岐阜城に行ってきました。
日本100名城(No.39)に選ばれた、岐阜県岐阜市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
JR岐阜駅から駅前広場へ通じる階段は「信長ゆめ階段」と名付けられているようです。
そして駅前広場には、家紋があしらわれためちゃめちゃ高い台座に黄金の信長公が悠然と立っています。これは強烈なインパクト。
バスの側面にも、黄金像と同様、甲冑にマントを羽織った姿の信長公が描かれています。到着後数分で、岐阜が超・信長公推しなのが大変よく分かりました。
周辺遺構なども見ながら、駅から徒歩でお城へ向かいます。
円徳寺の門前にはかつて、有名な楽市楽座が開かれていたらしく、信長公の出した制札などが残されているようです。
ほかにも円徳寺には、自軍の兵を弔う「織田塚」や銀箔押烏帽子形兜、信長公が寄進したと伝わる梵鐘など、信長公や織田家ゆかりの史跡・文化財がわんさかあるようです。
国道256号を北上していると、かつて稲葉山と呼ばれた金華山と、山頂にそびえる天守が遠くに見えました。
法華寺の山門は、岐阜城の移築門と言われているようで、城門の風格漂う立派な高麗門です。
梶川堀を境に、お城に近い東側(写真奥)に武家屋敷が、西側(手前)に町家が並んでいたようです。今も水路として残る梶川堀の、このあたりに梶川橋があったようです。写真左奥に見えるお寺が、斎藤道三の菩提寺である常在寺です。
梶川堀より東側に建つ妙照寺は説明板によると本堂・庫裡が重要文化財のようですが、かつて竹中半兵衛の屋敷があったとされ、山門は岐阜城の移築門と言われているようです。こちらの山門は法華寺と異なり薬医門形式ですが、やはり城門らしさの感じられる立派な門です。
歴史博物館の北を通り、岐阜公園へ入ります。
織田信長居館跡の史跡碑と、大きな冠木門があります。この向こうに、信長公の居館跡があるようです。
説明板によると、冠木門より西側には政庁と呼ばれる公的施設があったようです。名前からして、政治を執り行う場所だったのでしょうか。また当時の居館入口は冠木門より南側だったようです。
冠木門をくぐり、石段を上ります。門の北側には大きな池があり、庭園として整備されています。
居館跡は雛壇状の構造をしており、冠木門より高い位置にあるようです。
石段を上ると、情報量の多い巨大な説明板があります。岐阜城含む戦国城下町が、日本遺産第一号に認定されたようです。
居館の復元イメージCGにはとても衝撃を受けました。望楼付き御殿に長大な屋根付き渡り廊下…これはすごいというか…とんでもない! でも安土城の復元予想デザインに共通する部分も多く感じられ、これを信長公が建てたというなら納得してしまいます。居館を「地上の楽園」と評したルイス・フロイスもさぞ驚いたことでしょう。
居館入口の鏡石を用いた巨石石垣や直進させない鉤の手に曲げられた通路など、江戸期の城郭で多用される仕掛けがあり、信長公の先見性に感嘆します。
巨石列通路は最下段のみ巨石が並んでいるように見えますが、当時はより高く石が積み上げられていたのでしょうか。
写真中央に、柵で囲われたエリアと説明板があります。
斎藤氏時代の稲葉山城遺構も見つかっているようです。
肝心の遺構を撮影した写真がありません……いけませんね。
居館にいくつも存在したらしい庭園跡のひとつです。説明板の図によると、背後の石垣上が庭園だったようですが……発掘調査中のエリアもあり、イマイチよく分かりません。柵で小さく囲われた所も庭園遺構の一部なのか、判然としません。
こちらの説明板によると、どうやら先ほどの庭園跡は平成27年の調査で新たに見つかった六番目の庭園で、調査後に埋め戻されたようです。
「信長公居館跡」の横断幕が岩盤に掲げられたこの場所は発掘調査ではC地区とされ、江戸期から「千畳敷」と呼ばれる居館の中枢部だったようです。
千畳敷は入口より数段高所にあり、入口方面がよく見渡せます。
たくさんの説明板が並んでいるので、順番に見ていきます。
このあたりでは、第七の庭園跡が見つかったようです。本当に多くの庭園があったんですね。
千畳敷に建っていたのが復元CGでも一際目を引いた、居館の中心である豪奢な御殿のようです。
居館二階には、帰蝶の名でも知られる信長公の正室・濃姫の部屋があったようです。
居館三階から、渡り廊下が山側の奥座敷へつながっていたようです。
この岩肌を、信長公も居館から目にしていたのでしょうか。
居館よりさらに高い位置に、茶室などがあったようです。
このあたりは、発掘調査が現在進行形のようです。
入口付近から千畳敷を見ます。あちこちシートで覆われています。
千畳敷の入口も、直進させない虎口構造となっていたようです。
説明板によると、大正期に水路が付け替えられたらしく、写真手前が当時の水路、左奥の赤い橋へつながる水路が大正期に造成されたもののようです。中央のシートが掛けられた水路跡あたりに、当時は橋が架かっていたのでしょうか。
谷川を渡る橋は、景色を楽しめる廊下橋だったようです。
当時の水路はここまでしか発掘されていないのか、途中で途切れています。居館跡の史跡碑は、ここにもあります。
後世に架けられた赤い橋の奥には、当時からの谷川と、滝があるようです。
居館から廊下橋を渡った北側にある、大庭園跡です。当時は二本の滝と大きな池があったようですが、今は巨大な岩盤が残るのみです。地層が縦になったり、ぐねぐね褶曲している岩盤に、大興奮です。
信長公が眺めたであろう岩盤から叩きつける豪快な滝の流れと、それを受け止める池の優雅さに、思いを馳せます。
今後また新たな発見があるのか、ここからどのように姿を変えていくのか。居館跡の発掘調査と整備が、楽しみです。
金華山ロープウェーに乗り、山頂の城跡へ向かいます。
ロープウェーで山頂駅に着きました。
説明板の写真によると、お城の周囲にはいくつもの砦が築かれていたようです。また概要図には、いくつかの登山道が記されています。
七曲り登山道は当時の大手道だったようで、次は是非この道から登城したいと思います。
金華山の西側斜面を登る百曲登山道も当時からの道らしく、なかなかに険しそうですが下りならなんとかなるでしょうか……まあこれも次回のお楽しみ、ということで。
七曲りと百曲がりの登山道終点の間、城郭南西端部には、説明板の概要図によると当時は焔硝蔵があったようですが、現在はリス村になっています。
山麓居館に続き、山上にも大きな冠木門が建っています。天下第一の門、とありますが、当時ここに門があったわけではないようです。門番のように鎧MUSHAがいますが、普通に通れました。
天下第一の門左手前には、歴代城主が記された年表がありますが、年表よりも岩盤に目がいきます。背後の階段を上ると、現在は展望レストランがある太鼓櫓跡に行けます。
天下第一の門の先にある、一ノ門跡です。説明板の概要図には絵図との比較や石垣の推定範囲まで描かれ、情報量が多く非常にありがたいです。
概要図と現地を比較します。なるほど、あの倒れた石の向こうに門があったと考えられ、右手には石垣が積まれていたのですね。奥の休憩所がある所には、当時番所か櫓などがあったのでしょうか。
一ノ門跡の南側には、石垣が数段残っています。
一ノ門跡の西側は、切り立った断崖で、岩盤がむき出しになっています。
金華山はチャートという堆積岩から成るようで、居館跡でも見られ、赤みがかった色とぐねんぐねんの地層面が特徴的です。お城も好きですが露頭も大好物なので、城跡とチャート露頭の両方を堪能できる岐阜城はまさに楽園、パラダイスです。
馬場跡です。絵図にもはっきり馬場、と書かれています。当時ここまでは馬で来ていたんでしょうか……馬も大変です。
馬場を越えた所にある、大きな堀切です。
堀切は現在コンクリートで固められ、鉄橋が架かっています。
山麓居館跡だけでなく、山上の城跡も発掘調査中のようです。
太鼓櫓跡には、展望台があります。
展望台からは、周囲が一望できます。当時も見張り台として重要な役割があったと思えます。
右手に、長良川が見えます。
北側から、太鼓櫓跡方向を見ます。細い通路の脇にも、むき出しの岩盤があります。
さらに北には、狭間つき土塀があり、瓦には木瓜紋が見えます。奥の赤い鉄橋の下が、堀切です。
ここでも発掘調査が行われています。
こ、これは石垣が出てきたのでしょうか……気になります。
千成瓢箪発祥の地、だそうです。少し登ってみます。
天狗を祀ったと思われる祠があります。奥の岩が、天狗岩でしょうか。
登城道に戻ります。
二ノ門跡には説明にあるとおり、とんでもなく巨大な石による豪快な石垣が残っています。(左側にも巨石石垣が残るようですが、見逃しました)手すりのすぐ奥あたりに、門があったのでしょうか。
二ノ門跡の先は絵図にあるとおり、直進できないよう道が右へ曲げられていますが、周囲の石垣や石段はどこまで当時のものなのでしょうか。そしてまたもや冠木門(扉なし)の登場です。
閻魔堂はスルーしてしまいましたが、土岐家にまつわる言い伝えがあると後に知り、拝んでおくんだったと後悔しています。
チラッと見えている天守へダッシュしたい気持ちを抑えて、奥の説明板を見に行きます。
この稲葉城趾之図を拡大したものが、説明板に掲載されているようです。描かれたのが江戸時代ということは、廃城後なんですね。
二ノ門の先、閻魔堂の建つ曲輪が下台所跡です。この上にも台所があるようです。
そして、天守とご対面です。
「斎藤道三・織田信長ゆかりの岐阜城」と書かれた看板があり、絶好の撮影スポットです。狭間付き土塀も雰囲気出してます。
RC造で復興された天守がどこまで当時の姿に近いのかは分かりませんが、今はこれが、岐阜城天守です。三重の望楼型で、初重は下見板張り、大きな破風を設け、最上階望楼には廻縁・高欄付き……色合いこそ地味ですが、デザインセンス的には信長公のお城らしさを感じられる気がします。
まだ遠くに見える天守へ、接近していきます。
看板の左にある石段を上ります。
左手に石垣を見つけましたが、当時のものでしょうか。
石段を上った先が台所跡と思われます。左手に見える建物は岐阜地方気象台の分室らしく、城跡を意識してか下部に石垣風のペイントがされています。地面は一部コンクリート舗装しているものの、チャート岩盤が顔を出しています。
分室脇の道を下ると、井戸跡があるようなので、見に行きます。
井戸跡です。水が湧く井戸ではなく、貯水施設としての井戸のようです。
金網で見づらいですが、確かに岩盤を綺麗にくり抜いています。
分室の前まで戻り、天守に向かって歩きます。
道の下を覗き込むと、二段の石垣と、その下には井戸が見えます。
ついに、天守の真下まで来ました。
絵図によると、天守の北西には天守台を合わせて四段の石垣が築かれていたようです。
この天守台下の石垣は、当時のものなのでしょうか。天守台下の三段石垣は、現在どれくらい残っているのでしょうか。
真下から、天守を見上げます。瓦には、木瓜紋があしらわれているようです。金の飾り金具や屋根瓦が、良いですね。
天守台石垣は再建時の積み直しらしいですが、チャート岩盤上に当時も天守台が築かれていたのは間違いなさそうです。天守台と岩盤のコラボ……とてもいいものです。
天守入口付近の石垣を見ると、チャートを使用しているのがよく分かります。チャートを用いた石垣というのは、珍しいのではないでしょうか。
入口右の由来を読むと、天守は平成九年に改修工事を終えたようで、飾り金具などが美しいのもうなずけます。
天守最上階からの眺望です。
北側を見ます。手前に長良川と、奥の山は百々ヶ峰でしょうか。
南側からは先ほど歩いた道と、気象台分室が見えます。
西側からは、隅櫓風資料館の屋根が見え、お城っぽい風景です。
天守を出ます。
お城時計です。岐阜城とはあまり関係なさそうです。
岩盤越しに、天守を見ます。
資料館の屋根瓦も、木瓜紋です。下見板張りのデザインは天守と共通で、統一感があって良いと思います。
資料館入口です。100名城スタンプは、こちらで押せます。
隅櫓風の資料館すぐ隣にある蔵風?のトイレです。金色の木瓜紋がゴージャス。
違う道を通って、帰ります。
目の前にあるのは、先ほど天守の手前で上から見た井戸です。
二段の石垣は、谷だった所へ通路を通すために築かれたようです。
これまで見た石垣とは雰囲気が異なり、説明板にあるように信長公の時代より後に造られたと考えられるのも納得です。
発掘調査中の穴を見下ろします。グレイトな発見があることを、祈っています。
堀切を渡り、狭間土塀の横を通ります。
おお、またも岩盤と石垣のコラボ! ……まあ、どう見ても新しそうですが。
それにしても、城跡の至る所でこれほどのチャート露頭が見られるのは、とても貴重だと思うのです。これなんてほら、褶曲がすっごいんです。
おお、これも素晴らしい!
お城巡りに来たのか露頭観察に来たのか、分からなくなりそうです。
ロープウェーで山麓駅まで下ります。
山麓駅には、精巧な城郭模型があります。当時の石垣を分かりやすく表示してあるようです。
特徴的な三段石垣が整備され、間近に見られるようになれば、間違いなく人気スポットになると思うのですが……残存度合いが気になります。
土産売り場の家紋入り暖簾に目が行ってしまいます。二頭立波に、木瓜紋に、桔梗紋まであります。
解説のひらがなが何を表しているのか分かっていませんでしたが、「ぜひにおよばず」か……なるほど!
締めは、天守です。
信長公だけでなく、道三公もプッシュしていく姿勢が、看板にも表れています。
平成の大改修を経た天守が、晴天に映えます。
「地上の楽園」は、お城好き露頭好きの自分にとってもパラダイスでした。発掘調査により素敵な発見があることを、願ってやみません。
岐阜城と大垣城の御城印です。袋のデザインも凝っていて素敵です。
日本100名城スタンプラリー、こちらで18城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。