盛岡城に行ってきました。
日本100名城(No.6)に選ばれた、岩手県盛岡市にあるお城です。
※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。
三ノ丸北側にある説明板です。城下町全体図を見ると、北上川の流路が現在と大きく異なり、盛岡城をえぐる勢いで、めっちゃ蛇行してます。
まずは、下曲輪へ行きます。
下曲輪の北西隅です。お堀は紫陽花など植物が生い茂り水面すら見えませんが、外側の土塁は良く残っています。土塁上部の石積みは、当時のものでしょうか。
北東隅はお堀の水面が見え、内側・外側の土塁形状からも、お城っぽさを感じます。今は亀ヶ池・鶴ヶ池と呼ばれるお堀が断片的にしか残っていませんが、当時はこれらのお堀と北上川・中津川が盛岡城を囲んでいたようです。
……うーん、このアングルはひどい。下曲輪の中央を県庁方面へ抜ける道で、電柱の奥に見える2本の柱は鳥居の下部なんですが……なんだってこの位置、この角度で撮影したんでしょうか。
当時ここが下曲輪への入口で、北から堀を渡った所には綱門があり、喰違い虎口となっていたようです。また、下曲輪の東には勘定所があったようです。
時鐘はもともと外曲輪より外にあったもので、後にここへ移されたようです。鐘楼もかなり古そうに見えますが、当時のものでしょうか。
下曲輪南側の道路を渡り、城跡のメインエリアへ向かいます。
お堀の東、外曲輪に位置する「もりおか歴史文化館」の入口付近にある、盛岡城跡公園の看板です。もともと岩手公園だったのを、2006年の開園100周年を機に愛称を「盛岡城跡公園」に改めたとか。
三ノ丸下、東側の道です。右手が三ノ丸、左手はお堀です。
三ノ丸石垣が見えてきました。
手前の石垣上へと上る石積み・石段は、後世に追加されたようです。
細い道を抜けると、開けた場所に出ました。台所跡です。見渡す限りの高石垣! 前日から見てきた弘前城・久保田城が土のお城だったので、しばらくぶりの石垣にテンション上がります。やはり石垣はいいものです。
三ノ丸西側の南石垣です。
いやーそれにしても素晴らしい。あちらにも石垣、その隣にも石が……石? ちょっと、あれ何ですか(写真中央)。どうみても石垣じゃなくて、ただの石ですよね。しかも、とんでもなく巨大な。
(ちなみに、右手が三ノ丸石垣、巨石をはさんで左手が二ノ丸石垣です)
ちょうど石の近くに坂道があったので、とりあえず接近します。坂の上には、三ノ丸に通じる「不明門」があったようです。
近くまで見ても、やはりこれは、石です。なんと立派な巨石……大学で地質学専攻していた血が騒ぎます。
振り返ると、道沿いに二ノ丸東面石垣が見えます。石垣に根を張っていた巨木の伐採された跡があります。
道の中ほどに見える低い石垣ブロックは「はばき石垣」と呼ばれ、石垣の崩壊を防ぐための石垣、だそうです。
不明門跡から、三ノ丸へ入ります。
三ノ丸から台所を見ます。台所、かなり広いエリアですが、当時はどのような建物があったのでしょうか。
烏帽子岩、確かに思わず拝みたくなる素晴らしい巨石です。そして説明板前の石もかなり巨大です。
烏帽子岩から東側はこのように低くなっています。左手にもとんでもない巨石があります。盛岡城は花崗岩丘陵に築城されており、そもそも城域全体が巨大な花崗岩、ということらしいです。石材がいくらでも現地調達できたから、東北には珍しい総石垣のお城が建てられたのかもしれませんね。
烏帽子岩の西側にも巨石が埋もれており、あっちもこっちも巨石だらけ、三ノ丸だけ見てると失われた巨石文明の遺跡みたいで、超興奮します。
さらに西にはストーンサークルまで! ……ではなくて、井戸跡でしょうか。
三ノ丸西側から南を見ます。右の道を曲がると車門跡で、その先は二ノ丸です。左の坂の手前が不明門跡です。
三ノ丸の北出入口、瓦門跡です。石垣により道が直角に曲げられ、喰違い虎口となっています。
三ノ丸外側から喰違い虎口を見ます。坂を右へ曲がると瓦門があったようです。
石垣の隅部はシャキーンと尖っていてカッコいいですが、なんだか崩れかけているように見える部分も多く、一部ブルーシートに覆われています。
矢穴が数多く見えます。
三ノ丸の下から見た烏帽子岩です。巨木に乗っかられて石垣の隅がしんどそうです……。左奥に見えるのは櫻山神社で、もとは淡路丸に建っていたのをこちらに移され、現在は初代藩主の南部氏・南部家の初代などが合祀されているそうです。
史蹟碑と石垣、良いですね。ロープやカラーコーンがちょっと邪魔ですが……。
ここから東へ行った所には、下曲輪へと通じる鳩門があったようです。
史蹟碑の右手にある案内板です。現在の公園案内と、当時の門・橋の名称を載せた古絵図とを並べてあり、対比できるのが良いですね。端の文字が切れており、写真は良くないですが……。
この写真も……なんとも残念なアングルです。もうちょっとどうにかならんかったのでしょうか。反省しきりです。
現在堀が残っているのは下曲輪周辺と三ノ丸下~台所東側、そしてこのあたりだけです。撮影した位置付近が当時の船入で、このあたりから左側の外曲輪と右側の新御蔵エリアをつなぐ土橋が架かり、土橋を渡ってすぐの新御蔵エリアには枡形門があったようです。
内曲輪の西側を、石垣に沿って南へ歩きます。
三ノ丸西面石垣です。
張出部から南は、二ノ丸です。
二ノ丸西面ではさらに石垣が張り出します。石の隙間が見えると、はらみ・崩壊のおそれがあるのではと心配してしまいます。
石垣の隅部を見ると、ついつい撮りたくなります。
またもや張出部ですが……少し様子が違います。
ここだけ、石垣が三角形状に張り出しているのです。これまで見てきた石垣は基本的に四角形の組み合わせだったので、この形状には驚きです。この三角に張り出した部分が、榊山稲荷曲輪です。
さらに南へ歩くと、腰曲輪の石垣と、その手前に坂道が見えてきます。
説明板には、現況の全体図と当時の復元図、発掘調査時の写真まで掲載され、情報量が豊富です。
吹上坂はもともと急な石段で、明治期にゆるやかな坂になるよう石を積み増したようです。訪問時には江戸期と明治期の境界を見つけられませんでしたが、先ほどの写真をよく見ると、境界線が見えるような気がします。
で、歩道脇に表示してあるという坂下門の柱跡をしばらく探し回っていたのですが……おそらくこれだと思います。説明板のさらに南に、縁石を凹ませて、切り株色の丸がふたつあります。説明板からずいぶんと南にあり、もう少し説明板を近くに立てても良かったのでは……と思ってしまいます。
吹上坂は上らず、さらに石垣に沿って南下します。
腰曲輪南西隅です。ここにも石垣の基部に「はばき石垣」が積まれているようです。
おや? 隅部をよく見ると、「はばき石垣」だと思っていた低い石垣の上に高石垣を積んでいるように見えます。もしかしたら、ここは最初から何らかの理由でこの積み方だったのかもしれません。
ここは後世に積み直した部分だそうですが、実に美しいです。芸術です。
腰曲輪南面石垣を見ながら、東へ歩きます。
木の向こうに、建物の壁が見えてきます。
でか! めちゃめちゃでかい蔵があります。盛岡城唯一の現存建造物、彦御蔵です。
もともとは腰曲輪南西隅の低い石垣の西側に建っていたようですが、道路拡張に伴い現在地へ移築されたようです。
それにしても巨大な蔵です。盛岡城のスケールの大きさを垣間見た気がします。
さらに東へ歩きます。
きました! 石垣隅部の連続!! これもう、本当たまりません。この上には当時、L字型で二層の大櫓が建っていたようです。
隅部の連続を過ぎ、北上します。石垣に排水用の石樋が見えますが、盛岡城ではこれを「蛇口」と呼ぶそうです。
当時はこの道を遮るように鍛冶屋門が建っており、曲輪を南北に区切っていたようです。
右手土塁の下には内堀からつながる水路が見えます。そして右奥には、巨石。
石垣の周囲を回って、台所まで戻ってきました。
腰曲輪北面石垣の前にある左右から上れる石段は、後世の改変のようです。そしてこの石段の柱をつなぐ鉄鎖、なんと新山舟橋の舟をつないだ鎖だと伝えられているそうです。驚きの再利用。
改変石段の場所から西方向です。右奥が二ノ丸、左奥が本丸です。
道を本丸石垣の北東隅まで西へ歩き、東へ振り返ります。右手の坂を上ると、本丸です。
北には二ノ丸石垣と、はばき石垣が見えます。
本丸と二ノ丸の間の堀切には現在、渡雲橋がありますが、当時はここに廊下橋が架かっていたようです。
渡雲橋をくぐり、腰曲輪の西、榊山稲荷曲輪へ向かいます。
石段の先が、榊山稲荷曲輪です。下から見上げると三角でしたが、上から見てもやはり、三角です。ここには榊山稲荷神社があったようです。
石組井戸があります。
北端に謎の石垣があります。二の丸改変の際に撤去された石垣の石材ではないか、という説があるようです。
吹上坂を見下ろします。歩道脇に、坂下門の柱跡表示がわずかに見えます。柱跡から考えて、当時の吹上坂はもっと南で終わっていたはずで、相当に急な石段だったのでしょう。
埋門のようになっている曲輪の出入口です。石段も石垣もガタガタです。
榊山稲荷曲輪を出て、腰曲輪へ戻ります。
本丸南西石垣です。説明板のサイドには、腰曲輪と吹上門の説明があります。
どうやら本丸拡張のため、築城期石垣の上にどーんと石垣を築いたようです。ほかの部分より石垣の規格が揃っているのは確かに感じるし、矢穴のついた石も多いです。
さっきは通り過ぎた吹上坂へ行きます。
坂の上から見た吹上坂です。右手石垣の隅部は綺麗に加工された巨石が使用されています。
吹上坂のてっぺんです。正面石垣の上は見晴らしがよさげですが、当時はやはり櫓が建っていたようです。
吹上坂を左折したところに吹上門が建っていたようです。喰違い虎口を形成する正面の石垣は、当時はもう少し左側まで伸びていたようです。
門の内側から虎口を見ます。左が短くなった石垣です。
吹上門南の櫓台付近から見た、腰曲輪南面の石垣です。この高さ、この美しさ! 石垣下には彦御蔵が見えます。
櫓台には現在、四阿が建っています。
説明板のサイドに別の情報を載せるスタイル、なかなか面白いですね。ここは腰曲輪の南側ですが、鳩が歩いている道のあたり一帯が馬場だったようです。
築城以来あちこちで改修が行われている盛岡城ですが、ここ腰曲輪では大きく四度の変化があったようです。
なんと、説明板の逆サイドにも別の情報が。情報量が多くてありがたい反面、すみずみまで目を光らせないと見落としそうです。
というわけで、こちらの石段は明治期の改変だそうです。
腰曲輪、けっこうな広さがあります。
宝蔵跡の標柱、年季入ってます。左の四角い石積み上に、宝蔵があったようです。
宝蔵跡付近にある、やや古そうな案内板です。金属板に彫刻してあるので見づらいですが、門などの名称は詳しく書かれています。「もりおか歴史文化館」が付け足されています。
宝蔵跡の情報、これで三つめです。まあ大事ですよね、なにしろお宝ですから。
腰曲輪には三基の櫓と宝蔵、そして吹上門が建っていたようです。また、現在三ノ丸北東にある櫻山神社は、もともと腰曲輪東部「淡路丸」にあったようです。
説明板逆サイドには、また別の情報が。
ありました、二層櫓(大櫓)台です。先ほど下から見て隅部の連続に大興奮していた所ですね。この二層L字櫓の北側に単層の櫓があり、二層櫓と武者走りで連結されていたようです。
旧櫻山神社跡を横切り、腰曲輪東部を北へ歩きます。
公園化にあたり設置されたと思われる階段です。階段の下は腰曲輪東部の北側が一段低くなっているエリアで、さらに進むと改変石段があり、その先が台所です。
西側石垣上から見た、腰曲輪東部北側の低いエリアです。奥が先ほどの階段で、中央に石組井戸が見えます。井戸跡があちこちに残ってて良いですね。左の建物は、トイレです。
低いエリアを撮影した、台所側へ張り出した腰曲輪東部北西隅の石垣上です。右手が低いエリアです。現在は石畳で整備され休憩スペースとなっていますが、当時ここには「乗物小屋」があったようです。乗物小屋…駕籠とか入れてたんでしょうか。
乗物小屋跡すぐ南にある、本丸へ通じる石垣の坂です。野面積の、城内で最も古い石垣だそうです。
坂を上り、本丸へ向かいます。
坂を右折したところに、御末門があったようです。
御末門の石垣を左右別々に撮影していますが……いけませんね。門があった場所なら左右の石垣を同時に写すべきでした。そもそも縄張りを把握していないのがダメです。
それはそうと、この御末門石垣は巨石をふんだんに使用していて、さすが本丸の門という迫力を感じます。当時はここに櫓門が建っていたようです。
御末門を越えると、本丸です。
四阿のある場所に三重櫓(後の天守)が建っていたようです。つまり、天守台ですね。
御末門南側の石段から石垣に上がります。当時ここには御末門から連なる多聞櫓が天守の際まで建っていたようです。
西側から見た天守台です。当時もこの石段から天守へ入ったのでしょうか。
改変設置された本丸南面の石段です。ゆくゆくは撤去し、当時の姿に復元する計画もあるようです。
本丸南西隅の櫓台です。当時ここには二階櫓が建っていたようです。
北側から見た本丸南西隅の石垣です。右手下が腰曲輪ですが、当時は腰曲輪から右手の二階櫓石垣まで「百足橋」なる橋が架かり、腰曲輪から直接本丸に入ることができたようです。なんとまあ面白い、個性的な構造です。さらに本丸が手狭になってくると、西側には石垣をはみ出して「聖長楼」なる三階建ての御殿が増設されたとか……なんという魔改造! 二階櫓と百足橋の復元計画があるらしく、もし実現したら是非、再訪したいものです。
本丸中央には、明治期の南部家当主である南部利祥公の銅像があったようですが、戦時の金属供出により撤去され、台座のみ残されているそうです。
本丸北東部、隅櫓と御殿が廊下で接続されていたんですね。遺構図によると、説明板の手前と右がトイレだったのでしょうか。このあたりの石垣は綺麗だと思ったら復元されていたんですね。
本丸北西部についても、明治期に改変された櫓台を復元したそうです……が、北西石垣、撮影していませんでした……。
本丸から渡雲橋を見ます。廊下橋についても復元計画があるようで、実現してほしいものです。
渡雲橋を渡り、二ノ丸へ入ります。
二ノ丸には大書院があり、廊下橋により本丸と接続していたようです。大書院いいですねー。復元は……難しいですかね。せめて平面表示でもあれば、想像しやすいのですが。
二ノ丸にも石組井戸があります。
二ノ丸は本丸と違って周囲に櫓台なども無く、現在はただの公園という印象だったので、すーっと通過します。北側に、車門の石垣が見えてきました。
二ノ丸北側にある車門跡です。二ノ丸への出入口はこの車門と先ほどの廊下橋、そして南西に穴門があったようですが、穴門の虎口石垣は現在失われています。榊山稲荷曲輪にあった石垣の残骸は、もしかすると穴門のものだったのかもしれません。
二ノ丸車門付近から、廊下橋跡を振り返り、かつてそびえ立っていた大書院や、本丸に通じていた廊下橋に、思いを馳せます。
車門外側から見た、喰違い虎口です。ここも巨石を多用した立派な石垣です。
城跡の散策を終え、「もりおか歴史文化館」(外観撮影せず)に行きます。
館内には、内曲輪の建物が復元された素晴らしい城郭模型があります。明和三年の絵図等を基に作成されたようです。
御殿など一部建物は平面復元となっていますが、櫓や門などが立体化されているので当時の様子が想像しやすく、ありがたいです。
下曲輪から三ノ丸までは、三つの喰違い虎口が連続していたんですね。
下曲輪は東半分が勘定所だったようです。
本丸二階櫓のそばには、百足橋があります。
訪問時は、建物ほとんどないけどステキ石垣と巨石たくさんの良い城跡だったなー程度の感想しかなかったのですが、百足橋や、様々に改築・増設された江戸末期の情報などを知ってから俄然興味が湧きまくっています。更新にあたり、盛岡市の城跡整備基本計画書から非常に多くの情報を得られたことに感謝しています。残念写真のリベンジと、新たに得た多くのデータを現地確認するためにも、必ずや再訪したいと思います。
素敵なお城でした。ありがとう。