松本城に行ってきました。
現存12天守のひとつで、日本100名城(No.29)に選ばれた、長野県松本市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

城下・中町にある「中町・蔵シック館」です。江戸期の建物ではなく、明治期に建築された造り酒屋を移築したそうです。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。ここ中町・蔵シック館は、チェックポイントのひとつです。

母屋の吹き抜けにある梁組が見事です。
お城へ向かいます。

お城の南を流れる女鳥羽川の北岸に沿って、石垣が築かれています。

千歳橋を渡って東には、女鳥羽川と南総堀に挟まれた「縄手通り」があります。縄手通り商店街の入口にある大手交番は、番所のようだなと思いました。

交番の北が大手門枡形跡です。枡形の内外に番所があり、厳重に守られていたそうです。

大手門の西側、女鳥羽川と南総堀に挟まれた区画にあったのが、六九町です。

街灯に灯籠のような覆いが設けられ、天守のシルエットと歴代城主の家紋が描かれています。
大手門跡を越えると、城内(三の丸)です。


三の丸南側の武家屋敷跡では、発掘調査が行われています。

調査地付近は、江戸末期には大名町と呼ばれていたそうです。碑の向こうに、井戸があります。

埋め立てられた南・西外堀の復元が行われるようです。
広い三の丸を越え、二の丸へ向かいます。

南外堀に架かる土橋には歴代城主家紋入りの灯籠風照明が並び、その先には「国宝 松本城天守」の巨大な碑。いかにもお城の大手という雰囲気ですが、この土橋は後世に築かれたもので、南外堀には二の丸へ通じる土橋はありませんでした。

土橋の脇、南外堀のほとりにある「大名井戸」。詳細不明です。

南外堀沿いに東へ歩くと、奥に太鼓門が見えてきます。堀の向こう、写真左側に見える建物は市立博物館で、ここは二の丸南東隅にあたり、辰巳隅櫓が建っていたそうです。


三の丸から二の丸へ通じる正門、太鼓門です。門の手前には古い史「蹟」碑が建っています。

惜しくも明治期に取り壊された太鼓門。しかし平成に入り一の門・二の門及び枡形を囲う土塀が、見事に復元されました。

外堀に架かる土橋は、門近くで狭くなる「鵜の首」形状となっており、敵が大勢で進めないよう工夫されています。

太鼓門枡形の二の門は、高麗門です。

土塀には長方形の矢狭間と、三角形の鉄砲狭間があります。

土塀は天守と同様、上部が白漆喰仕上げ、下部が黒色の下見板張りです。

二の門右側の門扉には、潜戸が設けられています。

二の門を越えると、枡形内部です。前方のより高い石垣上に築かれた土塀から、敵に容赦ない攻撃が浴びせられます。左の低い石垣には石段が設けられ、石垣上で門外の敵に備えられます。

土塀復元の際に積み直したのか、石垣上部は色合いが異なります。

二の門を越えて正面は石垣の壁。右折・左折と鍵の手状に進まなければ、城内へ入れません。食い違いタイプの枡形門ですね。

なおも進攻する敵の行く手を、一の門が阻みます。狭間や石落を備えた、重厚な櫓門です。

一の門左の石垣隅に縦置きされた城内最大の巨石は、築城主・石川「玄蕃頭」康長にちなみ「玄蕃石」と呼ばれています。

一の門は、右に脇戸があります。


説明板の背後にある石垣上には太鼓楼があり、それゆえここは太鼓門と呼ばれたそうですが、太鼓楼は復元されていません。二の門北側の石垣には、複数の兵が一度に上れるような幅の広い石段が設けられています。


一の門をくぐります。復元に使われた赤松の切株が展示されています。

一の門の脇戸を、内側から見ます。
太鼓門枡形を越えると、二の丸です。

一の門を二の丸から見ます。二階櫓の窓は引き戸でしょうか、戸が閉められています。

中町の肴問屋・飯森家で保存されていた、太鼓門の礎石です。松本城に戻ってきましたが、礎石としては使われることなく、こうして展示されています。

太鼓楼が建っていた、太鼓門北石垣です。

二の丸御殿跡の南は、冠木門と柵により仕切られています。当時の絵図にも、同じような場所に門と塀が描かれています。

冠木門の右、柵の手前に「太鼓櫓入口」と案内がありますが、太鼓門北石垣へ上る階段の手前には扉があり、固く閉ざされています。

過去には特別公開が開催され、櫓内部を見られる機会もあったようです。いつの日か、石垣に上ってみたいものです。

二の丸御殿跡南の冠木門を越え、柵越しに太鼓楼が建っていた太鼓門北石垣を見ます。櫓入口の扉が見えています。右の大きな石碑は、明治天皇の御巡幸を記念する駐蹕遺址碑です。

太鼓門の北にある、松本城の建造物とよく調和したデザインの番所風(?)トイレです。太鼓門の西、二の丸と二の丸御殿エリアを仕切る塀の南西には、番所が置かれていたようです。このトイレも番所跡に建っていればなお良かったのですが……。

二の丸御殿跡南より、内堀越しに本丸を見ます。左に黒門が、中央やや右寄りに管理事務所の屋根が見えています。

二の丸東エリアを占める二の丸御殿。明治以降も現存していましたが、惜しくも明治九年に焼失しています。こちらの絵図は間取りだけでなく畳や襖、かまどまで描かれ、さらには外された屋根までもが浮かんだ状態で描かれるなど、当時の御殿の様子が非常に良く分かります。

二の丸御殿は平面復元されています。御殿の南には式台・玄関がありました。

式台のすぐ東には内玄関。平面復元された御殿内には、立ち入ることはできません。

雪隠(トイレ)越しに、天守が見えます。礎石や水路まで復元されており、井戸には井戸枠が置かれています。

御殿跡の北西隅にぽつんと建つ、白壁の建物。公園管理用の物置小屋かと思ってしまいますが、近付いてみると……。


なんと、土蔵です。江戸末期も末期、慶応三年築造ですが、れっきとした江戸時代の土蔵です。明治九年の火災でも焼失せず残った、貴重な現存建造物、なのです。

土蔵付近から、本丸を見ます。本丸東辺石垣上には、黒門から北東隅の折廻し櫓まで多聞櫓が連なっていました。

二の丸北東隅には、櫓台があります。東北隅櫓跡です。

櫓台から南を見ます。東外堀の奥に、太鼓門の土橋が見えます。

櫓台から北東を見ます。外堀の三の丸側には、石垣が積まれています。

櫓台から北西を見ます。外堀に架かるのは、復元された二の丸裏御門橋です。

二の丸裏御門橋の手前、二の丸から三の丸へ通じる裏御門跡と思われる場所には、簡易な門と柵が設置されています。

橋の上から、裏御門跡を見ます。

橋の上から、西を見ます。本丸から三の丸へ通じる北裏門の土橋が見えます。
二の丸裏御門橋を渡り、北外堀沿いに三ノ丸を歩きます。

本丸北東隅石垣です。この上には折廻し櫓が建っていました。また石垣の左側、二の丸との間の堀には「足駄塀」と呼ばれる内堀・外堀の境界となる塀が築かれていたそうです。
そういえば、二の丸も本丸もきっちり北東隅が存在し、「鬼門欠け」はありませんね。

本丸北裏門の土橋です。櫓門だった北裏門跡には簡易な門が設置され、ここからの出入りはできなくなっています。石垣修理工事のため、工事用車両の出入口になっている模様です。


天守の頭と本丸北石垣を見ながら、西へ歩きます。石垣が少しはらんでいるようにも見えますが……。

本丸石垣の北西隅です。ここには隅櫓はありませんでした。赤い埋橋付近が、外堀と内堀の境界です。

ふたつの土橋につながれた小島は、若宮八幡跡です。

若宮八幡跡へ通じる土橋の手前、三の丸北西にある城郭建物風トイレです。このあたりにはかつて、作事所がありました。

史「蹟」碑が建つ三の丸の撮影スポットから、天守を見ます。史蹟碑の背後に若宮八幡跡へ通じる土橋があり、左奥が若宮八幡跡で、埋橋手前に見える土橋により二の丸と接続し、土橋の南側(二の丸側)には瓦門が建っていました。

若宮八幡跡です。ここは松本城の前身・深志城の頃からお城の鎮守とされていたそうですが……今は神社があったとは思えない状態です。右の木の根元にある石は、神社に使われた石材でしょうか。

写真を検索すると、以前は「松本城鎮守若宮八幡宮跡」という標柱があったようなのですが……見当たりません。この石が標柱の名残?

若宮八幡跡と二の丸をつなぐ土橋上から、西を見ます。眼前の蓮池は外堀の一部ですが、この奥では堀が埋め立てられています。堀の左側が二の丸で、奥の大きな木が生えているあたりに、北西隅櫓が建っていました。
土橋を渡り、二の丸へ入ります。

黒い天守と朱い埋橋のコントラストが美しいですが、埋橋は史実に基づかない建造物です。江戸後期には埋橋の少し左に足駄塀が築かれ、外堀(左)と内堀(右)の境界となっていたようです。

こちらの埋橋、以前は渡れたそうですが、老朽化のため通行止となっています。なお、水野氏城主時代には本丸埋門から二の丸瓦門北側へ「埋門板橋」と呼ばれる橋が架かっていたそうです。本丸から城主が若宮八幡へお参りするための橋だったのでしょうか。

埋橋の架かる、本丸埋門跡です。江戸後期には門の先に橋は無く、船による出入りか、緊急避難(泳いで脱出!)しか方法はありません。

史実にない橋の存在は、かつての埋門や城郭構造に誤解を与えてしまうのでふさわしくないとは思うのですが、一方で景観に彩りを添えているこの朱く美しい埋橋を撤去してしまうのも忍びないような……。難しいですね。
さて、天守です。

左が三重四階の乾小天守、右が五重六階の大天守で、二重の渡櫓により連結されています。多数の狭間と石落を備え実戦的でありながら、大天守四重目の千鳥破風・唐破風や乾小天守の花頭窓など豊かな装飾性も兼ね備え、白漆喰の壁に黒漆塗の下見板が映える、なんとも美しい天守です。
大天守をよく見ると四重目より最上階の壁が外側にあり、頭でっかちです。これはもともと勾欄を巡らせるはずだった最上階が設計変更され、勾欄の位置まで壁を外へ出したと言われているそうです。

装飾の少ない西面です。乾小天守は最上階以外に破風がありません。天守台の勾配が緩く、石垣の足が長いのも特徴です。

築城から四十年ほど過ぎ、時の将軍・家光公を迎えるため増築されたのが右側の辰巳附櫓と月見櫓です。

朱い勾欄のある右端が月見櫓で、その左が二重の辰巳附櫓です。将軍をもてなすために建てられたのが月見櫓で、その月見櫓と大天守を連結する渡櫓の役割が辰巳附櫓、というわけですね。時の城主・松平直政公がせっかく増築したのに、結局将軍は松本に来なかったそうですが……。

天守群と、黒門です。水堀に浮かぶ現存天守を見られるのは弘前城と松本城だけで、弘前城天守が曳屋中の現在では、ここ松本城だけになっています。広大な内堀越しの天守というのが、また良いんですよね。水面に映る「逆さ天守」も素敵。
どうしても天守ばかり見てしまいますね……。二の丸西~南側も見ていきます。

二の丸南西にある、城郭建物風トイレです。二の丸西側には御用米の米蔵「八千俵蔵」や、焔硝蔵などが建っていたそうです。
赤穂城には米蔵を外観復元した休憩所が整備されていましたが、トイレや休憩所を兼ね、天守をゆっくり眺められるような八千俵蔵があれば、良いかもしれませんね。

二の丸南西隅には三の丸へ通じる道がありますが、後世に通された通路です。ここには南西隅櫓が建っていました。

南西隅の道から出て、南外堀跡を見ます。左が二の丸です。

二の丸南にある城郭建物風トイレです。トイレのすぐ南東には南隅櫓が建っていたのですが、もしかしてこのトイレ、隅櫓を意識した建物……?

南隅櫓跡の東にある、国宝松本城天守の案内板です。訪問時には全く知らずに撮影したのですが、実はこちら、本町五丁目にあった高札場を移築・再利用したものと知り驚きました。貴重な遺構です。

移築高札場の東にある、市立博物館です。このあたりには、石川数正公により建てられた藩主私邸「古山地御殿」がありました。

南東から見る天守と、広大な内堀です。北アルプスの山々を借景とし、堀に浮かぶ天守というのは、他のお城では見られないオンリーワンな絶景です。
黒門から、本丸へ入ります。

黒門は内堀の南に突き出した出枡形の門で、西側には横矢掛の石垣(写真左端に隅部のみ、ひとつ前の写真右によく写る)があり、黒門に迫る敵を枡形と横矢石垣の両方から攻撃できる、本丸正門らしい強固な防御構造となっています。

黒門枡形の外側にある二の門と枡形を囲う控塀は平成元年に復元され、内側の一の門は昭和三十五年に「復興」されたそうです。土橋上には、歴代城主の家紋入りの灯籠風照明が並んでいます。太鼓門枡形の塀は長方形と三角形の狭間でしたが、黒門枡形の塀は長方形と正方形です。

二の門は、太鼓門と違って右に脇戸があります。

二の門を越え枡形内に入ると、番所のような券売所があります。ここで観覧料を払えば、本丸へ入ることができます。二の門の脇戸は、出口になっています。

「復興」された一の門です。何故復元ではなく復興かというと、復元資料が不足しており、名古屋城の渡櫓門を参考に建てられたから、だそうです。

根拠に乏しい復興とはいえ、「松本城フォーマット」の白漆喰に下見板張りの外観はお城によく調和し、石垣に合わせて建てられたL字型の櫓門はとても迫力があります。本丸正門にふさわしい、素晴らしい門です。

一の門の特徴は、東側が矩折りになったL字平面の形状です。枡形の西には本丸石垣に出隅を設け枡形に横矢を掛け、そして枡形内部では櫓門自体を折り曲げ一の門に迫る敵に横矢を掛ける。堅固ですね。

一の門の矩折り部分の屋根瓦には、最後の城主・戸田氏の家紋「はなれ六ツ星」が見えます。

軒丸瓦の家紋は桐紋や沢瀉紋などバラバラです。これは昭和期の天守解体修理の際、使える瓦を黒門に再利用したそうです。

梁や柱の飾り金具にも、桐紋と沢瀉紋の両方が用いられています。
黒門を越えると、本丸です。

一の門の内側に、歴代城主とその家紋が紹介されています。先ほど屋根瓦や飾り金具にあった桐紋は、石川氏などが秀吉公から下賜されたそうです。
手前にスタンプが置かれていますが、その左に案内があるとおり、100名城スタンプはここにはありません。

黒門を越えると正面にある、管理事務所です。100名城スタンプは、こちらで押しました。御城印(※松本城では「朱印符」と呼んでいます)もこちらで購入しています。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」の松本城チェックポイントは、管理事務所の窓にありました。

管理事務所の前からは、天守がよく見え……見えん。あのーすいません、どちら様ですか。(調べると、松本市のマスコット「アルプちゃん」の甲冑バージョン、だそうです)

アルプちゃん微動だにしなかったので移動して……改めて、本丸内から見る天守群です。手前の「本丸御殿跡には入らないで下さい」の注意書きは、芝生内立入禁止とした方が分かりやすかったのでは……なにしろ今撮影している園路も、本丸御殿跡と思われるので。

園路を除く芝生内にはこのように、瓦を並べて本丸御殿の建物外周ラインが再現されています。

近くから、天守群を見上げます。月見櫓だけが、どうしてもデザイン的に浮いています。

大天守です。初重に石落と狭間が、二重・三重目には突上げ戸の格子窓があります。大天守の狭間は、長方形と正方形です。

乾小天守です。初重に石落が、各階に長方形と正方形の狭間があります。屋根上に並ぶ平瓦は、昭和の修理の際に置かれた「捨て瓦」で、上層屋根の落雪から屋根瓦を保護する役割があるそうです。

軒丸瓦は「はなれ六ツ星」ですが、隅棟には桐紋と沢瀉紋が見えます。再利用された瓦でしょうか。

最上階屋根は「はなれ六ツ星」です。

文禄期に積まれたとされる、大天守台石垣です。隅部の算木積みが未発達な野面積の石垣が、四百年以上天守を支えています。

辰巳附櫓の一階には格子窓、二階には花頭窓が見えます。辰巳附櫓の一階が月見櫓一階とつながっており、月見櫓には地階出入口が設けられています。

増築された月見櫓の石垣には天守台と比べて巨石が多用されています。将軍に城主の権威をアピールする狙いがあったのでしょうか。

玄蕃石のごとく、隅部に巨石が縦置きされています。

他の天守群建物とあまりにも整合性がない月見櫓。地階部分が下見板張りだったなら、少しは「取ってつけた感」が薄まったでしょうか。

大天守・辰巳附櫓・月見櫓の屋根瓦に見られる家紋は多くが「はなれ六ツ星」ですが、月見櫓には桐紋らしき家紋も見えます。

月見櫓の軒丸瓦に「はなれ六ツ星」、隅棟に桐紋と沢瀉紋という組み合わせは乾小天守と同様です。これは単なる再利用ではなく、何か意味がありそうに思えます。

月見櫓台の南にある、水門跡です。埋門と同様に、内堀に面し橋のない門です。堀に降りる「がんぎ」が設けられています。この「がんぎ」、「雁木」という表記しか知らなかったのですが、松本城の資料では「岩岐」という漢字を使用しています。

水門跡の南に積まれた、本丸南側の石垣です。

本丸南側の石垣は、昭和期に積み直されているそうです。

水門近くでは石垣に「岩岐」が設けられています。南側石垣上には、塀が巡っていました。

このあたりが黒門の西、本丸南に設けられた横矢石垣の内側です。建物基礎のような石列が見えますが、不明です。

横矢石垣の東に、長屋を半分に切ったような建物があり、全国のお城写真が展示されています。

「全国城郭管理者協議会」なるものがあるらしく、そこに加盟している四十九城の写真だそうです。上山城のような模擬天守の城郭も含まれています。

黒門が見えたので、これで本丸の南側を端から端まで歩きました。左には「重要文化財・国宝 松本城」の立札があります。
本丸の北へ向かいます。

本丸北西にある、城郭建物風トイレです。城内のトイレはいずれも天守などに合わせた下見板張りのデザインで、統一感がありますね。

立入禁止となっている、埋門跡への道です。正面奥が、埋門跡です。

埋門跡左の石垣には「岩岐」が設けられています。埋門の上部には、塀が巡っていたそうです。
天守のそばへ戻ります。

芝生庭園と化した、本丸御殿跡です。本丸御殿は享保十二年に焼失し再建されず、政庁機能は二の丸御殿に移されたそうです。

改めて、天守群を見上げます。今の今まで、よくぞこれだけの建物が残ってくれたものです。

構造的には望楼型、外観的には層塔型の大天守は、五重六階です。現存する五重の天守は、姫路城とここ、松本城だけです。

本丸の周囲は土塁に囲まれていますが、乾小天守から埋門石垣の間だけは土塁がなく、二の丸から丸見えです。まあ当時は塀が建っていたはずですが。

大天守台と同様に、隅部の算木積みが未発達な野面積の乾小天守台石垣です。未加工ながら選び抜かれた石材により、美しい形状の天守台が生み出されています。

折り重なる大天守の五重屋根。全ての狭間から、こちらを狙われているような気がしてきます。

大天守と乾小天守の間にある渡櫓の地階部分が、天守群への入口です。入口には、日除けのテントが設置されています。

天守内、ベビーカーは入れません。

渡櫓の屋根……ではなく、乾小天守の屋根を見上げていると思われます。下の軒丸瓦には「はなれ六ツ星」が見えます。
天守内へ入ります。

渡櫓地階、天守入口の扉です。木材に、歴史を感じます。

中へ入り、入口を振り返ります。天井の木組みと、入口外のテントが見えます。

渡櫓地階の階段を上って右が乾小天守です。耐震診断の結果、入場制限をかけているとのことで、訪問時には入れませんでした……残念。
そしてこれ以降、天守内の写真はピンボケ多数です……申し訳ございません。

渡櫓の左には大天守への階段があり、これだけ大天守と高さに違いのあることが分かります。

大天守への階段を上るとすぐ隣に、渡櫓二階への階段があり、乾小天守の二階へ通じているようですが、こちらも立入禁止……。
大天守内を観覧します。

一階です。柱に見られる丸い小穴は、壁があったことの名残だそうです。

内側・母屋の床より低い外周入側は、武者走と呼ばれています。

天守台が曲線のため、一階・二階も曲線を描いているらしく、右の壁をよく見ると、なるほど床板に対して直線ではないことが分かります。

一階に数多く設けられた石落です。石落にも狭間があり、前方にも射撃可能です。

一階には、いくつか展示品があります。こちらは「鯱真木」。鯱の中には、このような芯木が入っているんですね。良く見ると、墨書されているのが分かります。

昭和の修理の際に切り取り保存された、創建当時の二階の壁です。

鯱です。大棟に載る鯱は、中に鯱真木が入っています。四角いほぞ穴が開いていますが、鰭は別パーツなのでしょうか。

軟弱地盤上に建てられた天守を支える、天守台内部に埋め込まれた土台支持柱です。なお、昭和の修理時に天守基礎は鉄筋コンクリートに改められたそうです。

創建当時のものとされる、辰巳附櫓の蕪懸魚芯材です。

たくさんの柱が、大天守の重量を支えています。

後世の修理によるものか、梁などが金属部品で補強されています。


二階です。格子窓の部材に釿(ちょうな)の跡が見えます。

窓の外に突上げ戸と、月見櫓が見えます。屋根上には、捨て瓦が敷かれています。

北側の窓からは、乾小天守と渡櫓が見えます。乾小天守と渡櫓二階の軒丸瓦はいずれも桐紋で、渡櫓には菊紋の入った軒平瓦が見えます(写真左端付近)。

西側の窓からは広い内堀と、埋橋が見えます。

入側から見上げると、筋違状の補強金属が見えます。

こちらの階段は使用できません。

途中出口です。

複雑な木組み。

梁にも釿の跡。奥には、梁のつなぎ目を補強する「舟形肘木」が見えます。

格子窓の上部に紐で吊り下げられたこちらの木片は……突上げ戸を閉めた際の留め具か何かでしょうか。

急な階段、の説明です。

途中飛ばして最上階、六階です。

展示されている国宝指定書は、写しだそうです。

最上階の桔木構造です。中央から放射状に配置された桔木が、テコの原理により重い瓦屋根の軒先を支えているのだそうです。




六階入側です。設計段階では左の壁の位置に勾欄が、右の母屋部分に壁が配置されるはずだった、とのことです。勾欄を備えた松本城天守……さぞかし優雅な外観だったでしょうね。

天守最上階からの眺望、まずは北です。乾小天守の屋根と埋門石垣が見えます。奥には、今年国宝指定された旧開智学校が見えています。

西です。途中に踊り場(?)のある埋橋のデザイン、素敵です。奥には、北アルプスの山々が見えます。

南です。斜めに延びた先で横矢を掛ける本丸南石垣の形状が分かります。

東です。瓦を並べて再現された本丸御殿の外周形状が把握できます。
六階から下ります。

五階は南北に唐破風、東西に千鳥破風を備え、四方に破風の間があります。こちらは千鳥破風の間で、窓は縦横の格子窓です。写真左には、蓋付きの狭間が見えます。

天井付近の木組みです。

唐破風の間です。窓は武者窓(竪格子窓)です。

五階は天井が高く、六階への階段の途中に踊り場が設けられています。中央奥の柱は、明治期に倒壊の危機にあった天守に縄をかけ引き起こしたという言い伝えの、その縄の跡が付くと伝わる柱です。写真では分かりにくいですが、上部が凹んでいます。


有事の際は城主の御座所になったとされる、四階です。簾で仕切られた母屋や座布団が、雰囲気を出していますね。

入側には、救助袋が設置されています。

階段の裏に、三階へ通じる穴がぽっかり開いています。物資などを下ろすためか、あるいは三階の明かり取り用でしょうか。

穴のそばにあるのが、大天守で最も急な階段です。

天井の木組みです。

四階御座所です。奥が、最も急な階段です。

三階から四階にかけては南面に大きな千鳥破風があり、四階にも破風の間があります。

四階破風の間です。

「暗闇重」三階です。

窓が全くない、と説明に書いていますが、南側に千鳥破風の格子窓があります。
大天守から、辰巳附櫓へ入ります。


大天守の二階が、辰巳附櫓の二階へ通じています。辰巳附櫓二階には、多くの展示品が並んでいます。

引戸と水切り穴が設けられた、花頭窓です。

踊り場が設けられた階段から、辰巳附櫓一階へ下ります。

辰巳附櫓一階は、月見櫓につながっています。開放的な造りと、船底天井が確認できます。

舞良戸を外すと三方吹き抜けになる、将軍をお迎えするための特注櫓です。将軍が来ることはありませんでしたが、歴代城主はここから月見を楽しんだのでしょうか。

月見櫓を巡る、朱塗りの刎ね勾欄です。ここからは、本丸御殿もよく見えたことでしょう。

月見櫓の地階には部屋はなく、外へ出る階段があるのみです。

月見櫓の地階から、外へ出ました。
締めは、天守です。

南西から見た天守です。天守群を構成する全ての建物が見え、大天守の破風も全種類見えており、広大な内堀に映る「逆さ天守」も堪能できる、非常に松本城らしいアングルと言えるでしょう。にもかかわらず、前回訪問時はこの角度から撮影していませんでした……。

観光客の写り込みを嫌ってか、天守建物内の写真がクオリティ低すぎました……反省。ほぼ天守しか見ていない前回訪問よりは色々と見学できましたが、それでも三の丸総堀遺構など未訪スポットも多く、建物内写真をしっかり撮影したいこともあり、再訪必須、です。
天守以外にも見所が多い国宝・松本城。南・西外堀の復元などこれからの整備により変わってゆく姿が、楽しみです。

朱印符(御城印)二種です。右は小笠原家の朱印が、左は戸田家の花押があしらわれています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで51城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。