お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

57.佐土原城

佐土原城に行ってきました。

続日本100名城(No.196)に選ばれた、宮崎県宮崎市にあるお城です。

 

佐土原城は山城と山下の居館部から成り、山上では天守台が発掘され、日本最南端の天守台とされているようです。

大阪から夜行バスで宮崎市中心部へ到着後、路線バスで城跡のすぐ前まで来ます。現在二の丸跡に建つのが佐土原歴史資料館「鶴松館」です。

島津忠興公により山城から山麓に移された居館が、今いる鶴松館のようです。鶴松館という名前は、佐土原城が鶴松城と呼ばれる時期があったことに由来していると思われます。

立札によると、鶴松館は土日祝日のみの開館で、平日は道路を挟んで反対側にある「城の駅 佐土原いろは館」で続100名城スタンプを利用できるそうです。

鶴松館の前は駐車場となっているのですが、駐車場の傍らに国指定史跡の標柱が見えます。

会所跡、とあります。どうやら駐車場のあたりも城域で、三の丸だという情報もあるようです。

駐車場から二の丸を見ます。一段高い所に門と左右に伸びる塀があり、門の向こうに御殿の屋根が見えます。非常に立派な構えです。

標柱に内堀跡、とあります。二の丸前面には当時、内堀があったようです。

マンガ入りの山城説明板です。遺構が残る山城をじっくり見たかったのですが…。

二の丸御殿の門前まで来ました。門の上部には鶴松館の名称が掲げられており、門の向こうには御殿の玄関が見えます。

続100名城スタンプは、門を入って右手で押せます。

波しぶきがデザインされた瓦は、火除けの意味が込められているのでしょうか。

 

二の丸へ入ります。

二の丸には大広間、書院、数寄屋が当時の遺構に基づいて復元され、鶴松館として利用されています。説明板によると、西側と北側にも柱穴が見つかっており、御殿はもっと大規模だったようです。

御殿玄関です。屋根瓦には、島津氏の家紋である丸に十文字があしらわれています。

建物の絵図は残っておらず、寛永期の武家屋敷を参考に復元したそうですが、このアングルだと二条城御殿の外観に似た部分を感じます。現存御殿も、少なからず参考にされていることでしょう。

 

残念ながら館内は撮影禁止のため、外観をじっくり見ていきます。

御殿が建っているお城は現存・復元を合わせても天守に比べ非常に少なく、とても貴重です。更地に「ここに御殿がありました」という立札だけがあるのと、実際に建造物があるのとでは、説得力が圧倒的に違います。

 

庭園も、御殿に合わせて美しく整備されています。

大広間と書院との間にも、中庭のような庭園が設けられています。

書院です。とても立派な建物です。

書院の前方(東側)に、建物跡のようなスペースがあります。どのような建物があったのでしょうか。

南東から御殿を見ます。左にエアコンの室外機らしき機器が見えますが…もう少し目立たない配置にしてほしかったです。

書院の南に、数寄屋があります。

数寄屋と書院は、渡り廊下で接続されています。

作庭の整備方針が説明されています。遺構に基づく復元ではなく、敷地や建物を考慮した整備のようです。

こちらが築山枯山水式庭園、ということでしょうか。

一部撮影できる部屋もあったようですが、建物内はほぼ撮影禁止なのです…。

北西から御殿を見ます。

御殿西側を仕切る、冬にもかかわらず花満開の生垣です。これは、ツバキでしょうか。

おや、屋根の隅に一風変わった瓦が見えます。

後ろ足を高く上げた狛犬のように見えます。瓦にも色々ありますね。

 

この付近では、イノシシが出るようです。

地面がえぐれている箇所、もしかしてイノシシの足跡でしょうか。ちょっと怖いです。

南西から御殿を見ます。右手前は数寄屋です。

 

注意事項の書かれた城址公園の説明板を見つけました。明治の城図が載っています。

この先が山城への登城路になっているようですが…。

追手口の看板は倒れ、先へ進むことができません。

今秋の台風被害により、山城部分へは立入禁止となっています。日本最南端の天守台など素晴らしい山城遺構を見たかったのですが…仕方ありません。

御殿の西側及び北側に広がる平地部にも、城の施設があったようです。いくつか標柱が立っています。

代官所跡です。

反米役所跡です。このあたりは、お役所エリアだったようです。

役所エリアの西側にも中之道という登城路がありますが、こちらも通行止めです。

中之道入口の北には、出土文化財管理センターがあります。

「従是南西 佐土原領」の領境石は他所から移設されたもののようですが、貴重な当時の遺構といえるでしょう。

なんと、閉館してしまったようです…残念。

出土文化財管理センターの場所には当時、御普請所が建っていたようで、根石遺構が発掘されているそうです。

出土文化財管理センター付近から、御殿のある東方向を見ます。当時はこのあたりに藩の施設がいくつも建っていたのでしょう。

 

二の丸御殿入口まで戻ります。

この左右に長く伸びる塀が、やすやすと立ち入れない御殿の特別感を引き立てていると思うのです。

 内堀跡から、御殿を眺めます。

 

山城へ登れなかったのはとても残念ですが、復元御殿とその背後に広がる役所エリアからは江戸期主要城郭部分の規模を体感できました。いつか山城部分が復旧されたら、日本最南端の天守台をこの目で見てみたいものです。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで4城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

56.掛川城

掛川城に行ってきました。

日本100名城(No.42)に選ばれた、静岡県掛川市にあるお城です。

 

駿府城の後に訪れたため、掛川駅着が14時前となりました。

駅前に徒歩七分と案内パネルがあります。パネルの写真、とても良い構図ですね…見習わねば。

 

大手門通りは、白壁に瓦屋根の建物が並び、景観が整備されています。写真右の建物はなんと、信用金庫です。

奥に、復元された大手門が見えています。

近くまで来ると、その大きさが分かります。大手門にふさわしい、立派な構えです。

説明板によると、本来は50mほど南側に建っていたようですが、道路の表示は見つけられませんでした。

左に脇戸があり、屋根には鬼瓦と、大きな鯱が載っています。

門の前から、遠くに天守が見えています。

門の向こうには、番所が見えます。説明板によると、当時もこのような位置関係だったようです。

北から大手門を見ます。左には二階櫓へ上がる階段があり、右側にも何かあるようです。

門の右側に展示されている、根固め石です。安定のため、礎石の下に配置されていたそうです。根固め石の前には歴代城主名が家紋入りで掲示されていたのに、ちゃんと撮影していません…。

大手門の復元に合わせて移築された、現存番所です。番所の現存例は少なく、貴重な遺構です。

屋根瓦の桔梗紋は、明治まで掛川藩を治めた太田氏のものでしょうか。

近世城郭の主要な門には番所が附属することが多かったようですが、現在、門と番所の両方が見られるお城は非常に少ないと思われます。そんな中、大手門と番所をセットで見られる掛川城の大手門は、当時の雰囲気をより感じられます。

 

大手門の北にある大手橋です。当時もこのあたりに橋が架かっていたようです。

大手橋の親柱は、大手門のような形状をしています。

大手橋の中ほどから、天守を見ます。天守の南には、太鼓櫓が見えます。

大手橋の架かる川が逆川で、掛川城のすぐ南を流れ、天然の堀として機能していたようです。

大手橋から振り返って、大手門を見ます。当時の大手門は、もう少し南にあったようです。

絵図によると、大手橋を渡った所にも門が建っていたようです。

大手橋から北へ歩き、交差点に差し掛かると、大きな瓦屋根風建物が見えてきます。掛川中央図書館です。

交差点を西へ歩いていくと、道路の南側に細い水路を見つけました。絵図と見比べたところ、堀の名残ではないかと想像して、石垣もそれっぽく見えてきます。

さらに西へ歩くと、道路の北に赤い橋の架かる大きな池がありますが、これも堀跡と思われます。

絵図によると、この堀の南東(写真左手前の道路上付近?)には門があり、写真奥の道路曲がり角手前にも門があり、現在の道路が当時は門で仕切られた大手道として描かれています。

大手道の南側にあるのが、三の丸跡です。現在は三の丸広場と呼ばれる公園になっています。奥に四足門と太鼓櫓が見えています。

道路を挟んで右が本丸、左が三の丸です。

 

二の丸へ向かいます。

絵図によるとこちらの二の丸入口には表門があったようですが、階段や塀は後世に築かれたように見えます。門柱の向こうに、御殿の玄関が見えます。

よく見ると、写真右には城址碑が写っています。

むむむ、この特徴的なウロコ状の石垣は古そうですが…いつの時代のものでしょう。そして石垣に気を取られ、訪問時には城址碑の存在に気付いていなかったようで、この写真でも右端にサイドがわずかに写るのみです。残念。

特徴的な破風の写真や間取り図付きの説明板です。現在ある御殿は、駿府城にも甚大な被害を及ぼした東海地震により倒壊した後、文久元年に再建されたものだそうです。

これまで現存四御殿を二条城、高知城川越城と訪れてきて…ついに来ました四つめ、掛川城二の丸御殿に! って、手前のポール邪魔ですね…。

中へ入る前に、外側を一周してみます。

 

玄関の右手にも入口が設けられていますが、現在こちらから入ることはできません。

東側が出っ張っています。

ここにも出入口が設けられていますが、やはり現在は出入り不可です。戸の奥は土間でしょうか。

北側へ回ると、天守が見えてきます。

西側には、縁側が設けられています。

西側の中ほどに突き出た小部屋がありますが…戸に何か書いてあります。

「城主の厠」とあります。トイレですね。

この下から、汲み取りをしていたのでしょうか。

書院棟を西から南へ歩くと、再び玄関が見えてきます。

掛川城御殿で最も特徴的なのが、この玄関屋根の起破風(むくりはふ)ではないでしょうか。このなだらかな凸曲線、なんとも味わい深いです。屋根瓦や蟇股には、現存番所と同様に桔梗紋があしらわれています。

 

玄関から、御殿の中へ入ります。

玄関の注意書きに「撮影OKです」を確認します。ありがたいですね。

玄関を上がり、外を振り返ります。当時も門柱の場所に門があったとしたら、門をくぐるといきなり御殿玄関なんですよね…ビビりますよね。

100名城スタンプは、御殿内で押せます。番号を書いてくれているのが親切ですね。

玄関を入ってすぐの広い部屋が、御広間です。現在は受付があり、100名城スタンプやお土産売場もあります。

玄関東側出入口から外を見ると、すぐそばに土塁が見えます。

御広間の西は、随分と開放的な感じです。左に見える黒い欄間は、高知城にもあった竹の節欄間でしょうか。

三の間です。

太鼓櫓に置かれていた大太鼓と思われます。

三の間の北が、御二の間です。

二条城などに比べると欄間や釘隠しはシンプルですが、そこがまた味わい深いと思うのです。

三の間の西が、次の間です。ここで城主を待つの、緊張しそうですね…。

御二の間の西が、御用部屋です。

御用部屋からは、中庭が見えます。

ただ中庭を撮影しただけなのですが、改めて写真を見ると、屋根の重なりや雨戸の様子、床の高さ、柱の礎石など、たくさん見所がありますね。

次の間の北には、格式高そうな部屋があります。

御書院上の間です。城主様の、おなーりー。

床の間の掛け軸は、太田家の家老が書いたものとあります。「虎」? これ、虎の字なんですね…。

違い棚です。釘隠しをよく見ると、これも桔梗紋なんですね。

上の間の北には、板張り廊下があります。

おや、上の間の北側に、似たような部屋があります。

小書院は、城主のプライベートルームだったようです。

小書院の北に、次の間があります。

さらに北には、長囲炉裏の間があります。現在、囲炉裏はないようですが、鎧兜が展示されています。そして、天井に注目です。

太田氏の家紋・桔梗と、替紋・違いかぶら矢が彫られています。

御殿再建の上棟式に用いられた、梵天という祭具が展示されています。

長囲炉裏の間の北にある廊下を東へ歩くと、途中に階段が設けられ、床が低くなります。

格子窓の南に、奥庭が見えます。中庭より南北に長い庭です。

廊下の先は窓がなく、薄暗くなっています。右手に土間があり、土間の左にも部屋があるようです。

土間の左(北側)の部屋は、足軽目付の部屋だったようです。

桔梗紋の入った長持や、車長持が展示されています。

土間の西からは、奥庭がよく見えます。

おや、階段があります。てっきり平屋かと思いましたが、二階があるのですね。

二階は書庫だったようですが、現在は非公開とのことです。

土間の南に、徒目付の部屋があります。

ここから南は、床が元通り高くなります。

徒目付部屋の南には、吟味奉行の部屋があります。裁判所とか警察とか税務署とか、そんなところでしょうか。

吟味奉行部屋から廊下を挟んで西には、大目付の部屋があります。ここは畳敷きですね。

大目付部屋からも、奥庭が見えます。長囲炉裏の間と土間方面との床の高さの違いが、よく分かります。

大手門や御殿の棟札が、綺麗に残っているんですねえ。素晴らしい。

大目付部屋から廊下を挟んで南に、御用人部屋があります。南側が中庭に面しています。

城郭模型が展示してあります。門や櫓の配置はよく分かりますが、縮尺はアバウトな雰囲気です。御殿は省略されているようです。

吟味奉行部屋の東にある、張役所です。展示物がたくさんあります。

でかいヤカンと行器です。

張役所の東にある、賄方です。ここも展示品でいっぱいですが、当時は経理関係の書類でいっぱいだったのでしょうか。

ここは屋根裏が見えています。

桔梗紋の瓦が出土しているようです。左は、状態が良いですね。

御広間の北にある、御談の間です。

御殿平面図です。一階にあるほとんどの部屋を見て回れたようです。

御殿の側溝、御殿側は古そうですが、外側は新たに作り直しているように見えます。

現在、御殿と天守が両方存在するお城は、掛川城の他にはごくわずかです。

だから、御殿の向こうに天守が見えるこの光景は、とても、とっても貴重なのです。

 

本丸へ向かいます。

御殿玄関前にある二の丸入口の西側に塀の切れ目が設けられ、本丸に通じています。が、絵図などを見ても二の丸への門が描かれているのは御殿玄関前の南と東だけで、当時ここには出入口は無かったようです。

三日月堀の説明板です。発掘写真にもある並んで見つかったたくさんの柱穴…一体どのような役目をしていたのでしょうか。

本丸門の前方にある、三日月堀です。この角度だと、三日月のような形状がよく分かります。三日月堀の内側(写真右側)には、堀と門で囲われた馬出のような空間が形成されていたようです。

それにしても…コンクリートで固めたような堀の外周はもうちょっとどうにかならなかったのでしょうか。

三日月堀の南側には石垣が見えますが、説明板の発掘写真ではここまで明瞭な石垣は見られなかったので、復元石垣でしょうか。

綺麗に積まれた石垣と、コンクリートとのギャップに残念さを感じます…。

左が三日月堀、右が十露盤堀です。絵図ではこのふたつの堀の間に四足門があり、門の先は馬出的な空間になっていたようです。

本丸東側を囲い、本丸と二の丸を区画する十露盤堀です。ここにもコンクリートが…うーん。

絵図だと丸みがあるのですが、やたらカクカク復元されています。

絵図では十露盤堀がさらに北へ伸びているのですが、復元はここで途切れています。

 

三日月堀・十露盤堀と四足門・本丸門に囲われた馬出的空間へ向かいます。

馬出的空間には、掛川城の主要部が1:150スケールで製作された城郭模型があります。

この説明板、門や櫓・堀などの名称が記されており、非常に助かります。

御殿にある模型よりも建物のサイズや曲輪の形状などが正確になり、城郭構造を把握しやすくなっています。現在地は模型のほぼ中央、三日月堀・十露盤堀と三つの門に囲われた所です。

四方から模型を見ます。説明板の図と模型とで、櫓の数が違うのはどうなんでしょうか…。

 

改めて、本丸へ入っていきます。

本丸入口脇に、掛川城公園の石碑があります。松の木が素敵です…ってこれ、背後の天守とセットで撮影できたんじゃないでしょうか。しまった。

昔も今も本丸の正面入口、四足門です。左右を塀で仕切られた石段が良いですね。左奥には、太鼓櫓が見えています。

四足門の説明板によると、発掘調査時には門跡が見つからなかったそうです。礎石などが持ち去られてしまったのでしょうか。

外側から四足門を見ます。左にメインの扉、右には脇戸があります。門の向こうに、本丸門の石垣が見えます。

四足門をナナメから見ます。やはりお城の入口には、門があると良いですね。

発掘調査の成果が記された説明板の、発掘時の写真が興味深いです。

発掘調査説明板の隣の説明板に描かれた図は、模型よりさらに当時の様子をイメージしやすい気がします。

高石垣の間が、本丸門跡です。絵図などによると、本丸の正門にふさわしい立派な櫓門だったようです。

石垣の高さから、本丸門の規模がうかがえます。石垣の積み方にも、独特の雰囲気を感じます。

当時ここには荒和布櫓が建っていたようですが、今は貴重な現存建造物である太鼓櫓が三の丸から移築されています。一部だけ二階建ての、独特な櫓です。太鼓は、二階部分に置かれていたのでしょうか。

太鼓櫓のすぐ西には、番所風?の券売所があります。

 

現在の公園の建物や地形などを正確に描いたと思われる案内図です。当時の絵図や模型とは、あちこち様子が異なります。

本丸から、天守を見上げます。本丸よりさらに高所に天守丸という曲輪が築かれ、そこに天守が建っています。

本丸には御殿があったようです。お城の前は墓地だったとは…怪談の匂いがします。

本丸の北側には本丸門に似た積み方の石垣があり、その手前には側溝があります。

石垣の上には、天守丸へ向かう道が見えます。

 

本丸の大部分は現在、花広場となっています。冠木門がかろうじてお城テイストを醸してはいますが…これならまだ日本庭園の方が御殿のあったという本丸にはマッチしているのでは…。

おや、本丸の西側に、石段があります。絵図などによるとこのあたりには矢櫓、古櫓などが建っていたようですが…。

石段を上ってみます。

削平された場所があります。絵図ではこのあたりにも櫓があったようです。

 

本丸の南側には、西へ伸びる道があります。

道はスロープになっています。本丸南西には当時、銀杏下御門という搦手口に当たる門があったようですが、縄張りが改変されているようです。

道は北へカーブし、城外へ通じます。坂の下には当時、桔梗門があったようです。

 

玉石側溝、発掘時の写真と全然違うように見えますが…。

側溝も石垣も、復元なのですね。先ほど本丸北で見た石垣と側溝も。ということは、本丸門周辺の石垣もひょっとすると復元積み直し…?

復元石垣と側溝の左に設けられた石段を上り、天守丸へ向かいます。

北へ伸びる石段は途中で180度カーブし、南向きとなり、やすやすと天守へ行かせてはくれません。当時の絵図にもこのようにぐるっと曲がる道が描かれています。

おっと、南向きとなった石段の先に、NINJAがいます。

腰櫓台跡、とあります。調査では櫓へ上る石段が見つかったそうですが…わざわざ「跡」とあるのは、この櫓台も石段も復元で、本物は埋め戻されているということでしょうか。NINJAは何も語ってくれません。(もしかして訊いたら教えてくれたかも、ですが)

腰櫓台跡付近から、太鼓櫓が綺麗に見えました。

説明板によると、写真手前の石段や玉石側溝は発掘されたものをそのまま展示しているのでしょうか。確かに、復元とは違うリアルさを感じます。

そして、いよいよ天守に近付きます。

 

天守丸へ向かう石段の右に、門で仕切られた狭く細長い曲輪があります。腰曲輪です。冠木門や土塀の控柱がいい雰囲気出してます。当時はもっと広く二つの櫓と井戸があったそうですが、明治期に十露盤堀を埋め立てるためにガサっと削られてしまい、今では人ひとり通るのがやっとの狭さになっているようです。

腰曲輪から天守を見上げます。天守丸東面の石垣は、ちょっと残念な感じですね…。

腰曲輪の東には、二の丸御殿が見えます。

土塀の狭間から御殿を覗いてみます。御殿手前の広場は、十露盤堀が埋め立てられて出来たものです。

 

天守下門跡の説明板は奥の冠木門手前の石垣前にあるのですが、櫓門があったのなら写真手前の石垣上がそれっぽく見えてしまいます。いや、よく考えたら石段がある所に門は作れないから、石段と石段の間の踊り場が門跡でしょうか。

いずれにせよ、このような冠木門が当時存在しなかったことは間違いないでしょう。

しかしながら、現在の掛川城においては、この冠木門越しに見る天守がなんとも味わい深く思えます。冠木門左の土塀に脇戸が設けられている所も、趣があります。

内側から見る冠木門は、風格すら感じます。門の向こうに続く登城路の先には太鼓櫓と、大手門まで見えます。

冠木門のすぐ西にある、伝説の霧吹き井戸です。

天守丸は絵図の通りに周囲を土塀で囲われているのが、素敵です。

平成の世に戦後初めて木造復元された天守です。三重四階と小ぶりながら、東西の張り出し部や付櫓の効果により、大きく見せることに成功しています。二階の唐破風と火灯窓がデザイン上のアクセントになっています。

天守台は、これまで見てきた石垣と積み方も石の色合いも全く異なりますが、これが掛川城本来の石垣スタイルなのでしょうか。

一階基部にずらりと並ぶ忍び返しは、同じく山内一豊公が建てた高知城天守に見られます。高知城は、掛川城をモデルに建てられたそうです。

天守南から、西側を見ます。算木積みが未発達な石垣隅部に、歴史を感じます。天守台基部の側溝は、当時のものでしょうか。

石垣から張り出した一階部分は石落しとなっているようです。

塀と門に閉ざされ、これより北へは進めません。天守丸の北側には当時、鑰櫓があったようです。

 

付櫓から、天守内へ入ります。

御殿同様、天守入口にも「撮影OKです」の表示がありがたいです。

付櫓から天守へ入ると、山内一豊公の騎馬像がまず目に入ります。像の両脇に立てられた旗と像の台座には山内氏の家紋である土佐柏が見えます。掛川城は、天守を建て近世城郭としての体裁を整えた一豊公推しとみえます。

復元天守とはいえ、現存天守と同様に、階段は急です。

日が傾きつつあったので、とりあえず急な階段を上り、最上階を目指します。

外からも二階の壁に確認できた狭間は蓋付きです。二階にたくさんあるようです。

三階は狭く、武者隠しがあります。

最上階の窓には、襖が取り付けてあります。

外には出られませんが、景色を見ていきます。

東には、二の丸御殿と、右手には二の丸茶屋、二の丸美術館も見えます。

南東方向には、天守丸への登城路と太鼓櫓、十露盤堀と三日月堀、四足門と三の丸広場、逆川の向こうには大手門も見え、掛川城の見所が一望できます。

南側からは天守丸と本丸がよく見え、天守丸への登城路がぐねぐねカーブしている様子もうかがえます。本丸の花広場、上から見ても場違い感がすごいです…。

最上階からの眺望を楽しんだので、下りていきます。

移築現存門を参考に造られた、天守の鯱です。御殿に出現したという白い蛇、肖りたいですね。

二階はこのような感じです。

土佐漆喰による壁仕上げモデルです。白壁が出来るまでに多くの工程を経ていることが分かります。

外からも確認できた、一階の石落しです。

一階天井隅の複雑な梁の木組みを眺めつつ、天守を出ます。

 

再び、腰曲輪へ入ります。

北へ歩くと、土塀に扉があり、東へ抜けられます。

扉の外側から、土塀とその先の太鼓櫓を見ます。

腰曲輪の東は十露盤堀だったので当時このような階段は無かったし、そもそも削られる前の腰曲輪が階段あたりまで張り出していたと思われます。

階段を下り、かつての十露盤堀跡から復元された十露盤堀方向を見ます。

 

二の丸の北側に位置する竹の丸にはかつて重臣の屋敷があり、現在は明治期に建てられた問屋の豪邸がありますが、時間の都合で見学を見送りました。

 

本丸の南にある、懸河旧址の説明標柱です。このあたりには、本丸と逆川との間に松尾池と呼ばれる堀があったようです。

松尾池跡の近くには、正保絵図がタイルで作られています。当時お城の周囲にはたくさんの堀や池があったようです。

 

締めは、天守です。

十露盤堀跡から見上げる天守は、南から見るのと随分印象が違います。

大きく見せるための東西張り出し部が、東から見ると付櫓のようです。

ステンドグラス美術館付近から見る、北東からの天守です。北面一階の石落しや、北面二階にも出窓があるのを確認できます。

三日月堀付近から見る、南東からの天守です。二階火灯窓下の漆喰だけ色が異なるのは、補修の跡か何かでしょうか。

緑橋付近から、ライトアップされた天守と太鼓櫓を見ます。

三日月堀から、天守と御殿を同時に見られることに感謝しながら、一枚の写真に収めます。

 

駆け足での訪問となってしまい、撮影の雑さ、内容の不足が悔やまれます。

縄張りの改変はありますが、発掘・復元により当時の様子を伝えようとする熱意を感じる掛川城天守は復元ですが、御殿と天守がセットで見られるお城は非常に少なく、御殿があり天守が在った近世城郭の姿を体感できる貴重なサンプルです。

 

掛川城の訪問で、現存12天守に続き、現存四御殿も制覇です!

日本100名城スタンプラリー、こちらで20城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

55.駿府城

駿府城に行ってきました。

日本100名城(No.41)に選ばれた、静岡県静岡市にあるお城です。

 

徳川家康が築城し、隠居後の家康公の居城でもあった駿府城

静岡は、やはり家康公推しのようです。

静岡駅前にある竹千代君像です。竹千代とは、家康公の幼名です。

同じく静岡駅の近くにある、貫禄満点の家康公像です。背後の葵タワーには葵の御紋が掲げられ、「家康公が愛したまち静岡市」とあります。

 

それではまず、周辺遺構から見ていきます。

東海道府中宿の上伝馬本陣・脇本陣跡です。駿府の城下町は、東海道最大級の宿場町としても大いに栄えたようです。

 

しばらく、東海道を歩きます。

呉服町の町名は今も残っているようです。

少し歩いた所にある、呉服町と府中宿の説明板です。地図や絵図から、お城と東海道の位置関係が分かります。

高札場の跡である札之辻址は、今も四つ辻です。

東海道は、ここで南側へ折れています。

 

札之辻址から北へ歩くと、立派な石垣と堀が見えてきます。三ノ丸堀(外堀)と、三ノ丸石垣です。

石垣の向こう、三ノ丸南には現在、静岡県庁があります。

城郭内に県庁が建っているお城といえば、福井城を思い出します。あちらは本丸、こちらは三ノ丸ですが。

県庁前には本来道はなく、後世に石垣を壊して道を通したと思われます。道沿いの石垣断面に、改変された様子がうかがえます。

 

ここから、三ノ丸堀を時計回りに一周してみます。

目地の通った切込み接ぎ石垣の美しさに見惚れます。三ノ丸石垣でこの規模とは、さすが家康公の居城です。

本来三ノ丸をぐるり囲んでいたはずの三ノ丸堀は一部現存せず、この先から西側は途切れています。

 

城外から三ノ丸に通じる門は当時四つあり、そのひとつ、四足御門跡です。

枡形の東側と考えられる石垣がよく残っています。道路を挟んだ向かいの建物に埋まる石垣は、櫓門のものでしょうか。

見事な四足御門跡石垣を観察します。

隅部は精密に加工され、非常に良く整っています。

北側では隙間が多く打込み接ぎのようになった部分もあり、矢穴や刻印が刻まれた石もあります。刻印の存在は、地元の方が教えてくれました。感謝です。

 

四足御門跡からひとつ西の道を北へ歩くと、やがて大きく西へカーブしています。当時の三ノ丸堀ラインの名残と思われます。

カーブの先からは、三ノ丸堀が復活します。右手に、櫓台と思われる張り出した石垣が見えます。

絵図などを見る限り、櫓台のすぐ南が三ノ丸堀だったようなので、櫓台から右側の石垣は後世の改変と思われます。

立札によると、ここからしばらく三ノ丸堀が続き、石垣も見られるようです。

櫓台のすぐ北では石材のサイズ・形状がよく揃った布積みの切込み接ぎでしたが、さらに北側では石の大きさにばらつきのある打込み接ぎが見られます。これも場所ごとに別の大名が担当する天下普請ゆえでしょうか。

写真右の石垣は固めてあるように見えますが、後世の補修でしょうか。

北へ歩くと、石垣の張り出し部が見え、その向こうには橋があります。ここから三ノ丸堀は少しだけ西へふくらみます。堀外側の石垣は、当時のものなのでしょうか。

絵図では当時ここに橋は無かったようなので、後世の改変と考えられます。道路の両脇あたりの石垣は積み方が異なり、改変されたことが分かります。

堀沿いに北上すると、西へ張り出していた三ノ丸堀が少しだけ東側へ寄り、石垣も堀に合わせて曲げられています。こういう堀が屈曲する箇所に生じる石垣の複雑な面構成、大好きです。

ここで堀に堰が設けられ、水面の高さが変わります。

なおも北へ歩くと、三ノ丸西側に続いていた堀は大きく折れます。三ノ丸北西隅まで来ました。当時は石垣隅に隅櫓などが建っていたのでしょうか。

写真奥にも石垣の張り出しが見え、ここまでいくつもの横矢掛りが設けられていることが分かります。絵図と比較してもよく一致するので、三ノ丸の縄張り形状は良好に保存されているようです。

前の写真で奥に見えていた横矢掛りまで来ました。同じ切込み接ぎでも、右奥は横の目地が揃っているのに対し、手前はあまり目地が揃わず、石の大きさにもばらつきがあります。ちょっとした違いを探すのも、楽しいですね。

こういう所に、美を感じます。

 

さらに東へ歩くと再び横矢掛りと堰が現れ、堀の水位が下がります。堰は、後世に築かれたようです。向こうには、橋が見えます。

三ノ丸堀の北に架かる橋のあたりには、かつて城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつ、草深御門がありました。しかし、広い道路が通されるのに合わせて石垣も大きく破壊されてしまったようで、門の痕跡をたどることは難しくなっています。

草深御門跡東側の石垣に不自然さを感じます。こちら側が大きく壊され、積み直されたのでしょうか。

 

草深御門跡から東へ歩くと、また横矢掛りです。三ノ丸堀北辺はここまで、北へ張り出した横矢ばかりです。

と思ったら、石垣が南側へ折れました。ここから堀が南東へ屈曲します。

三ノ丸の縄張り図を見ると、北東角はナナメにカットされ、南西隅は欠けています。やはり鬼門・裏鬼門を意識した縄張りということでしょうか。

三ノ丸北東隅で堀は途切れてしまいます。ここから横内御門跡までは、堀跡は商店街になっているようです。

このあたりの地名は水落といい、かつては三ノ丸堀北東隅から北街道沿いに巴川までつながる水路があり、船で清水港まで行くことができたようなのですが…詳しくは後ほど。

商店街の隙間から、三ノ丸石垣が残っているのを確認できました。

 

城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつ、東辺に位置する横内御門跡です。

説明板の現在地表示からすると、説明板背後の石垣が櫓門を支える石垣で、植え込みの向こうに門が建っていたのでは…と想像します。

横内御門跡南側の道路は後に通されたもので、写真右奥に見える小さなアーチ橋の場所に当時は木橋が架かっていたと思われます。

道路の南には、三ノ丸堀から二ノ丸堀へ通じる水路が残っています。この水路、駿府城の大きな特徴でもあるのですが…詳しくは後ほど。

横内御門を越えてすぐ、三ノ丸北東には在番組頭屋敷があったようです。

 

三ノ丸南東隅まで来ると、また石垣と堀が現れます。おや、石垣に何か…。

たくさんの鳩が羽を休めていました。

城代橋は後世に架けられた橋で、当時ここに三ノ丸への出入口は無かったようです。石垣にも、改変の跡がくっきり見えます。城代橋を渡った先の三ノ丸南東には、城代屋敷があったようです。

城代橋の西、石垣の横矢掛りの向こうに、土橋が見えます。

城外から三ノ丸に通じる四つある門のひとつにしてメインゲートである、大手御門跡です。このすぐ西に県庁へ通じる道路があり、これで四つの門すべてを訪れ、三ノ丸堀の外側を一周したことになります。一周するのに(立ち止まって撮影しながらですが)約一時間かかりました。駿府城外周の規模が、伝わるでしょうか。

説明板にあった「歩道に記された柱礎石の位置」とは、グレーに色を変えてあるタイルのことでしょうか。かつては道路をまたぐ形で、立派な櫓門が建っていたと思われます。

三ノ丸南辺にある二つの門は、西の四足御門が堀を渡って左へ曲がるのに対し、東の大手御門は渡って右へ曲がるよう建てられているのは、三ノ丸南辺中央に敵兵を集中させないよう考えての設計でしょうか。

大手御門枡形石垣はどこも精密に加工された切込み接ぎなのに対し、北側門礎石跡付近だけが打込み接ぎになっており、とても気になります。

大手御門枡形の北にそびえる巨大なビルに圧倒されます。静岡県庁東館と別館です。何やら工事中のようでした。

天下普請の石垣と高層庁舎とのコラボというのも、なかなか見られないかもしれません。まさか城内に天守をも見下ろす建物ができるとは、家康公もびっくりでしょう。

石垣と県庁東館との間に階段があり、大手御門枡形の背後に回ることができます。当時もこのあたりには、櫓門内へ上るための雁木などが設けられていたかもしれません。

大手御門石垣表面には模様が刻まれ、美しく仕上げられています。

 

大手御門跡を越え、二ノ丸堀へ向かいます。

二ノ丸南東隅に復元された、巽櫓です。この端に寄った入母屋破風、どこかで…そう、大坂城の乾櫓に似ています。巽櫓は、大坂城の乾櫓と同様にL字型平面を持つ非常に珍しい櫓です。復元にあたって石垣が積み直されたのか、櫓基部の石垣は真新しい色をしています。

L字の屋根に三つの鯱が載っているのが大きな特徴ですが、壁には狭間も石落しも見当たらず、割とシンプルな外観です。

櫓と高層庁舎とのコラボです。

巽櫓の北には、東御門も復元されています。

木橋と門と、隅櫓。この一角は、かつての駿府城の威容が蘇っています。

 

ここからは、二ノ丸堀を時計回りに一周していきます。

二ノ丸堀の南は「家康公の散歩道」と名付けられているようです。自らの居城を端から端まで歩いたかどうかは分かりませんが、堀端のこの道をかつて、家康公も歩いたかもしれません。

…おや、その散歩道に、誰かいるようです。

東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さん像です。駿府城下で休憩中といったところでしょうか。十返舎一九は、駿府の出身だったのですね。

堀の向こうに、見事な二ノ丸石垣が続きます。が、石が新しく見える箇所もあるように思えます。

駿府御城惣指図からは、三重の堀で囲われた縄張りの様子がよく分かります。駿府城は、本丸の周囲を二の丸が囲い、さらに外側を三ノ丸が取り囲む「輪郭式」と呼ばれる構造です。

駿府御城惣指図をよく見ると、建物などの名称や、堀幅、石垣の大きさに至るまで詳細に記されているようです。これは貴重な資料です。

このあたりの石垣は、平成二十一年の地震により大きく崩落し、復旧工事をされているようです。道理で石が新しく見えたわけです。大きく崩れてしまった石垣をここまで復旧してくれたことに、感謝です。

積み方の異なる部分が目立った大手門枡形の石垣も、もしかしたら地震被害により崩落し、積み直されたのでしょうか。

二の丸南ほぼ中央に橋が架かっていますが、当時ここに二の丸への出入口は無かったようです。橋付近の東側石垣に、改変されたような違和感があります。

橋の西側石垣は、後世に積み直され固められてしまったような雰囲気があります。

三ノ丸から二ノ丸に通じる門は当時四つあり、そのひとつが、二ノ丸御門です。昭和期に埋められ、先ほど見た新たな出入口が設けられたようです。石垣をよく見ると、本来の門跡を小さな石材で埋めてあるのが分かります。

二ノ丸御門跡の西、二の丸南西隅に、櫓が見えてきました。櫓付近は石垣の色が異なり、櫓復元にあたって積み直されたと思われます。

平成二十六年に復元された、坤櫓です。

二重三階の櫓で、二階部分に出窓があります。出窓のせいで、どうも豚の顔みたいに見えて仕方ありません。

灯籠のような街灯が、お城とよく合います。

堀があり、石垣があり、櫓が建つ。これぞお城、という光景です。

それにしても、一度豚の顔に見えてしまうと、もう頭から離れません。立派な隅櫓のはずが、愛嬌を感じてしまいます。

駿府古絵図には、城下の町割りが細かく記されています。

 

三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、西辺にある清水御門跡です。枡形門だったようですが、枡形石垣は残っていないように見えます。清水御門を越えると当時はすぐ北に西喰違御門があり、容易に天守にはたどり着けない厳重な構造となっていたようです。

石垣の一部は過去の地震で崩落し修復されないまま…との情報もあるようです。確かに、二ノ丸石垣は一部が途切れ、土塁のように見える箇所があります。

二ノ丸北西隅は石垣が残っています。地震で崩れなかったか、あるいは積み直したのでしょうか。

二ノ丸堀の北を東へ歩くと、橋が見えてきました。橋の両脇は当時の石垣に見えますが、その右手側には後世に固めたような石垣も見えます。

三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、北辺にある北御門跡です。ここは当時の石垣がよく残っているようですが、門礎石は見当たりません。北御門を越えると当時はすぐ西に馬場先御門があり、こちらでも天守方向の守りは厳重だったようです。

二ノ丸北東隅は石垣がありますが、周囲には土塁状の部分も多く見られます。

北東隅から南側、東面の石垣は積み直したように見えますが…どうなのでしょうか。

さらに南へ歩くと積み方が変わり、江戸期の雰囲気を感じる石垣に戻ります。

御水門跡です。このすぐ東には、先ほど横内御門跡付近で見た三ノ丸堀から二ノ丸堀へつながる水路があり、二ノ丸堀の御水門跡から続く水路は二ノ丸を横断し…詳しくは後ほど。

二ノ丸堀を一周し、東御門まで戻ってきました。一周に三十分少々かかったようです。

 

あらためて、三ノ丸から二ノ丸に通じる四つある門のひとつ、東辺にある東御門です。堀に架かる木橋とその先の高麗門、門の両脇には狭間のある土塀、枡形を囲う多聞櫓、すぐ脇で二の丸南東隅の守りを固める巽櫓まで、この一角はかつての駿府城の威容が、パーフェクトに再現されています。素晴らしい!

東御門の手前には、木製屋根付きの雰囲気ある駿府城の説明板があります。

木橋を渡り、大きな高麗門をくぐります。門両脇の石垣には、巨石が用いられています。

枡形はコの字型の多聞櫓に囲われており、北辺が櫓門となっています。

高麗門を枡形内側から見ます。土塀には控柱があり、土塀裏へ上がるための雁木も見えます。門扉には潜り戸があり、小屋根の瓦には葵の御紋が見えます。

櫓門石垣は復元されたものか、新しさを感じます。隙間なく美しく組み合わされた切込み接ぎです。

櫓門石垣に比べ、雁木には年代を感じます。立札には、狭間の解説が書いてあります。

櫓門付近から、枡形南石垣と多聞櫓を見ます。石垣中央付近の段差が気になります。

枡形西石垣は南に比べぴっかぴかです。大きな石も使われています。

櫓門は、脇戸が両脇にあります。

人がいない時に撮影したかったのですが、なかなか去る気配がなく…しびれを切らしてしまいました。我慢が足りませんね。

櫓門を越えた所に、東御門の説明板があります。寛永年間に焼失後、再建された姿を復元したようです。よくぞここまで完璧に復元してくれたものです。

櫓門を内側から見ます。巨木をそのまま用いたような極太の梁が素敵です。

枡形石垣の外側には、雁木があります。多聞櫓へ上るための設備でしょうか。

 

東御門を越え、二ノ丸内へ入ります。

中堀(二ノ丸堀)の内側にある本丸・二ノ丸は現在、駿府城公園となっています。内堀(本丸堀)は明治期に埋め立てられたようで、一部発掘・復元された箇所以外は消失しており、本丸と二ノ丸との境界は非常に分かりにくいのが現状です。しかしながら案内図を見ると、発掘箇所以外でもかつての内堀外側のラインが示されている部分もあるように見えます。

この屏風のような説明板、カッコいいですね。

 

東御門と巽櫓は、有料で中に入ることができます。櫓門の二階部分が入口になっています。なお100名城スタンプは、東御門の北にある券売所で押せます。

入口付近から、櫓門を見ます。この高さから見られるの、いいですね。

櫓門へ入るなり、大御所・家康公が出迎えてくださいます。なんと畏れ多い!

「厭離穢土欣求浄土」や金扇は、家康公が用いた旗印・馬印として知られているそうです。

東御門の内部は資料館となっており、様々な展示があります。

石垣の刻印と、刻印が表す大名とその領地を示した地図です。西からこれだけの大名が天下普請に駆り出されていたのですね。四足御門跡で見た串団子のような刻印は、この中にはないようですが…。

これは、二ノ丸御門跡付近にあった駿府御城惣指図の原図でしょうか。

石落しや格子窓から敵を狙う兵のシルエットがいます。

城郭の構造図とその説明です。詳細な門の構造や、発掘調査の成果も紹介されており、非常に興味深い内容です。

復元された東御門と巽櫓の模型です。全体が視界に収まると、構造がよく理解できます。

寛永年間以降の本丸御殿は、規模が大幅に縮小されたようです。

駿府御城惣指図などを基に、寛永十五年以後の城郭が1:250スケールで復元された精巧な模型です。これは素晴らしい! 数ある展示物の中でも、目玉と呼べる逸品ではないでしょうか。

模型を東方向から見ます。横内御門の構造や、三ノ丸堀から二ノ丸堀へつながる水路の様子が見て取れます。

模型を西方向から見ます。史上最大とも言われる天守台は、さすがの存在感です。

先ほどの写真にも写り込んでいた、これまた目玉展示と呼べるであろう、駿府城天守の模型です。天守の姿には諸説あるところ、研究成果に基づいた復元案のひとつを模型化したようです。

三重の小天守の隣に独立してそびえる大天守は、天守台上に「天守丸」と呼べる郭を形成していたようです。天守台の四隅に櫓と、それらを連結する多聞櫓、その中心に建つ大天守。江戸期の淀城も、このような外観であったそうです。

この模型では、五重の外観に、最上階は廻縁高欄付き、銅瓦葺屋根となっています。

天守との連結部分の構造が知りたくて接写しますが、焦ってピンボケ…。石垣の壁により、大天守へ直進できないようになっていることは分かりました。

立派な模型を見ながら、大御所の居城に思いを馳せます。

信長の安土城、秀吉の大坂城、そして家康の駿府城が、復元イラストで揃い踏みです。

二ノ丸堀底から見つかった、東御門のものと考えられる青銅製の鯱です。

多聞櫓内から、東御門枡形を見ます。高麗門から侵入する敵兵を狙い撃ちです。

こちらは展示物の超目玉、城郭周囲の城下町までもを再現したスペシャルな模型です。

これは…凄まじいですね。整然と区画された街並みの様子がよく分かります。

大御所時代の駿府城下町を再現した模型ということらしく、先ほどの寛永期模型にはなかった天守や隅櫓なども復元されているようです。

 

東御門を出て、こちらの渡り廊下から巽櫓へ入ります。

L字型平面の巽櫓一階は、外側に入側部分が設けられ、内側は畳敷きです。

二階へ上がります。

臨済寺にある家康公が幼少期に使用したとされる「竹千代手習いの間」が、巽櫓二階に再現されています。臨済寺は通常拝観できないそうなので、実物同様に復元された部屋を見られるのは有難いことです。

部屋を覗いてみます。天井に描かれた竜の絵が見事です。

二階には他にもいくつか展示品があります。天井の梁が見事です。

巽櫓を内側から見ると、L字型平面をしているのがよく分かります。

 

発掘調査により再び姿を現した、本丸堀の南東隅部分です。本丸石垣の南東隅部も、しっかり確認できます。

北側の説明板には発掘当時のものと思われる写真が掲載されています。石垣は積み直さず、発掘されたものをそのまま展示しているように見えます。説明板の写真では、もう少し北側まで発掘されているようなのですが…。

かつて本丸を一周していた堀がこの状態なのは、寂しく感じてしまいます。

 

本丸堀の北西にある、土塀風パネルです。この前から撮影すると、東御門と巽櫓がいい具合に収まるのでしょう…しかし、訪問当時はそこに思い至らなかったのか、土塀前から撮影した東御門と巽櫓の写真は、ありません…。

 

ここから南西の、二ノ丸御門跡方向へ歩きます。

三つある本丸への出入口のひとつ、御玄関前御門跡です。本丸の正面玄関的な最も重要な門だったようですが…周囲は公園化されており、門の痕跡や周囲の縄張り形状は把握が困難な状態で、説明板で門の位置が示されているのみです。

現二ノ丸橋付近にある説明板には、公園入口ということもあってか、駿府城の概要が記されています。

 

二ノ丸御門枡形内にある説明板です。枡形北側と中仕切りの石垣は、発掘調査によって位置が特定されたようです。木槌のような刻印は、先ほど東御門で見た刻印一覧だと伯耆国・南条元清公の担当でしょうか。

二ノ丸内側から、二ノ丸御門枡形を見ます。左の石垣から道をまたぐように渡櫓門が建っていたようですが…右側の枡形石垣が失われているため、イメージしづらくなっています。

二ノ丸御門の枡形内部です。街灯の右あたりに、高麗門があったのでしょうか。

二ノ丸御門の枡形内から、渡櫓門方向を見ます。うーん、やはり片側だけの石垣ではどうにも枡形感に欠けます。枡形を越えた所の中仕切り跡も、途中に通路が設けてあってなんだかなあ…と思ってしまいます。

枡形石垣、平面表示でもなければ復元でもない、この中途半端さは個人的にどうにもいただけません…。

二ノ丸御門枡形西側の石垣は何やら積み方が怪しい気もしますが、刻印石も見られるので現存でしょうか。

渡櫓門の石垣は、隅部に切り揃えられた巨石が用いられています。よく見ると、矢穴や刻印のある石も見られます。

二ノ丸御門枡形の北に、地震で崩落し再利用できなかった石材を用いた石垣モデルがあります。右側は打込み接ぎ、左が切込み接ぎとなっています。

 

二ノ丸南西隅の、坤櫓が見えてきます。豚鼻のように見える出窓は、外側だけに設けられているのが分かります。

オリジナルキャラクター「しろお」が出迎えてくれます。

櫓台基部石垣は、埋め戻されているようです。

今見えている石垣は、埋め戻した櫓台の外側に新たに築いたため、櫓のサイズに合っていないということでしょうか。

入口前から坤櫓を見ます。屋根瓦には、葵の御紋が掲げられています。

櫓の中に入ります。

床の一部がガラス張りになっており、礎石など床下の構造が見えます。

天井も一部がスケルトンになっていて、梁の様子や屋根裏の構造まで見通せます。天井や床をスケルトンにしてしまうというのは非常に面白い試みです。

駿府城で出土した金箔瓦が展示されていました。見事に金箔が残っています。すごい!

 

それではいよいよ、今駿府城で最もホットなエリアに向かいます。

本丸北西にあった、日本史上最大と言われる天守台の発掘調査現場です。

現場を仕切る土塀風のパネルには、様々な解説があります。

パネルには透明部分が設けられ、現場の外側からでも内側を覗き見ることが出来ます。おおお。

この場所からは、天守台から本丸への接続部分の石垣が見えるようです。

確かに、南北に連なる石垣が見えます。おおお。

当時の絵図に、現在の調査個所が記されています。おおお。

発掘調査現場入口へ向かいます。

本丸堀の外側、二ノ丸側の石垣も発掘されたようです。おおお。

なるほど、手前のブルーシートが二ノ丸側石垣、奥のブルーシートが天守台ですね。おおお。

現在進行形で、天守のミステリーに挑んでいる現場です。

ついに入口まで来ました。入る前からワクワクが止まりません。

入りました!おおおー!

これが外からは見えなかった、二ノ丸側の石垣でしょう。

そしてこれが…天守台!すげー!

手前の矢穴が見える慶長期石垣と、奥の天正期野面積み石垣が並んで見られる箇所です。なるほど、解説パネルの写真どおりに石垣が見えるので、非常に分かりやすいですね。

天正期と慶長期の石垣では勾配や裏込めの範囲にも違いがあったのですね。そしてここは金箔瓦の大量出土地…うひょー!

このあたりが慶長期の小天守台だったようです。

大御所の天守台は、江戸城を抜いて日本一!

それにしても、慶長期の天守台を発掘したら天正期の天守台まで出てきたの、本当に驚きです。素晴らしい発見ですよね。

よくぞこれだけの天守台石垣が、無事に埋まっていたものです。

現場の一角に、石垣の隅石がぽつんと展示してあります。

天守台石垣の劣化を防ぐため、防護ネットを張るそうです。

作業員の服装にもこだわりがあるの、素敵です。

天守台の隅部が検出されて規模が特定できたのは、大きな成果だと思います。

ブルーシートの隙間からチラリと覗くのは二ノ丸側の本丸堀石垣と思われますが…随分と状態が良さそうに見えます。

明治期に埋め立てられた本丸堀から、取り壊された天守台の石が大量に出土しているようです。位置の同定は…難しいのでしょうか。

慶長期天守台の北西隅です。

こちらは、慶長期天守台の北東隅です。奥の御天守台下御門跡付近も石垣が埋もれているように見え、今後の発掘が楽しみです。

 

天守台の南東、本丸に立つ、家康公像です。晩年の姿を表したそうですが、鷹狩の最中に見えます。

背後で進む天守台の発掘調査に、大御所は何を思うのでしょうか。

家康公像のすぐ近くには、家康公お手植と伝わるミカンがあり、なんと県の天然記念物に指定されているようです。

 

二ノ丸北御門のすぐ西にあった馬場先御門跡です。周囲の石垣などは残っておらず、説明板によって場所が示されているのみです。

馬場先御門跡の南東には、本丸堀の外側ラインをおおよそ縁取っていると思われる石列があります。(ただし、写真左手に見える公園通路両脇の石列を除く)

石列をたどって南へ歩くと、本丸堀が発掘・復元されている箇所があります。

そして、本丸堀から外側へ、細い水路が伸びています。

天守台発掘現場と並び、個人的に駿府城の大きな見所と考える、二ノ丸水路です。城が海からつながっており、船で清水港から天守下まで行けることが、家康公の夢だったという話もあるようです。清水港から巴川・北街道の水路を抜け三ノ丸堀北東から横内御門より水路を通り二ノ丸堀へ入り、御水門からこの二ノ丸水路を通って本丸堀へ入ると、港から天守の真下まで船でたどり着ける、という構造です。これは他に類を見ない、駿府城ならではの特徴と言えるのではないでしょうか。

実際に家康公が船で港から天守まで行ったかどうか定かではありませんが、この水路にはロマンを感じます。

 

明治以降の本丸堀埋め立てや江戸期の地震被害などにより遺構が不鮮明な部分も多いですが、復元や発掘が進み当時の威容が垣間見えるようになり、現在進行形の発掘現場が見学できる貴重な城跡でもあり、今後がとっても楽しみなお城だと思います。個人的には、本丸堀と本丸縄張りのラインが明確に把握できるようになれば嬉しいです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで19城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

54.大垣城

大垣城に行ってきました。

続日本100名城(No.144)に選ばれた、岐阜県大垣市にあるお城です。

 

岐阜城加納城に続き、同日に三城目の訪問となりました。

まずは、周辺遺構を見て回ります。

散策マップによると、大垣城の北東から南西にかけて美濃路が通っており、大垣は城下町であるとともに、宿場町としても栄えたようです。

マップを見る限り、城内の堀跡は失われているものの、総堀跡はよく残っているように思えます。

散策マップの横に、名古屋口門跡の石碑と説明板があります。ここには東総門こと名古屋口門があり、絵図によると橋を渡った所にまず門が設けられ、それを越えると櫓門があったようです。

 

名古屋口門から美濃路を少し歩いた所にある高札場跡です。かつての「札の辻」は、今も四つ辻として城下に在ります。

 

高札場跡から美濃路を南下した所にある、大垣宿脇本陣跡です。

 

脇本陣跡から西へ歩くと、神社の手前に何やら石碑があります。これは…「おほてもん」と書いてあるのでしょうか。

石碑近くの説明板によると、ここが東口大手門跡のようです。絵図や復元図を見ると、東口大手門は櫓門を備えた枡形虎口となっていたようです。

大垣城には、東口大手・南口大手・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口の七口之門があったそうです。

東口大手門前の堀は、細い水路としてかろうじて面影を残します。

 

東口大手門跡から西へ歩くと、城郭中心部へ着いてしまいました。大垣公園の北東部が本丸にあたり、おおよそ当時の縄張り形状をとどめているように見えます。

 

もう少し、周辺遺構を見ます。

南口大手門跡です。東口と同様に、櫓門のある桝形虎口だったようです。ここからすぐ南東には、大垣宿の本陣跡があります。

 

柳口門跡です。絵図によると、柳口門を越え橋を渡った先に内柳門があったらしく、この内柳門は現在、本丸の東門として移築されているようです。

柳口門跡の西にある溝は、かつての堀跡でしょうか。

 

大垣公園の西にある、郷土館です。屋根瓦に九曜紋の入った御殿っぽい建物が良い感じです。

郷土館に展示してある城郭模型を撮影させてもらえました。縄張りは先ほどから説明板で何度も目にしてきましたが、こうして立体化されると、幾重にも堀を巡らせた複雑な縄張り形状が際立ちます。要所に馬出状構造を備えた堅固さがあり、非常に魅力的で素晴らしい縄張りです。

青い立札が郷土館のある場所で、当時は竹の丸から堀を挟んでさらに西側の、総曲輪にあたるようです。

模型の本丸・二の丸アップです。三の丸内側の堀に小島のように二の丸と本丸が浮かび、二の丸への出入口は一ヶ所のみ、本丸への出入口も二の丸との間にただ一ヶ所のみで、本丸と二の丸は廊下橋でつながれていたようです。また、本丸中心部は一段高く石垣が築かれ、外周に腰曲輪が形成されていたようです。

 

周辺遺構の散策を終え、城郭中心部へ向かいます。

まずは二の丸跡ですが…南側には大垣城ホールが建っており、遺構は望めそうにありません。

二の丸の北側には現在、濃飛護国神社があります。当時の二の丸には御殿や、三重櫓がいくつもあったようです。

 

いよいよ、本丸を見て回ります。

本丸城郭図を見ると、東西は櫓や多門で厳重に守られ、一段高い中心部も櫓と多門で囲われていたようです。

この城郭図、鉄門の北東とされていますが、現在は鉄門跡の北西にあります。移設されたのでしょうか。

城郭図の南東にある、鉄門跡です。整形されたほぞ穴のある門礎石が残っています。

鉄門は各務原市鵜沼宿跡に移築現存しており、他にもいくつかの移築現存門があるようで、機会があれば見に行きたいものです。

本丸側から、鉄門跡を見ます。鉄門の南はかつて内堀で、当時はここから廊下橋が二の丸に架かっていたようです。

鉄門を越えると、本丸中心部を囲う石垣の南側に、七間多門が建っていたようです。

鉄門跡の北東には石垣があるのですが…これはひどい。本丸中心部を囲う石垣の一部だと思われますが…崩れたのか、崩されたのか、積み直したのか、当時のままの石垣は存在するのか、この状態ではなんとも言えません。上部の樹木も、石垣に悪影響と思われます。

崩壊石垣の東側には「麋城の滝」なる人工滝があります。麋城は大垣城の別名ですが…はっきり言ってこんな滝を作るくらいなら、石垣をちゃんと積み直してほしいです。

麋城の滝の東に、石垣の隅部を発見しました。本丸中心部の南東にあった辰巳櫓台でしょうか。原型をとどめている部分、と思いたいですが…。

辰巳櫓台と思われる石垣隅部から北上しますが、崩れているというか、石垣石を庭園風に並べたようにも見えますが…見たいのはこんなナンチャッテ庭園じゃないんです。石垣が、石垣が見たいんです…。

西向きに、立札があります。

城郭図では辰巳櫓のすぐ北にあった、東埋門跡です。位置的にはここなのでしょうが、この状態で門跡、と言われても何が何やら…。立札を立てる前に、門跡と分かるよう石垣を積み直して欲しいです。

東埋門の北からは、石垣が復活します。

さらに北へ歩くと、本来出入口など無かったはずの本丸中心部北東に石垣を壊して石段が通されています。

石段の先、本丸腰曲輪東側には、かつて大小姓多門が建っていた場所に、櫓門と多門風トイレがあります。

周辺遺構散策時に説明板で読んだとおり、この櫓門が本丸東門として移築された内柳門のようです。立札にも、そのように書かれています。

内側から、内柳門を見ます。城内にある大垣城唯一の現存建造物、ということになるでしょうか。梁などに歴史を感じます。

内柳門を外側から見ます。門扉両脇の柱が立派です。門扉右側には脇戸があり、屋根瓦には九曜紋が見えます。

内柳門の前には城跡碑が立ち、瓦屋根付きの案内板もあり、現在はこちらが正門という扱いなのでしょうか。

内柳門の南側には、本丸外周石垣が続きます。写真左端の石垣張り出し部には当時、腰曲輪辰巳櫓が建っていたようです。

かつて腰曲輪辰巳櫓や塩蔵などが建っていた本丸腰曲輪の南東張り出し部には現在、武徳殿が建っています。

内柳門の北側に再建された櫓群です。中央が丑寅櫓、右が宗門多門、左が先手武具多門です。

内柳門付近から、天守を見ます。廃城令後も現存していましたが、空襲により惜しくも焼失し、戦後RC造により再建されたのが、今ある天守です。

案内板には、焼失前の現存期と思われる天守の古写真が掲載されています。四層四階の天守というのは、全国的にも非常に珍しいようです。

 

天守へ登る前に、本丸外周を歩きます。

外側から、内柳門の北にある櫓群を見ます。

移築された内柳門の下部石垣は、移築に伴って積み直されたと考えられ、積み方や色合いが異なります。

右隅に丑寅櫓があり、宗門多門が左に続いています。本丸城郭図によると、宗門多門の左側は現状のとおり石垣が張り出しているので、当時からこの位置に土塀があり、大小姓多門までつながっていたのかもしれません。

再建櫓や土塀の下部石垣は積み直したのか、石材が新しいように見え、土塀下の石垣には後世のものらしき排水口も見えます。石垣基部あたりは、当時のままなのでしょうか。

本丸東側には石垣手前に堀の名残と思われる細い水路がありますが、北側では暗渠となっているようです。

丑寅櫓と、その右に先手武具多門が続きます。屋根の鬼瓦には、九曜紋が見えます。

丑寅櫓と先手武具多門の丸く大きな、外側が広い狭間が並んでいる壁を見てなんじゃこりゃと驚きましたが、古写真を見ると当時からこのような狭間だったようです。お城によって、狭間の形状も位置も様々ですね。

右端土塀の下部石垣に排水口が見えますが、当時のものでしょうか。

本丸北側には土塀が続き、土塀の先には戌亥櫓が見えます。

戌亥櫓の東に、水之手門跡があります。周囲を内堀に囲われた本丸の外へ通じる道は南の廊下橋以外にはなく、水之手門は船で直接本丸へ出入りするための門と思われます。

再建された戌亥櫓を支える石垣ですが…右隅部は切込み接ぎ、櫓基部付近は石のサイズも積み方も案内パネル付近と全然違って違和感がすごいです。積み直すにしても、せめて内柳門みたいに雰囲気を合わせるなどできなかったのでしょうか…。櫓のサイズ自体、石垣と合っていないように見えます。

戌亥櫓の南には、南附多門も復元されています。戌亥櫓の鬼瓦をよく見ると、桃があしらわれています。

内柳門からここまで、櫓や土塀が連続的に復元されており、当時のお城の様子をイメージしやすくなっていると思います。

本丸西側には、城主だった戸田氏鉄公の騎馬像があります。

騎馬像と櫓・塀・門、その背後には天守。とてもお城っぽく、絵になりますが…どうせなら左のビルなどを写さず、城郭建造物と騎馬像だけを収めるべきだったと反省しています。

撮影している場所は当時なら内堀の中か、竹之丸あたりでしょうか。

西側からだと木が邪魔で、天守の姿がよく見えないのが、残念です。

本丸西門は、これまで見てきた本丸櫓群とデザインが共通しており、狭間の形状も丑寅櫓で見たものと同様ですが…よく見るとこの門、門扉がありません。西門は模擬建造物で、本来本丸西側に門はなく、当時ここには籏長柄多門が建っていたようです。

模擬門にしてはよく出来ており、天守とのツーショットにもあまり違和感ありません。どうせなら門扉を付けてより城門らしくしても良かったように思いますが、あえて門扉なしにすることで、再建・移築建造物と差別化したのかもしれません。右隅石垣は戌亥櫓と同様の切込み接ぎになっていますが、石垣全体的には戌亥櫓ほどの不協和音は感じません。

内側から西門を見ます。櫓へ入る扉もそれっぽく作られています。

西門が模擬なので、西門から本丸中心部へ続くこの坂道も当時はなかったと考えられますが、本丸城郭図によると天守の南側には本丸中心部へ通じる埋門があったようです。

内側から戌亥櫓と南附多門を見ます。桃の鬼瓦が良く見えます。桃には魔除けの意味があるようで、ほかのお城の瓦にも使われています。

内側から水之手門跡を見ます。当時はどのような門だったのでしょうか。櫓門であれば、戌亥櫓右側の石垣にはもしかしたら、水之手門が載っていたのかもしれません。

 

水之手門から坂を上ると、天守がそびえています。天守台のうち上半分ほどは色が異なりますが、再建時に積み直されたようです。

明治二十九年の大洪水でお城が水没したそうで、先ほどの写真には説明板と石碑が写り、石垣にも水没したラインが刻まれています。少なくとも、このラインまでは現存石垣とみて間違いないでしょう。

この隅部も算木積みになっていない野面積の石垣はなんと、全国的にも非常に珍しい石灰岩を用いて築かれているそうです。岐阜城がチャートで、大垣城石灰岩と、いずれも生物起源の堆積岩が多産する環境にあったのでしょう。興味深いです。

天守北面の本丸腰曲輪には、天守台から石垣が東へ伸びています。

本丸北側の土塀内側には、屋根付きの控柱が並んでいます。

東へ歩くと、再び丑寅櫓が見えます。

本丸中心部北東隅です。このあたりの石垣は、当時のままなのでしょうか。

化石の入った石を見つけました。これは、フズリナでしょうか。大垣城の石垣は生物の遺骸が堆積して出来た石灰岩によるものなので、あちこちでこうした化石が見られるようです。石垣観察と同時に化石観察まで出来る…大垣城も、お城好きで岩石好きな自分にとってのパラダイスです。

 

ようやく、天守へ登ります。

天守入口付近にある説明板です。一階・二階の床面積が等しくて四階だけ急に狭くなっているように見えても層塔型になるんですね…一定割合で逓減していることが分類条件ではないということでしょうか。

邪鬼を踏みつけている鬼瓦というのは極めて特異だそうですが、これまで見てきたお城の鬼瓦には家紋があしらわれていることがほとんどだったので、お城の鬼瓦が鬼の顔になっていること自体、個人的には珍しいと感じてしまいます。

こちらの入口から天守へ入ります。見上げると、確かに鬼瓦に鬼面が見えます…驚きです。

続100名城スタンプは、天守内で押せます。

 

天守最上階から、城下を眺めます。

西側を見ます。夕焼けが眩しい写真ですね…。氏鉄公の騎馬像が、木の間から見えます。

少し位置を変えて、西側を見ます。戌亥櫓の屋根が見えます。

東側を見ます。内柳門が見えます。

 

帰路にて、お城の東にある道路沿いに、史跡碑を見つけます。

何故こんな場所に?と思ったら、ここの道を西へ入ると…。

大垣城の東門があります。駅前の大通りから歩いて来る人向けの史跡碑と思われます。

 

締めは、天守です。

平成二十二年の改修工事により、改変されていた窓の形状などが空襲焼失前の姿に近付けられたそうです。

石灰岩の石垣に、四層四階の天守を持つ個性派なお城です。

空襲で失われたのは残念ですが、こうして焼失前の姿が現在も見られるのは、ありがたいことです。

やはり複合型とよく分かる南東からの姿が絵になりますね。人がいない時を狙い、もっと構図にもこだわるべきでしたが…。

 

振り返ると、とにかく写真のクオリティが低いことに愕然とします。天守はじめ再建された建物が多いお城なのに、建造物の撮影が少なすぎるのもいけません。

 

残された本丸すら縄張りや石垣の改変が多く遺構が乏しいのは残念ですが、再建建造物はよく出来ており、周辺遺構に当時の城郭規模を体感することもできます。もっとお城らしい大垣城を撮影すべく、是非とも再訪したいと思います。

こちらは大垣城岐阜城の御城印です。袋のデザインも凝っていて素敵です。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで3城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

53.加納城

加納城に行ってきました。岐阜県岐阜市にあったお城です。

 

岐阜城の廃城後に家康公により築かれた天下普請の城・加納城が岐阜駅の南にあると知り、岐阜城訪問後に訪れました。

歩道橋のたもとに、大手門跡の石碑を見つけます。ちょうど歩道橋が架かっている所に、当時は大手門があったのでしょうか。

大手門は五街道のひとつである中山道に面し、中山道大手門前で西へ曲がっていたようです。

歩道橋の上から、大手道と思われる道路を見ます。

道路を南下すると、石垣が現れます。本丸石垣です。

説明板によると本丸北面の石垣で、チャートを用いた野面積で築かれ、隅部は算木積みになっています。チャートを使っているので石垣全体が赤っぽく見えます。

本丸跡は現在、加納公園となっています。

案内板の縄張り図を重ねた地図によると、先ほどの本丸石垣前の広場はかつての堀だったようです。本丸はほぼ当時の形状をとどめており、現在地は北門にあたるようです。

本丸内側から、北門跡を見ます。当時はどのような虎口だったのでしょうか。

本丸を見て回ります。

内側は土塁で囲われています。

東へ出っ張った外枡形虎口を本丸内側から見ます。ここが本来の大手口で、左奥の柵がある辺りに「筋鐡門」が、撮影している地点付近に「鐡門」があったと思われます。本丸の面積と比較して非常に規模の大きな枡形虎口です。

外枡形虎口の土塁上から、筋鐡門跡を見ます。判明している建造物の表示・説明などあれば、当時のお城をイメージする手助けとなるように思うのですが…。

石段や、脇の石垣は、当時のものでしょうか。

天下普請のお城で、国史跡にも指定されているのに、岐阜城との扱いの差を感じてしまいます…まあ、信長公を推したくなるのは分かりますが。

 

本丸を出ます。

本丸南側にある、もうひとつの本丸本来の出入口で、搦手口にあたると考えられます。案内図を見ると当時は「臆病門」という門が建つ枡形虎口だったようです。

本丸南虎口から、東へ石垣が続きます。

本丸南東隅の石垣は、算木積みがやや不明瞭に思えます。当時は隅櫓が建っていたようです。奥に長く伸びる石垣は、外枡形のものです。

外枡形の一辺が、本丸南虎口から南東隅までと同じくらいの長さがあり、外枡形がとんでもなく巨大だったことが分かります。

今立っている所も、石垣の向こうに続く空地も、当時はすべて堀だったようです。

 

南虎口に戻ります。

本丸南虎口から西側にも、石垣が続きます。石垣前の堀跡である空地は、西側では虎口付近からすぐに低くなっており、堀跡らしさを感じます。

本丸南西隅です。こちらは算木積みがはっきりと分かりますが…隅部左右の石垣は失われたのでしょうか、隅部だけが突出するように残っています。こちら南西隅にも隅櫓が建っていたようです。

本丸西側も、石垣が良く残っています。

大きな石や、チャート層の褶曲が分かる石もあります。間詰石には、河原の石でしょうか、丸い石が用いられています。

本丸北西隅です。形の整った大きな石を使い、しっかりした算木積みになっていますが、上部は失われたのでしょうか、隅部は四段程度しか残っていません。案内図には「天守台」とありましたが、加納城には天守は上げられなかったようです。なるほど天守台だから、石垣も立派に普請しているのでしょうね。

天守台を本丸内側から見ます。周囲の土塁より、一段と高くなっています。

 

帰りに、周辺遺構などを見て回ります。

当時は本丸の北東に二の丸があり、今も地名に残っているようで、電柱に「加納二の丸」とあります。

案内図と見比べても当時このあたりに石垣は無かったようですが、立派なチャート石材を見ると、もしかしたら加納城の石垣石が転用されたのかも…なんて思ってしまいます。

本丸以外の遺構は大半が失われたようですが、二の丸石垣は北東部が残っています。二の丸北東隅には当時、岐阜城天守を移築した三階櫓があったそうです。現在この場所には地方気象台が建っています。岐阜城のある金華山には気象台分室があり、岐阜城天守が移築された先にも気象台が建っているとは…奇妙な縁を感じます。

 

城跡巡りはここまでですが、せっかくなので、中山道を少し歩きます。

大手門の北、中山道沿いにある高札場跡です。これは藩の高札場なので、城跡の一部と言ってもいいのかもしれません。

大手門跡石碑の隣にある、加納宿の案内図です。中山道は、ここより西側は直線ですが、ここ大手門前で北へ折れた後に何度も折れ曲がっているのが分かります。

加納宿は、中山道六十九次の五十三番目にあたる宿場だそうです。城下町にある宿場は珍しいのだとか。

雑な撮影で肝心な部分が切れてしまっていますが…本陣跡の石碑です。

舗装が土系色にされており、側溝の蓋にも表記があるので、中山道を歩いてる感がありました。

 

岐阜城から移築した天下普請なのに、現在では知名度など岐阜城に色々と持っていかれてる感の強い加納城ですが、本丸のチャート石垣や、超巨大外枡形などは非常に見応えがあり、国史跡は伊達じゃありません。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

52.岐阜城

岐阜城に行ってきました。

日本100名城(No.39)に選ばれた、岐阜県岐阜市にあるお城です。

JR岐阜駅から駅前広場へ通じる階段は「信長ゆめ階段」と名付けられているようです。

そして駅前広場には、家紋があしらわれためちゃめちゃ高い台座に黄金の信長公が悠然と立っています。これは強烈なインパクト。

バスの側面にも、黄金像と同様、甲冑にマントを羽織った姿の信長公が描かれています。到着後数分で、岐阜が超・信長公推しなのが大変よく分かりました。

 

周辺遺構なども見ながら、駅から徒歩でお城へ向かいます。

円徳寺の門前にはかつて、有名な楽市楽座が開かれていたらしく、信長公の出した制札などが残されているようです。

ほかにも円徳寺には、自軍の兵を弔う「織田塚」や銀箔押烏帽子形兜、信長公が寄進したと伝わる梵鐘など、信長公や織田家ゆかりの史跡・文化財がわんさかあるようです。

 

国道256号を北上していると、かつて稲葉山と呼ばれた金華山と、山頂にそびえる天守が遠くに見えました。

 

法華寺の山門は、岐阜城の移築門と言われているようで、城門の風格漂う立派な高麗門です。

 

金華山に近付き、天守がはっきりと見えてきます。

 

梶川堀を境に、お城に近い東側に武家屋敷が、西側に町家が並んでいたようです。今も水路として残る梶川堀の、このあたりに梶川橋があったようです。写真左奥に見えるお寺が、斎藤道三菩提寺である常在寺です。

 

梶川堀より東側に建つ妙照寺は説明板によると本堂・庫裡が重要文化財のようですが、かつて竹中半兵衛の屋敷があったとされ、山門は岐阜城の移築門と言われているようです。こちらの山門は法華寺と異なり薬医門形式ですが、やはり城門らしさの感じられる立派な門です。

 

歴史博物館の北を通り、岐阜公園へ入ります。

織田信長居館跡の史跡碑と、大きな冠木門があります。この向こうに、信長公の居館跡があるようです。

説明板によると、冠木門より南西には政庁と呼ばれる公的施設があったようです。名前からして、政治を執り行う場所だったのでしょうか。また当時の居館入口は冠木門より東側だったようです。

冠木門をくぐり、石段を上ります。門の西側には大きな池があり、庭園として整備されています。

説明板の図によると、居館跡は雛壇状の構造をしており、冠木門より高い位置にあるようです。

石段を上ると、情報量の多い巨大な説明板があります。岐阜城含む戦国城下町が、日本遺産第一号に認定されたようです。

居館の復元イメージCGにはとても衝撃を受けました。三層の望楼付き御殿に長大な屋根付き渡り廊下…これはすごいというか…とんでもない! でも安土城の復元予想デザインに共通する部分も多く感じられ、これを信長公が建てたというなら納得してしまいます。居館を「地上の楽園」と評したルイス・フロイスもさぞ驚いたことでしょう。

居館入口の鏡石を用いた巨石石垣や直進させない鉤の手に曲げられた通路など、江戸期の城郭で多用される仕掛けがあり、信長公の先見性に感嘆します。

巨石列通路は最下段のみ巨石が並んでいるように見えますが、当時はより高く石が積み上がっていたのでしょうか。

写真中央に、柵で囲われたエリアと説明板があります。

斎藤氏時代の稲葉山城遺構も見つかっているようです。

肝心の遺構を撮影した写真がありません…いけませんね。

居館にいくつも存在したらしい庭園跡のひとつです。説明板の図によると、背後の石垣上が庭園だったようですが…発掘調査中のエリアもあり、イマイチよく分かりません。柵で小さく囲われた所も庭園遺構の一部なのか、判然としません。

こちらの説明板によると、どうやら先ほどの庭園跡は平成27年の調査で新たに見つかった六番目の庭園で、調査後に埋め戻されたようです。

「信長公居館跡」の横断幕が岩盤に掲げられたこの場所は発掘調査ではC地区とされ、江戸期から「千畳敷」と呼ばれる居館の中枢部だったようです。

千畳敷は入口より数段高所にあり、入口方面がよく見渡せます。

たくさんの説明板が並んでいるので、順番に見ていきます。

このあたりでは、第七の庭園跡が見つかったようです。本当に多くの庭園があったんですね。

千畳敷に建っていたのが復元CGでも一際目を引いた、居館の中心である豪奢な御殿のようです。

居館二階には、帰蝶の名でも知られる信長公の正室濃姫の部屋があったようです。

居館三階から、渡り廊下が山側の奥座敷へつながっていたようです。

この岩肌を、信長公も居館から目にしていたのでしょうか。

居館よりさらに高い位置に、茶室などがあったようです。

このあたりは、発掘調査が現在進行形のようです。

入口付近から千畳敷を見ます。あちこちシートで覆われています。

千畳敷の入口も、直進させない虎口構造となっていたようです。

説明板によると、大正期に水路が付け替えられたらしく、写真手前が当時の水路、左奥の赤い橋へつながる水路が大正期に造成されたもののようです。中央のシートが掛けられた水路跡あたりに、当時は橋が架かっていたのでしょうか。

谷川を渡る橋は、景色を楽しめる廊下橋だったようです。

当時の水路はここまでしか発掘されていないのか、途中で途切れています。居館跡の史石碑は、ここにもあります。

後世に架けられた赤い橋の奥には、当時からの谷川と、滝があるようです。

居館から廊下橋を渡った西側にある、大庭園跡です。当時は二本の滝と大きな池があったようですが、今は巨大な岩盤が残るのみです。地層が縦になったり、ぐねぐね褶曲している岩盤に、大興奮です。

信長公が眺めたであろう岩盤から叩きつける豪快な滝の流れと、それを受け止める池の優雅さに、思いを馳せます。

今後また新たな発見があるのか、ここからどのように姿を変えていくのか。居館跡の発掘調査と整備が、楽しみです。

 

金華山ロープウェーに乗り、山頂の城跡へ向かいます。

ロープウェーで山頂駅に着きました。

説明板の写真によると、お城の周囲にはいくつもの砦が築かれていたようです。また概要図には、いくつかの登山道が記されています。

七曲り登山道は当時の大手道だったようで、次は是非この道から登城したいと思います。

金華山の西側斜面を登る百曲登山道も当時からの道らしく、なかなかに険しそうですが下りならなんとかなるでしょうか…まあこれも次回のお楽しみ、ということで。

七曲りと百曲がりの登山道終点の間、城郭南西端部には、説明板の概要図によると当時は焔硝蔵があったようですが、現在はリス村になっています。

山麓居館に続き、山上にも大きな冠木門が建っています。天下第一の門、とありますが、当時ここに門があったわけではないようです。門番のように鎧MUSHAがいますが、普通に通れました。

天下第一の門左手前には、歴代城主が記された年表がありますが、年表よりも岩盤に目がいきます。背後の階段を上ると、現在は展望レストランがある太鼓櫓跡に行けます。

天下第一の門の先にある、一ノ門跡です。説明板の概要図には絵図との比較や石垣の推定範囲まで描かれ、情報量が多く非常にありがたいです。

概要図と現地を比較します。なるほど、あの倒れた石の向こうに門があったと考えられ、右手には石垣が積まれていたのですね。奥の休憩所がある所には、当時番所か櫓などがあったのでしょうか。

一ノ門跡の東には、石垣が数段残っています。

一ノ門跡の西側は、切り立った断崖で、岩盤がむき出しになっています。

金華山はチャートという堆積岩から成るようで、居館跡でも見られ、赤みがかった色とぐねんぐねんの地層面が特徴的です。お城も好きですが露頭も大好物なので、城跡とチャート露頭の両方を堪能できる岐阜城はまさに楽園、パラダイスです。

馬場跡です。絵図にもはっきり馬場、と書かれています。当時ここまでは馬で来ていたんでしょうか…馬も大変です。

しかし馬場にしては幅が狭いように感じます…と言っても馬場の標準的な幅がどれくらいなのか知りませんが。

馬場を越えた所にある、大きな堀切です。

堀切は現在コンクリートで固められ、鉄橋が架かっています。

山麓居館跡だけでなく、山上の城跡も発掘調査中のようです。

 

太鼓櫓跡には、展望台があります。

展望台からは、周囲が一望できます。当時も見張り台として重要な役割があったと思えます。

金華山を見下ろします。右手に、長良川が見えます。

北側から、太鼓櫓跡方向を見ます。細い通路の脇にも、むき出しの岩盤があります。

さらに北には、狭間つき土塀があり、瓦には木瓜紋が見えます。奥の赤い鉄橋の下が、堀切です。

ここでも発掘調査が行われています。

こ、これは石垣が出てきたのでしょうか…気になります。

 

千成瓢箪発祥の地、だそうです。少し登ってみます。

天狗を祀ったと思われる祠があります。奥の岩が、天狗岩でしょうか。

 

登城道に戻ります。

二ノ門跡には説明にあるとおり、とんでもなく巨大な石による豪快な石垣が残っています。(左側にも巨石石垣が残るようですが、見逃しました)手すりのすぐ奥あたりに、門があったのでしょうか。

二ノ門跡の先は絵図にあるとおり、直進できないよう道が右へ曲げられていますが、周囲の石垣や石段はどこまで当時のものなのでしょうか。そしてまたもや冠木門(扉なし)の登場です。

閻魔堂はスルーしてしまいましたが、土岐家にまつわる言い伝えがあると後に知り、拝んでおくんだったと後悔しています。

チラッと見えている天守ダッシュしたい気持ちを抑えて、奥の説明板を見に行きます。

この稲葉城趾之図を拡大したものが、説明板に掲載されているようです。描かれたのが江戸時代ということは、廃城後なんですね。

二ノ門の先、閻魔堂の建つ曲輪が下台所跡です。この上にも台所があるようです。

そして、天守とご対面です。

斎藤道三織田信長ゆかりの岐阜城」と書かれた看板があり、絶好の撮影スポットです。狭間付き土塀も雰囲気出してます。

RC造で復興された天守がどこまで当時の姿に近いのかは分かりませんが、今はこれが、岐阜城天守です。三重の望楼型で、初重は下見板張り、大きな破風を設け、最上階望楼には廻縁・高欄付き…色合いこそ地味ですが、デザインセンス的には信長公のお城らしさを感じられる気がします。

 

まだ遠くに見える天守へ、接近します。

看板の左にある石段を上ります。

左手に、石垣を見つけましたが、当時のものでしょうか。

石段を上った先が台所跡と思われます。左手に見える建物は岐阜地方気象台の分室らしく、城跡を意識してか下部に石垣風のペイントがされています。地面は一部コンクリート舗装しているものの、チャート岩盤が顔を出しています。

分室脇の道を下ると、井戸跡があるようなので、見に行きます。

井戸跡です。水が湧く井戸ではなく、貯水施設としての井戸のようです。

金網で見づらいですが、確かに岩盤を綺麗にくり抜いています。

 

分室の前まで戻り、天守に向かって歩きます。

道の下を覗き込むと、二段の石垣と、その下には井戸が見えます。

ついに、天守の真下まで来ました。

絵図によると、天守の北西には天守台を合わせて四段の石垣が築かれていたようです。

この天守台下の石垣は、当時のものなのでしょうか。天守台下の三段石垣は、現在どれくらい残っているのでしょうか。

真下から、天守を見上げます。瓦には、木瓜紋があしらわれているようです。金の飾り金具や屋根瓦が、良いですね。

天守台石垣は再建時の積み直しらしいですが、チャート岩盤上に当時も天守台が築かれていたのは間違いなさそうです。天守台と岩盤のコラボ…とてもいいものです。

天守入口付近の石垣を見ると、チャートを使用しているのがよく分かります。チャートを用いた石垣というのは、非常に珍しいのではないでしょうか。

入口右の由来を読むと、天守は平成九年に改修工事を終えたようで、飾り金具などが美しいのもうなずけます。

 

天守最上階からの眺望です。

北側を見ます。手前に長良川と、奥の山は百々ヶ峰でしょうか。

南側からは先ほど歩いた道と、気象台分室が見えます。

西側からは、隅櫓風資料館の屋根が見え、お城っぽい風景です。

 

天守を出ます。

お城時計です。岐阜城とはあまり関係なさそうです。

岩盤越しに、天守を見ます。

 

隅櫓風の資料館…は右奥です。左は、城郭建造物(蔵?)風トイレです。金色の織田家家紋入りです。

資料館の屋根瓦も、木瓜紋です。下見板張りのデザインは天守と共通で、統一感があって良いと思います。

資料館入口です。100名城スタンプは、こちらで押せます。

チャート岩盤と、蔵風トイレです。

 

違う道を通って、帰ります。

目の前にあるのは、先ほど天守の手前で上から見た井戸です。

二段の石垣は、谷だった所へ通路を通すために築かれたようです。

これまで見た石垣とは雰囲気が異なり、説明板にあるように信長公の時代より後に造られたと考えられるのも納得です。

発掘調査中の穴を見下ろします。グレイトな発見があることを、祈っています。

堀切を渡り、狭間土塀の横を通ります。

おお、またも岩盤と石垣のコラボ! …まあ、どう見ても新しそうですが。

それにしても、城跡の至る所でこれほどのチャート露頭が見られるのは、とても貴重だと思うのです。これなんてほら、褶曲がすっごいんです。

ほらほら。

おおお、これはまた…素晴らしい!

お城巡りに来たのか露頭観察に来たのか、分からなくなりそうです。

 

ロープウェーで山麓駅まで下ります。

山麓駅には、精巧な城郭模型があります。当時の石垣を分かりやすく表示してあるようです。

特徴的な三段石垣が整備され、間近に見られるようになれば、間違いなく人気スポットになると思うのですが…。

土産売り場の家紋入り暖簾に目が行ってしまいます。二頭立波に、木瓜紋に、桔梗紋まであります。

いつまでも眺めていたくなる、非常に良く出来た模型です。

 

締めは、天守です。

信長公だけでなく、道三公もプッシュしていく姿勢が、看板にも表れています。

平成の大改修を経た天守が、晴天に映えます。

 

「地上の楽園」は、お城好き露頭好きの自分にとってもパラダイスでした。発掘調査により素敵な発見があることを、願ってやみません。

日本100名城スタンプラリー、こちらで18城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

51.一宮城

一宮城に行ってきました。

続日本100名城(No.176)に選ばれた、徳島県徳島市にあるお城です。

登山口手前にある立派な城址碑です。バス停があり、徳島駅からバスで来ることも可能です。

バス停横の説明板によると、徳島県内で最大級の山城だそうです。麓の寄神社周辺は居館跡といわれているようですが、今回は訪れていません。

奥に進むと、登山口があります。続100名城スタンプは、曲輪のイラストが描かれた案内板右側に設置されたボックス(写真には写っていません…)内にあり、ここで押せます。

舗装された坂道の先にあるトイレで用を済ませ、登城します。

坂道の先はいきなりの険しい山道で、少し登ると、トイレの屋根がもう小さく見えます。

両親と一緒に来たのですが、ここまで険しいとは思わず、無理をさせてしまいました。

城跡とは関係ないのですが、十二世紀頃のお経を納めた筒とは、とても貴重ですね。

本丸まで、あと500メートルです。

露出した岩盤は緑色片岩のように見えますが、このあたりは三波川帯にあたるのでしょうか。

山道は、まだまだ続きます。当時の城主も、同じ道を歩いたのでしょうか。

本丸まで、あと400メートルです。

城跡保勝会の五十周年記念碑があります。険しいながらも綺麗に整備された登山道は、保勝会のおかげなのでしょう。感謝します。

視界が開け、平坦な三叉路に出ます。眼前に、ようやく城跡らしさを期待させる立札が見えます。

攻め手が横移動をしづらくするために斜面と並行に掘られたのが、竪堀です。右側の盛り上がりに対し、立札の向こうは凹んでおり、ここが竪堀なのでしょう。

三叉路を左へ歩きます。

標柱に、倉庫跡とあります。奥の説明板が立っている所のようです。

説明板によると、もう1カ所倉庫跡があるようです。炭化した麦が出土し、戦いで焼かれたことを物語っているようです。

竪堀の立札まで戻り、三叉路を右へ歩きます。

本丸まで、あと300メートルです。

石垣…とまでは言えないけれど、明らかに人の手が加わったような石積みを、道の脇に見つけます。当時のものでしょうか。

道が分岐しています。

右手の坂道の先には、「曲輪」の立札が見えます。

坂を上ると、そこそこ広い曲輪です。登山口の案内板に「畑跡」とあった所でしょうか。

曲輪へ通じる道の脇にも、小さな石を積んでいるのが見られます。

坂道を下り、本丸を目指します。

正面は急斜面、右手も急斜面、左手も急斜面です。

立札によると、左にもうひとつの倉庫跡と、ほかに新正屋敷跡というのもあるようです。

しかし立札の先は道なき道…諦めます。

本丸まで、あと200メートルです。

振り返ると、かなりの高低差です。

正面には急峻な切岸があり、道は右へ曲がります。

大きな堀切に出ます。右手が明神丸、左手が才蔵丸です。

左手に、才蔵丸への虎口があります。

才蔵丸の虎口です。標柱には「財蔵丸」とあります。虎口の立札下には「見晴らし台」とあり、眺望が開けているようです。

才蔵丸は、かなりの広さを持つ曲輪です。「財蔵」ということは、金蔵があったのでしょうか。

根元が朽ちたのか、図を描いた案内板が倒れています。

観光協会が立てた鳥瞰図です。こちらは「財蔵丸」の字を当てています。

鳥瞰図によると、正面に見える山が眉山、左を流れるのが鮎喰川のようです。

才蔵丸を出て、本丸を目指します。

虎口の立札まで戻ると、立札の右手に、竪堀らしき凹みが見えます。

さらに歩いた所にも竪堀とありますが、左手斜面にあるのでしょうか、分かりにくい状態です。

当時の石段や脇の石積みが残っているように見える、門跡です。向こうに見える立札によると、右へ行くと明神丸、そして左へ行くと、本丸です。

本丸方向から、門跡を見ます。石段の最上段に、門礎石のように見える石もあります。

標柱右手の道を奥に進めば、明神丸です。

明神丸と書かれた標柱です。道の奥に、看板が見えます。

曲輪や堀などの縄張りが詳細に描かれた周辺案内図です。この先に、明神丸の虎口があるようです。

明神丸の虎口です。こちらにも石段が残っているようです。

明神丸です。才蔵丸に匹敵する広さがあります。手前の石列も、当時のものでしょうか。

当時の井戸でしょうか。

明神丸を出て、本丸へ向かいます。

門跡まで戻り、本丸を目指します。

明神丸と本丸との間にある、帯曲輪です。まっすぐ本丸へ伸びています。

いよいよ、本丸へ入ります。

本丸に立つ、縄張り全体が描かれた案内図です。今回は、左側の道を歩いてきました。

隣にある屋根付きの立派な説明板には、本丸石垣の形状が描かれています。一宮城は、県史跡に指定されているようです。

そしてこちらが、本丸に残る見事な石垣です。これは…素晴らしい! 山歩きの疲れも吹っ飛びます。

東側にある虎口は、奥まった所に石段があります。手前には、門があったのでしょうか。

石段の左右石垣を見ます。青石による野面積は、荒々しくも隅部がきちんと整えられ、徳島城に通じるものがあります。本丸石垣は、徳島城を築城した蜂須賀家政公時代のものと考えられているようです。

石垣上から、本丸東虎口を見ます。石段最上部に、門礎石のように見える平たい石があります。

本丸石垣上は、かなりの広さです。どんな建物があったのでしょうか。

一宮城の石材を使用して建てられたと思われる、若宮神社です。

本丸周辺の縄張りが描かれた、案内図です。

背後に連なる山々が美しいです。

右は先ほども見た眉山鮎喰川です。左手が、豊臣秀長が陣を構えたとされる辰ヶ山でしょうか。

石垣を下り、周囲を見て回ります。

隅部はよく整っています。

よく、これだけの石垣が残っていてくれたものです。

南側に、石垣の折れがあります。

本丸石垣の南西隅です。

標柱に「釜床跡」とあります。

おそらく、説明板手前の石組が、釜床跡と思われますが…よく分かりません。

本丸西側は石垣がなく、釜床から坂を上って本丸石垣上へ行くことができますが、当時もこのような構造だったのでしょうか。

 

本丸の南西方向にもいくつか曲輪があるようですが、今回はここまでで下山します。

登山口にある、一宮神社です。一宮城に所縁があるようです。

江戸初期に建てられた本殿は、国の重要文化財に指定されているようです。

 

いくつもの曲輪や切岸・堀切などがよく残り、本丸には見応え十分な石垣もある一宮城。地元にこれだけ立派な城跡が存在したことに驚き、訪問できたことに喜びを感じています。

続日本100名城スタンプラリー、こちらで2城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

50.勝瑞城

勝瑞城に行ってきました。

続日本100名城(No.175)に選ばれた、徳島県板野郡藍住町にあるお城です。

 

まずは、近年発掘調査により多くの発見がもたらされた居館跡へ行きます。

真新しい史跡碑です。奥のブルーシートで覆われた所は、今なお発掘が続いているのでしょうか。

説明板によると、室町時代に守護所が置かれた勝瑞の地は阿波の政治・経済・文化の中心地として大いに栄えたようです。どうやら、昔から知られていた城跡よりも、新に発見された館跡が勝瑞城のメインエリアと考えられ、この発掘成果があってこそ、国史跡に指定されたように思えます。

続100名城スタンプは、平日なら現地の事務所で押せますが、土日はなんと、近くのガソリンスタンド(もしくは隣の靴屋)で押せます。訪問当日は祝日だったので、ガソリンスタンドで押すことができました。土日の設置場所を引き受けてくれた店舗に、感謝です。

この場所に建っていた鉄工所の協力なくしては、居館跡の発掘調査自体が実現していなかったかもしれません。感謝です。

濠の曲がり角から礎石建物跡が見つかり、付近には橋の痕跡らしき発見もあったということで、礎石の平面表示と、木橋が復元されています。

濠の曲がり角と、木橋です。濠は、水濠だったようです。復元木橋、ちょっと味気ないですね…。

先ほどの濠の曲がり角から南下した所にも、説明板があります。

居館にはいくつかの曲輪が存在し、それらは大規模な濠で区切られていたようです。この場所からは手前を南北に濠が通り、その奥には西側へ濠が伸びています。

西へ伸びる濠の南側から検出された区画溝の説明板です。「ハレ」と「ケ」とは、非日常と日常とを表す観念的なものらしく、ここでは公的な施設とプライベートな住居空間とを指すと考えられ、これらを隔てるのが区画溝だったようです。

区画溝の西側、「ハレ」の空間にあるのがこの礎石建物跡で、会所跡と考えられているようです。

会所跡は建物の骨組みだけが復元されているような、なんとも中途半端な感じです…。ここは思い切って、三好氏の繁栄を象徴するようなゴージャスな会所をどーんと復元して、城跡としても観光資源としても魅力的な建物にしてしまった方が良かったのでは…と思ってしまいます。

枯山水庭園跡も…うーん、もうちょっとこう、庭園っぽくはできなかったものでしょうか。

このあたりでは礎石建物跡や土坑墓が発掘されたようですが、復元的表示は見当たりません。

 

居館跡の北東にある、城跡へ向かいます。

南西隅から、西側の濠を見ます。四方を濠に囲まれたこの場所は以前から勝瑞城跡として知られていましたが、最近の研究では、中富川の戦いの時に急造された詰の城だったとみなされているようです。

南側の濠の前には以前建物がありましたが、撤去されたようで、濠が見やすくなっています。

南側の濠に沿って東へ歩くと、歩道に案内板が見えます。

濠に架かる橋の手前には、史蹟碑と、その左隣の碑は…西国守護三好長治公一族菩提寺…でしょうか?

濠を渡り、城内へ入ります。

東側の濠にも、土橋が架かっています。

屋根の付いた石碑があります。

江戸時代に建てられた、勝瑞義冢碑です。「冢」の字は「塚」に通じ、義塚とは弔う縁者のいない人の墓を指すようです。側面にびっしり文が刻まれているようですが、見ていません…。

城跡は現在、三好氏の菩提寺である見性寺の境内となっており、モダンなお堂が見えます。三好氏の墓もあるようですが、見逃しました…。

矢竹が植えられているようです。

北側の濠に架かる橋を渡ると、二重櫓に見えないこともないような建物がありますが、お寺のものでしょうか。

戦国時代の城跡の濠がこの規模で残っているのは、素晴らしいですね。

城跡の説明板には、詰の城であったこと、国史跡に指定されたことが修正・追記されています。

土塁です。説明パネルの発掘写真から、大規模であったことがうかがえます。濠からは瓦が出土しているようで、当時は瓦屋根の建物があったのでしょうか。

 

故郷にある城跡の存在は知っていたものの、こうしてお城好きにならなければ一生行くことがなかったように思います。今後さらに発掘・整備が進み、藍住町が誇る勝瑞のお城が何度も訪れたくなる名城へ発展していくことを、心から願っています。

続日本100名城スタンプラリー、こちらが記念すべき1城目となります。

 

そしてこの勝瑞城で、このブログに記したお城が節目の50城に到達しました。故郷のお城の記事で50城目を飾れたのは、感慨深いものがありますね。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

3-3.彦根城

彦根城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.50)に選ばれた、滋賀県彦根市にあるお城です。

 

三度目の訪問となる今回は、100名城スタンプを埋めるのと、周辺遺構もしっかり見ようと目的を定めて出かけたのですが…。

彦根駅から、ひこにゃんの指す方角へ歩きます。佐和山城も、そう遠くない距離にあるようです。

駅からは、手前には井伊直政公像、そして奥の彦根山上には、天守が見えます。

駅から見えるほど高所に建っているイメージがなかったので、意外です。

 

周辺遺構を見ていきます。

外馬場公園の北にある駐車場はかつて外堀だったらしく、堀の名残と思われる水路があり、水路の西側には土塁らしき盛り上がりも見られます。

外堀跡は駐車場の南側では現在、外馬場公園となっています。かつて馬場が存在したのでしょうか。

堀跡を意識しての模擬土塀でしょうか。水路はなおも南へ続きます。

街歩きまっぷでは、様々なテーマに沿った散歩道が紹介されており、彦根城にまつわるものも多くあります。これから向かう所も、載っています。

公園の西、水路の向こうに大きめの建物が見えます。

これは金亀会館と呼ばれる建物で、もともと二の丸西側にあった藩校・弘道館の講堂をこの場所に移築したものらしく、藩校唯一の現存建造物だそうです。

金亀会館から南西へ歩くと、土塁が見えてきます。

外堀南側の、堀が北側へ屈曲する部分の土塁が現存しているようです。堀跡である道路の左カーブに沿って、土塁も左へ続いています。

屈曲土塁の南西には、外堀にかかる土橋があったため土橋町と名付けられていたようです。写真右手前から中央奥へ伸びる道がおおよそ外堀跡で、緑色の横断歩道の少し奥、左の歩道から右折する道の方向へ土橋が架かっていたと思われます。

外堀に七つあった口のひとつ、高宮口跡です。御門跡の石碑も立っています。

右の道方向から先ほどの土橋が交差点まで伸び、外堀を渡ったところで右折し、石碑から電柱付近まで道を遮るように門が建っていた、というところでしょうか。

土橋跡と思われる道路です。この先に、高宮口の説明板と石碑があります。

 

外堀跡を追うのはここまでで、外堀のさらに外側へ向かいます。

外堀の外側に連なっていた足軽組屋敷が、今なおいくつか残っているようです。善利と書いて「せり」って読むんですね。

𠮷居家住宅です。修理前の写真を見ると入口位置から違うなど改変が大きかったようですが、江戸期の姿に復元されたみたいです。

服部家住宅です。入口左側の建物が「だいどこ」ということでしょうか。

こちらが磯島家住宅です。

そしてこちらが、四つ辻にある辻番所です。彦根城下で現存するのはここだけという、全国的に見ても非常に貴重な建造物です。近年解体修理をしたようで、綺麗な外観です。本来は、隣接する磯島家を経由せずに直接辻番所へ出入りできたようです。

磯島家住宅は、中に入れます。

現在は磯島家住宅から、辻番所の内部を見学できます。奥の窓から、辻を監視していたんですね。

 

外堀の内側へ戻ります。

何やら歴史を感じる建物が並ぶ通りに入りました。

通りの名称は「夢京橋キャッスルロード」だそうです。城下町を再現すべく整備された街並みで、外曲輪南側に位置し、かつては商人町として大変栄えたようです。

キャッスルロードを北上すると、京橋があります。中堀に架かる橋で、外曲輪と内曲輪(二の丸)をつなぐ出入口のひとつです。

京橋上から、二の丸石垣を見ます。ここまであまりお城巡りをしている気分になれませんでしたが、石垣を見た途端にテンションが上がります。石垣基部には、犬走りがあります。

橋を渡った所から、京橋口の枡形虎口を見ます。手前に高麗門、道路を左折した石垣の間に櫓門があったようです。整った打込み接ぎ石垣には、大きな鏡石の使用がみられます。

なんと、京橋口の櫓門は門の上に二重櫓が乗っていたようです。これは重厚!

二の丸側から、京橋口を見ます。櫓門跡付近に、礎石跡らしき方形が見えます。

説明板のとおり、多聞櫓へ上がるための長大な雁木が、良く残っています。

京橋口枡形虎口と、超ロング雁木をセットで撮影します。

 

…ここで、重大な過ちに気付きます。そろそろスマートフォンの電池残量が怪しくなってきたので充電すべくカバンを探りますが、モバイルバッテリーが、ありません。家に忘れてきたのです。これから城郭中枢へ向かうという時に…なんということでしょう。

 

これ以降は、本体電池残量だけを頼りにした時限付き訪問となります。

本文はおろか、市指定文化財、の左の名称すらかすれて読めませんが、文化財は旧西郷屋敷長屋門・袖塀・高麗門であること、平成年間に解体修理が行われたこと、明治期に現在地へ移築されたことなどが解説されています。

こちらが旧西郷屋敷長屋門です。京橋口を越えてすぐの所に建つ、彦根城下では最大規模の長屋門らしいですが、実際、とても大きいです。

内堀の向こうに、土塁基部のみ石垣と築いた「腰巻石垣」と、土塁頂部のみ石垣を築いた「鉢巻石垣」がセットで見えます。「鉢巻腰巻石垣」とでも呼びたくなるこの土塁基部と頂部を石垣が挟み込むような構造は非常に珍しいようです。

 

左奥に見える、大手門橋へ向かいます。

大手門橋を渡ります。右手には、大きな櫓台が見えます。

橋のたもとに、堀清掃用の昇降口的役割を持つ「塵取」が発掘・復元されています。地味ですが、当時の姿を可能な限り解き明かすのだという熱意を感じる整備です。

大手門枡形虎口です。低い石垣の所には、高麗門が建っていたのでしょうか。

礎石が残っています。

大手門枡形を左折した所にある、櫓門跡です。礎石のほかに、建物の基礎のような低い石垣が築かれています。内側に番所を備えた門だったのでしょうか。

櫓門跡の北側石垣上部には、全国でも現存例がほとんどない登り石垣が見事に残っています。

大手櫓門から南西へ続く石垣の裏には、京橋口と同様に長大な雁木があります。

 

いよいよ電池残量が厳しくなり、さらに撮影頻度が落ちます。

大手門を越えると、鐘の丸まで一直線の上り坂があります。

坂を上った所には、門があったようで、礎石らしき石が見えます。

天秤櫓は修復中でした。

鐘の丸を越えると、太鼓丸です。

太鼓丸の脇道にある門跡らしき石垣、よく見ると雁木があり、左から上れそうです。門上を行き来できたのでしょうか。

太鼓門の屋根瓦には井伊家の家紋である井の字があしらわれています。ひこにゃんは、いませんでした。

太鼓門を越えると、本丸です。

着見櫓跡の説明板、井の字形です! こだわりですね。

 

着見台は実に眺望が良く、復元された表御殿や、現存の馬屋、佐和口多聞櫓などが見えます。

四月の訪問時には台風被害で漆喰が剥がれた状態だった天守の多聞櫓は、綺麗に塗り直されています。

本丸から、西の丸へ歩きます。

西の丸にあるトイレです。絵図などを見ると、当時ここには櫓があったようなので、平櫓風トイレ、と呼んでもいいように思います。下見板張りに格子窓のデザインがいかにもな感じだし、屋根瓦には家紋もバッチリ入っています。

西の丸と出曲輪との間にある大堀切の向こうには、登り石垣が見えます。

出曲輪から振り返って、西の丸三重櫓を見ます。続櫓の窓の横には、狭間が見えます。

表御殿の方へ向かいます。

表門跡付近にも、見事な登り石垣があります。

表御殿を外観復元して建てられた、彦根城博物館です。

表御殿能舞台は移築現存していたものを、御殿復元にあたり元の場所へ再移築したそうです。

 

電池残量的にこれ以上の撮影を断念し、引き上げます…無念。

帰りに、切通口御門跡の石碑を発見しました。外堀に七つあった口のひとつです。

石碑の付近には、何やら発掘現場らしき所もあり…気になります。

 

締めは、天守です。

金細工の施された唐破風が目を引きます。

たくさんの破風で、屋根形状が非常に複雑です。

 

モバイルバッテリーを忘れるという痛恨のミスにより十分な撮影ができませんでしたが、外堀跡や足軽組屋敷など周辺遺構をじっくり見学できたのは収穫でした。次回の訪問でまた新たな魅力を発見していくのが、楽しみです。

日本100名城スタンプラリー、こちらで17城目となります。

(100名城スタンプは、今回撮影していませんが、佐和口多聞櫓を外観復元した開国記念館で押せます)

 

素敵なお城でした。ありがとう。

8-2.和歌山城

和歌山城に行ってきました。

日本100名城(No.62)に選ばれた、和歌山県和歌山市にあるお城です。

砂の丸から道路を挟んで北側のビル入口に、御蔵跡の説明板を見つけました。当時はこのあたりをコの字形に囲んだ堀がさらに南へ伸び、現在も残る砂の丸北西の堀へつながっていたようです。

こちらが砂の丸北西に今も残る、西外堀です。堀は写真右奥で行き止まりになっていますが、埋め立てられたわけではなく、絵図などを見ても当時からこの先には堀はなかったようです。

この辺からでも、天守が見えます。

 

砂の丸石垣を見ながら、お城の西側を歩きます。

路面電車を通すために道路中央付近まで張り出していた石垣を撤去した、という説明板を読んでから石垣を見ると、確かに、歩道に面した所がスパッと直線的に削り取られた後に積み直されたような形状をしています。和歌山に路面電車が走っていたとは知らず驚きましたが、石垣の改変は残念です。

このあたりから南側は、当時の石垣が残っていると思われます。左端に写る表面がやたら平らな部分は、石垣が削り取られた箇所です。

歩道に沿って、見事な高石垣がしばらくまっすぐ続きます。元から堀が無かった場所ということもあり、高石垣で守りを固めたのでしょうか。

ここで一度、石垣が内側へ折れます。

次にもう一度石垣が折れる所に、追廻門があります。朱塗りの高麗門で、貴重な現存建造物です。

追廻門の南側、石垣の折れ部にゼロ距離で建物があり、ヒヤヒヤします。

ここの折れ部では、石垣が一段と高くなっています。

折れが連続する南西部石垣の外側は扇の芝と呼ばれ、1850年には落雷で焼失した天守再建の御普請所として利用されたようです。

 

三年坂通りという大きな道路に出ます。

歩道の傍らに、小さなお城が建っています。確証はありませんが、信号の制御機ではないかと思われます。

ミニ城近くの坂の手前に、案内板があります。坂の上には、吉宗公が藩主の時代に建立されたという時鐘堂と、藩祖により和歌山城の守り神として遷座されたという奥山稲荷社があるようです。これは見ておかねば、です。

奥山稲荷社の鳥居をくぐります。奥に時鐘堂が見えます。

県指定史跡、岡山の時鐘堂です。和歌山城に関連する、貴重な現存建造物です。あまり古い印象を受けませんが、近年修理などされているのでしょうか。

奥山稲荷社は小高い丘の上にあるため、天守がよく見えます。

奥山稲荷社の西にある県立近代美術館付近からも、天守や石垣が見えます。

近代美術館の南東、奥山稲荷社の南側にある、奥山公園です。

時鐘堂に「岡山の」とありましたが、戦国期にはこのあたりに岡山城というお城があったようです。一帯の丘陵が曲輪の名残ということでしょうか。岡山城の遺構は残されていないようですが、奥山公園には写真のように古そうな石積みもあり、気になります。

寄り道を終え、ミニ城まで戻ってきます。石垣や破風、窓、鯱など意外に凝った作りです。デザイン的にはやはり、和歌山城を意識しているのでしょうか。

ミニ城の背後にそびえる、天守台と見紛うほど立派な高石垣は、不明門脇の高櫓台です。

高櫓台の隅部は、石を精密に加工した切込み接ぎです。

この高さ、この美しさ、この隅部の反り! 見所ポイントです。

高櫓台の東にある虎口には、不明門があったようです。門があったと思われる場所には現在、駐車場のゲートがあります。

不明門跡虎口を、城内側から見ます。

史跡案内図です。建物跡の説明はないのに、現存門及び門跡だけが詳しく記されています。現存建造物が門だけな和歌山城ゆえのこだわりでしょうか。

不明門跡の北には、南の丸西側を仕切る石垣があります。

南の丸北側には、松の丸石垣が高く積まれ、このあたりでは二段になっています。雰囲気が徳島城の石垣に似ているなあと思ったら、「紀州青石」と呼ばれる、徳島城と同じ緑色片岩を使用しているみたいです。

このあたりに、門があったのでしょうか。

南の丸西虎口を入った所の石垣には、雁木があります。

南の丸内部から、西虎口を見ます。

 

西虎口を出て、さらに西へ歩きます。

海鼠壁の城郭建造物風トイレと、その奥に新裏坂の登り口が見えます。

本丸西側石垣の南西隅です。高櫓台に比べ傾斜が緩く、反りが見られず直線的です。

現在三つある天守への登城口のひとつ、新裏坂です。本来ここに天守へ通じる道は無く、観光用の近道として後世新たに設けられたようです。

先ほど見た本丸南西隅石垣の上端です。

天守郭の青石による石垣は、古さを感じます。

新裏坂の終わりが見えてきます。

石段の上が、天守郭です。ここに虎口は無かったはずなので、石段と両脇の石垣は後世の改変と思われます。

石垣に開いた丸い穴が、妙に気になります。

天守郭上段、連立天守の周囲(西~北~東)には帯曲輪がありますが、現在立入禁止となっています。

天守郭上段に建つのが、空襲で焼失した後に復元された、連立天守です。

100名城スタンプは、(写真には写っていませんが)楠門への坂手前にある券売所で押せます。

天守郭と天守閣、音読みするとどちらも「てんしゅかく」ですね。解説文も興味深いですが、天守郭の建物とその手前の門までもが詳細に描かれた絵図が、当時の様子が非常によく分かり素晴らしいです。ひとつ前の写真が図らずも、絵ハガキの古写真に割と近い構図でした。

天守南面には二階に出窓、一階の両隅に絶妙なカーブを描く石落しがあります。天守一階と多門には、狭間も見えます。

天守と多門との接続部は、かなり複雑です。

 

楠門から、連立天守内へ入ります。

楠門を越えるとすぐ石垣の壁が立ちはだかります…が、今は沿革が記された石碑がその前に立てられ、石垣がよく見えません…。上部に見える穴は、排水口でしょうか。

楠門から先は石垣の壁に遮られ直進できず、左折ルートで遠回りさせられます。この鏡石をふんだんに使う感じ、徳島城を思い出します。

石段上から、楠門を見ます。楠門は二の門とも呼ばれ、天守に入るためまず越えるのが郭入口にある一の門、その次が楠門だったようです。

二の門に続く二の門櫓は、連立天守の南西隅に位置します。一階の屋根は複雑に重なり合っています。

名前通り乾(北西)の方角に建つ、乾櫓です。

北東隅には、玄関の付いた小天守があります。現在もここが入口になっています。

そして南東隅には大天守です。二の門櫓・乾櫓・小天守・大天守が多門などで連結されひとつながりの環状になっており、このような構造の天守を連立式と呼びます。現存天守では、姫路城や松山城が有名です。

天守前にあるのはトイレですが、当時ここには蔵があり、模擬的に復元された格好になっています。そうそうこれですよこれ、便益施設を兼ねた城郭建造物の復元!蔵があった所に蔵風のトイレを建てた方が、「蔵跡」の立札一枚よりも断然イメージわくと思うんです。西の蔵も土産物屋か何かとして復元してはどうでしょうか。

解説にあった「比翼入母屋造」とは、一階部分が入母屋造を二棟並べたような構造になっているということでしょうか。菱形天守台ゆえの、築城時の工夫があったようです。

 

天守から中へ入り、展示などを見て回ります。

門(井戸屋形もありますが)の模型をいくつも並べて展示してあるのは珍しいように思います。

天守最上階にある、1:300スケールの城郭模型です。砂の丸西側石垣が明治期に撤去された後の形状だったりと再現性にやや難ありですが、大まかな構造を把握するのには有用です。

 

最上階からの眺めを堪能していきます。

西側を見ると、連立天守が方形ではなく菱形に近い形状なのが分かります。

砂の丸や西の丸がある、北西方向を見ます。

この屋根が密集する感じ、良いですね。手前の屋根上に並べられた瓦は、補修のためでしょうか。

天守屋根です。大小天守はグリーンの屋根縁取りがとても印象的です。

北側には、西の丸と二の丸をつなぐ御橋廊下が見えます。

唐破風の曲線的なフォルムが美しいです。木々に映る天守の影も、趣があります。

東には、現在給水場となっている本丸御殿跡が見えます。

 

最上階を下り、多門をぐるっと回って、出口へ向かいます。

御台所にある天守の裏門、埋門です。内装は復元されていない和歌山城ですが、この埋門はよくぞ残してくれました。いつか帯曲輪への立ち入りが可能になれば、外側から埋門や天守北側石垣を見てみたいものです。

現在は天守出口となっている、御台所です。壁や格子窓の傷みが目立ちます。

天守の屋根アップです。玄関の唐破風上には葵の御紋が、そして背後の入母屋破風には青海波紋が見えます。

 

正規ルートで登城したので、正規ルートで下りることにします。

2018年に再建60周年を迎えた和歌山城天守は、空襲焼失後にRC造で再建された天守の中では最も正確に外観復元されたと言われています。

天守南東隅石垣です。見れば見るほど、徳島城に似ています。

天守一ノ門跡です。礎石が残っているようですが、石畳も当時のものでしょうか。

外側から、天守一ノ門跡を見ます。手前の方は、岩盤がむき出しになっています。

天守一ノ門跡北東に、背の低い石垣と合坂がありますが、背後の裏坂から攻め入る敵を迎撃するための設備でしょうか。手前には石組水路も見えます。

天守一ノ門の南には、中ノ門があったようです。

天守一ノ門の北には本丸裏門があり、表坂・裏坂のいずれから登城してもここで二つの門を越えねばならず、天守付近の守りは非常に厳重だったことが分かります。

本丸御殿跡の解説を読むと、虎伏山はフタコブラクダのような形状で、東の峰に御殿が、西の峰に天守が建っていたようです。光恩寺に移築されたという御台所も、いつか見に行きたいものです。

給水場が設けられた関係か、本丸御殿跡の石垣は改変が見られます。

給水場の手前まで上ることができ、絶好の撮影スポットになっています。天守もそうですが、本丸裏門跡や裏坂もよく見えます。

本丸裏門跡には、礎石がよく残っています。

街灯の右に、石垣隅部が見えます。絵図を見ると、この上に小さな曲輪があるようですが、立ち入ることはできません。

裏坂の折り返し部です。かなりの高低差が見て取れます。

裏坂の途中にある、銀明水です。立札にある金明水とは、水の手にある黄金水を指すと思われます。

裏坂では、苔むした石垣があちこちに見られます。

裏坂を下りると、石垣の雰囲気が変わります。古い野面積の石垣横に、虎口整備のため新たに石垣を築いたと思われます。

ひとつ前の写真右の雁木から石垣に上ってみます。右手に御台所前御門があったようです。

写真奥には、両側ともに木の生えた合坂が見えますが、左側の雁木上には、よじ登ろうとする小さな人の形に見える木の根があるそうです。見逃したので、こちらも次の機会に是非撮影したいところです。

内側から、裏坂入口の御台所前御門跡を見ます。

門跡の向こうは、二の丸です。

案内図を見ると二の丸は現在広場になっていますが、当時ここには広大な二の丸御殿が建っていたようです。

二の丸御殿西側には大奥があったようです。一部建物を復元する整備計画もあるようで、実現してほしいですね。

写真右の石垣にある低く飛び出た部分は絵図にも描かれていますが、役割が謎です。解説板の北あたりに、玄関があったようです。

大奥跡の西には、御橋廊下があります。

右の雁木は、二の丸西側に並ぶ多門へ上がるためのものでしょうか。左の虎口が、切手門跡です。

切手門跡には、門礎石らしき石があります。

切手門付近から、御橋廊下を見ます。近年復元された、傾斜のついた珍しい廊下橋です。

切手門付近から、二の丸方向を見ます。見事な高石垣の上には、櫓が建っていたのでしょうか。

切手門から砂の丸手前まで続く青石の高石垣は、見事というほかありません。

鶴の渓です。解説板の絵を見ると、右手石垣沿いに餌入れが並び、その右(写真範囲外)には池があったようです。城郭建造物の復元は大変ですが、餌入れや池を模擬的にでも再現し、鶴の模型でも置いてみれば、低コストで雰囲気が出るように思うのですが…。

 

鶴の渓を西へ抜けると、砂の丸です。

砂の丸は現在、グラウンドのような広場になっています。当時は北側に勘定所などが建っていたようです。

砂の丸西側には、高石垣と雁木、合坂が綺麗に残っています。

砂の丸からは、天守がよく見えます。

左奥の鳥居付近に砂の丸の北出入口である勘定門があったようです。右手奥が西の丸ですが、当時ここは砂の丸と石垣で隔てられ、後世に石垣を撤去して道を通したようです。

西の丸にあるトイレです。和風で城跡にマッチしていますが、天守の蔵トイレのような模擬的復元ではないようです…。奥に天守、左端に御橋廊下が見えます。

西の丸東側では、発掘調査が行われているようです。当時このあたりに建っていた能舞台の復元整備計画もあるようで、期待が持てます。

勘定門東側石垣です。奥の石垣上には勘定門上角櫓が建ち、手前の石垣はもっと東(写真手前側)へ伸びて吹上口と西の丸とを仕切っていたようです。

かつての吹上口に建つ、わかやま歴史館です。

砂の丸への北出入口、勘定門跡です。

 

もう一度、二の丸へ向かいます。

御橋廊下付近から、天守を見ます。連立天守は、角度によって実に様々な表情を見せてくれます。

大奥の坪庭にあった漆喰池が見つかったようです。本物は埋めたままでレプリカでも良いので、大奥復元の際には是非とも復元してほしいものです。

坪庭の北、内堀に面した二の丸北側には櫓が並んでいたようで、二の丸側からは低い石垣と雁木が確認できます。

二の丸御殿の表跡です。解説板の東に見える石垣は、二の丸東側を区画するものです。

一中門近くにある和歌山城のマスコット(?)、伏虎像です。びっくりしたような目がチャーミングですね。

和歌山城の石垣は時期によって積み方も石材も異なり、石垣の博物館と呼べるほどの多様な石垣を見ることができます。

石垣を見ながら、御蔵の丸へ向かいます。

本丸北東隅あたりは、青石の野面積です。

やがて、表坂の登り口と、背後にそびえる高石垣が見えてきます。

岡中門跡は、加工した石を隙間なく積んだ切込み接ぎです。

松の丸東隅にある櫓台は、横に目地が通る布積みです。何度見ても素晴らしい高さと美しさ!

御蔵の丸東側には、長大な雁木が設けられ、どこからでも石垣上へ行けます。

伏虎像の近く、一中門跡まで戻ってきました。

一中門の石垣は、江戸城大坂城などに見られる精度の高い切込み接ぎです。多角形の石材がパズルのようにぴったり組み合わさる様は、芸術的です。左下に見えるのは、門礎石でしょうか。

一中門の枡形虎口を、大手門側から見ます。街灯より右側は、やや加工が粗く見えますが、大手筋ということもあってか、巨石が用いられているようです。

左手石垣より西側が二の丸、正面奥に見えるのが大手門です。

大手門南東には、井戸屋形があります。

明治期に倒壊後、昭和期に復元された大手門です。高麗門のみのシンプルな虎口ですが、一中門とセットで見ると、超巨大な枡形虎口を形成している…と言えなくもないかもしれません。

一の橋から大手門と、西に続く石垣を見ます。大手門の西側には、月見櫓があったようです。

古写真が残る内堀沿いの櫓群は、木造復元の計画があるようです。

張り出した所が、物見櫓台です。背後に、天守が見えます。

帰りに西の丸に立ち寄ると、解説文入り標柱を見つけました。

終わりに、個人的お気に入りショットをふたつ、紹介します。

本丸御殿跡から見る天守です。

月と天守です。

 

振り返ると、あそこを見に行けなかった、どうしてあそこを撮影していないのか、というポイントがいくつも出てきます。二度目の訪問は再訪を強く決意させ、今後の整備も楽しみな、何度でも訪れたいお城だと再確認できました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで16城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。