お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

  • 2023/4/23 デザイン変更(テーマ「Minimalism」)
  • 2024/3/20「82.岡城」(2019/5/11訪問)の記事をアップ

82.岡城

岡城に行ってきました。

日本100名城(No.95)に選ばれた、大分県竹田市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

楽曲「荒城の月」のモチーフになったという岡城。最寄り駅・豊後竹田駅名標に描かれているのは月と、三の丸石垣でしょうか。

駅に着くなり仰天。駅の北側にものすごい断崖絶壁と、滝!

駅のホームには「落門の滝」と広瀬淡窓氏の詠んだ漢詩の説明が。滝の落差は実に六十メートル! この滝より南東に、城下町が広がっていたようです。

御殿のような駅舎が素敵です。後ろに滝もしっかり見えています。

 

お城へ向かいます。

登城口手前の駐車場に料金所があり、ここで入城料を支払います。

城下町散歩の案内です。岡城は断崖上に築かれ付近に十分な敷地が無かったようで、お城から離れた西側に城下町があります。

黒色主体の案内図には、説明、絵図と、縄張図があります。公式サイトによると、城域は約百万平方メートル、東京ドーム二十二個分!……と言われても全然ピンときませんが、とにかく広大なようです。

宝暦年間(1751~1764)に描かれたという絵図には、本丸三重櫓など主郭建物群、西の丸の御殿、川近くの武家屋敷など、数多くの建物が見えます。

縄張り把握のため、あまりに巨大な図を分割して撮影します。

つい先日放送されたNHKの番組で「日本最強の城」に選ばれた岡城。タイムリーな訪問であり、高取城に続いての「最強の城」です。

入城料を支払うと、登城手形と、なんと巻物状のパンフレットをもらいました! これは嬉しい入城特典です。手形の家紋は明治まで岡藩を治めた城主・中川氏の「中川柏」です。

駐車場の西端に建つのは城阯碑と……右の碑には「あゝ義経公」なる詩が。岡城は文治元年(1185)に緒方惟栄源頼朝と仲違いをしていた弟・源義経を迎えるため築城したと伝わるそうです。

この広い駐車場は「総役所」跡で、藩の行政機関・裁判所としての施設が建っていたそうです。

駐車場に着いた時からずっと見えてる石垣は中央が西の丸の南西隅、左端が角櫓台です。西の丸石垣基部に築かれた波打つようにカーブする石垣はまるでグスクのよう。右端に見える巨岩も大迫力です。

 

総役所跡を出て、大手門を目指します。

駐車場の東から延びる道を歩くのですが、右手に「かまぼこ石」、左手奥には大きな土塁と石垣。早くも見所がたくさんです。

総役所跡の東を区切る土塁と、土塁の道に面した部分に築かれた石垣。大手門跡の立札はここが大手門跡かと勘違いしそうですが、大手門跡はまだ先です。しかしながら、ここには総役所と大手道を仕切る門が建っていたのかもしれません。

石垣の中央には、巨大な鏡石が据えられています。積み方は、打込接ぎと切込接ぎのハイブリッドのような……上部に切込接ぎの手法が見られるのは、後に修復された痕跡でしょうか。

道の右(南)側に連なる低い石垣の上端には、アーチを描くかまぼこ状の石。道とともにカーブする姿は、大手道を美しく飾ります。

山肌に露出する岩盤に目を奪われます。岡城が築かれた天神山は、阿蘇山火砕流堆積物から成る溶結凝灰岩で出来ており、岡城の石垣にもこの溶結凝灰岩が用いられているそうです。

おみやげ屋等が建ち並ぶ登城道の右手、大手門に一番近い店舗の中央には「鉄砲方詰所跡」の碑が。

鉄砲方詰所跡付近から東を見ると、道の脇にはかまぼこ石、奥の大手門跡へ通じる坂の脇にもかまぼこ石。坂の上に突き出た大手門南石垣だけが直線的で、その他は石垣も、道も、曲線だらけ。日本のお城っぽくない、独特の雰囲気を感じます。

城跡は、国指定史跡となっています。

石垣の台座に載った立派な城阯碑は、石垣やかまぼこ石と一緒に写真に収めることができます。

大手門跡へ通じるのは左の坂道。かまぼこ石に飾られた低い石垣が、道の脇を固めます。

坂の入口にも碑が。こちらは城「跡」碑です。

城跡碑の横から振り返ります。左奥の店の場所が、鉄砲方詰所跡です。

坂を上ると、道の左手に高石垣が見えてきます。

右のかまぼこ石はひとつながりではなく、途中で内側へ寄っています。

坂を折り返すと、高石垣の上端と側面にも、かまぼこ石が。

側面と上端のかまぼこ石にはそれぞれ穴が開いています。上端の穴は塀の跡かもしれないと想像できますが、側面にある穴には一体、何が嵌められていたのでしょうか。

石段の右側には観光用に、段差の小さい階段が設けられています。

岩盤に接続するかまぼこ石、その上には石垣の出隅。この上は西の丸で、横矢を掛けることで大手門に迫る敵を迎撃できる構造です。

振り返ると、かなりの高低差。かまぼこ石の曲線が、日本の城らしからぬ景観を生んでいます。

再び坂の折り返しですが……ここのかまぼこ石は隅部が失われているように見えます。

二つ目の折り返しの先に、大手門跡が見えてきました。

大手門手前左手には、切込接ぎの高石垣。これを越えるのは厳しく、敵は大手門へ進むしかありません。

かまぼこ石に縁取られた曲線的な道の先にはようやく日本の城らしい直線的な石垣……と思ったら、上端部に三つの凹み。まるで中世ヨーロッパの古城へ迷い込んでしまったかのような光景が、眼前に広がります。

大手門南石垣の中央には鏡石。この位置は目を引きますね。

南石垣の手前にある方形区画は何の跡でしょうか。番所にしては小さすぎるような。

坂を振り返ります。方形区画へ続く坂の階段は、当時のものでしょうか。

大手門は、普通の櫓門だったようです。

門が失われた現在では、特殊な石垣形状ゆえヨーロッパ風に見えてしまう不思議。

三つの凹みは、横木を通すために設けられたとか。左の礎石付近、石垣基部にも切り欠きがあり、ここにも門の部材が嵌まっていたと思われます。

南石垣にも基部の同じ位置に切り欠きがありますが、上部の凹みはありません。北側では石垣に横木を載せ、南側では柱などで横木を支えていたのでしょうか。

しっかりと残る門礎石。中央の礎石はほぞ穴も形状も方形に美しく加工されています。他の礎石はほぞ穴のあるもの・無いものがあります。

中央礎石の右に門扉が、礎石間の狭い左には脇戸があったようです。

珍しいのが、門扉跡から礎石までカーブを描く二つの石敷き溝。おそらく大手門の門扉底面には車輪が付いており、巨大な門扉をスムーズに開閉できるよう考慮されていたのではないでしょうか。その車輪の通り道が二つの石敷きレールであり、「車敷」とはこのレールを指すと思われます。

大手門を越えると、三方に階段が設けられています。守り手は一箇所から入ってくる敵を三方から迎撃でき、攻め手は門を越えた所でどちらを向いても階段があり進む方向に迷う……などと想像します。

門北石垣の背後には、崩壊しかかっていますが、大手門の二階櫓部分へ入るためと思われる石段が設けられていますが、この石段がまた珍しく、向こう側にも石段があり、両側から上れるようになっています。石段の脇から最下段の下を通り左へ抜けるような排水溝(暗渠)があるようにも見えます。

城内側より、大手門跡を見ます。奥には、西の丸の東門跡が見えます。

 

大手門を越えると、城内です。

大手門跡のすぐ東にも、城外へ通じる門跡があります。年季が入った石垣の前には「古大手門跡」の標柱。

……いやいや、いくらなんでも、人ひとりがやっと通れるような規模の門が大手門だった時期などあるのでしょうか。大手に対する「サブ大手」ならまだしも。もともと裏口・通用口として建てられたとしか思えず、古大手門跡の標柱には、疑念が募ります。

古大手門跡の外には現在道が無く……いや、よく見ればあるのかも?

石垣は古そうですが隅部はしっかりと算木積みで、門礎石も残っています。

古大手門跡より城内を見ます。右手石垣基部には排水溝があり、門付近では暗渠となって城外へ通じるようです。

古大手門跡東石垣には坂が設けられ、石垣上へ行けます。坂の手前には門礎石らしき加工石。ここにも門があったのでしょうか。

石垣上より、古大手門跡を見ます。大手門跡に比べ、狭さが際立ちます。

古大手門跡東石垣から、北へ石垣が延びています。

北へ延びる石垣の北にある鳥瞰図イラストです。中川氏による大改築直後の、総石垣による近世城郭に生まれ変わった岡城の姿が描かれており、壮観です。

鳥瞰図の西にある縄張図ですが……葉の影に邪魔され、見づらくなっています。

 

西の丸へ向かいます。

西の丸の東に設けられた巨大なスロープ。東門跡です。坂手前の標柱は「右 近戸門跡」という案内です。

三代藩主・久清公により普請された西の丸御殿。当初は隠居御殿として建てられたものが、後に政務の中心的な施設へと役割が変わっていったようです。

巨大スロープの中央は階段ですが、両脇には石垣裏込に用いるような栗石が散乱しています。当時はどのような状態だったのでしょうか。

坂の上に、東門跡の標柱があります。西の丸御殿平面図では階段の先、中央付近に門があり、標柱付近から右(北)へ建物が連なっていたようです。

東門跡の南からは大手門・古大手門跡がよく見えますが、当時は塀などの建物があり、ここまで見通せなかったかもしれません。

南辺石垣の途中に、穴の開いた石がありますが……ここに門があったとは思えないので、何らかの建物礎石か、あるいは東門の礎石がこちらへ移動されたのでしょうか。奥の石垣上に、西の丸御殿があったようです。

石垣上への階段です。通用口のような狭い階段ですが、この上には御殿があるので、階段上には門があったのかもしれません。階段の右、石垣に開いた穴は排水口でしょうか。

石垣排水口の前に、方形の石組区画がふたつ。平面図にもここに何かが描かれていますが、用途は不明です。

東門跡の北にある、稲荷社跡です。左奥に見える幅広階段の先に、西の丸御殿の玄関があったようです。

建物が全て失われた西の丸御殿跡には、広大な草地が広がるのみです。

西の丸の南側に設けられた、新屋敷門跡です。標柱の位置からすると、正面奥の開口部にあった門ではなく、ここの左(南)にある一段低い区画との間にあった門を指すのかもしれません。

新屋敷門跡付近からは東門を通らずに、西の丸南石垣を左手に見ながら大手門まで行くことができます。西の丸石垣、後に普請しただけあって見事な切込接ぎです。

西の丸南西隅まで来ました。先ほど総役所跡から見えていた石垣はここと、奥の角櫓台です。

南にも、下段カーブ石垣の先に櫓台。物見櫓跡です。物見櫓跡の左、一段高い所にある櫓台状の石垣は西の丸南側の横矢掛け石垣で、先ほどの平面図には櫓は描かれていません。

横矢掛け石垣の右を通り、物見櫓跡まで来ました。西方向、城下が一望できます。

物見櫓跡より、角櫓台を見ます。

えーと……西の丸南側の横矢掛け石垣を南から見ている、と思われます。

今度は、角櫓跡へ行ってみます。角櫓台の奥に見えるのは、落門の滝のある断崖でしょうか。

西の丸北西にある坂を下ります。

井戸があります。

井戸から左へ歩き、西の丸西側石垣を左手に見ます。

角櫓跡に、到達しました。

総役所跡の駐車場が、よく見えます。

角櫓跡より、物見櫓跡を見ます。斜面をぐねぐねと横切る石垣。物見櫓台は、巨岩の上に築かれているんですね。

西の丸西側石垣の隅部が、美しい反りを見せてくれます。

 

西の丸の北へ向かいます。

先ほどの井戸から今度は右へ歩くと、右手石垣付近にまた、井戸。

こちらは周囲に石積みがあり、階段が設けられています。

井戸を過ぎると道は下り坂となり、西の丸西側石垣は東へ折れ……折れずに、見事なカーブを描いています。下段の犬走り的な石垣もあわせてカーブ。ここは西の丸北西隅にあたり、上には秋葉社があったようなのですが……鬼門欠けというわけでもないし、何か丸める理由があったのでしょうか。それにしても、見事に二重でカーブしています。

東へカーブした石垣は、犬走り的な低い石垣と一緒に、ダブルでまっすぐ東へ延びています。左の広大な曲輪は、家老屋敷跡です。

ここは西の丸周辺に配置された三つの家老屋敷のひとつ、西の丸のすぐ北にある中川民部屋敷跡です。

よく見ると、地面に瓦が散乱しています。屋敷の瓦ならば史跡・文化財の一部です。触らず、見るだけにとどめます。

中川民部屋敷跡には、礎石が配置され建物の平面表示がされています。排水溝は、当時のものでしょうか。

北西にある屋敷の門跡には方形に加工された礎石。門北側の石垣は非常に整った切込接ぎで、礎石付近には門の部材を嵌めるためと思われる穴が見えます。門跡から西へ延び北へ折れる石畳は、当時のものでしょうか。

門の外には階段があり、階段の左では屋敷内からの排水溝と左からの排水溝が合流し、右(西)へ続いているように見えます。排水溝には、石の蓋がされています。

排水溝の先にあるのが、城内へ通じる三つの門のひとつ、近戸門跡です。

近戸門跡にも大手門と同じく、礎石と車敷が残っています。車敷の位置からすると、近戸門には脇戸が無かったのでしょうか。

近戸門の石垣には、両脇とも三つの凹みが見えます。門北側石垣の右奥に見える高石垣の上が普請方跡で、その手前には普請方跡へ通じる石垣の坂道も見えます。

礎石上に置かれた二つの石……ではなく、どうやら半分に折れてしまっている模様。おそらくこれが説明にあった文字の刻まれた石柱で、左の石に右を載せると「~内 たいまつともす~ くわえきせる~」あたりはどうにか判読できます。全文は「是より内 たいまつともす事 くわえきせる 堅停止」だそうです。

近戸門跡の外側では、普請方跡の石垣が大きく北へカーブしており、右上方には一部破損していますが、石樋が見えます。左では上端がさらに高く積まれ、櫓台のようになっています。

城外より、近戸門跡を見ます。うーん、このアングルも中世ヨーロッパ感が出ていますね。

中川民部屋敷跡の北側石垣、中央やや右に隅部があり、そこからさらに左へ継ぎ足したように見えますが……縄張りの変更があったのでしょうか。

普請方跡南石垣の南東隅に立つ「普請方跡」の標柱と、右に階段。先ほどの近戸門北側石垣の東に設けられた坂は普請方への道というよりは、近戸門の二階櫓部分へ入るためのものかもしれません。

来た道を振り返ります。西へまっすぐ近戸門への道が延び、左手の中川民部屋敷跡北側石垣は坂を下るにつれ高さを増し、ここではかなりの高石垣です。隅部は鈍角で、稜線には少しズレが生じていますが、経年劣化でしょうか。

右手のエリアには普請方跡と、さらに北には三つの家老屋敷のひとつ、中川覚左衛門屋敷跡があるようですが、普請方跡も、中川覚左衛門屋敷跡も、未訪です。家老屋敷跡の床面復元や埋門の石垣立体交差など興味深い見所があると後に知り……後悔です。

南東へ鈍角に折れる中川民部屋敷跡の石垣をたどると、階段があります。ここが説明にあった藩主専用の御成口と思われますが……藩主用にしては狭いですね。藩主がお忍びで家老に会うための裏口、だったりするのでしょうか。

階段途中の踊り場に礎石。ここに門があり、右の石垣上には塀があったのでしょうか。

門跡を振り返ります。門手前の右手(階段下から見ると左手)にも階段らしき構造が見えますが、これは藩主の付き人などが同じ門を通らずに屋敷へ入るためのルートかもしれないな……などと妄想します。

さらに上って振り返ると、右手にぐねぐねとカーブする石垣が。

北東を見ると、同じ城内のはずなのに、遥か彼方に三の丸・本丸の石垣が見えます。なんて広大なお城!

階段を上り、再び中川民部屋敷跡に入ります。

屋敷跡南東の石垣を見ている……と思われます。上下二箇所に穴(排水口?)があり、石垣手前には排水溝。

屋敷跡の南東にある、土蔵跡です。

中川民部屋敷跡には土蔵跡から石垣伝いに北東へ歩いた所、屋敷地の東側にも出入口があります。正門、御成口ときて、こちらは通用口でしょうか。門礎石が残っています。

門の外側では、屋敷地からの排水溝と左側からの排水溝が合流し、暗渠のジャンクションみたいになっています。うーん複雑。

門の左(東)には、西の丸北にある一段低い曲輪の石垣が折れを設けながら東へ続いています。こんもり草が生えた低い石垣は、補強用の「はばき石垣」でしょうか。

 

西の丸の東へ向かいます。

西の丸北にある一段低い曲輪の北東にはさらに一段低い曲輪(建物の右、写真右端の石垣)があり、その北東にあるのが賄方跡です。名前の通り、ここで来客の賄いを行っていたようです。蔵のように見える建物は、トイレです。城跡の景観に調和する蔵風トイレ、良いですね。

高石垣の上が三つの家老屋敷のひとつ・中川但見屋敷跡で、その右の少し低い石垣の上が武具方跡です。

武具方跡へは、蔵風トイレの右(南西)の道から上れます。

隣(東)の高くなっている家老屋敷跡には通路が設けられています。左には石樋、右には排水口かもしれない大きな穴。水路網・排水機構の充実に感心します。

武具方跡の東、家老屋敷・中川但見屋敷跡の北西端付近です。標柱の右奥に見える石垣は、中川覚左衛門屋敷跡でしょうか。

中川但見屋敷跡には、北西側に出入口があります。

北西側出入口からぐるっと左へ回り込む階段を下りると、賄方跡へ行けます。奥に見える石垣は、城代屋敷跡の西端にあたります。

城代屋敷跡西端石垣、出隅からのえぐるような入隅が良いですね……実に良いラインです。手前には、石蓋付き排水溝が見えます。

右手石垣上が中川但見屋敷跡で、石垣基部には排水溝があります。直線通路を挟んで、崩れかかった低い石垣より左が城代屋敷跡です。

中川但見屋敷跡北東端の隅部です。

中川但見屋敷跡の南東側には中休所跡があり、道を北へ行くと桜馬場があったようです。写真は反対方向(南)を向いており、道を奥へ行くと大手門跡です。

中川但見屋敷跡の東側、正面出入口階段上には、門礎石が残っています。

中川但見屋敷跡では、中川秀成公が本丸完成までの間に仮屋敷として過ごしていたそうです。

中川但見屋敷跡の南はより高く石垣が積まれた朱印状倉跡で、階段が設けられています。

階段周辺は、非常に整った切込接ぎの石垣です。

標柱は「朱印倉跡」です。(パンフレットの表記は朱印状倉跡)

朱印状倉跡でひときわ奇妙なのが、南東部に設けられたこちらの石積み。石垣面から螺旋階段状にカーブした坂道のような石垣が飛び出しているのです。てっきり廃城後、城跡が公園化された際に一部石垣を崩して造った通路だろうと思っていたら、当時の遺構のように紹介されているサイトもあり、混乱しています。だってこれ……杜撰というか、雑すぎませんか? そこかしこに美の追求を感じる石垣が見られる中、中川氏がこんな通路を築くでしょうか? 石垣自体が崩壊しかかっていることを差し引いても、ちょっとこれが当時の遺構だとは信じられないというか、信じたくないというか……。

通路内は石段の体を成しておらず、ただ石で隙間を埋めただけのような乱雑さ。これはいただけません。

中川但見屋敷跡には南東隅にも出入口があり、こちらは通用口、もしくは藩主専用御成口でしょうか。右手石垣上が朱印状倉跡で、奥には例のいただけない石垣通路が見えます。

中川但見屋敷跡の北にある、城代屋敷跡です。このあたりが門跡でしょうか。

城代屋敷跡の南東隅付近には、井戸らしき石組穴があります。

城代屋敷跡の北が、籾倉跡です。

 

主郭部へ向かいます。

籾倉跡の東、主郭部手前で曲輪の幅はぐっと狭くなります。道の右には、石垣の天端石が見えています。

最もくびれた部分にはかつて、主郭へ行く手を阻む門がありました。西中仕切跡です。

そして西中仕切跡の手前から望む三の丸石垣は、絶好の撮影ポイントです。

この迫力、この優美さと力強さ。植物に覆われた姿は、まるで最初から其処に在ったかのような山との一体感を生んでいます。屏風のようにいくつも横矢が掛かった石垣は美しさのみならず、西中仕切の防御にも役立ったでしょう。

西中仕切では石垣の壁により道が曲げられ、敵は右折のち左折を強いられます。

西中仕切には貫木門という門が建っていたようで、礎石が残っています。

貫木門西石垣です。隅石には方形の、その他は多角形の石材を用いるのが、岡城の石垣に多く見られる特徴です。

貫木門西石垣の裏には雁木が設けられ、石垣へ上ることができます。

石垣上より、貫木門跡を見ます。

主郭方向には太鼓櫓跡などの三の丸石垣と、奥には本丸石垣も見えます。

貫木門東石垣の裏にも雁木。石垣上(雁木の奥あたり?)には、鐘櫓が建っていたようです。

 

貫木門跡を越えると、三の丸です。

三の丸入口両脇にそびえる隙間なく隙のない石垣。太鼓櫓跡です。

標柱には「跡」がありませんが……。ここからは太鼓櫓跡の見事な切込接ぎにその奥の鏡石、本丸の谷積みなど、様々な石垣の積み方を一度に見ることができます。

奥の階段は、幅の広い右が通用口、左が藩主専用の御成口だそうです。ここでも藩主専用の方が狭くなっていますね……。

太鼓櫓跡両脇の石垣を見ます。石垣手前には門礎石がいくつか残っています。石垣上端部が中央以外は低くなっているのは、大手門などと同様に横木を通した跡でしょうか。積み方は、隅が算木積み、中央は「車軸築石積み」と呼ばれる技法だそうです。

太鼓櫓跡を越えてすぐにある、巨大なふたつの鏡石。城主の権威をこれでもかと見せつけます。

左の階段(藩主専用御成口)を上ります。

先ほどとは逆に、三の丸石垣上より、西中仕切跡方向を見ます。石垣補強用なのか、コンクリートブロックのようなものが下方に見られます。

三の丸北側には、清水谷という深い谷があります。谷の向こうには中川覚左衛門屋敷跡、中川民部屋敷跡などの石垣が見えます。

ひとつ西の石垣上です。鐘櫓跡まで、幅の狭い石垣でつながっています。

振り返ると、右手に太鼓櫓北石垣。奥には、本丸への階段が見えます。

太鼓櫓への階段と、西側の石垣上への階段が融合したような、複雑な形状です。

中央付近に建つ、三の丸阯の碑。奥には本丸石垣が見えています。

三の丸御殿の建っていた場所にある武具庫跡には、土壁の一部が残っています。三の丸御殿は取り壊され、武具庫が建っていた、ということでしょうか。

 

二の丸を経由して、先に本丸へ向かいます。

三の丸より、本丸西石垣を見ます。隅は算木積み、中央は谷積みとなっています。右奥(南西隅)の高くなっている部分は、三重櫓台です。

三の丸から二の丸への出入口にある門跡には、礎石が残っています。

このあたりの本丸石垣は、車軸築石積み、になるのでしょうか。

門跡を越えてすぐ左手にある、二の丸の大井戸です。空井戸のため、抜け穴説・隠し財宝説など様々な伝説が残されているそうです。

門跡を越えて正面にある、本丸への階段です。途中に踊り場があり、その右手にある階段の上が本丸です。

踊り場の右手前にある、本丸北石垣の石樋です。石樋の下部には、排水を受ける枡が設けられています。この枡は暗渠につながっているのでしょうか。

階段を上った所にある、礎石が残る本丸門跡です。礎石配置からすると、左手に脇戸のある櫓門でしょうか。

本丸阯碑の奥、南西隅にある三重櫓台は、内側はL字型となっています。この三重櫓が天守相当の建物で、明治初期まで残り古写真も存在しますが、廃城令により惜しくも取り壊されたようです。

三重櫓台より、北西隅の角櫓跡を見ます。三重櫓と角櫓は多門で連結されていたようです。

三重櫓台の東にある、三の丸御門櫓跡を見下ろします。名称からすると、ここにも櫓門が建っていたと思われます。

本丸には現在、天満神社があります。もともとは城内東側にあった天神祠を移転したそうです。

屋根瓦には「中川柏」のほかに、「中川クルス」と呼ばれる十字架のようにも見える中川氏もうひとつの家紋が見えます。

神社のそばにある、土井晩翠氏直筆の「荒城の月」を刻んだ詩碑で、詩の一部がアレンジされているそうです。

本丸東端にある、天守台と見紛うほど巨大な金倉跡です。たいそう立派な金倉が建っていたのでしょうか。

金倉跡から西、三重櫓の方を見ます。本丸南石垣の下に、道が見えます。

直線的な本丸南石垣とは対照的に、金倉跡から二の丸にかけて延びる北東側の石垣は大きくカーブしており、奥の二の丸石垣でもカーブが続いています。

本丸にある、岡城全体の絵図が掲載された説明板です。

本丸北東のカーブ石垣の先で、二の丸休憩所からナナメに延びる部分が本丸に載り、出入口が設けられています。

中には階段があり、ここから二の丸へ下りることができます。

 

二の丸へ向かいます。

本丸と二の丸との連絡通路を兼ねた、珍しい構造の休憩所です。

本丸への階段は、踊り場を挟んで東にも階段があり、東西いずれの階段からも本丸へ行くことができます。階段右の石垣上部には石樋があり、その下には、枡と水路。

階段そばの水路は、当時のものでしょうか。

二の丸にある、瀧廉太郎の銅像です。瀧廉太郎氏は、子供の頃に遊び場だった岡城をモチーフに、荒城の月を作曲したそうです。

北端には数寄屋風の月見櫓、東端には風呂屋と、遊興の場としての側面が強い二の丸建物。岡城の「雅」を結集したような曲輪だったのかもしれません。

二階建ての風呂屋は、風呂のほか休息できる広間・書院などを備えた懸け造りの建物で、二階の階段から本丸へ通じていたそうです。

この個性的な休憩所は、風呂屋を意識して建てられたのかもしれませんね。当時の外観に近い懸け造りの建物ならばなお良かったのですが……安全面など色々難しいのかもしれません。実際の風呂屋は休憩所の左、二の丸東石垣ギリギリの所に建っていたと思われます。

二の丸の東(写真左)には、地獄谷と呼ばれる深い谷があります。古い絵図には、二の丸の下段東側に井戸のある小曲輪が描かれており、先ほどの二の丸の説明にも風呂屋付近から石垣に沿って下りる道が絵図にありましたが、よく見ると確かに、道が見えるような……。

二の丸北端、月見櫓跡付近からの、北側の眺望です。

月見櫓跡付近から西側では、大きくカーブする二の丸石垣と、それに続く三の丸石垣が見られます。すぐ手前と、よく見るとその奥にも、いくつも石樋が見えます。この排水力が、これだけの見事な高石垣を長年キープしてきた秘訣かもしれません。

三の丸から、二の丸門跡を見ます。

 

主郭部を出て、東へ歩きます。

三の丸東の御門櫓跡から、主郭部南側の道へ出ます。

東を見ます。左手にそびえる本丸石垣が壮観!手前が三重櫓台、奥が金倉跡です。

主郭部すぐ東側の最もくびれた部分にある、東中仕切跡です。背後に雁木のある石垣形状からして、西中仕切と同様に仕切門があったと思われます。石垣の前には、登城バスのりばがあります。

東中仕切跡にあった図は、綺麗に撮影できました。

東中仕切跡から、本丸東石垣を見ます。左の出隅に、隅部をすこーしだけ継ぎ足したような箇所が見られます。

東へ歩くと、枡形虎口のような出入口があります。パンフレット等には「三楽亭跡」とありますが、詳細は不明です。この西側に清水門跡があるようですが、見逃しました。

三楽亭跡の東には、廟所跡の入口があります。

御廟所には、歴代藩主の位牌が祀られていたそうです。また、廟所跡、三楽亭跡など東側の曲輪群は中川氏以前の城主・志賀氏の時代には岡城の中心部だったそうです。

廟所跡の入口東石垣、木の根で崩壊が進行しつつあります。

廟所跡の入口前には、謎の石組。

廟所跡から東の道は大きくカーブしており、道沿いに築かれた石垣と、その奥に下原門跡の石垣が見えます。

廟所跡からしばらく東へ歩いた所にも、石垣に開口部があります。この中にも何らかの施設があったのでしょうか。

さらに東へ歩くと、写真では分かりづらいですが、左の石垣奥、隅部の手前にも開口部があります。

正面の石垣には雁木。道は左へ折れます。

左折した先が城内最東端、かつて大手だった城内へ通じる三つの門のひとつ、下原門跡です。下り坂のため、石垣が高さを増しています。説明板の左には、門礎石。

反対側にも、整った礎石が三つ。

坂の下から、下原門跡を見上げます。すごい迫力!門の外側にも、道に沿って低い石垣が積まれています。

下原門南石垣にも、大手門と同様に、三つの凹み。

北側石垣上から、門跡を見下ろします。高い!

最東端まで到達したので、引き返します。

金倉跡の下から、本丸石垣を見上げます。美しい稜線、見事な反り!

今いる道の、さらに下段にある道が、少し見えています。下段の道の南側にはかつて、武家屋敷が並んでいたようです。

太鼓櫓跡南石垣の南面を撮影している……と思われます。美しい切込接ぎは、表面仕上げもされているのでしょうか。

朱印状倉跡のこの石垣だけは、やっぱりどうしても、いただけません。

大手道の途中、かまぼこ石と岩盤の接合部です。石材の加工はもちろん、岩盤も少し削り込んでぴったり接合しているようです。こだわり!

かまぼこ石の石垣手すりと謎の穴に、別れを告げます。

大手道の坂を下り、総役所跡までの登城道沿いにある「ペンション荒城の月」。併設された竹田系宝物殿、気になります。

 

帰りに少し、城下町を歩きます。

かつて城下とお城をつなぐ道だったという弥五兵衛坂です。絶壁の峠には、時鐘所があったそうです。

殿町武家屋敷通りでは歴史ある街並みが見られますが、左の塀などはかなり傷みが激しいですね……。

工事をしている箇所もあります。維持していくのが、大変ですね。

古田家仲間長屋門は昭和期に解体修理されたそうで、二階建ての巨大な長屋門が美しくそびえています。

長屋門の向かいには、竹田創生館があります。提灯には、中川クルス!

竹田創生館は、武家屋敷のあった場所に建てた武家屋敷風の施設みたいです。

西へ歩くと、歴史資料館の近くに立派な石垣と坂道があります。この坂を上ると武家屋敷通りがあり、城下唯一の一般公開している武家屋敷があるそうですが……未訪です。

坂道から道路を挟んで西にある西の宮社。ここに、藩校「由学館」の門が移築されているようです。

なんと、藩校の門が手水舎の覆屋になっています。規模は当時のままなのでしょうか。

屋根瓦の紋は、中川氏の家紋とは異なるようですが……いずれにしても、貴重な藩関係の現存建造物です。どのような形でも、よくぞ残ってくれました。

 

締めは、三の丸石垣です。

断崖の超巨大城郭・岡城。随所にこだわりの見られる石垣の数々は「石垣の美術館」と呼んでも良いように思います。旅程の都合で二時間しか取れず、超駆け足での訪問では絶景を楽しむ余裕もなく、見所もいくつかスルーする始末……これは再訪必須、です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで47城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

81.高取城(その2)

その1の続きです)

城代屋敷跡を過ぎ、目の前に現れた石垣に度肝を抜かれました。大手門跡の枡形虎口です。これまで見てきた門跡でも石垣がよく残っているものだなあと感心していたのですが、まさかここまで往時のままにそそり立つ石垣が見られるとは! いやー、来た甲斐がありました。

長ーく延びる大手門北側石垣に沿って、西へ歩きます。

前方右手に、石垣の開口部が見えてきます。壺坂口中門跡です。

壺坂口中門跡には大きな礎石が残っており、門跡だとよく分かります。奥の階段を下りると壺坂口門跡があるようですが、今回は未訪です。

城外側より、壺坂口中門跡を見ます。門を越えた敵は、正面に立ちはだかる高石垣に怯んだことでしょう。

壺坂口中門両脇の石垣を見ます。礎石は加工・整形されているように見えます。

大手門跡まで引き返します。奥の石垣左隅には、角櫓があったようです。

大手門北側石垣の北西隅です。算木積みは未発達ですが、隅部は石材の形状・方向が考慮されて積まれています。右の低い石垣は、崩落防止の「はばき石垣」でしょうか。

高さがあり、長さもある大手門北側石垣。うーん、素晴らしい。

道を挟んで北には、城代屋敷跡の南側石垣が延びています。

戻ってきました、大手門跡虎口。正面奥の石垣上に竹櫓が、虎口を右折したところに大手門が建っていたようです。

大手門付近から本丸の西を見上げるように撮影された古写真が残っているようで、左の再現CGに説得力が増します。本丸まで、200m。

大手門虎口手前の東側は深い谷となっていますが、どうやら手前(北)側に下りられる道があるらしく、下りた先に吉野口門跡があるようですが、今回は未訪です。

説明にあるとおり、二の門・壺坂口門・吉野口門のいずれから侵入しても道は大手門の前に通じ、大手門以外からは二ノ丸・本丸へ入れない構造となっています。

大手門北側石垣、苔生しながらも崩れそうな危うさを微塵も感じない力強さがあります。

隅部は不揃いですが安定感すら感じます。ワイルド!

大手門虎口東側の石垣は石材がよく加工され矢穴が見られ、門北側石垣とはかなり様子が異なります。積まれた時代が違うのでしょうか。

大手門跡です。石段の上あたりに、門が建っていたのでしょうか。門を越えると正面には石垣。今後は左折を強いられます。

字が消えかけた、古い「大手門跡」の立札もあります。

大手門跡を振り返ります。右の石垣上には竹櫓があり、大手門へ迫る敵を迎撃したと思われます。竹櫓台の手前に四角い石が見えますが、大手門の礎石でしょうか。

大手門で右折、左折と勢いを削がれた上に、その先には石段。敵兵の体力は、順調に奪われます。

竹櫓台の背後(南)には、櫓へ入るために設けられたと思われる石段が見えます。

大手門を越え、現れた二ノ丸北辺の高石垣に大興奮! 石垣上には多門櫓が建っていたようなので、どうにか大手門を越えてきた敵兵は絶望する暇もなく蜂の巣だったかもしれません。多門櫓跡高石垣の左(東)が、二ノ丸虎口です。

竹櫓の東、二ノ丸の北は広い曲輪となっています。右奥が竹櫓台、左奥が二ノ丸虎口です。

二ノ丸北辺石垣の東側には鈍角の出隅がありますが、この上に櫓は建っていなかったようです。石垣の中ほどから木が生えており、危険な感じです。

二ノ丸虎口まで戻ってきました。道は石垣の壁により、右へ折れています。

手前には加工された礎石。虎口の手前側にも門があったのでしょうか。そして奥には「十三間多門跡」の立札。多門櫓の長さが十三間(約23.7m)あった、ということでしょうか。

左(東)石垣では隅石の隣にある礎石、その石列の延長は右(西)石垣の中ほどとなり、多門櫓が建っていた右の高石垣が手前(北)にせり出していることが分かります。

この虎口奥に建っていたと思われる十三間多門は一階部分が門、二階部分が多門櫓となっており、多門は右(北)で西へ折れ、北辺石垣上に延びていたようです。ここにも、門礎石らしき平たい石がいくつか見えます。

北辺石垣の内側は中央部分が欠けた凹の字型をしています。この部分は、多門櫓に地下室のような空間があったのでしょうか。

 

十三間多門跡を越えると、二ノ丸です。

十三間多門跡から180度ターンしないと本丸方向には進めず、虎口構造はどんどん厳重になっていきます。

低い石垣の開口部には門が、その奥には長屋状建物があり、御殿のある右(南)エリアと左(北)の本丸へ向かう城道が区画されていたようです。奥に見える高石垣は、太鼓櫓・新櫓台です。

右の沿革は字がかすれて判読困難です……。左は、高取城が比高日本一(446m)、岩村城が標高日本一(721m)、備中松山城現存天守日本最高所と、何故この三城が日本三大山城なのかを簡潔に理解できる説明板です。

御殿があったという二ノ丸は非常に広大で、今は東屋が建つだけの広場となっています。右端は、先ほど通った二ノ丸虎口です。

二ノ丸南西、客人櫓跡と思われる高まりです。櫓の基礎らしき石列が見られます。

客人櫓跡より、二ノ丸を見ます。

客人櫓台から下をのぞきます。葉の陰に低い石垣が見えますが、補強用「はばき石垣」でしょうか。

客人櫓台より、二ノ丸西辺石垣を見ます。

おそらく、客人櫓台の東にある二ノ丸南辺石垣の折れ部分……かと思われます。

二ノ丸と本丸の間にある高石垣は昭和四十七年に修復されたそうで、美しく整っています。北側に太鼓櫓、こちら南側には新櫓が建っていたようです。隅部の算木積みは、未発達です。

南東より、新櫓台を見ます。現在は新櫓台の南側を通って二ノ丸から搦手へ行き来できますが、当時は仕切門などがあったのでしょうか。

訪問時は蜂(スズメバチ?)が飛び回っており、撮影に集中できなかった記憶があります……右上に写っているの、蜂かもしれません。

新櫓台の東にある、搦手虎口です。石段の上あたりに門があったのでしょうか。石段を上ると、道は右折します。

搦手虎口の東側石垣は斜面を下るほど高さを増し、大迫力です!

足元をのぞき込むと、ここにも石垣。この先を下りると水の手「七つ井戸」ですが、今回は未訪です。

新櫓・太鼓櫓台の西側を北へ歩き、正規ルート(?)に戻ります。

太鼓櫓台(写真右端)の向こう(東)には本丸へ通じる門がありましたが、その手前、太鼓櫓台の北側には低い石垣により食い違い虎口が形成されています。虎口の厳重さが増し、本丸が近いことを感じます。

低い石垣は非常に整っていますが、太鼓櫓・新櫓台と同時期に修復されたのでしょうか。

このあたりに門があったと思われます。二ノ丸からは左折、右折、もう一度右折しないと、次の虎口へ到達できません。

食い違い虎口を越えた先にあるのが、十五間多門跡です。二ノ丸虎口より二間ほど長い十五間(約27.3m)の多門櫓が石垣上に建ち、開口部に門があったようです。

十五間多門は西側で太鼓櫓と接続しており、立札背後の石垣には両方の櫓が載っていたようです。右手前の石材、矢穴がずらり。

門両脇の石垣上に、十五間多門が建っていたようです。石段最上部には平たい石があり、門礎石かもしれません。

十五間多門跡を越えると、右(西)には太鼓櫓・新櫓台。二つの櫓台が連結された凹字型の石垣中央部に石段が設けられています。

太鼓櫓台の東、十五間多門が載る箇所には、石垣が東へ延長されたような痕跡(「太鼓櫓跡」立札のすぐ右に石垣隅部の直線的なラインが見える)があります。石垣構築後、何らかの縄張り変更があったのでしょうか。

搦手虎口を、城内側から見ます。新櫓台東側から、虎口を形成する石垣が延びています。

搦手虎口の道は右折し、本丸後方へ延びており、その先には……!

 

本丸が、すぐ其処に迫ります。

十五間多門東側石垣です。左端に十五間多門が載り、中央やや右には草で埋もれて分かりにくいですが、石垣へ上るための石段があるようです。

草に埋もれた石段の右で櫓台石垣に接続し、道は右へ折れます。櫓台手前の低い石列は塀跡で、櫓台と塀の間には「下ノ門」が、櫓台上には「石火矢櫓」が建っていたようで、この狭い道を通らないと本丸に行けません。小さな下ノ門を目指して櫓台めがけて駆けてくる敵は、正面の石火矢櫓からことごとく狙い撃ちされたことでしょう。

下ノ門を越えると道は左折し、石段を上る間にもすぐ左の石火矢櫓から執拗な攻撃を受けそうです。

石段の右にそびえる杉の巨木は高取城の別名・芙蓉城から「芙蓉姫」と名付けられています。樹齢七百年、築城以前から此処にあったと思われ、その樹高は本丸石垣を遥かに凌ぎます。大自然の驚異には圧倒されますが……驚愕すべきは、その背後。

高さ約12m、城内最大を誇る本丸天守台石垣です。見上げ、しばし放心してしまいました。これは……何だ。どうしてこれだけの石垣が、四百年以上の時を経てなお、その威容を保ち続けているのか。大手門跡を見て「来た甲斐があった」と思ったのは何だったのか。何もかも、圧倒的すぎて、うまく言葉にできません。

古びた小ぶりな城址碑が、「これが高取城だ」と厳かに告げます。ああそうか、これだったんだ。駅から6kmもの道のりと比高446mの登山はしんどかったけれど、これに会うために、この光景を見るために、ここまで来たのだ、と。理解させられました。ありがとう。ありがとう。

天守台の隅部は見事な算木積み。その稜線には一切の反りがなく、直線的です。中央部がやや孕み、微塵も綻びがないとまでは言えませんが、これまで見てきたどの石垣よりも安定感があり、苔生した姿と相俟って、まるで太古の昔からこの地に佇んでいるように思えます。

石段を上って左、天守台と石火矢櫓台との間には加工された礎石が並んでいます。上ノ門跡です。まず右折、下ノ門を越えて左折、石段を上り左折すると上ノ門、道はずっと石火矢櫓台に沿っており、常に石火矢櫓の射程を進むことになります。本丸への虎口は、上ノ門を越えた先にあります。

石火矢櫓台から、すぐ南の石段を見ます。櫓台には、瓦が落ちています。

石火矢櫓台から、本丸西下段の曲輪を見ます。手前に櫓台を囲う塀跡の石列が見え、石火矢櫓から撃たれ放題間違いなしな本丸への狭い道の様子がよく分かります。奥には新櫓・太鼓櫓台が見えます。

石火矢櫓台の前(東)にある碑には「巽高取 雪かとみれば  雪でござらぬ 土佐の城」と謳われ、城下町の南東(巽)に位置する山頂の城郭は天守・櫓・塀など城漆喰の建物群が並ぶ白亜の装いで、まるで冠雪のように見えた……というところでしょうか。

天守を最奥ではなく、あえて本丸で一番最初に見える所に建てているのがまた良いですね。この上に三重の天守が建つ圧倒的威容は戦意喪失待ったなし、太平の世でも来客に権威をこれでもかと見せつけたに違いありません。

本丸帯曲輪と本丸西下段の曲輪とは高低差が少なく低い石垣があるのみですが、当時はこの石垣上に塀がありやすやすとは越えられず、本丸へ入るには先ほどの下ノ門・上ノ門を通るしかなかったようです。

 

本丸へ入る前に、帯曲輪を歩きます。

今いる所は帯曲輪で、本丸の外周を取り巻いています。天守台の前から、上ノ門と逆方向に帯曲輪を歩きます。

稜線だけでなく、正面も側面もまっすぐな天守台。ここまでの「直線の美」を持つ石垣も、珍しいのではないでしょうか。

搦手虎口の東側石垣、見下ろしても大迫力です。

未申櫓が建っていた帯曲輪の南西隅から、小天守が建っていた本丸高石垣を見上げます。

間近から見上げる小天守台、大天守に負けず劣らず素晴らしい石垣! 矢穴のある石材がいくつか見えます。

天守台の東からは、内側に湾曲する長大な本丸南石垣が連なります。

天守台も、大天守台と同じく反りのない、直線的な石垣です。

本丸南石垣の東端には、崩落防止補強用と思われる低い石垣。

反対側から見ると、本丸石垣の構築後に積まれたことが分かります。矢穴だらけ。

波のようなラインの入った瓦を発見。このあたりでも、大量の瓦が見られます。

帯曲輪南東隅に、櫓の基礎と思われる石列。ここには辰巳櫓が建っていたようです。

辰巳櫓跡の北にある、帯曲輪東石垣の出隅……だと思われます。

出隅の北には、しっかりとした櫓台があります。ここには平櫓があり、西には帯曲輪を仕切る門が建っていたようです。

櫓台への石段も、しっかり残っています。

本丸東石垣です。本丸南東隅には煙硝櫓が建っていたようです。

本丸東石垣の北端にも、補強用と思われる低い石垣。本丸北東隅には、鉛櫓が建っていたようです。

南東とは異なり、本丸北東隅を囲うように低い石垣が築かれています。北東隅が入隅となっているのは、「鬼門欠け」でしょうか。

鬼門欠け北東隅の北面にも低い石垣。本丸北東部の石垣は非常に複雑な面構成となっており、見応えがあります。

さらに西へ歩くと見えてくる低い石垣は補強用ではなく、本丸虎口のものです。

本丸虎口の北、帯曲輪の北端部には、狭い虎口があります。

虎口は西に開口部があり、絵図等を見るとここを出て斜面を横移動すると大手門東の曲輪へ、あるいは北側へ下りていくと本丸北東の腰曲輪にも到達できそうな気もしますが……この先は未訪です。

虎口は右折二回で本丸へ入る構造です。

虎口上部のこの位置に、櫓基礎と思われる石列の隅部……この付近には「十方櫓」という櫓が建っていたようですが、もしかすると虎口を覆い隠すように櫓が建ち、有事の際には櫓地下に秘められたこの虎口が城主を逃がすための緊急脱出ルートだったのでは……などと、妄想がふくらみます。

 

帯曲輪をほぼ一周したところで、いよいよ本丸へ向かいます。

これは見事な現地調達木工アート。木彫りの熊に案内され、右奥に見える本丸虎口へ歩きます。熊の左に見える木彫りは、大天守でしょうか。

先ほども見た低い石垣が本丸北側へL字型に張り出し、外枡形虎口を形成しています。

本丸虎口のすぐ背後には二重の「鐙櫓(※「具足櫓」とする資料もあり)」が建っていたようで、虎口へ迫る敵を背後から狙撃、狙撃です。

虎口を直進すると門があったようで、よく見ると礎石らしき平らな石が残っています。

鐙櫓の東からは多門が延び、この先にある櫓門に接続し、その両方がこの石垣に載っていたようです。下の方には鏡石らしき巨石を配置しており、さすが本丸虎口です。

鐙櫓と多門からの攻撃を振り切って本丸虎口最初の門を突破すると外枡形の道は右折、右折と180度ターン、今度は櫓門が行く手を阻みます。

櫓門跡には加工された礎石がしっかり残っています。

櫓門を越えても正面に鐙櫓、右に多門。攻撃の手は緩みません。

櫓門を越え、石垣の壁により左折を強いられた先は……なんと、左右に分かれ道。ここが、高取城の本丸における大きな特徴であり、とても面白いポイントです。

櫓門の南石垣。石材大きめ、矢穴たくさんです。

来た道を振り返ります。右奥の開口部を跨ぐように、櫓門があったようです。

さて、丁字路です。写真は西側の分岐路からもう一方の東へ延びる分岐路を撮影したもので、左手が来た道、左奥は櫓門の南石垣です。縄張りの定石で行けば、最初の門から180度ターンさせて櫓門、さらに180度ターンさせて天守と逆方向に進ませる正面(東)のルートだけあれば良いように思いますが……。

何故か、反対側、天守への近道となってしまう西にも、ちゃんとした道が設けられているんです。もちろん素通りできるわけではなく、この西の分岐路入口には門があったようです。礎石らしき石も見えるような……。

西の分岐路を進んだ突き当たりです。正面石垣の右下にある隙間、石のズレで生じたようには見えないのですが……排水口でしょうか。

突き当たりで右を向くと、階段。上には門があったようですが、その先正面には大天守の真東にある鐙櫓、左手にはすぐ、大天守です。

西の分岐路を振り返ります。階段の上には門礎石らしき石が見えます。あまりにも容易に天守まで来れてしまうこのショートカットルート、これもまた城主用の緊急脱出路だったのではないでしょうか。大天守からこの道を通り速やかに本丸を出た後に、本丸虎口のすぐ北にある帯曲輪北端の櫓地下虎口から逃げ延びる……妄想は尽きません。

西側から、本丸虎口を見下ろします。多くの屈曲と謎の分岐を備えた、城内で最も堅固な虎口です。

ちょっとズルをしたような気分ですが、ショートカットから本丸へ入りました。西の分岐路の南側、本丸中央の広い空間には、御殿が建っていたようです。

右が鐙櫓台、正面が大天守台です。

天守台の南には大きな井戸があり、東側には井戸を囲うような石列が見えます。

西の分岐路を南から見ます。正面石垣の隙間が気になります。

ぐるっと回り込んで、東の分岐路東端から西を見ます。道は微妙に南側へ曲げられ、右折、左折の後ようやく本丸へ入れる構造です。

東の分岐路からの直進を阻むのがこちらのL字型石垣。出隅部分には、平櫓が建っていたようです。

平櫓跡の西には雁木が設けられています。左(東)の平櫓、あるいは右(西)の本丸虎口櫓門へ入るためのものと思われますが、この位置だと東の分岐路から侵入してきた敵も入れてしまうのでは……。

平櫓跡からは本丸虎口がよく見え、ここからも敵を迎撃出来たでしょう。

東の分岐路東端を北から見ます。道を横切る石列のあたりに門があったようです。

東を向き、本丸北東隅の鬼門欠けを撮影したのですが……これは盛大なピンボケ。

鬼門欠けに接近します。櫓台との間に段差があったのは、下からだとよく分かりませんでした。高くなっている櫓台に建っていた鉛櫓は、三重の大きな櫓だったようです。

南東隅の煙硝櫓(こちらも三重の櫓)跡付近から本丸南石垣を見ると、内側に湾曲している様子が分かります。北東隅の鉛櫓と煙硝櫓は多門で連結し、煙硝櫓と南西隅の小天守も本丸南辺に延びる長大な多門によって連結されていたようです。ここから一番奥の小天守台手前まで続く多門櫓……長い!

天守台です。三重の小天守は大天守には及ばないものの、かなり大きな櫓だったことが天守台のサイズから分かります。

天守台の北には大天守台。小天守と大天守も多門で連結され、しかも二層の多門櫓だったようです。大小天守と櫓を多門で連結する連立式天守は姫路城・和歌山城松山城などいくつかありますが、本丸のほぼ全周を多門で囲ってしまうというのはスケールが大きく、非常に堅固な構えです。

天守台へ近付きます。この隅部の直線美!

天守台の地下部分は穴蔵となっており、開口部の中に地下室スペースがあります。開口部左側石垣の一番上と上から四段目の隅石は、古墳の石棺を用いた転用石だそうです。右側石垣には、矢穴がたくさん見られます。

穴蔵へ入ってみます……が、建物が失われ地下から上がる階段もないため、ここから天守台上には行けません。

現在は大天守台の東、鐙櫓台上に階段が設置され、天守台に上ることができます。

鐙櫓台からは、本丸虎口が丸見えです。

天守台上から、穴蔵を見下ろします。

穴蔵のこちら(西)側、石垣が少し低いように思いますが、ここに一階への階段があったのでしょうか。

おそるおそる、下をのぞきます。ひえー。

本丸西下段の曲輪が一望。

天端石にも、矢穴。

北側、本丸虎口方向。

本丸南辺多門跡の中央手前にある、本丸の説明です。鉛櫓台下の付台石垣には、胴木が敷かれていたんですね。

多門櫓基礎石垣に設けられた、少し怪しい石段。ここに多門櫓の出入口があったのか、あるいは後付けの観光用か。

本丸南辺にはこのように、多門櫓基礎と思われる低い石垣が良く残っています。

本丸を下り、天守台に別れを告げます。まずは北から。

西から、芙蓉姫とツーショット。樹高26m近い姫が普通の木に見えてしまう天守台の破格さ。サイズ感がバグってきました。

逆にこの写真だと姫の存在感ゆえか天守台がなんだか小さく見えてきます。不思議。

 

再び、城下へ向かいます。

一時間ほど歩き、夢創舘へ戻ってきました。

ここは大正初期に呉服商として建てられ、現在は観光案内所「夢創舘」として利用されているようです。100名城スタンプは、こちらで押しました。

左の司馬遼太郎氏の文章、訪れた今ならしみじみと同意できます。あれは日本のアンコールワットです。ええ、ええ。間違いない。

夢創舘の建物内には日本百名城認定証のほか、古写真等の展示や再現CGの上映が行われていましたが、撮影の可否が不明だったので、掲載は割愛します。

最後に訪れたのは、移築門のある子嶋寺です。

少し読みづらいですが……ここに移築されたのは「二の門」で、松ノ門が一部焼失した今となっては、原形を保つ唯一の高取城内建造物、ということになるでしょうか。(前半で見た移築火薬庫については、城内での所在地含め、詳細不明です)

こちらが、移築二の門です。ぶっとい本柱や桁の形状は松ノ門によく似ており、同じお城の門というのには、大いに納得です。

門扉も年季が入っています。二の門の外門は冠木門だったようなので、こちらは内門ということになるでしょうか。

幟で見た城主・植村氏の家紋「丸に一文字割桔梗」の屋根瓦が、これは間違いなく高取城の門であると、誇らしげに語っているように思えます。かつては大小天守のほか二十七の櫓と三十三の門が建っていたというのに、原形を留める建造物がこれだけなのはなんとも寂しい限りですが、それでも、よくぞ残ってくれました。

 

長時間の徒歩、登山を経て、土へ還る石垣の数々をかいくぐった先に力強く残る大手門、二ノ丸石垣、そして……天守台。疲れも吹っ飛ぶあの衝撃は、現地を訪れないと味わえない気がします。広大な縄張りは未訪のエリアも多く、またいつか、必ずや、「日本最強」に会いに行きます。

御城印にはやはり、丸に一文字割桔梗紋。登城証明書と家紋バッジも頂きました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで46城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

81.高取城(その1)

高取城に行ってきました。

日本100名城(No.61)に選ばれた、奈良県高市郡高取町にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

壺阪山駅から、お城を目指します。案内によると、ここから南東6km!

NHKの番組で「日本最強の城」に選ばれた高取城。幟には城主・植村氏の家紋「丸に一文字割桔梗」があしらわれています。

駅の観光案内を見ます。キトラ古墳まで15分か……いやいや、今日はお城です。

 

まずは、城下を歩きます。

駅近くの案内を見て、これから見るポイントをチェックします。はて、ここは高取なのに「土佐」街道とはこれ如何に。

駅にはお城まで6kmとあったので、4kmとは砂防公園までの距離でしょうか。移築門のある子嶋寺には、後ほど訪れます。

土佐街道を、南へ歩きます。

高取町のすぐ北は明日香村。案内図のタイトルも「飛鳥観光」となっています。右の立札は土佐街道の説明ではなく「まちなみ作法(周辺景観住民協定)」でした。

案内にあった「昔のたたずまいの残る薬屋」です。一階の格子や二階の虫籠窓が、江戸時代の風情を今に伝えます。

土佐街道の両脇には水路が流れ、道の端は石畳。先ほどの薬屋のような昔ながらの建物が多く残ります。二階部分の天井が低い町家を「つし二階建て」と言うそうです。

今回最初に出会ったお城の痕跡がこちら、藩主下屋敷の移築表門です。非常に状態が良く、修理・改変があるのかもしれませんが、貴重な現存遺構であることは間違いありません。現在は、石川医院の門となっています。

屋根瓦は植村氏の家紋とは異なるようですが、石川さんの家紋なのでしょうか。

奈良産業大学のプロジェクトによる再現CGが壮観です!この看板のあたりで、土佐街道は南東へ折れます。城跡まで、約5km。

街道・町名「土佐」の由来はなんと、今から千四百年も遡るものでした。確かに明日香村のすぐ南、飛鳥宮からも程近い場所になります。ここは大年寄・池田邸屋敷跡だそうで、碑があります。

資料館では、ドローン映像やパネル展などがありました。街の駅「城跡(きせき)」。

夢創舘には、後程訪れます。

札の辻跡です。カーブミラー脇の道標には「右 つぼさかよしの道」と書かれているそうです。

札の辻跡の東にある児童公園には、貴重な現存建造物のひとつ、松ノ門が移築されています。

大手門の三つ手前に、松ノ門があったようです。

移築後、火災で一部焼失し解体保存されていたという松ノ門。屋根部分が焼失してしまったのでしょうか。それでも、よくぞ残ってくれました。

形式としては、薬医門になるでしょうか。ぶっとい本柱や桁に、立派な城門の風格が漂います。控柱や門扉の部材は新しそうですが、復元部分でしょうか。

田塩家長屋門です。二つ並んだ与力窓、左が写っていません……。

武家屋敷地への入口に建っていたという巨大な二階建て長屋門・総門は現在失われており、碑と説明版があります。

総門左手の土塀は今も残り、当時の様子を伝えます。総門の東に、藩主下屋敷があったようです。石川医院に移築現存する表門は、もともと藩主下屋敷にあったものです。

坂の途中に建つ、植村家長屋門です。もと筆頭家老の屋敷で、現在は旧藩主・植村氏の住居となっているそうです。屋根瓦の家紋は、筆頭家老のものでしょうか。長屋門の南が、藩主下屋敷跡です。

瓦を釘で留めてあるのでしょうか、白い点がデザインのアクセントになり、とても美しい海鼠壁です。

重厚な門扉の右には、脇戸と格子窓があります。

 

城下町を過ぎ、お城を目指して歩きます。

馬冷と呼ばれる場所を過ぎ、民家がまばらになります。

砂防公園の入口付近まで来ると、案内がたくさん。自販機は、これより先には無かったように思います。

お城へは、直進です。

道沿いにはためく、数多くの幟。日本最強の城へ、歩みを進めます。

ここより本丸まで、トイレはありません。用は確実に、済ませましょう。

正面奥に見える民家の蔵は、お城から移築された火薬庫ではないかと言われているそうです。本丸まで、2.5km。

 

いよいよ、お城へ入っていきます。

沢に架かる橋の向こうに、黒門跡の立札。高取城第一の門であり、ここからが「郭内」です。

黒門跡の脇に積まれた石垣は、当時のものでしょうか。

しばらく歩くと、分かれ道があります。右へ行くと初代藩主・植村家政公の下屋敷があった場所で、現在は藩主の菩提寺・宗泉寺(未訪)があります。お城へは、直進です。

このあたりは別所郭という曲輪で、黒門は別所郭の入口にあたるようです。そしてなんということでしょう、案内には「いよいよ山登りのはじまりです」とあります。ここまで結構登ってきたつもりでしたが、まだ始まってすらいなかったとは……。本丸まで、約1.8km。

案内図の先へ歩くと、道の分岐があります。いや分岐……? 左の先には、はたしてちゃんと道はあるのでしょうか……? とりあえず右がお城で、ホッとしました。

道の脇には、わずかに石垣。

かなり大規模な石垣もあります。これらも、高取城の遺構でしょうか。

道に散乱している石は、石垣が崩れたものかもしれません。

この先が、七曲りです。本丸まで、約1.7km。

立派な城阯碑です。でも何故に七曲りの始まる、この場所に建てたのでしょうか。もしかすると「ここから先に、お城の跡が良く残ってるよ」ということかもしれません。

右へ左へ、ぐねぐねとカーブする七曲り。途中、小さな城「趾」碑がありました。

こういう道は当時のままなのかもしれない、などと思いつつ。

道の脇には、石垣により小曲輪が造成されているような場所がいくつかあります。

石垣で城道を造成したような箇所も。

この先が、一升坂です。本丸まで、約1.2km。

先が見えない七曲りもきついですが、急な上り坂が一直線に見えている一升坂も、こたえますね……。

一升坂の谷側には、石積みがあります。きつい上り坂、ふらつきによる転落防止でしょうか。

上の方に、少しだけ石垣。

おおっ、これは郭内に入ってから一番しっかりした石垣のように思います。道の脇には石列があり、石段も築かれています。

右側にも、しっかりした石垣。

岩屋不動は、未訪です。

道の折り返し部分は隅に巨石を用いた石垣で、しっかり補強されています。

次第に石垣を目にする機会が増えてきます。この上の曲輪を造成するための石垣でしょうか。

本丸まで、760m。ついに、1kmを切りました。

ここで道は左へ分岐し、分岐点には何やら、ファンキーでモンキーな石像。猿石です。

飛鳥時代に作られたと考えられている猿石。デフォルメされた二頭身で、確かに男根らしき表現もみられます。石垣に使われずここに置かれたのは目印・魔除けなどの意味があったのでしょうか。

左はこれ……どうなっているんでしょうか。

背中にも何かありますが……うーん。

猿石の道を挟んで東には、石垣が北へ長く延びています。明日香村栢森の案内に従って北へ進むと岡口門跡があるようですが、今回は未訪です。

これは……先ほどの長い石垣の一段上にある石垣、かと思われます。後から見返すと、何処を撮影したのか分からなくなるような写真には気を付けないと、ですね。

道の右手には、崩壊した灯籠。八幡宮が、この近くにあったのでしょうか。

 

猿石を越え坂を上ると、「城内」です。

二の門跡です。ようやくお城らしい構えの石垣が現れ、テンションが急上昇します。二の門跡手前の土橋部分に、当時は欄干付きの木橋が架かっていたようです。

なお、二の門は移築現存しており、後ほど見に行きます。

土橋から、来た道を振り返ります。橋の手前側にも、両脇に石垣が組まれています。

橋手前、東側の石垣を東から見ると、道に沿って続いているのが分かります。もとは道の両脇が石垣によってしっかり固められていたのでしょうか。

二の門跡の手前東側には、山城には珍しい水堀があります。門手前に木橋が架かっていたということは、手前の地面部分まで増水する場合があったのかもしれません。

奥の堤は中央部が凹んでおり、増水時には向こうの谷へ余分な水を落としていたようです。右側の低い石垣上をよく見ると、石組井戸があります。

山奥にこの高石垣! ここからは城内、やすやすとは越えさせぬ!という守りの意志を感じます。手前の低い犬走り状石垣の左に石組井戸があるのですが、低い石垣が土で埋もれて(崩れて?)いる部分には、もしかすると石垣へ上るための石段などがあったのでしょうか。

二の門跡両脇の石垣を見ます。この間には、冠木門が建っていたようです。

二の門跡東に延びる高石垣の隅部は算木積み。植物に覆われながらも、その威容を保ち続けています。

冠木門跡を越えると道は左折し、このあたりに内門があり、枡形虎口を形成していたようです。

門は失われても、立ちはだかる石垣が直進を許しません。

二の門を越えると「城内」。主郭部へ近付きます。

二の門を越えた所にある曲輪は侍屋敷跡らしいですが、かなり大量の瓦片があり、中にはかなり原形をとどめるもの、紋が残るものもありましたが、当時のものでしょうか。

これらは貴重な文化財かもしれません。触らず現状維持、見るだけにとどめます。

さすがに茶碗の破片などは現代の物だと思うのですが……。触らず、触らず。

侍屋敷跡を越え道は左へ折れ、右手に石垣が連なります。

この付近、あるいは少し手前が、三の門跡でしょうか。道を塞ぐように、門が建っていたようです。

ここまで黒門・二の門・三の門とありましたが「一の門」は無かったようですが……「黒門=一の門」ということでしょうか。

道の左手にも石垣。この石垣の北西隅が、二重櫓(三ノ門櫓)が建っていた場所と思われます(見えているのは南西隅)。

道の右手に見ていた石垣の切れ目です。この奥も侍屋敷跡で、右の石垣上には多門櫓が建っていたようです。

これは……。石の色から察するに、比較的最近石垣が崩壊した箇所かと思われます。木の根が原因でしょうか。おかげで、石材のもともとの白さは分かりましたが。

落石注意の看板まで、埋もれつつあります。ここまで崩壊が進むと、修理・整備は難しいのかもしれません。土から成ったお城が土へ還ってゆく光景が、なす術なく眼前に広がります。

またも立派な石垣が見えてきます。矢場門跡です。ここで右に国見櫓の案内。

先に、国見櫓跡へ向かいます。

右手に石垣。侍屋敷跡の曲輪外周と思われます。

大きな石材を用いており、見応えがあります。

国見櫓台に到着です。

城下町の南東に位置する高取城。北西に張り出した石垣上に建つ国見櫓からは城下が一望、まさに「国見」が出来たことでしょう。この国見櫓台、土佐街道から白い点として視認できるようですが、未確認です……。

おお、まさに大和国が一望! しかし高取城下は木に隠れてイマイチ……。

この石列、櫓の基礎部分でしょうか。

櫓台石垣も、よく残っています。

矢場門跡へ引き返します。

矢場門跡まで戻ってきました。立派な石垣は、門北側のものです。

矢場門跡南側の石垣は崩壊が進んでおり、ネットが張られています。ヤバ門です。

矢場門跡を越えると道は左折し、右手に雛壇状の侍屋敷跡が見えてきますが……石垣はほとんど植物に呑まれています。

左手の高い所にも、侍屋敷跡らしき曲輪の石垣。

手前の石垣は、もはや完全に崩壊しています……。

崩壊石垣を過ぎると、松ノ門跡です。麓の児童公園で見たのは、ここにあった門です。

門北側の石垣は矢場門跡と同じく防護ネットが張られており、基部にはコンクリートの崩落防止ストッパー?も見えます。

南側、立札付近の石垣も木の根等により崩壊寸前、ピンチです。

寸前石垣の先には石垣の壁。直進は、できません。

門北側石垣、どうやら防護ネットを鎖でコンクリートブロックに固定している模様。石垣のサイドにも、コンクリートブロックがあります。

門北側石垣の上部は侍屋敷跡で、絵図では北端と西辺に多門櫓が描かれています(撮影は南端から)。よく見ると、植物に埋もれかけた石段が見えるような……。

松ノ門は、このあたりに建っていたのでしょうか。

松ノ門から門が連続するエリアとなり、松ノ門跡を越えると次は、宇陀門跡です。

宇陀門の北、道の右手からせり出す石垣。この上には、到着櫓があったようです。

到着櫓を過ぎると道は右折し、枡形虎口状になっています。門南側の石垣上にも櫓があったらしく、宇陀門に迫る敵を両側から挟み撃ちです。

宇陀門跡を振り返ります。かなり高低差のある枡形で、急坂を上りながらの右折途中に両側の櫓から撃たれまくり……かなりのキルゾーンですね。

宇陀門南石垣は、植物に呑まれながらも持ちこたえている感があります。

宇陀門を過ぎると、千早門跡です。

宇陀門と同様、道の右手からせり出す千早門北側石垣。この石垣により左折を余儀なくされ、石垣に沿って180度ターンを強いられます。

そして千早門も、門両側の石垣上から狙撃されるキルゾーン。ずいぶん手前に立札がありますが、実際はもう少し奥、石列(礎石?)の見えるあたりに門が建っていたのではないかと思われます。

千早門南石垣、植物に負けず踏みとどまっています。

南石垣の南には、大量の瓦。

千早門を越えると、三ノ丸です。お城の中枢が、すぐそこに。

千早門跡を越えて正面、門北側石垣から連なる低い石垣の向こうが、城代屋敷跡です。

低い石垣の開口部……城代屋敷の門跡でしょうか。

 

城代屋敷跡を過ぎ、その先にあったのは……。

その2へ続く)

7-2.松江城

松江城に行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.64)に選ばれた、島根県松江市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

松江駅の階段から、国宝天守が出迎えてくれます。

お城から大橋川を隔てて南東、松江駅の北西には遊郭があったらしく、昭和期に建てられた遊郭建物とされる旧米江旅館は登録有形文化財になっています。

松江大橋のたもとには、千人がかりでも大橋から先へ動かせなかったという「大庭の音のする石」があります。

松江大橋の上から、天守が見えます。

お城の北に現存する武家屋敷の長屋門が、マンホール蓋にデザインされています。

カラコロ工房の西に、文久頃の士族屋敷図があります。現在地は三之丸の南東、京橋を渡ってすぐ左手(北西)あたりと思われます。

 

城下を抜け、お城へ向かいます。

現在は島根県庁の建っている場所が三之丸で、当時は藩主の御殿があったようです。

三之丸は方形で四方を堀に囲まれ、本丸・二之丸から堀を隔てて南に出丸のように位置しています。写真では北東に石垣がよく残り、手前の柵付近が東に架かる土橋です。奥の高石垣上は二之丸で、復元された南櫓・中櫓が見えます。

堀尾・京極の後に入った松平家初代藩主、松平直政公の騎馬像です。像は三之丸南東に建っており、当時ここは堀だったかもしれません。

三之丸北東隅に建つ「三丸舊趾」の碑です。な、な、なんというカッコいい碑でしょう!刻まれた文字の美しさ・力強さ、そして何より碑の形状!自然石をそのまま利用したような……いやこんな「碑にしてください」と言わんばかりの石がそうそう見つかるかな……でもこんな荒々しい形状に加工したのだとしたらセンスありすぎるな……などと色んな妄想がぐるぐる。ここから撮影すると奥の二之丸高石垣とその上の南櫓まで収められるのも嬉しいところです。

三之丸北西に架かる「緑樹橋」です。対岸のコンクリート護岸の間に少し石垣が見えていますが、当時のものでしょうか。

緑樹橋の下をくぐって、遊覧船が南へ進んでいます。お堀の左手(東)が三之丸で、右手(西)は三之丸之内・御花畠と呼ばれるエリアです。

御花畠側から三之丸北西隅を見ると、緑樹橋の北側に、北西へ斜めに突き出た橋台のような石垣が見えます。

当時は緑樹橋が存在せず、北西出入口として助次橋がこの斜めの橋台に架かっていたようです。

三之丸の北には、主郭部へ通じる木橋が架かっています。標柱には「千鳥橋(御廊下橋)」とあります。はて、廊下橋とは屋根付きの橋だったと思うのですが……。

説明によると、江戸期には確かに屋根付きの廊下橋があったようで、現在の千鳥橋は平成期に架けられたそうで……廊下橋には、出来なかったのでしょうか。

千鳥橋から振り返ると、三之丸の北、橋のすぐ東側に雁木が設けられています。

 

千鳥橋を渡り三之丸を出て、主郭部へ向かいます。

千鳥橋を渡ってすぐ左手は、立入禁止となっています。石垣の修理工事が、あと二年近く続くようです。

正面には、階段が右へ延びています。右手の石垣隅部は、石材が加工され稜線がまっすぐ整っています。

石垣は高さを増しながら東へ延び、二之丸南櫓台へ続いていくと思われます。

階段は後世の整備が入っているように見えますが、階段左脇の石垣は当時のものでしょうか。

階段右脇の石垣には矢穴のほか、ほぞ穴も見えます。石垣上に何らかの建物があったと考えられますが、正保城絵図では御廊下橋から南口門に至るまで長屋が連なっていたように描かれています。

東へ延びる階段を上ると、正面に南櫓が見えてきます。

南櫓すぐ西の石垣には排水口があり、その前面には排水溝が設けられているようです。

ここから階段は北へ折れ、その先の石垣開口部には門が見えます。

二之丸南口門跡です。現在は、冠木門が建っています。

ほぞ穴のある礎石が残っています。当時はどのような門だったのでしょうか。

南口門両脇の石垣には、大きな石材が多く見られます。刻印らしき紋様が見えるように思うのは、気のせいでしょうか……。

門東側の石垣が西側とずいぶん色が違うのは、塀を復元する際に積み直したからでしょうか。

南口門を越えた後も石段が続き、両脇に門より高い石垣があるので、埋門のような格好になっています。

 

南口門跡を越えると、二之丸です。

門跡を越え石段を上ると、すぐ西に石垣と石段が見えます。今いる場所は二之丸で、石垣の上も二之丸。二之丸は、西側が東側より高い二段構成となっています。

石段の北に延びる石垣には矢穴が目立ち、中央に矢穴が穿たれた石材もあります。

石垣基部には、石組の排水溝が設けられています。

石段南側の石垣を上から見ると、台形状になっているのが分かります。石垣南辺部の内側にも石列があり、塀の基礎のように見えます。絵図ではここから二之丸北西の西門まで、塀が複雑に折れ曲がりながら続いています。

石垣と内側の石列は並行して西へ延び、やがてシートや土嚢で覆われたエリアに到達します。どうやらここが、千鳥橋の左手で見た石垣修理工事の現場と思われます。

工事現場付近に「御月見櫓跡」の標柱。このあたりに、月見櫓があったようです。

小屋と興雲閣の間には、柵。この先は立ち入らない方が良さそうですが……奥に見える低い石垣が気になります。塀の基礎らしき石列の延長でしょうか。

二之丸を東西に区切る石垣の北には階段がありますが、後世の整備でしょうか。

二之丸の西、御書院跡付近には現在、興雲閣があります。明治期に建てられた洋館で、迎賓館としても機能していたようです。

興雲閣と松江神社の間にある道は関係者以外立入禁止……二之丸西辺部を見るのは難しそうです。

興雲閣の北には松江神社があります。松江城国宝指定の決め手となった祈祷札が見つかったのがここ、松江神社なのです。後足をぴんと伸ばして戦闘態勢の個性的な狛犬は、出雲では多く見られるようです。

城下にあった東照宮を移築したという松江神社の社殿。屋根には、葵の御紋が輝いております。

 

当時の城郭建造物とは無関係の建物が並ぶ西側に対して、二之丸東側では復元・整備が進んでいます。

松江神社のすぐ東に、下見板張りの長屋風トイレがあります。こういった便益施設を城跡の景観に合うデザインにする取り組みは大歓迎なのですが……実はこのトイレ、単なる城郭風建物ではありません。

なんとここには御殿を警備する番所があり、発掘調査でも存在が確認された場所に、番所と同程度の規模のトイレを復元的に整備しているのです。素晴らしい!当時建物が無かった場所に味気ないトイレを建てるのではなく、番所があった場所に番所風のトイレを建てる。当時存在した建物そのままを復元するのがベストかもしれませんが、観光地に欠かせない便益施設と復元的整備を兼ねたひとつの選択肢であり、好例だと個人的には思います。

復元整備の説明には元禄期の絵図や発掘調査時の写真、古写真もあり、とても情報量が豊富です。

番所跡の南に復元された井戸屋形です。屋形の向こうに段差が見えており、東西の高さの違いが分かります。

井戸屋形の東には、御殿跡が平面表示されています。排水溝を挟んで右が下御台所跡、左が御式台跡、奥が御広間跡で、左奥の中櫓手前にある柵の開口部が平地門跡です。

これら排水溝も、発掘調査の成果をもとに復元整備されたものでしょうか。

塀は南口門跡の東から石垣に沿って復元されており、南へ延び、東へ折れ、南櫓へ接続しています。

復元櫓では唯一の二重櫓である、南櫓です。南東隅に斜めに張り出して建てられています。南東方向・三之丸東虎口などの監視のほか、南西にある南口門を監視する役割もあったのでしょうか。

南櫓の大棟鬼瓦には、家紋は見られません。

復元櫓は内部も公開されており、中へ入ることができます。

南櫓の一階内部です。左の柱には釿(ちょうな)がけの跡と思われる模様が見られ、伝統工法により復元されたことが分かります。

二階への階段には、踊り場が設けられています。

南櫓の二階内部です。

これは……一階屋根の垂木が突き出ている?強度を上げるためなど、何らかの意味があるのでしょうか。

天井付近に、棟札が見えます。梁などの部材に見られる墨書きが良いですね。

二階の格子窓には、突き上げ戸が付いています。

他の三方は突き上げ戸ですが、城外に面する南東だけは引き戸です。

この窓からは、先ほど訪れた三丸舊趾の碑が建つ三之丸北東隅や、長屋門が建っていたという三之丸東虎口がよく見えます。

北東の窓からは、南櫓のすぐ東側で複雑に折れ曲がる塀が見えます。

南櫓を出ます。

狭間を備えた塀は南櫓の東から北東・東・北と石垣の横矢に合わせて細かく折れ、そのまま二之丸東辺に沿って北へ延び、中櫓へと接続しています。

中櫓は、南北方向に長い平櫓です。南櫓もそうでしたが、櫓の周囲には排水溝が設けられています。

幕末には「御具足蔵」とも呼ばれていたという中櫓。こちらの大棟鬼瓦にも、家紋は見られません。

中櫓の内部です。部屋の中央を仕切る壁があります。

中櫓は、城外に面する東の窓が突き上げ戸で、南の窓には引き戸が見えます。南東隅には、狭間と石落としがあります。

北の窓も突き上げ戸です。

中櫓を出ます。

中櫓の北に接続する塀は二之丸東辺に沿ってまっすぐ北へ延び、柵の向こうに見える太鼓櫓へと接続しています。

中櫓のすぐ北にある柵の開口部が、平地門跡です。当時は平地門の両脇に、しっかりした塀があったと思われます。

復元櫓三棟の三つめ、北東隅にある太鼓櫓です。こちらも大棟鬼瓦には家紋なし。

中櫓とほぼ同規模ですが、太鼓櫓の入口には庇があります。

庇は杮葺きに見えますが……植物が繫茂していますね。

太鼓櫓の内部は、中櫓と違って仕切り壁はありません。狭間・石落としのある北東隅には、復元されたと思われるぴかぴかの太鼓が置かれています。

太鼓櫓の西に接続する塀は、この場所で途切れています。

塀の西、石垣が北へ張り出すこの場所には御門東之櫓と定御番所があったようです。左奥に見える石垣は本丸武具櫓台で、その右奥に天守が見えています。

御門東之櫓跡から、下見板張りの瓦塀に開く矢狭間・鉄砲狭間と、太鼓櫓から張り出す石落としが見えます。

 

二之丸を出て、大手口へ向かいます。

大手前に立つのは松江開府の祖・堀尾吉晴公の像です。右手を高く掲げ、築城を指揮している姿でしょうか。

堀尾吉晴公像の北、大手柵門(注)北側石垣のすぐ東にある、多言語対応の大きな案内板です。曲輪や建物・建物跡名称まで記載されているのがありがたいです。

(注:案内図には「大手木戸門」とありますが、後の説明では「柵門」とあり、他の資料には柵門の表記が多く見られるため、柵門としています)

案内板の背後に見える馬溜の東側石垣には、東に犬走りがあります。

犬走りの東には、広い内堀と、二之丸下之段の石垣が見えます。

大手柵門南側石垣の前に建つ真新しい「国宝 松江城天守」の碑と、背後の石垣上に建つ「史蹟」松江城の碑です。

大手柵門両脇の石垣です。さすが大手口、大きな石材をふんだんに使っています。

大手柵門を越えると、馬溜です。

広大な巨大枡形・馬溜。その名のとおり、馬や城兵の駐屯地としての役割があったようです。

馬溜の南東にある井戸跡です。

遺構面は50cm下らしいので、井戸の周囲にある石組水路も復元されたものでしょうか。奥には、馬溜南側の腰石垣と土塁が見えます。

北西にある井戸には屋形が復元されており、周囲には石組水路があります。

高さ13m、大迫力の二之丸東辺石垣です。これを越えるのは無理、でしょう。馬溜にあまり留まると、二之丸にある左右の櫓から狙い撃ちされそうです。

石垣の左右で色の違いが見られるのは、積み直し修理によるものでしょうか。

左手には中櫓。石垣基部の一部が、乱れているように見えます。

右手には太鼓櫓。こちら側の石積みは、非常に整っています。

馬溜内部より東、大手柵門跡を見ます。

馬溜内部より北、大手門跡を見ます。大手柵門跡とは石垣間の距離も石垣の高さも全然違います。大手門がいかに巨大な櫓門だったのか、よく分かります。

大手門の礎石は50cm地下にあるそうなので、見えている礎石は復元表示されたものと思われます。

高くそびえる、大手門脇の石垣です。

大手門の復元資料、見つかると良いのですが。

 

馬溜を越えると、二之丸下ノ段です。

広大な外曲輪である二之丸下ノ段。復元・整備された遺構もあるようです。

大手門東石垣から、二之丸下ノ段の南辺土塁と腰石垣が延びています。

土塁・腰石垣の北側には御破損方・寺社修理方があり、発掘調査で二棟の礎石建物跡が確認された場所に同規模の建物を建て、それぞれ観光案内所・茶屋として利用されています。二之丸のトイレ同様、復元的整備が便益施設を兼ねる好例です。茶屋の左に見える石積みは平面整備された米蔵の基礎で、石積みの左あたりに門があったようです。

この場所の建物は江戸期中に何度か変遷があったようで、幕末頃の絵図には右(北)に御破損方の会所が、左(南)に御小人長屋が描かれているようです。下見板張りの城郭風建物は、右奥にチラリと見える天守とも調和していて良いですね。正面奥に見える石垣は、武具櫓台です。

昭和期の説明板には、当時の建物の様子が描かれています。左下が現在便益施設の建つ御破損方・御小人長屋で、その右にある米蔵は築城当時から存在するらしく、間に門が見えます。

天守の案内看板の背後に、平面整備された米蔵の基礎が見えています。奥に見えるのは中曲輪の石垣で、米蔵は西側でほぼ石垣に接して建っていたようです。

二之丸下ノ段より、馬溜を見ます。当時は大手門があり、馬溜の内部は全く見えなかったでしょう。

説明には石垣内部より発見されたとあった、馬溜北側石垣の石組み階段です。後世に改変があり、階段が埋められていたのでしょうか。

階段は大手門の方向へ続いています。大手門の二階櫓部分へ上るための階段でしょうか。

発見された階段の西側にも階段があります。こちらは石垣に上り、馬溜に侵入した敵を迎え撃つための階段でしょうか。

 

中曲輪へ向かいます。

中曲輪への階段は非常に整っており、後世に整備されているように見えます。

階段のすぐ南には太鼓櫓。狭間や石落としがこちらを狙っており、のんびり歩いてはいられません。石垣隅部は、美しく整った算木積みです。

駆け抜けたいところですが、坂の上の石垣が直進を拒みます。当時は石垣上に櫓(御門東之櫓)が建っていたようなので、敵は左から正面から攻撃されまくりです。

階段の右、中曲輪の南端部にも石垣があります。ここにも塀などが設けられ、敵を迎え撃ったのでしょうか。

この石垣、よく見ると同じ刻印があちこちに見えます。

中曲輪南端石垣へ上る石段の手前に、刻印の説明があります。数多く見られる分銅紋は、堀尾家の紋だそうです。

石段にも、分銅紋。

南端石垣の西には、中曲輪のここより北側を区画するような石積みがあります。

その西には、方形の石列。右には石段らしきものも見られ、何かの建物跡でしょうか。

中曲輪南端石垣の北から、坂の北側石垣を見ます。

今上ってきた「本坂」と呼ばれる坂は南に太鼓櫓、北に南端石垣、正面に御門東之櫓と非常に防御力が高く、さすが大手から本丸へ通じるルートです。

御門東之櫓台の北にある階段を上ったところに二之丸の解説があり、当時の建物を腰掛や雪隠(トイレ)に至るまで解説してくれています。

二之丸地区解説板の横には、現在の地図を重ねた正保期の絵図もあります。

解説板の右手には、高くそびえる武具櫓台。太鼓櫓台と違って算木積みは未発達ですが、美しく整っています。

武具櫓台の向こうには、天守がチラリ。

 

二之丸へ戻り、本丸を目指します。

中曲輪から二之丸へ通じる、三ノ門跡です。礎石など門の痕跡は見られません。

三ノ門を入ってすぐ左(東)にある定番所跡です。先ほどの解説板では御門東之櫓と定番所の名称が同じ建物の上に記されていましたが、櫓の中に番所があったということでしょうか。

三ノ門から南西に歩くと、二ノ門跡があります。二之丸から本丸方面へ通じる門で、大きな礎石が残っています。

二ノ門南側の石垣上には長局が建っていたようです。木の根が原因か、石垣の崩壊が進んでいるように見えます。

二ノ門跡を越えるとすぐ右(北)に階段。本丸へ通じる虎口です。

本丸への階段、右端を進むと石垣に邪魔されて直進できません。そういう仕様なのか、あるいは出入口を狭めるために後から石垣を積み足したのか。

階段を上ってすぐ左(西)にある弓櫓台です。さすが本丸虎口、巨大な鏡石が多用されています。

本丸虎口より、二之丸を見下ろします。電線の地中化は、遺構保護の問題もあり難しいのでしょうか……。

本丸虎口は枡形状となっており、北は多門櫓、西は弓櫓が守る非常に堅固な虎口だったようです。現在は北の多門櫓と一ノ門が再建されていますが、一ノ門は随分と奥まったところに建っており、その手前には……。

「一ノ門」の標柱。本来はここに一ノ門が、多門櫓と弓櫓を連結するように建っていたようです。現在は異なる位置に門が再建されているのだから、この標柱は「一ノ門跡」で良いように思うのですが……。

一ノ門跡には礎石が残っています。本来の一ノ門を越え本丸へ入るための道には、再建門との隙間を埋めるべく多門櫓(写真左わずかに写る)が建てられており、東側の再建多門櫓との間におかしな段差が生じています。

 

一ノ門を越えると、本丸です。

管理事務所の東には、弓櫓台へ通じると思われる石段が見えます。石段の右側には石列や低い石垣が見えており、当時は弓櫓と本丸南西端にある坤櫓の間には多門櫓が建ち、ふたつの櫓を連結していたようです。

本丸南西端の、坤櫓跡です。

坤櫓の北には「多門跡」の標柱。坤櫓の北にも多門櫓が延びていたようです。

本丸の散策は後回しにして、そろそろ天守へ入っていきたいところですが……。

天守前には長蛇の列。さすがGWです。

最上階までは二十分待ち。列の最後尾に並びます。

天守は四重で内部は五階+地階、附櫓を伴う「複合式望楼型」に分類される、全国にたった十二しかない「現存天守」のひとつです。

最上階の屋根には、鯱。木彫り・銅板張りだそうです。瓦の家紋は、この写真では不鮮明なので確認できません。

南面では附櫓や三重・四重目などに白壁が認められます。三重目の狭間も、白壁のおかげでよく見えます。

附櫓の南面両脇に石落としと、石落とし含む下見板張りの壁には狭間がいっぱい。出入口は、附櫓の中央からやや左寄りに設けられています。

気付けば、出入口が目の前に。天守を眺めていれば、二十分なんてあっという間です。

出入口の柱や梁や扉は鉄板で覆われ、補強されています。

附櫓の石垣は矢穴が目立ち、刻印らしき紋様も見えるような……。もう少し近くで外観をじっくり観察したいところですが、今は順番が回ってきたので中へ入りましょう。

 

附櫓より、天守内へ入っていきます。

前回訪問時にあった下駄箱は撤去され、靴を袋へ入れる方式に変更されています。おかげで、附櫓入口に設けられた石打棚本来の姿や、下の石垣の様子がよく分かるようになりました。石打棚に沿ってずらりと並ぶ狭間と、「石打棚」看板の背後には石落としが確認できます。

附櫓入口から階段を上って左側には板張りの空間があり、この直下が附櫓の入口で、壁には狭間と反対側の石落としが確認できます。

アプリ「ニッポン城めぐり」のイベント「国宝五城 城郭都市めぐり」に参加しているので、今回の訪問はチェックポイントも回ります。松江城のチェックポイントは附櫓にありました。

なお、この写真の右手方向に天守受付があり、100名城スタンプはそこで押しました。

附櫓から天守への階段右手に「写真撮影OK」のお知らせ。これがあると安心して撮影できます。ありがたや。

階段を上ると、天守の地階です。

階段を上って右手にある石打棚です。地階南面の窓からの攻撃を想定した足場です。

地階は、石打棚のある南側と北側が壁で仕切られ、石打棚のすぐ北には格子窓があります。窓の格子には何やら墨書きが……当時のものでしょうか。

地階格子窓の西にある階段から、一階へ上がります。現存天守で二番目の平面規模だそうで、説明板に見所などが紹介されています。

天守を支える、東のぶっとい最大柱です。

階段の引き戸は、この時は確認できず。彫込番付は、見逃しました……。

突き上げ戸の支え棒、窓を閉めている時はこうやって柱に掛けてあるんですね。

一階外壁にも多くの狭間が並びます。縦長が矢狭間、正方形が鉄砲狭間です。

一階全景です。展示物は少なく、建物の構造がよく分かります。たくさんのごつい柱と、天井に並んだぶっとい梁が、今日まで天守を支えてくれています。

現存天守では松江城だけに見られるという、柱の包板。こまめな修復が天守を守ってきた、ということでしょうか。

二階です。ぶっとい梁がド迫力! 松江城天守には地階から最上階まで全てを貫く柱は存在せず、二階分を貫く「通し柱」を効果的に配置することにより、重量を分散させ、建物を安定させる構造となっているようです。

開いた突き上げ戸を中から見ると、こんな感じです。

南櫓でも見られた、屋根の垂木?が壁に突き出ている様子は天守でも見られ、やはり何らかの意味があると思われます。

石落とし左側の柱に彫込番付「上一ノ七」があると知らせてくれているにもかかわらず、見逃しました……。

三階です。通し柱が二階分を貫くのは見えましたが、花頭窓は撮影できてません……。

三階は屋根に合わせて形状が複雑になっている部分があります。

破風の内部を活用したと思われる「隠し部屋」のような空間もあります。

四階・五階の解説です。

四階の梁の上から立ち上がる柱、ライトが当たって分かりやすくなっています。

西側の大破風内側に設けられた、箱便所の跡です。引き戸の付いた小部屋になっています。

西側大破風の北側には引き戸がなく、単なる狭間のある小部屋です。

東側の大破風内部は開放的で、箱便所は西側南寄りにのみ存在したようです。

ここの部材のカーブ……なんか良いですね。

四階への階段上り口は正面が藩主用、左の小さなステップが小姓用と考えられているようです。

最上階への階段には、踊り場が設けられています。

天守五階、最上階「天狗の間」です。四階・五階の解説にあった「手摺の装飾」とは、写真右に見えるカーブした階段手摺のことでしょうか……確かに凝った意匠です。敷居はありませんがよく見ると鴨居が残っており、当時は建具があったのかもしれません。

展示されている国宝指定書は写しで、原本は松江歴史館にあるようです。

城絵図も展示されています。

天狗の間からの眺望を楽しみます。

西です。右に乾櫓台が、そこから本丸西辺に沿って左へ多門櫓跡が延びています。

北です。木々の間から、本丸北側の石垣が見えています。

北東です。何故わざわざ北東を撮ったのでしょうか……。

東です。正面に松江歴史館が、その左には内堀につながる川が見えます。

南東です。またしても何故わざわざ南東を撮影したのか、さっぱり思い出せません……。眼下には本丸東辺の多門櫓跡と、奥に武具櫓跡が見えます。

南です。奥には宍道湖が見えます。

宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島もはっきり見えます。

あっ、これでしょうか、階段の引き戸。

国宝指定の決め手となった祈祷札はもともと地階にあったらしく、現在はレプリカが展示されています。

現存天守では唯一という地階にある井戸を覗いてみると、石組が見えました。

附櫓の出入口階段へ向かって開く狭間を撮影したのですが……壁に展示してある大名紋章及城郭図、めちゃめちゃ気になります。じっくり見たい!

附櫓出入口階段上の扉には、潜戸があります。

先ほど見た狭間は、出入口階段直上のこの位置にあります。附櫓に侵入した敵が階段を上るところを背後から攻撃! 恐ろしい仕掛けがてんこ盛りです……。

附櫓出入口の鉄扉にも、潜戸があります。

天守内は暗かったので、不鮮明な写真が多いのが悔やまれます……。

 

天守を出て、本丸内を見て回ります。

本丸南東にある、武具櫓台です。櫓台の規模から、大きな櫓だったことが窺えます。

武具櫓台からは、本坂を越え三ノ門に迫る敵の様子が丸見えです。

武具櫓跡の西には、一ノ門跡北側から建つ再建多門櫓が武具櫓台のある東へ延びているのですが……いかんせん寸足らず。いや、何寸どころか何尺、何間も足りません。本来は低い石垣いっぱいまで延び武具櫓に接続していたであろう多門櫓は、半分程度の長さのものが再建され、その東には下見板風のフェンスに囲われた何かがあります。再建多門櫓の基礎となっている低い石垣や石段は、当時のものでしょうか。

一ノ門の北から連なる多門櫓は東で本丸南東の武具櫓に接続し、武具櫓の北からも本丸東辺に沿って多門櫓が延びていたようです。写真一番手前が武具櫓台で、その奥の石垣が多門櫓跡、さらに奥で内へ折れて高くなっている石垣も多門櫓跡と思われます。

本丸東辺南側の多門櫓跡より、高くなっている東辺北側の多門櫓跡を見ます。天守の右(東)に見えている石垣は「祈禱櫓」跡で、東辺北側の多門櫓はこの祈禱櫓に接続していたようです。

「多門跡」標柱の背後には、多門櫓の基礎と思われる石積みが見られます。

南側の多門櫓跡と北側の多門櫓跡では、これだけ高さに差があります。多門櫓間で往来は出来たのか、あるいはそれぞれ独立した建物だったのでしょうか。

東辺北側の多門櫓跡北端付近より、天守を見上げます。家紋があしらわれることの多い天守の鬼瓦ですが、松江城の屋根の隅にある鬼瓦は鬼の顔。表情はそれぞれ異なるそうです。

天守の南東、附櫓のすぐ東にある「祈禱櫓」跡です。説明にもありますが、この櫓にまつわる伝説・逸話があり、「東之出し矢倉」「コノシロ櫓」のほか「荒神櫓」といった別名もあるようですが、ここでは説明板にある「祈禱櫓」とします。櫓の基礎と思われる石列が、よく残っています。

武具櫓(写真奥、最も外側へ張り出している石垣が武具櫓台)から祈禱櫓(一番手前が祈禱櫓台)までは多門が連なり。

祈禱櫓から北、天守東側の本丸東辺には瓦塀が連なっていたようです。

祈禱櫓台より、附櫓を見ます。櫓内部には、側面にずらりと並ぶ狭間のすぐ下に石打棚がありましたね。

そして、天守台石垣が低くなっている所に設けられた天守地階窓の内側にも、石打棚がありました。内部構造を知ってから外観を見ると、理解が深まります。

北東から、天守を見上げます。近すぎて上層部がほとんど見えませんが、黒色の下層階から放たれる威圧感がすごいです。

隅部は算木積み。矢穴のほかに、刻印らしき紋様も見えるような……?

瓦を立てて並べたこれは……雨落ち溝でしょうか。

雨落ち溝?から排水溝を隔てて北に石積みがあり、瓦塀の基礎と思われます。祈祷櫓から北に連なる瓦塀は、西へ折れて天守北側に続き、さらに北へ折れて北ノ門までつながっていたようです。そういえばここ本丸北東部が入隅になっているのはいわゆる「鬼門欠け」でしょうか。

 

本丸東側をほぼ端から端まで歩き終え、本丸西側へ向かいます。

坤櫓の北に連なる多門の先、石垣が西へ張り出す所に、鉄砲櫓跡があります。

鉄砲櫓台の北には櫓台へ上れるブロックの階段がありますが、鉄砲櫓の北にも多門が連なっていたので、本来の鉄砲櫓へ入るための石段などは標柱右の建物あたりにあったのではないかと思われます。

鉄砲櫓の北、縁石より西側が多門跡のラインでしょうか。木で見づらいですが、正面にある木々の先で本丸石垣は内側(東)へ折れ、それに合わせて多門も折れ曲がっていたようです。

東へ折れた本丸西辺石垣が再び北へ折れるあたりです。多門跡のラインと思われる縁石もここから北へ折れ、さらに北側では複雑なラインを描きながら、北端で乾櫓に接続していたようです。

本丸北西にある乾櫓跡ですが……この櫓台、南東に幅広の石段が設けられ、建物が建つスペースが西辺と北辺にしかありません。石段の左にはしっかり排水溝が設けられています。一体なぜ、このような形状をしているのでしょうか。

絵図や復元模型によると、乾櫓は標柱の背後に見える低い石垣上に「逆コの字」型に建ち、北東端で北ノ門に接続していたようです。標柱の右側部分はもう北ノ門の一部と考えても良さそうです。

乾櫓跡より、北ノ門跡を見下ろします。復元模型では、北ノ門の東西に多門が延び、西では一旦南へ折れてから再び西へ折れて乾櫓に接続し、東では南へ折れて瓦塀に接続しています。つまり写真の向きから見ると、北ノ門上部の多門は「逆コの字」型と言えます。乾櫓といい北ノ門といい、非常に複雑な形状をしており、興味深いです。

本丸内より、北ノ門跡を見ます。櫓門というよりは、多門の下部に設けられた「埋門」状の門という印象があります。北ノ門西側石垣は乾櫓台も兼ねており、先ほどの幅広石段は乾櫓へ上るためでもあり北ノ門上部多門へ上るためでもあると考えれば、納得かもしれません。

北ノ門を出てすぐ左(西)に、「奥去口ノ跡」という標柱が見えます。低い石垣も見え、絵図や復元模型では確認できませんでしたが、どうやらここにも出入口があったようです。緊急脱出口的なものでしょうか。近くで見たかったのですが、残念ながら関係者以外は通行禁止。

外側から、北ノ門跡を見ます。大きな礎石が残っています。確か前回は冠木門が建っていたのですが……よく見ると「本扉は仮設です」のお知らせ。改修後には、再び冠木門が建つのでしょうか。

北ノ門跡の東に延びる、本丸北辺石垣を見ます。隅石に矢穴が見えます。

本丸を一周し、天守南東の祈祷櫓から一ノ門を経てぐるっと北ノ門まで、天守付近を除くほぼ全周が多門で囲われ各櫓を連結していたことが分かりました。なんという高防御。

 

北ノ門跡より本丸を出て、お城の北側を見て回ります。

北ノ門跡を出ると腰曲輪で、東に虎口があります。

腰曲輪と東の中曲輪をつなぐ虎口、水の手門跡です。中曲輪から侵入する場合、門手前で右折し、門をくぐって左折しないと先へ進めません。水の手門跡には、礎石が残っています。

えっ、これも礎石……? 何故、排水溝の左ではなく右、スペースの少なすぎる場所を選んだのでしょうか。

水の手門跡西側の石垣は非常に整っており、大きな石材が使われています。左の隅石には矢穴が見えます。刻印は……見えるような見えないような?

水の手門跡東側の石垣も良く整っており、大きな石材も見られます。刻印らしき紋様はいくつかあるような気がしますが、上から二段目の隅石の左にある「口に井」は鮮明に認められます。

水の手門跡を出て左折すると石段があり、腰曲輪と中曲輪との高低差が分かります。石段の下、左に見える池は馬洗池で、右の草地に立つ標柱がギリギリ井戸跡です。門を出てすぐの所に池や井戸があったから「水の手門」と呼ばれたのかもしれません。

石段途中より、水の手門跡を振り返ります。右の段差のある石垣にも刻印らしき紋様がちらほら。

石段を下り、中曲輪へ入ります。

中曲輪から見ると、腰曲輪の石垣は相当な高さです。石段右手にある石垣の段差は、何か意味があるのでしょうか。

高石垣の右寄り上部に隅石のような方形の石材が三段程度見えますが、虎口形状など縄張りに変更が生じたのでしょうか。

腰曲輪石段の南東にある、ギリギリ井戸跡です。名前の由来は諸説あるようですが、現在は付近に井戸は見当たりません。奥に見えるのは腰曲輪の石垣で、その上は本丸石垣です。

ギリギリ井戸跡の東に見られる石列は、当時のものでしょうか。

腰曲輪石段の北東にある、馬洗池です。環境修復作戦は、今も継続中でしょうか。

左手に馬洗池(写真外)、右手に中曲輪石垣の北西隅が位置するこのあたりに「ギリギリ門」が建ち、中曲輪と北側を区画していたようです。

ギリギリ門跡を出て、中曲輪北辺の石垣を見ます。ここから東へ歩くと、脇虎口之門跡から城外へ通じる北惣門橋があります。

ギリギリ門跡から、西へ歩きます。

北之丸跡には現在、松江護国神社が建っています。鳥居が半分しか写っていませんね……。堀尾吉晴公は築城時に、北之丸に仮の御殿を築いていたと言われているそうです。

鳥居の西では、当時のものと思われる北之丸石垣が見えます。

さらに西へ歩くと、城山稲荷神社の入口があります。鳥居の前には、令和の旗。ここを直進して左へ行った所に神社があり、小泉八雲お気に入りの石狐もいるとか。

まだまだ西へ歩き、お城の北西、搦手之虎口まで来ました。写真左は内堀に架かる稲荷橋で、これを渡ると城外ですが、橋の手前を少し戻って右へ進むと……。

搦手之虎口広場があります。かつては侍屋敷等があったようです。

搦手之虎口に戻り、稲荷橋を渡ります。橋の向こうに見える石垣は、当時のものでしょうか。

 

稲荷橋を渡ると、城外です。

稲荷橋のすぐ北西に、内堀北西から西へ延びる川に架かる新橋があります。新橋を渡って内堀沿いに北へ歩くと、塩見縄手です。

塩見縄手西端の交差点そばに小泉八雲の記念館、その東には旧居があります。

武家屋敷が並んでいたという塩見縄手は、今も下見板張りの建物や塀が連なり、伝統美観保存区域に指定されているそうです。

塩見縄手で唯一、当時の姿が残るという武家屋敷。マンホールの蓋にもデザインされています。長屋門全体を撮影すべきだったし、マンホール蓋と同じアングルの写真が欲しかったですね……。

長屋門の左手に、厩。

武家屋敷の主屋です。

塩見縄手を東へ歩き、お城の北東まで来ました。右の石垣が二之丸下ノ段の北東隅、中央奥が北惣門橋です。

北惣門橋のすぐ北東には、内堀から東へ延びる川に宇賀橋が架かっています。擬宝珠のある木橋と、川沿いの石垣と、遊覧船。風情があります。

北惣門橋の東、家老屋敷が並んでいたというエリアに建つ松江歴史館。武家屋敷風の外観は、城下町にとても調和しています。

出雲では、江戸時代から金魚の飼育・品種改良が盛んだったそうです。いずもナンキン。

歴史館内には当時の姿に復原された、松江藩家老朝日家長屋があります。

二之丸下ノ段石垣と遊覧船の浮かぶ内堀を見ながら南へ歩きます。ちょうど石垣の中央付近に、横矢部分が見えています。

亀が乗る石列も、当時のものでしょうか。

大手口東(大手前)にある遊覧船乗り場は、盛況です。橋の下に雁木が見えますが、当時もこの辺りは舟着場だったようです。

帰りに大手前の南付近から、南櫓と中櫓を見ます。天守の頭も、わずかに。

三之丸の東から、南櫓、中櫓と、天守です。

中櫓が見えなくなりましたが、天守がよく見える角度で。

 

締めは、天守です。

外観のチャームポイントである花頭窓は北面にもあります。両脇に窓があるので、この白壁部分が顔に見えて、とっても可愛いです。

天守西面は白壁の面積が少なく、重厚さを感じます。

二階の隅と中央にある石落とし、ここにあるんだと思って見ると、形状がよく分かります。

木で附櫓が隠れると、また違う顔を見せてくれます。

上層の屋根の重なりは、とても複雑。

 

記事を書き進めるほど一部写真の、特に天守内撮影のクオリティの低さに愕然。彫込番付など解説ポイントすら見逃す自分にガッカリ。西ノ門跡や後曲輪など回れていないエリアもあり、再訪を心に誓います。

 

現存天守だけでも見所満載なのに、復元櫓、独特の虎口構造、実は刻印だらけの石垣など、知れば知るほど魅力あふれる松江城。まだまだ知らない顔を見せてくれそうで、次の訪問が今から楽しみです。

御城印には上から松平氏三つ葉葵)・堀尾氏(分銅紋)・京極氏(四つ目結)と、歴代藩主の家紋が並んでいます。

日本100名城スタンプラリー、こちらで45城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

80.千早城

千早城に行ってきました。

日本100名城(No.55)に選ばれた、大阪府南河内郡千早赤阪村にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

バス停から少し歩いたところで、案内板「河内ふるさとのみち」を見つけます。千早城の東には金剛山付近に国見城が、北西には上赤坂城があるようです。

すぐ左には、金剛山登山道やモデルコースの案内が。金剛山には登らないので、駐在所付近から点線ルートで千早城へ行くことになりそうですが……その前に、写真左に看板が見えている「まつまさ」へ向かいます。

山の豆腐も気になりますが……「まつまさ」には100名城スタンプが設置されているんです。

金剛山麓のおみやげ・お食事処「まつまさ」。こちらの店内に、スタンプが設置されています。

100名城スタンプは、こちらで押しました。スタンプ設置机の下に置いてあるリーフレットもいただきます。

机の前に展示されている千早城の模型。城郭復元模型というよりは、情景ジオラマ的な雰囲気があります。幟には千早城主・楠木氏の家紋「菊水」や「非理法権天」の文字が見えます。

奥のお食事処には、千早城の戦いを描いたと思われる「千早赤坂諸城之圖」があります。

お食事をいただいた後、「まつまさ」を出てバス停を過ぎると、「こごせ(金剛山)トイレ」のそばに、千早城への登城口を見つけます。

トイレ前の案内板には徒歩コースのほか、曲輪や竪堀などの縄張図も掲載されており、非常に助かります。千早城跡は、国の史跡に指定されています。

登城口周辺には、たくさんの石碑・案内・説明等があります。

パワースポット・千早城。書かれている内容に、みなぎるパワーを感じます。右の碑に刻まれた「決成敗之機於呼吸」とは、楠木正成公を讃える内容だとか。

げんき!すてき!くすのき!頭上に菊水紋がデザインされたまさしげくん。甲冑を着た藁人形にびびりましたが、千早城の戦いでの逸話(藁人形を囮に敵をおびき寄せた?)にちなんだものと思われます。

こちらはまた情報量が多いですが順番に。まず右端に写る石碑、文字が見づらいですが「審強弱之勢於機先」とあり、先ほどの「決成敗之機於呼吸」と合わせて説明が左の白い板に書かれています。「水戸黄門徳川光圀公は、楠木正成公を崇拝していたんですね。そして中央、国史跡・千早城跡の説明。南・北・西が急崖で東のみ金剛山へ通じる天然の要害とのことで、ここから約560段の石段を登ると四の丸がある、と。なるほどなるほど……え?

ごひゃくろくじゅうだん。

説明版の左手にものすごい角度で立ちはだかる、石段。これが、千早城の登城口です。

 

登る前から心折れそうですが、登城開始です。

急な石段を上ると、ひとつめの鳥居があります。千早城は現在、千早神社の境内となっており、石段は参道として整備されたものと思われます。

石段560段は、まだまだ続きます。

途中、明治三十一年建立とおぼしき石碑が建っています。「楠公之功與此山倶高」とあり、「楠公楠木正成公)の功績はこの山と同じくらい高い」という意味だとか。

石碑を過ぎ、なおも続く石段……。

おおっ、何やら看板と灯籠が見えます。ようやくひと息つけそうです。

左手の看板には「千早城趾」、右手の碑には「千早神社」とあります。

この削平地が四の丸。縄張図を見る限り、最も広いのではないかと思われる曲輪です。

四の丸にも甲冑藁人形。ふもとの人形は陣笠でしたが、こちらは立派な兜をかぶり、藁の部分が見えない重装備です。足元のプレートで、千早城趾をアピール。

千早城売店は、シャッターが閉まっています。

ふたつめの鳥居を越え四の丸を出ると、細長い曲輪があります。

四の丸東の細長い曲輪を進むと、道は下り坂となり、その先では再び上り坂になっています。どうやらこのあたりに堀切があったと考えられるものの、現在はっきりとは確認できないようです。

堀切自体は不明瞭かもしれませんが、このアップダウンは、これまでの道のりで最もお城っぽさを感じられるポイントではないかと思います。

道が最も低くなっている推定堀切跡付近から、左右に分かれ道があります。左は神社の裏参道らしく、道に沿って細いレールが敷かれています。これは、荷物用の小型モノレールでしょうか。

レールは石段を横切り、右の道へと続いています。

推定堀切跡を越え、石段へと進みます。

石段を上ると、削平地。三の丸です。現在は社務所末社などが建っています。

三の丸には、立派な史蹟碑(城阯碑)が建っています。址・趾・阯……。

そして碑の傍らには、甲冑藁人形。まさしげくんを凌ぐマスコット感があります。

社務所左の石段を上ると、二の丸です。三の丸より広く感じます。

標高634m。千早神社、もとは本丸に祀られた八幡大菩薩が創建で、現在の社殿・社務所は昭和期に建てられたようです。

さらに石段を上り、三つめの鳥居を越えたところに、本殿があります。

本殿の背後に本丸があるはずですが、これより先は禁足地。散策はここまでです。

 

写真を振り返ると、ただ石段を上り、千早神社をお参りしただけのような……。城跡が神社になっているので仕方ない面もあるのですが、もう少し注意深く周囲を見渡したり、通行可能な脇道へ足を延ばしても良かったのではと、反省しています。

織田信長公らが活躍した戦国期より二百年以上遡る、鎌倉時代末期のお城。遺構はほとんど見つけられませんでしたが、石碑や説明版などから難攻不落っぷりと楠公のパワーは伝わってきました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで44城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

78.五稜郭

五稜郭に行ってきました。

日本100名城(No.2)に選ばれた、北海道函館市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

まずは五稜郭のすぐ南西に建つ、五稜郭タワーにのぼります。タワー自体も五角形・星形で構成されており、こだわりを感じます。

「トンボロ(陸繋砂州)」上に形成されている函館の街。

一階床下には、築造当時の1/1500スケール再現模型があります。函館ではなく「箱館」です。右下(北)には役人屋敷などの大規模な住宅地が広がり、写真上(南西)には方形の堀に囲われた津軽藩陣屋が見えます。

住宅地は非常に広大で、五稜郭と同程度の面積があるように見えます。

最上階の展望フロアには1/250の復元模型があり、何処にどのような建物があったのかよく分かります。

そしてタワー最上階から見える五稜郭が、こちらです。これは……すごい! 模型そっくりそのままの形状が、眼下に見えています。

正面出入口手前に設けられているのは、馬出のような三角形の「半月堡」です。形状は非常にシャープで、先端部の堀外側ラインは、カーブを描いています。

当時は半月堡の右(東)側と写真中央奥(郭の東北側)にも橋が架かっていたようですが、現在は失われています。

南西の出入口ではない箇所に橋が架かっていますが、堀石垣の修理工事(写真右、一部に覆いが見られる箇所)のための仮設橋のようです。

中央には、復元された箱館奉行所が見えます。写真左の三つ並んだ倉庫群のうち一番手前の土蔵(兵糧庫)は、唯一の現存建造物です。

この造形美。いつまでも見ていられそうです。満開の桜が放つ色彩は、この季節ならではの美しさなのでしょうね。半月堡にぽつんと咲いているのがまた良し、です。

遠くに、函館山が見えます。かつては函館山の麓に、箱館奉行所があったようです。

一階アトリウムに展示されている、30ポンド短カノン砲です。

土方歳三の像は、最上階に座像が、一階アトリウムに立像があります。

タワーを出ます。

 

五稜郭に向かいます。

タワーのすぐ北に、石垣で囲われた方形の水溜と、堰。これは……堀の排水口でしょうか。

そこから東へ歩くと、ここにも排水口。地下では、先ほどの所とつながっているのでしょうか。こちらには、堰板をはめ込むための受け石が見えます。

東側の排水口は、半月堡西側の堀とつながっているのが見えます。

正面入口の橋手前にある、立派なぶっとい石碑。五稜郭は、国の特別史跡に指定されています。

江戸期の一般的な城郭とは明らかに異質な五角形のフォルム。幕末に築造された、西洋式土塁(稜堡式城郭)です。

説明板の右にある復元模型です。タワーのものより小さな1/400サイズ。

堀対岸の半月堡にぽつんと咲く桜、地上から見るとかなりの巨木です。

半月堡の堀外周に設けられた園路に沿って、桜がずらり。

堀外周石垣が描く、美しいカーブ。幕末の築造技術の高さがうかがえます。

堀の外から、半月堡の先端部を見ます。堀石垣と土塁石垣の隅部がくいっと高くなっているの、カッコいいですね。

郭外から半月堡に架かる、一の橋です。

橋のたもとに、箱館奉行所の開館案内があります。

修復工事中と思われる、シートに覆われた一の橋対岸の堀石垣です。

 

半月堡へ向かいます。

一の橋を渡り、半月堡へと入っていきます。奥には、二の橋が見えます。

半月堡の外周にはやや低い土塁が築かれ、その内側にはより高い土塁があります。内側の土塁は北側開口部以外の外周を石垣で囲われています。

内側土塁のすぐ外には空堀があり、土塁により高さをもたらし、土塁を越えての半月堡への侵入は非常に困難と思われます。

五稜郭に特徴的なのが、上部がせり出して積まれた「刎ね出し石垣」です。石垣をよじ登っての侵入をより困難にしています。

刎ね出し石垣と、タワー。これぞ、五稜郭

当初は各稜堡間の五箇所全てに配置する予定だったという半月堡。実際に築造されたのは、正面の一箇所のみです。

内側土塁の北側開口部から、土塁に上がることができます。写真右上、刎ね出し石垣のひとつ上にも石垣が積まれ、刎ね出し部の落下を防いでいるのが分かります。

内側土塁上の南端付近から、二の橋方向を見ます。

内側土塁上の東端付近から西を見ます。おっと、指が……。

半月堡の東側には、貸ボート店があります。写真左が、二の橋です。

内側土塁上より、タワーを見上げます。

内側土塁南端です。隅部の石積み構造が分かります。

こちらは西端。

東端は植物に邪魔されて見づらいですね……。真下に貸ボート店。

 

半月堡を出て、主郭部へ向かいます。

二の橋を渡ります。

右手(東側)を見ると、堀石垣のすぐ内側に低塁が、その内側に本塁の石垣が見えます。

振り返ると、半月堡の貸しボート店から堀へボートで漕ぎ出す人が見えます。

堀川へせり出した橋台石垣の右には、堀石垣に大きな排水口が設けられています。

左手にも、せり出した橋台石垣。奥には、修理工事中の堀石垣が見えます。

二の橋を渡ると、低塁の間に門が設けられていますが、復元模型などにはここに門はなく、公園化の際に設置されたと思われます。

低塁の開口部には石垣が築かれています。

他よりも高く築かれているという、正面出入口(いわゆる大手?)の本塁石垣です。出入口の門は低塁の間ではなく、こちら本塁石垣の間(柵のある場所より右)に冠木門が建っていたようです。

写真右、石の隙間が気になりますが……日本の城郭らしさを感じる、立派な切込接です。石垣の前面に堀、上部に刎ね出しという高防御。

もちろん反対側(東)にも、本塁石垣が高くそびえます。

本塁石垣の間を進むと、左手(西)側に、方形の区画。

門のすぐ内側に位置する門番所跡です。平面表示されており、建物規模が分かります。本塁石垣の端は、郭内側でナナメにカットされるように終わっています。

さて、どちらへ進もうかと思案しますが……案内の背後に、長大な石垣が見えています。

敵に中の様子を見せないよう築かれた長さ44m、高さ4mの「見隠塁」です。敵の直進を防ぐ役割もあるかと思われます。本塁石垣と比べ、表面が凸凹した質感で仕上げられています。

見隠塁を東から見ます。こちらも内側(写真右)は、ナナメにカット。

 

反時計回りに、郭内を見て回ります。

五角形の角のひとつ「稜堡」を内側から見ます。最も南側にある稜堡で、右(西)側には土塁へ上るための坂道が見えます。

振り返ると、遠くに箱館奉行所の復元建物。南側が見えています。

奉行所の南東にあった建物群の平面表示です。用人長屋・手附長屋・奉行所廐・板蔵があったようです。

北東側の見隠塁です。正面と同じく、出入口から中を見通せないよう築かれています。

見隠塁を背に、北東出入口を見ます。右(南)側石垣の脇に、正面入口と同様の門番所があったようです。

北東出入口の本塁石垣は、正面に比べると明らかに低く、刎ね出しもありません。正面の堀には水がありましたが、こちらは空堀です。

北東出入口の橋は失われていますが、橋が存在したことを橋台石垣が物語っています。

正面と同様に、低塁の開口部には石垣。

北東出入口の門跡付近から、見隠塁を見ます。見隠塁は本塁開口部の端から端まで築かれ、中がまったく見えません。

見隠塁の隅部も、クイっと高くなっています。

遺構平面表示越しに、奉行所を東から見ます。建物全体の約1/3が復元されているという奉行所。現在地は広鋪式台の真正面で、当時は眼前に奥向建物がみっちり建っていたのでしょう。

奉行所の東にあった建物群の平面表示です。近中長屋・板蔵・湯所があったようです。

近中長屋跡付近、北東から奉行所を見ます。こちら側も、復元建物の手前に建物があったようです。

奉行所の北東にあった建物群の平面表示です。近中長屋・徒中番大部屋・給人長屋・湯遣所があったようです。奉行所の東エリアには、奉行に仕える人々の住居が数多く建っていたことが分かります。

大砲を運んだ坂、他の稜堡は土塁に沿って左右いずれかにあるのに、ここ北東の稜堡だけは中央から先端にかけてわざわざ土を盛って坂を築いているの、何か意味があったのでしょうか。

それにしても、見事な桜です。

 

郭内を約半周し、裏門跡まで来ました。

裏門の見隠塁です。やはり隅部は、クイっと高く。

見隠塁を背に、裏門跡を見ます。南西の正面を大手とすると、こちらは搦手にあたるでしょうか。右(東)側石垣の脇に、正面入口と同様の門番所があったようです。写真左奥、一見蔵のようにも見える建物は公園化の際に建てられたと思われるトイレです。

裏門の本塁石垣も正面に比べ随分と低く、上半分は土塁です。

石垣前面の堀は、北東と同様に空堀です。桜の向こう、タワーがチラリ。

低塁の間には、正面と同じく公園化の際に設けられたと思われる門があります。当時は、ここに門は無かったようです。

裏門橋を渡った先、五稜郭の北側には多くの役宅が建ち並んでいましたが、現在はほぼ失われたようです。

裏門橋のたもとにも、特別史跡の碑。正面入口より控えめサイズです。

裏門橋上より、少し堀側にせり出した橋台石垣と、堀石垣の折れを見ます。

低塁石垣は表面仕上げが施され、松前城を思い出す美しい「切込接・亀甲積み」です。

こちらの本塁石垣に刎ね出しは無いのですが、一部で最上部が刎ね出しと見紛うほどせり出している箇所があり、崩れないか心配です。

隅石の稜線部に加工が施されているのは他の本塁石垣でも見られますが、こちらには矢穴?のような凹みがいくつかあります。美しく見せたいはずの隅部にこれは、どういうことでしょうか……。

 

裏門跡から、中央部へ向かいます。

奉行所の北、見隠塁のすぐ南に並ぶ建物群の平面表示です。仮牢・公事人腰掛があったようです。この説明板では板蔵だけ「跡」が付いていませんが……。

板蔵はこのとおり、建物が復元されています。

壁のほか、屋根の下部分まで全て板張り。屋根には赤瓦が葺かれており、南側出入口の上には大きな庇があります。

東側面に現代風の鉄扉がありますが、当時は無かったメンテナンス用のものでしょうか。盛土でかさ上げされた上に建っているのは、地下遺構保護のためかもしれません。

奉行所を北から見ます。復元建物の北には、かつての広大な建物跡が平面表示されています。

奉行所の北西にあった秣置場と御備廐の平面表示です。

北西の稜堡から見つかった弾薬庫跡です。盛土の奥、土塁内部に弾薬庫が造られていたようです。

こちらの稜堡にも、大砲を運んだ坂があります。

 

西側の倉庫群へ向かいます。

奉行所の西側には、土蔵・板庫・土蔵(兵糧庫)が三棟並んでいます。土蔵と板庫は外観復元、写真一番奥の土蔵(兵糧庫)は現存です。

三棟の倉庫群はこのような低い土塁で囲われ、土塁の開口部には石垣が積まれています。こちらの石垣は美しく表面仕上げされていますが、少し崩れかかっていますね……。

土塁は西側で本塁に接続しています。こちらの石垣は大丈夫そう。

倉庫群の一番右(北)が、外観復元された土蔵です。説明には土壁造とありますが、屋根のすぐ下までは下見板張、それより上が土壁となっています。

土蔵は、管理事務所となっているようです。

スタンプは、左の板庫にあるようです。

土蔵の左に外観復元されている板庫は、売店兼休憩所となっています。100名城スタンプは、こちらで押しました。

そして板庫の左、一番南にあるのが五稜郭唯一の現存建造物、土蔵(兵糧庫)です。説明を読む限り、以前は庇屋が無い状態だったようです。

管理事務所の土蔵と違って、こちらは全て土壁造です。

屋根瓦に家紋などはみられず、一般的な巴紋が見えます。

幕末の記憶を今に伝える土蔵。よくぞ残ってくれました。

倉庫群を囲う土塁は南まで続き、南端で本塁に接続しています。開口部には、石垣。

石垣が積まれた北と南の開口部以外にも二箇所ほど土塁の開口部がありますが、公園化の際に土塁を崩して設けられたのでしょうか。

土蔵の前に、大砲が展示されています。旧幕府軍と新政府軍がそれぞれ使用していたものだそうです。

倉庫群を囲う土塁のすぐ東、奉行所玄関のすぐ南西に平面表示されている、供溜腰掛跡です。

 

箱館奉行所へ向かいます。

百四十年を経て復元された箱館奉行所です。慶応四年に撮影された古写真そのままの姿が今、目の前に!素晴らしい!

まずは外観をじっくり見ていきます。ふたつの玄関、巨大な赤瓦屋根など情報量の多い西側正面ですが、なんといっても目を引くのが屋根上部にそびえる太鼓櫓で、外観上の大きな特徴です。

太鼓櫓の存在が、御殿でありながら天守のようでもある、そんな印象を奉行所建物に与えているように感じます。

玄関の左右には、大きな水溜桝があります。

大きな屋根の下に大きな庇。威厳と風格を備えた、立派な玄関です。

鬼瓦と軒丸瓦の葵紋が、江戸幕府所有であることを告げています。

内玄関の屋根は、起破風状にアールがついています。

ふたつの玄関と、太鼓櫓。奉行所建物のカッコよさが凝縮されています。

館内見学は、畏れ多くも玄関式台が入口となっています。

館内には再現ゾーン、歴史発見ゾーンなど、いくつかのゾーンがあるようです。

館内撮影はOK。手を触れず、ルールを守って見学します。

 

玄関式台より、奉行所建物内へ入ります。

館内の案内を見ます。玄関から右へ、反時計回りに見ていくような順路でしょうか。

式台から入るとまず、玄関です。大きな槍床に、実際に槍が掛かっているとイメージしやすいのですが……。

玄関から畳廊下を隔てて右(南)、使者之間です。弓鉄床には弓矢・鉄砲ではなく掛軸や扁額が……うーん。

廊下の隅、障子の横にはちょっとした模型やフィギュアなど飾りたくなるような小スペースが。

使者之間から廊下を挟んで南には、大小トイレと手洗い場があります。

復元建物の南縁には板張り廊下(切目椽)がまっすぐ延び、この先に奥向建物があったようです。

使者之間・玄関と大広間を隔てる畳廊下です。

大広間と切目椽の間にも、畳廊下があります。

格式高い大広間です。四方を畳廊下に囲われ、壹之間~四之間が続いています。

壹之間には違い棚・床の間・付書院があります。

大広間の畳廊下の先に、竹の節欄間があります。

復元建物の南東にあるトイレの外観です。

中は西側のトイレと左右逆のレイアウトで、奉行・上級役人用ということで西側より広く造られているようです。

東側トイレの北、大広間から畳廊下を隔てて東にある武器置所には、武器は置かれていません。

武器置所の東、復元建物の南東端にある表座敷です。床の間の右にある襖の向こうは、近習詰所です。

これは大広間と中庭の間にある畳廊下を近習詰所を背に撮影していると思うのですが……時間を置いて見返した時に、何処の写真か分かるようにしておかないと駄目ですね。

鑑賞用ではないので一切の装飾要素が無い中庭。奥に見える方形の区画に水溜桝があったようですが……ここでは平面表示のみでしょうか。

見上げると、太鼓櫓が!

中庭の北、復元建物の北東端にある御役所調役です。広い部屋の天井、一角がガラス張りになっています。

奉行所最大である四十五畳の部屋を柱なしで支えられるよう、ぶっとい梁が天井の上に架けられている小屋組の様子を、ガラス越しに見ることができます。

御役所調役の北にある板張り廊下(拭板椽)の東端、復元建物の北東隅……だと思います。当時はこの先にも、建物が続いていたと思われます。

当時はこれより北にも、中庭を隔てて建物があったようです。

奉行所には二階部分がいくつかあったらしく、復元建物では同心詰所のすぐ南に階段があり、二階には臨時調所があるようですが、見学はできません。

同心詰所の西にある足軽詰所は建築復元ゾーン。復元建物の軸組模型が展示されています。

式台跡から発掘されたという、埋め甕です。

 

奉行所建物を出ます。

見学出口の内玄関から、復元建物を出ました。

御殿のようで天守のような、しかしそのいずれでもない箱館奉行所。なんともインパクトのある建物です。

お城を見に来ていますが、これだけ満開だと、どうしても桜も愛でてしまいます。

正面出入口、東側本塁のすぐ北にある排水溝です。これら石組の排水溝は、当時のものでしょうか。

階段を上り、本塁上を歩きます。

正面出入口東側の本塁上です。見隠塁の背後に、奉行所が見えます。

正面出入口の門・門番所跡には現在、藤棚が設けられています。写真右奥に、現存土蔵が見えます。

左手(南西)には、五稜郭を見下ろすタワーの姿。

半月堡と、タワー。

正面出入口東側の本塁石垣は、ここが終端です。

南側の稜堡先端部です。本塁に石垣はなく、低塁もありません。

振り返り、郭内を見ます。左手に、大砲を運んだ坂が見えます。

南東側の稜堡先端より郭内。下に盛土が見えますが、こちらにも弾薬庫があったのでしょうか。

右奥に北東側の見隠塁、正面奥に奉行所が見えます。

北東出入口があるので一旦下り、出入口の北側から再び本塁に上ります。上から見ると、平面表示の建物規模がより分かります。

中央に大砲を運んだ坂がある、北東側の稜堡先端です。坂の左右には弾薬庫の名残かもしれない、盛土。正面に、タワー。

裏門跡の手前で下り、裏門西側からさらに本塁上を歩き、北西側の稜堡先端へ。ここの土塁内からは、発掘調査により弾薬庫跡が確認されています。

桜に染まる、奉行所

桜に染まる、倉庫群。

五つ目、南西側の稜堡先端。これで全部回りました。右奥、「一本松の土饅頭」には箱館戦争で亡くなった旧幕府軍兵士が葬られたとされているようです。

本塁上をほぼ一周したところで、南西側稜堡の大砲を運んだ坂から、本塁を下ります。

 

北海道唯一の特別史跡五稜郭。タワーから全景を眺めた後に現地を歩くと稜堡式城郭の仕組みがよく分かり、また刎ね出し石垣や復元奉行所などに幕末の洗練された築城技術が垣間見えます。よく整備され案内・説明も充実しており、理解を深めるのにとても役立ちました。

日本100名城スタンプラリー、こちらで43城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

77.松前城

松前城に行ってきました。

日本100名城(No.3)に選ばれた、北海道松前郡松前町にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

お城の最寄り、松城バス停の待合所は蔵風の外観です。屋根の下にある「丸に武田菱」は、松前氏の家紋です。

待合所にある文化財一覧表です。松前城は国の史跡に指定されており、本丸御門は重要文化財です。

松前川の河口付近から、天守の頭が見えます。大松前川はお城の東を流れ、天然の堀になっていたと思われます。

バス停の西に松城商店街の大きな看板があり、看板や街灯には武田菱風の意匠が見られます。

商店街には瓦屋根の建物が並び、城下町風に整備されているようです。

城跡は現在、松前公園となっており、さくらまつりが開催中です。公園の南出入口付近には、三ノ丸に通じる「沖之口門」があったようです。

 

沖之口門跡からは入らず、商店街を東へ歩きます。

お城の南東、大松前川の東岸まで来ました。桜が綺麗です。

武家屋敷風の休憩所、ヒストリーオアシスです。このあたりは武家屋敷地だったのでしょうか。

ヒストリーオアシスの北には松前町役場があり、かつては松前奉行所が建っていたようです。

町役場のすぐ北にある、大松前川に架かる馬坂橋です。馬坂の由来が書かれた説明板は透門風の凝った意匠ですが、屋根部分が傷んでいますね……。

城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、馬坂です。橋も坂も、綺麗に整備されています。

馬坂の左には非常に整った石積みによる側溝がありますが、こちらも近年の整備によるものでしょうか。

馬坂の右手、曲がり角付近にあるこちらの石垣は絵図にも記載があり、当時のものではないかと思われます。

積み方は松前城の石垣に共通の、六角形に整形した石材を多用する「切込接・亀甲積み」です。

日本最北にして、最後期の和式城郭。松前城はどうやら「福山城」が正式な呼称のようです。

説明板横の桜が、見事です。

史跡碑も、松前城ではなく、福山城です。

曲がり角を南へ折れて右手の、当時のものと思われる古そうな石垣は、一部に後世の補強と思われる異なる石積みが見られ、また一部では崩落があります。

案内図によると、この先の二ノ丸・三ノ丸南東部は発掘調査に基づく復元・整備が進んでいるエリアのようです。

馬坂門跡の手前に、外堀に架かる石橋があります。

三ノ丸と二ノ丸を南北に区切る外堀は、ここで東へ折れます。

外堀はこの先で東の大松前川に注ぎ、堀の余分な水を排水していたと思われます。

石橋を渡ると、馬坂門跡です。復元と思われる四半敷の敷石と礎石があり、門跡の左右には柵があります。

馬坂門跡の西には、搦手二ノ門が見えます。

搦手二ノ門へ通じる木橋のすぐ南にある番所跡には、城郭及び城下町の復元模型が展示されています。

この模型では、先ほどのヒストリーオアシス辺りは武家屋敷ではなく町屋となっているようですが……さておき、お城のすぐ北側には城郭と同程度の規模で寺社地が広がっていることが分かります。

現在地は赤いポッチ、三ノ丸南東部です。海岸に近い三ノ丸に七つの台場を備えていたのが、外国船の脅威に対抗すべく築城された松前城の大きな特徴です。

番所の南には、鉄砲置場があったようです。

番所の東には、櫓台のような低い石積みと、その上には、屋形。

石段の上に「七番台場」のプレート。これこそが、三ノ丸に七つあった台場のひとつ、最東端の七番台場跡なのです。

屋形の中には大砲ではなく、ベンチ。現在は休憩所となっています。当時の台場は、どのような姿だったのでしょうか。

さらに南へ歩くと、次の台場跡があります。七番の次ということは、六番でしょうか。

ありゃ、ハズレです。五番でした。

五番台場跡の南には、海が見えます。此処からの砲撃は、余裕で迫り来る外国船に届いたことでしょう。

五番台場のあたりで外堀は西へ折れ、一番台場の北まで延びていたはずですが、復元整備はここで途切れています。途切れた堀の南あたりに、四番台場があったようです。

それでは六番は何処にあったのか。どうやら写真左端の土塁が折れる部分に存在したようですが、その痕跡を見つけることはできませんでした。

六番と七番の台場の間には、復元された天神坂門があります。屋根瓦には、丸に武田菱。

四半敷の敷石と礎石の上に、高麗門形式の城門が復元されています。馬坂門も、同様の形式だったのでしょうか。

門脇南側の石垣は、非常に整った切込接・亀甲積みです。

天神坂門を出ると、城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、天神坂です。夫婦桜が覆い被さるように咲いています。

おや、石垣の一部が風化してしまったのでしょうか。松前城の石垣には緑色凝灰岩が使用されているそうですが、風化しやすい特徴があるようです。

再び天神坂門をくぐり、三ノ丸へ入ります。

 

二ノ丸へ向かいます。

木橋の先、搦手二ノ門の手前にあるこの空間も、松前城独特のものではないかと思われます。中央付近に「三本松土居」があり、門まで直進できず、そもそも門が見えにくい。優雅な庭園風の玄関口という見方もあるかもしれませんが、搦手二ノ門内にある枡形と合わせて連続枡形的な防御空間とも捉えられるように思います。

木橋から南を見ます。外堀の途中に堰が設けられ、その南から水堀になっています。

木橋から北を見ます。堀が東へ折れるあたりの石垣に、排水口らしき方形の穴が見えます。

三本松土居です。基部に石垣が積まれ、南北に長い楕円形をしています。直線的に加工された切込接・亀甲積みの石垣を用いながら、楕円形に仕上げているところが、見事です。

三本松土居を、北から見ます。搦手二ノ門周辺の土塀は漆喰が剥がされていたのですが、塗り直しの最中でしょうか。

搦手二ノ門は天神坂門と同様、高麗門形式です。

四半敷の敷石も馬坂門、天神坂門と同じですね。緑色凝灰岩の石垣が、鮮やかなブルーで美しい!

三本松土居エリア、かなり広いスペースがあります。

搦手二ノ門を越えると、二ノ丸です。

搦手二ノ門内側の脇には、石垣へ上るための雁木があります。

標準木左の水路や石積みは、当時のものでしょうか。

こちらの立派な史蹟碑の表記は「松前城」。

天守の東、搦手枡形の西側石垣上には多聞櫓が建っていたようですが、枡形石垣は撤去され、多聞櫓跡付近には現在、多聞櫓風(?)の資料館受付・出入口があります。

復興天守は資料館となっています。

 

受付で入館料を払い、天守内へ入っていきます。

受付付近より、天守東面を見ます。

明治以降、大戦後も残り、国宝に指定されていた天守は、1949年に役場火災の類焼により惜しくも焼失。1961年にRC造にて外観復元天守が復興・再建されたようです。

天守と多聞櫓風建物との間には土塁があります。かつて天守と多聞櫓は土塀でつながり、土塁上には物見櫓が建っていたようです。

多聞櫓風建物より、城内入口へ進みます。

多聞櫓風建物と天守は地下通路でつながっており、こちらの地下通路を抜けると、天守地階に出ます。

窓の外に本丸御門が見えますが……どうしても窓周辺の傷みが気になります。

天守内には様々な展示がありましたが、写真掲載は割愛します。

天守からの眺望です。

出口より、天守の外へ出ます。こちら側は、本丸です。

ブルーの敷石に傷みが見られますが……当時のものでしょうか。

出口より、天守一階を見ます。一階部分は天守台ギリギリに建っておらず、犬走のような余地があります。

天守の北東には、内堀があります。

現在は広場となっている天守北西には、本丸御殿が建っていたようです。

そして天守の西には、類焼を免れた現存本丸御門があります。

天守の西にあり天守から本丸御門まで続く本丸御門東塀は天守とともに国宝指定されていましたが、類焼により天守とともに全焼。現在ある写真の東塀は、復元されたものです。

個人的に好きな見上げアングルの天守。しかし一階・二階の屋根が切れてしまっていますね……。

天守西面を見ます。最上階以外に破風のないシンプルな外観です。

最上階の屋根瓦には「丸に武田菱」があしらわれているように見えます。

天守とすぐ隣の東塀まで全焼したにもかかわらず、奇跡的に焼失しなかった本丸御門です。松前城で唯一、原位置に現存する建造物です。櫓門ですが、内側から見ると屋根が大きくせり出し二階櫓部分が見えず、石垣上に直接屋根が載っているように見えます。

四半敷の敷石は、緑色凝灰岩ではなく花崗岩のようです。

本丸御門の石垣もこれまでと同様に切込接・亀甲積みで石材加工も色合いも非常に美しいのですが、風化のためか基部に傷みがあります。一部、漆喰のようなもので石材の隙間が充填されていますが、風化によって生じた空隙の補修でしょうか。

天守もそうですが、石垣と建物との間には緑色凝灰岩ではない石材が用いられているように見えます。

門扉は両脇戸付きで、メインの大きな門扉は閉ざされ、左右の脇戸は開いています。

脇戸の横には戸が設けられ、一階部分にも部屋があります。東側の部屋に、上階への階段があるようです。

 

本丸御門をくぐり、一旦本丸を出ます。

門扉外側脇の石垣もきわめて丁寧に整形されていますが、一部に劣化・剥落が見られます。

緑色凝灰岩は、しばしば大粒の礫を含んでいます。

横から見ると、屋根の非対称な構造がよく分かります。屋根瓦には、家紋が見られません。

安政元年建立、昭和期に修理が行われている重要文化財・本丸御門。よくぞ今まで残ってくれました。

外側正面から本丸御門を見ます。門扉上部には、石落としが設けられているようです。

本丸御門の南西には、伏見城からの移築と伝わる本丸表御殿の玄関が現存しています。もともとは表御殿なので本丸内にありましたが、現在は場所を変え本丸の外(二ノ丸)にあります。屋根瓦には、家紋は見られません。

松竹梅に鶴亀の彫刻された蟇股が、御殿の優美さ、豪華さを今に伝えます。

玄関だけでも、よくぞ残ってくれました。松前城天守と御殿が同時に見られる、数少ない城郭ということになります。

門と、天守。松と、桜。二ノ丸の本丸御門前エリアは、本丸御門や天守をじっくり見られる絶好の撮影スポットです。

天守を南西から。破風のないシンプルな外観の三層天守ですが、しっかりと天守らしい威容を備えているように思います。

天守を南から、カラフルな記念撮影用の看板とともに。金色の鯱と、ブルーの石垣、ブルーの銅板葺き屋根とのコントラストが素敵です。

天守はどうしても「あおり」で撮影したくなります。

天守は再建ですが、天守台は現存です。石垣の大きな丸い窪みは、箱館戦争時の弾痕だそうです。

お城には、桜が似合います。……が、本丸御門が隠れてしまいました。

やはり、せっかく並んで建っているのだから、セットで撮影したくなります。個人的ベストショットです。

松前氏のルーツは武田氏。だから家紋にも、武田菱が使われているんですね。

天守を南東から……うーん、桜。天守台の隅石、なかなかの巨石です。

天守を東から。天守台東側は、南半分が東へせり出していますが、これは当時東に建っていた土塀などの位置関係によるものでしょうか。

 

多聞櫓風建物から、有料エリアを出ます。

多聞櫓風建物の東、搦手二ノ門の北西に、搦手門跡の立札があります。搦手二ノ門を外門、搦手門(櫓門と思われる)を内門とする枡形虎口を形成していたようですが、絵図を見ると北側にある搦手門の反対側、枡形の南側にも門が設けられ、枡形から北にも南にも通じていたようです。立札の手前に並ぶ石列は、枡形西側石垣(多聞櫓台?)の名残でしょうか。

搦手門を越えると、東郭です。

東郭にある隅櫓跡です。馬坂を駆け上がってくる敵を狙える位置にあります。櫓基礎部分は平面復元されていると思われ、新しい感じです。

隅櫓の南に接続する復元土塀は櫓に接続する手前で城内側へせり出すように屈曲し、絵図でもそのように描かれています。

東郭と本丸との間には、内堀が南北に延びています。

内堀の南寄りには橋(木橋と思われる)が架かっていたようですが、現在は失われています。

現在は内堀を北から回り込めば東郭と本丸を自由に往来できますが、当時は内堀のすぐ北に板蔵が、その東には東郭と北郭を区画する石垣が連なり、東郭から本丸へ入るには内堀に架かる橋を渡るしかなかったようです。

内堀の北西には東西方向に石垣が延びていますが、東郭と北郭を区画していた石垣の一部でしょうか。

内堀北端より、天守を見ます。この辺りでは、天守とお堀を一緒に見られるのが良いですね。

 

内堀を北から回り込み、再び本丸へ入ります。

「公立松城尋常高等小学校」の門柱があります。松城小学校の前身でしょうか。

門柱付近に、東郭から内堀を渡り本丸へ通じる「堀上ヶ門」があったようですが、門礎石など当時のものが流用されている可能性は、あるのでしょうか。

堀上ヶ門が門柱付近にあったとすると、内堀の橋もこのあたりに架かっていたのでしょうか。

天守を北から見ます。

天守を北西より。

本丸御殿跡の広場では、松前神楽が上演されていました。

舞台の後方、広場の北入口に、本丸表御殿跡の立札を発見。

本丸御殿跡の北には現在、松前神社が建っています。当時は御殿のすぐ北に「大土手」と呼ばれる巨大な土塁が東西に延び、その北エリア(現在の神社境内)には大きな池と、鷹部屋や馬見所などの施設があったようです。この写真には写っていませんが、鳥居の東には大土手の東端部と思われる大きな土塁が一部残っています。

ところで、鳥居をよく見ると「天保二年(1831年)」とあります。松前城の竣工(1854年)より古く、そもそも松前神社の創建は明治期らしいので、この鳥居はもともと別の神社にあったものでしょうか。

 

本丸を出ます。

松前神社の西から北へ歩くと「北海道遺産 福山城と寺町」の看板があります。お城の北側には寺町が形成され、現在も五つの寺があります。写真の石垣は、松前神社が建つ本丸北側エリアを囲う西側石垣です。

多くの建物が江戸期から現存する、重要文化財の龍雲院です。

龍雲院の南側道沿いには石垣が築かれています。石柱には「文久二年(1862年)」とあります。

こちらの山門も重要文化財の、法源寺です。

法源寺にも整った切込接・亀甲積みの石垣があります。法源寺の西を北へ行けば松前家の墓所があるようですが、未訪です。

本丸北エリアを囲う石垣です。立札に道の半分は堀だったとありますが、絵図によると石垣に沿って外堀が続いていたようで、現在は埋められています。

本丸北エリアの北側石垣に沿って東へ歩くと、外堀跡の立札があります。

外堀跡の立札から道を挟んだ東には、寺町門跡の立札。門跡の奥から左方向(南)へ延び城内へ通じる道は当時存在せず、立札付近から右方向(北)へ西向きに建つ寺町門が寺町方面から城内への唯一の出入口だったようです。

お城の鬼門に位置する、阿吽寺です。

写真右に「城門 堀上門」とあります。阿吽寺の山門は、堀上門を移築したとされています。この堀上門とは、パンフレットでは「堀上ヶ門」とされている東郭から本丸へ通じる門のことなのか、詳細は不明です。

堀上門とされる阿吽寺の山門は、門扉は失われていますが大きく立派な門です。屋根には、丸に武田菱の紋が見えます。

阿吽寺のすぐ南に石垣隅部が見えていますが、ここがお城の鬼門(北東隅)、北郭の外周石垣でしょうか。

鬼門から南西へ歩くと、北郭と本丸北エリアとを区画すると思われる石垣があります。隅部がゆるくカーブしている形状も、絵図で描かれているとおりです。

北郭を南へ歩きます。石垣の一部に、崩落が見られます。

 

本丸方面へ戻ります。

本丸御殿跡の北まで戻ってきました。何やら立派な石の台座に飾られた説明板があります。背後に見えるのは、大土手の東端部と思われる大きな土塁です。

説明板の絵図には建物名や御殿の部屋名称まで詳細に書かれており、とても参考になります。今いるのは大土手東端付近の南、御金蔵の北あたりと思われます。

松前神社の西側には池がありますが、大土手の北にあった「御池」の名残でしょうか。

お城の西側には、堀廻水路が木道で表現されているようですが、当時のまま水路を復元することは出来なかったのでしょうか……。

イベント会場を避け、本丸の西側へ来ました。

本丸御門のすぐ北あたりに、石碑があります。

本丸表御殿玄関の碑です。絵図では確かに玄関はこの辺りにあり、松前小学校時代にもきっと、此処に在り続けたのでしょう。

本丸御門の西から延びる石垣はここで途切れており、このあたりに桜門があったようです。

本丸の南西には耳塚や闇の夜の井戸があります。桜門跡より西側の石垣は失われており、本丸と二ノ丸(本丸西帯曲輪?)との境界は不明瞭になっています。

 

本丸を出て、二ノ丸~三ノ丸を散策します。

本丸から桜門跡の南(二ノ丸)に移設された、表御殿玄関です。

玄関の裏側は、板で塞がれています。

二ノ丸の南側は二段構成となっており、二ノ丸下段とでも呼ぶべき低いエリアに下りてきました。絵図では、下段エリアへの階段はもう少し西にあったように見え、このあたりは後世の改変があるように思います。

絵図では北側中央付近(写真右手やや奥か)に上段からの階段が設けられている二ノ丸下段南西隅です。土蔵があったようです。

二ノ丸下段南西隅のすぐ東は、追手門枡形虎口です。下段南西隅の土蔵エリアとは埋門でつながっていたように絵図では描かれており、このあたり(写真中央)の石垣に埋門が設けられていたのかもしれません。

先ほどの階段から南を見ます。道の先、車止めのあたりから左右(東西方向)に外堀があったようです。

二ノ丸下段南西隅を囲う石垣です。外側の低い石垣は後世のものだと思うのですが、内側の石垣も絵図とは東面などが異なり、こちらも何らかの改変があるように思えます。南面石垣のすぐ南(写真手前左右方向)に外堀があったようです。

外堀跡に沿って西へ歩いてきました。二ノ丸下段南西隅エリアの南西隅石垣が、写真右端です。中央奥の高まり、二ノ丸上段南西隅には、隅櫓が建っていたようです。左の堀廻水路跡に沿って、散策路が整備されています。

さらに西へ歩くと、下り坂と、両脇に石垣があります。ここが城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、湯殿澤坂で、坂の上あたりに湯殿澤門があったようです。

湯殿澤坂の北側石垣は非常に美しく、表面仕上げの様子もよく分かります。

湯殿澤門跡から南へ歩き、三ノ丸南西の南側土塁上から東を見ます。この付近には一番台場が撮影場所周辺(西側)に、二番台場が写真奥(東側)にあったようです。

最初に訪れた沖之口門跡付近の、城内・三ノ丸へ通じる五つの坂のひとつ、沖之口坂に来ました。このあたりもかなり改変があるようで、当時の縄張りが分かりづらくなっています。写真左に見える石垣は当時のもの(沖之口門の西側石垣?)でしょうか。

道の東側に残る石垣、訪問時は三番台場の名残かと思いましたが、絵図と比較すると沖之口門の北にあった馬出門の石垣ではないかと、思い直しています。

三番台場跡の北側に積まれた石材は公園整備のために準備されたものか、あるいはお城に使われていたものなのか……。

追手門枡形虎口へ通じる石段、これは当時のもので、この上あたりに追手二ノ門が建っていたのでは……と妄想します。

追手門枡形虎口の内部です。

追手門跡から、東へ歩きます。

城内に三つあった二重櫓のひとつ、太鼓櫓です。櫓基礎部分は新しく、平面復元されていると思われます。

櫓台の外側にも、低い石積みがあります。

太鼓櫓跡の南東に、五番台場跡が見えます。海の向こうに見える陸地は、津軽半島でしょうか。

太鼓櫓台から北東、馬坂方向を見ます。太鼓櫓台から北へ延びる土塀も、漆喰が剥がされている状態です。

土塀の内側は板張りとなっており、控柱が支えています。太鼓櫓台の外側にある低い石積みは、土塀の内側を北へ続いています。

低い石積みに沿って北へ歩くと、栗石が露出した石垣があります。搦手枡形から南側の門を越えるとそれより南を見通せないように石垣の壁が設けられていたようで、その石垣を園路を遮らないよう途中まで復元したものと思われます。

栗石露出石垣の北にある、少し張り出した石垣です。ここに搦手枡形から南へ通じる門があったと思われます。

それにしても……ごく最近積んだ復元石垣もこのように風化してしまっては、今後の整備に不安を感じてしまいますね。

桜にまみれる天守に、別れを告げます。

つづら折れの天神坂を下り、城跡を後にします。

 

北海道唯一の和式城郭・松前城。現存本丸御門や再建天守、整備された南東エリアなどは非常に見応えがありますが、非整備エリアとの落差が激しく、今後の整備に期待したいところです。個人的にはあちこち行ったり来たりで無駄が多かった割に予習不足で見落としも多く、縄張りをしっかり把握した上で三ノ丸・二ノ丸など曲輪ごとに回れば良かったなあと反省しています。

日本100名城スタンプラリー、こちらで42城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

45-2.江戸城(北町奉行所、外堀)

江戸城は、日本100名城(No.21)に選ばれた、東京都千代田区にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

東京駅の北東で、お城の遺構を見つけました。

呉服橋門内にあった、北町奉行所跡です。「遠山の金さん」のモデルである北町奉行遠山景元は、ここにいたんですね。

下水溝の北東隅は斜めにカットされています。「鬼門欠け」でしょうか。

ビル建設に伴い30mほど東へ移動しているようですが、これだけの遺構を、よく残してくれたものです。

町奉行所の遺構から南へ歩くと、外堀石垣の一部が移築復元されています。鍛冶橋門は呉服橋門の南側、外堀に架かる鍛冶橋の先にあった門です。

石垣には、矢穴がくっきりと見えます。

復元石垣の左右には、歩道に沿って外堀をイメージした石積みが続きます。

東京駅周辺の外堀は埋め立てられてしまいましたが、道路にその名を残しています。

遺構から離れた場所に、北町奉行所の石碑があります。

時が流れ、景色がすっかり変わってしまっても、遺構や石碑を残していくことで、北町奉行所の存在が後世に伝わってゆくのですね。

 

素敵なお城の痕跡に出会えました。ありがとう。

28-2.津山城

津山城に行ってきました。

日本100名城(No.67)に選ばれた、岡山県津山市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

津山駅前の観光案内所などの建物は、町家風の外観をしています。

のぼりに描かれているのは津山城を築城した森氏の家紋「鶴丸」です。屋根瓦には同じく「鶴丸」と、津山市の市章が見えます。市章は、津山藩の槍印「剣大」をモチーフにしているそうです。

駅から北へ歩くと吉井川が東西に流れています。対岸の鶴山に築かれたのが、津山城です。

ズームすると、鶴山上の石垣群と、復元された備中櫓が見えます。

 

吉井川を渡り、お城の大手へ向かいます。

今津屋橋を渡ると、瓦屋根のデザインされた商店街があり、歩道の脇には「ごんご(津山の方言で河童を意味する)」がいます。吉井川には、河童が棲むという伝説があるようです。

商店街から北東へ歩くと、駐車場の南側に水路があります。外堀の名残と思われます。

大手のすぐ外側には京町という商人町が東西に延び、出雲街道が通っていたようです。

外堀跡の水路を越え北へ歩くと、西に石垣が見えてきます。

外堀に六つ設けられた門のひとつ、京橋門の西側石垣です。京橋門が、お城の大手筋だったようです。

石垣の北側には京橋御門跡の碑と、同窓会館の説明板があります。

北側に階段が設けられ、石垣に上ることができます。

京橋門跡の石垣上に、同窓会館が建っていたようです。

万里の長城」と呼ばれるほど累々と続いていたらしい土塁は、石垣のすぐ西で途切れています。

石垣上から北を見ると、辛うじて備中櫓が見えます。かつては京橋門付近から、説明板にある再現CGのような威容が見られたのでしょうか。

 

大手口より、主郭部へ向かいます。

京橋門跡から北へ歩くと、主郭部に通じる広い道があります。

両脇の石垣や塀は後世のものと思われますが、お城感を演出してくれます。当時もここが、大手道だったのでしょうか。

石段の坂道を上ると、立ちはだかる石垣の壁。

復元図でいうと、三の丸石垣にあたると思われます。

津山城を築城した、森忠政公の像です。背後の三の丸石垣には、たくさんの矢穴が見えます。

三の丸の入口脇にある、城跡碑です。城跡は現在、鶴山公園となっており、この左側で入園料を払います。

冠木門跡に建つ、冠木門です。

冠木門の奥に石段がありますが、後世に設けられたもので、当時ここには番所があったようです。

本来は冠木門を越えて180度ターンしないと三の丸へ入れない構造で、今いる場所は巨大な枡形虎口の内部ということになります。非常に整った石垣の左手が冠木門、右手が三の丸への正規ルートです。

とても幅の広い石段を上ると、三の丸です。

三の丸南東に建つ移築建物、鶴山館です。

この鶴山館、もとは京橋門の北にあり、藩校「修道館」の学問所(文学所)だったようです。

三の丸南側から二の丸への出入口には、城内最大の櫓門・表中門が建っていたようです。写真の石段途中にいる人と比較して、そのスケールが伝わるでしょうか。正面にとても幅広い石段と奥に石垣、左手には高石垣、右手には複雑に入り組んだ石垣というこの表中門跡の威容は、津山城の大きな見所のひとつだと思います。

表中門跡を越え石段を上ると道は左折し、写真の石段が現れます。この石段を上るとまた左折、その先にはかつて四足門があり、三の丸枡形虎口と同様に、表中門を越えて180度ターンしないと二の丸へ入れない構造となっています。うーん、堅固。

四足門跡から振り返ると、すぐそこに備中櫓。

「ごんご」と桜、そして津山城の石垣が描かれたマンホールです。「作州」とは津山のある「美作国」を指します。

前回訪問時に見逃していた、二の丸の鉄砲櫓跡です。表中門の西に、東西約60mにも及ぶ長大な櫓が建っていたようです。

石段上から振り返り、備中櫓の東面を見ます。石段の下には、切手門という櫓門が建っていたようです。

切手門跡を越えて左手の石垣上に、見事な八重桜。

石段を上ると、北に包(鼓)櫓台の高石垣。その右手に見える低い石垣との間の石段上には、十四番門という小さな櫓門が建っていたようです。

 

包櫓台の左手にある表鉄門跡を越えると、本丸です。

本丸にある城内唯一の復元建物・備中櫓です。長局の西、本丸御殿最奥部に位置し、御殿の一部として扱われていたようです。

100名城スタンプは、こちらで押しました。

櫓の窓より、右手に本丸石垣が、奥には城下の街並みが見えます。

備中櫓の復元は慶長年間に森忠政が築いたものを目標としているらしく、襖や引手、釘隠しなど至る所に鶴丸紋があしらわれています。

櫓の窓から北側を見ます。手前に五番門跡、奥に天守台が見えます。

五番門跡の右(東)に、石垣の隅部らしき算木積みの痕跡が見られます。ここは備中櫓のすぐ北にあたり、築城当初はここから直接天守へ向かう道があったという情報もありますが、詳細は不明です。

天守台を、西から見ます。

惜しくも明治期に取り壊された、破風のない五重の天守を脳内再現します。

天守台西の多聞櫓跡北西端より北を見ます。右の石垣隅部に色付櫓、その下段奥に見える石垣隅部に肘櫓が建っていたようです。写真左には厩堀が、その奥には津山文化センターが見えます。

天守台より、備中櫓を見ます。前回よりは、上手く撮れたように思います。

 

本丸を出ます。

裏中門跡付近は発掘作業中なのか、一部岩盤が露出しています。

石垣(おそらく肘櫓台北側)をよく見ると、いくつも刻印があります。

津山文化センターです。当時この辺りには侍屋敷が並んでいたようです。

文化センター付近より東を見ます。右手前の石垣上には紙櫓、正面奥の石垣上には大戸櫓が建っていたようです。大戸櫓台の左に見える石垣は、桜門跡でしょうか。

厩堀のすぐ西にある長屋風トイレの前に、厩屋敷跡の表示。ここから南には、厩屋敷が並んでいたようです。

厩屋敷跡の道路を挟んで東側、低い石垣は当時のものでしょうか。

 

二度目の訪問はスタンプラリー目的の大雑把なものでしたが、前回未訪の場所もいくつか回れたし、高防御な石垣要塞の姿を再び拝めたのは喜ばしいことです。機会があれば、京橋門以外の外堀の痕跡を探したり、城下をじっくり回ってみたいと思います。

備中櫓で購入した御城印には鶴丸紋。日本三大平山城、です。

日本100名城スタンプラリー、こちらで41城目となります。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

29-4.尼崎城

尼崎城に行ってきました。兵庫県尼崎市にあるお城です。

 

※プライバシーに配慮し、一部写真を加工して掲載しています。あしからず。

3月29日に再建天守がオープンした尼崎城。オープン直前だった前回訪問時から、ポスターも更新されていました。天守の周りにNINJAが舞っているのはいいとして、案内看板を持つ怪獣は一体……。

前々回の訪問時には見落としていたと思われる、阪神尼崎駅南口を出てすぐに設置されている寺町の案内です。寺町付近にあった案内板は傷みが激しかったけど、こちらは綺麗ですね。寺町から庄下川を挟んで東に、お城はあります。

お城のマンホールを見つけました。天守と松の木があしらわれ、格好良いです。

庄下川越しの天守。前回とほぼ同じ構図ですが、工事中の柵が取り払われています。

これまで柵越しに見ていた趣深い城址公園の碑と、ようやく直に対面しました。

天守の北側は大型の遊具が設置された公園となっており、遊具のデザインはお城を意識しているようです。

こちらもようやくの対面、天守再建前からあった、戸田「左門」氏鉄公の顕彰碑です。碑にあるように、尼崎城を築城した氏鉄公は、城下町の整備や治水事業なども行ったようです。

再建天守の北西に連なる石垣は、西三の丸の北西縄張ラインを踏襲していると思われ、奥の横矢部分の向こうには不明門が、手前の松のもう少し左には亥之櫓があったようです。

石垣上の塀には狭間が並び、内側には控柱も設けられ、雰囲気があります。

塀の瓦には九曜紋。築城主・戸田氏鉄公の家紋ですが、明治まで城主を務めた櫻井松平氏の家紋でもあります。

北西から、天守を見ます。

現代に蘇った尼崎城。四層四階の威容は、周囲の建物を入れずに撮影すると、当時の人々が見上げた天守に近いのかもしれません。

西からは、ややスリムに見えます。

不明門跡と思われる場所には現在も城址公園の出入口が設けられ、階段の上には高麗門跡のような虎口が見えます。現存遺構ではありませんが、それっぽさが演出されています。

こちらの土塀内側にも控柱、そして石垣内側は土塁状。良いですね。

さらに近くで天守を見上げます。屋根の下側が見えるアングル、大好きです。天守の屋根瓦・鬼瓦にも、九曜紋。

南西からも良いですね。二重の多聞櫓が、いい仕事してます。

天守の碑には、寄贈者の名前があります。安保詮氏に、感謝を。

碑は天守の南東、天守出入口の東にあります。

天守の東に附属する二重多聞櫓の石垣下部には扉がありますが、搬入口か何かと思われ、ここからは入れません。石垣の左に設けられた石段も、上ることはできません。

 

それでは、いよいよ天守の中へ入っていきます。

南の多聞櫓に、出入口の門扉があります。

インターホンのあるお城というのは珍しい気がします。

二階以上は、有料エリアとなっているようです。

撮影可能であることを確認します。ありがたや。

入城券を購入しました。良いアングルの写真です。スタンプも素敵。

まずはエレベーターで最上階(五階)へ。眺望を楽しみます。

西です。かつての外堀・庄下川の向こうが寺町で、お寺建物の屋根が少し見えます。不明門風虎口の高麗門跡風石垣は内側に雁木があり、本格的です。

北です。右側わずかに見える道路(車が二台とまっているすぐ右)の東に西三の丸と二の丸を隔てる堀があり、水門が設けられていたようです。遊具のあるエリアや赤レンガ建物前の道路も、外堀だった模様です。

東です。二の丸や本丸があったエリアです。江戸期には、こちらの方角に天守が見えていたことでしょう。

南です。芝生広場から道路向こうの家々まで西三の丸が延び、家臣屋敷などが並んでいたようです。

特筆すべき展示がこの、可動式タブレット端末です。設置場所から見た江戸期の景色(VR映像)が映し出され、端末を動かすとその角度に応じた景色が見られます。

西の端末映像と実際の景色を見比べると、整備された石垣や土塀の形状、虎口の位置などはある程度当時の様子を再現していることが分かります。

東には端末が設置されていないので北の端末をぐぐっと東へ向けてみると……あっ、ちゃんと天守が見えます!

……と思ったら、東には端末がない代わりに、VR映像の写真が掲示されていました。

最上階から下ります。階下には様々な展示等がありましたが、今回は割愛。

天守北側エリアは階段状になっています。

天守出入口です。入って正面(写真右)に石垣が見えてたり、天井や梁などが木造風のデザインになってたり、ちゃんと「お城」してるのもポイント高いですね。

入城券の写真に近いアングルで撮影。天守北面は内堀風に水が張ってあるので、水面に映る天守も楽しめますね。ビルが写り込んでいるのは減点ポイントでしょうか……。

北から見る、このちょっとずんぐりした姿が、尼崎城らしさを感じられて好きです。

唐破風・千鳥破風・唐破風の並びも美しい。

亥之櫓跡付近と思われる公園出入口、土塀の間から天守を見ます。この角度、ビルが見えなくて良いかもしれません。

 

外から眺めて良し、中に入って良しの尼崎城再建天守。遺構はほぼ消失してしまったものの、(位置も向きも違うけれど)こうして現代に天守が蘇ったことで、ここにお城があったのだと伝え広めることは、素晴らしいと思います。次回訪問する時はじっくり撮影角度を調整し、現代建物の写り込みが無い天守写真を目指します。

 

素敵なお城でした。ありがとう。