(その1の続きです)
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

二の丸の北、一段と高く積まれた石垣上が、本丸です。

二の丸から見る、本丸建物群です。大手門から二の丸までの、かつて在った城に思いを馳せる空間。そして本丸で蘇る往時の姿。このギャップ、この対比こそが、備中松山城の醍醐味ではないでしょうか。
本丸へ向かいます。

右奥の天守は現存ですが、それ以外の櫓や門、土塀は復元です。

二の丸側に突き出た石垣上には、狭間が顔のように見える復元土塀があります。ここから本丸へ迫る敵を迎え撃てます。

本丸の南東隅、南御門へ通じる階段のすぐ脇には、復元された五の平櫓が建っており、本丸出入口の守りを固めています。

壁の上部は漆喰塗籠、下部は竪板張りで、戦いのための備えがいくつもあります。

まず南東隅に袴腰型の石落しが開き、東面には出格子窓と、壁には狭間があります。

階段側の南面には格子窓があり、狭間は四つもあります。攻め手は無傷では済みませんね……。

右には五の平櫓、正面には六の平櫓。土塀に囲われた左の石垣上にも兵が待機可能であり、南御門からの侵入は非常に厳しかったでしょう。
本丸への出入口は三箇所ありますが、残り二箇所の門は閉ざされており、観覧のために出入りできるのはこちらの南側出入口のみです。

正面に建つのが、復元された六の平櫓です。出格子窓と狭間が迫り来る敵に備えていますが、敵兵でなければ撃たれる心配はありません。左の券売所で「入城料」を支払い、本丸内へ入りましょう。100名城スタンプは、券売所で押しました。

鬼瓦には、巴紋が見えます。

券売所が建つ、南御門前にある馬出のような極小の曲輪です。土塀の形状から、三角形に近い平面なのが分かるでしょうか。券売所がなければ、ある程度の兵を待機させることが可能と考えられます。

券売所に隠れて非常に分かりにくいのですが……極小曲輪の西側には路地門があり、本丸内から南御門を通らずに直接極小曲輪へ行くことが可能です。路地門経由で兵を送り込み待機させたり、南御門へ迫る敵を背後から叩いたり……戦略の幅が広がりそうですね。

狭い階段も、一度に大勢の敵が上れない工夫と考えられます。


五の平櫓と六の平櫓の間に建つのが、復元された南御門です。

本丸の正面玄関にあたる南御門は狭く、守りは非常に厳重で、侵入者を拒むように立ちはだかります。しかし今は泰平の世。門扉は開け放たれています。

南御門は額縁のごとく、本丸にそびえる天守を絵画のように切り取ります。美しい。
南御門を越えると、本丸です。


二つの櫓に挟まれるように建つ南御門。本丸正門でこういった形式は珍しいように思います。

五の平櫓は、管理事務所となっています。櫓の前に寝そべっているのは、猫城主様です。

五の平櫓の標柱は、バケツを干すのに使われていました……。

こちらの鬼瓦も、巴紋です。

六の平櫓です。五の平櫓に比べ、幅が二倍近くあります。

標柱は、少し離れて立っています。

高梁銘茶のサービス、ありがたいです。

六の平櫓内には自由に入ることができ、中には様々な展示があります。正面には、城主様から歓迎の御言葉が。

見上げると、現存櫓と見紛うほどの見事な木組み。きちんと木造で復元してあるのが分かります。

復元整備についての説明があります。六の平櫓は、昭和初期まで残っていたんですね。

出土瓦を参考に、復元瓦が製作されているのが分かります。

巴紋の鬼瓦も、実際に出土しているんですね。

五の平櫓北側に接続する復元土塀は随分と年季が入っているように見え……おや、猫城主様が起きていらっしゃいます。

美しい毛並み、堂々たるお姿。拝謁できて恐悦至極、です。

六の平櫓の西側は、下り斜面になっています。


斜面の先、本丸の南西端に、七の平櫓跡があります。こちらの櫓は、復元されていません。

七の平櫓北側に接続していた復元土塀の斜めっぷりで、高低差が分かります。

七の平櫓は、廊下で六の平櫓と繋がっていたようです。廊下もかなり斜めだったと考えられます。

六の平櫓の南面には出格子窓が二つと、南西隅に石落しがあります。

六の平櫓の南東には、路地門が見えます。出入りすることはできませんが、路地門の向こうは券売所です。

七の平櫓に接続していた斜め土塀は、東側で本丸西側の復元土塀に接続しています。

本丸西側土塀は石垣でかさ上げされ、城内側には雁木が設けられています。土塀は北側で、八の平櫓台に接続しています。

天守台の前にある「本丸」の標柱。

本丸北側に露出する岩盤、その上に整然と積まれた石垣。これらを土台として建つのは、全国にわずか十二しか残っていない現存天守です。

二重二階で現存天守では最も低く、しかしながら山城に現存する天守としては全国唯一の非常に貴重なものです。

天守の鬼瓦も、巴紋です。二階破風には、懸魚が見えます。

天守出入口に通じるこちらの階段は、本丸南出入口のものより幅が広く見えます。


階段を上ると、八の平櫓跡です。

南側には、雁木付き土塀が接続しています。

雁木付き土塀を、城外側から見ます。八の平櫓と土塀で、本丸西側の守りを固めています。

本来は、八の平櫓北側から天守まで接続廊下が延び、まず八の平櫓へ入り、接続廊下を通って天守へ入っていましたが、八の平櫓は失われ復元もされておらず、接続廊下は天守西側部分のみ残っています。

天守台石垣の横、天守一階より低い位置に接続廊下があるため、西側からだと天守は三重に見えます。

接続廊下には格子窓と出格子窓二つ、狭間もあり、石落しも備わっています。接続廊下のすぐ西は城外なので、防御設備が充実しています。

おや、よく見ると、接続廊下の建物基部よりも石垣の天端が前方へはみ出しています。これは一体……?

天守台石垣南辺と、天守基部のラインは、一致しているように見えます。

天守の大きな特徴である、一階南面の巨大な唐破風屋根付き出格子窓です。

接続廊下の南、現在の出入口手前には「天守閣」の標柱。

当時は八の平櫓まで接続廊下が続いていたので、ここに壁や扉は無かったかもしれません。
接続廊下から、天守の中へ入ります。

接続廊下へ入ると、右手には石垣。天守台の西面です。

天守台の上には漆喰塗籠・板張りの天守西面の壁があり、中ほどに設けられた木の階段から、天守内へ入ることができます。階段の脇には接続廊下の説明があり、中に入るとこの廊下は天守とは別の建物なのだとよく分かります。

接続廊下の北西にある出格子窓には内側に引戸があり、窓の下部には石落しと、石落しの説明があります。廊下北面の壁には、狭間があります。

廊下の北側から、振り返ります。廊下と天守内は土足厳禁につき、廊下出入口で靴を脱いで上がっています。

こちらの大きなボードでは、主に天守の外部構造・外観について説明しています。備中松山城天守の腰板は「下見板張り」ではなく「竪板張り」です。

階段を上り、廊下から天守内へ入ります。

天守に入り、出入口を振り返ると、内側に引戸が設けられています。

一階は、柱や壁などによって入側と母屋とに区切られています。

南面の唐破風出格子窓の内側です。角材を斜めに並べた武者窓となっています。

唐破風出格子窓は大きく南へせり出しているのが分かります。

唐破風出格子窓の東にある格子窓の下に狭間の説明があるのですが、はて、狭間は何処に……?

引戸に隠れていますが、なるほど、ちゃんと説明の真上に狭間がありますね。

東の入側は広く、中央に囲炉裏(説明には「囲炉裡」と表記)が切ってあります。天守内に囲炉裏があるというのは、非常に珍しいです。

囲炉裏は籠城への備え、だそうです。冬の山城は冷えるでしょうが、戦の最中にうっかり火の不始末をやらかそうものなら天守大炎上……なリスクが垣間見えるんですけど。

囲炉裏の近くに、御根小屋の説明があります。復元模型の写真には、建物や門の名称が記されています。

北には「装束の間」と呼ばれる、籠城時の城主一家の居室とされる部屋があり、一階の床面より高くなっています。

装束の間の内部です。城主一家の居室というだけあり、そこそこの広さです。

装束の間に天井板はなく、屋根の木組みが見えています。

装束の間から、一階を見ます。

北西隅の格子窓です。左側にはしっかりと、狭間が見えています。


窓を覗くと、天守のすぐ北に建つ二重櫓がよく見えます。

接続廊下にあったものと対になるようなこちらの大きなボードでは、天守の内部構造について説明しており、これまで見てきた一階の各設備についても記載があります。

天守の構造・其の弐。先ほど見た接続廊下基部からはみ出した石垣はどうやら、前面に滑った石垣を基準に積み直したことが原因のようですね。

昭和の大修理についての説明です。幾度となくメンテナンスを繰り返したおかげで、今もこれらの建物が現存していることに、感謝を。

説明板のほか、陳列ケースによる展示品もあります。こちらは歴代修理の際に据え替えられた昭和の鯱瓦など。奥には年表もあります。

虫害でボロボロになった柱と、唐破風板・裏甲です。いずれも江戸期の創建部材と考えられています。

こちらの蕪懸魚も、創建部材と考えられています。

一階母屋の上半分はこのように、壁で囲われています。

母屋の南西隅に階段があり、脇には階段についての説明があります。
二階へ上がります。

階段の右側は柱にめり込んでおり、最初からここに階段を設置する前提で建てられていることが分かります。

狭い踊り場があります。説明には「敵がすぐ上がれないように云々~」などとありましたが、天守内まで攻め込まれている時点で戦局は壊滅的なのでは……? 踊り場を設けてあるのは、何か建築上の都合があったのでは……と考えてしまいます。

踊り場手前から、一階天井付近の木組みを見ます。右奥の梁などは古そうですが、当時の部材はどのくらい残っているのでしょうか。

踊り場から短い階段を上ると、二階です。

二階に入側・母屋の区別はなく、北に御社壇があります。

二階に天井板はなく、屋根の木組みが見えています。木の形状をそのまま活かしたようなぶっとい梁が大迫力!です。


二階北側は一段高い「御社壇」があります。鞴峠で作らせたという三振の宝剣は、ここに安置されていました。御社壇の前には引戸(これは「舞良戸」でしょうか)が設けられており、普段は閉まっていたのかもしれません。

御社壇には、神棚があります。宝剣は現存していますがここにはなく、歴史美術館にあるそうです。

二階の格子窓、南と東で微妙に高さが異なります。

二階の窓からは、一階屋根の鯱が見えます。

こちらにも鯱。尻尾に付いた金属は、避雷針的なものでしょうか。

屋根瓦と、山々と。山上にある天守ならではの景色です。

二階から、階段を見下ろします。階段の周囲には、手摺が設けられています。


天守出入口から、接続廊下を見下ろします。古い部材も、表面を削って綺麗にしていたりするんでしょうか。

接続廊下、「つなぎろうか」って読むんですね。
接続廊下から、天守を出ます。

接続廊下の出入口から本丸を見ます。すぐ城外となる右(西)側の塀と、外に帯曲輪がある左(東)側の塀とで高さが大きく違うことがよく分かります。


本丸に三箇所ある出入口のひとつ、復元された東御門です。棟門形式で、本丸では唯一の引戸の門です。城門で引戸というのは珍しい気がするのですが、閉まっていたので引戸だと気付かなかったように思います。

控柱を持たない棟門はとても薄っぺらく、頼りなく見えてしまいます。屋根瓦には、巴紋があります。

五の平櫓からまっすぐ延びる土塀は、東御門の手前で東へ折れて門に接続しています。

本丸の北側はもともとの地形が高くなっているようで、東御門のすぐ北には階段が設けられ、門に接続する復元土塀は階段に沿って斜めに延びています。塀が斜めでも、狭間は水平に切ってあります。

東御門付近から、本丸を見ます。

東御門すぐ北の階段を上り振り返ると、門がずいぶん下に見えます。



天守台の岩盤×石垣コラボも間近で見られ、幸せです。一階竪板張り部分には、中からは引戸に隠れていた狭間が見えます。

囲炉裏のある一階東側が、大きく張り出しています。屋根には、巨大な破風。

天守曲輪の北は狭く、奥に門が見えます。
左の天守を見ると、いくつも角を持つ一階建物に合わせて、石垣隅部が三つ連続しています。これだけ複雑な形状の天守台というのは、珍しいのではないでしょうか。


装束の間がある一階北側は、石垣が高くなっています。壁面には狭間が見えます。

本丸に三箇所ある出入口のひとつ、復元された腕木御門です。東御門と同様の棟門形式ですが、こちらは開き戸です。

腕木御門に接続する土塀と、通路を挟んで反対側の土塀(いずれも復元)、ふたつの土塀が延びる通路の先にあるのが、本丸にあるもうひとつの現存建造物、二重櫓です。


天守を除き、城内唯一の二重櫓です。一階反対側(北側)にも出入口があり、二重櫓を通って本丸から後曲輪へと抜けられるようになっているため、有事には天守からの脱出経路としても機能したと考えられています。
南面は、一階・二階とも西側(城外側)にのみ格子窓があります。

腕木御門の屋根瓦にも、巴紋があります。
門や櫓に比べて、土塀がずいぶん低く、歩いていると外から丸見えな気がします。検証した上での復元だと思うので、当時もこの低さだったのでしょうけど……防御面は大丈夫なのでしょうか。西側はもう城外なのですが……。

二重櫓の前から、天守を見ます。複雑な形状と巨大な破風は、小ぶりであることを補って余りある威厳を感じます。

二重櫓の南西から延びる土塀は、接続廊下の北西に接続しています。

鬼瓦には、巴紋のほかにシンプルな「蛇の目紋」も見えます。蛇の目は、板倉氏の前に城主だった石川氏の家紋です。

腕木御門の東から延び天守曲輪を囲う土塀も低いですが、この外側には帯曲輪があります。
本丸を出て、帯曲輪へ向かいます。

本丸の東側には、二の丸の北から帯曲輪が延びています。

二の丸帯曲輪には、土塀基礎と考えられる石列があります。

本丸東御門です。外から見ると、確かに引戸です。

内側からは低すぎると感じた天守曲輪の土塀も、帯曲輪から見ると本丸の高石垣上にあり、防御面で問題ないことが分かります。


東側へ張り出す天守曲輪に合わせて、帯曲輪も「く」の字を描いて折れ曲がっています。天守曲輪の基部に、露出した岩盤が見えます。

やがて、右手方向への下りと、直進した先の石段とに、道が分岐します。


帯曲輪の北端にあるのが、搦手門曲輪です。

搦手門曲輪は帯曲輪に比べ幅が広く、搦手門からの敵に備えて兵を待機させることができそうです。


搦手門曲輪の北に搦手門跡があります。かつては大手門手前の犬走口から搦手門まで、犬走が続いていたそうですが、今は通行困難と思われます。搦手門跡を越えると道は左折し、枡形状になっています。

搦手門跡から水の手門脇曲輪にかけて築かれた石垣は苔むしていますが、今なおしっかりとお城を守っています。

搦手門曲輪から搦手門跡の西を通って直進し、石段を上ると、水の手門脇曲輪です。
水の手門脇曲輪へ向かいます。

石段上から、搦手門跡を見下ろします。

石段の上、水の手門脇曲輪では本丸からの道が合流しています。

こちらの石段を上ると、本丸北側に通じています。

石段の先に、腕木御門が建っています。獣除けの電気柵があり、近付くのが怖いです。

腕木御門前から振り返ります。石段下の水の手門脇曲輪とは、かなりの高低差です。

石段の脇に、これまた素敵な岩盤×石垣コラボが見られます。

この上に建つのは……。

現存の二重櫓です。なんと、天守台より高くて立派な岩盤上に櫓台が築かれているんですね。大迫力!

岩盤櫓台付近から、水の手門脇曲輪を見ます。左の石垣上は、後曲輪です。奥の施設(ポンプ小屋?)はお城とは無関係ですが、下見板張り風の外観に修景されています。

後曲輪へ通じる石段の脇にある、番所跡です。石段右側の石垣隅部、カーブがすごい。

水の手門脇曲輪の東端にある、十の平櫓跡です。建物外周の方形石列が残っています。十の平櫓は水の手門を越えた正面に位置し、門の守りを固めていました。

十の平櫓跡の北西に位置する、水の手門跡です。門の外は城外となります。ここから先にも関連遺構などあるようですが、今回は未訪です。

水の手門付近の石垣、下段は隅がカーブしており、上段は普通に隅部が直線的です。
番所跡左の石段から、後曲輪へ上がります。

石段上から、水の手門脇曲輪を見下ろします。石段の東は石垣、西は岩盤です。

石段を上るとすぐ西に、二重櫓へ通じる石段があります。

石段の西側は城外です。二重櫓の西面には石落しがあり、扉の西側には狭間もあります。二重櫓の向こうにチラリと天守が見えています。本丸から二重櫓を通過して、後曲輪へ出ることができます。

二重櫓への石段下から、後曲輪を見ます。石段付近の幅は狭く、北側は広くなっています。

後曲輪跡、の標柱です。左奥は、九の平櫓台です。

手前の設備は近年のものと思われます。奥の石垣には本丸西側と同様に雁木が設けられています。石垣の修理・積み直しなど行ったのか、立ち入りが制限されています。

九の平櫓台へ通じる石段は、崩壊が進んでいるように見えます。

九の平櫓跡です。城内最北端に位置し、水の手門方面の守りを固める役割があったと考えられます。

櫓台から見下ろしますが……下にある道は、よく見えません。

櫓台から、雁木石垣を見ます。石垣上には、土塀が建っていたのでしょうか。奥の石垣隅部の直下は、水の手門跡です。

櫓台から、後曲輪を見ます。岩盤二重櫓台、素敵すぎます……。

駅のホームにも、備中松山城が全力でアピールされています。
二度目の備中松山城。城下町や御根小屋跡も訪れ、時間をかけてじっくり散策・観覧することができました。素晴らしい岩盤×石垣コラボは何度みても感動がありました。しかし、下太鼓の丸跡や大池など、未訪の関連遺構がまだあります。より深くお城を知るために、必ずや、再訪したいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで55城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。