(その1の続きです)
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

次に向かうのは、写真右の案内にある二ノ丸の復元建物群「橋爪門・菱櫓・五十間長屋」です。案内標柱の文字が一部剥がれ、「五ト間長屋」に……。

途中に折れを持つ二層の長大な多聞櫓と、その両端には三階櫓。二ノ丸東辺にそびえるこれら復元建物群は、加賀百万石の偉容を今に示す、整備が進む金沢城の新たなシンボルであり、「顔」と言えるでしょう。


三ノ丸と鶴ノ丸を区切る、復元された内堀石垣です。日差しや雨が直接当たりにくいからか、二箇所ある「出し」直下の石材は色合いが異なります。

塀の途中に設けられた「出し」とは異なり、塀の上に載り入母屋屋根を備えたこれは……何と呼べば良いのでしょうか。出窓と櫓の中間のような……うーん、「櫓出窓」?

特徴的な「櫓出窓」は、橋爪門枡形の北東隅に位置します。出窓より高い位置で周囲を見渡すことができ、門に迫る敵を迎撃する役割があったと考えられます。

「三御門」のひとつ、復元された橋爪門です。三ノ丸から二ノ丸御殿へ至る、非常に重要なポイントに位置します。

一の門の右手にそびえるのは、三重三階の巨大な「橋爪門続櫓」です。出窓のある東側は、一階の屋根が省略されています。西側は、五十間長屋に接続しています。

一階部分は「出し」を備えた海鼠壁、二階は白壁の二層構造となっている長大な「五十間長屋」です。一階と二階で窓の位置が互い違いになっています。

橋の手前から一の門を正面に見ると、先ほどの「櫓出窓」が守りを固める好位置にあるのがよく分かりますね。

そして反対側には橋爪門続櫓。これでは簡単に侵入できそうにありません。

橋の上から、東側の内堀を見ます。左端には、石川櫓が見えています。


海鼠塀は上方で厚みを増し、瓦屋根へと至る白壁部分のカーブが非常に美しいです。

有事の際は橋を渡る最中でも五十間長屋から容赦なく攻撃を浴びせられ、吞気に海鼠塀を鑑賞している余裕など無かったことでしょう。
一の門をくぐり、橋爪門の枡形内へ入ります。


城内最大規模を誇る、巨大な橋爪門枡形です。南と東、一の門を入って正面と左手の塀には「出し」があり、枡形内へ侵入する敵を迎え撃ちます。説明にある「二重塀」とはこの塀を指すと思うのですが、どこがどう二重なのか、詳細は不明です。

一の門のデザインは三御門ほぼ共通で、主屋根が大きな高麗門です。門両脇の塀が隠し狭間仕様なのも同じですね。

「櫓出窓」基部付近の石垣は右側に比べ色が濃く見えますが、現存部分でしょうか。


橋爪門の枡形石垣は、ほぼ長方形に加工された石材による切石積みとなっているのが特徴です。といってもレンガのように均一ではなく、よく見ると微妙にラインがずれていたり、角が食い込んでいたりします。これも職人のこだわりでしょうか。

橋爪門続櫓の櫓台も長方形を主体とした石材で構成されていますが、枡形石垣に比べて横目地が通る部分が少なく、よりデザイン性が高く見えます。

一の門をくぐるとすぐ横に二重櫓が建つのは三御門共通の仕様(※河北門のニラミ櫓は焼失・再建されず)ですが、石川門・河北門とも二重櫓が二の門の向かいにあるのに対し、橋爪門では二重櫓が二の門の真横にあります。このため橋爪門二の門は石川門・河北門に比べ小ぶりで、櫓門と二重櫓が隣り合って見られるのはここだけです。

小ぶりとはいえ、十分に巨大な櫓門である橋爪門二の門。海鼠壁じゃないのも三御門共通です。両側に脇戸を備え、左側には番所が附属します。

柱基部のカロリーメイト金物も、三御門共通。


四半敷きの敷石が、格式の高さを示しています。

二の門内部に設けられた番所です。

中を覗くと、畳敷きの部屋と、櫓(二階)への急な階段があります。立入禁止。
橋爪門を越えると、二ノ丸です。


二ノ丸御殿方面へ通じていた雁木坂は復元されておらず、非常用(?)の狭い階段(立入禁止)があるのみです。雁木坂左手の石垣台や南側の御番所も失われ、橋爪門から連結二重枡形になっていたという構造を体感するのは難しい状態です。

雁木坂がないので、雁木坂跡左手に設けられた緩やかなスロープを上ると、二ノ丸に至ります。



三ノ丸の西、城郭のほぼ中央に位置するのが、寛永の大火以降幕末まで金沢城の中枢で在り続けた二ノ丸。そのほぼ全域を占め、みっちり建っていたという御殿は影も形もなく、広大な広場があるのみです。


そんな広場と化した二ノ丸の東辺に堂々とそびえる新たなシンボル、菱櫓と五十間長屋の存在感は圧倒的です。

そんな菱櫓・五十間長屋と橋爪門続櫓・橋爪門の内部観覧は有料です。

御殿玄関のようにも見える「二の丸案内所」で料金を支払います。

おや、三ノ丸側では一階と二階で互い違いになっていた五十間長屋の窓の位置が、二ノ丸側では揃っていますね。

先ほどの雁木坂の説明板にあった絵図と比較すると、二ノ丸御殿の玄関があったのは写真中央奥、柵が置いてあるあたりでしょうか。玄関の奥、五十間長屋が西へ折れ曲がる部分の西には、尾山神社に移築された唐門が建っていたようです。


菱櫓の南、五十間長屋の折れ曲がり部が、観覧入口となっています。
建物内へ入ります。

五十間長屋の最も北にある「出し」ではないかと思われます……。後から見返した時に建物のどの部分を撮影したのか分かるようにしておかないと駄目ですね。出し側面の戸も、床板も、フルオープンです。

五十間長屋が西へ折れる部分の北側の窓からは、菱櫓が見えます。二ノ丸北東角にあたるこの部分、わざわざ建物を折り曲げて入隅としているのは「鬼門欠け」でしょうか。

「復元階段」ということは、復元ではない階段もある……?

五十間長屋の北端より、菱櫓の一階へ入ります。写真左端に階段が見えますが、ここからの昇降は禁止されています。

三重三階の菱櫓。その名の通り、鈍角100度、鋭角80度の菱形平面をしています。

木組みが直交せず、斜めになっています。


柱脚部が一部ガラス張りになっており、複雑な仕口が見られます。


菱櫓は一階に二箇所の「出し」があり、東は唐破風、北は千鳥破風と意匠も凝っています。二ノ丸のシンボル的な建物へのこだわりが感じられますね。

うーん、斜め。

こちらの階段には「復元階段」の表示がなく、観覧用に追加された階段なのかもしれません。ここから、二階へ上ります。

うーん、鋭角。

菱櫓三階への階段には踊り場が設けられ、そこから階段の向きが変わります。

三階は狭く、北に「出し」があり、東西の窓は高く、階段が設けられています。

東の窓から。河北門と、右奥に石川門が見えます。

東の窓もうひとつ。こちらの景色はイマイチ?

南の窓から。菱櫓が二ノ丸で最も高い建物だとよく分かります。天守焼失後の金沢城では、城主は菱櫓からの景色を楽しんでいたのかもしれません。

三階への階段踊り場から二階を見下ろしている……と思われます。

階段を囲う手摺りまで菱形。こだわりが光ります。

総合案内所併設の休憩所に続いてこちらにも、模型が展示されています。縮尺はいずれも500分の1ですが、休憩所が「金沢城公園整備計画模型」だったのに対してこちらは「金沢城再現模型」です。石川門の北に九十間長屋がなく、河北門のニラミ櫓もないことから、江戸後期の城郭を再現した模型でしょうか。

北から。大手堀から新丸中央付近に延びる堀や、新丸に建つ越後屋敷・作事所・下台所などの建物の様子が分かります。

西から。復元整備中の鼠多門や、二ノ丸を埋め尽くす超巨大な御殿の姿を確認できます。

南から。鯉喉櫓台や車橋門の形状、本丸建物の配置が分かります。

菱櫓・五十間長屋の1/10軸組模型もありました。

五十間長屋二階の折れ部分から南、最も長い直線部分です。これは……長い!

本丸の現存三十間長屋は後で見に行くとして、七十間長屋は金谷出丸の北、九十間長屋は石川門の北にあったそうですが、四十間長屋の所在もこの先で判明するのでしょうか。

長屋二階の窓からは、広大な二ノ丸が見渡せます。

五十間長屋の南端に接続する橋爪門続櫓の三階へ、復元階段から上ります。

橋爪門続櫓三階からの眺望、まずは南。橋爪門二の門の屋根が見えます。

東です。橋爪門枡形と、奥に石川門が見えます。

北です。左に五十間長屋と菱櫓、右に河北門が見えます。


荷揚げ場として利用されていたという橋爪門続櫓の中央吹き抜けと、その開口部に設置されたエレベーターです。建造物の復元とバリアフリーの両立、その努力をひしひしと感じます。

階段を下り、五十間長屋の一階へ入ります。

城内で発掘された様々な出土品が展示されています。

鍬始・鋤始の刻石! 工事の前には、このような儀式が行われていたんですね。

橋爪門続櫓と二の門内部はつながっていなかったようですが、復元建物では橋爪門続櫓一階から二の門の二階櫓へ出入りすることができます。

橋爪門続櫓一階より低い位置に、二の門の二階櫓はあります。

古写真や絵図、遺構が残っていたから、これだけの建物が復元できたのですね。

先ほど見上げた二の門番所内の急な階段を、今度は上から見下ろします。

二の門櫓内からは、二の門へ迫る敵が丸見えです。


鉛瓦の製作過程を表した模型です。棟部分などは何枚も瓦を重ねずとも良いので、通常の瓦より楽だったりもするのでしょうか。
復元建物群を出て、二ノ丸の南にある本丸附段へ向かいます。

二ノ丸より、本丸附段の北石垣を見ます。左寄り上端付近に排水口と思われる開口部が見えます。右奥には、三十間長屋が見えます。


二ノ丸と本丸附段との間には、極楽橋と呼ばれる木橋が架かっています。

極楽橋より、二ノ丸と本丸附段を隔てる空堀を見ます。橋爪門西側のトイレ付近から堀底へ下りられそうですが、未訪です。

堀底道は極楽橋をくぐり、「いもり坂」と呼ばれる二ノ丸と玉泉院丸の南側出入口を結ぶ坂道へ通じています。このいもり坂は、明治以降に通された道だそうです。

極楽橋を渡ると、めちゃめちゃ幅広な階段に驚かされます。でも上部には左側しか階段がありません。当時は上部右側が塀などで塞がれ、一度に駆け上がれないように防御されていたのでしょうか。

本丸附段北石垣は粗加工石積みでしたが、階段脇の石垣は切石積みで、大きな石材が多用されているように見えます。

左側は半分以上石垣が失われ、中の土が露出しています。左側の階段は石垣の背後まで回り込み、幅を増しています。

階段上部から見下ろすと、かなりの高低差があります。

わずかに石積みが残存していますが……当時はこのあたりも全て石垣だったのでしょうか。



本丸附段にある現存建造物がこちら、宝暦の大火による焼失から百年もの年月を経て幕末に再建された、三十間長屋です。五十間長屋とよく似た「金沢城フォーマット」の長屋ですが、五十間長屋は一階と二階の窓が城内側で揃っていましたが、三十間長屋では城内側(東面)で一階と二階の窓位置にズレがあります。

宝暦大火以前は櫓が接続していたという北面は、切妻屋根になっています。土台石垣も中途半端な感じで斜めにカットされており……いずれは櫓も再建しようと考えていたのでしょうか。

現存建物は長さ約48.2m(二十六間半)だそうですが、北端にあった櫓込みだと三十間あったのでしょうか。

金沢城の石垣で最も意匠性が高いと思われるのが三十間長屋の「金場取り残し積み」です。切石積みとしながらも、石材が接合する縁取り部分だけを揃え、石材表面には凸凹を残す、という……ここまでやるのか! こだわりの極み、ですね。
ありがたいことに内部公開中だったので、中に入ります。

「金沢城にはこの他に全部で1×の長屋(多聞櫓)があったと伝えられている。」肝心の数が、窓の反射で判読できません……10~19のいずれかで間違いないと思うのですが……ぐぬぬ。

そういえば、城外側の外観を見ずに入ってしまいました……後で見ないと。

ここが、石垣の上に載っている入母屋破風の「出し」内部と思われます。

一階です。五十間長屋と比べ、木材の色合いに歴史を感じます。


奥の階段は入れなかったので、手前の階段から二階へ上がります。

二階です。木組が大迫力!


二階を、端から端まで。

通常仕様の「出し」は、内部も石川門・河北門・五十間長屋と共通の構造ですね。
外へ出て、さらに外観を観察します。

金場取り残し積みは「いきおいのある積み方」だそうです。

城外側(西面)です。中央の「出し」のみ石垣上に乗せ入母屋破風とし、両脇は通常仕様の唐破風。このあたりにもデザインへの飽くなきこだわりを感じます。そして西面では一階・二階で揃う窓位置。長屋の窓は内外で並びを変えるというのも、こだわりのひとつでしょうか。

石垣基部の砂利敷きと外側の石列は、雨落ち溝の役割でしょうか。そういえば他の建物にもあったような。

南面は、入母屋屋根です。
薪の丸へ向かいます。


三十間長屋の南にある通路から、薪の丸へ下りていきます。

照明ポールの建つあたりに、かつて櫓が建っていたのでしょうか。


本丸附段の西、玉泉院丸の南に位置する小規模な曲輪が、薪の丸です。重要な宝物を納めた蔵や役所・番所が建ち並んでいたそうですが、今や薮に埋もれてしまっています。



薪の丸から見られる石垣はすなわち本丸を構成する石垣であり、粗加工の立派な石積みが連なります。刻印もたくさん。


隅部は、切石による算木積みです。

階段を上り、本丸附段へ戻ります。

溝の入った石材は何かの礎石でしょうか。あるいは、排水溝?
本丸附段の東にある、本丸へ向かいます。


本丸附段から本丸へと通じる、鉄門の石垣です。



さすが本丸の入口。門は失われていますが、見事な切石積みの石垣が格式の高さをうかがわせます。
鉄門跡から、本丸へ入ります。


鉄門跡を越え左折すると、戌亥櫓台があります。


戌亥櫓台からは二ノ丸の復元建物群を見下ろすことができ、本丸が二ノ丸より高所にあることが分かります。


戌亥櫓台の東側では本丸地表面が大きく抉れ、城跡には似つかわしくないレンガ造りのトンネルが見えますが……こちらの正体は後ほど。


金沢大学時代には植物園だったという本丸は、鬱蒼とした森と化しています。写真の池は堀跡ではなく植物園の名残かと思われますが、石積みには本丸石垣の石材が再利用されていたりするのでしょうか。


前半に鯉喉櫓台から見上げた、無惨に改変された辰巳櫓跡です。かつてはさらに南へ張り出していたと思われる石垣上に、辰巳櫓が建っていたのでしょう。

本丸の東側は「東ノ丸」とされ、辰巳櫓や丑寅櫓が建っていたのは東ノ丸です。本丸と東ノ丸を隔てる堀があったようですが、全体が森と化した現状では、両者の境界を見出すのは難しくなっています。


城内最古の石垣上に残る、丑寅櫓台です。ここまで戌亥櫓跡(北西)・辰巳櫓跡(南東)・丑寅櫓跡(北東)と見てきましたが、本丸の南西角は南東に比べ北寄りに位置するため、南西にあったのは未申櫓ではなく「申酉櫓」で、鉄門の南に建っていたようです。


丑寅櫓台のすぐ北西には、鶴丸倉庫があります。奥には菱櫓や河北門が見えます。

東ノ丸から東ノ丸附段に通じる虎口です。このあたりに門があったのでしょうか。

左手に見える石垣は粗加工石積みですが、所々にぴったり合うように加工されたような石材も見られます。刻印も少々?

虎口を出ると東ノ丸附段で、右手に鶴丸倉庫があります。

戌亥櫓台の東側にある本丸の「抉れ」は東ノ丸附段にまで達し、石垣が一部壊されています。


先ほどのトンネルは陸軍時代の遺構で、本丸北側に設けられた弾薬庫への道として、東ノ丸附段側の石垣が壊され、北側石垣にはこうしてトンネルが通されています。城跡が軍施設として使用されていたことが分かります。
本丸・東ノ丸を歩き終え、内堀に沿って二ノ丸の周囲を歩きます。

橋爪門二の門を南から見ます。石垣も、木材も、鉛瓦も、何もかもが真新しいです。

連結二重枡形になっていたという橋爪門。二の門内側の広場は随分と狭くなっていますが、当時は倍以上に西へ広がり、西辺を石垣台、南辺を番所で区切られた枡形状の空間を形成していました。

橋爪門から、三ノ丸に出ます。


五十間長屋と二ノ丸石垣を左手に見ながら、内堀沿いを北上します。


「鬼門欠け」と思われる二ノ丸北東隅の五十間長屋が折れ曲がる部分です。奥に菱櫓が見えます。


カラフルな粗加工石積みと、隙間の無い隅部の切石算木積み。鬼門欠けのおかげで隅部が連続し、ダブルで堪能できます。

河北門を西から見ます。ニラミ櫓台への階段と、太鼓塀の隠し狭間が確認できます。

内堀は、菱櫓のあたりで西へ折れます。菱櫓を北から見たかったのですが……木に邪魔されます。うーむ。


城内屈指と讃えられる、二ノ丸北面石垣です。積み直しされていないのか、表面には苔が生えています。

真っ直ぐ西へ続く、石垣と内堀。二ノ丸北面には、表能舞台の楽屋に使用された長屋が建っていたそうです。


七十間、九十間、五十間、三十間に続く長屋シリーズ「四十間長屋」は、二ノ丸北面石垣から内堀を挟んで北側、三ノ丸が帯曲輪状に細長く延びる部分に建っていたようです。このあたりでは二ノ丸北面の能舞台楽屋と、この四十間長屋が内堀を挟んで並んでいたようです。

四十間長屋跡から、河北門を見ます。三ノ丸北面石垣とその北の堀跡、河北門から新丸へと通じる土橋が見えます。

四十間長屋跡の西には、管理事務所があります。


管理事務所の南で内堀は途切れ、二ノ丸の裏口門跡があります。

左右の石垣間に門があったように思えますが、実際は石垣の間を過ぎ左折した先に裏口門が建っていました。左手石垣上には能舞台楽屋の長屋、右手石垣上には「雛土蔵」と呼ばれる蔵、正面奥には御殿の奥向と、御殿関連建物がみっちり建っていたようです。

このあたりに裏口門があったのでしょうか。正面が、雛土蔵の石垣です。

雛土蔵石垣は、方形加工された石材による切石積みです。

能舞台楽屋長屋の石垣も切石積み。側面に見えるほぞ穴は、裏口門に関連する遺構でしょうか。
数寄屋屋敷へ向かいます。

二ノ丸西側の東より一段下がったエリアは「数寄屋屋敷」と呼ばれ、御殿の「奥向」の建物が建っていました。北は堀で区画され、堀に架かる橋の先にある門が「切手門」です。橋は近代的なデザインをしていますが、後世(陸軍時代?)の改変によるものでしょうか。奥に見える建物は、陸軍時代の遺構です。

数寄屋屋敷北堀の東端は雛土蔵の石垣で途切れ、内堀とはつながっていません。

御殿のきわめてプライベートな奥向に通じる切手門。ここを通るためには切手(通行手形)が必要だったそうです。

門脇の石垣は切石積みで台形になっており、門礎石は石垣と一体化しています。親柱を土塀のような控柱で支える構造の切手門は、門扉は失われていますが、江戸期からの貴重な現存建造物です。

御殿が失われた数寄屋屋敷に建っているのは、明治期に建てられた旧第六旅団司令部です。

数寄屋屋敷と二ノ丸東部との段差には、石垣が積まれています。写真左側が雛土蔵の石垣で、そこから右(南)側では石垣が東へ折れ、再び南へ延びます。

石垣は大きさの揃った方形石材を用いた切石積みで、大きさの異なる排水口がいくつも設けられています。

ん、数寄屋敷?数寄「屋」屋敷では?


ここ数寄屋屋敷の石垣は驚くべき刻印の多さ! 数も種類も多いし、刻印自体が非常に大きく彫られています。

ここの石垣に関しては刻印よりも、中央やや左、下から二段目の連続する方形の凹みが何なのか、とても気になります。もともと建物の部材がはまっていた石材を再利用したのでしょうか。

数寄屋屋敷の南端付近には、二ノ丸東部へ通じる階段があります。ここを上ると、御殿の「御居間廻り」と呼ばれる藩主の居住エリアがあったようです。

この階段には踊り場があり、門礎石や石垣のほぞ穴が認められることから、門が建っていたと考えられます。

階段上から、数寄屋屋敷を見ます。左の石垣上には土蔵が、右の石垣上には風呂屋があったようです。
三ノ丸に戻り、土橋門跡から新丸へ向かいます。


切手門の北、三ノ丸の北西に位置する土橋門石垣です。説明の直上、正六角形の石材が防火の願いが込められた亀甲石です。文化年間の大火でも土橋門は焼失を免れたそうですが、現在は失われています。

亀甲石のある石垣はカラフルですが、反対側はモノトーンです。

重厚な櫓門だったという土橋門。門両脇の石垣は現存していますが、枡形石垣は見当たりませんでした。

土橋門跡を出て土橋を渡ると、北ノ丸です。かつて東照宮があったそうですが、明治期に城外へ遷座しており、北ノ丸は立入禁止エリアとなっています。

東へ歩くと、新丸へ通じる階段があります。江戸後期の絵図にも、このあたりに坂道もしくは階段が描かれているように見えます。右奥に、菱櫓が見えています。

階段の北に見える北ノ丸東面石垣は、当時のものでしょうか。
階段を下りると、新丸です。

新丸から、河北門を見ます。三ノ丸北辺は、西側では土塁、東側では石垣が積まれています。

河北門をズームで。新丸へ通じる土橋「河北坂」も、石垣で構成されています。


城内の官庁街・新丸は、建物が失われ、東西を分かつ堀も埋められ、広大な広場と化しています。

新丸広場の園路を北へ歩くと、雁木が設けられた石垣があります。

粗加工石積みの石垣には巨石が多用され、ひときわ大きな隅石が目を引きます。

隅が巨石な石垣の西側を北へ歩くと、またも巨石を多用した石垣があり、こちらには合坂が設けられています。

合坂石垣の右には張出部があり、先ほどの石垣と対になっています。ここが、大手門(尾坂門)跡です。

どうみても立派な櫓門が建っていそうな石垣ですが、大手門なのに棟門が設けられていただけというのが、ちょっと不思議です。


これまで見てきた石垣に比べ明らかに巨石マシマシ、大手の風格はビシビシ伝わってきますが、これらの石垣に見合うような建物の記録はないそうです。何か、建てられない事情があったのでしょうか。


これでもかと盛られる巨石。隅に縦置きしてる石が巨大!

建物がなくとも、加賀百万石の威厳は十二分に感じますね。

大手門を出たところに、大手町の碑があります。


現存する大手堀と、尾坂門台石垣です。城外側にも巨石が使われています。

西側には堀際に犬走りのような石垣がありますが……このあたりは後世の改変でしょうか。


新丸から城外へ通じるもうひとつの門、黒門(西丁口門)跡です。新丸の北西に位置します。
玉泉院丸へ向かいます。

数寄屋屋敷の南から、玉泉院丸へと通じる坂があります。このあたりにかつて数寄屋門があり、右が数寄屋門台石垣です。左の石垣上には、土蔵が建っていたようです。

数寄屋門台石垣です。数寄屋門は、どのような形式の門だったのでしょうか。

坂を下りると、面構成が複雑でカラフルな石垣があります。


色紙短冊積石垣です。V字形の石樋から埋め戻された滝壺石組まで、石垣の滝がここにあったそうです。嗚呼、なんということでしょう……これは曲輪を区画するものでも建物の基礎でもない、100%鑑賞のためだけの石垣なのです!

芸術性が高い、のではなく、芸術としての、庭園の構成要素にするべく積まれた石垣。いやーこういうのは初めて見ました。さすが石垣の博物館。

石垣の滝付近からは、玉泉院丸庭園が一望できます。池に三つの島が浮かび、木橋や石橋が架かっています。



復元された玉泉院丸庭園です。石垣が見事に、庭園の構成要素として取り込まれています。三十間長屋が少しのぞいていますが、かつては二ノ丸御殿も見えていたかもしれません。

紅葉橋跡です。池はこの手前で途切れ、橋跡は土橋状の園路となっています。

ひときわ高いのが、数寄屋門台石垣です。かつては石垣群の前まで池が延び、数寄屋門台石垣は門台であると同時に庭園の構成要素でもあったようです。

紅葉橋の西、玉泉院丸西側にあり金谷出丸に通じていたのが、鼠多門です。


素屋根の中では、鼠多門が復元されています。

工事の様子が見学できるようです。


木組はかなり出来ているように見えます。

見学台付近から、数寄屋門台石垣を見ます。

見学台から、玉泉院丸庭園に戻ります。

井戸です。現物は、埋め戻されています。

池泉庭園と、見せる石垣、海鼠壁の建物。金沢城らしい光景です。

庭園からは、三十間長屋がよく見えます。

休憩所「玉泉庵」の場所には、庭園の整備管理を担う「露地役所」があったそうです。

玉泉院丸西辺石垣が途切れている、庭園南側の場所です。ここから南の堂形方面へ抜けられる道が整備されていますが、当時このような道は無かったと思われます。
玉泉院丸を出ます。

商工会議所の前に建つ、旧西町の碑です。この付近は金谷出丸の北、「松原屋敷」の西側です。

伴天連屋敷が集まっていたという、甚右衛門坂下です。

北ノ丸へ通じる、甚右衛門坂です。

かつて北ノ丸にあった東照宮、尾﨑神社です。
締めは、金沢城のニューシンボル、復元建造物群です。

天守代用の風格を誇る菱櫓と、それに続く建物群です。この威容と、優美さ。
「美」へのこだわりがとめどなく溢れる石垣博物館・金沢城。復元整備は進行形で、鼠多門が完成したら必ずや再訪したいと思います。

日本100名城スタンプラリー、こちらで50城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。