お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/4/14「83.府内城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

55.駿府城

駿府城に行ってきました。

日本100名城(No.41)に選ばれた、静岡県静岡市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

静岡駅前にある竹千代君像です。竹千代とは、家康公の幼名です。

同じく静岡駅の近くにある、貫禄満点の家康公像です。背後の葵タワーには葵の御紋が掲げられ、「家康公が愛したまち静岡市」とあります。

 

徳川家康が築城し、隠居後の家康公の居城でもあった駿府城

静岡は、やはり家康公推しのようです。

 

それではまず、周辺遺構から見ていきます。

東海道府中宿の上伝馬本陣・脇本陣跡です。駿府の城下町は、東海道最大級の宿場町としても大いに栄えたようです。

ここから、東海道を歩きます。

呉服町の町名は今も残っているようです。

少し歩いた所にある、呉服町と府中宿の説明板です。地図や絵図から、お城と東海道の位置関係が分かります。

高札場の跡である札之辻址は、今も四つ辻です。

東海道は、ここで南側へ折れています。

 

東海道を離れます。

札之辻址から北へ歩くと、立派な石垣と堀が見えてきます。三ノ丸堀(外堀)と、三ノ丸石垣です。

石垣の向こう、三ノ丸南には現在、静岡県庁があります。

城郭内に県庁が建っているお城といえば、福井城を思い出します。あちらは本丸、こちらは三ノ丸ですが。

県庁前には本来道はなく、後世に石垣を壊して道を通したと思われます。道沿いの石垣断面に、改変された様子がうかがえます。

 

ここから、三ノ丸堀を時計回りに一周してみます。

目地の通った切込み接ぎ石垣の美しさに見惚れます。三ノ丸石垣でこの規模とは、さすが家康公の居城です。

本来三ノ丸をぐるり囲んでいたはずの三ノ丸堀は一部現存せず、この先から西側は途切れています。

四つあった城外から三ノ丸へ通じる門のひとつ、四足御門跡です。

枡形東側の石垣がよく残っています。道路を挟んだ向かいの建物に埋まる石垣は、櫓門のものでしょうか。

見事な四足御門跡石垣を観察します。

隅部は精密に加工され、非常に良く整っています。

北側では隙間が多く打込み接ぎのようになった部分もあり、矢穴や刻印が刻まれた石もあります。刻印の存在は、地元の方が教えてくれました。感謝です。

四足御門跡からひとつ西の道を北へ歩くと、やがて大きく西へカーブしています。当時の三ノ丸堀ラインの名残と思われます。

カーブの先からは、三ノ丸堀が復活します。右手に、櫓台と思われる張り出した石垣が見えます。

絵図などを見る限り、櫓台のすぐ南が三ノ丸堀だったようなので、櫓台から右側の石垣は後世の改変と思われます。

立札によると、ここからしばらく三ノ丸堀が続き、石垣も見られるようです。

櫓台のすぐ北では石材のサイズ・形状がよく揃った布積みの切込み接ぎでしたが、さらに北側では石の大きさにばらつきのある打込み接ぎが見られます。これも場所ごとに別の大名が担当する天下普請ゆえでしょうか。

写真右の石垣はコンクリート等で固めてあるように見えますが、後世の補修でしょうか。

北へ歩くと、石垣の張り出し部が見え、その向こうには橋があります。ここから三ノ丸堀は少しだけ西へふくらみます。堀外側の石垣は、当時のものなのでしょうか。

絵図では当時ここに橋は無かったようなので、後世の改変と考えられます。道路の両脇あたりの石垣は積み方が異なり、改変されたことが分かります。

堀沿いに北上すると、西へ張り出していた三ノ丸堀が少しだけ東側へ寄り、石垣も堀に合わせて曲げられています。こういう堀が屈曲する箇所に生じる石垣の複雑な面構成、大好きです。

ここで堀に堰が設けられ、水面の高さが変わります。

なおも北へ歩くと、三ノ丸西側に続いていた堀は大きく折れます。三ノ丸北西隅まで来ました。当時は石垣隅に隅櫓などが建っていたのでしょうか。

写真奥にも石垣の張り出しが見え、ここまでいくつもの横矢掛りが設けられていることが分かります。絵図と比較してもよく一致するので、三ノ丸の縄張り形状は良好に保存されているようです。

前の写真で奥に見えていた横矢掛りまで来ました。同じ切込み接ぎでも、右奥は横の目地が比較的揃っているのに対し、左はあまり目地が揃わず、石の大きさにもばらつきがあります。ちょっとした違いを探すのも、楽しいですね。

さらに東へ歩くと再び横矢掛りと堰が現れ、堀の水位が下がります。堰は、後世に築かれたようです。向こうには、橋が見えます。

三ノ丸堀の北に架かる橋のあたりには、城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつ、草深御門がありました。しかし、広い道路が通されるのに合わせて石垣も大きく破壊されてしまったようで、門の痕跡をたどることは難しくなっています。

草深御門跡東側の石垣に不自然さを感じます。こちら側が大きく壊され、積み直されたのでしょうか。

草深御門跡から東へ歩くと、また横矢です。

ここから堀が南東へ屈曲します。三ノ丸の縄張り図を見ると、北東角はナナメにカットされ、南西隅は欠けています。やはり鬼門・裏鬼門を意識した縄張りということでしょうか。

三ノ丸北東隅で堀は途切れてしまいます。ここから横内御門跡までは、堀跡は商店街になっているようです。

このあたりの地名は水落といい、かつては三ノ丸堀北東隅から北街道沿いに巴川までつながる水路があり、船で清水港まで行くことができたようなのですが……詳しくは後ほど。

堀は途切れていますが、三ノ丸石垣は残っているのを建物の隙間から確認できました。

城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつ、東辺に位置する横内御門跡です。

説明板の現在地表示からすると、説明板背後の石垣が櫓門を支える石垣で、植え込みの向こうに門が建っていたのでは……と想像します。

横内御門跡南側の道路は後に通されたもので、写真右奥に見える小さなアーチ橋の場所に当時は木橋が架かっていたと思われます。

道路の南には、三ノ丸堀から二ノ丸堀へ通じる水路が残っています。この水路、駿府城の大きな特徴でもあるのですが……詳しくは後ほど。

横内御門を越えてすぐ、三ノ丸北東には在番組頭屋敷があったようです。

三ノ丸南東隅まで来ると、また石垣と堀が現れます。おや、石垣に何か……。

たくさんの鳩が羽を休めていました。

城代橋は後世に架けられた橋で、当時ここに三ノ丸への出入口は無かったようです。石垣にも、改変の跡がくっきり見えます。城代橋を渡った先の三ノ丸南東には、城代屋敷があったようです。

城代橋の西、横矢石垣の向こうに、土橋が見えます。

城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつにしてメインゲート、大手御門跡です。このすぐ西に県庁へ通じる道路があり、これで四つの門すべてを訪れ、三ノ丸堀の外側を一周したことになります。一周するのに(立ち止まって撮影しながらですが)約一時間かかりました。駿府城外周の規模が、伝わるでしょうか。

説明板にあった「歩道に記された柱礎石の位置」とは、グレーに色を変えてあるタイルのことでしょうか。かつては道路をまたぐ形で、立派な櫓門が建っていたと思われます。

三ノ丸南辺にある二つの門は、西の四足御門が堀を渡って左へ曲がるのに対し、東の大手御門は渡って右へ曲がるよう建てられているのは、三ノ丸南辺中央に敵兵を集中させないよう考えての設計でしょうか。

大手御門枡形石垣はどこも精密に加工された切込み接ぎなのに対し、北側門礎石跡付近だけが打込み接ぎになっており、とても気になります。

大手御門枡形の北にそびえる巨大なビルに圧倒されます。静岡県庁東館と別館です。何やら工事中のようでした。

天下普請の石垣と高層庁舎とのコラボというのも、なかなか見られないかもしれません。まさか城内に天守をも見下ろす建物ができるとは、家康公もびっくりでしょう。

石垣と県庁東館との間に階段があり、大手御門枡形の背後に回ることができます。当時もこのあたりには、櫓門内へ上るための雁木などが設けられていたかもしれません。

大手御門石垣の表面は、美しく仕上げられています。

 

大手御門跡を越え、二ノ丸堀へ向かいます。

二ノ丸南東隅に復元された、巽櫓です。この端に寄った入母屋破風、どこかで……そう、大坂城の乾櫓に似ています。巽櫓は、大坂城の乾櫓と同様にL字型平面を持つ非常に珍しい櫓です。復元にあたって石垣が積み直されたのか、櫓基部の石垣は真新しい色をしています。

L字の屋根に三つの鯱が載っているのが大きな特徴ですが、壁には狭間も石落しも見当たらず、割とシンプルな外観です。

櫓と高層庁舎とのコラボです。

巽櫓の北には、東御門も復元されています。

木橋と門と、隅櫓。この一角は、かつての駿府城の威容が蘇っています。

 

ここからは、二ノ丸堀を時計回りに一周していきます。

二ノ丸堀の南は「家康公の散歩道」と名付けられているようです。自らの居城を端から端まで歩いたかどうかは分かりませんが、堀端のこの道をかつて、家康公も歩いたかもしれません。

……おや、その散歩道に、誰かいるようです。

東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さん像です。駿府城下で休憩中といったところでしょうか。十返舎一九は、駿府の出身だったのですね。

堀の向こうに、見事な二ノ丸石垣が続きます。が、石が新しく見える箇所もあるように思えます。

駿府御城惣指図からは、三重の堀で囲われた縄張りの様子がよく分かります。駿府城は、本丸の周囲を二ノ丸が囲い、さらに外側を三ノ丸が取り囲む「輪郭式」と呼ばれる構造です。

駿府御城惣指図をよく見ると、建物などの名称や、堀幅、石垣の大きさに至るまで詳細に記されているようです。これは貴重な資料です。

このあたりの石垣は、平成二十一年の地震により大きく崩落し、復旧工事をされているようです。道理で石が新しく見えたわけです。大きく崩れてしまった石垣をここまで復旧してくれたことに、感謝です。

積み方の異なる部分が目立った大手門枡形の石垣も、もしかしたら地震被害により崩落し、積み直されたのでしょうか。

駿府はわさび漬発祥の地だそうです。江戸時代からあるんですね。

二ノ丸南ほぼ中央に橋が架かっていますが、当時ここに二ノ丸への出入口は無かったようです。橋付近の東側石垣に、改変されたような違和感があります。

橋の西側石垣は、後世に積み直され固められてしまったような雰囲気があります。

三ノ丸から二ノ丸に通じる門は当時四つあり、そのひとつが、二ノ丸御門です。昭和期に埋められ、先ほど見た新たな出入口が設けられたようです。石垣をよく見ると、本来の門跡を小さな石材で埋めてあるのが分かります。

二ノ丸御門跡の西、二ノ丸南西隅に、櫓が見えてきました。櫓付近は石垣の色が異なり、櫓復元にあたって積み直されたと思われます。

平成二十六年に復元された、坤櫓です。二重三階の櫓で、二階部分に出窓があります。出窓のせいで、どうも豚の顔みたいに見えて仕方ありません。

灯籠のような街灯が、お城とよく合います。

堀があり、石垣があり、櫓がある。これぞお城、という光景です。

それにしても、一度豚の顔に見えてしまうと、もう頭から離れません。立派な隅櫓のはずが、愛嬌を感じてしまいます。

駿府古絵図には、城下の町割りが細かく記されています。

 

三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、西辺にある清水御門跡です。枡形門だったようですが、枡形石垣は残っていないように見えます。清水御門を越えると当時はすぐ北に西喰違御門があり、容易に天守にはたどり着けない厳重な構造となっていたようです。

石垣の一部は過去の地震で崩落し修復されないまま……との情報もあるようです。確かに、二ノ丸石垣は一部が途切れ、土塁のように見える箇所があります。

二ノ丸北西隅は石垣が残っています。地震で崩れなかったか、あるいは積み直したのでしょうか。

二ノ丸堀の北を東へ歩くと、橋が見えてきました。橋の両脇は当時の石垣に見えますが、その右手側には後世に固めたような石垣も見えます。

三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、北辺にある北御門跡です。ここは当時の石垣がよく残っているようですが、門礎石は見当たりません。北御門を越えると当時はすぐ西に馬場先御門があり、こちらでも天守方向の守りは厳重だったようです。

二ノ丸北東隅は石垣がありますが、周囲には土塁状の部分も多く見られます。

北東隅から南側、東面の石垣は積み直したように見えますが……どうなのでしょうか。

さらに南へ歩くと積み方が変わり、江戸期の雰囲気を感じる石垣に戻ります。

御水門跡です。このすぐ東には、先ほど横内御門跡付近で見た三ノ丸堀から二ノ丸堀へつながる水路があり、二ノ丸堀の御水門跡から続く水路は二ノ丸を横断し……詳しくは後ほど。

二ノ丸堀を一周し、東御門まで戻ってきました。一周に三十分少々かかったようです。

あらためて、三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、東辺にある東御門です。堀に架かる木橋とその先の高麗門、門の両脇には狭間のある土塀、枡形を囲う多聞櫓、すぐ脇で二ノ丸南東隅の守りを固める巽櫓まで、この一角はかつての駿府城の威容が、パーフェクトに再現されています。素晴らしい!

東御門の手前には、木製屋根付きの雰囲気ある説明板があります。

木橋を渡り、大きな高麗門をくぐります。門両脇の石垣には、巨石が用いられています。

枡形はコの字型の多聞櫓に囲われており、北辺が櫓門となっています。

高麗門を枡形内側から見ます。土塀には控柱があり、土塀裏へ上がるための雁木も見えます。門扉には潜り戸があり、小屋根の瓦には葵の御紋が見えます。

櫓門石垣は復元されたものか、新しさを感じます。隙間なく美しく組み合わされた切込み接ぎです。

櫓門石垣に比べ、雁木には年代を感じます。立札には、狭間の解説が書いてあります。

櫓門付近から、枡形南石垣と多聞櫓を見ます。石垣中央付近の段差が気になります。

枡形西石垣は南に比べぴっかぴかです。大きな石も使われています。

櫓門は、脇戸が両脇にあります。

人がいない時に撮影したかったのですが、なかなか去る気配がなく……しびれを切らしてしまいました。我慢が足りませんね。

櫓門を越えた所に、東御門の説明板があります。寛永年間に焼失後、再建された姿を復元したようです。よくぞここまで完璧に復元してくれたものです。

櫓門を内側から見ます。巨木をそのまま用いたような極太の梁が素敵です。

枡形石垣の外側には、雁木があります。多聞櫓へ上るための設備でしょうか。

 

東御門を越え、二ノ丸内へ入ります。

中堀(二ノ丸堀)の内側にある本丸・二ノ丸は現在、駿府城公園となっています。内堀(本丸堀)は明治期に埋め立てられたようで、一部発掘・復元された箇所以外は消失しており、本丸と二ノ丸との境界は非常に分かりにくいのが現状です。しかしながら案内図を見ると、発掘箇所以外でもかつての内堀外側のラインが示されている部分もあるように見えます。

この屏風のような説明板、カッコいいですね。

東御門と巽櫓は、有料で中に入ることができます。櫓門の二階部分が入口になっています。なお100名城スタンプは、東御門の北にある券売所で押せます。

入口付近から、櫓門を見ます。この高さから見られるの、いいですね。

櫓門へ入るなり、大御所・家康公が出迎えてくださいます。なんと畏れ多い!

「厭離穢土欣求浄土」や金扇は、家康公が用いた旗印・馬印として知られているそうです。

東御門の内部は資料館となっており、様々な展示があります。

石垣の刻印と、刻印が表す大名とその領地を示した地図です。西からこれだけの大名が天下普請に駆り出されていたのですね。四足御門跡で見た串団子のような刻印は、この中にはないようですが……。

これは、二ノ丸御門跡付近にあった駿府御城惣指図の原図でしょうか。

石落しや格子窓から敵を狙う兵のシルエットがいます。

城郭の構造図とその説明です。詳細な門の構造や、発掘調査の成果も紹介されており、非常に興味深い内容です。

復元された東御門と巽櫓の模型です。全体が視界に収まると、構造がよく理解できます。

寛永年間以降の本丸御殿は、規模が大幅に縮小されたようです。

駿府御城惣指図などを基に、寛永十五年以後の城郭が1:250スケールで復元された精巧な模型です。これは素晴らしい! 数ある展示物の中でも、目玉と呼べる逸品ではないでしょうか。

模型を東方向から見ます。横内御門の構造や、三ノ丸堀から二ノ丸堀へつながる水路の様子が見て取れます。

模型を西方向から見ます。史上最大とも言われる天守台は、さすがの存在感です。

先ほどの写真にも写り込んでいた、これまた目玉展示と呼べるであろう、駿府城天守の模型です。天守の姿には諸説あるところ、研究成果に基づいた復元案のひとつを模型化したようです。

三重の小天守の隣に独立してそびえる大天守は、天守台上に「天守丸」と呼べる郭を形成していたようです。天守台の四隅に櫓と、それらを連結する多聞櫓、その中心に建つ大天守。江戸期の淀城も、このような外観であったそうです。

この模型では、五重の外観に、最上階は廻縁高欄付き、銅瓦葺屋根となっています。

天守との連結部分の構造が知りたくて接写しますが、焦ってピンボケ……。石垣の壁により、大天守へ直進できないようになっていることは分かりました。

信長の安土城、秀吉の大坂城、そして家康の駿府城が、復元イラストで揃い踏みです。

二ノ丸堀底から見つかった、東御門のものと考えられる青銅製の鯱です。

多聞櫓内から、東御門枡形を見ます。高麗門から侵入する敵兵を狙い撃ちです。

こちらは展示物の超目玉、城郭周囲の城下町までもを再現したスペシャルな模型です。

これは……凄まじいですね。整然と区画された城下町の様子がよく分かります。

大御所時代の駿府城下町を再現した模型ということらしく、先ほどの寛永期模型にはなかった天守や隅櫓なども復元されているようです。

東御門を出て、こちらの渡り廊下から巽櫓へ入ります。

L字型平面の巽櫓一階は、外側に入側部分が設けられ、内側は畳敷きです。

二階へ上がります。

臨済寺にある家康公が幼少期に使用したとされる「竹千代手習いの間」が、巽櫓二階に再現されています。臨済寺は通常拝観できないそうなので、実物同様に復元された部屋を見られるのは有難いことです。

部屋を覗いてみます。天井に描かれた竜の絵が見事です。

二階には他にもいくつか展示品があります。天井の梁が見事です。

巽櫓を内側から見ると、L字型平面をしているのがよく分かります。

発掘調査により再び姿を現した、本丸堀の南東隅部分です。本丸石垣の南東隅部も、しっかり確認できます。

北側の説明板には発掘当時のものと思われる写真が掲載されています。石垣は積み直さず、発掘されたものをそのまま展示しているように見えます。説明板の写真では、もう少し北側まで発掘されているようなのですが……。

かつて本丸を一周していた堀がこの状態なのは、寂しく感じてしまいます。

本丸堀の北西にある、土塀風パネルです。この前から撮影すると、東御門と巽櫓がいい具合に収まるのでしょう……しかし、訪問当時はそこに思い至らなかったのか、土塀前から撮影した東御門と巽櫓の写真は、ありません……。

 

ここから南西の、二ノ丸御門跡方向へ歩きます。

三つある本丸への出入口のひとつ、御玄関前御門跡です。本丸の正面玄関的な最も重要な門だったようですが、周囲は公園化されており、門の痕跡や周囲の縄張り形状は把握が困難な状態で、説明板で門の位置が示されているのみです。

現二ノ丸橋付近にある説明板には、公園入口ということもあってか、駿府城の概要が記されています。

二ノ丸御門枡形内にある説明板です。枡形北側と中仕切りの石垣は、発掘調査によって位置が特定されたようです。木槌のような刻印は、先ほど東御門で見た刻印一覧だと伯耆国・南条元清公の担当でしょうか。

二ノ丸内側から、二ノ丸御門枡形を見ます。左の石垣から道をまたぐように渡櫓門が建っていたようですが……右側の枡形石垣が失われているため、イメージしづらくなっています。

二ノ丸御門の枡形内部です。街灯の右あたりに、高麗門があったのでしょうか。

二ノ丸御門の枡形内から、渡櫓門方向を見ます。うーん、やはり片側だけの石垣ではどうにも枡形感に欠けます。枡形を越えた所の中仕切り跡も、途中に通路が設けてあってなんだかなあ……と思ってしまいます。

枡形石垣、平面表示でもなければ復元でもない、この中途半端さは個人的にどうにもいただけません……。

二ノ丸御門枡形西側の石垣は何やら積み方が怪しい気もしますが、刻印石も見られるので現存でしょうか。

渡櫓門の石垣は、隅部に切り揃えられた巨石が用いられています。よく見ると、矢穴や刻印のある石も見られます。

二ノ丸御門枡形の北に、地震で崩落し再利用できなかった石材を用いた石垣モデルがあります。右側は打込み接ぎ、左が切込み接ぎとなっています。

二ノ丸南西隅の、坤櫓が見えてきます。豚鼻のように見える出窓は、外側だけに設けられているのが分かります。

オリジナルキャラクター「しろお」が出迎えてくれます。

櫓台基部石垣は、埋め戻されているようです。

今見えている石垣は、埋め戻した櫓台の外側に新たに築いたため、櫓のサイズに合っていないということでしょうか。

入口前から坤櫓を見ます。屋根瓦には、葵の御紋が見えます。

櫓の中に入ります。

床の一部がガラス張りになっており、礎石など床下の構造が見えます。

天井も一部がスケルトンになっていて、梁の様子や屋根裏の構造まで見通せます。天井や床をスケルトンにしてしまうというのは非常に面白い試みです。

駿府城で出土した金箔瓦が展示されていました。見事に金箔が残っています。すごい!

 

それではいよいよ、今駿府城で最もホットなエリアに向かいます。

本丸北西にあった、日本史上最大と言われる天守台の発掘調査現場です。

現場を仕切る土塀風のパネルには、様々な解説があります。

パネルには透明部分が設けられ、現場の外側からでも内側を覗き見ることが出来ます。おおお。

この場所からは、天守台から本丸への接続部分の石垣が見えるようです。

確かに、南北に連なる石垣が見えます。おおお。

当時の絵図に、現在の調査個所が記されています。現在進行形の発掘!

発掘調査現場入口へ向かいます。

本丸堀の外側、二ノ丸側の石垣も発掘されたようです。おおお。

なるほど、手前のブルーシートが二ノ丸側石垣、奥のブルーシートが天守台ですね。

現在進行形で、天守のミステリーに挑んでいる現場です。

ついに入口まで来ました。入る前からワクワクが止まりません。

入りました!おおおー!

これが外からは見えなかった、二ノ丸側の石垣でしょう。

そしてこれが……天守台!すげー!

手前の矢穴が見える慶長期石垣と、奥の天正期野面積み石垣が並んで見られる箇所です。なるほど、解説パネルの写真どおりに石垣が見えるので、非常に分かりやすいですね。

天正期と慶長期の石垣では勾配や裏込めの範囲にも違いがあったのですね。そしてここは金箔瓦の大量出土地……うひょー!

このあたりが慶長期の小天守台だったようです。

大御所の天守台は、江戸城を抜いて日本一!

それにしても、慶長期の天守台を発掘したら天正期の天守台まで出てきたの、本当に驚きです。素晴らしい発見ですよね。

よくぞこれだけの天守台石垣が、無事に埋まっていたものです。

現場の一角に、隅石がぽつんと展示してあります。

天守台石垣の劣化を防ぐため、防護ネットを張るそうです。

作業員の服装にもこだわりがあるの、素敵です。

天守台の隅部が検出されて規模が特定できたのは、大きな成果だと思います。

ブルーシートの隙間からチラリと覗くのは二ノ丸側の本丸堀石垣と思われますが…随分と状態が良さそうに見えます。

明治期に埋め立てられた本丸堀から、取り壊された天守台の石が大量に出土しているようです。位置の特定は……難しいのでしょうか。

慶長期天守台の北西隅です。

こちらは、慶長期天守台の北東隅です。奥の御天守台下御門跡付近も石垣が埋もれているように見え、今後の発掘が楽しみです。

 

発掘現場を出ます。

天守台の南東、本丸に立つ、家康公像です。晩年の姿を表したそうですが、鷹狩の最中に見えます。

背後で進む天守台の発掘調査に、大御所は何を思うのでしょうか。

家康公像のすぐ近くには、家康公お手植と伝わるミカンがあり、なんと県の天然記念物に指定されているようです。

二ノ丸北御門のすぐ西にあった馬場先御門跡です。周囲の石垣などは残っておらず、説明板によって場所が示されているのみです。

馬場先御門跡の南東には、本丸堀の外側ラインをおおよそ縁取っていると思われる石列があります。(ただし、写真左手に見える公園通路両脇の石列を除く)

石列をたどって南へ歩くと、本丸堀が発掘・復元されている箇所があります。

そして、本丸堀から外側へ、細い水路が伸びています。

天守台発掘現場と並び、個人的に駿府城の大きな見所と考える、二ノ丸水路です。城が海からつながっており、船で清水港から天守下まで行けることが、家康公の夢だったという話もあるようです。清水港から巴川・北街道の水路を抜け三ノ丸堀北東から横内御門より水路を通り二ノ丸堀へ入り、御水門からこの二ノ丸水路を通って本丸堀へ入ると、港から天守の真下まで船でたどり着ける、という構造です。これは他に類を見ない、駿府城ならではの特徴と言えるのではないでしょうか。

実際に家康公が船で港から天守まで行ったかどうか定かではありませんが、この水路にはロマンを感じます。

 

明治以降の本丸堀埋め立てや江戸期の地震被害などにより遺構が不鮮明な部分も多いですが、復元や発掘が進み当時の威容が垣間見えるようになり、現在進行形の発掘現場が見学できる貴重な城跡でもあり、今後がとっても楽しみなお城だと思います。個人的には、本丸堀と本丸縄張りのラインが明確に把握できるようになれば嬉しいです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで19城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。