二条城に行ってきました。
日本100名城(No.53)に選ばれた、京都府京都市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
黒基調の厳かな感じが二条城にマッチしている案内板です。簡略化されているようで、建物配置や園路が細かく記載されています。
現在地は二の丸を囲う外堀の東南隅で、堀の向こうに東南隅櫓と、その右に東大手門が見えます。
「東南隅櫓」は寛永期に建てられた現存建造物のひとつで、重要文化財に指定されています。堀に面した南と東の一階部分には出窓が設けられていますが、狭間は櫓にも周囲の塀にも見られません。
少し見にくいですが……屋根瓦には将軍家のお城であることを示す「葵の御紋」が見えます。
二階南側には千鳥破風があり、屋根上には鯱が載っています。
東大手門との間にある「東南隅櫓北方多門塀」は重要文化財に指定されているのに、櫓の西方に延びる塀は文化財指定されていません。すぐ途切れているのも変だし、後に築かれたものでしょうか。
二の丸南側を区画する外堀が、西へ延びています。
外堀の南側を、堀沿いに西へ歩きます。
江戸期には存在せず、大正期に新たに築かれた「南門」です。門前の橋は、撤去されています。
江戸期の門だと言われても違和感がないほど馴染んでいますが、よく見ると、門前の堀付近の石垣が周囲に比べて小粒な石材が並んでおり、再構築の痕跡がうかがえます。
さらに西へ歩くと、外堀がクランク状に屈曲しています。このクランクより西側が、寛永期に拡張された部分です。
初期部の南西隅石垣(右)より、拡張部の石垣(左)は高くなっています。この初期部と拡張部の境界付近、入隅周辺の石垣が、城内で最も古い慶長期のものだとされています。
さりげなく、右端にアオサギがいます。
拡張部の端、外堀の西南隅まで来ました。二の丸石垣隅部には、寛永期に建てられた現存建造物、重要文化財の「西南隅櫓」が建っています。
こちらも屋根瓦には、葵の御紋。東南隅櫓と違い、入母屋破風が格子状になっています。
堀に面した一階部分(南と西)に出窓があり、狭間はありません。サイズは東南隅櫓よりひと回り小さくなっています。櫓周辺の石垣の色が異なるのは、後世に櫓の解体修理があり、その際に積み直したのでしょうか。出窓の下部は漆喰が流れ落ちたのか、白くなっています。短く途切れる塀は、後世に築かれたものでしょうか。
外堀南側を、西から見ます。奥に、堀のクランクが見えます。
東南隅櫓は千鳥破風ですが、西南隅櫓には唐破風があり、優美な印象です。
唐破風の上にも、降り棟にも、葵紋。
天守含め城内に九棟あった櫓のうち、現存するのは東南隅櫓とこちらの西南隅櫓のみです。
外堀はここから、北へ折れます。
二の丸西面の北寄りに、門が見えてきます。寛永期に建てられた現存建造物、重要文化財の「西門」です。
塀の下に門がある埋門形式で、内側に櫓門を伴う内枡形門ですが、櫓門は天明年間の大火により焼失しています。門周辺の石垣の色が異なり、解体修理に伴う積み直しがあったものと思われます。塀は、門の両脇で短く途切れています。
門扉や周囲の柱などは、鉄板張りの高防御。右扉には、潜戸があります。
江戸期には通用門として使用されたそうですが、明治以降には堀に架かる木橋が失われ、通行することができません。門向かいの橋台石垣は残っています。
外堀の西北隅まで来ました。堀の向こう、二の丸石垣隅部には西北隅櫓が建っていましたが、天明年間の大火により焼失しています。
南を見ます。西門の向かいに、堀に突き出た橋台石垣が見えます。
東を見ます。奥に、堀のクランクが見えます。
外堀はここから、東へ折れます。
外堀北側には、堀沿いに散策路が設けられています。演奏禁止、大声禁止。
散策路には、いくつか説明板があります。二条城以前の、平安宮の遺構が発掘調査により見つかったそうです。
刻印があるという説明から、目の前の二の丸石垣を凝視していたのですが……説明板をよくよく見返すと、これもしかして、二の丸石垣じゃなくて足元の外堀北側石垣を指しているんじゃないでしょうか。
「花洛一覧図」には、西北隅櫓のほか東北隅櫓も描かれており、いずれも二重櫓だったことが分かります。
発掘調査の成果が説明されています。
「ほら貝演奏禁止」の注意書きは、初めて見ました……。さすが京都?
外堀北側のクランクです。二の丸石垣入隅部分には、二重櫓が建っていたそうです。
散策路は、ここで終わりです。
二の丸石垣は、なおも東へ続いています。少しはらんでいるようにも見えますが……。
排水のため、石樋が設けられています。
やがて、立派な櫓門が見えてきます。重要文化財の「北大手門」です。
屋根瓦には、葵紋。
築城時から存在するものの、築城当時のままか、寛永期の大改修時に建て替えられたのかは不明だそうですが、貴重な現存建造物であることは間違いありません。門周辺石垣の色が異なるのは、解体修理に伴う積み直しがあったのでしょうか。
長さはやや短いものの、奥行・高さは東大手門と同じで、出格子窓には石落しを備えています。門前には木橋ではなく土橋が架かり、門扉は開いていますが、一般観覧はここから入ることができません。
外堀の東北隅まで来ました。
石垣隅には東北隅櫓が建っていましたが、天明年間の大火により焼失しています。
黒く変色した石垣はもしかすると、焼損の跡なのでしょうか。
外堀はここから、南へ折れます。
東北隅から、南を見ます。奥に辛うじて、東大手門の土橋が見えます。
雨の中、水面近くの石樋からは、勢いよく水が出ています。
東大手門が見えてきます。
管理事務所です。左側が券売所になっています。
東大手門に到着です。これで、外堀を一周しました。
重要文化財の「東大手門」です。築城時は今のような櫓門、寛永期の天皇行幸の際に天皇を見下ろすのは不敬ということで二階櫓部分のない門に改修、寛文期に再び築城時と同じ櫓門に改修されたという、なんとも数奇な門です。2017年に修理が完了し、美しく荘厳な姿が蘇っています。
北大手門と同様に、門前には土橋が架かっています。
金色の飾り金具は天皇行幸の際の装飾と考えられており、なんともゴージャスです。出格子窓には、石落しを備えています。
門前から、東南隅櫓の方を見ます。堀の水面近くに、石樋が見えます。
東大手門は、両側に脇戸があります。左の脇戸は、屛風状のパネルで見えません。
右の脇戸です。石垣に沿って斜めになっている部材の下部飾り金具には、こっそりと千鳥の装飾が忍ばせてあります。訪問時には全く知らなかったのですが、写真を確認すると、確かにいます、鳥が!
次回は間近で確認し、撮影したいですね。
東大手門をくぐり、城内に入ります。
屏風パネルで見えなかった左の脇戸を、内側から見ます。
東大手門の説明です。
東大手門の二階櫓に通じる雁木です。雁木右にある塀の、斜めの瓦が良いですね。
雁木と周囲の石垣は、再び櫓門となった寛文期以降に築かれたと考えられます。
二階櫓の内部、一度は見てみたいものです。特別公開とかあるんでしょうか。
東大手門屋根上の鯱と、葵紋です。
東大手門の横にある「番所」を撮影したかったのですが……雨が降っており、番所で雨宿りをする人が多数。ぐぬぬ。
やむなく、屋根だけ撮ってみたり。
番所の屋根瓦にも、葵紋。
九棟あった番所も残っているのはここだけ。そもそも番所が城内に現存する例は非常に少なく、寛文期に建てられたこちらの番所は、とっても貴重な現存建造物、なのです。
東大手門を越えて正面にあり、二の丸御殿との間を隔てるのが、大きな築地です。築地の前には観光客のために、案内や説明が並んでいます。
「築地」は寛永期に建てられ、重要文化財に指定されています。築地の白線は、皇室との関係の深さを本数で表し、五本線が最高格です。石垣上に築かれているため、高さがあります。東大手門付近と北側とを隔てる写真右の土塀は、築地に比べずいぶん低く見えますが、築地がでかすぎるんです。土塀の右には、塀重門が見えます。
塀重門を越え、北へ向かいます。
番所を裏から見ます。北側エリアを区画する塀重門東側の土塀は、番所に接続しています。
築地の途中に、埋門が設けられています。
築地が途切れ、その北には屋根瓦に葵紋を掲げる長大な土蔵がありますが……こちらは後世に建てられた旧収蔵庫・模写室・修理所だそうです。江戸期にはここに土蔵があったので、外観を模していると思われます。
旧収蔵庫・模写室・修理所の東にある溝はなんと、平安京二条大路の北側側溝遺跡だそうです。うーん、複合遺跡。
旧収蔵庫・模写室・修理所の西にある土塀には埋門があり、門の向こうに「御清所」が見えています。御清所内には囲炉裏があり、調理を行う場所だったようです。
ここから先は、立入禁止です。
土塀と旧収蔵庫・模写室・修理所の間の道も竹で通せんぼされ、立入禁止となっています。写真右端が旧収蔵庫・模写室・修理所で、奥に見えるのが現存の土蔵です。
旧収蔵庫・模写室・修理所の西面には土蔵と同じデザインの扉や庇が設けられ、限りなく外観復元に近い雰囲気を感じます。
旧収蔵庫・模写室・修理所の北にある、重要文化財の「土蔵」です。もともとは東端部が南へ折れて旧収蔵庫・模写室・修理所の位置にあった土蔵とひとつながりの逆L字型土蔵だったそうですが、東側が撤去され、北側のみ残されています。
そしてこの先も竹で通せんぼ……。
土蔵の南にある「台所」が、ここから少し見えています。先ほどの御清所は台所の南に接続しており、いずれも重要文化財です。
台所と御清所の両方が現存している城郭は、二条城だけです。
土蔵を北から見ると門が設けられ、長屋門を兼ねていることが分かります。また脇戸の左には窓があり、番所も附属しています。長屋門と番所が付いたもともとは逆L字型の土蔵……これってとても珍しいのでは?
旧収蔵庫・模写室・修理所の東にある大休憩所では入城記念符(いわゆる御城印)が販売され、御即位記念の令和元年限定バージョンもあります。これは買わねば。
築地北端部の西側には土塀と塀重門があり、北側の土蔵・台所エリアと南側の御殿玄関エリアを区画しています。塀重門西側の土塀は、先ほどの御清所東側にある土塀と接続しています。
築地北端部、飾り金具がゴージャスです。葵紋ではなく、菊紋。
遠侍北側の菊紋屋根飾り金具は、前年の台風被害がなく、無事です。
東大手門前へ戻り、二の丸御殿玄関へ向かいます。
番所前に人がおらず、ようやく撮影できます。非常に大きく、立派な番所です。
城内側から見る、東南隅櫓です。木が邪魔ですが、二階北側にも千鳥破風が見えます。
近寄ります。石段は竹で通せんぼされ、ここまでが限界です。
東南隅櫓付近から見る、唐門と築地です。唐門両脇にある南側の築地(左)より、東側の築地(右)は土台石垣の分だけ高くなっています。唐門右側の築地には、埋門があります。
高さが大きく異なる築地の接続部には段差を設けず、木材も屋根瓦もなめらかに接合しています。
寛永期の天皇行幸の前年に建てられた、重要文化財の「唐門」です。2013年に修理が完了し、ゴージャスさに磨きがかかっています。城郭内に現存する門でここまでド派手なのはおそらく他になく、二条城の大きな特徴のひとつです。唐門の向こうに、二の丸御殿の車寄がのぞいています。
金色の飾り金具に、極彩色の彫刻。豪華絢爛という言葉がピッタリすぎます。
下から見上げても、キンキラキンです。この門においては、装飾に手を抜くという概念が存在しません。
内側から見ます。屋根は切妻造の檜皮葺で、前後に唐破風が付きます。飾り金具には菊紋があしらわれていますが、修理の際に菊紋を外すと葵紋が彫刻されていた金具が見つかったそうです。
唐門と二の丸御殿の間には玄関前庭があり、非常に広い空間となっています。
唐門の正面に、御殿の玄関である「車寄」があります。
右が車寄、左が車寄の接続する二の丸御殿最大の建物「遠侍」です。いずれの屋根にも、菊紋が見えます。
遠侍南側の屋根は、2018年の台風により飾り金具の一部が脱落しています。左端、金具が取れ黒ずんだ破風板が露出している部分をよく見ると、葵紋がうっすら浮き出ています。
遠侍の東側は、団体入口となっています。
東側の屋根瓦には、葵紋が残っています。
車寄は、唐破風屋根に金色の飾り金具に手の込んだ彫刻と、唐門に負けないゴージャスさがあります。
鳳凰のような鳥がたくさんいる入口上部の彫刻は巨大で、インパクトがあります。
車寄から、二の丸御殿の中へ入ります……が、御殿内部は、撮影禁止です。
二の丸庭園へ向かいます。
二の丸御殿玄関前庭の北西にある、京都所司代の下屋敷で使われていた釣鐘です。
釣鐘の竜頭を間近で。右の金具で、吊り下げていたのでしょうか。
釣鐘の左に、二の丸庭園へ通じる塀重門があります。門の両脇には長押塀が延び、玄関前庭と庭園を区画しています。
塀重門の基部には礎石が据えられています。玄関前庭側には、長押塀に沿って排水溝があります。奥に、築地が見えています。
長押塀の庭園側には、控柱がずらりと並んでいます。長押部分には、釘隠しが見えます。
園路を歩きます。笠のような立派な松です。
「二條城二之丸庭園」の碑です。二の丸庭園は、特別名勝に指定されています。
御殿建物を見ます。右から「遠侍」「式台」「大広間」です。大広間の屋根飾り金具も、台風被害により脱落しています。
飾り金具は菊紋ですが、屋根瓦は葵紋です。
大広間の左奥に見えるのは「黒書院」です。
庭園には一部、石垣が積まれています。
庭園の南側には、寛永期に「行幸御殿」が建てられ、廊下で本丸とつながっていました。
縁側の階段は柵で囲われ、ここから御殿には入れません。右手前が大広間、左奥が黒書院で、その間にある建物が「蘇鉄の間」です。大広間と黒書院には、大きな戸袋が見えます。階段の手前には、雨落溝があります。
訪問時には庭園に興味が持てず、御殿建物ばかり見ていました。
黒書院をじっくり見ます。屋根瓦には、葵紋。
床下は通気のためか、格子になっています。
縁側の隅に、歴史を感じます。
黒書院の南から振り返り、庭園と大広間を見ます。大広間の左が、蘇鉄の間です。
現存御殿と庭園を一体的に鑑賞できる城郭は、二条城だけです。
黒書院を、西から見ます。こちらの飾り金具は、脱落していません。
黒書院と白書院の間には、長押塀が西へ延びています。白書院側に控柱がありますが、黒書院側にも支えの木材があります。
将軍のプライベートルーム(居室・寝室)とされる「白書院」です。
白書院の北に突き出た部分は厠(トイレ)でしょうか。
白書院の屋根瓦にも、葵紋。
白書院の西から、二の丸庭園を出ます。
本丸東虎口の脇にある案内図です。国宝・重要文化財・特別名勝が色分けされています。東を下にすると、凸型の縄張りがよく分かります。寛永期拡張部の中央には、内堀に囲まれた本丸があります。
案内図から北を見ます。内堀の外側には土塁が築かれ、土塁の北端は土塀に接続し、土塀の右に門があります。門の右、二の丸御殿側と通路は建仁寺垣により区画されています。
重要文化財の「鳴子門」です。城郭での採用例は珍しい、四脚門形式の門です。台風で門扉が破損したらしく、左の門扉が外されています。
鳴子門を外側から見ます。左側に、脇戸があります。
鳴子門脇の土塀に接続する二の丸御殿北側の長押塀も台風により倒壊したらしく、フェンス等で囲われています。
再び鳴子門をくぐり、内堀外側土塁に沿って今度は南へ歩くと、土塁の南端に長屋門形式の門が接続しています。
重要文化財の「桃山門」です。左に脇戸があり、門両脇は番所となっています。寛永行幸時の絵図には行幸御殿に接続する別の建物がこの場所に描かれており、その建物が改造されて現在見られる桃山門になった、と考えられているようです。
外側正面から、桃山門を見ます。門の奥には鳴子門が見え、位置関係が分かります。
桃山門の脇から、内堀と本丸石垣を見ます。東面の櫓門より南は直線ですが、南面の東端櫓台部分は内堀へ張り出し、南面の西端部分にある天守台も大きく内堀へ張り出しています。
再び桃山門をくぐります。正面奥に鳴子門、左には本丸櫓門が見えます。
寛永期には黒書院の西に「溜蔵」が、その西に「二階廊下」が建っており、溜蔵と二階廊下は接続していました。二階廊下は、本丸櫓門の二階部分に接続していました。また溜蔵の南面は、行幸御殿から延びる廊下と接続していました。これにより行幸の際、天皇は行幸御殿から溜蔵を経由して二階廊下を通り、地上を歩くことなく本丸の天守まで登られたそうです。天皇のためだけに用意された天守へのスペシャル通路! 考えただけでもワクワクします。
行幸御殿も橋上部分の二階廊下も江戸中期までには撤去されますが、溜蔵と橋手前までの二階廊下は昭和初期まで残り、解体後も部材の多くは土蔵で保管されているそうです。これは、復元ワンチャン……?
本丸へ向かいます。
本丸櫓門の説明板と土塁の間に、何やら古そうな碑が立っています。「?橋車引通????」……なるほど、さっぱり分かりません。
本丸唯一の現存建造物である、重要文化財の「本丸櫓門」です。寛永期に建てられ、天明年間の大火でも焼失せず残りました。内堀東側に突き出た石垣上に建っています。櫓門の内側に接続する土塀には「隠し狭間」があり、外からは見えません。
本丸櫓門の右奥には、素屋根に覆われた本丸御殿が見えます。
東面二階部分に窓がなくやけにのっぺりしているのは、ここに二階廊下が接続していたからなんですね。
橋上から、南を見ます。奥に、桃山門が見えます。右の本丸石垣上には多門があり、東南隅には二重櫓が建っていました。
北を見ます。右奥に、鳴子門が見えます。左の本丸石垣上には多門があり、東北隅には二重櫓が建っていました。
門扉周辺の柱や梁は、隙間なく銅板で覆われています。
櫓門を越えると、本丸です。
門扉にもびっしり銅板が張られ、北側の扉には潜戸があります。
櫓門内側の南には二階櫓への階段がありますが、上ることはできず、階段の先も板で塞がれています。
写真手前左右、櫓門の内側にある本丸外周石垣は櫓門二階部分より高く、ここで櫓門から延びる二階廊下と本丸外周を囲う多門が立体交差していたのでしょうか。傷みが激しいのか、石垣はネットで覆われています。
櫓門を越え直進すると、正面に石垣の壁がある枡形状のエリアに出ます。櫓門から頭上を越え石垣壁の上を通り奥の本丸御殿まで、二階廊下が続いていたのでしょうか。
枡形エリアの南には、幅の狭い石段があります。二階廊下の南側から本丸南側へ通じる裏口的な通路でしょうか。
枡形エリアの北には、北・西の二方向へ幅の広い雁木が設けられています。西(左)の雁木を上った先に、かつては本丸御殿の玄関があったのでしょうか。
北側雁木の東にある、本丸外周石垣です。隅部などネットで覆われている側に、傷みが見られます。
本丸外周石垣の上へ通じる雁木は、立入禁止です。
北側雁木上から、枡形エリアを見ます。建物がなくなった今も、複雑な虎口です。
枡形エリア南側の狭い石段は、前方に本丸外周石垣への雁木があるため、途中で90度向きを変えています。
ここで二階廊下と本丸多門が立体交差していたのかも……と想像すると、ワクワクが止まりません。
東虎口を越え、本丸内を観覧します。
寛永期に建てられた本丸御殿は天明年間の大火で焼失し、幕末には将軍・徳川慶喜公により仮御殿が建てられたがそれも撤去されています。現在本丸に建つのは、明治期に京都御所から桂宮御殿の主要部が移築されたものであり、江戸期の二条城とは直接関係のない建物です。
その元・桂宮御殿である本丸御殿は保存修理工事中で、すっぽり素屋根に覆われています。
本丸庭園も、桂宮御殿移築後に造園されたもので、江戸期の本丸御殿とは無関係です。
庭園の向こうに、南側外周石垣の内側に設けられた長大な雁木が見えます。
説明によると、二条城に新築の天守は存在しなかったようです。
まず築城時の天守は、大和郡山城→二条城→淀城と移されています。
そして寛永期の天守は、伏見城→二条城と移され、寛延年間に焼失。
うーん、ややこしい。
本丸南西にある天守台への石段です。加工された石材を隙間なく積んだ切込接の手法が用いられています。
天守台へ上り、眺望を楽しみます。
北東です。修理中の本丸御殿が見えます。
二条城天守は天皇が登った唯一の天守であり、後水尾天皇が天守に登った唯一の天皇だそうです。寛永行幸時には、これよりずっと高い目線から、姿の異なる本丸御殿を見られたのでしょうね。
南東です。天守台に合わせて内堀石垣がクランクしている所、その左に南中仕切門の石垣、左奥に桃山門が見えます。天守台の天端隅石には、ほぞ穴があります。
南西です。現存の重要文化財「西南土蔵」が見えます。
北西です。外枡形の本丸西虎口が見えます。
天守台の石段両脇は、整った切込接です。
表面がボロボロになっているのは、天守焼失時の焼損でしょうか。
天守台から北へ延びる西側外周石垣と長大な雁木です。この上に建っていた多門から、天皇は天守へ登られたのでしょうか。
雁木に挟まれた、北西隅の櫓台です。ここには三重櫓が建っていました。
西虎口から、本丸を出ます。
西虎口は外枡形ですが、虎口の内側にも石垣の壁があり、枡形状の空間を形成しています。「連続枡形」と呼べるような、厳重な虎口です。
外枡形の内門跡です。石垣の間に門があり、上には本丸外周を囲う多門が石垣を跨ぐように連なっていたと考えられます。
左手前は外枡形の北石垣内側に設けられた雁木です。その奥が本丸北西隅の三重櫓台で、西側が張り出しています。
正面、外枡形の南石垣にも雁木があります。右は外枡形の外門跡です。奥に、天守台が見えます。
西虎口の木橋上から、外枡形を見ます。外門と内門が食い違っており、直進できない構造なのが分かります。
左を向くと、内堀の北西隅。三重櫓台が見えます。
右を向くと、内堀の南西隅。天守台が見えます。
西虎口を出て、二の丸を歩きます。
西虎口から西へ歩いてトイレの左奥に信長公時代の二条城石垣が移築され、ひっそりと展示されています。
天守台から内堀を挟んで南側、南中仕切門の西側にある方形の石組は、井戸でしょうか。
重要文化財の「南中仕切門」です。内堀南側中央付近にあり、二の丸を東西に区切っています。雨が激しくなってきました……。
門扉も柱も鉄板張り。西側の門扉には、潜戸があります。
外から見ると屋根が二重ですが、当時は上の屋根と同じ高さで石垣上に塀が連なっていたのではないでしょうか。西門と同様、塀の下に門がある埋門となっています。
ここから内堀を半周し、北へ向かいます。
重要文化財の「北中仕切門」です。内堀北側中央付近にあり、二の丸を東西に区切っています。建築時期・規模とも南中仕切門と同じで、両者は対になっています。背面(内側)の屋根だけが延びる特異な構造です。
仕切門の現存例自体が珍しいと思うのですが、対となる仕切門が両方現存しているのはとても貴重ではないでしょうか。
鉄板張りや片側に潜戸がある仕様も、南中仕切門と共通です。
外側からの外観も、南中仕切門とほぼ同じです。
北中仕切門の東側石垣の北には、二重櫓が建っていました。
北中仕切門の西側石垣です。上部には、塀が建っていたと思われます。
外堀北側の散策路で見た説明によると、本丸北面東側のこのあたりには「□」の刻印が多く見られるそうなのですが……刻印……うーん、分からん。
北中仕切門の東には、旧角倉了以屋敷から移築された「香雲亭」があります。江戸期の二条城とは無関係の建物です。
清流園は、香雲亭などがある二の丸北側に、昭和期に整備された庭園です。江戸期にはこのあたりに、「二条在番東組番衆小屋」があったそうです。
北大手門へ通じる道は立入禁止。城内では、この距離からしか見られません。
江戸期には北大手門の南に東大手門と同規模の番所が建っていたようなので、この位置からは番所に遮られ北大手門がよく見えなかったと思われます。
北大手門の右に見える蔵風の建物は、ポンプ室だそうです。
寛永期にはこのあたりに、L字型の土蔵が建っていたそうです。ポンプ室まで外観を蔵風にするとは……修景へのこだわりを感じます。
東大手門前に建つ「史蹟 舊二條離宮 二條城」の碑です。離宮として使用されたからこそ、多くの建物が取り壊されずに残ったという側面も、あるかもしれません。
天皇行幸に向けた寛永期の大改修でその姿を大きく変えた二条城。その歴史と変遷を念頭に置いて観覧すると、より一層楽しめます。
それにしても、二条城ではなかなか天気に恵まれませんね。次こそは晴れた日に……!
御城印(入城記念符)は家紋が金色の令和元年限定・御即位記念版と従来版の2種を購入。いずれも葵の御紋があしらわれ、ゴージャスです。
素敵なお城でした。ありがとう。