居宣長旧宅を見ます。

江戸中期の国学者本居宣長は、松坂に生まれ育ったのですね。

当時の一般的な商家とは構造が異なるようですが、江戸中期の貴重な現存家屋です、

お風呂があります。

上がることができます。

書斎「鈴屋」を見てみたいところですが、残念ながら上がることはできません。

国の特別史跡に指定されているんですね。

旧宅の西側が、埋門跡です。どのような形式の埋門だったのでしょうか。

埋門跡の北には、きたい丸高石垣です。奥の石垣には、排水口らしき穴が見えます。

高石垣の天端付近、隅石がずれてきているような……心配です。

埋門跡を出ると、隠居丸の南側へ出る坂道があります。

 

隠居丸の東側まで戻ります。

隠居丸の東には、本丸へ通じる石段があります。

鏡石……とまでは呼べないかもしれませんが、さすが本丸虎口、けっこうな巨石が用いられています。

南を振り返ります。左手が、太鼓櫓台です。

東を見ます。右が太鼓櫓台、左が本丸上段石垣で、この間にあったのが裏二ノ門こと中御門、だと思うのですが……。

中御門跡の碑が、中御門を抜け本丸へと上る石段の傍らに立っています。これは……?

おおっ、この巨石ばかりで構成された隅部、迫力ありますね!

中御門跡の虎口を振り返ります。やはり絵図などを見ても中御門は碑のある場所ではなく、石段を下りた先を右へ曲がった所に建っていたと思われますが……何らかの理由で、碑が動かされてしまったのでしょうか。

 

中御門を越えると、本丸です。

本丸は上下二段構成で、中御門跡の北東に広がるエリアが、本丸下段です。

本丸上段より、中御門跡(右)と太鼓櫓台(左)を見ます。中御門跡脇の石垣基部に設けられた側溝が、よく見えます。太鼓櫓が中御門をにらむ位置にあることも、よく分かります。そしてここにも「石垣注意」の立札。

太鼓櫓には、時を告げる太鼓が置かれていたのでしょうか。奥は、隠居丸です。

南側からは、裏門跡がよく見えます。裏門から本丸へは、太鼓櫓台があるため直進できず、太鼓櫓の下を南→西→北と回り込まないと本丸に入れません。この間、太鼓櫓からは裏門を抜けてきた敵兵を常に狙い撃ちできる状態にあり、太鼓櫓は本丸搦手における守りの要だったことが分かります。

太鼓櫓台からは幅のある石垣が北東へ伸びています。当時は太鼓櫓から本丸下段東端の櫓まで、多聞で連結されていたようです。

太鼓櫓と多聞で連結されていたのが、本丸下段東端に建っていた二層の月見櫓です。

月見櫓跡の碑から梶井基次郎文学碑をはさんで反対側に立つ「御跡」の碑。何の跡を指すのでしょうか……不明です。

月見櫓台は二層の櫓だけが建っていたにしては広く感じますが、月見櫓には台所棟と附属舎が付いていたそうです。

月見櫓からは、表門を抜け二ノ丸へ侵入してきた敵を狙い撃ちです。

月見櫓台から北西に伸びる石垣上には多聞が建ち、月見櫓と本丸下段北端にある櫓とを連結していたようです。

月見櫓と多聞で連結されていたのが、本丸下段北端にあった遠見櫓です。

遠見櫓跡からは、表門跡がよく見えます。

表門を抜けてきた敵を、遠見櫓の東から。

道を曲がり、遠見櫓の北から。(奥の建物は、歴史民俗資料館)

さらに曲がり、遠見櫓の西、表二ノ門こと助左衛門御門跡から。狙い撃ちまくりですね。本丸は大手も搦手も、櫓台を180度ターンさせる非常に堅固な虎口だったことが、よく分かります。

助左衛門御門を越えても石垣の壁があり直進できない構造も、大手と搦手で共通です。

遠見櫓台から月見櫓台を見ます。附属建物が付いていたという月見櫓台の大きさが分かります。多聞が建っていたという石垣は、少し幅が狭いようにも思えますが……。

 

本丸上段へ向かいます。

左の石段は中御門虎口を上ってすぐ西側にある、本丸上段への虎口です。右に見える、金ノ間櫓台の南側にも石垣が積まれ石段が設けられており、ここからも本丸上段へ行くことができます。右側の石段にはとても、違和感を覚えます。こんな近距離に、同じ曲輪に向かう道をふたつも作るでしょうか。このような守りの堅いお城に、本丸上段まで一直線のショートカットルート……どう考えても奇妙です。

というわけで、本丸上段への正式な虎口と思われる左の石段を上ります。石段を上ると正面に石垣があり、道は右へ折れます。おや、正面石垣の左に何か……。

雁木が設けられた狭いスペースがあります。虎口を駆け上がってきた敵が右折したのを見計らって背後から撃つために身を隠すエリアだったりして……妄想は膨らみます。

南側には、中御門の虎口がよく見えます。太鼓櫓とこちらで挟み撃ちです。

道はさらに左折し、簡単には通してもらえません。

この石段を上ると、ようやく本丸上段です。この虎口には、門はなかったのでしょうか。

虎口を振り返ります。右へ左へ、何度も道が曲げられています。

 

虎口を抜けると、本丸上段です。

本丸跡の碑の背後に金網で蓋がされているのは、井戸跡でしょうか。

本丸上段の南側には、低い石垣とそれに上るための雁木がいくつか見えます。そしてここにも「石垣注意」の札。柵が設けられていないため、「転落に注意」の意味が大きいのかもしれません。

本丸上段への虎口がよく見えます。

この下が隠れスペースです。奥に、太鼓櫓台が見えます。

南西へ石垣が伸びます。左は、隠居丸です。石垣上には、塀が建っていたのでしょうか。

石垣上を南西へ歩くと、折れ曲がった先、一段低い所に櫓台が見えます。本丸上段南西にある曲輪「きたい丸」の東隅櫓跡です。

 

きたい丸へ向かいます。

土塀の控柱を再利用したのでは、と思えるような形状の石段を下り、きたい丸の東隅櫓台へ下ります。

この直下が埋門で、隠居丸へ攻め入る敵をよく迎撃できそうです。

東隅櫓台から南西へ歩くと、南隅櫓跡です。

南隅櫓台には、いくつか石が見えますが、櫓の礎石にしてはあまり平らではないし、配置が偏っているように思います。

南隅櫓台から振り返り、東隅櫓台を見ます。東隅櫓台は天端石が一部欠損していたり、経年劣化を感じます。

一方、南隅櫓台周辺の石垣は非常によく整っています。積み直し修理が行われたのでしょうか。

南隅櫓台から北西へ歩くと、西隅櫓跡です。

櫓台の北東辺には、櫓への雁木が設けられています。石垣はなおも続き、この先では複雑に折れ曲がります。

振り返るとこの高さです。まさに「石垣注意」です。

西隅櫓台の北に、北隅櫓跡があります。きたい丸には、東西南北の四隅に櫓が配置されていたようです。

北隅櫓台には、ここから見える山の名称と高さが書かれた案内板があります。うーん、なんとなく分かる……ような。

北隅櫓台の北東辺には雁木があり、石垣はさらに北東へ続き、横矢部分が見えます。

この複雑な折れ曲がり! いやーたまりません。最高ですね。

石垣はさらに北東へ伸びますが……ここから先はきたい丸というより、本丸上段腰曲輪と呼んだ方が適切な気がします。

曲輪の中央付近に、きたい丸跡の碑を見つけます。曲輪の名称は、一時期城主だった古田重勝公の子・重恒の幼名「希代丸」にちなむと言われています。重勝公の家族が住む屋敷などが建っていたのでしょうか。

 

本丸上段の周辺を歩きます。

右はきたい丸東隅櫓台から伸びる石垣で、左に天守台があります。このあたりが、きたい丸と本丸上段との境目と言えるでしょうか。しかしこのあたりの石垣はなんだか……怪しいですね。

左側の天守台はもっと怪しくて、南西辺からいかにもぞんざいな石積みによる坂道が設けられ、きたい丸側から直接天守台に上がれてしまうのです。

いやいや、この構造はおかしいでしょ。さすがに後世の改変だと思いたいのですが。

そんな怪しい石積みの北西には天守台の西隅が見えます。木々の紅さに彩られ、美しいです。

氏郷公により築かれたと思われる、野面積の素晴らしい天守台です。

天守台のすぐ隣にある敵見櫓台では、隅部のみ加工された石による算木積になっていますが、江戸期の修復時には野面積と異なる工法が用いられることもあったようです。

本丸上段の北側、腰曲輪の北端にある藤見櫓跡です。「富士」ではなく「藤」を見るとは、なんとも優美な名前ですね。単なる文字遊びか、あるいは近くに藤の木があったのか。

本丸上段石垣の北東面にはこのように、排水口がぽっかり開いています。光が漏れているということは、向こうからも穴の存在を確認できそうですが……見落としました。石垣の下には、受け皿のような石積みがあります。

藤見櫓台の南東には、石垣へ上るための合坂と、櫓へ続く雁木があり、近いです。

藤見櫓の南東にあったのが、鐘ノ櫓です。

鐘ノ櫓台から藤見櫓台までは結構な幅の石垣でつながっており、多聞で連結されていてもおかしくないほどですが……。

石垣は、ご覧の高さです。

すぐ北にある、歴史民俗資料館がよく見えます。鐘ノ櫓の南東には助左衛門御門をはさんで遠見櫓があり、大手から本丸へ攻め入る敵を挟撃できます。

 

改めて、本丸上段へ向かいます。

金ノ間櫓台の南にある、(個人的に)疑惑の石段を、今度は上ります。これは推測ですが、明治期には本丸に南龍神社が建っていたそうなので、もしかすると、この石段も参道として明治期に築かれたのではないでしょうか。

石段を上ったところの石垣上からは、本丸上段への虎口がよく見えます。ここでも向こうの石垣とこちらとで挟み撃ちですね。

石段のすぐ北にある、金ノ間櫓跡です。二層の櫓で、なんと、その名の通り金箔張りの「金ノ間」があったそうです。要人の接待などに使われていたのでしょうか。

そしてこの金ノ間櫓跡は低い柱に囲われており、神社建物が建っていた雰囲気がします。もしかすると、ここに南龍神社の拝殿・本殿があったのでしょうか。だとしたら、「疑惑の石段」の参道説も補強されそうですが……はたして。

金ノ間櫓台は北側に広いスペースがあります。月見櫓と同様、台所棟と附属舎を伴う櫓だったようです。

金ノ間櫓台から低い石垣が北西へ、北端で南西へ折れて続きます。この石垣上には多聞が建てられ、本丸上段の各櫓と天守を連結していたそうですが……多聞、うーん多聞? この幅の狭い石垣上に、建設可能だったのでしょうか?石垣に上がる雁木が見える部分などは、どうなっていたのでしょうか。

金ノ間櫓台から、対角の敵見櫓台・天守台を見ます。あそこまで本丸上段をぐるり囲んで多聞が建っていたのなら、さぞかし堅固な構えだったことでしょう。

本丸上段には兵部屋敷があったとされ、これは古田「兵部少輔」重勝公の居館と言われているようです。

敵見櫓台には、雁木が設けられています。

変わった形の櫓台ですが、どのような建物があったのでしょうか。

敵見櫓台から北東へ伸びる石垣の幅はとても広く、ここに多聞が建っていたというのはうなずけます。

敵見櫓と天守は連結されていたそうですが、敵見櫓台と天守台の間にある石垣上に、これら二棟をつなぐ渡櫓か付櫓のような建物があったのでしょうか。

付櫓台?の敵見櫓台と反対側(南東辺)に、雁木があります。こちらが、天守への正式な入口でしょうか。

付櫓台?から天守台には、小さな雁木があります。

三層の天守があったとされる天守台には「天守閣跡」の碑が立ちます。天守は、江戸前期に台風で倒壊してしまったようです。

石棺の蓋を転用したと言われる天端石ですが、石棺にしては小さいような……?

天守台手前の付櫓台?はそこそこの広さがあります。

上を歩く人と比べると、天守台の大きさがよく分かります。

美しい天守台上に、美しい三層の天守を、夢想します。

 

本丸を下ります。

表門の石垣修理、北側西面では積み直しの最中みたいで、石にナンバリングがされています。

表門を越えた所まで戻り、今度は北へ歩きます。伏せられた看板の背後に、遠見櫓台が高くそびえます。

名前の由来が気になる、表二ノ門こと助左衛門御門跡です。家臣の名前などから付けたのでしょうか。

助左衛門御門跡の左(東)に遠見櫓、右(西)に鐘ノ櫓。挟撃態勢は、万全です。

遠見櫓台、歴戦の兵感があります。

パンフレットにもなっている、城跡散策マップです。石碑の説明が多いですが、櫓の構造など貴重な情報も掲載されています。

城跡散策中に何度も近くを通った、歴史民俗資料館にようやく入ります。純和風ながら、両翼を持つ左右対称の個性的な形状が、カッコいいですね。

100名城スタンプは、こちらの館内で押しました。

夥しい数の瓦が展示されていますが、松坂城のものはなかった、ような……。

と思ったら、館内の撮影OKゾーンにありました、松坂城の瓦! 様々な文様の瓦が出土しているんですね。鬼瓦にはなんと、金箔の跡が!

これらはいずれも本丸上段から出土したものらしく、松ヶ島城を移築したとされる裏付け資料のひとつにもなっているようです。

頭部はありませんが、うさぎの餅つきとはなんとも面白い。お城の飾り瓦にも、色んな意匠があったんですね。

 

歴史民俗資料館を出て、裏門へ向かいます。

左が二ノ丸、右が隠居丸です。ここを曲がると、裏門です。

二ノ丸側の石垣は大きめの石が多く、矢穴がたくさん見えます。

隠居丸側の石垣は石の大きさや矢穴にさほど差はないようですが、積み直されたのか、よく整っています。

この道を塞ぐように、裏門が建っていたのでしょうか。ここまで見てきたいずれの門跡でも礎石は見当たらなかったように思いますが、撤去されたのでしょうか。

二ノ丸南隅櫓台の西端部のみ加工石による整った算木積ですが、修理時に積み方を変えたパターンでしょうか。

裏門から出ると、隠居丸の石垣がそびえ、道は左折しています。ここから南に、御城番屋敷があります。

こちら、表門にあった案内図と文章の縦横が異なるだけで、内容は同じですね。

この隠居丸石垣の見事さ!

右手に見える常夜灯は、津の伊勢街道沿いにあったものが移設されたようです。

裏門跡から城跡主要部を出て、石垣に別れを告げます。

搦手虎口も素敵です。

名残惜しくて、撮影してしまいます。だって石垣カッコいいんだもん。

 

御城番屋敷へ向かいます。

裏門跡を出ると、道路の向こう、道の両脇に御城番屋敷の主屋が建っています。道が少し曲がっているのは、当時のままでしょうか。

紀州藩領となっていた松坂城の御城番として生活していたのがこの長屋組屋敷で、江戸期の武家屋敷建物が現在も住居として使用され続けているのは他に例を見ないようです。

これだけ大きなひとつながりの建物に、(内部は分割されているとはいえ)何世帯もの人々が暮らし続けているというのも、非常に珍しいように思います。

土蔵は、隠居丸の米蔵が移築されたものと言われ、松坂城主郭部唯一の現存建造物ということになります。

壁や瓦は美しく、修復が行われているようです。

貴重な建造物であることは、間違いないでしょう。

御城番屋敷のうち、西棟の北側一戸が市により借り受けられ、復元整備・一般公開されています。これはありがたい。

こちらの説明板では御城番長屋とされています。

こういったお屋敷で暮らす方々が、御城番を務めていたのですね。

屋敷から裏門までは、この距離です。お城に何かあっても、すぐに駆けつけられたことでしょう。

今も御城番の子孫の方々などが暮らす、国の重要文化財。とても貴重な、城内に残る建造物です。

左手に少し鳥居が見えていますが、西へ行くと、松阪神社です。

ここから南東には、城内への裏口である搦手門(竹御門)があったようで、主郭部の警備と、城内への侵入者の警戒と、両方をこなすのに好立地といえそうです。

 

石垣の高さ・美しさもさることながら、縄張りの妙と虎口の高防御力に唸らされた松坂城。堀跡をたどり城郭の規模を体感する、城下の商家を見に行くなど、今回の訪問で未達成のミッションが明確になったので、また是非訪れたいと思います。

御城印(左)には、蒲生氏の家紋である「対鶴(むかいづる)」があしらわれています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで25城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。