鹿児島城に行ってきました。
日本100名城(No.97)に選ばれた、鹿児島県鹿児島市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
左に西郷さんにまつわるスポットの案内が見えますが、目は彼方まで伸びる石垣に釘付けです。ここは御厩曲輪の外周石垣北東隅で、どう見ても江戸期からの見事な現存石垣ですが、なんと昭和期に数メートル西(写真左→右)側へ移設・積み直しがされているというから驚きです。
御厩曲輪の外周北側を、西へ歩きます。
北東隅のすぐ西に石垣の開口部があり、門跡のようですが、塞がれています。
近くで見ると、上二段くらいの積み方が異なるように感じます。
こちらも門跡のようですが、塞がれ、ポストが置かれています。石垣開口部の右には門柱が見え、ここも先ほどの箇所も、門跡をそのまま門として使用していたのを、何らかの理由で塞いだのかもしれません。
一方、こちらの石垣開口部跡と思われる箇所(写真左)は石垣で塞がれており、早くから門として使用されなくなったのでしょうか。天端石にも、欠落が見られます。
こちらは……ゴミ置き場設置のために石垣が改変されてしまったようです。
御厩曲輪の北西隅まで来ました。この隅部石垣も改変があるようです。
ここまで歩いてきた御厩曲輪の北側には吉野橋堀という堀があったようです。また、この付近には城山の搦手口である「岩崎口」があったようです。
御厩曲輪の北西隅から線路を渡ると、南州翁こと西郷隆盛公が命を落とした場所に、碑が立てられています。
終焉の地より、城山を見ます。
御厩曲輪へ戻ります。
御厩曲輪の東側を、南へ歩きます。(写真は北へ振り返って撮影)
昭和期に移設があったにせよ、実に長大で見事な石垣です。
加工された石が隙間なく積まれた、切込み接ぎです。やはり、石垣の上二段は後に石塀が追加されているように見えます。
街灯の向こうに、石垣の切れ目が見えます。
明治に入り、御厩曲輪には西郷さんにより私学校が設立されたそうです。
近付くと、石の表面が美しく仕上げられていることが分かります。しかしこのあたりでは石の隙間が大きくなり、上の石塀は割れてしまっています。
石が破損している箇所もあります。
排水口と思われる石樋が設けられています。
御厩曲輪の南東隅が見えると、「西南戦争の銃弾跡」とあります。鹿児島城は、西南戦争の舞台となったお城のひとつです。
石垣上には弾痕を示す碑があり、その下の石垣には無数の穴が見えます。
これは……凄まじいですね。戦いの苛烈さが伝わります。上部の石塀にも弾痕が見られることから、西南戦争当時から石塀は存在したことが分かります。
西南戦争は、私学校生徒の暴走で始まった、とあります。
ここより西、御厩曲輪の南側には、当時の石垣は残っていないようです。
御厩曲輪と本丸の間の道を、西へ歩きます。
薩摩義士碑、西南戦争がらみの慰霊碑かと思ったら……薩摩からはるばる濃尾平野まで行き治水に尽力された方がいたんですね。
義士碑のすぐ南東に、本丸石垣の北西隅らしき隅部が見えます。
その東には本丸内への橋がありますが、当時の正式な出入口ではないようです。御楼門工事のための仮設橋でしょうか。
石垣に、排水口らしき穴が見えます。
東へ歩くと、石垣による土橋があります。
江戸期からの正式な本丸入口・北御門跡です。御楼門工事中は、こちらがメインゲートとなっている模様です。
北御門跡の東側石垣は、不規則な切込み接ぎから急に、石の大きさが揃い目地の通った布積みになっています。積み直しがあったのでしょうか。
本丸石垣も、御厩曲輪と同じく上二段ほどに石塀が見られます。
もう少し東を見ると、不規則な切込み接ぎとなり、鏡石のような巨石の使用が見られます。本丸北面だけで、様々な積み方があります。
ここにも石樋があります。
本丸北東隅では、隅部がふたつ見えます。鹿児島城の見所、鬼門除けの隅欠け石垣です。鬼門除けのやり方はお城により様々ですが、鹿児島城では隅部を方形に欠いたことで、隅部が連続する見た目となったようです。
隅欠け石垣と、御楼門跡です。訪問時の見所を凝縮した個人的ベストショットです。
隅欠け石垣と、北御門跡です。
「人をもって城となす」です。古写真には左から御角櫓・御楼門・多聞櫓が見えます。
鶴丸城の別名が有名な、島津氏代々の居城です。御楼門の高さは推定20メートル、国内最大級とのことです。
現在、本丸の大半は「黎明館」と名付けられた歴史資料センターで占められています。
復元工事進行中の、御楼門跡です。ここに、本丸石垣よりはるかに高い超巨大な櫓門が建つことを考えるだけで、ワクワクします。
江戸期に木橋から架け替えられたという御楼門へと続く石橋は、貴重な現存遺構です。柱や擬宝珠に、歴史を感じます。
字体がカッコいい、史跡碑です。完成の暁には是非、御楼門とセットで撮影したいものです。
御楼門跡より南にも、本丸の見事な高石垣が続いています。
その本丸石垣前では、発掘調査が現在進行形のようです。
ここでは、本丸外周の内堀と名山堀をつなぐ水路を調査しているようです。こうして詳細に内容を説明してもらえるのは非常にありがたいですね。
振り返ると、確かに向こうが低くなっているように見えます。調査により何らかの発見があることを、願っています。
本丸と二之丸の間は内堀で隔てられていましたが、江戸期の改修により埋められ、石垣の壁で塞がれてしまったようです。
内堀からは左(東:名山堀方向)へ金網で蓋をされた水路が伸びているようです。二之丸石垣には、当時のものと思われる石樋と、後世に改変・追加された排水管らしきパイプが並んでいます。
南へ歩き、二之丸外周を見ます。
二之丸北東隅を過ぎたところで、巨木が石垣に張り付いている光景にぎょっとします。
巨木はアコウという名で、宿主をキルしてしまうこともあるとか。石垣への影響が、心配です。
アコウ侵食エリアより南には、目地の通った布積み石垣が続きます。
堀跡……ではないと思われます。二之丸東面に堀はなかったようなので、近年追加された水路でしょうか。
近付くと、表面仕上げの様子と、弾痕らしき穴が見えます。上二段にはこちらも、石塀が載っているようです。
現在は図書館の正門となっている、二之丸矢来御門跡です。
石垣に継ぎ足しラインがありますが、ここが本来は門跡の右端でしょうか。
二之丸には現在、県立図書館があります。
さらに南へ歩くと、一旦石垣が途切れます。このあたりが御台所御門跡でしょうか。
こちらの道を西へ歩き、二之丸内へ入ります。
自転車置き場からは、外周石垣の内側が土塁となっているのが分かります。
二之丸は、西南戦争で焼失したようです。
矢来御門跡を内側から見ます。当時も、このような枡形虎口だったのでしょうか。
東面石垣を内側から見ると、後に追加されたと思われる石塀部分だけが飛び出しています。
二之丸北東隅を内側から見ます。内堀を塞ぐ石垣の上端には、石塀の屋根が載っています。
図書館の西側へ向かいます。
西門とありますが、ここは二之丸の内部にあたり、当時の門跡ではないようです。
図書館の裏手、二之丸の西側は非常に高くなっており、絵図などを見る限り、本丸は二之丸の北西あたりまで張り出していたようです。
本丸南面石垣です。かつてはこの南まで、内堀があったようです。
階段を下りると、近くで石垣を観察できます。表面仕上げがあること、石垣に劣化がみられること、上端部に追加の石積みがあること、等が分かります。
この階段の上あたりに、本丸大奥があったのでしょうか。この付近には、右手の本丸へ出入りできる「朱御門」があったようですが、このような階段が右手の本丸石垣に設けられていたのでしょうか。
階段の左手、土塁上部に石積みが見えますが、当時のものでしょうか。
大奥跡と思われる駐車場の北側には現在、埋蔵文化財センターの作業小屋?があります。
駐車場の東、本丸南面石垣の北には、おびただしい量の石材が並んでいます。
ほぞ穴が見えたり、タグが付けられているような石もありますが、お城関連の遺構でしょうか。
この膨大な数の石について、説明が欲しいところです。
左奥に御角櫓跡が見えますが、立入禁止でした……。
麒麟の間の基礎が表示されているようですが……鮮明な古写真もあるようなので、もう少し踏み込んだ復元表示を望んでしまいます。
石垣模様のフェンスの向こうでは、壁土練りが行われているようです。
少しでも状況が知りたくて、窓から覗き込んでしまいます。
フェンス越しに、桜島が見えます。
これは……「新橋」と書いてあるのでしょうか。かつて吉野橋堀の東には新橋が架かっていたようなので、もしかするとその柱かもしれません。
本丸側から北御門跡を見ると、堀の外側にも石垣が積まれていることが分かります。
黎明館へ向かいます。
本丸御殿っぽく見えなくもない黎明館、八角堂のような形状の建物が気になります。
館内へ入ります。100名城スタンプは、館内で押しました。
撮影OKマークが嬉しいですね。
実物大の御楼門が見られるまで、もう少しです。
常設展示にも、いくつか撮影可能なものがあります。
鹿児島にある続日本100名城のひとつ、志布志城の模型は、スケールもクオリティもグレイトでした。
(※奥の展示物が撮影可能か確認できないため、モザイクをかけています)
いつか訪れる時のために、しっかり予習しておきたいですね。
薩摩藩の外城のひとつ、出水外城の麓模型です。
郷士の屋敷門が、実物大(?)で展示されています。
外から見て気になっていた八角堂風建物の中には、鹿児島城本丸建物の模型があります。
まず、建物の名称が詳細に記されたこの図が素晴らしい。とても参考になります。
本丸南面の内堀は、江戸期に完全に埋められたわけではなかったのでしょうか。
北御門は、多聞櫓の間に挟まれるような形状だったようです。
背後には、城山がそびえます。
図書館西側の高まり上に、大奥がありますね。
御楼門付近をアップで。
古写真に近いアングルで。いつか、古写真と同じ光景を実物大で見られる日が、来るのでしょうか。
建物は残りませんが、長大な石垣から往時の壮大なスケールを体感できる鹿児島城。進行中の発掘調査にも期待だし、何より復元中の御楼門が楽しみでなりません。完成したら是非、再訪したいと思います。
日本100名城スタンプラリー、こちらで22城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。