お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

【更新】2022/5/13「60.知覧城」(2018/12/9訪問)の記事をアップ

56.掛川城

掛川城に行ってきました。

日本100名城(No.42)に選ばれた、静岡県掛川市にあるお城です。

 

駿府城の後に訪れたため、掛川駅着が14時前となりました。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

掛川駅前に徒歩七分と案内があります。パネルの写真、とても良い構図ですね……見習わねば。

城下町っぽい外観に建てられた信用金庫のすぐ南を、東海道が東西に走ります。

大手門通りは、信用金庫をはじめ白壁に瓦屋根の建物が並び、景観が整備されています。

奥に、復元された大手門が見えています。

近くまで来ると、その大きさが分かります。さすが大手門、立派な構えです。

本来は50mほど南側に建っていたようですが、訪問時に道路の表示は見つけられませんでした。

門の前から天守が見えますが……美しさを味わうには少し遠いような。

左に脇戸があり、二階櫓部分には狭間が見えます。屋根には鬼瓦と、大きな鯱が載っています。

奥の番所は、当時と同じ位置関係に配置されているようです。

北から大手門を見ます。左には二階櫓へ上がる階段があり、右側にも何かあるようです。

発掘後そのまま移設された根固め石です。この手前に、家紋付きで歴代城主の一覧があったのに、撮影できていません……。

大手門の復元に合わせて移築された、現存番所です。番所の現存例は少なく、貴重な遺構です。

屋根瓦の桔梗紋は、明治まで掛川藩を治めた太田氏のものでしょうか。

近世城郭の主要な門には番所が附属することが多かったようですが、現在、門と番所の両方が見られるお城は非常に少ないと思われます。そんな中、大手門と番所をセットで見られる掛川城の大手門は、当時の雰囲気をより感じられます。

 

大手門を越え、北へ歩きます。

逆川に架かる大手橋の親柱は屋根付きで、大手門のようにも見えます。当時もこのあたりに橋があったようです。

逆川は城郭中心部のすぐ南を流れ、天然の堀として機能していたようです。大手橋からは天守と、太鼓櫓も見えます。

南へ振り返ると大手門が見えますが、当時はもっと南、大手郭の南入口に建っていたようなので、これほど大きくは見えなかったかもしれません。

絵図によると、大手橋を渡った所にも門があったようです。

大手橋から北へ歩き、交差点に差し掛かると、中央図書館が見えてきます。

交差点を西へ歩くと、道の南に見える細い水路は、堀の名残でしょうか。絵図にはこのあたりに、堀があります。石垣も古そうですが……。

さらに西へ歩くと、道路の北に赤い橋の架かる大きな池がありますが、これも堀跡と思われます。

現在は二の丸入口まで道路がまっすぐ通されていますが、当時は写真手前と奥にそれぞれ門があり、道は幾度も曲げられ、お城の中枢へやすやすと侵入させない厳重な守りがあったようです。

二の丸から道路を挟んで南側にある、現在は公園になっている三の丸跡です。奥には、四足門と太鼓櫓が見えています。

道は今も昔も二の丸入口付近で南へ折れ、三の丸(写真左)と本丸(右)を隔てています。

 

二の丸へ向かいます。

こちら二の丸南入口の階段や塀は後世のものに見えますが、当時の入口もここにあり、表門が建っていたようです。門柱(表門跡?)の向こうに、御殿の玄関が見えます。

写真右をよく見ると、城址碑が写っています。

むむむ、この特徴的なウロコ状の石垣は古そうですが……いつの時代のものでしょう。そして石垣に気を取られ、訪問時には城址碑の存在に気付いておらず、この写真でも右端で切れてしまっています。

特徴的な破風の写真や間取り図付きの説明板です。現在ある御殿は、駿府城にも甚大な被害を及ぼした東海地震により倒壊した後、文久元年に再建されたものだそうです。

これまで現存四御殿を二条城、高知城川越城と訪れてきて、ついに来ました四つめ、掛川城二の丸御殿に! って、手前のポール邪魔ですね……。

中へ入る前に、外側を一周してみます。

玄関の右手にも入口が設けられていますが、現在こちらから入ることはできません。

東側が出っ張っています。

ここにも出入口が設けられていますが、現在は出入り不可です。戸の奥は土間でしょうか。

北側へ回ると、天守が見えてきます。

西側には、縁側が設けられています。

西側の中ほどに突き出た小部屋がありますが……戸に何か書いてあります。

「城主の厠」とあります。殿様専用トイレですね。

この下から、汲み取りをしていたのでしょうか。

書院棟を南へ歩くと、再び玄関が見えてきます。

掛川城御殿で最も特徴的なのが、この玄関屋根の起破風(むくりはふ)ではないでしょうか。このなだらかな凸曲線、なんとも味わい深いです。屋根瓦や蟇股には、現存番所と同様に桔梗紋があしらわれています。

 

玄関から、御殿の中へ入ります。

玄関の注意書きに「撮影OKです」を確認します。ありがたいですね。

玄関を上がり、外を振り返ります。当時も門柱の場所に門があったとしたら、門をくぐるといきなり御殿玄関なんですよね……ビビりますね。

100名城スタンプは、御殿内で押せます。番号を書いてくれているのが親切ですね。

玄関を入ってすぐの広い部屋が、御広間です。現在は受付があり、100名城スタンプやお土産売場もあります。

玄関東側出入口から外を見ると、すぐそばに土塁が見えます。

御広間の西は、観光のために襖を取り除いているのか、随分と開放的な感じです。左に見える黒い欄間は、高知城にもあった竹の節欄間でしょうか。

三の間です。

太鼓櫓に置かれていた大太鼓と思われます。

三の間の北が、御二の間です。

二条城などに比べると欄間や釘隠しはシンプルですが、そこがまた味わい深いと思うのです。

三の間の西が、次の間です。ここで城主を待つの、緊張しそうですね……。

御二の間の西が、御用部屋です。

御用部屋からは、中庭が見えます。

ただ中庭を撮影しただけなのですが、改めて写真を見ると、屋根の重なりや雨戸の様子、床の高さ、柱の礎石など、たくさん見所がありますね。

次の間の北には、格式高そうな部屋があります。

御書院上の間です。城主様の、おなーりー。

床の間の掛け軸は、太田家の家老が書いたものとあります。「虎」? これ、虎ですか……。

違い棚です。釘隠しをよく見ると、これも桔梗紋なんですね。

上の間の北には、板張り廊下があります。

上の間の北側にも、似たような部屋があります。

小書院は、城主のプライベートルームだったようです。

小書院の北に、次の間があります。

さらに北には、長囲炉裏の間があります。現在、囲炉裏はないようですが、鎧兜が展示されています。そして、天井に注目です。

太田氏の家紋・桔梗と、替紋・違い鏑矢が彫られています。

御殿再建の上棟式に用いられた、梵天という祭具が展示されています。

長囲炉裏の間の北にある廊下を東へ歩くと、途中に階段が設けられ、床が低くなります。

格子窓の南に、奥庭が見えます。中庭より南北に長い庭です。

廊下の先は窓がなく、薄暗くなっています。右手に土間があり、土間の左にも部屋があるようです。

土間の左(北側)の部屋は、足軽目付の部屋だったようです。

桔梗紋の入った長持や、車長持が展示されています。

土間の西からは、奥庭がよく見えます。

おや、階段があります。てっきり平屋かと思いましたが、二階があるのですね。

二階は書庫だったようですが、現在は非公開だそうです。

土間の南に、徒目付の部屋があります。

ここから南は、床が元通り高くなります。

徒目付部屋の南には、吟味奉行の部屋があります。裁判所とか警察とか税務署とか、そんなところでしょうか。

吟味奉行部屋から廊下を挟んで西には、大目付の部屋があります。ここは畳敷きですね。

大目付部屋からも、奥庭が見えます。長囲炉裏の間と土間方面との床の高さの違いが、よく分かります。

大手門や御殿の棟札が、綺麗に残っているんですねえ。素晴らしい。

大目付部屋から廊下を挟んで南に、御用人部屋があります。南側が中庭に面しています。

城郭模型が展示してあります。門や櫓の配置はよく分かりますが、縮尺はアバウトな雰囲気です。御殿は省略されているようです。

吟味奉行部屋の東にある、張役所です。展示物がたくさんあります。

でかいヤカンと行器です。

張役所の東にある、賄方です。ここも展示品でいっぱいですが、当時は経理関係の書類でいっぱいだったのでしょうか。

ここは屋根裏が見えています。

桔梗紋の瓦が出土しているようです。左は、状態が良いですね。

御広間の北にある、御談の間です。

御殿平面図です。一階にあるほとんどの部屋を見て回れたようです。

御殿の側溝、御殿側は古そうですが、外側は新たに作り直しているように見えます。

現在、御殿と天守が両方存在するお城は、掛川城の他にはごくわずかであり、御殿の向こうに天守が見えるこの光景は、とても、とっっても貴重なのです。

 

本丸へ向かいます。

御殿玄関前にある二の丸入口の西側に現在は出入口が設けられ、本丸に通じています。

三日月堀の説明板です。発掘写真にもある並んで見つかったたくさんの柱穴……一体どのような役目をしていたのでしょうか。

本丸門の前方にある、三日月堀です。この角度だと、三日月のような形状がよく分かります。三日月堀の内側(写真右側)には、堀と門で囲われた馬出のような空間が形成されていたようです。

それにしても……コンクリートで固めたような堀の外周はもうちょっとどうにかならなかったのでしょうか。

三日月堀の南側には石垣が見えますが、発掘写真ではここまで明瞭に見られなかったので、復元でしょうか。

綺麗に積まれた石垣と、コンクリートとのギャップに残念さを感じます……。

左が三日月堀、右が十露盤堀です。

本丸東側を囲い、本丸と二の丸を区画する十露盤堀です。ここにもコンクリートが……うーん。

絵図だと丸みがあるのですが、やたらカクカク復元されています。

十露盤堀は、絵図ではさらに北へ伸びているのですが、復元はここで途切れています。

 

三日月堀・十露盤堀と四足門・本丸門に囲われた馬出的空間へ向かいます。

馬出的空間には、掛川城の主要部が1:150スケールで製作された城郭模型があります。

この説明板、門や櫓・堀などの名称が記されており、非常に助かります。

御殿にある模型よりも建物のサイズや曲輪の形状などが正確になり、城郭構造を把握しやすくなっています。現在地は模型のほぼ中央、三日月堀・十露盤堀と三つの門に囲われた所です。

四方から模型を見ます。説明板の図と模型とで、櫓の数が違うのはどうなんでしょうか……。

 

馬出から外へ出て、本丸へ入っていきます。

本丸入口脇に、掛川城公園の石碑があります。松の木が素敵です……ってこれ、背後の天守とセットで撮影できたんじゃないでしょうか。しまった。

昔も今も本丸の正面入口、四足門です。左右を塀で仕切られた石段が良いですね。左奥には、太鼓櫓が見えています。

説明板によると、発掘調査時には門跡が見つからなかったそうです。礎石などが持ち去られてしまったのでしょうか。

外側から四足門を見ます。右には脇戸があります。門の向こうに、本丸門の石垣が見えます。

四足門をナナメから見ます。お城の入口に門があると、らしくなりますね。

発掘調査の成果が記された説明板の、発掘時の写真が興味深いです。

こちらの説明板に描かれた図は、模型よりさらに当時の様子をイメージしやすい気がします。

高石垣の間が、本丸門跡です。絵図などによると、本丸の正門にふさわしい立派な櫓門だったようです。

石垣の高さから、本丸門の規模がうかがえます。石垣の積み方にも、独特の雰囲気を感じます。

当時ここには荒和布櫓が建っていたようですが、今は貴重な現存建造物である太鼓櫓が三の丸から移築されています。一部だけ二階建ての、独特な櫓です。太鼓は、二階部分に置かれていたのでしょうか。

太鼓櫓のすぐ西には、番所風?の券売所があります。

現在の公園の建物や地形などを正確に描いたと思われる案内図です。当時の絵図や模型とは、あちこち様子が異なります。

本丸から、天守を見上げます。本丸よりさらに高所に天守丸という曲輪が築かれ、そこに天守が建っています。

本丸には御殿があったようです。お城の前は墓地だったとは……怪談の匂いがします。

本丸の北側には本丸門に似た積み方の石垣があり、その手前には側溝があります。

石垣の上には、天守丸へ向かう道が見えます。

本丸の大部分は現在、花広場となっています。冠木門がかろうじてお城テイストを醸してはいますが……これならまだ日本庭園の方が御殿のあったという本丸にはマッチしているのでは……。

おや、本丸の西側に、石段があります。絵図などによるとこのあたりには矢櫓、古櫓などが建っていたようですが……。

石段を上ってみます。

削平された場所があります。絵図ではこのあたりにも建物があったようです。

本丸の南側には、西へ伸びる道があります。

道はスロープになっています。本丸南西には当時、銀杏下御門という搦手口に当たる門があったようですが、縄張りが改変されているようです。

道は北へカーブし、城外へ通じます。坂の下には当時、桔梗門があったようです。

玉石側溝、発掘時の写真と全然違うように見えますが……。

側溝も石垣も、復元なのですね。先ほど本丸北で見た石垣と側溝も。ということは、本丸門周辺の石垣もひょっとすると復元積み直し……?

 

天守丸へ向かいます。

復元石垣と側溝を右手に見ながら、石段を上ります。

北へ伸びる石段は途中で180度カーブし、南向きとなり、やすやすと天守へ行かせてはくれません。絵図にもこのように、ぐるっと曲がる道が描かれています。

おっと、南向きとなった石段の先に、NINJAがいます。

腰櫓台跡、とあります。調査では櫓へ上る石段が見つかったそうですが……わざわざ「跡」とあるのは、この櫓台も石段も復元で、本物は埋め戻されているということでしょうか。NINJAは何も語ってくれません。(もしかして訊いたら教えてくれたかも、ですが)

腰櫓台跡付近から、太鼓櫓が綺麗に見えました。

説明板によると、写真手前の石段や玉石側溝は発掘されたものをそのまま展示しているのでしょうか。確かに、復元とは違うリアルさを感じます。

そして、いよいよ天守が間近に見えてきます。

天守丸へ向かう石段の右に、門で仕切られた狭く細長い曲輪があります。腰曲輪です。冠木門や土塀の控柱がいい雰囲気出してます。当時はもっと広く二つの櫓と井戸があったそうですが、明治期に十露盤堀を埋め立てるためにガサっと削られてしまい、今では人ひとり通るのがやっとの狭さになっているようです。

腰曲輪から天守を見上げます。天守丸東面石垣は、ちょっと残念な感じですね……。

腰曲輪の東には、二の丸御殿が見えます。

土塀の狭間から御殿を覗いてみます。御殿手前の広場は、十露盤堀が埋め立てられて出来たものです。

天守下門跡の説明板は奥の冠木門手前の石垣前にあるのですが、櫓門があったのなら写真手前の石垣上がそれっぽく見えてしまいます。いや、よく考えたら石段がある所に門は作れないから、石段と石段の間の踊り場が門跡でしょうか。うーん…。

いずれにせよ、このような冠木門が当時存在しなかったことは間違いないでしょう。やはり説明板の位置からすると、現在土塀の立っている石垣が櫓門の基壇になるのでしょうか……うーん。

しかしながら、現在の掛川城においては、この冠木門越しに見る天守がなんとも味わい深く思えます。冠木門左の土塀に脇戸が設けられている所も、趣があります。

内側から見る冠木門は、風格すら感じます。門の向こうに続く登城路の先には太鼓櫓と、大手門まで見えます。

冠木門のすぐ西にある、伝説の霧吹き井戸です。

天守丸は絵図の通りに周囲を土塀で囲われているのが、素敵です。

平成の世に戦後初めて木造復元された天守です。三重四階と小ぶりながら、東西の張り出し部や付櫓の効果により、大きく見せることに成功しています。二階の唐破風と火灯窓がデザイン上のアクセントになっています。

天守台は、これまで見てきた石垣と積み方も石の色合いも全く異なりますが、これが掛川城本来の石垣スタイルなのでしょうか。天守台も天守復元の際に解体されているようで、もしかして、掛川城には現存石垣が存在しない……?

一階基部にずらりと並ぶ忍び返しは、同じく山内一豊公が建てた高知城天守に見られます。高知城は、当時の掛川城をモデルに建てられたそうですが、掛川城天守高知城を参考に復元されたようです。

南から、天守の西側を見ます。天守台は、どこまで忠実に復元されたのか、天守台基部の溝は当時のものなのか……現存遺構と復元の境界が気になります。

石垣から張り出した一階部分は石落しとなっているようです。

塀と門に閉ざされ、これより北へは進めません。天守丸の北側には当時、鑰櫓があったようです。

 

付櫓から、天守内へ入ります。

御殿同様、天守入口にも「撮影OKです」の表示が。

付櫓から天守へ入ると、山内一豊公の騎馬像がまず目に入ります。像の両脇に立てられた旗と像の台座には山内氏の家紋である土佐柏が見えます。掛川城は、天守を建て近世城郭としての体裁を整えた一豊公推しとみえます。

復元天守とはいえ、現存天守と同様に、階段は急です。

日が傾きつつあったので、急な階段を上り、まず最上階を目指します。

外からも二階の壁に確認できた狭間は蓋付きです。二階にたくさんあるようです。

三階は狭く、武者隠しがあります。

最上階の窓には、襖が取り付けてあります。

外には出られませんが、景色を見ていきます。

東には、二の丸御殿と、左手には二の丸茶屋、二の丸美術館も見えます。

南東方向には、天守丸への登城路と太鼓櫓、十露盤堀と三日月堀、四足門と三の丸広場、逆川の向こうには大手門も見え、掛川城の見所が一望できます。

南側からは天守丸と本丸がよく見え、天守丸への登城路がぐねぐねカーブしている様子もうかがえます。本丸の花広場、上から見ても場違い感がすごいです……。

最上階からの眺望を楽しんだので、下りていきます。

移築現存門を参考に造られた、天守の鯱です。御殿に出現したという白い蛇、肖りたいですね。

二階はこのような感じです。

土佐漆喰による壁仕上げモデルです。白壁が出来るまでに多くの工程を経ていることが分かります。

外からも確認できた、一階の石落しです。

一階天井隅の複雑な木組みを眺めます。

 

天守を出ます。

再び、腰曲輪へ入ります。

北へ歩くと、土塀に扉があり、東へ抜けられます。

扉の外側から、土塀とその先の太鼓櫓を見ます。

腰曲輪の東は十露盤堀だったので当時このような階段は無かったし、そもそも削られる前の腰曲輪が階段あたりまで張り出していたと思われます。

階段を下り、かつての十露盤堀跡から復元された十露盤堀方向を見ます。

二の丸御殿の北には現在、二の丸美術館があります。井戸は、当時のものでしょうか。

二の丸の北側に位置する竹の丸にはかつて重臣の屋敷があり、現在は明治期に建てられた問屋の豪邸がありますが、時間の都合で見学を見送りました。

本丸の南にある、懸河旧址の標柱です。このあたりには、本丸と逆川との間に松尾池と呼ばれる堀があったようです。

松尾池跡の近くには、正保絵図がタイルで作られています。当時お城の周囲にはたくさんの堀や池があったようです。

 

締めは、天守です。

十露盤堀跡から見上げる天守は、南から見るのと随分印象が違います。

大きく見せるための東西張り出し部が、東から見ると付櫓のようです。

ステンドグラス美術館付近から見る、北東からの天守です。北面一階の石落しや、北面二階にも出窓があるのを確認できます。

三日月堀付近から見る、南東からの天守です。二階火灯窓下の漆喰だけ色が異なるのは、補修の跡か何かでしょうか。

緑橋付近から、ライトアップされた天守と太鼓櫓を見ます。

三日月堀から、天守と御殿を同時に見られることに感謝しながら、一枚の写真に収めます。

 

駆け足での訪問となってしまい、撮影の雑さ、内容の不足が悔やまれます。

縄張りの改変はありますが、発掘・復元により当時の様子を伝えようとする熱意を感じる掛川城天守は復元ですが、御殿と天守がセットで見られるお城は非常に少なく、御殿があり天守が在った近世城郭の姿を体感できる貴重なサンプルです。

 

掛川城の訪問で、現存12天守に続き、現存四御殿も制覇です!

日本100名城スタンプラリー、こちらで20城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。