お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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24-2.松山城

松山城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.81)に選ばれた、愛媛県松山市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

路面電車の大街道駅から北へ延びる道路の先にロープウェイ・リフト乗場があり、道路の入口には「松山城」と書かれた大きな柱が建っています。

山麓乗場「東雲口駅」には、マスコットの「よしあきくん」が山上の本丸を紹介する案内図があります。江戸期から現存する重要文化財が二十一、復興が三十、合わせて五十一もの建造物が本丸に存在しています。

ちなみにマスコットの名前は、築城者・加藤嘉明公からきています。

案内図の左には、個人作の本丸本壇模型が寄贈されています。おや、紫竹門東塀のある石垣隅部に隅櫓か番所のような建物がありますがこれは……?

天守の古い鯱が展示されています。阿形は大正年間の作。

現存12天守の観光ポスターが一堂に会しています。松山城は連立天守つながりで姫路城とコラボ。

東雲口駅からはロープウェイとリフトが並走しており、料金は同じです。前回はリフトに乗ったので、今回はロープウェイで本丸へ。右奥に天守が見えています。正面奥に見えるのは、巽櫓の屋根と売店「城山荘」でしょうか。

ロープウェイ・リフト山頂乗場「長者ヶ平駅」には瓦葺・下見板張り風のトイレなど、お城の景観に調和する建物が見られます。

 

長者ヶ平駅から、本丸へ向かいます。

坂道の左に、低い石垣があります。

坂を上ると、低い石垣の先に五段ほどの石垣が見えてきます。

本丸南東石垣の基部と平行に積まれ、帯曲輪のように揚木戸門までの登城道を形成しています。

本丸南東の高石垣は、二度目でも感動と興奮がすごいです。このあたりが最も高く、なんと約17m! もはや石垣の高さだけで敵を戦意喪失させられそうです。

石垣上に顔を出すのは「隠門続櫓」です。石落付き出窓や狭間があり、揚木戸門へ通じる登城道を監視します。

この高さ、この美しさ……たまらんです。

北方向にも登城道が分岐しており、この先の艮門も本丸に通じる門ですが、道の先には奥に見える「巽櫓」が待ち構えています。

隠門続櫓の下を過ぎると、「揚木戸門跡」です。

揚木戸門は失われていますが、門南側の石垣と礎石が残ります。門は北側で本丸南石垣に接していたと思われます。本丸石垣基部からは排水溝が、門内側の登城道を横切り東へ折れ、礎石の間を通って城外側へ延びています。

揚木戸門跡北側の本丸南石垣です。なんという美しさ!

石垣の右側上部に排水口があり、水の流れた跡がついています。この水流れ跡基部から、先ほど見た揚木戸門近くの排水溝が延びています。

揚木戸門跡から西へ行くと、「大手門跡」があります。揚木戸門は通過後に直進できる平入り虎口ですが、大手門は通過後に左折の必要がある枡形状の虎口です。門両脇の石垣は揚木戸門跡に比べ高く立派です。大手門を出ると、二之丸へ通じる「黒門口登城道」が続いています。大手門西側石垣の南側は、南登り石垣の終点となっています。

東を揚木戸門、西を大手門で仕切られた本丸南側下段の小郭には「待合番所」がありました。大手の重要拠点であり、馬出のような印象を受ける曲輪です。

 

待合番所跡の小郭から、本丸主郭へ向かいます。

大手門の東、主郭への登城道の西に連なる低い石垣の途中に、まっすぐ上ってから左右に分かれる石段(合坂)が設けられています。合坂を備えるお城はいくつもありますが、松山城では珍しく、本丸ではここだけかも?(見落としていたらすみません)

石垣上には塀が建っていたと思われます。石垣の向こうは大手門の外、黒門口登城道です。大手門へ迫る敵を、合坂を上り塀の内側から迎撃できます。

ここからが、松山城の大きな見所のひとつ、トラップ満載の大手登城道スタートです。

道が正面と右の二方向に分岐しています。正面にはかつて「中ノ門」がありました。進むべきは正面か右か……上方からは「太鼓櫓」に攻撃され、悩んでいる暇はありません。奥に天守が見えるので、直進します。

中ノ門跡を奥へ進むと……この先は行き止まり、つまりフェイクルート! トラップその1発動です。

立入禁止となっているので、本当にこの先行き止まりなのか実際に確かめることはできません。ちなみに左の石垣はホース格納箱、景観に配慮した消火設備です。

正解の右ルートへ進みます。180度ターンした先、U字坂道の終点に門があり、門の上方には櫓がにらみをきかせています。

こちらは「戸無門」です。重要文化財の現存建造物で、名前のとおり門扉がありません。

高麗門形式で、上部に格子欄間があります。戸無門の上方に見える櫓は「筒井門西続櫓」です。

門扉が失われたのではなく、最初から扉を持たない珍しい門です。「ややっ、あそこの門は開いているぞ!攻め込むチャンス」と思わせ、敵を誘い込む目的の門と考えられているようです。トラップその2、発動です。

戸無門の西には雁木らしき石積みがありますが、石垣上部にかつて幅の狭い塀があり、戸無門へ迫る敵に備えたのでしょうか。

下には、先ほどの合坂が見えます。

合坂石垣の南に、大手門跡があります。

戸無門の南、本丸石垣南西隅からの眺望です。

戸無門を越えて左折すると、「筒井門」が立ちはだかります。大手防衛の要となる巨大な櫓門であり、正木城から移築されたと伝わる城内最古の建造物のひとつでしたが、なんと放火により焼失、昭和期に木造復元されています。左に脇戸を備え、上部には戸無門と同様に格子欄間があります。

筒井門の西続櫓は戸無門を守り、東続櫓は門右側に張り出して筒井門を守るという非常に堅固な構造ですが、それだけではありません。東続櫓の向こう、右奥には……。

揚木戸門跡手前の登城道から見上げた「隠門続櫓」があり、左折すると……。

「隠門」があるんです。筒井門のすぐ東、石垣の仕切を隔ててもうひとつ門を隠してあり、筒井門へ迫る敵を側面・背後から急襲するという仕掛けです。トラップその3、発動です。

いかがでしょうか。フェイクルート、扉のない囮の門、急襲用の隠しゲート……大手登城道のごく短い区間にこれだけのトラップが詰め込まれていることに、驚かされます。

隠門には脇戸がなく、右の門扉に潜戸があります。隠門を越えるとすぐ坂道になっており、坂を上った先、正面奥に見えるのは、太鼓門南続櫓と太鼓門西塀です。

隠門の上部は戸無門・筒井門と同じく格子欄間です。二階部分が渡櫓となっている櫓門で、西は筒井門東続櫓に接し、東は隠門続櫓とつながっています。隠門・隠門続櫓ともに、筒井門の隣にありながら焼失を免れた重要文化財の現存建造物です。

本丸南東石垣は隠門に対して斜めに築かれており、隠門続櫓は「く」の字に折れ曲がって本丸南東石垣に面しています。このため、隠門続櫓は建物・屋根ともに非常に特殊な形状となっています。

筒井門東続櫓の鬼瓦には「左三つ巴」が見えます。左三つ巴は、二代城主・蒲生忠知公が使用していた家紋です。

外側から、筒井門と東続櫓を見上げます。形状の異なる狭間が見えます。

筒井門の脇戸です。脇戸の真下を、排水溝が通っています。

脇戸下の排水溝は、門内側まで延びています。

内側より、筒井門を見ます。西続櫓は、北側へ張り出しています。

隠門と同様に、筒井門を越えてすぐの道も上り坂となっており、門を突破した敵は、奥の太鼓櫓が迎え撃ちます。

筒井門・隠門の北には石垣があり、門を突破しても直進できません。石垣上には太鼓門西塀が東西に延び、狭間と石落を備えています。先へ進むには、東へ回り込む必要があります。

東へ回り込んだ先に待ち構えるのは「太鼓門」です。門は右手の「巽櫓」と「巽櫓西塀」により守られています。いずれも戦災で焼失し、昭和期に木造復元されました。

戸無門と筒井門・隠門でひとつ、筒井門・隠門と太鼓門でもうひとつと、ふたつの枡形が連続しており、三つのトラップに加えて非常に堅固な防衛ラインが構築されています。

巽櫓の千鳥破風は、木で隠されよく見えません。

巽櫓の屋根にも、左三つ巴が見えます。

太鼓門は左に脇戸を備え、上部には他の門と同様に格子欄間があります。二階部分が渡櫓の櫓門で、左の南続櫓には石落を備えています。門左側、上から五段目の石材の割れが、戦災による剥離でしょうか。

筒井門と同じく、脇戸の真下に排水溝があります。

 

太鼓門を越え、本丸の中枢「本壇」を目指します。

太鼓門を越え坂を上ると、左手に「太鼓門西塀」が見えます。塀の内側に、幅の広い石段が設けられています。塀の控柱をよく見ると、上半分は木製、下半分は石製となっています。

太鼓門西塀の西に接続しているのが「太鼓櫓」です。戦災で焼失し、昭和期に木造復元されました。大手南西の防衛を担う、L字平面の二重櫓です。

太鼓櫓を北から見ます。屋根瓦には、左三つ巴。

振り返ると、本丸西側の屏風折石垣と馬具櫓、奥には本壇の建造物群が見えます。これは素晴らしい景色!

松山城本丸がある勝山の標高は132m。市街地のビル群はとても小さく見えます。

内側から見た巽櫓・巽櫓西塀・太鼓門(北続櫓)です。北続櫓には、櫓内へ入る扉があります。

こちらは復元建物……ではなく、城郭建築風の売店「城山荘」です。

馬具櫓です。戦災で焼失後にRC造で再建されました。木造再建ではない城内唯一の建造物であり、管理事務所として使用されています。

よしあきくんと記念撮影ができるスポットです。天守が木で隠れていますが……。

いわゆる「御城印」、松山城では「登城記念符」という名称で販売されています。

ここまで来ると、天守は目前ですが……そうやすやすと到達させてはくれません。

 

この先は有料エリアです。券売所で観覧料金を支払い、本壇内へ進みます。

本丸主郭部より約8mも高く積まれた石垣上にある本壇への進入路は、券売所の北にあるこの坂道ただひとつ。出入口を限定し守りやすくする工夫です。

坂の突き当たりに見えるのは、重要文化財の現存建造物「紫竹門東塀」です。

紫竹門東塀は本壇の下にある紫竹門の東にあり、東側は石垣の張出部に沿ってコの字型になっています。塀内側からは紫竹門の内・外両方を射撃可能で、多くの狭間が設けられています。

坂道に合わせて、塀も斜めに建てられています。石製の控柱は後に補われたもので、当初は木製だったと考えられています。

紫竹門東塀が接続する石垣上に建つのが「小天守」です。放火により焼失し、昭和期に木造復元されました。一階上半分と二階が漆喰塗籠なので、白さが目立ちます。一階南西隅・南東隅のほか東面にもうひとつ石落を備え、登城道の防備を固めています。

真正面に天守が見えていますが……まだまだ、たどり着けません。

天守の南にある正面の塀は「筋鉄門東塀」です。狭間のほかに石落も備えています。石垣には、石樋が見えます。

三代城主・松平定行公以降は松平氏が明治まで城主を務めた松山城。現存天守では唯一、屋根瓦に「葵の御紋」があしらわれています。

紫竹門東塀の内側で一度北へ折れる坂道を上り東を向くと、本壇最初の門「一ノ門」があり、右上に「一ノ門南櫓」が、左上に「三ノ門南櫓」があります。いずれも重要文化財の現存建造物です。

一ノ門は上部が格子欄間で、扉の上下も格子になっています。門の前は枡形状の空間で、門両脇の櫓・左の筋鉄門東塀・背後の小天守と三方から射撃を浴びせられるキルゾーンとなっています。

一ノ門南櫓は、南側の登城道に面して石落を備えています。

一ノ門の前から、キルゾーンを振り返ります。

一ノ門を越えるとすぐ上り坂で石段があり、南半分には補助の階段が設けられています。奥に見える小天守は東西方向に幅広いので、東から見るとスリムです。

坂を上り左折するとさらに上り坂、その先に門、両脇に櫓があります。左は先ほどの三ノ門南櫓で、その右の「二ノ門」「二ノ門南櫓」はいずれも重要文化財の現存建造物です。二ノ門は上部に格子欄間を持たない薬医門で、左に脇戸があります。

一ノ門と二ノ門に挟まれた枡形には、北に三ノ門南櫓、東に二ノ門南櫓、南西に一ノ門南櫓が建ち、過剰にも思える防御力で天守への到達を阻止します。

二ノ門前から、枡形を振り返ります。高低差が激しい上に三方の櫓から集中砲火を浴びる構造……絶体絶命のキルゾーンです。

一ノ門と違い、二ノ門の扉には格子がありません。

 

二ノ門を越えると、本壇北東の空間に出ます。

二ノ門(左)と三ノ門(右)の位置関係です。二ノ門を越え三ノ門に至るには、180度ターンする必要があります。

左の「天神櫓南塀」は再建ですが、二ノ門脇の「二ノ門東塀」は重要文化財の現存建造物です。ふたつの塀が接続する奥の二ノ門南櫓は、北面に扉が見えます。

本壇北東に位置する「天神櫓」です。戦災で焼失し、昭和期に木造復元されました。鬼門除けのため、天神(菅原道真)が祀られています。櫓とお社の兼用というのは、珍しいように思います。

屋根瓦には久松松平氏の家紋「星梅鉢」が見えます。梅の紋は天神社の神紋でもあり、久松松平氏の先祖が菅原道真であることが家紋の由来だそうです。天神櫓にはあえて星梅鉢をあしらうセンス、素敵です。

再建された「天神櫓西折曲塀」です。天神櫓に接する北東角付近は鬼門除けのためか、斜めに折れ曲がっています。

振り返れば、天守! 至近距離の威容に圧倒されます。

天明四年に落雷で焼失後、六十八年を経て嘉永五年に再建された三重三階地下一階の層塔型天守は現存12天守で最も新しく、その後の放火や戦災を免れた重要文化財です。

南北には千鳥破風と唐破風が、東西には千鳥破風ふたつが重なります。一階二階は下見板張りなのに対して、最上階は漆喰塗籠で高欄を廻らせています。

本壇北東の空間からは天守がよく見えますが、それはつまり何処にいても天守から狙われるデンジャーゾーン。そしてこちら側に天守への出入口はありません。天守へ入るには、左の三ノ門か、右の仕切門を越える必要があります。

寛永十九年に三重に改築された天守は、築城当初は五重だったそうです。階層が減ったことで、ずんぐりした印象を受けます。五層の松山城天守は、どれほどの威容だったのでしょうか。

東から見ると、ずんぐり感が際立ちます。約4mの天守台は、切込接の石垣です。

 

天守外観を堪能したところで、本壇の最深部を目指します。

天守に接して建つのは「三ノ門」で、その左は「三ノ門東塀」です。いずれも重要文化財の現存建造物です。

三ノ門は上部に格子欄間のある高麗門で脇戸はなく、扉の上部も格子になっています。正面奥に見えるのは、三ノ門南櫓です。

門の控柱上と三ノ門東塀の端とで、切妻屋根が三つ並んでいます。

三ノ門を越えると、三ノ門と筋鉄門に仕切られた東西に長い枡形です。

南東の三ノ門南櫓、北の天守、西の筋鉄門と三方から攻撃され、敵兵には絶望感漂うキルゾーンですが、お城好きには城郭建物が密集するパラダイスです。

南西には小天守も待ち構え、突破は非常に厳しく思えます。

筋鉄門の前から振り返ります。三ノ門東塀・筋鉄門東塀の内側と三ノ門南櫓の扉手前には石段が設けられています。

重要文化財の現存建造物「筋鉄門東塀」です。石段最下段にある凹みは、外側石垣の石樋に通じる排水口でしょうか。

天守南面に接して建つ「筋鉄門」です。放火により一部を焼失し、昭和期に木造復元されました。右に脇戸を備え、上部に格子欄間があります。二階部分は渡櫓となっており、連立天守を構成しています。

筋鉄門の渡櫓を見上げると、縦長の狭間に防犯カメラが、突揚戸の上部にも何やら機材が設置されています。江戸期の防衛設備が現代でもセキュリティのために使用されているというのは、なんとも感慨深いものがありますね。

 

門の向こうは本壇の最深部、連立天守の内部です。

筋鉄門を越えると、右奥に唐破風屋根の出入口が見えます。

天守内部への正式な出入口「玄関」と、玄関から階段で接続する「玄関多聞櫓」です。いずれも放火により焼失し、昭和期に木造復元されました。鬼瓦と兎毛通に葵の御紋が見えます。天守内部の観覧は、ここからは入れません。

大小天守・二つの隅櫓・多聞櫓・渡櫓に囲まれた連立天守内部は敵兵ならば生存困難な超高防御のキルゾーンですが、観光客としてならば、天守をじっくり眺められます。

天守台石垣の西面に、ぽっかり穴が開いています。

穴は天守の地階部分「穴蔵」の出入口であり、内部観覧の入城口でもあります。扉とその周囲は鉄板張りです。

 

天守の中へ入ります。

100名城スタンプはここ、天守の穴蔵で押しました。

貯蔵庫の役割がある穴蔵内部は、上層の天守建物を支える柱や梁が交差し、内壁は石垣です。上層建物内は土足厳禁のため、観覧用に下駄箱が並んでいます。左にちらりと見える階段から一階へ上がることができますが、この階段は観光用に設けられたそうです。ということは当時は、穴蔵(地階)から一階へは行けなかったのでしょうか。

階段を上ると天守一階ですが、順路はまず連立天守を構成する建物群を回るようになっています。扉の向こう、順路の看板が置いてある「内門」上層の渡櫓へと進みます。

玄関多聞櫓へ進み、振り返ります。右(南)が玄関で、左(北)は舞良戸で仕切られており、戸の向こうには部屋があるそうです。奥の階段上が内門上層の渡櫓で、玄関多聞櫓とは高低差があります。

北隅櫓を過ぎ、十間廊下に入ります。石落には、四箇所の狭間があります。

天井板はなく、屋根の木組みが見えます。

窓からは、西にある乾櫓と乾門が見えます。

北西には、野原櫓が見えます。

十間廊下の南、引戸の向こうが南隅櫓で、その左奥(東)が多聞櫓です。

多聞櫓からは、玄関が正面に見えます。

天守修復時に発見された、侍の似顔絵です。江戸期の大工の落書きとされています。

小天守二階です。奥に展示されているのは、上棟式に使用された祭祀用弓矢です。

二階からの眺望、ぐるっと一周します。

西です。手前が小天守に接続する多聞櫓、正面奥が南隅櫓です。

南西です。正面に二之丸御殿跡に整備された史跡庭園が、その右奥に広大な三之丸が見えます。

南です。右手前に紫竹門と紫竹門東塀が、奥に馬具櫓と太鼓櫓が見えます。

東です、一ノ門・三ノ門内部の枡形を見通せます。登城道の広範囲が小天守の射程にあるのがよく分かります。

北東です。天守は突揚戸に隠れていますが、葵の御紋はよく見えます。

北です。連立天守内部に侵入した敵兵が丸見えです。

 

小天守を出て、連立天守の建物群を一周し、天守に戻ってきました。

一階の畳敷き部屋では、甲冑試着体験ができるようです。

二階です。

最上階の三階です。

床の間があり、上部には格子欄間があります。

廻縁に出ることはできませんが、、窓からの眺望は楽しめます。

南西です。小天守を見下ろします。

南です。一ノ門前の登城道がよく見えます。その右奥に、ちらりと紫竹門が見えます。

東です。二ノ門~三ノ門間の登城道が見渡せます。奥に見えるのは、艮門と東続櫓です。

西です。建物群に囲われた、連立天守内部の方形広場です。

 

天守を出ます。

天守の西に接続する内門をくぐると、「仕切門」と「仕切門内塀」があります。いずれも重要文化財の現存建造物です。仕切門と内門の間に枡形を形成し、西の玄関多聞櫓、南の内門上層渡櫓、南東の天守によって防衛されています。

仕切門は右に脇戸を備えた高麗門で、上部に格子欄間があり、扉の上部も格子になっています。

仕切門の外側は真横に天守が建ち、門の突破は容易ではありません。

天守を見上げる角度で感じるこの威圧感、好きなんです。

 

本壇を出ます。

石垣上に見えるのは、本壇南東隅に建つ二ノ門南櫓です。隅部に石落を備えています。

ここから、本壇の外側を一周します。

本壇東面石垣です。左上が嘉永年間に積み直された切込接で、それ以外はより古い打込接となっており、時代による積み方の変遷が分かります。

本丸北東に位置する櫓門の「艮門」と、その東に接続するL字平面を持つ二重櫓の「艮門東続櫓」です。いずれも明治期に取り壊され、昭和期に木造復元されました。

本丸から坂を下りて右折、門をくぐって今度は左折すると本丸の外へ出ます。つまり外から艮門を越えて本丸へ入る際にも二回曲がる必要があります。

艮門の外には工事用車両のためでしょうか、スロープが設けられています。艮門内側には柵が置かれ、門を出入りすることはできませんでした。

本壇北東隅です。手前から天神櫓、天神櫓南塀、二ノ門南櫓です。

本壇北面石垣と、その上は天神櫓西折曲塀です。鈍角の石垣と、それに合わせて折り曲げられた塀……実に良いですね。

右は本壇北面石垣の西端角ですが、これに接して「中仕切門」が建っていました。またポールの向こう、本丸北面石垣の出隅部には「小筒櫓」が建っていました。いずれも明治期に取り壊されました。

左は重要文化財の現存建造物「野原櫓」です。一階屋根中央に物見の二階を載せた望楼型二重櫓としては全国唯一の現存例であり、望楼型天守の起源とも言われています。

本壇西面石垣上には、両端に「北隅櫓」「南隅櫓」と、それらをつなぐ「十間廊下」が並んでいます。いずれも放火により焼失し、昭和期に木造復元されました。二つの櫓はともに、一階には両端に庇付き石落を備え、二階は漆喰塗籠で高欄を廻らせ、同規模・同形式の双子のような外観です。西から見る本壇は、これまでとは違った印象を受けます。

本壇の西には搦手があり、坂を下りた所に「乾門」と、それに接続する「乾門東続櫓」があります。いずれも正木城から移築されたと伝わり、戦災で焼失し、昭和期に木造復元されました。

乾門を外から見ます。左に脇戸を備え、上部に格子欄間があります。本丸北西に位置する搦手を守る、立派な櫓門です。

左上には、乾門東続櫓が門に横矢を掛け防衛します。右には石垣基部に補強用の「はばき石垣」が見え、その上には石垣に沿ってくねくねとカーブする「乾門東続櫓東折曲塀」が乾門・東続櫓とあわせて木造復元されました。奥には南隅櫓・小天守が見えます。

本壇南西角です。ここから紫竹門までは搦手から本壇に至る重要なルートで、南隅櫓や多聞櫓、小天守が守っています。右の乾門東続櫓東折曲塀は東側で紫竹門西塀に接続しますが、紫竹門西塀には控柱が見当たりません。

ともに重要文化財の現存建造物である「紫竹門」と「紫竹門西塀」です。紫竹門は搦手と大手を仕切り、ここからは本壇入口のある大手側が内となるため搦手側は外となり、紫竹門西塀から内外が逆転しているのです。

嘉永年間の再建と考えられている紫竹門は、屋根瓦に葵の御紋が見えます。

南から紫竹門を見ると、高麗門の控柱小屋根が見え、こちら(大手側)が内側だと分かります。門上部に格子欄間があり、扉の上下も格子になっています。

紫竹門西塀も南に控柱があり、こちらが内側と分かります。途中から内外が逆転する塀……実に面白いです。

屏風折石垣上に建つ馬具櫓を、本壇側から見ます。

 

大手から、本丸を出ます。

「光のおもてなし」というイベントが開催中で、大手登城道などにオブジェが展示されています。夜間には、美しく点灯するようです。

建造物や石垣を堪能したい人にはちょっと……お城は、イベント非開催時に訪問するのが良いですね。

オブジェに遮られていない石垣を堪能します。鈍角の稜線、美しい……。

本当に、石垣好きにはたまらんお城です。

 

本丸の外に、松山城ならではの石垣があります。

ここから右へ歩き、県庁裏登城道を下ります。

下り始めるとすぐ、右手に石垣があります。本丸南側の帯曲輪の基部、あるいはさらに下段部分でしょうか。

しばらく下ると、木々の間に石垣が見えてきます。

これが松山城の大きな見所のひとつ、全国最大規模の登り石垣です。登り石垣の現存する城郭自体、日本に数例しかありません。こちらは大手門の南から二之丸の南にかけて築かれた「南登り石垣」です。

斜面に沿って斜めに築かれ、階段状になっている部分もあります。

石垣上には渡塀が建ち、南登り石垣の二之丸南東付近には二之丸巽櫓(入道櫓)が建っていました。

かなりの高さで積まれている部分もあります。

 

県庁裏登城道から、二之丸に至ります。

南登り石垣は、二之丸南東石垣に接続します。左奥に見える二之丸腰郭石垣との間に通路がありますが、絵図などを見ても当時このような通路はなく、後世に通されたと思われます。

右端付近、二之丸腰郭の南東隅には二重櫓が建っていました。二之丸石垣上には、塀と門が復元されています。

こちらの南門は二之丸への出入口のひとつで、搦手にあたるようです。

腰郭から、二之丸西面に復元された長大な多聞櫓を見ます。撮影位置付近、腰郭の南西隅には二重櫓が建っていました。腰郭南面東西の二重櫓と二之丸西面の多聞櫓で、三之丸に面した側の防備を堅固にしています。

多聞櫓の中ほどに脇戸を備えた門があり、上部に格子欄間があります。この多聞櫓、めちゃめちゃ二階渡櫓部分が長い櫓門でもあります。前回訪問した二之丸史跡庭園にはここから入りますが、時間の都合で割愛します。

多聞櫓の北側では腰郭から奥の槻門までまっすぐ通路が延びていますが、本来は左の石垣北端少し手前から通路を塞ぐように石垣が右へ延び、右の石垣との間には「埋門」があり、槻門から回り込んで埋門を通らないと多聞櫓には到達できない構造となっていました。

複雑な形状の石垣上には平櫓が載り、その南、石垣の間の通路には櫓部分が二重になった城内最大の櫓門「槻門」が建っていましたが、明治期に取り壊されました。槻門跡の北側に高くそびえるのは「西大砲台」の石垣です。

槻門の外側には栂門がありましたが、失われています。槻門から栂門まで、三度の屈曲があります。

栂門の外側には黒門がありましたが、失われています。右の説明板あたりには、腰掛が建っていました。

黒門石垣は、平成期に修復工事をされており、よく整っています。

栂門から黒門まで二度の屈曲があり、黒門から槻門までに五度、埋門までには七度の屈曲と三つの枡形空間を経てようやく二之丸に到達できるという、とんでもなく強固な防備となっています。

 

二之丸を出て、三之丸へ向かいます。

黒門跡を出ると、東に二之丸腰郭の高石垣が見えます。その高さ、約13m。

左の駐車場含め、今は空地となっている腰郭石垣の西側には、腰郭石垣の西面・南面を囲うL字型の内堀がありました。

黒門の南西、西之丸のあたりには発掘調査事務所が建っています。

三之丸の北出入口です。このあたりに、北御門があったのでしょうか。

西には、外堀があります。北御門の東にも外堀が続いていましたが、埋められています。

外堀の内側には、高い土塁が続いています。階段があり、土塁に上がれるようです。

土塁の脇には、蔵風の「手水処(トイレ)」があります。位置的に、番所風の方が良かったかも……?

非常に広大な三之丸。外周には、高い土塁が延びています。

三之丸御殿跡の西側から、東を見ます。山上の建物は、太鼓櫓と筒井門西続櫓でしょうか。

当時の道や側溝が再現されています。

発掘調査の成果が掲示されている三之丸御殿跡は今後、整備されていくのでしょうか。

三之丸から、黒門跡と二之丸、山上の本丸を望みます。

側溝の向こうは内堀跡です。堀幅の広さに驚かされます。

広大な三之丸、高石垣上にある要塞のような二之丸、そして山上の本丸。松山城の魅力が凝縮されています。

元小普請所跡です。石列により、敷地の範囲が示されています。

東御門跡には、櫓台石垣が一部残っています。

東側の外堀です。

 

締めは、天守です。

放火・戦災など度重なる焼失を乗り越え再建が進み、五十一もの建造物が存在する本丸だからこそトラップの巧妙さ、本壇の超高防御が体感できる松山城。何度でも訪れたい、全国屈指の名城です。

 

登城記念符(御城印)には、歴代城主の家紋があしらわれています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで57城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。