お城訪問

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  • 2026/8/5「91.金山城」(2019/8/12訪問)の記事をアップ

91.金山城

群馬県太田市の、金山城に行ってきました。

日本100名城(No.17)に選ばれているお城です。

 

文明元年(1469年)に岩松家純により築城された金山城は関東七名城にも数えられ、度重なる有力戦国大名からの攻撃にも落城しなかった堅城です。天正十八年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐により廃城となりました。城郭史の定説では従来、戦国時代の関東の山城には本格的な石垣普請の城はないとされていましたが、それを覆すほどの多種多様な石垣や石敷きが多数見つかり、発掘調査の成果に基づいて復元整備されています。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

お城の大手南麓にある寺院、大光院です。徳川家康が祖とした新田義重を追善するために慶長十八年(1613年)に創建しました。ちなみに、築城主・岩松家純は新田一族です。

太田市の観光ガイドマップです。大光院の北には城主横瀬・由良氏の菩提寺である金龍寺がありますが、未訪です。

史跡金山城跡ガイダンス施設に到着しました。金山城の石垣をイメージしたという特徴的な外観の建物は、隈研吾氏による設計です。

 

ガイダンス施設が開館前だったので、先に城跡へ向かいます。

山上の駐車場です。このあたりは西城と呼ばれ、奥の石垣上には遺構が見られます。

駐車場付近からの眺望です。

駐車場のすぐ北側にある、西城筋違い虎口です。堀と土塁があり、虎口には「西城筋違城門」「見附塹壕」と二つの標柱があります。金山城の石標柱は、堀を塹壕と表現しています。

虎口を西側から見ると手前では道の右から、奥では左から土塁が延び、直進を阻んでいます。標柱のあたりに、門があったのでしょうか。

西城筋違い虎口から南西へ歩くと、見附出丸があります。

見附出丸の南土塁です。北土塁とあわせて、筋違いの虎口を形成しています。

南土塁の奥にもうひとつ、虎口があります。

虎口を出ると、土橋があります。

土橋の両脇は、堀です。

堀の前には「大手前塹壕」の標柱があります。

見附出丸から、大手前塹壕を見下ろします。

西城筋違い虎口まで戻ってきました。

 

ここから北東へ歩き、実城の方向へ向かいます。

見所を紹介する案内図の両脇に、のぼりが立っています。新田神社は、本丸にある神社です。

立派な史跡碑は、ここからがお城の主要部だと告げているように感じます。

2019年は築城550年の節目であり、ガイダンス施設開館10周年でもあるんですね。

さて、道に沿って先へ……。

ってちょっと待って、なんですかこの巨大な露頭は! しばし見惚れました。

お城のある金山は主に「金山石」と呼ばれる流紋岩質の溶結凝灰岩から成ります。露頭には斜めの節理?が見られますが、これも金山石でしょうか。

道の交差点で振り返ります。右の露頭が見える道は管理用道路で、左の岩盤上が園路です。

物見台の案内がある坂道を上ります。

通路は西矢倉台西堀切の北へ回り込むように延びていますが、かつては堀切の南にある桟道までまっすぐ東へ続く旧通路があり、通路変更後は埋められたようです。説明の右奥に旧通路らしき道は見えるのですが……「植栽により表示」というのはイマイチ分かりません。

西矢倉台西堀切です。左奥に柵と木橋があり、「西矢倉臺西塹壕」の標柱奥に説明があります。

西矢倉台西堀切の説明です。四つの堀切のうち唯一通路として使用され、先ほどの旧通路はここの桟道につながっていました。

堀切北側からの敵兵の侵入を防ぐ柵が再現されています。奥の木橋はお城の設備ではなく、見学ルートとして整備されたものです。

堀切の底には石段と石敷き通路があり、西側には土塁があります。

堀切通路の先に設けられた「桟道(かけはしみち)」が再現されています。簡素な造りで、有事の際には壊して敵を足止めしたと考えられています。

傷んでいるから一時的に渡れないのか、忠実に再現したものの危険なので常時渡れないのか……。

当時は無かった木橋の上から、堀切通路を見ます。

木橋を渡り、次の堀切へ向かいます。

西矢倉台下堀切です。標柱は先ほどと同じ「西矢倉臺西塹壕」です。この先の堀切に比べ規模は小さいそうですが、とても深いし、すごい迫力です。

振り返ると、西矢倉台西堀切より高い位置にあることが分かります。

堀底を南へ歩くと、ロープで通行止となっています。

奥に桟道が見えます。桟道から続く通路は西矢倉台下堀切を過ぎ、西矢倉台へ続いています。

この上は西矢倉台なのですが……「通行禁止」の表示があるのは、ここを登る人がいたということでしょう。左に園路があるのに、足場になりそうな石があるからってこんな所から登ろうとするなんてもってのほかです。ていうかこれって石垣跡では?遺構は大切にしましょう。

園路を進み、西矢倉台へ向かいます。

西矢倉台では新旧通路が発掘され、旧通路を覆うようにより内側に新通路が造られています。

新通路が復元整備されています。説明板の左は、石階段の一部と思われます。

石階段の続きが見えます。この先、西矢倉台下堀切南の桟道へ通じていると思われますが、進入禁止です。

西側奥に進むと、「西矢倉臺阯」の標柱があります。

堀切まで、かなりの高低差です。

西矢倉台の新通路は石階段を経て東へ延び、石畳が続いています。

 

いよいよ、石垣とご対面です。

通路の正面に石垣が積まれ、その手前には堀があり、直進できず、先が見通せません。左前方には堀に架かる土橋が見えますが、土橋の先の通路は両脇から石垣が迫り、非常に狭くなっています。

この先は馬場下通路と呼ばれ、数多くのギミックが連続し、金山城の守りの堅固さを体感できるエリアです。

虎口及び土橋の上方には物見台があり、土橋を渡る敵兵は正面虎口だけでなく、物見台からの攻撃にも晒されます。

物見台下堀切は岩盤を人力で削って造られており、その規模と労力に驚かされます。

両脇に石垣を備える、物見台下虎口です。石垣の間には門が建ち、門を越えようとする敵兵を石垣上から攻撃していたかもしれません。

虎口北側の石垣は岩盤を利用して築かれた、岩盤と石垣のコラボレーションです。

南側の石垣は、二段構成です。

虎口から振り返り、土橋を見ます。西矢倉台からの通路が曲げられているのが分かります。

虎口の向こう側で道は右方向に曲げられ、直進を阻みます。

南側石垣は隅部を設けず、緩やかにカーブしていますね。

北側石垣にはしっかりと隅角部が設けられています。同じ虎口にあるのに積み方が異なるのは、何か理由があるのでしょうか。

ゆるくカーブする石垣と、角のある石垣。対照的です。

虎口を越えた石敷き通路の南にある土塁石垣は、説明にあったとおり中央部が崩れた状態で整備されています。本来は高さのある石垣で通路を隠し、谷側の敵を威圧していました。

通路を進むと、竪堀の手前で道が左右に分岐しています。左は木橋を渡り堀を越えるルート、右は見学ルートではないため柵が置かれていますが……。

柵の向こうには石階段が設けられ、堀底へ下りることができます。

竪堀の東側は、階段状の石垣で区画されています。一部が崩れたような整備は、本来の高さが分からないからでしょうか。

木橋から振り返ります。短い区間に、ギミックが詰め込まれています。

木橋の先には、またもや両脇に石垣を備えた虎口があります。右の石垣は本来、左くらいの高さがあったのでしょうか。

虎口を通過し、振り返ります。枡形ではありませんが、二つの堀と虎口が連続し、幾度も通路が曲げられた極めてテクニカルな縄張りです。

虎口を過ぎると、左に建物跡が、その先には階段が見えます。通路は柵列に挟まれ、狭く曲げられています。

説明にあるとおり、馬場下通路のギミックにはまだ続きがあるんです。

礎石建物は、兵が待機する「番小屋」と考えられています。岩盤側の礎石は実物で、岩盤基部の右側では石垣が積まれています。

礎石建物を過ぎると、ルートが左の石階段と直進とに分岐します。

直進した先にあるのは礎石のない、簡易な掘立柱の建物址です。

掘立建物址を過ぎ平坦な直進ルートを選んだ先は、行き止まりです。先に見える馬場曲輪までの起伏は少なく、簡単に進めそうに見えますが、当時はもっと高低差がありこれ以上進むのは難しかったのかもしれません。そもそも見学ルートとして通行禁止のため、諦めて引き返します。

石階段を上ります。

100名城スタンプのある南曲輪休憩所は、まだまだ先です。

 

物見台へ向かいます。

案内の先に、物見台が見えます。ようやく同じ高さで見られる場所まで来ました。

標柱には「大手口馬場趾」とあります。

説明を読みます。弾丸の出土が、戦をリアルに物語っています。

説明の西が礎石建物址で、その南が石敷き通路です。

北側に長く延びる石塁は、当時もっと高さがあったと思われます。

南側の通路は物見台の手前で北に折れ石階段が設けられ、物見台東中央の石階段へとつながっています。

物見台上の模擬矢倉(?)を支える四本の柱は、発掘された柱穴上に建っています。

模擬矢倉的な施設に上がり、北を見ます。当時の物見矢倉とは形状や高さが異なるかもしれませんが、ここから周囲が良く見渡せることは分かります。

南には物見台下虎口がとても良く見え、虎口へ迫る敵を狙い放題です。

東には、物見台中央から延びる石階段とそれに続いて南へ折れる階段が見え、北には石塁が物見台石垣に接続しているのが見えます。

 

馬場曲輪へ向かいます。

物見台の東に連なる馬場の東端に石階段と石敷き通路があり、馬場曲輪へと続いています。

通路から振り返ります。物見台のある馬場との高低差が分かります。

馬場曲輪には柵列が復元され、建物址が平面表示されています。説明板が設置された時は中央の建物址には四阿が建っていたようですが、平面表示に変更されています。

馬場曲輪の東にある、城内最大の大堀切です。

敵が堀底を自由に移動できないように、畝状の石積みが設けられています。

建物址の南側には、発掘された石組み排水路が整備されています。

柵列から下をのぞくと、月ノ池と、大手虎口への道が見えます。

西には、馬場下通路の行き止まりが見え、基部に石垣が積まれているのが分かります。

石組み排水路は、曲輪西の通路を横切っています。

通路の石階段を下り、振り返ります。通路の右が、馬場曲輪です。

「大手口馬場下残存石垣」の標柱が、馬場曲輪の石垣を指すのか、あるいは標柱背後のシートで覆われている斜面に石垣が残存している(いた)のか、判然としません。

このあたりは斜面の崩落があったのか、崩落の危険性があったのか、工事中の様子でした。

残存石垣の標柱西側の奥にも、標柱があります。

「大手口馬場下」の標柱があるここは、馬場下曲輪です。

馬場下曲輪の西端は、馬場下通路の竪堀を区切る土塁石垣です。

大堀切の南側には「三ノ丸下塹壕」の標柱があります。ここからは、上下二段構成の馬場曲輪石垣がよく見えます。

 

大手虎口へ向かいます。

大手虎口の手前には、月ノ池があります。

上下二段の石垣で囲われた円形の池です。かつては一段の石垣だったのが、改修され位置も変更されたと考えられています。

井戸ではなく、これだけ大きな、しかも石垣で囲われた池がある山城というのは珍しいように思います。訪れる者に水の豊富さを見せつけていた、とされています。

月ノ池は大堀切のすぐ南にあり、雨水を溜めるには都合が良さそうです。

池へ下りるための石階段が設けられています。

 

月ノ池を回り込んで東へ進むと、大手虎口です。

これはすごい……! 眼前の光景に、圧倒されます。

先が見通せない道の左右に並ぶ石垣、奥にひときわ高くそびえる正面土塁……大手虎口だけで、ひとつの要塞のようです。

通路の間には門が行く手を阻み、石垣の上には柵や塀が連なり、当時はさらに攻め入るのが困難だったことでしょう。

正面土塁に生える巨大な木が目を引きます。お城の歴史を見守ってきたのでしょうか。

虎口の南には、石垣により壇状土塁が築かれています。

通路右端の復元石組み水路は途切れていますが、実際は斜面まで延びていたと思われます。

通路左側の水路です。通路の中央付近を通っていますが、当時は板などで蓋がされていたのでしょうか。

虎口南側の、立派な石垣です。

虎口北側にも立派な石垣と、壇状土塁が見えます。

石垣基部の地面は通路へ向かって傾斜しており、大手虎口が谷地形を利用して築かれたことが分かります。

虎口にある、四つの門礎石です。新・旧二つの時期の礎石が見つかっているようですが、整備されているのは新しい時期の礎石と思われます。

 

石敷きの通路を進みます。

門跡を過ぎると、左手に石階段があります。

こちらは復元整備されたものではなく、発掘調査で見つかった階段そのままです。

効率的な排水の工夫がされている、大手虎口北下段曲輪です。

水は曲輪上段から、岩盤の溝をつたって曲輪内の石組み排水路に集まり……。

曲輪内の排水路から通路の排水路を経て、虎口外へ排出される仕組みです。

大手虎口北下段曲輪から、東の壇状土塁を見ます。左奥の建物がある場所は、三ノ丸です。

曲輪の上段から、大手虎口の南側を見ます。

 

通路に戻ります。

大手虎口北下段曲輪から通路を挟んで反対側にある、大手虎口南下段曲輪です。ここから見ると、通路のカーブ具合がよく分かります。

この曲輪にも排水路と、石垣には暗渠の排水口らしき穴が見えます。

通路の一番奥には長大な二段の石垣による正面土塁が立ちはだかり直進できず、道は土塁の前で左右に分岐します。

正面土塁の前から、大手通路を振り返ります。地形的な制約等もあるのかもしれませんが、通路の左右で曲輪の様子が異なります。

正面土塁から右へ曲がると、大手虎口南上段曲輪があります。発掘調査に基づき、建物やカマド、井戸が復元されています。かつては南下段曲輪からスロープ状の通路があったようですが、後に埋められています。

井戸です。

中をのぞいてみると、石組みの底に、木枠らしきものが見えるような……?

建物の外にある、カマドです。

カマドには、屋根があります。

建物は、中に入ることができます。

石敷基礎の一部が露出展示されています。

かつては建物の西に、南下段曲輪から壇状土塁の脇を通って南上段曲輪に至る通路があったそうです。数段の石階段は、通路の名残でしょうか。

 

日ノ池へ向かいます。

大手虎口南上段曲輪から、正面土塁の南を東へ延びる石階段です。水路が通されている関係か、形状が複雑です。

水路の一部は、暗渠となっています。

石階段の上から振り返ります。

石階段を上ると左手に見えるのが、日ノ池です。直径が月ノ池の倍くらいある、とても大きな池です。ひとつの山城に石垣で囲われた池が二つもあることに、驚きます。想像ですが、儀式の場所として神聖視されていた日ノ池から直接水を得ることはせず、脇にある二つの井戸から水を汲んでいたのでしょうか。

池へと下りる通路があり、井戸の近くには石階段が見えます。

此処は特別な場所だったということが、なんとなく伝わってきます。

日ノ池の北、正面奥の茂みが三ノ丸です。

大手虎口南側~日ノ池南側にかけて延びる東西に長い曲輪が、南曲輪です。中島記念公園として整備されており、休憩所やトイレがあります。

太田市出身で、中島飛行機(のちのSUBARU)の創始者である中島知久平氏の像があります。

南曲輪からは南の眺望がきいており、天気が良ければ富士山も見えるようです。

説明板には、金山城の南に位置する八王子山ノ砦も示されています。

地形模型は、曲輪が赤、堀切が茶色、池が水色に着色されています。

日本百名城の碑もあります。

南曲輪からは、大手虎口が一望でき、構造がよく分かります。

途中の案内にもあったとおり、100名城スタンプはここ、南曲輪休憩所にあります。

ここでスタンプを押しました。壁等には押さないようにしましょうね……本当に。

 

いよいよ、実城へ向かう……前に、少し戻ります。

正面土塁前の大手通路を左へ曲がります。奥には、スタンプ設置所に説明のあった「五のかゝりの丸の内の十方」の幟が翻っています。

壇状土塁石垣に、穴が開いている箇所があります。

ここでは五回にわたる改修の跡が見つかり、そのまま展示されているそうですが……どこがどうなのか、正直よく分かりません。

北通路から、大手虎口を振り返ります。幟がたくさん立っていることに、今さら気付きました。

南通路側から、左手に正面土塁を見ます。右奥が三ノ丸です。

三ノ丸は新田神社の社務所となっているようで、関係者以外立入禁止です。

三ノ丸と日ノ池の間には、お堂らしき建物や石碑、五輪塔が並んでいます。

日ノ池を北から見ます。奥が南曲輪です。

 

今度こそ、実城へ向かいます。

本丸の南、御台所曲輪の北にある大ケヤキです。推定樹齢からすると、金山城築城前からこの山の歴史を見守ってきた古木ということになります。

北へ進み石段を上ると本丸ですが、寄り道します。

本丸を東へ回り込むと、昭和五十五年の標柱には「武者走り」と、石の標柱にも「武者走阯」とあります。

武者走りの下にも、壇状に曲輪が連なっているようです。

先へ進むと、「天主曲輪裏馬場」の説明と「本丸裏馬場阯」の標柱があります。本丸を取り巻く腰曲輪を歩いてきてたどり着いたこの辺りが、本丸の真裏(北)になるのでしょうか。説明によると、ここには馬屋が建っていたそうです。

さらに進むと、本丸を囲う石垣が一部、残っています。標柱には「本丸残存石垣」とあります。

わずかしか残っていませんが、金山城の歴史を感じられる、良い石垣です。

分かれ道に出ました。左へ進みます。

ここは本丸と二ノ丸の間の堀切と思われます。左が本丸、右が二ノ丸です。

左を見ると、本丸の西側上部にも石垣があります。先ほどと雰囲気が似ていますが、これも残存石垣でしょうか。

瓦片は、何時の時代のものでしょうか。

 

寄り道を終了し、本丸へ上ります。

本丸西側に建つ、梅若稲荷神社です。

梅若稲荷神社の東に建つ御嶽神社と、右奥が新田神社です。

御嶽神社の南に「本丸阯」の標柱があります。

歴史や構造が記された説明は、かすれて読みにくくなっています。本城・西城・坂中城・八王子山矢倉台(八王子山ノ砦)の四城郭が重要部分とありますが、坂中城と八王子山ノ砦は今回未訪です。

城主系図の右には、「史蹟金山城阯」の碑があります。

本丸東側にある「天主曲輪(=本丸)」の説明です。東北に「鬼門除」があるとは知らず、本丸腰曲輪を歩いたけれど、全く気付きませんでした。

本丸に鎮座する新田神社には、新田義貞公が祀られています。

 

本丸を出ます。

本丸の南に延びる、神社参道の石段です。東側には、スロープが設けられています。

石段は神社と同時期に整備されたと考えられますが、当時の本丸虎口はどこにあり、どのような形状だったのでしょうか。

スロープの上り口には、広い平場があります。

本城=実城=主郭部、ということでしょうか。大ケヤキの南(奥)側に御殿があったようです。城主は御殿から、このケヤキを眺めていたかもしれませんね。

御殿があった御台所曲輪は、かなりの広さがあります。

鳥居をくぐると、下りの石段が延び、御台所曲輪の下へ通じています。下段にも曲輪があるようですが、今回は未訪です。

来た道を引き返します。

整備された遺構に、素晴らしい石垣に、別れを告げます。

西城筋違い虎口まで戻ってきました。見事な土塁と堀です。

 

ガイダンス施設に戻ります。

ガイダンス施設から道路の向こう側を見ると、標柱があります。

標柱には「大手口石塁」とあり、上の方に説明板が見えます。

桜ノ井戸です。ここより南西に八王子山ノ砦があり、大手門もこの付近にあったようです。

確かに、井戸から石塁が延びています。

さて、ようやくガイダンス施設に入ります。入館無料。

施設内には、戦時の金山城を再現した模型がいくつか展示されています。これは物見台・馬場下通路です。あくまで職員さんが推定に基づいて作成したものですが、建物や兵が配置されることで、遺構についての理解を深めることができる良い模型です。

西の通路から攻め手の気持ちで覗いてみると……通路狭いし先が見えないし、正面石垣上やら土塁上やら物見台やら四方八方から攻撃されるし、これは戦意喪失待ったなしです。

曲がった通路、狭い虎口、取り囲む石垣土塁……堅固さがひしひしと伝わります。

こちらは大手虎口です。大きな櫓門があり、塀や柵が並ぶことで、随分と印象が変わります。

門の奥をのぞくと……。

通路は曲がりくねり、全く見通しが利きません。

門を突破できたとしても、通路の左右から猛攻撃を浴びせられることでしょう。

模型の楽しみ方についての説明があります。守り手、攻め手というのはよく分かるのですが、大空を舞う鳥、ですか……。

なるほど鳥視点、良いですね。城は高い所から見渡すと、構造を理解しやすいと思うんです。

 

新旧の標柱、新旧の説明が混在し、同じ場所なのに遺構の名称が異なる場合もあり、訪れる人の混乱を招く原因になりかねないので今後改善されるといいなぁ……とか思ったりもしましたが、整備された馬場下通路や大手虎口の臨場感は素晴らしく、守りの工夫や排水の苦労がとてもよく伝わってきました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで60城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。