お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

54.大垣城

大垣城に行ってきました。

続日本100名城(No.144)に選ばれた、岐阜県大垣市にあるお城です。

 

岐阜城加納城に続き、同日に三城目の訪問となりました。

まずは、周辺遺構を見て回ります。

散策マップによると、大垣城の北東から南西にかけて美濃路が通っており、大垣は城下町であるとともに、宿場町としても栄えたようです。

マップを見る限り、城内の堀跡は失われているものの、総堀跡はよく残っているように思えます。

散策マップの横に、名古屋口門跡の石碑と説明板があります。ここには東総門こと名古屋口門があり、絵図によると橋を渡った所にまず門が設けられ、それを越えると櫓門があったようです。

 

名古屋口門から美濃路を少し歩いた所にある高札場跡です。かつての「札の辻」は、今も四つ辻として城下に在ります。

 

高札場跡から美濃路を南下した所にある、大垣宿脇本陣跡です。

 

脇本陣跡から西へ歩くと、神社の手前に何やら石碑があります。これは…「おほてもん」と書いてあるのでしょうか。

石碑近くの説明板によると、ここが東口大手門跡のようです。絵図や復元図を見ると、東口大手門は櫓門を備えた枡形虎口となっていたようです。

大垣城には、東口大手・南口大手・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口の七口之門があったそうです。

東口大手門前の堀は、細い水路としてかろうじて面影を残します。

 

東口大手門跡から西へ歩くと、城郭中心部へ着いてしまいました。大垣公園の北東部が本丸にあたり、おおよそ当時の縄張り形状をとどめているように見えます。

 

もう少し、周辺遺構を見ます。

南口大手門跡です。東口と同様に、櫓門のある桝形虎口だったようです。ここからすぐ南東には、大垣宿の本陣跡があります。

 

柳口門跡です。絵図によると、柳口門を越え橋を渡った先に内柳門があったらしく、この内柳門は現在、本丸の東門として移築されているようです。

柳口門跡の西にある溝は、かつての堀跡でしょうか。

 

大垣公園の西にある、郷土館です。屋根瓦に九曜紋の入った御殿っぽい建物が良い感じです。

郷土館に展示してある城郭模型を撮影させてもらえました。縄張りは先ほどから説明板で何度も目にしてきましたが、こうして立体化されると、幾重にも堀を巡らせた複雑な縄張り形状が際立ちます。要所に馬出状構造を備えた堅固さがあり、非常に魅力的で素晴らしい縄張りです。

青い立札が郷土館のある場所で、当時は竹の丸から堀を挟んでさらに西側の、総曲輪にあたるようです。

模型の本丸・二の丸アップです。三の丸内側の堀に小島のように二の丸と本丸が浮かび、二の丸への出入口は一ヶ所のみ、本丸への出入口も二の丸との間にただ一ヶ所のみで、本丸と二の丸は廊下橋でつながれていたようです。また、本丸中心部は一段高く石垣が築かれ、外周に腰曲輪が形成されていたようです。

 

周辺遺構の散策を終え、城郭中心部へ向かいます。

まずは二の丸跡ですが…南側には大垣城ホールが建っており、遺構は望めそうにありません。

二の丸の北側には現在、濃飛護国神社があります。当時の二の丸には御殿や、三重櫓がいくつもあったようです。

 

いよいよ、本丸を見て回ります。

本丸城郭図を見ると、東西は櫓や多門で厳重に守られ、一段高い中心部も櫓と多門で囲われていたようです。

この城郭図、鉄門の北東とされていますが、現在は鉄門跡の北西にあります。移設されたのでしょうか。

城郭図の南東にある、鉄門跡です。整形されたほぞ穴のある門礎石が残っています。

鉄門は各務原市鵜沼宿跡に移築現存しており、他にもいくつかの移築現存門があるようで、機会があれば見に行きたいものです。

本丸側から、鉄門跡を見ます。鉄門の南はかつて内堀で、当時はここから廊下橋が二の丸に架かっていたようです。

鉄門を越えると、本丸中心部を囲う石垣の南側に、七間多門が建っていたようです。

鉄門跡の北東には石垣があるのですが…これはひどい。本丸中心部を囲う石垣の一部だと思われますが…崩れたのか、崩されたのか、積み直したのか、当時のままの石垣は存在するのか、この状態ではなんとも言えません。上部の樹木も、石垣に悪影響と思われます。

崩壊石垣の東側には「麋城の滝」なる人工滝があります。麋城は大垣城の別名ですが…はっきり言ってこんな滝を作るくらいなら、石垣をちゃんと積み直してほしいです。

麋城の滝の東に、石垣の隅部を発見しました。本丸中心部の南東にあった辰巳櫓台でしょうか。原型をとどめている部分、と思いたいですが…。

辰巳櫓台と思われる石垣隅部から北上しますが、崩れているというか、石垣石を庭園風に並べたようにも見えますが…見たいのはこんなナンチャッテ庭園じゃないんです。石垣が、石垣が見たいんです…。

西向きに、立札があります。

城郭図では辰巳櫓のすぐ北にあった、東埋門跡です。位置的にはここなのでしょうが、この状態で門跡、と言われても何が何やら…。立札を立てる前に、門跡と分かるよう石垣を積み直して欲しいです。

東埋門の北からは、石垣が復活します。

さらに北へ歩くと、本来出入口など無かったはずの本丸中心部北東に石垣を壊して石段が通されています。

石段の先、本丸腰曲輪東側には、かつて大小姓多門が建っていた場所に、櫓門と多門風トイレがあります。

周辺遺構散策時に説明板で読んだとおり、この櫓門が本丸東門として移築された内柳門のようです。立札にも、そのように書かれています。

内側から、内柳門を見ます。城内にある大垣城唯一の現存建造物、ということになるでしょうか。梁などに歴史を感じます。

内柳門を外側から見ます。門扉両脇の柱が立派です。門扉右側には脇戸があり、屋根瓦には九曜紋が見えます。

内柳門の前には城跡碑が立ち、瓦屋根付きの案内板もあり、現在はこちらが正門という扱いなのでしょうか。

内柳門の南側には、本丸外周石垣が続きます。写真左端の石垣張り出し部には当時、腰曲輪辰巳櫓が建っていたようです。

かつて腰曲輪辰巳櫓や塩蔵などが建っていた本丸腰曲輪の南東張り出し部には現在、武徳殿が建っています。

内柳門の北側に再建された櫓群です。中央が丑寅櫓、右が宗門多門、左が先手武具多門です。

内柳門付近から、天守を見ます。廃城令後も現存していましたが、空襲により惜しくも焼失し、戦後RC造により再建されたのが、今ある天守です。

案内板には、焼失前の現存期と思われる天守の古写真が掲載されています。四層四階の天守というのは、全国的にも非常に珍しいようです。

 

天守へ登る前に、本丸外周を歩きます。

外側から、内柳門の北にある櫓群を見ます。

移築された内柳門の下部石垣は、移築に伴って積み直されたと考えられ、積み方や色合いが異なります。

右隅に丑寅櫓があり、宗門多門が左に続いています。本丸城郭図によると、宗門多門の左側は現状のとおり石垣が張り出しているので、当時からこの位置に土塀があり、大小姓多門までつながっていたのかもしれません。

再建櫓や土塀の下部石垣は積み直したのか、石材が新しいように見え、土塀下の石垣には後世のものらしき排水口も見えます。石垣基部あたりは、当時のままなのでしょうか。

本丸東側には石垣手前に堀の名残と思われる細い水路がありますが、北側では暗渠となっているようです。

丑寅櫓と、その右に先手武具多門が続きます。屋根の鬼瓦には、九曜紋が見えます。

丑寅櫓と先手武具多門の丸く大きな、外側が広い狭間が並んでいる壁を見てなんじゃこりゃと驚きましたが、古写真を見ると当時からこのような狭間だったようです。お城によって、狭間の形状も位置も様々ですね。

右端土塀の下部石垣に排水口が見えますが、当時のものでしょうか。

本丸北側には土塀が続き、土塀の先には戌亥櫓が見えます。

戌亥櫓の東に、水之手門跡があります。周囲を内堀に囲われた本丸の外へ通じる道は南の廊下橋以外にはなく、水之手門は船で直接本丸へ出入りするための門と思われます。

再建された戌亥櫓を支える石垣ですが…右隅部は切込み接ぎ、櫓基部付近は石のサイズも積み方も案内パネル付近と全然違って違和感がすごいです。積み直すにしても、せめて内柳門みたいに雰囲気を合わせるなどできなかったのでしょうか…。櫓のサイズ自体、石垣と合っていないように見えます。

戌亥櫓の南には、南附多門も復元されています。戌亥櫓の鬼瓦をよく見ると、桃があしらわれています。

内柳門からここまで、櫓や土塀が連続的に復元されており、当時のお城の様子をイメージしやすくなっていると思います。

本丸西側には、城主だった戸田氏鉄公の騎馬像があります。

騎馬像と櫓・塀・門、その背後には天守。とてもお城っぽく、絵になりますが…どうせなら左のビルなどを写さず、城郭建造物と騎馬像だけを収めるべきだったと反省しています。

撮影している場所は当時なら内堀の中か、竹之丸あたりでしょうか。

西側からだと木が邪魔で、天守の姿がよく見えないのが、残念です。

本丸西門は、これまで見てきた本丸櫓群とデザインが共通しており、狭間の形状も丑寅櫓で見たものと同様ですが…よく見るとこの門、門扉がありません。西門は模擬建造物で、本来本丸西側に門はなく、当時ここには籏長柄多門が建っていたようです。

模擬門にしてはよく出来ており、天守とのツーショットにもあまり違和感ありません。どうせなら門扉を付けてより城門らしくしても良かったように思いますが、あえて門扉なしにすることで、再建・移築建造物と差別化したのかもしれません。右隅石垣は戌亥櫓と同様の切込み接ぎになっていますが、石垣全体的には戌亥櫓ほどの不協和音は感じません。

内側から西門を見ます。櫓へ入る扉もそれっぽく作られています。

西門が模擬なので、西門から本丸中心部へ続くこの坂道も当時はなかったと考えられますが、本丸城郭図によると天守の南側には本丸中心部へ通じる埋門があったようです。

内側から戌亥櫓と南附多門を見ます。桃の鬼瓦が良く見えます。桃には魔除けの意味があるようで、ほかのお城の瓦にも使われています。

内側から水之手門跡を見ます。当時はどのような門だったのでしょうか。櫓門であれば、戌亥櫓右側の石垣にはもしかしたら、水之手門が載っていたのかもしれません。

 

水之手門から坂を上ると、天守がそびえています。天守台のうち上半分ほどは色が異なりますが、再建時に積み直されたようです。

明治二十九年の大洪水でお城が水没したそうで、先ほどの写真には説明板と石碑が写り、石垣にも水没したラインが刻まれています。少なくとも、このラインまでは現存石垣とみて間違いないでしょう。

この隅部も算木積みになっていない野面積の石垣はなんと、全国的にも非常に珍しい石灰岩を用いて築かれているそうです。岐阜城がチャートで、大垣城石灰岩と、いずれも生物起源の堆積岩が多産する環境にあったのでしょう。興味深いです。

天守北面の本丸腰曲輪には、天守台から石垣が東へ伸びています。

本丸北側の土塀内側には、屋根付きの控柱が並んでいます。

東へ歩くと、再び丑寅櫓が見えます。

本丸中心部北東隅です。このあたりの石垣は、当時のままなのでしょうか。

化石の入った石を見つけました。これは、フズリナでしょうか。大垣城の石垣は生物の遺骸が堆積して出来た石灰岩によるものなので、あちこちでこうした化石が見られるようです。石垣観察と同時に化石観察まで出来る…大垣城も、お城好きで岩石好きな自分にとってのパラダイスです。

 

ようやく、天守へ登ります。

天守入口付近にある説明板です。一階・二階の床面積が等しくて四階だけ急に狭くなっているように見えても層塔型になるんですね…一定割合で逓減していることが分類条件ではないということでしょうか。

邪鬼を踏みつけている鬼瓦というのは極めて特異だそうですが、これまで見てきたお城の鬼瓦には家紋があしらわれていることがほとんどだったので、お城の鬼瓦が鬼の顔になっていること自体、個人的には珍しいと感じてしまいます。

こちらの入口から天守へ入ります。見上げると、確かに鬼瓦に鬼面が見えます…驚きです。

続100名城スタンプは、天守内で押せます。

 

天守最上階から、城下を眺めます。

西側を見ます。夕焼けが眩しい写真ですね…。氏鉄公の騎馬像が、木の間から見えます。

少し位置を変えて、西側を見ます。戌亥櫓の屋根が見えます。

東側を見ます。内柳門が見えます。

 

帰路にて、お城の東にある道路沿いに、史跡碑を見つけます。

何故こんな場所に?と思ったら、ここの道を西へ入ると…。

大垣城の東門があります。駅前の大通りから歩いて来る人向けの史跡碑と思われます。

 

締めは、天守です。

平成二十二年の改修工事により、改変されていた窓の形状などが空襲焼失前の姿に近付けられたそうです。

石灰岩の石垣に、四層四階の天守を持つ個性派なお城です。

空襲で失われたのは残念ですが、こうして焼失前の姿が現在も見られるのは、ありがたいことです。

やはり複合型とよく分かる南東からの姿が絵になりますね。人がいない時を狙い、もっと構図にもこだわるべきでしたが…。

 

振り返ると、とにかく写真のクオリティが低いことに愕然とします。天守はじめ再建された建物が多いお城なのに、建造物の撮影が少なすぎるのもいけません。

 

残された本丸すら縄張りや石垣の改変が多く遺構が乏しいのは残念ですが、再建建造物はよく出来ており、周辺遺構に当時の城郭規模を体感することもできます。もっとお城らしい大垣城を撮影すべく、是非とも再訪したいと思います。

こちらは大垣城岐阜城の御城印です。袋のデザインも凝っていて素敵です。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで3城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。