備中松山城に行ってきました。
現存12天守のひとつで、日本100名城(No.68)に選ばれた、岡山県高梁市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

まず、郷土資料館へ行きます。建物は明治期に建てられた学校の校舎で、市の重要文化財に指定されています。入口の右に建つのは、幕末に藩政改革を行った山田方谷の像です。

受付に、撮影OKの表示。ありがたいです。

お城の模型は、主要な建物や塀が再現されています。

大手門を越えてからの登城道は平櫓や番所で守られ、三の丸を突破するのは容易くなさそうです。

要所にある門は、守りが固められています。

本丸には、七・八の平櫓や、八の平櫓と天守をつなぐ渡り廊下も再現されています。

天守を西から。地形の高低差を活かして築かれているようです。

北側の建物群も再現されています。模型で見ても、天守と大手門でかなりの高低差があります。

お城関連の展示は他にも、御根小屋とお城の復元図がありました。
城下を歩きます。

郷土資料館のすぐ東にある、城主・板倉氏の菩提寺である安正寺です。

寺の屋根瓦に見える紋は単なる九曜紋ではなく、板倉氏の家紋「九曜巴」と思われます。


藩校・有終館跡は幼稚園となっています。説明板の背後に見える大木が、山田方谷手植えの松でしょうか。

有終館跡のすぐ南を東西に流れる紺屋川はかつて、お城の外堀としての役割を果たしていました。

有終館跡の東にある頼久寺には、お城のような立派な石垣が築かれています。

関ヶ原合戦後に奉行として入った小堀遠州が、仮の居館としていたそうです。

小堀遠州が作庭したとされる、頼久寺庭園です。

頼久寺から北へ歩くと、江戸期からの武家屋敷が現存する「石火矢町ふるさと村」があります。奥に見えるのが、天守の建つ臥牛山と思われます。

現存武家屋敷のひとつ、旧埴原家です。門の左にある二階建ての離れ(?)が目を引きます。

城主・板倉勝政公の生母の実家であり、寺院建築や数寄屋の要素を取り入れた珍しい造りだそうです。

式台上部の蟇股には、梅鉢紋があしらわれています。

式台の左にある内玄関から、中へ入ります。内部を自由に観覧できるのはありがたいですね。

玄関上部には武具掛けがあり、弓や槍が掛けられています。朱色の壁が特徴的です。

座敷には違い棚や床の間があり、付書院の花頭窓が趣深いです。

台所です。奥が土間です。

屋根瓦にも、梅鉢紋が見えます。

屋敷の裏には、蔵があります。

こちらも現存武家屋敷のひとつ、旧折井家です。屋敷の門は、長屋門です。

藩の官舎でもある武家屋敷。備中松山藩では規模が五段階に分けられ、折井家は二番目の格付けだったそうです。

長屋門はいくつかの部屋に仕切られ、左から物置、仲間部屋、馬屋となっています。

埴原家とは違い、式台から入ることができます。

玄関ではSAMURAIが迎えてくれます。「動きます」と書かれていても、動くとびっくりします。埴原家同様、玄関上部には武具掛けが備わっています。

奥座敷で団欒しているのは、折井家の家族でしょうか。人形と家具があると、当時の生活の様子や空気感が伝わってきます。

玄関の奥に、居間があります。

土間には、かまどがあります。

天井には、煙出しが備わっているようです。

格子窓のセキュリティ装置に、現代に遺る武家屋敷の在り方を見ました。

縁側には、竹が敷かれています。

雪隠(トイレ)です。

屋敷の裏には、井戸と風呂があります。

その奥には、鎧兜などが展示されている資料館があります。

長屋門と母屋の間にある、幕末頃の城下屋敷図です。よく探すと、これまで訪れた安正寺や頼久寺、埴原家や折井家を見つけることができます。
武家屋敷通りを北へ抜けると、御根小屋跡です。

御根小屋跡の西にある、御殿坂です。まっすぐ延びる広い坂道の先に城主の御殿があると思うと、緊張します。


御殿坂の説明板の背後は公園のようなスペースになっており、西側には門があり、塀には格子窓が設けられるなど、凝った意匠です。

御殿坂両脇の白い土塀は後世の整備かと思われますが、松の巨木や坂の外側に築かれた石垣は、当時のものでしょうか。

JR伯備線が御殿坂を横切っており、坂の途中に踏切が設けられています。鉄道を通したことで、坂の傾斜や周辺の石垣は改変されていると考えられます。


坂を上りきると説明板があり、正面と左手に立派な石垣が見えます。説明板の背後にある石垣の上が、作事所跡です。

御殿坂の上にあった門が、下中門です。

登城道から作事所へ通じる、作事門跡です。作事所の奥に米蔵が、右奥の高い石垣上に武具蔵があったようです。右手前の塀の向こうは、御殿が建っていたエリアです。

下中門の正面には石垣がそびえ、道は右に折れ、枡形状の空間が形成されています。

右折し、左折した先には御殿……ではなく、校門と校舎があります。御根小屋跡は高校になっており、許可なく立ち入ることはできません。

校門付近に建っていたのが、上中門です。御根小屋に登城するには、ふたつの中門を越える必要があったようです。

校内へ入る許可を得ていないので、引き返します。

下中門跡の右(南)にある石段と石垣です。当時ここに石段はなく石垣が南へ延び東へ折れ、その上にL字型の多聞櫓が建ち下中門と上中門を囲う枡形状空間を形成していたようなので、このあたりは後世の改変が加えられていると考えられます。

御根小屋の御殿建築配置図です。緑字で現在ある施設の配置も示されているのですが……正直ゴチャゴチャして分かりにくい、かも?

左手前は、枡形L字多聞櫓が建っていたと思われる石垣の隅部です。上部は明らかに後世の改変がありますが、下部には矢穴のある石材も見られ、どこまで当時のままなのかよく分かりません。右奥には、御殿エリアの高石垣が見えます。

右は現存石垣かなあと思うのですが、左はどうなんでしょう……うーん。

御殿エリアの石垣は、高さがありとても立派です。隅部の算木積みはやや未発達に見えますが、小堀遠州が再建したという江戸初期の石垣なのでしょうか。

御根小屋跡の南には小高下谷川が流れ、堀の役割をしています。

御根小屋とその周辺復原図です。枡形L字多聞櫓のみならず、御殿の西と南、作事所や武具蔵の西にまで多聞櫓が築かれていたようです。

奥の塀が建つ石垣上にはかつて、多聞櫓が連なっていたのでしょうか。


小高下谷川沿いに築かれた石垣にも、現存部分があるように見えます。
麓のお城から、山上のお城へ向かいます。

御根小屋跡を過ぎ、なおも小高下谷川沿いに上流へ歩くと、遊歩道入口を示す案内があります。

やがて左手に石垣が見え、石垣上には碑と説明板のようなものがあります。

ここが、遊歩道入口です。

橋を渡ると、左手前にも右奥にも古そうな石垣。道の奥に、先ほど見えた碑と説明板があります。

ここには、山田方谷に学問を学んだ三島中洲の旧宅「虎口渓舎」があったそうです。

虎口渓舎跡を過ぎるとすぐ、登城口です。天守目指して、登城開始です。

臥牛山は四つの峰に分かれており、備中松山城があるのは小松山です。

大きな岩盤が露出しています。


登るにつれ、息が上がっていきます。

石段は、当時のものか、後世に築かれたものか……ぜぇぜぇ。

右には、倒れた立札。奥に見える建物は、休憩用の東屋でしょうか。

立札は、下山の心得でした。登山時にも、大事な事柄です。

東屋には、野猿に対する注意事項が書かれています。
登城中、猿の姿を見ることはありませんでした。

疲労のせいか写真がブレブレですが……座るのに丁度良さそうな岩があります。

元禄期、備中松山城は一時的に赤穂城主・「浅野内匠頭」こと浅野長矩の預かりとなり、浅野長矩の家老である「大石内蔵助」こと大石良雄が城の請取りに出向いた際に休息したのがこの「腰掛岩」だそうです。「忠臣蔵」の登場人物たちは、備中松山城と関わりがあったんですね。


階段を上ると、八合目にある鞴峠駐車場です。
鞴峠に到着です。

駐車場には、番所風?のトイレがあります。お手洗いにて候。

鞴峠に「ふいごたわ」の振り仮名。峠は「たわ」とも読みます。
天守の御社壇に納める三振の宝剣をここで作らせるために大きな鞴が設置されていたことから「鞴峠」の名が付いたそうです。

トイレの脇には、城主からの有難い登城心得の立札が。身仕度を整えましょう。

鞴峠は、下太鼓の丸と中太鼓櫓跡の中間にあたります。おや、こちらの案内図では鞴峠の振り仮名は「ふいごとうげ」となっていますね。

中国自然歩道の高梁地区案内図です。備中松山城登山コースは、別図あり。

猫城主様についての説明もあります。拝謁できるのでしょうか。

身仕度を整え、息も整ったところで、いざ遊歩道へ。ここから700m、徒歩20分です。
鞴峠から、登城開始です。

またもや登城心得の立札が。あわてず、ゆっくり歩むべし。

ゴミは捨てずに、持ち帰るべし。

当時のものかもしれないと思える石段と、露出した岩盤です。

こちらの登城心得は、少し新しく見えます。城主の細やかな気配りが、身に沁みます。

ここでも、露頭が見られます。

こちらの階段を上ると……。
中太鼓の丸に到着です。

二度目ですが、この石垣は何度見ても気分が昂揚します。

大きな説明板によると、上段部分が史跡指定地となっているようです。

下段からは、登城道に侵入する敵をよく狙えそうです。

下段への入口です。

下段から見る城下です。

下段の全景です。

下段から、上段石垣を見ます。


下段と上段の間には、低い石垣が積まれています。

上段の南端が、中太鼓櫓の建っていた櫓台です。

よく整った石積みですが、解体修理など行われているのでしょうか。

隅石など、矢穴が見られる石材もあります。

櫓台の北側には、少し低い石垣が連なっています。


中太鼓の丸は、下太鼓の丸と大手門とのほぼ中間にあたります。



櫓台北側石垣の北端へ回り込み、上段へ上ります。

夥しい量の瓦片に驚かされます。中太鼓櫓に使用されていたものでしょうか。右奥に、櫓台への石段が見えます。

石段の右側には「上太鼓丸」の標柱があります。文献によってはここを中太鼓の丸ではなく「上太鼓の丸」としているようです。

櫓台には、柵が設けられています。寄りかかるべからず。

上段の櫓台からは、下段より広範囲に城下が見渡せます。


それにしても、ものすごい数の瓦片です。
中太鼓の丸を過ぎ、大手門跡を目指します。

今にもバキッと折れて転落しそうな岩ですが、これで何百年と持ちこたえているのかもしれません。

鞴峠から大手門へはもうひとつルートがありますが、そちらは道路の陥没等で通行できないようです。帰る人に向けて「本日の登城 大儀であった」の登城心得が立っています。

振り返ると「よくぞ まいられた」の登城心得が。もはや心得ではない……などという無粋なツッコミはさておき、大手門跡に到着です。

左の石段を上ると大手門跡に至り、石段右側の削平地が犬走り口で、ここにも中太鼓の丸と同型の大きな説明板があります。

説明板には大手門推定復元図のほか、失われた櫓や門などの建造物まで描かれた山上部全体の鳥瞰図があり、当時の姿がイメージできます。

「犬走」の標柱が立つ犬走り口です。ここから搦手門跡まで、犬走りと呼ばれる細い道が続いていたそうです。

今では道が視認しにくくなっており、搦手門跡まで歩くのは危険だと感じます。

奥にそびえる巨大な岩盤の根元あたりに、犬走りが設けられていたのでしょうか。

大手門へ通じる石段の側面にも石垣が積まれています。当時はこの上に、土塀があったようです。


犬走り口の周囲にも、石垣があります。

大手門へ通じる石段です。右側の石垣上には、土塀が建っていたと考えられています。
これを上ると……。

素晴らしい光景に、言葉を失います。お城の正門、大手門跡です。門が失われても石垣や礎石が、確かにお城が在ったことを教えてくれます。

左右の石垣を跨ぐように、説明板の復元図にあったような櫓門が建っていたと考えられ、礎石も残っています。奥にそびえる石垣の上が、三の丸です。

大手門北側石垣は、奥にそそり立つ岩盤と接しています。

北側石垣の手前にふたつ、方形に加工された礎石があります。右の礎石には、柱の跡が見える……ような気がします。

南側石垣の手前にも、礎石があります。左ふたつの礎石の間に、脇戸があったようです。


箱番所がどのようなものか分かりませんが、跡地は狭く、簡素な建物だったのかもしれません。

北側石垣の左には石段があり、櫓門二階部分の「大手櫓」内へ入るために築かれたと考えられます。

北側石垣の上には、大量の瓦片が散乱しています。

大きな破片の中には、瓦の形状が分かるものもあります。

北側石垣の上から、門跡を見ます。石段を駆け上る敵は大手門を通るため左折し、門を越えると三の丸石垣が立ちはだかるためまた左折しなければならず、門はひとつしかありませんが、敵の勢いを削ぐ枡形状の構造となっているのが分かります。

北側石垣の上からは、岩盤と石垣のコラボレーションが間近に見られます。

天然の岩盤をそのまま城壁に利用し、ギザギザの上部や隙間にのみ石垣を積み、土塀を築いています。

この岩盤×石垣コラボこそ備中松山城最大の見所と言っても、過言ではないと思います。

三の丸石垣は高さがあり、こちらから上るのは厳しそうです。

石垣隅部は、美しい「扇の勾配」を描きます。

あちこちの石材に、矢穴が見られます。

大手門西側の石段は、足軽箱番所へ向かうものと、登城道とに分岐し、複雑な形状をしています。

大手門両脇の石垣には扇の勾配は見られず、垂直に切り立っています。

ここに櫓門が建っていたのか……と想像します。

南側石垣上には「大手櫓」の標柱があります。大手門二階部分の櫓を指す名称と考えられます。

南側石垣上から門跡を見ます……が、どうしても奥の岩盤×石垣コラボに目を奪われます。

大手門の西からは三の丸石垣に阻まれ、登城道は南へ折れます。
大手門を越え、登城道を南へ歩きます。

大手門のすぐ南、城郭南東隅に突出する岩盤上にある、二の平櫓跡です。周りの地面よりかさ上げする櫓台石垣は築かれず、建物外周に沿った石列や、礎石のように見えるいくつかの平たい石があります。

備中松山城には二~十の番号が振られた櫓(平櫓)がありましたが、一番はありません。大手櫓、あるいは中太鼓櫓を一番目にカウントしているのでしょうか。

二の平櫓跡からは、大手門までの登城道が見えます。大手門へ迫る敵を監視・迎撃する役割があったと考えられます。

二の平櫓跡は、三の丸への登城道からは奥まった場所にあります。


すぐ西側には、二の平櫓に接続していたと考えられる「く」の字型の土塀があります。とても古そうに見えますが、復元されたものです。

土塀には縦長長方形の「矢狭間」と、丸い「筒狭間(鉄砲狭間)」が並んでいます。

二の平櫓西土塀は、石垣によりかさ上げされた三の平櫓東土塀に接続しています。

土塀は登城道の外側に沿って連なり、城郭南側からの侵入を阻んでいます。

三の平櫓東土塀のうち、標柱の背後に建つこちらの部分は、貴重な現存土塀です。

標柱側面にあるとおり、国指定重要文化財となっています。

重要文化財の現存土塀を参考に、西側に土塀が復元されています。矢狭間と筒狭間の並びも、現存部分が参考にされたと考えられます。

現存土塀と復元土塀の接続部分には段差が設けられ、境界を確認できます。

岩盤×石垣コラボに後ろ髪を引かれ、なかなか先へ進めません。

現存土塀手前の低い石垣は、何か地形的な要因・制約により築かれたものでしょうか。

三の平櫓東土塀に沿って、登城道を西へ進みます。右は、三の丸南側石垣です。

復元土塀が途切れる先に、低い石垣があります。櫓台です。その櫓台の前には、いくつか生垣?があります。

三の平櫓跡です。土塀の西に接続し、城郭南側の守りを固めていたと考えられます。櫓台に設けられた石段の先に、櫓の入口があったのでしょうか。櫓台上には、大量の瓦片があります。櫓台を隠すように低い生垣がある理由は、謎です。

櫓台上からは、三の平櫓に接続する土塀の屈曲する様子が分かります。左の石垣は、三の丸です。

三の平櫓東土塀です。左側に、現存・復元境界の段差が見えます。

三の平櫓台向かって右の生垣に埋もれるように、標柱があります。

三の平櫓北西隅から城外へ抜ける道へと通じる、路地門跡です。

路地門跡から先の道は少しだけ下ることができますが、これ以上は厳しそうです。生垣は、整備されておらず安全でない道を隠すために設けられたのかもしれません。
三の丸へ向かいます。

三の平櫓跡から登城道を挟んで北側に位置する広い曲輪が、三の丸です。


「三の丸跡」以外にふたつ、建物跡を示す標柱があります。足軽番所跡と、上番所跡です。大手門から三の丸に至る登城道を見下ろせる位置に二つの番所を設け、防備を強固にしていたことがうかがえます。

屋根付き木造看板には、備中松山城が国指定史跡であること、建造物のうち天守・二重櫓・三の平櫓東土塀が国指定重要文化財であることが記されています。

足軽番所跡です。標柱の右、中央で区画されたような長方形の石列は、番所内の何らかの設備跡でしょうか。トイレ?

足軽番所は三の丸南東隅、折れ曲がる登城道に面して建っていたと考えられ、大手門を越えてくる者を見張るのに絶好の位置です。

三の丸からは、大手門がよく見えたことでしょう。足軽箱番所のサイズ感も分かります。


標柱の北側には、厩曲輪の高石垣と、その背後の石垣が段々に連なる様子を見られます。

三の丸にも瓦片が散在しており、原形をとどめる丸瓦もあります。

上番所跡の標柱は三の丸中央付近にありますが、実際は東側の石垣出隅上に築かれていたと考えられています。上番所すぐ南の直下には足軽箱番所が、右奥に見える三の丸南東隅石垣上には足軽番所が建ち、大手門は三つの番所によって厳重に守られていたことが分かります。

上番所跡の東側からは、大手櫓への石段を見下ろせます。

先ほどは大手門付近から見上げていた、三の丸北東の出隅上に来ました。ここから見下ろすと、大手門周辺の複雑な登城道の構造がよく分かります。

振り向けば、岩盤×石垣コラボがこんな間近に!
二つの丸い筒狭間と真ん中の矢狭間が顔のように見えてしまう土塀は復元ですが、右奥にチラッと見えている土塀は、一部現存です。

この岩盤の隙間を埋める石垣……良いです。

自然と人工の融合、実用重視の城壁が織りなす造形美。素晴らしい!


厩曲輪の高石垣基部には、低い石垣が積まれています。
厩曲輪へ向かいます。

三の丸南側の登城道はなおも西へ続き、厩曲輪の南側からは石段となります。石段と厩曲輪石垣との間には、排水溝が設けられています。

隅部の稜線が美しい、厩曲輪の高石垣です。

やがて登城道は北へ折れ、新たな石垣群が見えてくるのですが……。

その左側、南へ石垣が張り出しています。この出隅の東側は三の平櫓北西、路地門から城外への道がある所です。もしかすると、道へ横矢を掛ける役割があったのでしょうか。

張り出し石垣の西側には、土塀の基礎のように見える石列があります。

のぞき込むと、けっこう高さのある石垣です。

石列は折れ曲がり、四の平櫓台へ接続しています。

このように、張り出し石垣から四の平櫓台まで、石列が「く」の字型に折れ曲がって続いています。土塀跡と考えても良いように思います。

張り出し石垣のあたりで、登城道は大きく北へ折れます。


方向転換とともに石段により急激に高さを増し、登城道は厩曲輪に並びます。


急転換と石段で大きく勢いを削がれた敵の前に立ちはだかったのが、登城道を塞ぐように建っていた黒門です。門跡には、方形に加工された切石の礎石が残っています。

黒門の真横にあり、門へ迫る敵に横矢を掛けていたのが、四の平櫓です。立派な櫓台石垣が残っています。

四の平櫓台には多くの矢穴があり、途中で割るのを断念したような矢穴も見られます。

黒門の内側には、四の平櫓跡への石段があります。

四の平櫓跡にも、多くの瓦片があります。

四の平櫓跡の北東には御膳棚と呼ばれる曲輪が、さらに北東には二の丸があります。

四の平櫓跡からは、黒門跡がよく見えます。奥が、厩曲輪です。

厩曲輪への出入口には、厩門がありました。

厩門跡の両脇には、土塀基礎のような石列があります。土塀の間に、門が建っていたのでしょうか。

ほぞ穴の開いた石は、厩門の礎石でしょうか。規模の小さな門ですが、馬が出入りできる構造にはなっていたのでしょう。


厩曲輪は、三の丸の北西に位置する細長い曲輪です。名前の通り、厩が建っていたのでしょうか。

厩曲輪の北東端には、三の丸から見上げていた土塀があります。

岩盤×石垣コラボの上端に建つ復元土塀です。重要文化財・二重櫓の立札が立て掛けられていますが……これは一体?

奥にある一段高い土塀……の、手前中央に置かれたキャビネット?状の物より左側、折れ曲がって石垣に接続している部分が現存部分だそうです。

土塀の段差部分基部には、矢穴の開いた岩盤が見えます。どうやら、石を切り出した跡らしいです。なるほどこのあたりは岩盤が多く露出しており、石材を現地調達できたのですね。

こちらの石垣でも、岩盤×石垣コラボを見られます。良い……。

鋭角な石垣の入隅、良い……。

厩曲輪から見下ろす三の丸です。その広さが分かります。

大手門跡は遥か下方に見え、高低差を感じます。


厩曲輪北西の登城道に沿って、石垣が斜めに築かれています。
二の丸へ向かいます。

厩門跡から厩曲輪を出て、登城道へ戻ります。

登城道の右、厩曲輪側には、土塀跡と考えられる石列が続いています。

厩曲輪から登城道を挟んで北西には、御膳棚と呼ばれる小曲輪があります。

食事を準備する場所だったと考えられているようです。台所などがあったのでしょうか。

御膳棚に建っているのは台所……ではなく、トイレです。城郭建物風の外観となっています。

ここより先にはトイレはありません。用は済ませておきましょう。

御膳棚から、四の平櫓跡を見下ろします。これだけの高低差があります。

御膳棚から二の丸南西部の石垣を見ると、入隅部分に蓋をするように後から石垣が積まれています。崩落しかかっていたのを補強したのでしょうか。

もしこのあたりの石垣が崩れたら、御膳棚が埋まってしまいそうです。石垣基部には、低くカーブする石垣が積まれています。

カーブ石垣は、入隅の補強石垣と同時期に積まれたのでしょうか。

御膳棚付近から、登城道を振り返ります。石段が続き、どんどん標高が増しています。


土塀跡と思われる石列は、石段に沿ってまだまだ続きます。


補強石垣のすぐ東側には、城内で最も古いとされる野面積み石垣があります。二の丸の南辺にあたります。

下の方は確かに、大きな自然石を用いた野面積みなのですが、上の方では石材が小ぶりになっており、特に隅部には加工したような方形の石が見られます。上部は後世に積み直しているのでしょうか。

このあたりは巨石を惜しげもなく投入しており、城主の威厳を見せつけ、城郭の主要部が近いことをうかがわせます。

しばらく北東方向へ直線的に延びていた登城道が、ここで北へ折れます。

振り返ります。

このあたりの隅部周辺も既存の岩盤を利用しているのか、隙間を埋めるようなコラボ石垣が見られます。


北へ折れる石段の先、二の丸南東部にあるのが、二の櫓門跡です。この門は「鉄門」とも呼ばれており、切石の礎石が見事に残っています。礎石配置から、向かって右側に脇戸があったと考えられます。標柱の真横には、立派な鏡石が据えられています。

鏡石やら岩盤コラボやら、情報量の多い門跡西側石垣です。

門跡からは、城下が一望できます。

門跡の東側には石垣がなく、櫓門の基礎と思われる石列が見えます。門内に設けられた番所跡のようにも思われますが……。

門跡の東側には、高梁観光百選の碑と、与謝野鉄幹の歌碑があります。

二の櫓門跡を越えると、二の丸です。南北に長く、山上部では最も広い曲輪です。

二の丸跡の標柱は、東の端の方にひっそりと佇んでいます。

二の丸内では、いくつかの石列が見られます。かつての建物の名残でしょうか。

二の櫓門西側石垣上には、櫓門二階部分へ通じる階段や通路があったのでしょうか。

補強石垣と御膳棚を見下ろします。基部の石垣は、綺麗にカーブしています。

雪隠(トイレ)跡とされている、石組遺構です。手前には、大きな瓦片。

奥には、中へ下りられる石段が設けられています。

石組遺構は、縦にふたつ並んでいます。

抜け穴説なんかもあるみたいですが……はたして。

そして、二の丸の北に見えるあの建物群は……!
(その2へ続く)