お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

【更新】2022/6/12「62.小机城」(2018/12/22訪問)の記事をアップ

6-2.伊賀上野城

伊賀上野城に行ってきました。

日本100名城(No.47)に選ばれた、三重県伊賀市にあるお城です。

 

前回訪問時はお城超初心者だったので、ゼロからのつもりでじっくり見ていきます。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

まずは、東大手門跡です。

南を見ます。ここより33m先まで外堀だったというので、かなりの堀幅です。道路がゆるやかに東へカーブしているのは、大手門枡形で道が東へ折れていたことの名残でしょうか。

北西を見ます。大手門を越えると城内・二の丸で、現在はすぐ北に上野市駅があります。遠くに、天守が見えます。

続いて西大手門跡です。伊賀上野城は、二の丸南の外堀に沿って東西に大手門があったようです。

こちらは東と違ってクランク状の道路(左折ルート)となっており、当時の道がそのままの形状で残っているのかもしれません。写真は門手前から北を見ており、西大手門は枡形内で道が西へ折れていたようです。東西の大手門いずれも、本丸から遠い方へ道が曲げられており、防御を意識したお城の縄張りを感じます。

「西大手門跡の辻」碑から南東のクランクと西大手門跡の碑を見ます。おそらく、写真の範囲がすっぽり全部、巨大な枡形虎口だったと思われます。

西大手門跡を北へ歩くと、瓦屋根の門が見えます。

藩校・崇廣堂の表門です。赤いです。津城の支城だった伊賀上野城、藩校も津の藩校・有造館の支校として建てられたそうです。

まだ9時前で、門は閉ざされています。後ほど訪ねます。

こちらは藩校の御成門です。

門扉の上には、津藩主である藤堂家の家紋・藤堂蔦が見えます……が、ちょっと首をかしげているような。

藩校の塀にも、藤堂蔦。

付近には、明治期の貴重な校舎が残されているようです。そして、藩校のほかにも江戸期の貴重なお城の痕跡が、残っています。

写真右の案内にあるとおり、この道を進むと本丸の高石垣ですが、右手の上野高校内に、「それ」はあります。

あっ、見えました! 本丸南西「武具蔵」エリアにあった建物のひとつ「手当蔵」です。原位置にある城内唯一の現存建造物と思われます。

東面・西面は建物に挟まれ見えませんが、北からも少しだけ見えます。南側と屋根の形状が異なります。

 

武具蔵の北が、本丸です。

本丸西面にそびえるは、高さがなんと30m、日本有数のスペシャルな石垣です。関ヶ原合戦の後、西にある大坂城(豊臣方)への備えとして、家康公の信任が厚い藤堂高虎公の築城時に築かれたそうです。

高さでは大坂城に一歩及ばなかったようですが、石垣上の天守や大木が小さく見えてしまうほどの巨大さ! さすがは築城の名手・高虎公です。

良いアングルですが、逆光と、手前の植物が少し邪魔なのと。

右が城跡北側への道ですが、左の道は、堀跡などを反映しているのでしょうか。

案内に従い、内堀沿いの道を北~東へ歩きます。

途中、木々の隙間からのぞく高石垣を堪能します。反りが少なく直線的な隅部は、高虎公の石垣に共通しているように思います。

ちょっと裏手から失礼して……。忍者博物館の北、奥に見える屋根が、貴重な現存建物である移築米蔵でしょうか。普通に入場料払えば見学できるようなのですが……やっぱり行けば良かったです。

写真左に見える道より、北から本丸へ入ります。

当時もこちらに本丸への虎口があったようですが、石段や周囲の石積みは当時のものではないように見えます。

本丸北虎口より東側では水堀はなくなり、空堀となっています。

 

石段を上ると、本丸です。

東には、城代屋敷跡の石垣が見えます。

そして西には、天守です。

高虎公の五層天守が建造中に倒壊して以来、江戸期に天守が再建されることはありませんでしたが、昭和期に地元出身の政治家により建てられた復興(模擬)天守がこの「伊賀文化産業城」です。

木造で建てられた天守は、三層と小ぶりながら小天守を伴い、破風や出窓などの装飾も立派で、見応えがあります。

こちらは天守北面で、ふたつ並んだ千鳥破風がまた違った印象を受けますね……って、何でしょうかこの、天守台手前に積まれた大量の小石は。

天守台の北~西にかけて、夥しい量の小石が堆積しています。石垣の裏込めに用いる栗石のように見えますが……。高虎公の天守建造時に使用される予定の栗石が倒壊のため使われず放置された、昭和期の天守再建時に余分な栗石が撤去された……等々、妄想は膨らみます。一部絵図には、本丸北側に栗石が貯蔵されているような記載があり、これだけの高石垣だと頻繁に修築の必要があり、あらかじめ栗石を常時大量にストックしておいていつでも石垣メンテできるように備えていた? もしかして天守台付近の小石は、倒壊し建造されなかった天守台付近をすぐそばの高石垣メンテ用に貯蔵していた栗石だったりして……?(※個人的な妄想であり、根拠はありません)
いずれにせよ、これだけ大量の小石に埋もれた天守台、ほかでは見られない特徴だと思います。

天守台の北には、高石垣の天端石がずらり。

一部ロープが張られているものの、柵などはなく、覗き込むには恐怖と危険が伴います。天端石の上に重し?のように置かれている石は、もとは建物礎石だったりするのでしょうか。

北面の横矢部分から、おそるおそる……。

この高さ、伝わるでしょうか。攻め手には絶望的な壁です。

こちらは本丸南西隅から、すぐ北西にある横矢を見ています。石垣、グラウンドのネットより高いように見えます。

南西隅からは、手当蔵がよく見え……るんですが、木が邪魔ですね。

当時のお城を今に伝える、貴重な建造物です。

使われた矢穴、放棄された矢穴、どんな形状の石材をどういった向きで積んでいるのか……天端石を見るだけでも、様々な情報が得られます。

「日本一・二の高さで有名な高石垣」と書かれたこの案内、日本一と書けない悔しさと、それでも全国トップクラスなのだという誇りが垣間見えて、すごく好きです。

 

高石垣を離れ、本丸南虎口へ向かいます。

石畳を下ります。

道の分岐点まで下ってきました。右が本丸南虎口、左へ進むと本丸の東にある城代屋敷へ出ます。

南虎口から入って正面、ひとつ前の写真左端にも写っていたのが、大きく立派な史跡碑と説明板です。昔も今もお城の正面玄関すぐ内側という、素晴らしい場所に立っていますね。

本丸南虎口を、内側より見ます。本丸と二の丸の間には、長大な馬場が東西に伸びていたようです。

坂を下り、南虎口を外側から見ます。枡形ではありませんが、左右に石垣が築かれた、厳重な虎口です。絵図では石垣の中ほど、カラーコーンの奥あたりに門があったように見えます。

虎口の西に伸びる、本丸南面石垣を見ます。奥に、横矢部分が見えます。手当蔵はもう少し西にあるようで、ここからは見えません。

おっと、虎口の西では石垣が少し崩れてしまっています。カラーコーンを置く意味が分かりました。

本丸南面石垣の虎口東側を見ます。奥に見える、南へ張り出した石垣のすぐ南まで、内堀があったようです。

虎口東の石垣は、整っています。

虎口西側石垣は、西へ分岐する道の所で消失していますが、絵図では南虎口から本丸西側へ直接通じる道はなく、石垣はゆるやかに東へカーブしていたように見えます。この西へ曲がる道は、後世に通されたものでしょうか。

史跡碑の背後にはいかにもな池がありますが、こちらも絵図には存在せず、公園化の際に掘られたものかもしれません。

絵図に描かれているのは、南虎口から東へ大きく曲がり城代屋敷へ通じる、こちらの道です。

天守まで戻ります。

五層の天守が建っていたところに三層の天守を建てているので、天守台がずいぶん余っているのが分かります。高虎公の五層天守は、どれほど壮大だったのでしょうか。

天守台の積石は大きさも形もよく整えられ、たくさんの矢穴が見えます。

反りのない直線的な隅部、いいですね。隙間から小石が見えているのは、小さな間詰石を用いているからか、裏込石が見えてしまっているのか……。

階段は、もとからあったのか、昭和の再建時に設けたのか……。石積みの雰囲気が異なるようにも思えます。

100名城スタンプは、天守内で押しました。

階段を上ると、大天守台の高さをより感じます。

門をくぐると、階段の先に、青い鯱がいます。(指写り込み、撮影失敗)

説明を読みましたが、鯱には一言も触れられていません……。

天守内へ入ります。

前回は展示物ばかり撮影していましたが、これは再び撮影したくなりました、高虎公の兜! 実にインパクトがあります。

大手門や櫓の図面です。東西大手門、櫓門の多聞櫓が枡形をぐるっと囲んでいたんですね……これは強そう。

天守最上階です。折上格天井の色紙は前回撮影済につき割愛。

最上階からの眺望です。

南です。白鳳門や上野市駅周辺が見えます。

西です。広大なグラウンドには、御殿が建っていたようです。

屋根瓦に、藤堂蔦を見つけます。

北です。高石垣の威容は、天守からだと味わえないようです。

東です。城代屋敷跡が見渡せます。配水池の南に、筒井氏時代の天守があったようです。

南西です。手当蔵は……かろうじて屋根が見えます。

最上階から下ります。天守内部の様子も、撮影していきます。

前回とほぼ同じアングルですが、どうしても撮りたくなる「ヒゲオヤジ」小天守です。

天守を出て、門を通り過ぎ、小天守へ入ります。

抜け穴に通じるという、小天守内の「忍び井戸」です。

愛嬌ある復興天守天守台上に、高虎公の武骨な五層天守を、夢想します。

 

城代屋敷跡へ向かいます。

城代屋敷跡の北西、台所門西側石垣です。解体修理が行われたようで、非常に整っています。中央の凸部に、台所門があったのでしょうか。

解体修理に伴う発掘調査時に見つかった古い石垣(筒井氏時代?)と版築土塁について、絵図と写真入りで詳細に解説された、情報量の多いありがたい説明板です。

城代屋敷の裏門、台所門跡へ続く石段です。

振り返り、南を見ます。下り坂に沿って、城代屋敷西面の石垣が続きます。

裏門から坂を下り、表門へ向かいます。

石垣が東へ折れる所に、表門への石段があります。裏門と違って、石段が曲げられた直進できない虎口です。

下り坂に沿って築かれた石垣は、表門付近ではかなりの高さがあります。石積みが非常に整っていますが、このあたりでも解体修理が行われたのでしょうか。

石段を上った所に、礎石があります。表門跡です。

きっちり方形に加工された礎石には、ほぞ穴が見えます。

表門を過ぎると枡形のようなエリアがあり、東へ曲がり石段を上るとようやく、城代屋敷です。写真奥、石の説明板あたりに、玄関があったようです。

説明板には、城代屋敷の絵図に現在平面復元されている内容が記載され、このエリアを歩くのに欲しい情報がてんこ盛りです。

説明板のすぐ北が、式台跡です。式台の北には玄関と、広間や書院などの表向き建物の部屋が連なっていたようです。

式台の南側には、表門の枡形及び南面石垣上から東西方向と南東隅から南北方向に、長屋群があったようです。棟によって役割は様々で、写真奥のベンチが並ぶ南面石垣上の東西棟には家臣の詰所が、説明板のある南北棟には稽古場や接待所があったようです。

広間の東では、庭の池状遺構が発掘されたようです。縁石は、廊下を表しているのでしょうか。

これより北東、写真左奥あたりには、筒井氏時代の天守が建っていたようです。

こちらは四方を建物に囲まれた、表向きの中庭です。発掘された飛び石や石列が復元されており、庭の様子をイメージしやすいですね。

表向きの西側には小部屋群があったようで、足元には式台の西にあった小玄関の表示が見えます。

小部屋群の西からは、表門虎口がよく見えます。表門の西側石垣(写真左上)上には、保管庫に使用された長屋群があったようです。

表向きの北端、居間周辺です。北側の奥向き建物跡は、配水池に埋もれてしまっているのかもしれません。

表向きの北西、表門の北にある高石垣上には、下台所があったようです。

下台所と上台所の間からは、建物内を流れる石組溝という興味深い遺構が見つかったようですが、現地ではそれがどのあたりにあったのか分かりづらいのが、残念です。

台所棟の北、奥向き建物があったエリアには、配水池の巨大タンクが居座っています。

城代役所跡の碑は、発掘調査前に立てられたものでしょうか。

この広大な敷地に、所狭しと城代屋敷の建物がひしめいていた様子を想像するのは、何も残っていない今となっては、少し難しく感じます。

表門跡から城代屋敷跡を歩き、台所門(裏門)跡まで戻ってきました。

綺麗に積み直された石垣の向こうに、天守が見えます。

台所門周辺では、多くの発掘成果があったようで、写真と絵図との対比により分かりやすく解説されています。

発掘により規模が判明し、平面復元されている大納戸蔵です。

円で表示された、水溜跡です。

北から塩噌蔵、米蔵、柴小屋に使用されていた、大納戸蔵西側の長屋跡です。石垣は、復元されたもののようです。

柴小屋の南には、同じくらいの低い石垣に雁木が設けられた方形の区画があります。西側の石垣だけ少し高くなっている、謎のエリアです。

絵図には「炭小屋」とあります。当時どのような建物があったのか、まるで想像がつきません。

石垣凸部を覗くと、栗石が見えます。石についた割跡?は当時の矢穴には見えないので、新たに調達した石材と思われます。

炭小屋跡の南にも広いスペースがありますが、絵図ではここに建物はなかったようです。

台所門のすぐ北東には石組溝が東から南へ折れ、城代屋敷の方へ続いているようです。溝は西側では暗渠となっているようで、石で蓋をされた溝が写真手前へ伸びています。

ここの石垣は修理されたのか石が新しく、西側隅部が何故ふたつあるのか、気になります。

台所門の礎石には、矢穴やほぞ穴が見えます。

表門に引けを取らない、立派な櫓門が建っていたのでしょうか。

城代屋敷跡の北にある道を、東へ歩きます。

城代屋敷の北から東にかけては内堀があったようですが、配水池建造などに伴って改変があったのか、今は本丸東にある曲輪へこちらの坂道から直接行くことができます。写真は坂の途中で城代屋敷方向を振り返って撮影し、左手が配水池です。右の土塁には矢穴らしき跡の見える石が埋もれていますが……本丸石垣の名残でしょうか。

下り坂は、北東へ大きくカーブし、本丸東の曲輪へ通じます。このあたり、内堀跡に架かる土橋となっているようです。

土橋の北西では、内堀が北西方向へ続いています。

土橋の南東にある窪地と溝が、内堀の続きと思われます。

その南では道となっていますが、堀跡だとよく分かります。

本丸南側のこの石垣が張り出した部分の南まで、内堀は続いていたようです。

手前の低い石垣は、崩落防止のため築かれた「はばき石垣」でしょうか。

石垣の隅部を見ると、手が勝手に撮影してしまうんです。

 

再び、本丸に入ります。

南虎口から史跡碑手前を右へ曲がり、本来の登城道と思われる坂道を上ります。

途中で、脇道があります。こちらを下ると、城代屋敷跡の南面石垣などが見られたかもしれませんが、行っていません。

城代屋敷表門手前の高石垣まで戻ってきました。いやーここの石垣も素敵です。

本丸北虎口から下り、高石垣を見ながら城跡を後にします。

 

参観時間前に訪ねた藩校・崇廣堂へ向かいます。

表門が開き、説明板が出され、参観できる状態になっています。

表門は創建当初の建物ですが、藩校時は西側が供待所で、今の外観は明治期の姿だそうです。ふむ……?

その表門西側建物、現在は展示室となっており、中を見られます。屈曲のある木をそのまま使用した梁が、良いですね。

藩校の復元模型が展示されています。現存建物であっても年月を経るうちにどうしても撤去・改変されてしまう部分もあったりするので、こうした模型は当時の様子を知ることができ、非常にありがたいです。

なるほど、表門の西側には扉などのない開け放たれた供待所があったのですね。今は供待所が撤去され、切り詰められた状態ということでしょうか。

御成門は当時、講堂の東側にあったようです。写真の講堂・玄関棟などは現存し、中を見ることができます。

展示室を出ます。

表門より西側には馬術・槍術・柔術など各種武術の武道場があったようですが、現在は中学校となっています。表門すぐ北、植え込みのあたりには兵学寮があったようですが、撤去されたようです。

こちらが参観可能な藩校建物で、左から台所棟・玄関棟・講堂です。

まずは復元されたという、壁の色が異なる左の台所棟へ向かいます。

台所棟すぐ南にある、復元されたトイレです。玄関側には目隠しのための塀が設けられています。塀の前には、井戸があります。トイレの屋根瓦にもちゃんと、藤堂蔦が見えます。

写真が下手すぎですが……扉つき大便所がふたつと、その右に小便所、写っていませんが大便所の左にもうひとつ小便所があります。昔も今も、人はトイレに行くわけで、昔の人の生活を知る上で、こうしてトイレまでちゃんと復元することって、とても大事だと思うんです。素晴らしい。江戸時代からすでに、大小便所が別々にあったんですね。

トイレのすぐ北が、台所棟です。屋根には、煙出し窓が見えます。

土間は天井が高く、かまどが並んでいます。

土間の北西隅に、お風呂があります。いわゆる五右衛門風呂というやつでしょうか。

裏側には、焚口があります。

台所棟は、東側で玄関棟とつながっています。

台所棟の北には、蔵や物置が並んでいたようで、素晴らしいことに、便益施設などが当時の絵図にある建物配置どおりに、外観復元されているようです。写真左手前の建物はポンプ小屋だそうですが、当時の絵図には「土蔵」とあり、ちゃんと土蔵風の外観です。

こちらは絵図には「書物蔵」とありますが、当時の蔵でしょうか。右奥に見えるのは北控所で、蔵と控所の屋根には、藤堂蔦の瓦が見えます。

こちら参観者用のトイレですが、絵図ではここに薪部屋・炭部屋・物置と記された倉庫があり、形状も絵図だとL字型で、このトイレと同様だったと思われます。個人的に、城跡にある観光客向けの便益施設等は当時の建物の配置・外観を踏襲してもらえるのが望ましいと常々考えているので、ここ崇廣堂は当時のトイレを復元した上で、観光客用のトイレを倉庫のあった場所にそれっぽく建てるという、きわめて(個人的に)理想的な姿となっており、嬉しい限りです。

なんだかトイレを連呼していますが、そこまでトイレにこだわりがあるわけではありません……。

玄関まで戻り、仕切り塀の東側へ歩きます。

内側から藩主専用門・御成門を見ます。明治期にこちらへ移築されたとあり、当時は復元模型のとおり、東側にあったようです。

藩校南東隅にある年少者向け学寮「有恒寮」です。いや、この建物は御成門すぐ南にあった年長者向け学寮「思斉舎」を移築したものだから思斉舎と呼んだ方がいいのか、でも現位置と扁額は有恒寮のもので……ああややこしい。

こちらはここにあった有恒寮の、現存扁額です。

この建物は移築された思斉舎で、床の間があります。

トイレもあります。

こちらが講堂です。屋根の下に「崇廣堂」の扁額が見えます。直接出入りできるような階段が、南側には三箇所、設けられています。

講堂の中は、広々としています。

講堂のすぐ西に附属する、小玄関です。藩主専用玄関らしく、屋根瓦には藤堂蔦が見えます。絵図によると、当時の仕切り塀は小玄関の西ではなく、すぐ東にあったようです。

小玄関のすぐ西が、大玄関です。さすが正面玄関、立派な構えです。屋根瓦にはもちろん、藤堂蔦です。

大玄関の西には、下玄関があります。身分や役職などにより出入口が厳格に使い分けられていたようです。

それでは、大玄関から中に入ります。

江戸期からの現存建物の中を見て回れるのは、本当にありがたいことです。感謝します。

大玄関は、教官の通用口だったようです。

たくさんの部屋と、奥には中庭が見えています。

嘉永年間の大地震でも倒壊を免れた講堂です。生徒は、先ほど外から見た階段から直接出入りしていたようです。

先ほど外から見た小玄関の北には、北控所に続く廊下が伸びます。

北控所、こちらが藩主専用のVIPルームです。

すぐ南に、中庭があります。

壁と廊下を隔てて東にも、中庭。この南が、玄関です。

北から中庭を回り込み、東の両側を壁に仕切られたこの狭い廊下を進むと……。

玄関棟に戻ります。もっとこう……後から見返して建物の構造が分かるよう撮影しないとですね。玄関棟の解説にある天井の違いなども、見逃しています。

台所棟、へり無し畳なのはこの写真で分かりますね。

 

藩校を出て、帰路につきます。

本丸南虎口の南にある模擬門・白鳳門です。当時ここに門はなく、東西には長大な馬場が広がっていたようです。

 

締めは天守……ではなく、高石垣です。

うーん、ちょっと暗いですね。

こちらは朝と太陽の向きが変わり、良い光加減になりました。上にいる人影から、石垣の巨大さが伝わるでしょうか。

 

振り返ると、写真の枚数は増えてきたものの、アングルがイマイチだったり肝心な所を撮り逃していたりで、まだまだ「お城を撮る」ということへの未熟さを感じます。

 

日本屈指の現存高石垣を誇る伊賀上野城。発掘・整備された城代屋敷跡や貴重な藩校など見所は多く、大手門跡以外にもまだまだ周辺に痕跡をたどれそうです。

御城印(右)には、藤堂蔦があしらわれています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで24城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。