お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

32.弘前城

弘前城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.4)に選ばれた、青森県弘前市にあるお城です。

JR弘前駅の壁面に天守が描かれています。

駅からバスでお城の近くまで移動します。

東門近くにある案内板です。

ここから外堀沿いに北上します。

外堀の内側には、土塁が続いています。これまで石垣のお城ばかり見てきたので、土塁造りのお城はとっても新鮮に映ります。

お堀に沿って左へ曲がります。

なにやら古くて立派な建物がお堀の北側に見えます。

重要文化財の石場家住宅です。現在は酒屋さんで、入場料を支払えば住宅内部を見せてもらえます。江戸時代から残る貴重な城下町の建造物です。それにしても、とんでもなく大きな家です。

石場家住宅から道を渡り、城内へ入ります。

亀甲橋の向こうに、大きな城門が見えます。北門(亀甲門)です。

弘前城には、このような統一様式の案内図が至る所にあるので、現在地が容易に把握でき、こうして後にブログを更新する際にも非常に役立ちます。ありがたや。

北門の説明板です。もともとはこちらが大手だったようですが、現在は搦手門(裏門)となっているようです。

門は橋を渡って左に建っており、直進できないようにしています。門の周囲には土塁が高く積まれ、その上には板塀が隙間なく築かれ、門以外からの侵入を許さない堅固な構えです。

でかい! なんという巨大な門でしょうか。

内側から見た北門です。弘前城にはなんと五つもの城門が現存していますが、ひとつだけでとても興奮しているというのに、あと四つも!

案内柱が立っています。北門をくぐった所が四の丸です。

四の丸に入った途端、見渡す限り並ぶ石、石、石。ものすごい光景です。

そうです、弘前城本丸は石垣の解体修理中なのです。四の丸は現在、半分が解体した石置き場になっているようです。石にはラベルが貼られて管理され、壁にはこのように石垣修理の説明ポスターがずらっと貼られています。

四の丸のもう半分には護国神社が建っています。銅板で覆われた鳥居の巨大さに圧倒されます。

左手の高い土塁が、ここで区切られています。右奥が一陽橋です。

一陽橋は渡らず、四の丸を南下します。

赤い欄干がふたつ見えます。左が波祢橋、右奥が春陽橋です。

西堀のそばで、鴨がくつろいでいます。

春陽橋から見る西堀です。左手が城内です。

短くて可愛い、波祢橋です。

波祢橋のかかる細い水路沿いに、東へ歩きます。

賀田橋です。この先が三の丸です。

賀田橋を渡り、三の丸に入ってすぐ出迎えてくれるのがこの、土塁造りの巨大な桝形虎口です。ド迫力!

ふたつ前の写真の桝形虎口を右折してすぐ、上の写真のあたりに賀田御門が建っていたようです。門をくぐってもさらに道が左折しており、簡単には進ませてくれません。

ここから二の丸へ入れるようですが、ひとまず三の丸を中堀沿いに東へ歩きます。

三の丸からお堀越しに見る二の丸丑寅櫓です。現存天守は12ですが、三重櫓も12しか現存していないらしく、そのうちの三つがなんと、ここ弘前城にあるのです。すごい!

…それにしてもこの櫓、これまでお城で見てきた櫓と違って何か違和感があります。何だろう…?

中央高校口です。案内板や橋を渡る人と比べて、右手の土塁の高いこと。

三の丸を南へ歩きます。左手の外堀沿いには高い土塁、道の右側には低い土塁があります。

左手に、巨大な門が見えてきます。あれ? さっきも見たような…?

さっきも見たように思えるほど北門とそっくりな、三の丸東門です。よく見ると出窓が向かって右側に付いてたり、二階部分に狭間があったりと細部は異なるのですが、本当によく似ています。間違い探しレベルです。

そういえばこちら東門の左右には板塀がありません。これでは門をくぐらずとも脇から簡単に侵入できそうですが…板塀は撤去されたのか、最初から無かったのか、はてさて。

こちらも北門同様に桝形虎口となっており、攻め手の直進を許しません。

東門を出たところ、弘前文化センターの前には藩祖・津軽為信公の銅像が勇ましく立っています。ヒゲが立派です。

東門を出て、外堀沿いを南下します。

外堀の途中にダムのような仕切があります。高低差のある土地に築かれたお堀の水位を調整するための「水戸違い」という仕掛けだそうです。

水戸違いから南のお堀は、水位が高くなっています。

お城の玄関、追手門の前です。立派な石碑が立っています。

追手門です。東門と比べると、出窓が向かって左に付いてるくらいで…やはりほとんど外観に差異がありません。

追手門は北門同様、門の左右が板塀でガッチリガードされています。板塀の設置は要所のみだったのでしょうか。

内側から見る追手門です。

追手門のそばにある、これまでのものとは少しテイストが違う案内板です。

追手門をくぐった先は、三の丸です。

先ほどの案内板でもあったとおり、三の丸の南東は植物園になっています。

三の丸から二の丸辰巳櫓が見え…木が邪魔で全然見えません。

こちらの橋を渡れば二の丸です。

二の丸未申櫓です。こちらは三の丸からお堀越しによく見えます。窓やら狭間やらの配置で、一層・二層・三層とも顔のように見えてしまうのは僕だけでしょうか。そしてやはり、先ほど丑寅櫓で感じたのと同じ違和感が。

杉の大橋です。これを渡り、二の丸へ入ります。

杉の大橋上から見る中堀です。お堀のこういう直角に曲がる箇所、好きです。

橋を渡ってすぐに、桝形虎口があります。

二の丸南門です。弘前城の門はこのような形状で統一されているようです。

おや、よく見ると門柱に何やら木札が付いています。

「南内門」と読めます。ネームプレート! これまでの写真をよく見ると、どうやらほかの門にも付いていたみたいです。全然気付きませんでした。

内側から見る南門です。こちらは門の左右に板塀がなくオープンな雰囲気です。

南門をくぐった先は、二の丸です。

二の丸未申櫓です。屋根の端がちょっぴり反っていて愛嬌があります。狭間が外側にだけあるのが分かります。

二の丸辰巳櫓です。未申櫓との違いが全く分かりません…。弘前城を建てた人は高難易度の間違い探しマニアだったのでしょうか。

それはさておき、弘前城の櫓に感じていた違和感がこの説明板でようやく判明しました。櫓といえば一層目より二層目が小さいのが当たり前と思っていたから、このように一層目と二層目が全く同じ櫓に違和感を覚えていたみたいです。少しの差なのでしょうが、これだけで随分とずんぐりした印象を受けます。

Google Mapによると、二の丸辰巳櫓の付近に「時太鼓櫓跡」があるようですが…訪問時には分かりませんでした。このへんかなーと思う場所や、怪しげな石積みなどを撮影しておいたのですが、後で調べたら案内板が立っているようなので、少しズレた場所を探していたのかもしれません。

時計が普及していない時代、時を告げる太鼓というものは重要だったのでしょう。

二の丸にある、弘前城情報館です。

せっかくこういうのを建てるのであれば、当時城内にあった建物の位置・大きさ・外観などを少しでも似せたらいいのにと、どうしても思ってしまいます…。

二の丸の東に、桝形虎口と、またしても巨大な門です。

二の丸東門です。デザインはほかの門とほぼ同じです。

これで、城内に現存する五つの門と三つの櫓を全て見て回ったことになります。

内側から見る二の丸東門です。撮影のために一旦門の外へ出ましたが、引き続き二の丸を見て回ります。

門の左右の土塁に、根元だけ石垣が見えます。腰巻石垣というやつでしょうか。

与力番所です。一時期ほかの場所に移されていたようですが、元の場所に戻ってきたようです。大きく、高さもありますが、これ、二階もあるんでしょうか。

本丸へ向かう前に、本丸石垣の工事風景が見られる展望台が設置されているので、見に行きます。

重機と、解体されシートで覆われた石垣の向こうに、曳屋された天守の頭が見えます。

石垣解体修理についての説明板です。はらんでいる石垣を解体して、元通りに積み直す。言うのは簡単ですが、実際に行うのは途方もない作業です。

下乗橋です。二の丸と本丸をつなぐ橋で、橋の先には武者屯御門があったようです。

この下乗橋の上が天守を撮影する絶好のビュースポット…らしいですが、現在石垣は解体され、曳屋された天守の屋根がわずかに見えるのみのトホホな状態です。

それでも、この状態は今しか見られないのだと自分に言い聞かせ、足場とシートに覆われた解体修理中の石垣を撮影しておきます。

下乗橋を渡り、武者屯(むしゃだまり)という馬出のような小さな曲輪の先が、本丸です。写真は、武者屯から本丸への土橋を渡りきったあたりで撮影しています。

本丸には石垣が多用されており、さっそく道の両脇に石垣が見えます。当時ここには門が建っていたのでしょうか。そして正面には、本来ここに見えるはずのない、曳屋された天守が建っています。

亀石、というのは、この巨大な石垣の隅石を指すのでしょうか。言われてみれば上の石と合わせて、亀が立っているように見えないことも、ないことも…うーん?

本丸の桝形虎口を中から振り返ります。この虎口にも門があったのでしょうか。

桝形虎口を右折し、坂を上りきったところに、天守台があります。しかし、その上に天守は、ありません。

本丸御殿玄関礎石…は、現在このような展望台が建てられているため、見えません。

展望台からは、解体修理中の天守台を眺めることができます。

そして天守台から展望台をはさんで反対側に、曳屋された天守が。ちょこんと。

初代天守焼失から180年以上後の1810年に建てられた、三層で小柄ではあるものの風格のある、東北地方唯一かつ最北の現存天守です。

この角度(本丸より外側)から見ると一層・二層の中央が張り出し、屋根も破風で装飾されるなど非常に情報量が多いのですが。

反対側(本丸内側)から見るとこのとおり、破風も張り出しもないきわめてシンプルな外観に変身します。本丸外側からできるだけ天守を大きく見せる工夫だとも言われているようですが、なんという個性的な作りでしょう。正面と側面で印象が違う天守は多いですが、本丸の外側と内側とでここまで印象が変わる天守というのは弘前城ならではの特徴ではないでしょうか。

両方の顔が見える角度で撮影…しようとしたら、木に邪魔されました。

仕方なく反対側から。お化粧サイドとノーメイクサイドの両面が同時に見えます。

先ほどの天守写真の手前に写っていた説明板です。

こちらが刻字隅石です。大正の石垣修理の際に刻まれたと思われる文字が、はっきりと見えます。

こちらが「いかすみ石」です。これは…イカですね。どうみても。

石垣修理に伴い移動された井戸枠です。巨石が綺麗な円形にくり抜かれています。

それでは、天守に入ってみます。曳屋された状態でも中に入れるのがありがたいです。

現在、このように黒い鉄骨で耐震補強がされています。天守曳き戻し後、正式な耐震補強をするそうですが…重要文化財だけに、いろいろ気を遣う補強になりそうです。

天守や櫓によく見かける石落しですが、本当に石を落とすわけではなく、実際はここに書いてあるとおり槍で突いたりすることを想定していたんでしょうね。

栗石ぎっしりの白壁です。弘前城、お化粧上手な上に防弾チョッキ仕様です。

外側の狭間は、木戸で蓋ができるようになっています。

内側の窓にも木戸がありますが…ここの戸は後世のものでしょうか。

曳屋に関する展示と、古写真です。上の古写真には、天守の右に土塀が見えます。

二階へ上がります。床もそうですが、階段にもこうしてグリーンシートが敷かれています。

二階です。

駕籠です。家紋が付いています。とても保存状態が良いです。

記念撮影スペースです。陣羽織を着て床几に腰掛ければTONOSAMA気分です。

階段はこのように区切られ、順路が固定されています。

最上階、三階へ上がります。

天守の最上階です。中央近くに、本丸模型が見えます。

天守からの眺め…を撮影した写真がこれしかなく、しかもなんだかイマイチです。遠くに見える山裾は岩木山でしょうか。

本丸模型です。現在、天守以外に建物は残っていませんが、当時は本丸の敷地めいっぱいに御殿が建っていたようです。御殿は天守と並んでお城の華だと思うのですが、真っ先に取り壊されてしまうことが多いみたいで、ほとんど現存していないのが残念でなりません。

頭上を気にしつつ、階段を下ります。

天守外壁に取り付けられたコレが妙に気になったので撮りましたが、曳屋工事の関連なのか、あるいは耐震のための設備なのか、分かりません。

天守を出て、本丸を歩きます。

本丸未申櫓跡です。1627年までは、ここに五層の初代天守が建っていたようです。今は切込み接ぎ(綺麗に加工された石を隙間なく積んだ石垣)の櫓台と石段があります。

御日記蔵跡です。ここに弘前藩の日記がストックされ続けたようで、今も4200冊余りが残っているとか。よんせんにひゃく! 継続は力なり、です。

御日記蔵跡の東側には、低い石垣と石段があります。石垣の向こうが本丸南虎口です。

御金蔵跡です。説明板の向こうの建物はもちろん御金蔵ではなく、曳屋された天守です。つまり、当時御金蔵があった場所に、天守が曳屋されているというわけです。

先ほどの御日記蔵跡東にある石垣のさらに東部分です。こちらにはちゃんとした石段があります。

写真右手の石積みで囲われた低い土塁は何かの遺構かと思い撮影しましたが、どうやらそういうわけでもなさそうです。当時このあたりは本丸御殿の大奥があったようです。

本丸戌亥櫓跡です。現在は屋根付きの休憩所が建っています。

本丸の北から、北の郭へ向かいます。

何度も折れ曲がる石段を下り、石垣の壁に見送られます。

鷹丘橋を渡ると、北の郭です。

北の郭にある武徳殿です。唐破風が美しい御殿風の建物ですが、明治末期に建てられたそうです。今は休憩所だったりカフェだったりするそうです。

「超城合体タメノブーンV」は…謎です。

籾蔵跡です。左手奥にわずかに見える階段の先が、子の櫓跡です。

子の櫓跡です。子の方角の名を冠した櫓は、これまで訪れたお城にはなかったように思います。明治に入り、花火が原因で焼失というのは…なんともやるせないです。

舘神跡です。秀吉公を祀った神社があったようです。鳥居や本殿の柱が復元表示されています。

舘神跡に復元表示された柵列です。奥には、鷹丘橋が見えます。

舘神跡から見る、本丸石垣修理風景です。

北の郭を東へ抜け、二の丸へ向かいます。

二の丸丑寅櫓です。説明板のあるこちら側からだと、イマイチ良い写真が撮れませんでした。

二の丸の北にある見事な土塁です。右へ進めば三の丸、賀田御門の近くへ抜けるのですが、絵図などを見る限りでは当時ここに道はなく、後世に通した道のようで、この土塁も前方、丑寅櫓の横まで続いていたようです。

この道を右へ抜け、四の丸から波祢橋を渡り、西の郭へ向かいます。

波祢橋を渡ると西の郭と、水路を挟んで右にも細い道が並行しています。右側の道は「桜のトンネル」だそうです。春は桜が綺麗でしょうね。

西の郭を南へ歩きます。左手に見えるのは蓮池です。

蓮池の向こうの土塁には、腰巻石垣が見えます。

西の郭の南西にある未申櫓跡です。礎石らしき石があります。なんとこちらは煙草の火の不始末により焼失したとあります…嗚呼やるせない。

それにしても弘前城、西の郭・二の丸・本丸それぞれに「未申櫓」があったようですが…当時のお城関係者はややこしくなかったのでしょうか。

工業高校口にある、埋門跡です。あまりにも石垣が隙間なく積まれているからてっきり後世の造成かと思いましたが、天保年間のものらしいです。見事な切込み接ぎです。

中央弘前駅へ向かう途中、ドーミーイン弘前のそばで見つけた、本町の説明柱です。当時このあたりは職人町だったようです。

締めくくりは、天守の写真です。

御殿の大奥のあった辺りから撮影したら、天守が木に隠れてしまいました。

こちらは天守が右へ傾いてしまっています…締めくくりに締まらない写真ばかりになってしまいました。

 

現存建造物が多いことに加え、縄張りも当時をよく残しており、見所だらけです。土塁のお城というものに初めて出会い、お城が石垣だけじゃないことを学ぶ良い機会にもなりました。次は是非、天守曳き戻し後に訪れたいものです。

 

素敵なお城でした。ありがとう。