徳島城に行ってきました。
日本100名城(No.76)に選ばれた、徳島県徳島市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
徳島駅の西、踏切を渡ったところで見つけた「徳島町城内」の表記。どうやら徳島城の大部分はこの住所になっているようです。
中央武道館の門が良い雰囲気だったので思わず撮りましたが、お城とは関係ありません。武道館付近、西の丸から西は御花畠と呼ばれ、当時は御殿や庭園があったようです。
城の北を流れる天然の堀、助任川です。右手奥に見えるのが城山です。
橋名には西の丸橋、とあります。ここより東に、西の丸があります。
河岸は、青石の石垣が積まれ、美しく整備されています。徳島では「阿波の青石」と呼ばれる三波川変成帯の緑色片岩が豊富に産出するようで、お城の石垣には青石が用いられ、美しいブルーグリーンを見せるのが大きな特徴です。
近年の整備とは思うのですが、風情があります。控柱風な石柱の柵もグッドです。
河岸を東へ歩き、城山に近付きます。
まだ城山には行かず、西の丸石垣が残る場所を目指します。
河岸に整備されたそれとは明らかに違う、歴史を感じる石垣を見つけました。西の丸跡に建つ内町小学校、その北西隅にある西の丸現存石垣です。若干緩やかな傾斜を描く隅部と、折れ曲がり部には雁木も見えます。隅部が凹んでいるのが不思議ですが……。
雁木の西側で、石垣が外側へ張り出しています。当時は隅櫓が建っていたようです。
この荒々しさ! 形もサイズもばらばらな石を無造作に積み上げたようでいて、隅部や上部はキッチリと揃う技術の高さ! こんな石垣もあるんですね。
南に伸びる石垣の途中、後から埋めたような箇所がありますが……詳細不明です。このあたりの石だけ加工した跡があるのも、なんだか違和感です。
さらに南側には、再び外側への張り出しがあります。ここにも櫓が建っていたのでしょうか……先ほどの櫓台より石垣が低いですが。このあたりを「香風台」とする資料もありますが……香風台が何なのか、詳細不明です。
内町小学校の入口脇にも石垣がありますが……隙間がコンクリートか何かで埋められているようにも見えます。当時のものではないのかもしれません。
市立体育館の東にあるこれは……もちろん城跡とは無関係ですが、とにかく青石の石垣を築いていくスタイル、好きです。
西の丸北東へ向かいます。
ちょっとした石でも、雁木の名残では……とか思ってしまいます。
西の丸の北東には水の手門や番所があったようなのですが……絵図などとにらめっこしても、どのあたりなのか、よく分かりません。
うろうろしていたら、城山の北側まで来ました。この登城道は……当時のものでしょうか。石垣が整然と積まれすぎているようにも見えますが。
ちょっと登ってみます。
道沿いのそこかしこに石垣が積まれています。小さめで比較的サイズの揃った石が使われています。
岩盤がむき出しの所もあります。岩盤と石垣のコラボ、素敵です。
上の方にも石垣が見えます。
カーブにも石積が、このとおり。
どうせなら山頂まで行ったら良かったと後になって思いますが、一旦引き返します。
道の両端にも綺麗に石が積まれています。やはり当時のものでしょうか……ううむ。
西の丸テニスコートの西まで下りてきました。この雰囲気……どうしても虎口に見えてしまいます。絵図などではこのあたりに仕切門があったようにも見えるのですが。
城山の西側から、南へ歩きます。
西の丸南東、西の丸口門があった付近まで来ました。道沿いに石垣があります!
これは……西の丸で見た石垣とは大きく印象が異なります。似たサイズの石を、隙間なく丁寧に積んであります。曲線的なラインは、まるで沖縄のグスクのようです。
石垣の南には細い水路があります。かつては城の南を流れる天然の堀だった寺島川の名残です。
水路北側の、ここから東へ伸びる石垣は非常に整っており、絵図などを見る限り、当時のものと思われます。挽舟門があったのはこのあたりでしょうか。
山麓に築かれた石垣はなおも東へ続き、途中にはこのように、岩盤を取り込んだ部分が! これはもはや……芸術作品ですね。拍手したくなります。
山麓の石垣はこのあたりで低くなり、途切れます。昔このあたりに竜王神社があったようで、少し東には「竜王さんのクス」と呼ばれる古木があります。
ここからは、元・寺島川の水路を追跡します。
石垣ブロックを見つけました。おそらくここが、塩蔵門跡です。石垣の隣には、小さな水門があります。
石垣ブロックと左手の石垣との間に、塩蔵門があったのでしょうか。
水路から北方向に伸びるこの石列……櫓台の名残だったりしませんかね。詳細不明です。
おお、あの石垣の壁からわずかにのぞくのは…見つけました、舌石!
寺島川沿いには当時屏風折れ塀が並び、折れ部分の柱を支えるために石垣から突き出した石が今なお残り、通称「舌石」と呼ばれ、全国的にも珍しい遺構なのです。
舌石を求め、滑り落ちそうになりながら、なおも水路沿いを歩きます。
少し形がいびつですが…きっとこれも、舌石!
お城の南、線路をまたぐ歩道橋そばの案内図まで来ました。この裏あたりに、一番見つけやすい舌石があります。
歩道橋を少し上がったところからよく見える、形の整った舌石です。
今回は3個の舌石を見ましたが、合計6個が現存するという情報もあるので、いずれ全部を確認したいものです。
舌石のある石垣は南へ伸び、ここまでつながります。奥に歩道橋がチラリのぞいています。石垣の上、右手が三木曲輪です。城郭建造物風の建物は、トイレです。
舌石探しを終え、三木曲輪を見ていきます。
内堀のそばにある、青石で作られた立派な城跡碑です。徳島城は、国史跡に指定されています。
左隣には、これまた青石で作られた鷲の門の碑があります。廃城令後も唯一残された建造物だったけれど惜しくも空襲で焼失し、平成の世に市民の寄付により復元されたのが、現在も徳島城唯一の城郭建造物である、鷲の門です。
城外から見る鷲の門です。右が腰掛長屋、左が番所です。
門の前が普通にアスファルト舗装で味気ないですね。自転車置かれてるし。もっとこう……お城っぽい整備ができないものでしょうか。
お城の正門だけあって、堂々たる風格の薬医門です。鬼瓦や軒丸瓦には、蜂須賀氏の家紋である卍があしらわれています。
左手に脇戸があります。ぶっとい梁や柱が、カッコいいですね。
内側から見ると、地面には砂が敷かれ、お城っぽさがぐんと増します。外側ホントどうにかなりませんかね……。
内側から見る番所です。道路の位置関係上から当時より短く復元され、また鷲の門自体も位置をずらされているそうです。扉は閉ざされていますが、中はどうなっているのでしょうか。
腰掛長屋は、内側から見るとオープンな休憩所になっていますが、当時はどのような建物だったのでしょうか。当時はこちら側の建物が堀際まで伸びていたようです。
屋根の上をよく見るとこれは…鷲の門だけに鷲、でしょうか。
鷲の門をくぐった先にあるのが、三木曲輪(現・鷲の門広場)です。三木曲輪はもう少し南まで伸びていたようですが、現在は国道により分断されています。
広場の南にある時計は弓櫓を参考にしたそうですが……一体どこをどう参考にしたのでしょうか。格子窓のある平櫓なのは間違いない……と思いたいですが、はたして。
先ほどの写真にも写っていた、三木曲輪北西にあるトイレです。鷲の門に見られる徳島城建造物の意匠に合わせた下見板張の小屋風で、瓦には卍紋まであしらわれています。これは大変素晴らしい!
個人的には、城跡のトイレや売店などの便益施設を城郭建築風にしているのは大歓迎大賛成であり、すべてのお城でそうすれば良いのにと思うし、いっそ当時の建物(番所とか長屋とか蔵とか)の位置に可能な限り似たような外観で建ててしまえば、城跡の景観を損ねずに観光客のニーズにも応えられてベストだと、常日頃から考えているのですが……まあ、そうは言っても色々簡単にはいかないこともあるのでしょうね。語りが長くなってしまいました。
三木曲輪北側の内堀へ向かいます。
下乗橋の東側にある、城跡案内です。図には、江戸後期の縄張り・建物が描かれています。御殿の広間が121畳半!大書院が110畳半!広っ!と驚いて調べてみると、二条城の大広間は合計200畳を超えていたのでなるほど比べるもんじゃないな……と冷静になりました。でも名古屋城本丸御殿だと表書院が126畳、上洛殿が106畳とあり、全然引けを取らないじゃないですかすごいぜ徳島城。
高札風の、下乗橋説明板です。下乗橋を渡った先が、大手門です。
現在は水平の石橋が架かる、下乗橋です。これを本来の木橋に架け替えるだけで、お城感がぐっと引き立つように思うのですが……。当時は石垣の上に櫓門と多聞櫓がみっちり建ち、橋を渡ってすぐにも門があったようです。左の石垣は、右とはずいぶん雰囲気が違います。
東には多聞櫓と、東端には月見櫓が建っていたようです。石垣の雰囲気は、西の丸で見たそれに近く、荒々しくも計算ずくのような、不思議な魅力があります。赤石も混ざってカラフルです。
西には櫓門の南側石垣です。切込み接ぎ状に隙間なく積んでおり、城山南西山麓で見た石垣に近いように思います。左にほんの少し見える櫓台には、太鼓櫓が建っていたようです。
下乗橋を渡ってすぐ右手の石垣です。これは、野面積に分類されるのでしょうか? 表面はずいぶんと平らで打込み接ぎっぽさもありますが…単に平らな面を表に持ってきているだけのような気もしますし……ううむ。矢穴が中央にある石もいくつか使われていますが、割れなくて諦めたんでしょうか。
内側から大手櫓門跡を見ます。門礎石は残っていないようです。左側石垣に見えるピンクの石は紅簾石片岩という岩石で赤石と呼ばれ、青石(緑泥石片岩)と同様に三波川帯から産出するようです。
大手門枡形を越えると、御殿のあったお城の主要部です。
大手門の西、太鼓櫓台へ上がる雁木です。このあたりの石垣は後世に改変があり、太鼓櫓から北西へ伸びる石垣は撤去されてしまったようで、この雁木も後から設置されたもののようです。
この雁木、何やら四角い穴が開いています。どうやら塀の控柱を転用したようです。
太鼓櫓跡です。天守のごとく立派な三重櫓だったらしく、登城した人の注目を集める、お城のシンボル的な存在だったかもしれません。太鼓櫓北西石垣の撤去や雁木設置に伴い、櫓台の形状は当時と異なっているようです。
太鼓櫓台には現在、ラジオ塔が建っています。
大手櫓門石垣から、枡形虎口を見下ろします。写真右手の敷石は、当時のものでしょうか。
内堀越しに、鷲の門を見ます。石垣と、松と、門。うーん、お城っぽい。
巨大な赤石がひときわ目を引く、大手櫓門北側石垣です。下乗橋の東にも赤石が使われていますが、大手口ということもあり意図的に赤石をアクセントとして配し、石垣の美しさを際立たせていたのかもしれません。
この石垣の南面に「大」の刻印があると後に知りました……。
ひとつ前の写真の東、桝形虎口北側の石垣上が、武具櫓跡です。写真奥の高くなっている所が、大手櫓門北側石垣です。
武具櫓跡の南側は土塁が坂になっていて、武具櫓跡の石垣(写真右)にはここから上り、大手桝形虎口の東側から、そのままさらに東にある月見櫓跡まで歩けます。
武具櫓跡石垣の左側、今は木が生えて分かりづらいですが、かつては櫓へ上るための雁木があったのでしょうか。写真左の石もひょっとしたら、櫓の礎石かもしれません。
月見櫓跡です。奥には鷲の門が見えます。月見櫓は古写真が残っており、西と北に多聞櫓が接続する二重櫓で、初重に唐破風、最上階には高欄を備えた雅な櫓だったようです。下乗橋から左手に三重の太鼓櫓、右手にオシャレな月見櫓が並ぶ様子はさぞ壮観だったことでしょう。
月見櫓台の北には、雁木があります。雁木横の石垣には、横長の巨石を多用しています。
月見櫓台の隅部は、きちんと算木積みになっています。雁木も綺麗に残っています。
月見櫓から北へ、石垣はまだまだ続きます。石垣の東が堀川(内堀)です。
石垣がお堀側へ張り出している所まで来ると、碑があります。
……おや、張り出し部の下の方、石が一部崩壊していますね。心配です。
屏風櫓跡です。南北に長い平櫓だったようです。屏風を収めていたのでしょうか。
屏風櫓跡の全景です。手前の長い天端石が、良いですね。
奥に数寄屋橋が見えます。まだ石垣上を歩けそうですが、一旦下ります。
屏風櫓跡の南側に設けられた雁木から下ります。この雁木も、上の方は控柱の転用に見えますが、下の方はオリジナルでしょうか。
右は屏風櫓台のすぐ北にある雁木で、こちらが本来櫓へ上るためのものかもしれません。左は表御殿庭園の東側石垣で、ここより北の通路は大変狭くなっています。
表御殿庭園へ向かいます。
庭園の東側は石垣で囲われていますが、当時のものだとすれば、石垣の上には塀などが設けられていたのでしょうか。
庭園の西側にある徳島城博物館は、御殿風の外観をしています。100名城スタンプは、こちらで押せます。
御殿があった場所に御殿風の博物館を建てる、非常に素晴らしいことです。しかし、せっかくなら、外観意匠を当時の御殿に極力近付けることはできなかったのでしょうか。もっと欲を言えば、彦根城のように、当時の位置に、当時の姿で、復元的に建造されていれば……お城好きの戯言です。
博物館入口前通路の傍らにぽつんと置かれた井筒です。
館内の展示物は撮影禁止だったのですが、その中に、全国で唯一現存する大名の和船「千山丸」があったと知り……悲しいことに、見たかどうかすら記憶に残っていません。ていうか、そんな超激レアな船があるなんてすごいじゃないですか徳島城。
御殿は失われていますが、表御殿庭園は現存し、国の名勝に指定されています。説明板の卍紋が素敵です。
説明板のそばに立つ、「名勝旧徳島城表御殿庭園」の碑です……か? これ、「名勝」って書いてあるんですか。「勝」と「城」だけやたら崩してますね。
説明板にあった、初代藩主が踏み割ったとされる巨大石橋です。これは大きさも青さも見事ですね。側面には、矢穴らしき跡が見えます。
橋の奥側に、確かに割れ目があります。こんな硬そうな石橋を踏み割るとか、初代殿様は改造人間か何かですか。
枯山水の石橋を渡っていきます。この石灯籠も、当時のものでしょうか。
陰陽石です。奥のそそり立つ石も見事ですが、手前の奇妙な石が目を引きます。外側には矢穴があり、そして内側の大穴は……くり抜いたというよりは、浸食によって削られたような印象を受けます。
水を張った池もあり、様々な景色が楽しめます。
庭園の南東隅にある長屋風建物です。瓦に家紋があしらわれ、現存建造物と言われても疑わないほどの風格がありますが……何なのか気になります。写真奥の土塀も、かなり年季が入っているように見えます。
庭園の北西にある、弁天池です。江戸期の絵図にも描かれており、右に見える低い石垣上に弁天社があり、木橋が架かっていたようです。弁才天を祀るお城をよく見かける気がしますが、いざという時に超大事な水が尽きませんようにと、水の女神サラスヴァティがルーツである弁天様にあやかっていたのでしょうか。
改めて、城山へ登ります。
西坂口から登ります。登り口付近には、SL車両が展示されています。
石段は後世に整備されたように見えますが、石垣は当時のものでしょうか。
岩盤が崩れかけた部分に、小さな石垣を築いたようにも見えてしまいます。
長く続く石段に息を切らしていると……お、おおお!見えました!石段の先に!石垣が!
これはすごい! 疲れなんて一瞬で吹っ飛びます。ここは西三の丸門跡で、直進できず左折させられる枡形虎口です。
虎口西側石垣です。大手門あたりの石垣をさらにワイルドにしたというか……どうしてこれで江戸期から崩れずにいるのか不思議でなりません。あまりにも適当に積み上げたように見えてしまいますが、隅部では横長の石はひとつ置きに積まれていたりして、危うさと緻密さが同居する技術に、驚くばかりです。ここは特に、細長い石が多用されています。
虎口東側石垣です。こちらは隙間が少ないからか、西側に比べると普通に見えます。西側石垣は経年で間詰石が失われたのかもしれません。
虎口北側石垣です。門礎石のような石がぽつんとひとつだけあります。桝形虎口のど真ん中なので、元からこの位置にあったのか疑問です。門は枡形虎口の入口か出口に設けられるのが一般的なので、後世に石段を設けた際などに礎石を移動したと考えるのが妥当でしょうか。
ひとつ前の写真の石段を上った所です。両側の石垣が同じくらいの高さで、ここに櫓門が建っていたような雰囲気もあります。奥に、明らかに江戸期のものではなさそうな門柱と扉が見えます。
門柱には、城山配水池とあります。ここより西側の遺構は、配水池により失われたようです。
配水池門柱の東にある石段の向こうには、石垣と、また石段が見えます。
西三の丸は上中下の三段構成になっており、材木櫓や平櫓が建っていたようです。今いるのは、下段です。
奥の石垣を見に行きます。
西三の丸下段北側にも、当時のものと思われる、中段へ上がる雁木があります。北側には材木櫓があったようですが……どのへんでしょうか。
ひとつ前の写真で雁木の右手に見える、西三の丸中段石垣の隅部です。長い石を縦にして隅を支えており、崩壊寸前なバランスに見えてハラハラします。
西三の丸下段を北から西に戻り、中段へ上ります。石段は後世の整備に見えますが、両側石垣の整い具合を見るに、道の広さは当時からこのくらいあったのでしょうか。大手筋っぽさがあります。
中段から、西三の丸門虎口を見下ろします。やはりあの礎石位置は不可解です。
こちらは先ほどの、下段北から中段へと通じる雁木のある所です。裏口っぽさを感じます。雁木を下りた先、下段石垣が張り出している部分に材木櫓が建っていたのかもしれません。
中段から上段へ上る石段の南に、石垣が見えます。
上段を構成する石垣が東方へ伸びています。隙間が多く不安定そうなのに、隅部は見事な算木積みになっており、技術力が伝わってきます。巨木により一部崩れかけています。
上段には、大きな招魂碑があります。
招魂碑の東に、これまた立派な石垣があります。櫓台のようです。
北西から櫓台の隅部を見ます。
南から櫓台を見ます。この石垣からは危うさよりむしろ頑強さを感じます。巨石を贅沢に使い、南西隅は綺麗な算木積みになっています。
西三の丸上段のさらに上段が、西二の丸です。
櫓台を左手に見ながら石段を上ると、石垣の壁が立ちはだかります。西二の丸への虎口です。
虎口石垣には巨石が多用されています。大手道の重要な虎口などに配置されることが多いこれらの巨石は鏡石と呼ばれ、城主の権威をアピールする意味があると言われているようですが、このあたりの石垣からは権威というか威圧感をビシビシ感じます。
左の巨石をよく見ると「矢穴未満」とでも言うべきわずかな凹みが見えますが、矢穴を穿つ前にこのラインで割るのを諦めたのでしょうか。
虎口で道は左へ折れます。石段のあたりに西二の丸門があったのでしょうか。巨石石垣上には、鉄砲櫓があったようです。
石段を上った所に、櫓台へ上る雁木があります。
先ほどから見ている櫓台には、帳櫓(とばりやぐら)が建っていたようです。
帳櫓台上には柱礎石がしっかり残っていますが、当時の櫓のものでしょうか。
帳櫓台から北を見ます。西三の丸上段と西二の丸では、これだけの高低差があります。
鉄砲櫓と帳櫓に挟まれた堅固な虎口を抜けると、西二の丸です。
西二の丸から東へ伸びる、本丸への登城道を進みます。
岩盤と石垣のコラボ、素敵です。
なおもコラボします。
コラボ石垣の先に、高石垣の根元が見えてきました。
このワイルドさ、これぞ徳島城の石垣という感じですが、この荒々しさでここまでの高さに積めるものなのですね……すごすぎる。
まるで天守台かと見紛う、超巨大な櫓台です。基部に組まれた低い石垣は、補強用でしょうか。
登城道の突き当たり、本丸石垣の北西隅です。かなり高く積まれています。
本丸の北西隅には、馬具櫓があったようです。
右折するとまた石段があります。そしてこちらの櫓台北東隅がまた素晴らしいんです。
平たい巨石を隅部へ縦にはめ込み、ご覧のバランスです。
ここの石垣にめちゃめちゃ惚れました。本丸を目前にこんなの見せられたら、敵はもうビビりまくりですよ。
石段の踊り場です。本丸西門が建っていたのはこのあたりでしょうか。
この石段を上れば、本丸です。
本丸に入ります。
天守台並みの巨大な櫓台の上には、鷲の門広場で見た時計のモデルになった、あの弓櫓が建っていたようなのです。格子窓で、平櫓で、こんな巨大な櫓台の上に建っていた弓櫓……いったいどのような姿だったのでしょうか。ますます謎は深まります。
ちなみに、弓櫓台こそが旧天守台であり、当初の天守はここにあったという説もあるようです。
弓櫓跡から、本丸を見ます。廃城後はしばらく護国神社が建っていたようですが、現在は広場になっています。
本丸跡の説明板です。当時の建物情報は非常にありがたいのですが……どれが何処に建っていたのかも教えてもらえたら……もっと嬉しかったです。
こちらが御座敷下の非常脱出口、本丸北の埋門跡です。石段は後世の整備に見えますが、石垣は現存でしょう。
山頂の御座敷にちゃっかり抜け道まで用意するとは……やりますね、蜂須賀公。
緊急脱出路であって見せる石垣ではないので、石は小ぶり、安定重視です。
石段下の狭い踊り場石垣もこのとおり、非常にカッチリした作りです。
狭い道が醸し出す隠し通路感、良いですね。
この道を下ると、西の丸から最初に登りかけた道につながるようです。
このあたりの本丸石垣は非常に高く、綺麗に残っているように見えます。
本丸へ戻ります。
本丸の東には、清玄坊を祀るお社があります。
本丸を出ます。
本丸東虎口は後世に手が加えられているようですが、当時はどのような形状だったのでしょうか。
本丸東虎口の長い石段の途中に、石段の片側を塞ぐように積まれた石積みがあります。
石垣の崩落防止に、一時的に積まれたものでしょうか。いずれ石垣が修復され、撤去されると良いのですが……。
本丸東側石垣です。確かに、はらんできているような危うさを感じます。このあたりの石垣は、まさしく野面積! って雰囲気ですね。
東坂口を下っていきます。道の脇や、暗渠の蓋に見える石積みは、当時のものでしょうか。
東二の丸です。けっこうな広さのある曲輪ですが……奥に碑が見えます。
天守跡です。ここに、天守台を設けずに、三重の天守が建っていたようです。最高所の本丸ではなく二の丸なのは、何か理由あってのことでしょうか。天守を麓からよく見える位置に置きたかった、とか?
東二の丸東端から、海の方向を見ます。今の景色は良くありませんが、三重の天守からの眺めは、さぞかし絶景だったでしょう。
東二の丸から眉山を見ます。夕日がまぶしいです。
東二の丸の西側に積まれた石垣です。ここにも平たい石の隅縦積みが。
石段を少し下ると見られる、巨石を豪快に積み上げた東二の丸の石垣です。このあたりに東二の丸門があったのでしょうか。
石段の西側には、岩盤と一体化するかのように、目を見張る巨石から小さな石まで様々に組み合わせた、石の模様も美しい石垣の壁が連なります。当時の大手筋は西坂口だったようですが、こちら東坂口でも城主の圧(プレッシャー)は十分すぎるほど感じられます。
これで隅部はキッチリ整っているので、驚嘆です。
下りの石段脇でも、あちこちに石垣が見られます。
東坂口を下りてきました。
山麓の東を見て回ります。
東坂口から東、表御殿庭園北側の山麓に積まれた石垣です。南西山麓の石垣と、積み方は似ているように見えます。
石垣の先に、「城山の貝塚」と書かれた碑があります。
石碑の隣にせり出した超巨大岩盤と、それを支える石垣がもう、「すごい……」「すごすぎる……」ばかり言ってたように思います。完全なる語彙喪失です。
こちらの貝塚は入口分かりやすいですね……ん? さっきの岩盤下の石垣ってもしかして、後世に貝塚の入口を(何らかの理由で)塞いだもの? お城関係ない?(詳細不明です)
さらに北へ歩くと、海蝕痕があります。丸い穴が、6000年ほど前に波しぶきに削られた後だというのです。絶えず海水が打ち寄せるような波打ち際だったということでしょうか。
縄文時代の貝塚があり、浸食作用が生んだ珍地形まである城跡というのは、徳島城くらいなのではないでしょうか。いわゆる複合遺跡、にあたるんですかね。
城跡巡りに戻ります。
内堀が西へ折れている所です。堀向こうの石垣隅には当時櫓があり、撮影している手前側から北には馬屋があったようです。
隅櫓跡です。櫓台上には石積みがいくつか見えますが、隅櫓の基礎に関係するものでしょうか。
隅櫓へ上る雁木の手前には、大きな岩盤があります。
隅櫓の南側では、石垣が二段構成になっています。
二段石垣のあたりから南を見ます。右手が表御殿庭園の石垣、左手が旗櫓の石垣です。
旗櫓台の南に、雁木があります。
旗櫓跡です。奥に石垣の切れ目が見えます。
この石垣の切れ目が、数寄屋門跡です。復元模型などを見ると、旗櫓はこの石垣をまたいで建ち、数寄屋門がその下をくぐる埋門形式になっていたようです。
旗櫓跡から、南を見ます。表御殿庭園石垣が、ゆるくカーブを描いています。
南の堀側を見ます。奥に見える石垣の張り出し部が、屏風櫓跡です。
北側には、数寄屋橋がそばに見えます。
旗櫓脇の雁木は、なんだかオシャレです。
数寄屋門跡と、数寄屋橋です。門跡周辺は石敷きですが、門礎石は見当たりません。
数寄屋橋の高札風木製説明板です。数寄屋門は不明門だったんですね。
いやー良いですね木橋。お城っぽさがぐぐっとアップします。下乗橋も是非、木橋に架け替えてほしいものです。
帰りに、堀の外側を歩きます。
左奥に屏風櫓跡が見えます。石垣は、隅部や横矢部に美を感じます。
屏風櫓台のすぐ北、石垣に穴が開いています。排水口でしょうか。
屏風櫓台隅部の巨石が素敵です。
先ほども見た屏風櫓台南側基部の石垣破損、石が粉々になっています。いったい何があったのでしょうか。
最後にもう一度、太鼓櫓台を見に行きます。西側には、縞模様の石や大きな矢穴の並んだ石があり、にぎやかな外観です。
そもそも人が少なかったのもありますが、人の写り込みを避け、心惹かれたものは角度を変えてじっくり撮るなど、撮影の仕方にも少し進歩が見られるように思いました。
建造物はほとんど無いけれど、青石によるダイナミックな石垣が衝撃的で、これまでのお城巡りで培った石垣に対する固定観念のようなものが木っ端微塵に砕け散り、一目惚れしてしまいました。故郷にあるお城の素晴らしさを全然知らなかった恥ずかしさと、全国に誇れる名城であったことの誇らしさとで胸が一杯です。次の帰省の際には、今回見逃した石垣の刻印と、日本唯一の現存大名船をじっくりたっぷり堪能したいと思います。
日本100名城スタンプラリー、こちらで13城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。