飫肥城に行ってきました。
日本100名城(No.96)に選ばれた、宮崎県日南市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
佐土原城を訪問後、JRで飫肥駅へ到着しました。駅舎近くの倉庫?には、飫肥城の大手門らしき絵が描かれています。
駅舎も、城郭建築風で素敵です。
駅から国道を歩くと、岩崎稲荷神社の鳥居を過ぎ、酒谷川に架かる橋の手前に「是より飫肥城下町」と書かれた碑があります。
橋を渡ると、レトロな街灯に「本町商人通り」とあります。このあたりはまだ現代の街並みですが……。
国道を歩くうちに歴史を感じる建物がちらほら目に入るようになり、やがて「飫肥城入口」の碑を見つけます。
案内に従い、神社横の道へ入ります。
国道から大手門通りへ踏み込んだ途端、景色が一変します。道路こそ舗装されていますが、瓦屋根の木造建築が並び、奥には石垣も見えます。昔ながらの城下町が良く残っており、タイムスリップしたような気分になります。
この立派な石垣の武家屋敷に驚かされます。ここは飫肥藩の藩医邸として江戸末期に建てられた「小鹿倉家」のようです。
大手門通りの交差点でふと側溝を見ると、鯉がいてびっくりしました。このあたりで放流しているようです。
このあたりは、伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。
駐車場の入口に、大きな建物があります。看板を見る限り、料理店のようですが……右隣の説明板を読んでみます。
説明板によると、もともと飫肥藩の役所建物だったものが倉庫として利用され、幾度かの移築・修復を経て現在は「おび天蔵」となっているようで、飫肥藩唯一の現存建造物ということらしいです。
なるほど、横から見ると「長倉」という名称にもうなずけます。
屋根瓦には伊東氏の家紋である「十曜」が見えます。
飫肥城下の有料施設が紹介されています。七つの施設を610円で回れるのはお得感ありますね。
駐車場にある券売所で、チケットを購入します。
大手門へ向かいます。
長倉の東に伸びる大手道を北へ歩くと、道の両側に石垣の壁が続き、その先に大手門がそびえる、素晴らしい光景が現れます。
右手の石垣は方形に加工された石が多く用いられた切込み接ぎで、上部は加工も表面仕上げも精度が高く、端の石はカマボコ状に丸くカットされているのが目を引きます。
このあたりなど、まるでレンガ塀のように石の大きさまで揃っており、上端部にはやはりカマボコ状に加工された石が見えます。
大手門の手前まで来ました。左の石碑上部に刻まれた「庵木瓜」は伊東氏の家紋です。
説明板によると、大手門は昭和期に木造復元され、木材には飫肥杉が用いられたそうです。「月星九曜紋(十曜紋)」と「庵木瓜」はいずれも飫肥藩主である伊東氏の家紋ということですが……木瓜の漢字、間違えてますね。
大手門前には空堀があり、土橋が架かっています。土橋の中ほどには水を通すための穴が開いているようですが、当時は水堀だったのでしょうか。
空堀は土橋の東西に伸びています。
大手門石垣は切込み接ぎで、門脇の土塁基部にも石垣が築かれています。脇戸手前下部に見える排水口は当時のものなのでしょうか……コンクリートのようにも見えますが。
門柱が礎石に載っているのが分かります。右手の低い石垣は、崩落防止の補強用でしょうか。
大手門をくぐると、前方に石垣の壁があり、枡形状の虎口になっています。よくある外側が高麗門・内側が櫓門の枡形ではなく、飫肥城は外側にいきなり櫓門がそびえ、内側に門は設けられていないようです。石垣の上に土塀が復元されており、「お城感」が出ています。
大手門枡形の、様々な形状の石がパズルのように積まれた切込み接ぎ石垣です。復元土塀には、長方形の矢狭間と円形の鉄砲狭間が見えます。
こちらの説明板によると、大手門は国内に現存する大手門を参考に復元された、とあります。明治初期まで在ったようですが、古写真や図面は無かったのでしょうか。
門の内側に、説明板にあった碑文入りの石が展示されています。正徳三年に門と石垣を修復した際の普請奉行や大工棟梁など関わったスタッフの名前が記されているようです。これは貴重な資料ですね。
枡形内部から、大手門を見ます。右側の石垣がやけに赤っぽいの、気になります。門の鬼瓦にあしらわれた庵木瓜を近くで撮影し忘れました……。
飫肥城大手門の虎口が面白いのは、二段構えのような構造になっている所です。大手門を越えて正面に立ちはだかる石垣を避けてもなお、左の幅が広い石段を上らないと城内へ入れません。
大手門枡形の北面石垣の裏側には兵の待機スペースがあり、大手門を越えてきた敵を狙い撃ちにし、枡形を敵が突破しても、石段を上る敵を側面から撃つことができるわけです。これは堅固。
石段が途中からやや狭められているのも良いですね。土塀の瓦には、十曜紋が見えます。
土塀の鬼瓦に、庵木瓜紋を見つけました。江戸期から存在するような風格を、土塀から感じてしまいます。
土塀の裏側には、控柱がかなり狭い間隔で並んでいます。
大手門北東側の土塀を見ます。
大手門の北側に、本丸があります。
大手門を越えると、本丸石垣が立ちはだかります。石垣の向こう、御殿のように見える建物は、歴史資料館です。
東を見ると、石垣が奥まっている所に南虎口があり、奥には櫓台が見えます。本丸石垣上にも、土塀が復元されています。
石垣上部の色が異なるのは、土塀復元の際の積み直しによるものでしょうか。
本丸の南に設けられた虎口を見ます。
虎口南側の石垣を側面から見ると、上部だけ垂直に切り立っており、特徴的です。
南虎口の背後(東)には、隅櫓が建っていたと思われる櫓台があります。現在は、鐘つき堂が見えます。
櫓台石垣も、上部が垂直になっています。本丸外周の帯曲輪状になっているエリアは、土塁で囲われています。
このあたりは犬馬場と呼ばれていたようです。
櫓台を見ます。石垣の色から、ここは当時のままかもしれません。
現在、本丸の大半が小学校敷地となっており、あまり学校エリアに接近するのもどうかと思ったので、櫓台から北へ行くのはやめておきました。
それにしても櫓台石垣の独特な隅のライン、良いですね。
大手門から西へ歩きます。
本丸の南西は、巨木が生い茂る林と化しています。右奥に、石垣が見えます。
右手石垣の上は松尾の丸で、その南に帯曲輪的なエリアがあります。帯曲輪がこの先、松尾の丸の西側にも続いているのか、奥へ歩いていないので不明です。
木の根に侵食されて石垣が崩壊寸前です。下の方には、不用な矢穴があります。
本丸の南西より、本丸方向を見ます。この巨木は飫肥杉と思われますが、廃城から150年も経たないうちにここまで成長するのが驚きです。
左手の苔むした石垣上が松尾の丸、右奥の土塀付き石垣の上が本丸、中央奥に見える幅広の石段が本丸正面入口にあたる大手口と思われます。
隅のラインが美しいです。
幅広でゆるやかな石段を上ります。本丸入口の枡形四隅に、巨大な飫肥杉が生えています。
松尾の丸側の石垣上部は、土塁になっています。
本丸側の石垣上部には、苔が見られません。歴史資料館の屋根が見えます。
石段を上ったところに、門跡があります。礎石の脇には低い石垣も残っています。
門の前のこのスペースには、番所などがあったのでしょうか。石段と石垣の間には、側溝が見えます。
低い石垣の間には高麗門が建っていたのでしょうか。礎石のそばにある低い石柱の役割も、気になります。
枡形四隅の飫肥杉は「しあわせ杉」だそうですが、それよりも立札の背後に転がっている控柱のような石材が気になります。
本丸内側より、枡形を見ます。西・北・東に土塀が復元されています。
大手門とは違い、枡形の内側にも門礎石らしき石が見えます。ここには櫓門があり、外に高麗門・内に櫓門というスタンダードな枡形虎口だったのでしょうか。
門跡両脇の石垣上には控柱らしき石が残されていますが、当時はここにも土塀があったのでしょうか。門構造が気になります。
門跡を越えると、全方向に石段が築かれています。本丸がこれだけ高くなっていることが分かります。
松尾の丸へ向かいます。
松尾の丸には「岡城や二条城を参考に御殿を建設した」とあります。当時は侍屋敷があったようですが、説明板には御殿を「復元」したとはありません。つまり、当時の松尾の丸にこのような御殿は存在せず、模擬御殿ということになります。
石段の上が松尾の丸で、本丸よりかなり高い所にあります。石段は後世に築かれたように見えますが、当時の出入口はどのようなものだったのでしょうか。
石段を上る前に、土塀越しに本丸入口の枡形を見ます。めちゃめちゃ年季の入ったように見える土塀、素敵です。
石段を上るとすぐ、模擬御殿が建っています。
立派な蔵もあります。
玄関です。
廊下には、竹の節欄間が見えます。
これは、飫肥藩の御座船模型でしょうか。説明板を撮影しておくんでした……。
「復元ではありません」と潔く書かれています。発掘調査もされていないのは、残念です。
復元ではないということで、各部屋を流し見ていきます。
トイレもバッチリ再現されています。
脱衣所とお風呂です。
こちらが聚楽第と同様の湯殿ですね。ゴージャス。
再現度はなかなかのもので、土間の上には煙出し窓が見えます。
蘇鉄は江戸時代以前から植えられていたんですね。
無双窓のサンプルです。
ひととおり屋内を歩き、外へ出ます。
玄関です。屋根瓦にはしっかり、十曜紋と庵木瓜があしらわれています。
模擬とはいえ、これだけの御殿建築を見て回れる所はなかなか無いと思います。
松尾の丸外周は、かなりの高さがある土塁で囲われています。
土塁の基部には、丸みのある石が積まれています。
本丸側には高い土塁がありません。本丸造成時に松尾の丸は縮小されたらしく、本丸側が削り取られたようです。
松尾の丸石段上より、本丸方向を見ます。小学校のグラウンドあたりが、本丸の中央にあたります。
飫肥城の本丸は江戸時代に移転しており、元々の本丸は別の場所にありました。
案内板の背後、写真右手に見える生垣の向こうが本丸で、本丸の北西、左奥の土塁上が旧本丸です。
旧本丸南斜面の基部には、石垣が見えます。
三度の大地震により地割れが発生したことが、本丸移転の原因だそうです。説明板にある古図は、年代からみて本丸移転前の図でしょうか。
説明板の背後が本丸です。松尾の丸もそうでしたが、かなりの高さです。こうした台地状の曲輪がいくつも連なる構造(群郭式)が、南九州の中世城郭では一般的なようです。飫肥城は本丸移転など近世城郭化をしつつも、中世城郭の縄張りを残しながら存続したということでしょうか。
旧本丸への入口として東側に設けられた石段です。移転前の絵図にも描かれており、古くからあるものと考えられます。
石段の端には、立派な巨石が並んでいます。右奥に柵が見える所が、旧本丸の東を区切る空堀と思われます。
巨石の下を、排水溝がくぐっているようです。
石段が西へ折れます。
かつての威容が窺える、旧本丸東虎口です。左の石垣上には、虎口を守る櫓などがあったのでしょうか。
石段中央に設けられた石畳の中に門礎石らしき石が見えますが、石畳自体が後世の追加という可能性があり、転用された礎石かもしれません。
石段を上ると、石垣で囲われた枡形虎口となっており、門礎石が残っています。
枡形虎口南の石垣、反りも折れもない見事な直線の隅部です。
枡形石垣は隙間なく加工された切込み接ぎで、南面と西面で苔の差が激しいです。
門礎石には、ほぞ穴が見えます。
立派な礎石が、かつての本丸入口にふさわしい立派な門を想像させます。
北側の石段上より、枡形を振り返ります。
この石段を上ると、旧本丸です。
石段を上って右手が、旧本丸の北東隅にあたります。
北東から北西へ、石段あたりから旧本丸を見渡します。右奥に、北側虎口の門が見えます。
南側も見ます。かつて藩主の御殿が建っていただけあって、かなりの広さです。
樹齢百年を超える飫肥杉に圧倒されます。巨木が林立する光景は、打ち捨てられた本丸の廃墟感を演出します。
絵図によると、この石垣上部も地震による地割れが酷かったようですが、現在その痕跡は見当たりません。地割れは補修されたのでしょうか。
礎石のような石列を見つけました。御殿の礎石でしょうか。
柵の向こうに放置された石材や池のような窪地に、旧本丸御殿への想像がかき立てられます。
そこかしこに、整形された石や石列が見えています。発掘調査はされているのでしょうか。築山のような高まりも、気になります。
北虎口付近には、手水鉢があります。すぐそばの石は足場と思われますが、少し離れた所に置かれた石は……何でしょうか。足場らしき石には、矢穴が見えます。
美しく方形に整形された手水鉢の上側も、綺麗に円形にくり抜かれています。旧本丸が使用されていた頃から、手水鉢は存在したのでしょうか。
北虎口には、門があります。現存門のような風格すら漂いますが、どうなのでしょうか。美しく表面仕上げされた石材による石段が印象的です。
門の両脇には、雁木と土塀が設けられています。
門を背に、旧本丸を見ます。北虎口と手水鉢との位置関係が分かります。
門の外側にも、表面仕上げされた石段が続き、左右には石垣が見えます。
外側から、旧本丸北虎口の門を見ます。
石段脇の石垣は、苔がびっしりです。
グラウンドになっている場所や、写真左の森も、曲輪のひとつだったようです。
旧本丸の北側は断崖になっており、ものすごい高低差です。
北虎口の周囲にのみ、しっかりと石垣が築かれているようです。
旧本丸から、本丸へ戻ります。
本丸の大手虎口まで戻ってきました。正面に、歴史資料館が見えます。
御殿というよりはお寺の本堂みたいに見える、歴史資料館です。屋根瓦には庵木瓜と十曜紋が見えます。100名城スタンプは、こちらで押せます。内部は撮影禁止でした。
松尾の丸と旧本丸との間にある堀切です。この先には酒谷川へ通じる水の手口があり、途中には門が建てられていたようです。
水の手口はとても通行できる状態ではなく、ここまでで断念しました。
本丸側から、南虎口を見ます。絵図によると、下の方の石段踊り場あたりに門があったようです。
南虎口の門跡から、本丸石垣を見ます。右寄りにある継ぎ目は、本丸拡張の跡か、あるいはこの南虎口を設けた際の改変か……何らかの手が入っているのは間違いないでしょう。
城内の散策を終え、城下町を見て回ります。
大手門をくぐり、城外へ出ます。
大手門南から東へ伸びる道は、写真右に「横馬場」とあり、馬場だったようです。左手は堀の南を区切る石垣、右手は武家屋敷の石垣です。
堀側の石垣上端には、横長の方形に加工した石が並んでいます。
武家屋敷側の石垣手前部分は、坂道になっていることもあってか、複雑な構成です。
堀側の石垣は途中でなくなり、堀は北へ折れます。
石垣の連なる武家屋敷通りをさらに東へ歩き、ひとつ北の通りに、長屋門があります。
飫肥藩の藩校、振徳堂です。
長屋門と母屋は、現存のようです。
屋根瓦には十曜紋、写真だと見づらいですが蟇股には庵木瓜があります。
玄関の奥に、振徳堂の扁額が見えます。建物内に入ることはできません。
机が並べられ、学校っぽさがあります。
北側から、母屋と長屋門を見ます。
南西から、母屋を見ます。大手門より内には現存建造物は無いようでしたが、こうして藩校が現存しているのはとても貴重です。
内側から、長屋門を見ます。
長屋門の脇戸です。木材に、歴史を感じます。
横馬場通りに戻ります。右手の武家屋敷は「伊東民部邸」とあります。
右手の軒丸瓦が埋まっている石垣は、小村寿太郎氏の生家だそうです。
表面仕上げも美しい、切込み接ぎ石垣です。
大手門前まで戻ってきました。
大手門の南西にある、豫章館です。
明治に入り、藩主が城内から移り住んだ屋敷だそうです。
門を越えると、左手に蔵が、奥に母屋が見えます。
蔵の手前には、塀と門が設けられています。
説明板のとおり、母屋には表玄関と、右手に脇玄関があります。
玄関屋根の鬼瓦には十曜紋、奥の屋根と玄関の蟇股には庵木瓜が見えます。
玄関奥に、豫章館の扁額が見えます。建物内は、立入禁止です。
パンフレットによると、母屋は本丸奥御殿の書院を移築・改変したものだそうです。
屋敷の南には、広大な庭園があります。蘇鉄、ありますね。
屋敷南側の塀に設けられた門です。
屋根付きの塀には、控柱があります。
屋敷の南西には、お茶処が建てられています。
屋敷の西側へ歩きます。
トイレの左に、御数寄屋と案内が見えます。
トイレのすぐ西には石垣と石段が築かれ、一段高くなっています。奥に、御数寄屋が見えます。
屋敷の離れにある、御数寄屋です。
数寄屋の北側には、大手門から続く堀や土塁が確認できます。
中には入れませんが、めいっぱい接近します。こちらは勝手口でしょうか。
豫章館の石垣上には、大手道沿いに下見板張りの塀があります。
主要部は学校敷地と化していますが、群郭式の中世城郭を近世化改修した縄張りには見所が多く、現存藩校、石垣造りの武家屋敷など城下を歩いているだけでも江戸タイムスリップ感を味わえる、城下町含めて楽しめる城跡です。
日本100名城スタンプラリー、こちらで21城目となります。
素敵なお城でした。ありがとう。