お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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17-3.大坂城

大坂城に行ってきました。

日本100名城(No.54)に選ばれた、大阪府大阪市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

府警本部の場所から、豊臣期大坂城の堀が見つかったそうです。

府警本部から道路を挟んですぐ南に、歴史博物館があります。

歴史博物館は展望スポットでもあり、南東には難波宮跡がよく見えます。

そして北東にはこのとおり、大坂城が一望できるんです。これは……素晴らしい!

大阪市の中心部にこれだけの巨大城郭が残っていることに、改めて驚かされます。

天守は再建ですが、左の千貫櫓と大手門、右の六番櫓は、現存建造物です。

 

歴史博物館を下り、お城へ向かいます。

西を大手口、東を玉造口の土橋で区切られた、南外堀です。ここは大手口の南、堀の西端付近です。

二の丸南辺石垣と、向かい合う南外堀外側石垣の連続するいくつもの折れが実に美しく、いつまでも眺めていられます。大坂城で最もたくさんの石垣隅部が一度に見られるポイントかもしれません。

幕末までは一番~七番まで七棟の二重櫓が二の丸南側にずらりと並んでいましたが、今はこちらの六番櫓と、ここからは見えない一番櫓だけが残ります。

二の丸南西隅、失われた七番櫓跡の北には、大手門と千貫櫓が現存しています。再建天守の頭も、見えています。

高麗門と櫓門が設けられ、塀と多聞櫓により囲まれた大手門の枡形虎口です。高麗門手前の土橋には、千貫櫓が横矢を掛けており、守りが厳重です。

城郭建物のみの写真が欲しいところですが……大坂城においてビルの写り込みを避けるのは、難しいですね。

大手口の土橋から、千貫櫓と櫓門を見ます。ビルが木に隠れ、一見すると城郭建物だけの写真で、良い感じです。

千貫櫓を、じっくり観察します。

「千貫文の銭を出しても奪いたい櫓」とされる大坂本願寺の櫓名称が豊臣期大坂城、徳川期大坂城にも受け継がれ、今も現存しているのが、こちらの千貫櫓です。乾櫓と並び城内最古の建物で、西面の唐破風が優美な印象を与えています。

堀に面した西面と南面には石落としを備えた出窓があります。一階、二階ともに四角い狭間が多数あり、狭間には蓋が付いているのが見えます。

大手口に横矢を掛ける、重要な位置にある櫓です。

 

大手門へ向かいます。

大手口枡形の外門である大手門は巨大な高麗門で、控柱上の屋根もビッグです。

こちらが一見不可能に見える、控柱の継手です。職人のこだわりが垣間見えてゾクゾクします。

大手門脇の石垣天端には、大坂城の大きな特徴のひとつである銃眼を備えた「笠石」が並び、その上に丸い狭間を備えた塀が建っています。雁木には、塀の控柱が建つスペースが確保されています。

礎石の残る市多聞跡に築かれた明治期の塀は控柱が簡略化されており、右奥に見える控柱を備えた現存塀より左側に市多聞があったことが分かります。銃眼笠石は一部、焼損しているように見えます。

大坂城の枡形虎口には超巨大な鏡石がふんだんに使用されており、大手口枡形にもとんでもないサイズの鏡石が幕府の威容を誇示しています。鏡石の天端には笠石銃眼が並び、枡形に侵入した敵に備えています。

大手門(高麗門)を越え枡形に入った敵に立ちはだかる、大手口枡形の内門である超巨大な櫓門です。創建は寛永期ですが、落雷で焼失し幕末に再建されているため、現存建造物の中では最も新しいようです。

門上部には、敵を真上から攻撃する「槍落とし」を備えています。

門内側から見て右側には、脇戸が見えます。

反対側には脇戸はなく床が設けられ、兵が待機できるようなスペースがあります。

 

大手門を越えると、二の丸です。

明治以降の陸軍施設の門柱・塀が残る、西大番頭小屋跡です。大阪城公園城内詰所となっている模様です。二の丸南側一帯は、将軍直属部隊「大番」の小屋が置かれていました。

西大番頭小屋跡の南東に建つ現存櫓のひとつ、六番櫓です。櫓の巨大さは、左端の車と比べれば伝わるかと思います。二階の漆喰は、白く塗り直される日が来るのでしょうか。

六番櫓から、二の丸南辺石垣に沿って東へ歩きます。

六番櫓東の石垣折れ部分……と思われます。ここには櫓はありませんでした。

いくつも雁木が並び、傷んでいる箇所もあります。

五番櫓台です。上方が焼損し、北東隅付近は築石が欠損して裏込めが見えています。

四番櫓台です。築石の大半が焼損し、丸みを帯びています。

三番櫓台です。焼損と、築石の欠損(崩落?)が見られます。北面と東面に雁木が隣接しています。

二番櫓台です。五番~三番と比較すると、原形をとどめています。北面と西面に雁木が隣接しています。

築石の焼損は隅部に顕著です。二番櫓は、昭和の空襲で失われました。

二番櫓台に上ると、礎石らしき石がいくつか見えます。

銃眼笠石に、ほぞ穴が見えます。

二番櫓台の北にあるのが、焼失を免れた現存櫓のひとつ、一番櫓です。右には、玉造口の長い土橋が見えています。

一番櫓には四角い蓋付き狭間と、基部には笠石銃眼もあります。

鯱直下の鬼瓦には葵の御紋が……ちょっと見えにくいですね。

一番櫓は、玉造口に横矢を掛ける位置にあります。

破風の鬼瓦に見えるのは「葵の御紋」です。徳川将軍家の家紋であり、江戸幕府のシンボルマークでもある「三つ葉葵」が、この城の主を示しています。

一番櫓の北にある雁木は西へ折れ、長く続いています。雁木上には笠石銃眼が並び、当時はこの上に建っていたであろう塀の向こう、玉造口を越えて迫る敵はここから狙い撃ちです。雁木の折れ上部付近の笠石は交換・修理したのか、綺麗に見えます。

長い雁木の西端にはこれまた近年補修されたような石垣があります。東仕切門跡です。本来は東仕切門南から西へ石垣が延び、玉造口から本丸へ行くにはまず180度ターンして東仕切門を越え、再び180度ターンしないといけない超食い違い虎口でしたが、門南から西へ延びる石垣は撤去され、堀沿いに本丸へまっすぐ行けてしまいます。

東大番衆小屋跡に建つ、豊臣秀吉公などを祀る豊国神社です。「豊」の字が桐紋っぽく見えるのは、意図的でしょうか。

拝殿の屋根には、豊臣家のシンボル「桐紋」が見えます。

西側鳥居の前に建つ、秀吉公像です。自らの城は完全に埋められ徳川の城と化した大坂城に、秀吉公は何を思うのでしょう。

 

本丸へ向かいます。

幕末に焼失し明治期に再建された本丸の正門、桜門です。門越しに再建天守が見えていますが、正面石垣上には多聞櫓が建っていたので、江戸期の天守が健在だった頃には見られなかった光景かもしれません。

桜門を越えて正面、枡形北側石垣にある城内最大の石、蛸石です。本丸正門に配置されたマックスサイズの巨石、放たれる幕府の威容もマックスです。割るのに苦労したのか、左側に多くの矢穴が見られます。かつてはこの上に多聞櫓が建ち、蛸石の上部にも銃眼が並んでいるようです。

蛸石の右、北側櫓門石垣の南西隅部にはひとつの巨大な石が用いられ、非常にインパクトがあります。石の傷みが、大坂城の歴史を今に伝えます。

南側の櫓門石垣は大半が修理・交換されたのか、隙間のない切り込み接ぎで積まれた築石は表面仕上げも美しく、しかしながら右下の築石だけは当時のままなのか、傷みの激しさがこれまでの災禍を物語っています。

幕末に焼失した本丸御殿跡には、明治期に和歌山城二の丸御殿の一部が移築され紀州御殿と呼ばれていましたが、こちらも戦後間もなく焼失しています。

説明板の背後に「明治天皇駐蹕之所」の碑があります。紀州御殿は、天皇の御在所として使用されていたそうです。

碑には大「阪」城址とあります。

 

天守へ向かいます。

チケット売り場の改札を過ぎ階段を登ると、眼前にそびえる巨大な天守台。天端には笠石銃眼が並び、天守一階には石落としや狭間が並んでいます。

江戸初期から残る、井戸屋形です。小天守台上に建っていますが、天守と同年代に築かれたということは、そもそもここに小天守は築かれなかったのでしょうか。

天守台から、天守を見上げます。巨大さに圧倒されます。

 

天守を出ます。

桜門を出て、東を見ます。内堀は、南側と西側の南半分が空堀となっています。このあたりには戦時中に防空壕が掘られたそうですが、写真右奥、二の丸側の内堀石垣基部に何やら開口部が見えるような……。

西を見ます。左奥に南仕切門の石垣が、本丸石垣の左側には千貫櫓の屋根が見えます。

内堀南東隅付近です。空堀と水堀の境界が見え、境界手前の空堀側には石組遺構がありますが、用途は不明だそうです。水堀の東、二の丸南側から市正曲輪にかけて雁木坂西面の石垣が見え、高低差があるため石垣が坂に沿って斜めに築かれているのが分かります。

本丸東側、一番手前の隅部には櫓がなく、ひとつ向こうの隅部には「東南隅櫓」が建っていました。左端に写るのは、旧第四師団司令部庁舎です。

東仕切門付近は、本丸石垣の連続する折れを堪能できるポイントです。

多聞櫓で連結された本丸外周の三重櫓はなんと、全部で十一棟! つくづく破格の規模です。

古写真に遺る、本丸東側三重櫓の堂々たる姿です。左から馬印櫓、月見櫓、糒櫓です。

同じアングルで撮影すると、築石の形状が同じで、やはりここに三重櫓が並んでいたのだと、感慨深くなります。

 

市正曲輪へ向かいます。

雁木坂の上側にある石積みは、雁木坂門の石垣の名残でしょうか。

市正曲輪は昭和期以降に、梅林となっています。

市正曲輪の南辺には石垣が連なり、南東隅には隠し曲輪へ通じる埋門がありました。

埋門跡にはフェンスが設けられ、隠し曲輪へ入ることはできません。中央奥の石垣上には、艮櫓が建っていました。

石垣の高さから、市正曲輪と二の丸南側との高低差が分かります。

市正曲輪の東側張出部から、南を見ます。ここには櫓が建っていなかったようです。正面奥に見える石垣は、隠し曲輪です。

梅林の向こうに、天守が見えます。

東外堀に沿って北へ歩くと、青屋口の出枡形石垣が見えてきます。出枡形周辺の外堀は北東へ張り出し、三の丸側との間には「算盤橋」が架かっていたそうですが、後世に堀が埋められています。

さらに北へ歩くと、青屋門があります。こちらの漆喰も、塗り直してほしいものですが……。

葵の御紋も、傷んだ門の惨状を悲しんでいるように見えます。

青屋門の脇戸です。

幕末の大火による被災後に改築、空襲で大破後に残材を用いて再建されたという青屋門。江戸期の建材はどれほど残存し、使用されているのでしょうか。

 

締めは、天守です。

銅板瓦が葺かれた徳川風の建物には随所に金の飾り金具があしらわれ、最上階のみ豊臣風の意匠というハイブリッド復興天守。短命だった江戸期天守の倍以上の年月を経て、大阪のシンボルとなっています。

 

過去の訪問時に訪れていないエリアを歩くことができ、新たな魅力に触れることができました。が、なにしろ広大な大坂城……未訪エリアは多く、まだまだ楽しませてくれそうです。

 

訪問時は御城印的なものは販売しておらず、天守内で朱印タイプのスタンプを押すことができました。「大阪城天守閣之印」……と書いてあるのでしょうか?

 

素敵なお城でした。ありがとう。