お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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85.鳥取城(その2)

その1の続きです)

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

二ノ丸南東の虎口付近では、大手道が大きく左へ曲がり枡形状の空間を形成し、その右には、坂道を登るように斜めに築かれた石垣が連なります。

この石垣は内側に雁木が設けられ、「登石垣」ならぬ「登雁木」と呼ばれます。

ご覧の斜めっぷり。これ、甲冑姿で上るにはバランス崩して危険な気が……。もしかして装飾的な意味合いが強いのでしょうか。これまで訪れたお城では見たことがないような、とても印象的な石垣です。

登雁木付近から、大手道を振り返ります。枡形の手前に、鉄御門が建っていました。

複雑な構成の二ノ丸南側石垣です。最も高い所には表御門の続櫓が、一段下がった左側には菱櫓がありました。

登雁木を過ぎ左折した先にはもうひとつ枡形状のエリアがあり、連続枡形のような構造となっています。立入禁止となっていますが、ここを越え、風呂屋御門(写真左上付近)を越えた先が、天球丸です。

手摺に囲われたこちらは、井戸跡でしょうか。

西を向くと、二ノ丸の正面入口である表御門跡が見えます。正面の道を塞ぐように櫓門が建ち、左右の石垣上には続櫓が櫓門に接続して建っていたようです。

登雁木を過ぎ枡形を越え180度ターンした先が二ノ丸で、もうひとつ枡形を越えた先が天球丸という、この辺りは虎口が集中するジャンクションとなっています。

 

表御門跡から、二ノ丸へ入ります。

よく整った、表御門南側石垣です。

表御門北側石垣です。標柱左の方形石材は、門礎石でしょうか。

表御門南側石垣は西へ延び、菱櫓台と一体になっています。左には、矢穴を穿ったもののそこで割るのを諦めた「断念石(※勝手に付けた呼称であり、正式な用語ではありません)」が見えます。

石垣の前には石材が並んでいますが、綺麗に積み直された石垣にはこれ以上石が入る余地はないように見えますが……はて。

菱形平面の櫓台上に建っていた二重櫓、菱櫓跡です。

表御門南側石垣と菱櫓台の連結部分には雁木が設けられ、ここから菱櫓や表御門の続櫓へ入っていたと考えられます。ここは石垣に正対する雁木です。

上から見た菱櫓台は、写真だと分かりにくいですが、菱形平面をしています。

奥に見える標柱が走櫓跡です。菱櫓より低い場所に建っていたことが分かります。

菱櫓台からは、奥の擬宝珠橋・中ノ御門跡から太鼓御門跡の先に続く舗装道まで良く見え、菱櫓は大手道の監視に重要な役割を果たしていたと考えられます。

鉄御門跡あたりまで、大手道を駆け上る敵兵は、常に菱櫓の射程に入っていたでしょう。ここから見ても登雁木は目を引きますが、天球丸にそびえる二本の巨木も非常にインパクトがありますね。石垣と比べると、その大きさがよく分かります。

菱櫓台の鋭角部分を見ていますが……うーん、ちょっと分かりにくいですね。

鈍角部分は分かりやすいです。

菱櫓台から連結部分を経て、続櫓が載っていた表御門南側石垣は高くなっており、左側に雁木が設けられています。

正面の石垣には多くの矢穴が見えます。右には「石垣修復工事見学展望所」という案内が。

表御門南側石垣の左にある雁木を上ると、その先も石列で区画された細い通路が続いています。おそらく通路の右には続櫓が建ち、細い通路の突き当たりに、櫓への出入口が設けられていたと考えられます。

表御門南側石垣の東端からは、連続枡形虎口状になっている大手道の構造がよく分かります。登雁木が接続する石垣の中央基部には暗渠が通され、排水もよく考慮されています。左上が、風呂屋御門跡です。

……ところで、ここから見える範囲の石垣は積み直しが完了しているようですが、「石垣修復工事見学展望所」の案内は過去のものなのでしょうか。

表御門南側石垣から、北側石垣を見ます。表御門の南側では続櫓が西へ延び、北側では東へ延び、上から見ると鍵の手状の櫓だったようです。

連結部分の雁木より、表御門南側石垣を下ります。右手前の石にも、割るのを断念した浅い矢穴が見えます。

表御門北側石垣の北側には、太鼓御門南側石垣と同様の側面に付加するタイプの雁木があります。

雁木を上ると、北側には積み直しを待つと思われる番号の振られた石垣石材がずらり。中央奥の石垣上に、山上ノ丸への道があります。

走櫓跡です。平屋で長屋状の多聞櫓だったことが、古写真から分かります。二ノ丸西辺石垣に沿って建っていた走櫓の北側には三階櫓が建っており、奥の街灯の向こうに見えるのが、三階櫓台です。

東側から、三階櫓台を見ます。右側基部に築かれたカーブを描く石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

昭和の修復工事で取り替えられたのか、江戸期再建時の北東天端角石が櫓台の前に展示されており、銘文が刻まれているのが見えます。

山上ノ丸の天守焼失後、天守代用であり鳥取城のシンボルだった三階櫓跡です。三重三階の城郭建物としては日本最大級を誇り、その高さは約18m、現存天守では高知城犬山城とほぼ同規模だそうです。惜しくも明治期に解体されましたが、復元計画もあるようで、今後に期待、です。

鳥取地震により大きな損傷を受けた石垣の中で最初に始まった三階櫓台の修復は、江戸時代の工法により全て人力で行われたそうです。修復へのこだわりと熱量を感じますね。

三階櫓台は、一部をくり抜くように石段が設けられています。踊り場のような広くなっている部分に、門があったのでしょうか。

三階櫓台からの眺望、南西です。建物があった頃はより高い場所から、城下が一望できたことでしょう。

南東です。走櫓跡との間には、石垣に一箇所折れがあります。

北西です。裏御門跡の礎石が見えます。

藩主御殿と天守代用の櫓があり、実質的な本丸だった二ノ丸。幕末に御殿を再建し曲輪の拡張まで行ったのは、城の中枢・権威の象徴としての二ノ丸を甦らせたかったのかもしれませんね。

江戸末期に粗略な門から櫓門に改修されたという、裏御門跡です。三階櫓台の真横、幅の広い石段の踊り場に、方形に加工された礎石がよく残っています。左側、三階櫓台手前の石垣には、石樋が見えます。

石段や左の石垣は、櫓門改修時に変更・拡張されたのでしょうか。

裏御門北側石垣です。積み直されていないのか、隅部などがやや不安定に見えます。

裏御門跡より、三階櫓台を見ます。基部の低い石垣は、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

「お左近の手水鉢」です。確かに、丸い穴の開いた手水鉢のような石材が見えます。

三階櫓台は、下から見上げると天守台のごとき威容です。

裏御門跡から、二ノ丸へ戻ります。

裏御門跡をよく見ると、石段の前に排水路が設けられています。

二ノ丸の背後にある石切場です。左の岩には、大きな矢穴が見えます。石切場と二ノ丸の間には、排水溝が設けられています。

尾根を切り崩して二ノ丸を普請し、得られた石材で石垣を築くという無駄のないプロセス。久松山は花崗岩から成るので、山を切り出した鳥取城の石垣も花崗岩ということになります。

鳥取城の「ヌシ」は、狐。石切場を東へ歩くと、赤い鳥居と小さな祠があります。この鳥居は、中坂の中腹にある稲荷神社の鳥居のようです。

表御門跡の東にある枡形虎口が立入禁止のため、現状は祠の脇にあるこちらの階段が山下ノ丸から山上ノ丸へ通じる唯一のルートとなっています。池田氏家紋の揚羽蝶が入った幕をくぐり、階段を上ります。

山上ノ丸への登城道下段の石垣です。三段構成の石垣の下には岩盤が露出しており、石垣と岩盤のコラボレーションです。木が伐採され、整備されています。

上ってきた階段を振り返ります。

表御門跡方向を見ます。表御門北側石垣の東(写真左奥)にある石垣は、かなりの高さです。

天球丸が近付いてきます。表御門跡東側の枡形虎口が通れないので、二ノ丸から天球丸へ行くにも、先ほどの鳥居をくぐり階段を上るこのルートしかありません。

 

山上ノ丸へ行く前に、天球丸へ向かいます。

表御門跡東側の枡形虎口を、天球丸側から見ます。写真右方から虎口に向かって延びる石垣の先端左側あたりに、風呂屋御門下門が建っていました。

風呂屋御門下門を越え右折すると、またもや枡形虎口! 登雁木の虎口を合わせると三連続の枡形虎口となっており、とんでもなく厳重です。この階段の踊り場あたりに、道を塞ぐように風呂屋御門が建っていました。

風呂屋御門跡を越えた正面には、ひときわ立派な鏡石があります。過剰に厳重な連続枡形といい、もしかしたら当初は天球丸を実質的な本丸に据える予定だったのかも……?

鏡石の前で右折し坂を上り、枡形虎口を振り返ります。鏡石の左側に、排水溝の端が虎口へ注いでいるのが見えます。

虎口を抜け坂を上ると、天球丸です。右に、標柱が立っています。

天球丸から、表御門跡と連続枡形を見ます。手前の枡形にある水路が石垣にぶつかり暗渠となる箇所が見えます。

天球丸には池田長吉の姉・天球院の居館があったそうですが、山下ノ丸最高所というポジションといい、超厳重な虎口といい、本丸クラスの重要性を見込んで普請されたとしか思えないんですよね……。

天球丸にそびえる、二本の巨木です。樹齢等は不明ですが、あるいは築城当初からお城の変遷を見届けてきた生き証人かもしれません。

山上ノ丸登城道方向から、天球丸背後の斜面との間に石組水路が延び、水溜のように広くなっている部分もあります。

石組水路は、曲輪と背後の斜面を区切るように真っ直ぐ南東へ延びています。

水路は曲輪の東にある竪堀の方へ注いでいます。水路には木の板で橋渡しされ、その先には山道が続いているようにも見えます。

振り返り、曲輪の東辺を見ます。天球丸の東辺には、時代により異なる建物がありました。

江戸中期までは、城内最長とされる三階櫓が建っていました。これは二重の多聞櫓に望楼が載る非常に特異な形状です。三階櫓の焼失後、江戸末期に武具蔵が建てられ、発掘調査の結果、建物跡が重複して発見され、遺構の重なった様子が復元されています。

建物跡から、一段下の楯蔵跡を見ます。楯蔵跡下段の曲輪先端部も見えています。

天球丸から、巻石垣を見ます。巻石垣下段の復元水路の形状も、よく分かります。

それにしても……見事な球面!

角度を変えて、巻石垣が押さえている石垣の上から。天球丸石垣の高さが分かります。

のぞき込みます。楯蔵跡の曲輪や水路の様子もよく分かります。

角度を変えて。巻石垣、やっぱり何度でも撮りたくなります。

表御門方向を見ます。よく見ると、登雁木の石垣中央付近にも暗渠が設けられているようです。

 

山上ノ丸へ向かいます。

風呂屋御門下門跡の正面には、山上ノ丸へ通じる石段があります。

右側の石垣は天球丸の枡形虎口にも面しており、山上ノ丸へ向かう敵と天球丸へ向かう敵のいずれも石垣上から迎撃できます。矢穴が多く見られ、鑑賞するにも良い石垣です。

石段上から振り返ります。天球丸への石段と山上ノ丸への石段はいずれも、風呂屋御門下門の前から延びています。

右折すると、さらに石段が続きます。クマ出没注意。

石段は、当時のものでしょうか。

八幡宮跡の石段右側の石垣は隅部が丸くなっており、巻石垣の技術が用いられています。

土嚢や集められた石からすると、まだ発掘調査中、あるいは復元整備中でしょうか。絵図によると土嚢の左側が神池で、ここに神橋が架かっていたと思われます。

八幡宮跡からは、天球丸がよく見えます。

神池から延びる溝は、天球丸の方へ注いでいます。

八幡宮跡を過ぎるとすぐ、山頂登山口です。「本日の登山者」に名を連ねているのは何十回・何百回と登り続けた猛者たちなのでしょうか。

登山者への注意事項の背後には、八幡宮跡の石垣が見えます。

 

ここからは、比高差200m超の登山気分を味わっていただきます。

まずは一合目。小曲輪のような削平地です。

二合目。もうかなり、息が上がっています。転落注意。

三合目。岩盤の間に、石段が築かれています。

四合目。ゼェゼェ言っていますが、まだ半分にも至りません。

中坂稲荷神社に到着です。石垣が積まれ、お社には揚羽蝶の幕が見えます。

中坂稲荷からは城下が一望でき、かなり登ってきたのが分かります。

中坂稲荷の周囲にも石垣が積まれています。お城の曲輪としても、重要な役割を果たしていたのかもしれません。

中坂稲荷で五合目。ようやく半分です。

中坂稲荷の背後に、山道はなおも続きます。転落注意。

六合目。でっかい岩です。

石垣は、当時のものでしょうか。山を切り拓いて登山道を整備したことが分かります。

七合目。もうヘロヘロです。

八合目。石段が、何処までも続くように見えます。

……ん? これは、瓦片?

大量の瓦片が散乱しています。いつの時代のものでしょうか。

九合目、頂上は目前です。登山口からここまで、約20分です。

 

山上ノ丸に到着です。

石垣が見え、登山の疲れも吹っ飛びます。本丸南辺を構成する、二段の石垣です。

奥に見えるのが、二ノ丸石垣です。本丸と二ノ丸の間には石段が延び、石段の上には表門が建っていたようです。

史跡の説明と、山上ノ丸の案内図です。西から本丸・二ノ丸・三ノ丸が順に並び、本丸北西隅には天守が建っていました。本丸の南西には、出丸があります。

東坂道を歩くと太閤ヶ平にも行けるようですが、今回は未訪です。

二ノ丸南西からの眺めです。右が二ノ丸石垣、左が本丸石垣で、この間に石段を塞ぐように表門が建っていたと思われます。

山上ノ丸の石垣は積み直されていないのか、所々が防護ネットで覆われています。石垣の中に、瓦片が紛れています。

二ノ丸石垣は、石段に近い北西隅付近が大きく崩落しているように見えます。隅石には、矢穴があります。そして隅石にも瓦片が挟まっています。落ちていた瓦片を、誰かが勝手に挟んだだけでしょうか。

右側、本丸南東隅石垣の上には、着見櫓が建っていました。左奥には、出丸が見えます。

表門跡を越えて右手の二ノ丸には、海鼠壁風のコンクリート建物があります。

建物内には古めかしい机と椅子が並び、神棚もあります。よく見ると、多聞櫓の説明が奥の窓を塞ぐ板として使われています。

「山城番附」が立て掛けられています。横綱はもちろん、三十二万石の鳥取城。

二ノ丸の東に、三ノ丸があります。散策しようとしたらガサガサと物音が聞こえ、クマだったら危ないと思い、退却しました。

本丸虎口です。櫓門が建っていたようです。

石段の踊り場に、門があったと思われます。門両脇の石垣は、かなり崩壊しています。

本丸の説明です。着見櫓と多聞櫓をつなぐ走櫓というのが、櫓門を指すのでしょうか。

本丸に残る、車井戸です。

二ノ丸石垣が下方に見え、本丸との高低差が分かります。

素晴らしい景色! 木々の間からわずかに、山下ノ丸の内堀が見えています。

太閤ヶ平がある本陣山も見えます。

一辺約20m、城内最大の櫓台である天守台です。この右手に付櫓台があり、天守へは付櫓から出入りしたと考えられています。天守台には階段がなく、観光用に鉄製の階段が設けられています。

天守台には、大きな穴蔵があります。

西下方には、出丸の西側張出部(櫓台?)が見えます。

天守台からの眺望、西です。中央奥に湖山池が見えます。右奥は、日本海です。

北です。崩壊著しい隅部の向こうに、鳥取砂丘が見えます。

天守台、このあたりはまだ原形をとどめていますが……。

こちら側はほとんど崩壊しています。

本丸から出丸へ通じる石段です。石段の上には、門があったようです。ロープが張られ、出丸へ行くことはできません。

 

山下ノ丸に戻ります。

幕末(嘉永二年)に二ノ丸は西方へ拡張され、その石垣隅部に築かれた一重の隅櫓跡です。隅櫓は明治期の古写真にも写っており、建物基礎と思われる石組が見えます。

嘉永二年の二ノ丸拡張時に築かれた、登石垣です。隅櫓の東、二ノ丸北端にあり、斜面を登るように石垣が斜めに延びています。

「登り石垣」のあるお城はいくつかありますが、幕末期に築かれた「登石垣(※鳥取城は送り仮名『り』を省略)」の現存例としては、国内唯一のものです。鳥取城に登石垣があるとは知らず、大変驚きました。

絵図には塀が描かれ、当時は登石垣上に塀が建っていたと思われます。

登石垣の下端から、右膳ノ丸へ通じる階段が設けられています。階段自体は近年(明治期以降)に設置されたと思われますが、二ノ丸説明板にあった絵図にはこの位置の塀に埋門が描かれているようにも見えるんですよね……。江戸期からここに通路があったかどうかは、不明です。

階段から、隅櫓跡を見ます。石垣の高さで、下の右膳ノ丸との高低差が分かります。

階段を下りると水路を跨ぐ橋が架かり、橋を渡り左折すると、右膳ノ丸へまっすぐ階段が延びています。

階段途中から、二ノ丸北辺の高石垣を見ます。

二ノ丸石垣と階段の間を斜めに下る石組水路の下端には井戸のような方形の石組があり、水路はここから暗渠となっているようです。

 

階段を下りると、右膳ノ丸です。

二ノ丸高石垣の北西隅部です。

隅部の稜線が際立つよう、加工が施されています。さすが幕末の石垣。

この勾配! うーん、美しい。

拡張された二ノ丸石垣西辺の基部にある、町人・澤市場屋のお墓です。城内の、しかも実質的な本丸である二ノ丸付近に町人のお墓が残されているのは、非常に珍しいと思われます。

柵内をのぞいてみると、三基の五輪塔があります。

二ノ丸裏御門跡の北側石垣基部です。二ノ丸拡張以前はここが北端と考えられ、隅部の積み方に年代が遡るのを感じられます。

右膳ノ丸の南側から、西坂下御門へ通じる石段があります。石段の右が右膳ノ丸、左が二ノ丸三階櫓直下の腰曲輪です。

 

石段を下り、西坂下御門へ向かいます。

二ノ丸腰曲輪の石垣隅部、美しい稜線を描いています。

腰曲輪と右膳ノ丸の間にある石段の両脇には、排水溝が設けられています。

腰曲輪石垣基部の細い道を進むと腰曲輪からの下り石段と合流し、さらに直進すると大手道へ出ます。

二ノ丸腰曲輪石垣と、その上は三階櫓台です。腰曲輪石垣隅部の基部にある石積みは、崩落防止のはばき石垣でしょうか。

石段を下ると、右手に西坂下御門が見えてきます。

石段と排水溝は、西坂下御門に向かってカーブしています。

けっこうガタガタな右膳ノ丸の石垣南西隅部、下から三つめの石に刻まれた矢穴ではない方形の線刻が気になります。

右膳ノ丸の西辺石垣は積み直されていないのか、一部が防護ネットで覆われています。

右膳ノ丸脇から続く石段は一旦途切れて平坦な道となり、再び石段が現れ、その下にあるのが西坂下御門です。

西坂下御門は慶応三年に建てられた城内唯一の現存門でしたが、昭和五十年の突風で倒壊、後に復元されたものです。高麗門形式で、左側控柱の外側に脇戸が設けられています。

脇戸上部の「城門復旧記」を読むと、木材は新調、瓦も新調、金具は従来品を模造……なるほど、現存門のパーツは全く使用されていないのですね。部材は何処かに保管されていたりしないのでしょうか。

こちらの門扉には乳金物がありません。昭和期に復元された門は、傷みが進行中です。

実際に門があるのと無いのとでは、当時のお城の姿への理解度が大きく変わってきます。よくぞ復元してくれました。

西坂下御門のそばにある説明板には、突風で倒壊した中仕切門(=西坂下御門)の写真があります。

 

北ノ御門跡から、お城を出ます。

大手登城路の北にある、北ノ御門跡です。門の外、内堀に架かる橋は「宝珠橋」と呼ばれています。枡形虎口ではなく平入りの単門で、門両脇の石垣が残っています。

門北側石垣の内側には、石段が設けられています。米蔵などがあった北側の曲輪への出入口でしょうか。

門北側石垣は巨石を多用し、ほぼ切石積の立派な石垣です。

門南側石垣は北側と積み方の雰囲気が異なりますが、隅石に巨石を用い、ほぼ切石積な点は共通しています。

門南側石垣の南側は崩壊しており、東側は崩落防止のはばき石垣が斜めに築かれています。昔も今も、石垣を解体して積み直すのは大変だった、ということでしょうか。

門跡の外側に、標柱があります。

門北側石垣の外(西)には、「鳥取城跡 附 太閤ヶ平」の史跡碑が窮屈そうに建っています。この史跡碑、擬宝珠橋が復元された今となっては大手登城路側へ移設した方が良い気がしますが……。

史跡碑は木に隠れてほとんど見えません。左側の石垣は後世に付加されたもので、当時はもっと左(北)側まで内堀が広がっていたようです。

宝珠橋のすぐ北では狭められている内堀ですが、それより北側では当時の堀幅と思われる規模で現存し、曲輪の石垣も残っています。

宝珠橋から南側の内堀と、擬宝珠橋を見ます。

宝珠橋を渡った内堀の外側には、「鳥取城跡 久松公園」の碑があります。

内堀石垣の張出部と、仁風閣と、二ノ丸三階櫓台と、久松山です。

中世城郭を取り込んだ近世城郭・鳥取城。秀吉の陣跡・太閤ヶ平にも、いつか行ってみたいものです。

もう一度、擬宝珠橋を目に焼き付けます。

今後の復元整備が、楽しみです。

今回はほとんど散策していない、城下町の案内です。

城下町の惣堀である人工河川・袋川です。

 

多種多様な石垣が見られ、その変遷・修理の様子が分かる「城郭の博物館」鳥取城。大手登城路の復元整備を見守り、門が復元されたら必ずや再訪したいと思います。

 

仁風閣で購入した御城印には、池田氏家紋の「丸に揚羽蝶」と「角輪紋」があしらわれています。鳥が羽ばたくような「鳥」の字体が独特で、スタイリッシュです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで52城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。