お城訪問

オッサンがお城を見てはしゃぐブログ

9-2.明石城

明石城に行ってきました。

日本100名城(No.58)に選ばれた、兵庫県明石市にあるお城です。

 

JR明石駅から見る明石城の顔、全国的にも貴重なふたつの現存三重櫓です。

駅の北口から出て、明石公園の正面入口へ向かいます。

正面入口右手の土橋と門の石垣です。

よく見ると、門の石垣の東にも水面近くには石垣があります。

入口にある明石公園の石碑は、松の木にハグされています。

明石公園の正面入口であり、明石城三の丸へと入る門跡でもあります。石垣による見事な枡形が残っている…のですが、この日は菊花展覧会が開催されており、テントで正面奥に見えるはずの石垣が隠れてしまっていました。

入口左右の石垣には現在、石灯籠が載っていますが、当時はここに門が建っていたのでしょう。

明石公園の案内板の背後には立派な石垣。そしてその隣には雁木(石段)が低い石垣の上から南・東方向にそれぞれ伸びています。雁木の役割や、当時このあたりにあった建造物が気になるところです。

 

いったん引き返し、お堀沿いを東へ歩きます。

石垣と噴水のコラボレーションです。奥に見える石垣が三の丸の南東隅です。

明石城にはこの外側にも堀があったらしく、ここは中堀にあたるようです。

三の丸の東入口が見えてきました。

こちらも見事な枡形ですが…どこにどの向きで門が建っていたのでしょうか。うーむ。

前の写真で左に見える石垣の脇には石段があります。ごみは持ちカエル。

 

先ほど入りかけた正面入口の方まで戻ります。

武蔵の庭園です。明石城には宮本武蔵が作った庭園がお城の北西部、稲荷曲輪の西側あたりにあったらしく、それを三の丸に再現した庭園だそうです。

庭園内には茶屋があります。坤櫓と一緒に撮影すればかなりEDO気分ではないでしょうか。でも左のパラソルがちょっぴり余計かもしれません。

正面入口を入って左手にある「とき打ち太鼓」です。なにやらロボな雰囲気のSAMURAIが太鼓で時刻を知らせてくれるようです。正面入口の門は「太鼓門」という名称だったようなので、かつては実際に太鼓櫓があったのかもしれません。

正面入口の右手にあるサービスセンターです。100名城スタンプはここで押せます。

 

三の丸東入口付近まで戻ります。

三の丸の東端には、かなりの高さで土塁が続いています。

このあたりは帯曲輪の石垣のようです。

いかにも古そうな石段の奥に、新たに作ったと思われる整った石段が見えます。

奥の石段を上ります。

石段の上、帯曲輪の西方向を撮影しています。

帯曲輪から見た東の丸の石垣です。高い!

石段の上、帯曲輪の東方向を撮影しています。

こちらの坂を上ります。

ここにも石段があります。

石垣の高い壁に囲まれたこの景色! 石垣フェチの明石城超おすすめポイントです。

坂を上りきったところです。左が東の丸、右は出口(門跡)です。

右手にも石段が。明石城の石垣、やたら石段が多いような気がします。

こちらは右へ進んだところ、城外へと通じる虎口です。

外側からです。枡形虎口となっています。

前の写真の手前左側には箱堀があります…が、草木が茂りまくって全然見えません。

ここにも用途不明な雁木らしき石積みが。

 

東の丸へ入ります。

東の丸内部です。単なる公園になっています。「東の丸」という表記も見当たらなかったような…?

東の丸の北側虎口です。

虎口を進んだところの石段を上ってみます。

きれいな枡形が見て取れます。

外側は、高石垣の壁です。

北側虎口を出ると、東に薬研堀が…って逆光まぶしすぎです。

改めて、薬研堀です。当時はもっと北まで伸びていたようです。

 

北側虎口を出たところの道を歩きます。

すぐに、石垣や雁木だったような石の残骸と、その奥に石垣が見えます。

虎口のようです。北の丸へと通じる仕切門の跡でしょうか。

この虎口を抜け、北の丸には行かず、桜堀へと下りていきます。

東の丸~二の丸の高石垣に見とれてしまいます。

左が二の丸、右が本丸です。右の男性と比べれば、石垣の高さが分かるでしょうか。

本丸北東隅の石垣です。この上にはかつて、艮櫓が建っていました。

当時、二の丸と本丸の北側からは入れなかったようですが、今はこのように、石段が設置されています。

石段の途中から二の丸石垣を見ます。隅が高くなっており、いかにも櫓が建っていそうな形状ですが、絵図などを見ても、ここには櫓はなかったようです。むむむ。

後付け石段を上ったところです。正面と左の石垣を見れば、後世の改変だとよく分かります。

 

東の丸に戻ります。

東の丸南東隅です。櫓が建っていたようで、石段と、高くなった石垣が見えます。

石垣の向こうが二の丸ですが、当時この石垣はつながっており、ここから二の丸へは行けなかったようです。

先ほどの場所の北側に、このような虎口があります。当時はここに東の丸と二の丸をつなぐ門があり、北と南の端にはそれぞれ櫓が建っていたようです。

二の丸も、東の丸と同じく、単なる公園となっています。

二の丸にはこのような案内板がありましたが、明石公園としての現在地を示しているだけで、二の丸についての説明は見当たりませんでした。

この通路を渡ると、本丸です。

本丸入口の虎口です。当時は立派な門が建っていたのでしょうか。

虎口のすぐ南に、巽櫓が見えます。

櫓内部が公開中でした。少し時間が早かったけれど、係員の方が入れてくれました。

そして100名城スタンプをここで押させてもらえました。

明石城の古絵図と、十二支による時刻・方位図、そして手書きテイストな明石城絵図です。

巽櫓です。本丸側には窓がなく、のっぺりしています。

古い柱や梁、急な階段が見えます。修理前に使用していた部材が展示してあるようです。

係員の方に教えていただいたおすすめポイントからの撮影です。櫓の中からしか見られない外側の石垣と土塀、そして坤櫓! これは絶景!

本丸もやはり、単なる公園です。かつては多くの城のように、御殿などが建っていたのでしょうか。

ここでようやく、城跡に関する説明板を見つけました。艮櫓跡です。

艮櫓の説明板がもうひとつ。なんと、学校建築用材として解体されたそうです。もったいない!

そしてこちらが乾櫓跡…のはずですが、何故かこちらには説明書きはナシ。うーん?

石段から、櫓台に上ります。

乾櫓台です。南方向に石垣が続いています。

南に伸びる石垣を歩いていると、途中に石段がありました。

さらに石垣の上を歩くと、天守台に到着です。

天守台から見下ろした坤櫓と、その下の石垣です。この高低差!

天守台脇の石段を下ります。

この立派な天守台に、もし天守が建てられていたとしたら。それはきっと、このそびえ立つ大木よりも大きな、美しく見事な天守だったことでしょう。

坤櫓です。こちらは内側にも窓があります。唐破風の上の千鳥破風がチャームポイントです。

この日は巽櫓のみ公開中でしたが、ツアーか何かの人たちが内部観覧をしていました。

北側虎口から、本丸を出ます。

長い坂を下りたところに、このような虎口?があります。

こちらは前の写真の右奥に見えている石垣です。

そしてこちらの右手石垣がふたつ前の写真の左手前に見えている石垣。だいぶ距離が空いているので、それぞれ別々の虎口のものでしょうか。(撤去された石垣があるのかも?)

正面に見える道を進み、稲荷曲輪へ入ります。

石垣の手前に、少し背の低い石垣があります。

ここの石垣は、石がとても綺麗に加工されています。

稲荷曲輪です。やはり、単なる公園です。

この南西隅にも、隅櫓が建っていたようです。

稲荷曲輪と本丸の間にある虎口です。

坤櫓の手前にも、背の低い石垣があります。

こちらは稲荷曲輪の石垣です。手前に犬走りのようなスペースがあります。

そびえ立つ櫓、どっしり広がる石垣。この角度から見上げるの、たまらんです。

ここにも背の低い、まるで後から継ぎ足したかのような石垣が。補強のためでしょうか。

巽櫓も見上げます。漆喰の剥がれが痛々しいですね…。

こちらは二の丸に通じる石段です。

石垣の隅が美しい勾配を描いています。

石段は二の丸から帯曲輪、そしてその下の三の丸までつながっています。

 

三の丸を西へ歩きます。

公園の西入口、三の丸西側の虎口にも立派な枡形が残っています。枡形石垣を壊さずに道路の方を曲げてあるのが良いですね。

西側虎口から外へ出ます。

お堀と石垣さえあれば、もうそれだけで城跡感がすごく出ますよね。

広いお堀です。右手には、移築長屋門が見えます。

 

締めくくりは、現存櫓です。

三の丸からズーム撮影した、巽櫓です。

同じくズーム撮影した坤櫓です。こちらは角度を変えて2枚。

一見同じように見えて、細部が異なり、さらには建っている向きも90度違うという、ふたつの三重櫓。よくぞ今まで、残っていてくれました。

 

2回目の訪問は縄張りを意識しながら広い範囲を見て回り、おおよその構造がつかめたこと、広範囲に石垣が残っているのが分かったことが大きな収穫でした。東西に連なる本丸~二の丸~東の丸の高石垣は実に素晴らしいです。

ただ、城郭遺構に対する説明があまりに乏しく、城郭ファンとしては寂しさを感じてしまいます。「ここに何があった」のかを一言書いてくれるだけで、当時のお城を想像しやすくなるかと思います。

素敵なお城でした。ありがとう。

32.弘前城

弘前城へ行ってきました。

現存12天守のひとつで、日本100名城(No.4)に選ばれた、青森県弘前市にあるお城です。

JR弘前駅の壁面に天守が描かれています。

駅からバスでお城の近くまで移動します。

東門近くにある案内板です。

ここから外堀沿いに北上します。

外堀の内側には、土塁が続いています。これまで石垣のお城ばかり見てきたので、土塁造りのお城はとっても新鮮に映ります。

お堀に沿って左へ曲がります。

なにやら古くて立派な建物がお堀の北側に見えます。

重要文化財の石場家住宅です。現在は酒屋さんで、入場料を支払えば住宅内部を見せてもらえます。江戸時代から残る貴重な城下町の建造物です。それにしても、とんでもなく大きな家です。

石場家住宅から道を渡り、城内へ入ります。

亀甲橋の向こうに、大きな城門が見えます。北門(亀甲門)です。

弘前城には、このような統一様式の案内図が至る所にあるので、現在地が容易に把握でき、こうして後にブログを更新する際にも非常に役立ちます。ありがたや。

北門の説明板です。もともとはこちらが大手だったようですが、現在は搦手門(裏門)となっているようです。

門は橋を渡って左に建っており、直進できないようにしています。門の周囲には土塁が高く積まれ、その上には板塀が隙間なく築かれ、門以外からの侵入を許さない堅固な構えです。

でかい! なんという巨大な門でしょうか。

内側から見た北門です。弘前城にはなんと五つもの城門が現存していますが、ひとつだけでとても興奮しているというのに、あと四つも!

案内柱が立っています。北門をくぐった所が四の丸です。

四の丸に入った途端、見渡す限り並ぶ石、石、石。ものすごい光景です。

そうです、弘前城本丸は石垣の解体修理中なのです。四の丸は現在、半分が解体した石置き場になっているようです。石にはラベルが貼られて管理され、壁にはこのように石垣修理の説明ポスターがずらっと貼られています。

四の丸のもう半分には護国神社が建っています。銅板で覆われた鳥居の巨大さに圧倒されます。

左手の高い土塁が、ここで区切られています。右奥が一陽橋です。

一陽橋は渡らず、四の丸を南下します。

赤い欄干がふたつ見えます。左が波祢橋、右奥が春陽橋です。

西堀のそばで、鴨がくつろいでいます。

春陽橋から見る西堀です。左手が城内です。

短くて可愛い、波祢橋です。

波祢橋のかかる細い水路沿いに、東へ歩きます。

賀田橋です。この先が三の丸です。

賀田橋を渡り、三の丸に入ってすぐ出迎えてくれるのがこの、土塁造りの巨大な桝形虎口です。ド迫力!

ふたつ前の写真の桝形虎口を右折してすぐ、上の写真のあたりに賀田御門が建っていたようです。門をくぐってもさらに道が左折しており、簡単には進ませてくれません。

ここから二の丸へ入れるようですが、ひとまず三の丸を中堀沿いに東へ歩きます。

三の丸からお堀越しに見る二の丸丑寅櫓です。現存天守は12ですが、三重櫓も12しか現存していないらしく、そのうちの三つがなんと、ここ弘前城にあるのです。すごい!

…それにしてもこの櫓、これまでお城で見てきた櫓と違って何か違和感があります。何だろう…?

中央高校口です。案内板や橋を渡る人と比べて、右手の土塁の高いこと。

三の丸を南へ歩きます。左手の外堀沿いには高い土塁、道の右側には低い土塁があります。

左手に、巨大な門が見えてきます。あれ? さっきも見たような…?

さっきも見たように思えるほど北門とそっくりな、三の丸東門です。よく見ると出窓が向かって右側に付いてたり、二階部分に狭間があったりと細部は異なるのですが、本当によく似ています。間違い探しレベルです。

そういえばこちら東門の左右には板塀がありません。これでは門をくぐらずとも脇から簡単に侵入できそうですが…板塀は撤去されたのか、最初から無かったのか、はてさて。

こちらも北門同様に桝形虎口となっており、攻め手の直進を許しません。

東門を出たところ、弘前文化センターの前には藩祖・津軽為信公の銅像が勇ましく立っています。ヒゲが立派です。

東門を出て、外堀沿いを南下します。

外堀の途中にダムのような仕切があります。高低差のある土地に築かれたお堀の水位を調整するための「水戸違い」という仕掛けだそうです。

水戸違いから南のお堀は、水位が高くなっています。

お城の玄関、追手門の前です。立派な石碑が立っています。

追手門です。東門と比べると、出窓が向かって左に付いてるくらいで…やはりほとんど外観に差異がありません。

追手門は北門同様、門の左右が板塀でガッチリガードされています。板塀の設置は要所のみだったのでしょうか。

内側から見る追手門です。

追手門のそばにある、これまでのものとは少しテイストが違う案内板です。

追手門をくぐった先は、三の丸です。

先ほどの案内板でもあったとおり、三の丸の南東は植物園になっています。

三の丸から二の丸辰巳櫓が見え…木が邪魔で全然見えません。

こちらの橋を渡れば二の丸です。

二の丸未申櫓です。こちらは三の丸からお堀越しによく見えます。窓やら狭間やらの配置で、一層・二層・三層とも顔のように見えてしまうのは僕だけでしょうか。そしてやはり、先ほど丑寅櫓で感じたのと同じ違和感が。

杉の大橋です。これを渡り、二の丸へ入ります。

杉の大橋上から見る中堀です。お堀のこういう直角に曲がる箇所、好きです。

橋を渡ってすぐに、桝形虎口があります。

二の丸南門です。弘前城の門はこのような形状で統一されているようです。

おや、よく見ると門柱に何やら木札が付いています。

「南内門」と読めます。ネームプレート! これまでの写真をよく見ると、どうやらほかの門にも付いていたみたいです。全然気付きませんでした。

内側から見る南門です。こちらは門の左右に板塀がなくオープンな雰囲気です。

南門をくぐった先は、二の丸です。

二の丸未申櫓です。屋根の端がちょっぴり反っていて愛嬌があります。狭間が外側にだけあるのが分かります。

二の丸辰巳櫓です。未申櫓との違いが全く分かりません…。弘前城を建てた人は高難易度の間違い探しマニアだったのでしょうか。

それはさておき、弘前城の櫓に感じていた違和感がこの説明板でようやく判明しました。櫓といえば一層目より二層目が小さいのが当たり前と思っていたから、このように一層目と二層目が全く同じ櫓に違和感を覚えていたみたいです。少しの差なのでしょうが、これだけで随分とずんぐりした印象を受けます。

Google Mapによると、二の丸辰巳櫓の付近に「時太鼓櫓跡」があるようですが…訪問時には分かりませんでした。このへんかなーと思う場所や、怪しげな石積みなどを撮影しておいたのですが、後で調べたら案内板が立っているようなので、少しズレた場所を探していたのかもしれません。

時計が普及していない時代、時を告げる太鼓というものは重要だったのでしょう。

二の丸にある、弘前城情報館です。

せっかくこういうのを建てるのであれば、当時城内にあった建物の位置・大きさ・外観などを少しでも似せたらいいのにと、どうしても思ってしまいます…。

二の丸の東に、桝形虎口と、またしても巨大な門です。

二の丸東門です。デザインはほかの門とほぼ同じです。

これで、城内に現存する五つの門と三つの櫓を全て見て回ったことになります。

内側から見る二の丸東門です。撮影のために一旦門の外へ出ましたが、引き続き二の丸を見て回ります。

門の左右の土塁に、根元だけ石垣が見えます。腰巻石垣というやつでしょうか。

与力番所です。一時期ほかの場所に移されていたようですが、元の場所に戻ってきたようです。大きく、高さもありますが、これ、二階もあるんでしょうか。

本丸へ向かう前に、本丸石垣の工事風景が見られる展望台が設置されているので、見に行きます。

重機と、解体されシートで覆われた石垣の向こうに、曳屋された天守の頭が見えます。

石垣解体修理についての説明板です。はらんでいる石垣を解体して、元通りに積み直す。言うのは簡単ですが、実際に行うのは途方もない作業です。

下乗橋です。二の丸と本丸をつなぐ橋で、橋の先には武者屯御門があったようです。

この下乗橋の上が天守を撮影する絶好のビュースポット…らしいですが、現在石垣は解体され、曳屋された天守の屋根がわずかに見えるのみのトホホな状態です。

それでも、この状態は今しか見られないのだと自分に言い聞かせ、足場とシートに覆われた解体修理中の石垣を撮影しておきます。

下乗橋を渡り、武者屯(むしゃだまり)という馬出のような小さな曲輪の先が、本丸です。写真は、武者屯から本丸への土橋を渡りきったあたりで撮影しています。

本丸には石垣が多用されており、さっそく道の両脇に石垣が見えます。当時ここには門が建っていたのでしょうか。そして正面には、本来ここに見えるはずのない、曳屋された天守が建っています。

亀石、というのは、この巨大な石垣の隅石を指すのでしょうか。言われてみれば上の石と合わせて、亀が立っているように見えないことも、ないことも…うーん?

本丸の桝形虎口を中から振り返ります。この虎口にも門があったのでしょうか。

桝形虎口を右折し、坂を上りきったところに、天守台があります。しかし、その上に天守は、ありません。

本丸御殿玄関礎石…は、現在このような展望台が建てられているため、見えません。

展望台からは、解体修理中の天守台を眺めることができます。

そして天守台から展望台をはさんで反対側に、曳屋された天守が。ちょこんと。

初代天守焼失から180年以上後の1810年に建てられた、三層で小柄ではあるものの風格のある、東北地方唯一かつ最北の現存天守です。

この角度(本丸より外側)から見ると一層・二層の中央が張り出し、屋根も破風で装飾されるなど非常に情報量が多いのですが。

反対側(本丸内側)から見るとこのとおり、破風も張り出しもないきわめてシンプルな外観に変身します。本丸外側からできるだけ天守を大きく見せる工夫だとも言われているようですが、なんという個性的な作りでしょう。正面と側面で印象が違う天守は多いですが、本丸の外側と内側とでここまで印象が変わる天守というのは弘前城ならではの特徴ではないでしょうか。

両方の顔が見える角度で撮影…しようとしたら、木に邪魔されました。

仕方なく反対側から。お化粧サイドとノーメイクサイドの両面が同時に見えます。

先ほどの天守写真の手前に写っていた説明板です。

こちらが刻字隅石です。大正の石垣修理の際に刻まれたと思われる文字が、はっきりと見えます。

こちらが「いかすみ石」です。これは…イカですね。どうみても。

石垣修理に伴い移動された井戸枠です。巨石が綺麗な円形にくり抜かれています。

それでは、天守に入ってみます。曳屋された状態でも中に入れるのがありがたいです。

現在、このように黒い鉄骨で耐震補強がされています。天守曳き戻し後、正式な耐震補強をするそうですが…重要文化財だけに、いろいろ気を遣う補強になりそうです。

天守や櫓によく見かける石落しですが、本当に石を落とすわけではなく、実際はここに書いてあるとおり槍で突いたりすることを想定していたんでしょうね。

栗石ぎっしりの白壁です。弘前城、お化粧上手な上に防弾チョッキ仕様です。

外側の狭間は、木戸で蓋ができるようになっています。

内側の窓にも木戸がありますが…ここの戸は後世のものでしょうか。

曳屋に関する展示と、古写真です。上の古写真には、天守の右に土塀が見えます。

二階へ上がります。床もそうですが、階段にもこうしてグリーンシートが敷かれています。

二階です。

駕籠です。家紋が付いています。とても保存状態が良いです。

記念撮影スペースです。陣羽織を着て床几に腰掛ければTONOSAMA気分です。

階段はこのように区切られ、順路が固定されています。

最上階、三階へ上がります。

天守の最上階です。中央近くに、本丸模型が見えます。

天守からの眺め…を撮影した写真がこれしかなく、しかもなんだかイマイチです。遠くに見える山裾は岩木山でしょうか。

本丸模型です。現在、天守以外に建物は残っていませんが、当時は本丸の敷地めいっぱいに御殿が建っていたようです。御殿は天守と並んでお城の華だと思うのですが、真っ先に取り壊されてしまうことが多いみたいで、ほとんど現存していないのが残念でなりません。

頭上を気にしつつ、階段を下ります。

天守外壁に取り付けられたコレが妙に気になったので撮りましたが、曳屋工事の関連なのか、あるいは耐震のための設備なのか、分かりません。

天守を出て、本丸を歩きます。

本丸未申櫓跡です。1627年までは、ここに五層の初代天守が建っていたようです。今は切込み接ぎ(綺麗に加工された石を隙間なく積んだ石垣)の櫓台と石段があります。

御日記蔵跡です。ここに弘前藩の日記がストックされ続けたようで、今も4200冊余りが残っているとか。よんせんにひゃく! 継続は力なり、です。

御日記蔵跡の東側には、低い石垣と石段があります。石垣の向こうが本丸南虎口です。

御金蔵跡です。説明板の向こうの建物はもちろん御金蔵ではなく、曳屋された天守です。つまり、当時御金蔵があった場所に、天守が曳屋されているというわけです。

先ほどの御日記蔵跡東にある石垣のさらに東部分です。こちらにはちゃんとした石段があります。

写真右手の石積みで囲われた低い土塁は何かの遺構かと思い撮影しましたが、どうやらそういうわけでもなさそうです。当時このあたりは本丸御殿の大奥があったようです。

本丸戌亥櫓跡です。現在は屋根付きの休憩所が建っています。

本丸の北から、北の郭へ向かいます。

何度も折れ曲がる石段を下り、石垣の壁に見送られます。

鷹丘橋を渡ると、北の郭です。

北の郭にある武徳殿です。唐破風が美しい御殿風の建物ですが、明治末期に建てられたそうです。今は休憩所だったりカフェだったりするそうです。

「超城合体タメノブーンV」は…謎です。

籾蔵跡です。左手奥にわずかに見える階段の先が、子の櫓跡です。

子の櫓跡です。子の方角の名を冠した櫓は、これまで訪れたお城にはなかったように思います。明治に入り、花火が原因で焼失というのは…なんともやるせないです。

舘神跡です。秀吉公を祀った神社があったようです。鳥居や本殿の柱が復元表示されています。

舘神跡に復元表示された柵列です。奥には、鷹丘橋が見えます。

舘神跡から見る、本丸石垣修理風景です。

北の郭を東へ抜け、二の丸へ向かいます。

二の丸丑寅櫓です。説明板のあるこちら側からだと、イマイチ良い写真が撮れませんでした。

二の丸の北にある見事な土塁です。右へ進めば三の丸、賀田御門の近くへ抜けるのですが、絵図などを見る限りでは当時ここに道はなく、後世に通した道のようで、この土塁も前方、丑寅櫓の横まで続いていたようです。

この道を右へ抜け、四の丸から波祢橋を渡り、西の郭へ向かいます。

波祢橋を渡ると西の郭と、水路を挟んで右にも細い道が並行しています。右側の道は「桜のトンネル」だそうです。春は桜が綺麗でしょうね。

西の郭を南へ歩きます。左手に見えるのは蓮池です。

蓮池の向こうの土塁には、腰巻石垣が見えます。

西の郭の南西にある未申櫓跡です。礎石らしき石があります。なんとこちらは煙草の火の不始末により焼失したとあります…嗚呼やるせない。

それにしても弘前城、西の郭・二の丸・本丸それぞれに「未申櫓」があったようですが…当時のお城関係者はややこしくなかったのでしょうか。

工業高校口にある、埋門跡です。あまりにも石垣が隙間なく積まれているからてっきり後世の造成かと思いましたが、天保年間のものらしいです。見事な切込み接ぎです。

中央弘前駅へ向かう途中、ドーミーイン弘前のそばで見つけた、本町の説明柱です。当時このあたりは職人町だったようです。

締めくくりは、天守の写真です。

御殿の大奥のあった辺りから撮影したら、天守が木に隠れてしまいました。

こちらは天守が右へ傾いてしまっています…締めくくりに締まらない写真ばかりになってしまいました。

 

現存建造物が多いことに加え、縄張りも当時をよく残しており、見所だらけです。土塁のお城というものに初めて出会い、お城が石垣だけじゃないことを学ぶ良い機会にもなりました。次は是非、天守曳き戻し後に訪れたいものです。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

31.津城

津城に行ってきました。

続日本100名城(No.152)に選ばれた、三重県津市にあるお城です。

 

まず、津城の模型が展示してある津センターパレスへ向かいます。

説明のとおり、津城の本丸と西の丸を1/100で復元した、かなり大きな模型です。

城郭模型のほかにも、藤堂高虎肖像画や櫓の古写真など様々な展示があり、この写真の左には大きな丑寅櫓の模型もありました(撮影したつもりが保存に失敗したのか画像が手元にありません…)。藤堂高虎は、津城を今に伝わる輪郭式の近世城郭に大改修した築城の名手です。

 

現在、津城の遺構は本丸と西の丸以外にはほとんど残っていないようですが、その周囲にもわずかにお城の痕跡をたどることができます。

津新町駅から歩いている途中で見つけた、旧町名の石碑です。ここは当時外堀の南西部にあたり、石碑の前の道は岩田川と外堀に挟まれた細い通路?だったようです。

二の丸の西側にあたるこの辺りには、有造館と呼ばれる藩校が建っていたそうです。

百五銀行の北側に復元展示されている、内堀の石垣です。

説明によると、もともとはこの石垣、現在百五銀行が建っている真下にあったようです。

ここは当時内堀の北東隅だったようで、金属鋲により内堀のラインが表示されています。

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当時の内堀幅はなんと約85m! 左端の内堀石垣と、右奥電柱の向こうにかすかに写る本丸石垣との間はすべてお堀だったのです。なんという広さ。

先ほどの内堀石垣から少し本丸に接近した位置で撮影した本丸石垣です。当時は、広大な内堀に堂々と浮かぶ本丸石垣と並び建つ櫓が、さぞかし美しかったことでしょう。

本丸東にある、お城前公園です。当時このあたりが東の丸だったようです。

現在、津城のシンボルである模擬三重櫓です。

屋根が反り返り、なんだか小さな天守みたいでカッコいいですが、残念ながら当時建っていた三重櫓とは形状が全く異なるどころか、建っていた場所まで違います。当時ここには本丸東鉄門から連なる多聞櫓が建っていたようです。

本丸石垣の位置からすると、手前に写る手すりから右奥に伸びる道路にかけて土橋があり、その先に東の丸があったはずなので、お城前公園の真ん中1/3程度と、同じ面積だけ道路南側の土地を合わせたスペースがおおよそ当時の東の丸、というところでしょうか。

本丸に入る前に、本丸の周囲をぐるっと回ってみます。

模擬櫓のある本丸東鉄門跡から、まず北上します。

本丸北東隅の、丑寅櫓台です。ここに三重櫓が建っていたようです。

手前の交通標識と比べて、その高さが分かるでしょうか。

丑寅櫓台の北東隅です。隅が直線的です。

丑寅櫓台の北にある公園です。当然ここも、当時は内堀でした。

この先には(幅は非常に狭くなっていますが)内堀が残っています。

北多聞櫓の説明板…いや、説明石と呼んだ方がよさそうでしょうか。津城にはこのような石に埋め込まれた説明プレートが数か所にあります。

長大な石垣の両端に90度角度を変えて建つ三重櫓は明石城を連想させますが、津城はさらに櫓どうしを長大な多聞櫓でつないでいたというから驚きです。多聞櫓は本丸の周囲をぐるりと囲んでいたらしく、非常に堅固な構えだったようです。

北多聞櫓石垣です。この上になっがーい多聞櫓が建っていたようです。

右奥に見えるのが、戌亥櫓台です。

戌亥櫓台です。ここに丑寅櫓と多聞櫓で連結されたもうひとつの三重櫓が建っていたようです。

こちらは西の丸です。当時は本丸から土橋で接続される小島のような曲輪だったようです。

北西方向から見た本丸と西の丸への土橋です。土橋の両端は門で区切られ、さらに土橋自体も左右を土塀で囲まれて枡形を形成していたそうです。現在の土橋は後世に拡張されたようで、本丸石垣より土橋の幅が広くなっています。

この、現存するお堀の幅が広い角度から見る津城が、かつての広大な内堀に浮かぶ津城本丸を最もイメージしやすいかもしれません。

北西角から見る西の丸です。右奥の石垣が突き出ています。

西から見る西の丸です。先ほどの写真で右奥に見えていた石垣が左手前に見えます。ここには玉櫓が建っていたそうです。

写真右のように、現在西の丸は二の丸と土橋でつながっていますが、当時は木橋が架けられていたようです。

南西から見る西の丸です。玉櫓の部分は石垣が少し高くなっていますが、それでも西の丸は本丸に比べ石垣が全体的に低く作られています。

橋の上、二の丸側から見る西の丸南石垣です。西の丸石垣が右奥で本丸石垣にぶつかっていますが、後世の改変と思われます。

西の丸には入らず、本丸石垣の南側を見に行きます。

先ほどの橋から東へ道が伸びていますが、当時ここは内堀であり、こちらから本丸への侵入経路はなかったはずなので、写真正面に写る石段は後世の改変(本丸石垣を破壊して作ったもの)でしょうか。

石段を上らず、石段のすぐ右手へ進みます。

このあたりの石垣は当時のもののようですが、上部は失われているようにも見えます。

石垣づたいに、南へ歩きます。

天守台です。

天守台です。隅のわずかな反りと、その奥にも見える石垣の隅部が素敵です。

屏風折というのでしょうか、こういう石垣の折れが連続するエリアは石垣フェチにとって大興奮ポイントなのですが…草木が生い茂り、石垣が見えにくくなってしまっているのが残念です。本っっっ当に、残念です…!

埋門跡です。当時は石段両脇の石垣をまたいで多聞櫓が建ち、その下に門があったようです。石段下の、石積みで一段高くなったところは当時の犬走りが残っているように見えます。

本丸南側の石垣です。

 

月見櫓台です。

石垣が少し手前に突き出ており、このあたりが太鼓櫓台と思われます。石垣上部がほとんど失われているように見えます。

本丸及び西の丸をぐるっと回り、東鉄門跡へ戻ってきました。

このあたりに東黒門があり、右奥石垣の向こう、説明板のあたりに東鉄門が建っていたようです。本来左手から正面までをL字に囲んでいたはずの桝形石垣は撤去されてしまったようです。

東鉄門桝形石垣の説明石です。やはりガッチガチの城門といえば桝形門ですね。

津城跡の説明板です。せめて本丸の四方に内堀が残っていれば…と思ってしまいます。

本丸の中へ入ります。

丑寅櫓台のそばに、階段があるので、上ってみます。

丑寅櫓の説明石です。

石垣の上、北から見た模擬櫓です。中がどうなっているのか、ちょっと気になります。

反対側には、丑寅櫓台です。石段も残っているようです。

丑寅櫓台からでこの高さだから、当時の丑寅櫓最上階からの眺めはどれほどだったのでしょうか。

丑寅櫓台から見た内堀と、北多聞櫓石垣です。はるか遠方に、戌亥櫓台が見えます。

北多聞櫓石垣の上を歩きます。多聞櫓が建っていただけあって、幅があります。内側もこのとおり、石垣です。

内堀をよく見ると、水面下、石垣の根元に犬走りのようなものが見えます。

戌亥櫓台に着きました。

堀と石垣。いいものです。左手奥は西の丸で、右手奥に見えるのは、もしかして現存する二の丸側の内堀石垣…でしょうか。

後世に拡張された西の丸土橋です。

南側にも石垣が続いています。

西鉄門に連なる多聞櫓の石垣です。この下が桝形で、向こうには伊賀櫓が建っていた桝形石垣の内側部分があったはずですが…失われたようです。

これ以上進めない(こちらには階段が設置されていない)ので、丑寅櫓台脇の階段まで戻ります。

戌亥櫓台です。木が邪魔ですが、こちらの櫓へ上がる石段も健在です。

東鉄門桝形跡まで戻ります。

東鉄門桝形跡から南へ歩きます。津城跡の碑が立っています。

本丸内側から見た月見櫓台です。こちらの石段は後世の追加でしょうか。

月見櫓台から見た本丸東側の石垣です。北側は途切れていますが、当時は太鼓櫓まで続いていたのでしょうか。

月見櫓台から見た本丸南側の石垣です。こちらはよく残っているので、歩いてみます。

埋門跡の手前まで来ました。右奥には天守台が見えます。

埋門跡を見下ろします。

石垣を下りて、埋門跡を内側からです。このあたりの石垣はよく整っていて美しいです。

天守台石垣、手前と奥とで直線的な隅部が共演しています。

天守台、北東から見るとふたつの天守台が連結しているように見えます。左に小天守、右に大天守が建っていたという説もあるようです。

天守台(?)を北面から。上辺真ん中あたりが凹んでいます。ここが入口だったのでしょうか。

天守台の前には、石段のような石積みがあり、右へ上り、端で折り返して左へ上り、凹み部に到達しているようにも見えます。石段にしてはいくらなんでも狭すぎるような気もしますが。

このへん(北東角?)は整っている感じですが。

この角度から見ると、どうにも下の方が崩れかけのように思ってしまいます。

でもこのあたりから見上げると、最初からこのように積んだようにも見えてくる不思議。うむむ。

よく分からないまま、天守台を離れ、本丸の中心部へ向かいます。

ウサミミ兜が特徴的な、藤堂高虎公の騎馬像です。でかいです。

 

西の丸へ向かいます。

土橋から本丸を見ます。左は戌亥櫓台です。土橋の先には、西鉄門桝形があり、土橋自体の桝形とで二重の桝形を形成していたようです。

西鉄門虎口の説明石です。

西の丸は現在、日本庭園と化しているようです。当時の石段っぽいものを見つけましたが、怪しいかもしれません。

藩校・有造館の正門、入徳門です。西の丸に移築され現在も残る、津城唯一の現存建造物と言えるかもしれません。

西の丸の南側には石垣が残っています。写真右奥の石段を上ってみます。

けっこう幅のある石垣です。

二の丸から西の丸への入口には、今も桝形石垣がしっかり残っています。右奥に見える石垣と、左にわずかに見える石段上の石垣との間に櫓門が建っていたようです。

石段上から見た桝形虎口です。

二の丸方面から見た桝形入口です。左右の石垣から突き出た低い石垣(当時のものかどうか不明ですが)のあたりに門があったのでしょう。

こちらの桝形内部にも、東鉄門跡とは異なる津城跡の説明板があります。

桝形内部には井戸のような石組もありますが、当時の井戸跡なのかは分かりません。

 

堀の大半が埋められ、本丸石垣も一部撤去されるなどして当時の縄張りは想像しづらくなっていますが、わずかに残る内堀越しにそびえる本丸石垣は力強く、往時の津城が誇る威容を垣間見た気がします。復元の動きもあるようで、応援したいですね。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

30.高槻城

高槻城跡に行ってきました。大阪府高槻市にあったお城です。

阪急高槻駅から歩いていくと、城北通、北大手、大手町…と、お城にゆかりのある地名などがあちこちに見られます。

本行寺にある高麗門です。高槻城の貴重な移築現存建造物です。

本行寺すぐ南の道路に、大手跡の表示があります。かつてはこの近くに、北大手門があり、その北に外堀があったようです。道路脇の水路が外堀の名残…というより、道路自体が外堀の名残ということになるのでしょうか。

カトリック教会の敷地内にある高山右近像です。キリシタン大名で有名で、高槻城の城主でもあったそうです。もっとも、高槻城高山右近より後の江戸期に近世城郭として完成したようですが。

高槻城内、三の丸に建てられた永井神社です。城郭建築ではありませんが、当時から城内にあった建造物が今も残る、貴重な神社です。

江戸期から今に残る、永井神社の唐門です。最近修理されたようで、金の装飾がまぶしく光っています。

永井神社のすぐ南、高槻城の二の丸にあたる場所はこのように工事中でした。中をのぞいてみると、何やら矢穴らしき跡の見える石が転がっていたりして、気になります。このあたりでは発掘調査により貴重な発見もあったようですが…どのように整備されるのでしょうか。

永井神社と道を挟んだ所に、高山右近天主教会堂跡があります。近世城郭としての高槻城には直接関係のないものかもしれません。

天主教会堂跡のすぐ東隣にある、厩廓桝形門の石垣石です。こちらはれっきとした近世高槻城の遺構…いや遺物ですね。石だけなのが残念ですが。

しろあと歴史館そばにある高槻城跡の案内板です。内堀に本丸と二の丸がそれぞれ島のように浮かび、その周囲を帯郭や三の丸が囲んでいたようです。弁財天郭というのはほかのお城ではあまり聞かない名前の曲輪なので印象に残ります。

このように小さな案内板もあります。ここから東の道が外堀で、南へ伸びる道が内堀だったようです。

この道がかつての内堀で、右に見える工事現場が二の丸、道の左側が三の丸だったようです。遺構はなくとも、城郭の規模を体感し、想像することはできます。高槻城、かなり広大です。

思案石、だそうです。

城跡公園の北側入口近くにある案内板です。

案内板の隣には石碑と、本丸御門や天守台に使われたという高槻城の貴重な石垣石が無造作に転がっていました…。

右手前が石垣石のある敷地で、その奥に見える学校の場所に、高槻城の本丸があったようです。道を挟んで左が城跡公園です。

城跡公園内にある、高槻城跡の石碑です。なかなか個性的な形状です。よく見ると、上部中央に高槻城の説明文が彫られています。

公園内には天守台っぽい模擬石垣があります。城跡公園は当時の三の丸にあたり、御殿や隅櫓があったようですが、当然、ここに天守はありませんでした。

公園内にある歴史民俗資料館です。当時の城下町にあった町屋を移築復元したもので、江戸期の高槻城を知るには貴重な建造物です。

内部は畳まで上がって自由に見学できます。非常に広い家屋で、当時の家主はお金持ちの商人だったのでしょうか。階段を兼ねた収納が印象的でした。

しろあと歴史館です。城跡公園に行くまでの道のりの途中、当時の東三の丸北端(正確には外堀の中らしい)あたりにあります。名前のとおり、高槻城にまつわる展示がたくさんあり、見ごたえがあります。

AR高槻城アプリが提供されています。リアル復元は様々な事情でなかなか難しいけれど、今後はこうしたAR復元という取り組みが増えていくのかもしれません。ちなみにアプリをインストールし起動しようとしたけれど、何故かうまくいきませんでした。

しろあと歴史館のエントランス入ってすぐ、いきなりそびえ立つ原寸大の石垣模型と構造解説。パネルの絵と同じ立体物がガラスの下に広がっているのは非常にインパクトあります。

築地塀の屋根瓦や鯱瓦の現物が展示されています。

エントランスにあった、高槻城の縄張り図です。

説明パネルと、精密な城郭模型です。当時の城郭をイメージするのに、縄張り図と城郭模型はとても重要だと思います。

 

地上にほぼ遺構の残っていない高槻城ですが、遺構の残る城跡とはまた違った見所が随所にありました。目には見えなくとも、そこにお城のあった痕跡を、さまざまに感じる。そういう城跡訪問も、いいものですね。

 

素敵なお城でした。ありがとう。

29.尼崎城

尼崎城跡に行ってきました。兵庫県尼崎市にあったお城です。

残念ながら現在、地上に見られる遺構は無いようです。

ですが。

某家電量販店創業者からの寄付により、なんと。天守が再建されています。

阪神尼崎駅のホームから、石垣と塀の向こうに、何やら工事中の建物が見えます。

拡大すると、瓦葺きの屋根が頭を出しているのが分かります。建設中の天守です。

近くまで行ってみます。

もともと尼崎城址公園だったスペースに、天守が建設されています。石垣と塀は、城址公園として整備された時からあるようです。公園内は現在、柵で囲われ、立ち入ることができません。

ちなみにこのあたりは当時、尼崎城の西三の丸北西端だったようで、実際に天守が建っていたのは本丸北東端だったようです。

工事の看板です。来年3月末には一般公開される予定のようです。

西側に回り込んでみます。塀からつながる石積み風の何かが建造中です。

城址公園の南にある尼崎市中央図書館です。こちらも石垣と塀に囲われ、城跡っぽさを演出しています。

これくらい近くから見ることができました。基部の石垣や、二重の付櫓が見えます。

中央図書館の天守に近い側に、このような台が設置されていました。定点撮影した写真を時系列でつないで建築記録映像を作ろうという企画のようです。

せっかくなので、1枚投稿しておきました。

素敵なお城ができるのを、楽しみにしています。

ありがとう。