お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

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85.鳥取城(その1)

鳥取城に行ってきました。

日本100名城(No.63)に選ばれた、鳥取県鳥取市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

異常巻きアンモナイトのような親柱(?)を備える、袋川に架かる若桜橋です。

城下町の惣堀として人工的に開削されたのが、袋川です。

城下から、山上ノ丸のある久松山(きゅうしょうざん)がよく見えます。

山上ノ丸に残る石垣も、見えています。

堀端から移築された、箕浦武家門です。

大きな格子窓と海鼠壁が特徴的な、長屋門です。

屋根瓦にあしらわれた矢羽は、箕浦家の家紋でしょうか。

内側から。

武家門が移築されたこの場所には藩校・尚徳館があり、武家門の真横に碑が建っているようですが、見逃しました……。

 

お城へ向かいます。

内堀の南端、橋の向こうに、銅像が建っています。

秀吉の山陰侵攻に対抗すべく鳥取城に送り込まれた、吉川経家公の像です。

徹底した兵糧攻めに飢える兵と民を救うため、経家公は城中で自刃したそうです。

こちらの碑も、経家公を讃える内容でしょうか。

久松山を背に、城将として采配を振るう、勇ましい像です。

像の手前には内堀から水路がつながっていますが、内堀は本来、水路の鉄柵あたりで右(東)へ折れていたようです。内堀の外側に連なる石垣は、当時のものでしょうか。

像の左側石垣が本来の内堀ラインなので、当時の石垣かもしれません。左奥の石垣は後世の改変と思われ、本来の内堀はさらに奥(東)へ延び、その先に南御門の枡形があったようです。

南御門の北、現在は高校のグラウンドとなっている三ノ丸下段西側エリアには「青木の馬場」があり、「大腰掛」が建っていました。よく見ると、右側の内堀を埋めた後世の石垣と、それより左の石垣とで積み方が違います。

石垣の張出部には「兵庫櫓」が建っていました。

兵庫櫓台もその左側の石垣も二段構成となっており、犬走りのようなスペースがあります。

 

大手登城路より、城内へ入ります。

大手登城路の復元整備が進行中です。古写真が残っているんですね。

角度を変えると擬宝珠橋の復元前・復元後が見られる、手の込んだ案内板です。

大手登城路のふたつの重要な門について、絵図・古写真・発掘調査写真と情報山盛りで説明されています。

擬宝珠橋の開放には制限があったようですが、訪問時は常時開放でした。

復元された擬宝珠橋です。背後には山下ノ丸の石垣群と、久松山が見えます。擬宝珠橋の右側には工事用に広い足場が設けられ、柵には城主の家紋が見えます。

堀底の橋脚遺構保護のため、ステンレス製水中梁の上に木造橋を復元するという、日本初の特殊工法が採用されています。

城郭の復元木造橋としては日本最長で、約37mあります。お城の中枢へ通じる大手登城路の入口にふさわしい、立派な橋です。

名前のとおり、橋には立派な擬宝珠が付いています。奥に見えるグラウンドが青木の馬場のあったエリアで、その背後の一段高い石垣上が三ノ丸です。

復元されたばかりで、橋も擬宝珠もぴかぴかです。

内堀の両岸に石垣が見えます。堀幅は、当時のままでしょうか。

橋の左側は、米蔵などがあったエリアです。右奥に「扇御殿化粧の間」の屋根が見え、その左奥には三階櫓の石垣が見えています。

犬走りのある二段構成の石垣が、奥の張出部まで続いています。

犬走りは橋の反対側、先ほど見た右奥の兵庫櫓台を囲うように続きます。橋の近くには、石組の排水路が見えます。

擬宝珠橋を渡るとすぐ、中ノ御門枡形があります。復元工事の最中で、枡形石垣は大半がシートで覆われています。

枡形東側の石垣は明治以降に撤去されていたので、丸ごと積み直しているようです。

振り返り、擬宝珠橋を見ます。

枡形の南西、櫓門右側の石垣です。大きな石材が用いられ、大手の風格が漂います。

積み直されたのか、非常に整っている印象です。

背後に回ると、隅部に巨石が多用され、迫力があります。

左側の階段、立入禁止にはなっていなかったので、ちょっと上ってみます。

石垣上から、枡形を見下ろします。少し上がるだけで、随分と見晴らしが良いものですね。中央奥に仁風閣と扇御殿化粧の間が、その奥には三階櫓台が見えます。

擬宝珠橋も、上から見ると全体の形状がよく分かります。

大手登城路と青木の馬場跡の間に、石が集められています。校舎が建つ三ノ丸跡の石垣は、西側ではよく残っているように見えます。

切石積石垣の向こうに、太鼓御門が建っていたようです。奥には、二の丸石垣の南西隅付近が見えています。

工事中の枡形東側石垣を、城内から見ます。右側に、マーキングされた石積みがシートからのぞいています。

 

大手登城路の北、山下ノ丸の西エリアを歩きます。

二ノ丸西側の曲輪は二段構成になっており、上段には扇御殿が、今いる下段には米蔵がありました。

米蔵エリアの半分ほどが復元工事のバックヤードになっており、フェンスには江戸期の城主・池田氏の家紋「丸に揚羽蝶」が掲げられています。

上段の石垣には排水口があり、石垣基部には水路が設けられています。

上段には、仁風閣がそびえています。

上段の石垣は、当時のものでしょうか。

広場になっている、米蔵跡です。

米蔵跡の西側にある、内堀石垣の張出部です。相当はらんでいるように見え、心配です。

張出部の北側隅は、整っています。

番所跡に建つ、海鼠壁の番所風(?)トイレです。右奥最上部の石垣は二ノ丸北西隅、隅櫓跡です。

県立博物館が建つ北ノ御門北側の曲輪には、城代屋敷・上御厩・米蔵などがありました。

扇御殿のあった上段曲輪の北西隅石垣は、下段と上段で積み方が異なります。後世の整備でしょうか。

 

扇御殿跡へ向かいます。

明治期に皇太子殿下の宿舎として、扇御殿跡に元藩主が建てたのが、仁風閣です。

仁風閣の裏には、江戸後期に造営された「宝隆院庭園」があります。

仁風閣の前から、右膳ノ丸方向を見ます。手前の石垣、傷みが激しいですね。傷んだ石垣隅部の向こうに、西坂下御門が建っています。

二ノ丸方向を見ます。手前の石垣は一部、シートで覆われています。右奥に、ひときわ高く築かれた三階櫓台がよく見えます。

仁風閣の中へ入ります。

館内は、一部を除き撮影可能でした。100名城スタンプは、こちらで押しました。

「甦る鳥取城」では、復元擬宝珠や発掘された土管、発掘調査写真や絵図などが展示されています。

一階から、宝隆院庭園を見ます。

仁風閣の内部はお城と直接関係が無いので割愛しますが、ひとつだけ。世界的にも珍しい、支柱のない螺旋階段です。

階段は両脇のささら桁のみで支えられ、確かに支柱はひとつもありません。これは……すごい!

二階から、宝隆院庭園を見ます。

仁風閣では御城印を販売しており、日付スタンプが用意されていました。これはありがたいですね。

仁風閣の東から、三階櫓台を見ます。明治期まで天守代用の三階櫓が建っていた、立派な石垣櫓台です。

仁風閣の南東には、二ノ丸方面へ通じる階段があります。

仁風閣の裏側は、開放的な造りです。

江戸期から現存する御殿庭園、宝隆院庭園です。

庭園の南西隅に位置する、扇御殿化粧の間です。近年に増改築があったそうですが、城内唯一の現存建造物です。

化粧の間は、茶室「宝扇庵」として一般に貸し出されています。

庭園の南側に設けられた裏門です。台形に整形された門両脇の切石積石垣は、江戸期のものでしょうか。

 

大手登城路に戻ります。

太鼓御門手前にある下乗場跡の南側です。フェンスの向こう、右の水溜まり付近に屋形付きの「車井戸」があったと思われます。

城内唯一の、白色花崗岩による切石積石垣です。この石垣があるため登城路手前から太鼓御門が見通せず、太鼓御門へはこの石垣を左に迂回して進むことになります。

切石積石垣を、北から見ます。若干のはらみが見られますが、隙間なく加工された切石積で、表面仕上げが施されています。一部石材には、矢穴が残っています。

切石積石垣横から、大手登城路を振り返ります。整備が進めば、この景色も大きく変わってゆくことでしょう。

太鼓御門石垣の説明板ですが、絵図は下乗場のものです。屋形付きの車井戸や、切石積石垣の前に駕篭が並ぶ下乗の様子が、絵図から分かります。

大手登城路で最初に出会う高石垣が、この太鼓御門石垣です。カーブミラーにしっかり映る撮影者は、僕です。

切石積石垣の左を抜け、太鼓御門石垣の右を進んだ先がようやく、太鼓御門跡です。

左右石垣の間、パイロンが立つあたりに、太鼓御門が建っていました。

振り返ると、左へ右へカーブしないと太鼓御門までたどり着けない登城路の様子がよく分かります。

太鼓御門南側石垣です。太鼓御門の櫓は北側石垣には載らず、南側石垣には右端いっぱいまで載っていたようです。

積み直されたのか、美しく整っています。

南側石垣の背後には、櫓へ入るためと思われる雁木が設けられています。石垣に正対せず、側面に付加するタイプの雁木です。

太鼓御門跡を越えて正面にある学校建物は、お城の景観に配慮してか、瓦屋根となっています。

藩政の中心、城主居館があった三ノ丸はまるっと高校敷地になっており、立ち入ることができません。

北側石垣上に、太鼓御門櫓跡の説明があります。左下には詳細な絵図があり、建物配置が分かります。

北側石垣上の説明板付近にも、太鼓御門櫓からつながる建物があったようです。積み直し・修理を待つ石垣でしょうか、たくさんの石材が集積されています。

 

巻石垣を見に行きます。

太鼓御門北側石垣から北東を見ると、正面に石段が、その右に舗装された細い道があります。石段が大手道っぽく見えますが、石段を上って左折すると二ノ丸石垣沿いに裏御門へ通じており、こちらはいわば裏道。本来の大手道は右の舗装道で、こちらを進むと二ノ丸表御門・天球丸方面へ通じています。藩政の中心である三ノ丸に主眼が置かれ、江戸末期には三ノ丸より上、二ノ丸・天球丸への大手道が簡略化されたそうです。

大手道の先、右奥に巻石垣がすこーし見えていますね。

大手道沿いの石垣、下段は白っぽく、上段は黒っぽいです。その上には走櫓台、菱櫓台の隅部が見えます。

ここから先は、シートや土嚢で覆われています。

二段の走櫓台と、その手前にある菱櫓台二段が重なって、四段の石垣に見えます。

それにしても細い大手道……江戸末期からこの幅だったのでしょうか。

三ノ丸と天球丸の間には大きく三段の曲輪があり、正面が一番下、三ノ丸直上の曲輪です。石垣沿いの排水路は奥で右へ折れ、三ノ丸へ延びています。

三段の一番下を奥へ歩くと、積み直してなさそうな野面積みっぽい石垣があります。この先に山下ノ丸では最古の石垣があるそうですが、そうとは知らず早々に引き返してしまいました……。

足元に、瓦片を見つけます。当時のものかは不明ですが、もし江戸期の瓦片なら文化財であり、触らず、見るだけにとどめます。

大手道まで戻ります。正面に、二ノ丸南側石垣がそびえます。右の二段石垣の向こうには、右折する大手道を塞ぐように鉄御門が建っていました。

綺麗に整備された二ノ丸南側石垣と、草ぼーぼーで崩れかけた手前の石垣が、対照的です。

鉄御門跡を越え、大手道を右へ逸れると、巻石垣の案内があります。ここが三段の真ん中にあたります。右奥に、楯蔵跡の石垣が見えます。

案内の左に、まるで登石垣のような坂道に沿って斜めに築かれた素敵な石垣が見えますが、これについては後ほど、じっくり見ていきます。

奥へ進むと……。

おおお、これ、これです!巻石垣!すごい!

これが鳥取城最大の特徴、国内唯一の球面石垣「巻石垣」です。石垣の崩落防止のため江戸後期に積まれた「はばき石垣」の一種で、護岸や突堤に関わる職人が築いたためこのような形状になったそうです。

一段下の石垣も、曲面を描いています。

ちなみに「天球丸」とは巻石垣の築かれた石垣上にある曲輪であり、関ヶ原後に城主となった池田長吉の姉・天球院の居所があったとされるのが曲輪名称の由来です。巻石垣イコール天球丸ではありません。

巻石垣とあわせて、石組水路が復元されています。奥の水溜から手前に延びる水路の右には武具蔵が、左には長屋が建っていたようです。

ここは三段の一番上、天球丸の直下にある曲輪で、南西隅には楯蔵が建っていました。絵図ではL字型の櫓として描かれており、櫓台が整備されています。

楯蔵跡から下段を覗き込むと、石材がごろごろ。矢穴のある石も見えます。

楯蔵跡より、北を見ます。整った二ノ丸・天球丸石垣の中で巻石垣が大きなアクセントになっており、とてつもないインパクトがあります。

楯蔵の北には、曲輪西辺に沿って武具蔵が建っていたようです。

色んな角度から、巻石垣を撮影します。

楯蔵跡の東側に連なる石垣も、綺麗に積み直されています。

度重なる構造変遷があった天球丸。はばき石垣も付加され、いくつもの隅部を持つ複雑な構成となっています。

天球丸南西石垣付近から見る巻石垣も、見え方が変化して良いですね。下段のカーブ具合も分かります。

名残惜しさに、まだ撮ります。

三ノ丸背後の「紅葉御殿」周辺の景観復元を見据え、モミジが育成されています。城内のモミジ種子を採取して育てている所に、こだわりを感じます。

 

大手道に戻ります。先ほど見た、斜め石垣の正体とは……。

その2へ続く)